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ヘーゲル哲学の今 日的意味を考える 一 意 識 ・理 念 ・実 在 を め ぐ っ て -

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(1)

■弘前大学哲学会 ( 公開講演)

ヘーゲル哲学の今 日的意味を考える

一 意 識 ・理 念 ・実 在 を め ぐ っ て ‑

幸 津 圃 生

一 間題の所在

本稿

1

の課題は、‑‑ゲル哲学の今 日的意味を考えることである。そのために、その体 系構想の構成要素 としての意識 ・理念 ・実在相互の関係について論究 したい。 とい うのは、

この関係の捉え方の うちに、‑‑ゲル哲学の根本的関心事が、 したが ってその今 日的意味 が示 され る と思われ るか らである。 しか し、そのよ うに言 うことができるか ど うかは、哲 学す ること‑ 一般の今 日的意味は何か とい うことに懸か っている。それ故、まず この今 日的 意味をめ ぐる事情が明 らかにされなければな らないであろ う。

そ もそ も哲学す ること

一般の今 日的意味の一つは、われわれ人間に とって 自己 と世界 と の関係をどのよ うに構築す るか とい う問いに答える とい うことの うちにある。その理由は この関係をめ ぐる三つの構成要素、つま り自己 ・世界 ・両者の関係それぞれにおいて次の よ うな問題が生 じているか らである。すなわち、まず第一に今 日われわれに とって 自己は 不確かな もの となっていること、そ して第二に 自己がその中で存在 しているはずの世界は 不分明な もの となっていること、 さらに第三にわれわれはこのよ うに総体性 を失 った 自己 と世界 との関係の うちに置かれていることとい う問題である。それ故、われわれは改めて この関係について間わ ざるを得ないのである。

われわれが この問いに答えよ うとす る とき、過去の思想的遺産について考察す ることは 一つの手がか りとなるであろ う。筆者は、その手がか りとなるべき思想的遺産の うち有力 な ものの

一 つ として‑ーゲル哲学を挙げる。

‑ーゲルは、 自己 と世界 との関係 を意識 ・理念 ・実在相互の関係 として捉えたo これ ら 三者は、 「 哲学の欲求」 とい う問題構成 の もとで、 この欲求を満足 させ る 「 学の体 系」を 構成す るものである。すなわち、本来総体性 を持 った 「 生」の分裂に対 して総体性 を回復 しよ うとす る 「 哲学の欲求」が生ず るのだが、 この欲求を満足 させ る 「 学の体 系」は意 識 ・理念 ・実在相互の関係において捉え られ るのである。 この関係の捉え方には、‑ーゲ ルの根本的関心事が示 されてお り、今 日における当該の問いに共通する問題把握が見出 さ れ る。 ここに、 自己 と世界 との関係‑の問いに対す る一つの答えが与え られている と言え よ う。 したが って、 このよ うな三者の関係の捉え方の うちにヘーゲル哲学の今 日的意味が 求め られ るであろ う。

では、三者は どのよ うに相互に関係す るのか。三者は、それ らの属す る次元によって二

つの関係において区別 され る。 すなわち、まず、 意識の発展史的体系的位置付 けか ら見て、 意

(2)

蔵の次元 と他の二者によって構成 され る学の次元 との関係 ( 二 )であ り、次いで学の次元 において理念 と実在 との関係 を示す論押学 と実 1 日中学との関係 ( 三)である。この よ うに、 三 宵は、 これ らの区 別 において関係付 け られ るのである。 この こと自身 論 証 されなければな らない事柄であるが、行 論が この巾 柚 をも明 らかにす るはずである。それ故、以下、これ らの区

して、 ミ 昔の関係について論究 しよ う。

二 意識の次元 と学の次元 との関係

意識の次元 と学の次元 との関係‑の問いは、人

現象学』を 「 学の体系第 ・ 部」 と す る‑‑ゲルの 「 学の体系」構想に とってその根本に関わる 問 い として立て られ るべ きで あろ う。 とい うのは、両次元の関係が f I : ̲ じたのはこの体系構想においてであ り、そ して他 な らぬ この 捌 乍が この体系構想における学の基礎付 けに関す るヘーゲルの間題意, ‑ 3を示 し ているか らである。 この 拝作で捉示 され る意識の次元 との関係 において学の次元が基礎付 けられ るのである。へ‑ゲルは、意識の次元を学の次ノ 山こ先行 させ る とい う仕方で、つま りこの著作によって 「 学‑の導入」を図るとい う仕方で、学を基礎付 けよ うとしたわけで ある。 このことを逆に 言えば、 この両者の関係の うちにあるとい うことによって、意識が 存在す る とい うことそのこと自体が学において意味付 け られ る とい うことになるであろ う。

ここでは、意識は学において こそ t ' 1 L lの存在の根源を見出す ことができる とい う立場が採 られているのである。

ここに、哲学す ること ▲ 般に関す るヘーゲルの見解が示 されているのではないだろ うか。

それは、次の 二 点にま とめ られ よ う。すなわち、 この見解 によれば、われわれが哲学す る こととは、まず第 一 に意識 とい う形態において存在す るわれわれ個別的な存在者が 自己の

存在 の根源 を問 うことであ り、そ して第 二 にこの問いを通 じて 自己の存在の根源であるべ き もの として学 とい う形態における l H 二 界を問 うことであ り、 したが って第 三にこのよ うな 什 方で 白L lと世界 との関係 を問 うことである。

結局の ところ、 この見解 に従 うな らば、われわれが哲学す ることとは何か とい う問い‑

の答えは、次の よ うになる と思われる。 まずわれわれ 人情1 は、個別的な存在者として意識 とい う形態において存在す る。その際われわれ個別的な存在昔に とっては、学 とい う形態 において世 界がわれわれ を取 り巻いているOわれわれは、この世非 と対峠 し、後者を自己 とは異なる他 者 として捉 える。 ここに日己とt l l界との関係が生 じている。 この関係の うち に哲学することとは何か とい う t H J い‑の答えが求め られるのである。

この関係 において、われわれが どのよ うな態度を採 るのかが 悶 J われ るであろ う。た とえ ば、われわれは次のよ うな 三 つの態度 を採ることができる。 一 つは、 自己 と世 界との区別 を自己の側か ら克服 し世非を支配 しよ うとす る態度である。 もう一つは、これ とは反対に 自己の内部 に閉塞す る態度である。 さらにもう 一 つは、 自己 とl 圧界 との区別 を一気に乗 り 越えて両 者 の I H 1 ‑‑ 性 を実現 しよ うとす る態度である。

世界 とのこのよ うな関係 に立つ ことによって、われわれが何 を しよ うとするのか と言え

ば、われわれはこのことによって自己を確証 しよ うとす るのである。そのことによって、

(3)

意識 としてのわれわれはどこまで も

n

己であ り続 けよ うとす る。では、 このよ うな態度 に よって果た してわれわれは 自己であ り続 けることができるであろ うか。‑‑ゲルの答えは 所定的であるOすなわち、へ‑ゲルによれば、われわれは これ らの企てに挫折する。そ し て結局逆にこの世昇がわれわれ を支える基盤 となっていることに気づかざるを得ないので あるOわれわれは、世 肘を r l Ll の存在の根源 として見L l ' . し、 この学の 立場 を

l

' l 己の立場に す るよ うに迫 られ る とい うわ けである。

もちろんわれわれは、先ほどの三つの態度 を採 ることもできる。 しか しなが ら、それ ら は世肘を師直する態度である。 これ に対 して、結局

. 織としての個別L ' l ' J存在 宵であるわれ われは学の 立場に従 う他はない とい うのが‑‑ゲルの立場である。 この よ うに して‑‑ゲ ルによれば、哲学す ることとは、白己 と世 肘との関係 を 、 両 昔の区別を無視す ることな く、し か もこの区別に因執す ることな く、総体性の 小 で構築する とい うことの うちにあることに なる。

ここで留意 され るべきことは、 この哲学することが 日常的な次元 とは異なる全 く

の次 元で起 こっているのではない とい うことである

ここに、‑‑ゲルによって哲学す ること が息 乱と学 との関係 において捉え られた とい うことの意味がある と思われ る。 とい うのは、

この関係は個別的な存在者 としての意識の個別的な経験において現われ、 自己の存在の 根 源を求める意識の側か らH常

にr l qわれ るものなのだか らである。軒学す ることとは、 日 常的な ことか ら懸け離れていることではない

それは、む しろ個別 的 な存在宵としてのわ れわれの 日常/ L活 における意識の経験の 小 で′ 仁ず ることなのである。すなわち、 意 識 とい う形態で捉え られたわれわれ個別的な存在者は、さ しあた り日常f l 三 溝において生ず る様々 な形態での個別的な経験の うちに生きている。その限 りでは、個別的な存在 者 は 日常的な 次元に止 まっている と言えよ う

そ して哲学す ることが′ Lず るの もこの次元の内部に基礎 を持つ ことであって、 この次元 と懸け離れた外 部においてのことではない。確かに、そ こ には ・ つの転換が/ 仁ず るのであ り、 ここに個

的な存在者に とって哲学す ることが始まる のであるが。

では、どのよ うにこの転換は」二 ずるのであろ うか。それは 、 日常的な次元にあ りなが ら、 経 験 された この次元の ▲ 定の在 り ) ) ‑ が関われ る とい う什方で′ 卜ず るであろ う。すなわち、個 別的な存在者は、 この経験の 小 で個別的な経験そのままの次元に 止 まるのではない。そ う ではな く、経験その ものを成 り立たせているものの次元‑ と向わ ざるを得ないことになる であろ う。何故な らば 、個 別的な存在者に とって経験の対象に対す るそれ までの彼 らな り の関係の在 り方 を変えることによって この関係 を新たな形で作 り 出 す ことが不 日 †避的 とな るか らである。すなわち、それ まで彼 らが取 り結んでいた 世相との関係の もとでの意識の 経験の結果、始めに想定 された在 り方に対立す る事態が/ F . じて くる。そ こで彼 らは、それ までの 相互 の関係の在 り方が否定 され ることによって、その在 り方に対 して何 らかの

の 在 り方を作 り出す よ うに転換 を迫 られ るのである。

そのよ うな事態の典型 として「自己意識のf R互承認」とい う事態が挙げ られ る。意識は、ま

ず 自己意識 として 白山 こ対立す る世 界を食いJ さくそ うとす る 「 欲望」 とい う態度を採る。

(4)

しか し、意識はこの態度 を採 ることによって、かえって 自己が世界の存在を前提 している ことに気づか ざるを得ない。 とい うのは、その 「 欲望」が満足 させ られ るためには世界が 存在 し続 けなければな らないか らである。そのよ うに して 自己意識は、世界の 自立性 を経 験する。 この世界の 自立性故に 自己意識の 「 欲望」は満足 しえないのである。 この満足 の ためには、 この世界の側か らの自己否定が行われなければな らない。 自己意識は、そのよ うな 什 方で 自己と 世 肘との関係 を構築 しよ うとす る 。 世界の側か らの 自己所定 とは、その 世界が 自己意識 と同 じ存在性格 を持 った存在者であることを意味す る。そ こには、他の自 己意識が登場 しているわけである。その とき、自己意識は もはや世界を食い尽 くす 「 欲望」

とい う態度を採 ることはできない。そ うではな く、それは他の白己意識 との 「 相互承認」

とい う態度 を採るのである。その とき、世界は 自己を含んだ 「 精神」 として捉え られてい る。 この 「 精神」において、学の次元が成立す るのである。

この事態において個別的な存在 者は、世界 との関係その ものについて反省せ ざるを得な いわ けである。そのよ うに しなければ、彼 らは 自己の存在 を維持す ることができないので ある。 この関係その ものが反省 され る とき、そ こでは経験その ものを成 り立たせている も のの次元が問われている。 この間いが立て られ る とい うことは、 この問いを立てる主体が そ こで個別的な存在者 白身に とって明 らかになることを伴 っているであろ う。すなわち、

その とき、彼 らは 自己自身をこの経験の主体 として 自覚 し、そ こか ら経験の対象 としての 世界 との関係 において 自己の存在の根源を問い、結局 この間い‑の答えを学 とい う形態で 捉えられた世界の うちに見出すのである。

ただ し、 このことが どのよ うになされ るのか とい う点は、 当の意識に とっては意識 白身 の経験における自己 f解か ら離れて、その外 部において学 とい う形で一義的に決め られる ものではないであろ う。 とい うのは、意識はそれ 白身の内部で完結 しうるものであって、

したが って 自己白身の態度 を決定 しうる主体性を持 っているか らである。それ故、意識 白 身に とってその存在は 自己に とって何 らかの意味で確かであること以上に、必ず しも学に よって意味付 け られなければな らない とい う理由はないのである。 しか しなが ら、 この意 識の存在が学 との関係において意味付 け られ ることは、意識 自身がそのよ うに自己の態度 を決定す る限 りにおいて、意識 に とっては自己の存在の根源が明 らかになる とい うことを 意味す る。 この 日己の存在の根源‑の欲求その ものは、意識が どのよ うに自己の態度を決 定す るのか とい うことに関わ りな く、意識に とって不可避的に生ずるであろ う。 とい うの は、 意識は、自己白身であろ うとす ることを止めることはできないか らである。その とき、意 識が 自己の内部に閉塞す ることによって完結できるな らば、確かに問題は起 こらない とも 言 うことができよう。 しか しなが ら、意識 とは常に何 らかの対象についての意識であ り、

そ うである以上、意識はその対象 との関係 に立たざるを得ないのである。

この意識の次元 と学の次元 とは どのよ うに関係するのか とい う問い‑の答えが精神現象

学的問題構成 における仕方によって一義的に与え られているのか ど うか とい う点は、発展

史的に吟味 されなければな らない。 とい うのは、発展史的に見るな らば、前述の体系構想

のもとで成立するのは 一 つの体系、つま り<精神現象学体系 > ( 精神現象学一思弁哲学一

(5)

実在哲学)であ り、大 『 精神現象学 』 山版以後、ニュル ンベルク時代か らこの体系構想が 変化 して別の体系、つ ま り<エンツユクロペディー体系> ( 論理学一 自然哲学一精神哲学) が成立 しているか らである2。 したが って

両次元の関係 も変化 しているのである。それ 故、先の問い‑の答えも別の仕方で与え られなければな らないであろ う。か くて、明 らか にされなければな らない ことは、この関係が後期体系構想に至るまでにどのよ うな仕方で ニュル ンベル ク時代において形成 されつつあったのであろ うか とい うことである。 しか し なが ら、ニュル ンベル ク時代の発展史についての考察は本稿の範囲を越 えているので別稿 に委ね ざるを得ない こ i o

本稿で取 り上げたいのは、 この形成の過程の結果 として後期の新たな 「 学の体系」構想 において生 じてきた両次元の関係はどのよ うな ものであったのか とい う点である。後期に おいて両者は、二つの仕方で相互に関わる。すなわち、 一 方では、意識の次元が人 『 精神 現象学』出版の時期に働いたの とは異なる意味にせ よ後期において も同 じよ うに学の次元

‑ の 「 導入」 として働 くとい う関わ り万である。 しか し他方では、それが後者の一 部に なっている とい う関わ り方である。第 二の関わ り万においては、意識は学において l L揚 さ れている と言うことができよ う。第 一 の関わ り方については、それは基本的には後期以前

と同 じであるか ら、 ・ 応そのまま存続 していると言 うことが許 され るであろ う。

これ に対 して ここで立て られ るべ き問いは、後期 において/ Lじた第二の関わ り方をめ ぐっての問いである。 この第 二の関わ り方は、端的には意識の次元が学の次元において否 定 されている とい うことを意味す るであろ う。すなわち、意識が意識である とい うことの 所以、つま り意識 において意識 と対象 とが区別 されている とい うこと、 このことが学の次 元において否定 されている。 このよ うに言う限 りにおいては、大 『 精神現象学』出版の時 期において と事情は異な らない。 この時期 と事情が異なる点は、 当の意識の次元が学の次 元の 一 部 をなす もの として、後 考に組み入れ られている とい うことによって生ず る。すな わち、学の次元における意識の次元の止揚 とは、先のような否定ばか りではな く、後者が 前者において明示的にその一部 として保存 されている とい うことを も含んでいるのである。

三 論理学 と実在哲学 との関係

エ ンツユクロペデ ィーの体系構想形成 において意識論あるいは精神現象学の体系的位置 付 けをめ ぐって論理学 と実在哲学 とは発展史的に並行 して変化 した。すなわち、 一 万で、

論理学において意識論的構成 ( 存在論的論理学一主観的論理学一理念論)か ら目的論的構 成 ( 存在 一本質一概念)‑の変化の もとでの木質の位遭付 けが変化 したo他方で、 この変 化に対応 して 「 哲学‑の導入」 としての意識論あるいは精神現象学は不可欠ではな くな り、

その限 り

一 度消失 したが、次いで この一 一度消失 した ものが別の在 り方で実在哲学において 自然 と精神 とを媒介す るもの として位置付け られた。

ここで論究 され るべき点は、 これ らの ことが体系的に何 を意味す るのか とい うことであ

る。発展史において生 じた ことは、それが体系構想の変化を もた らしたのだか ら、体系構

想その ものに とって根本的な事柄である とい うことである。 この事柄 とは、内容的には論

(6)

理学 と実在哲学 とが 1 1 r ' ' . 行 して変化 してきた とい うことその こと自体である。 このことが体 系構想その ものを構成 しているのであるO両 者 が並行 して変化 したことは、 これ を体系構 想に置き換 えれば 、 両 者が 和 互に前提 し合 うとい うことを意味す る

そ うだ とするな らば、

I F r ' J 一 昔は循環的であることになる

では、どの よ うに r r l 日 日ま循環 しているのだ ろ うか。その場合、論理学が純粋学 として体 系の第 ‑

門であることは 言うまで もない。 しか し、そ うであるに もかかわ らず論理学 と 実在哲学 との関係が循環的である とす るな らば、論理学が体系の第

一部

門であることは 再

ちにあたか もそれか らの流出 として応川学 としての実在哲学が位

付け られる とい うこと を

味す るのではない ことになる。すなわち、. 論理学 と実在哲学 との関係は体系 上理念 と その実在化 との関係ではあるけれ ども、 このことは実在哲学が論判! 学によってその論述の 仕方について大枠では規定 され ることを意味す るにすぎない。 したが って、個々の規定に おいて直ちに細部に亙 って規定 され る とい う

味を持 っているわけではないのである。そ の叙述の内容は論押学 と実在哲学 とが

門構成の対応 に見られるよ うに緩やかな仕方で対 応 しているわけである。 したが ってそ こでは、 一 対 ▲ 対応の 仕 j j で個々の規定において両 耳が対応 しているわけではない

。 両

音は、あ くまで人枠で対応 し支え合 っているのである。

すなわち、 一 万で論理学は実在哲学を方法的に支えてお り、他方で実 在 哲学は内容的に論

壬 町; I , を支えているわけである。む しろ篇別構成 を含めて実在軒 学の諸規定は、その うちに 新 しい実証的な認識が組み込 まれ ることに見 られるよ うに、常に深化 し拡大 してい くもの であろ う。その ことによって実在哲学は

論 理 学に も逆に影響を与えるよ うにな りうるの である

したが って、学の体系 とは よくイメージされがちであるよ うな硬 直 した体系 とい うもの とは異なる。それ は、全休 として決 して閉 じられているわけではない。そ うではな く、そ れは方法的に も内容的に も聞かれた もの となるであろ う。か くて、体系は全体 として深化 し拡大 してい くわけである

その とき、変わ ることな く存続するものがある とすれば、そ れは学の立場 とその前に現 前 している学的でない立場 との対比であろ う。 この学的でない 立場 とは意識のそれに他な らない。 この対比が個々の規定において行なわれ る結果、そ こ に学の次元の過程が ′ 卜じて学の体系 として論述 されるわけである.

このよ うに、エンツユクロペデ ィーにおける体系的位置付 けに もかかわ らず、意識は後 期の体系構想において独 自の仕方で働 くのである。 この什方 とは精神現象学的問題構成の

‑一 つの在 り方に

づいている 。 論理学における意識論的構成か らト 川勺論的構成‑の転換 に もかかわ らず、客観的論理学‑+. 観的論理学の二部構成に見 られ るよ うに意識論的構成は、

弱め られた として も存続す る。 このことは、論理学における目的論的構成お よびそれに対 応す る意識のエ ンツユクロペデ ィー的位置付 けにおいて、意識の立場すなわち精神現象

学 的

問題構成がすべて消えて しま うのではな く、独 自 の什方で働いているとい うことを意味 す るであろ う。

このことは、‑‑ゲルの板木的関心事をめ ぐって本稿 において立て られた問いに一つの

答えを与えるのではないだ ろ うか。すなわち、精神現象学的問題構成がその形 を変 えつつ

(7)

も、精神現象学体系においてのみな らず、エ ンツユクロペデ ィー休系において も存続 して いる とい うこと、そ こには両体系の うちに或る連続性がある とい うことである。そ うだ と するな らば、 ここにヘーゲルの根本的関心 事が見出され る と言えよう0

では、 このことに どの よ うな哲学的意味があるのだ ろ うか。精神現象学体系においては、

意識が どの よ うに して学の境地に到達 しうるのか、が問われ る。 この過程が意識の経験に よって辿 られ る。 この学の境地‑の到達によって意識の本来の在 り方が 見 出 されるはずで あった。 しか し、 この体系は第 ‑ 部を除いて実際には 苫かれないままに終わ った。そ こに は体系 L . のl 問題があったのか もしれない。 この点については、独 「 l の研究が要求 されるで あろ う。 しか し、少な くともこの休系 卜のr 問題の ・ つ として次のことが ここで指摘 され る べきである。すなわち、意識の経験の結果到達 した学の立場においては、つ ま り意識の経 験 を繰 り返す とい うこと以外の

方 向

を採 る とい う前根の もとでは、意識論あるいは精神現 象学的I L i J 題構成は解決済み とされ ることになる とい うことである。

だが、事柄はそれでは解決 されないO とい うのは、 、 r l の意識は依然 として実在哲学的規 定 としては存在 し続 ける と思われるか らである。そ うだ とす るな らば、一一 度は意識を実在 哲学か ら取 りf H l して、その学を精神現象学 として取 り l こ げたけれ ども、再び この意識を実 在哲学において何 らかの仕方で位置付け直す ことが必要 となるであろ う。それに もかかわ らず、精神現象学体系の もとでは これが どのよ うに位r t 酎 寸け られ るのかが不明のままに止 まっている。それ故、おそ らく別の体系が構想 されなければな らなか ったのであろ う。か くて、精神現象学体系に代わ ってエンツユクロペデ ィー休系が登場 したわけである。

後者の体系においては、休系その ものの うちに問いを立てる意識 「 1身が位置付 け られて いる。そ こに、精神現象学体系に合 まれていた問い‑の

一 つの答えが示 されているであろ う。すなわち、問 うものが 問 われ るもの 白身の うちに含まれ る とい う、おそ らく哲学す る ことその ものに とって避 けることができないであろ う根源的な問い‑の 一 つの答えが見出 され るのである。

意識の立場は、意識が 自己の存T T ‑ : の意味を求めて 自己と 世 卯 との関係を問お うとす る と ころに成立する。その とき、意識は 自己の確信に基づいて登場す る。それは、 自己の対象 として論理的な ものの ・ 定の規定を見出 し、 r ' l 己 と対象 との統 一つ ま り真理を自己の確信 の うちに見山そ うとす る。その際、それは 自己の対象である 、 1 1 の規定を国定 させ る。ただ し、このことはそれ 自身 としては与 り知 らないことであるが。 このよ うな 自己 と対象 との 固定的な対立 もまた、意識 白身によって立て られた 自己の確信に基づ く自己‑の問いに対 す る答え として 一 つの答 えではある。

しか し、次いで この) ' I ‑ ̲ 場を ・ つの国定にすぎない とする立場か らの対応が/ F ̲ じるであろ

うoすなわち、 この立場に対す る学の立場か らの対応である。学の: 1 ' ! ‑ ̲ 場は、論埋的な もの

を同定す る立場を学的でない立場である として、これに対 して 自己を対置 し、 これ を否定

す るのである。そ こで、 A . っの立場の問で対話が行なわれ ることになる。先に述べた学的

でない立場 とは、意識のそれに他な らない。意識 自身に とっては 与り知 らないことであ り

奇妙な ことであるのだが、 この意識 もまた体系の うちに位置付 けられているのである。 し

(8)

か し、 この位置付 けによって意識 に とって市ちに 自 己‑の問いに答えが与え られ るわ けで はない。意識は、その位置付け自体について疑 うわけである。すなわち、意識はそのよ う な佐田付 けを も含めて 自己を r H J わ ざるを得ないのである。

か くて∴ 崖識は方法「 畑 こ学の立場 と対話す る。その

度、それは学のT L場か ら否定 され る。その否定の結果 として学の体系が生 じることになる。 このよ うに して、論理学の本質 論においてそれな りに位置付 けられた在 り方 とも、また精神哲学において位置付 け られた 在 り方 とも異なった仕 方で、そ して もちろん人 『 精神現象学』における在 り方 とも異なっ た在 り方で、精神現象学的問題構成が存続す るのである。 このことによって、意識が問い を立てる とい うこととこの当の意識 自身が問われ るもの 自体に含まれ る とい うこととが統 一 され る。意識は、学の次元の うちに位置付 け られつつ も、 この位置付 けに l Lまることな

く、 自己と世肘 との関係‑の問いを発 し続 けるのである.

この関係‑の問い とは、イ ェナ時代初期以来の 「 哲学の欲求」 とい う問いに関わるもの である10すなわち、意識は後者の問いに答 えるべ く、‑‑ゲルか ら見れば、その立場か らの 「 哲学‑の欲求」を もって、それな りの仕方で 「 哲学の欲求」の満足 を求める。 しか し、それはそれ 白身では 「 哲学の欲求」た りえない 「 哲学‑の欲求」に止 ま らざるを得な い. とい うのは、それは 自己の外側に常に自己の他者を対立 させ、これ との統一一 を図るこ とができないか らである。 しか し、 この欲求その ものが 「 学の体系

において位置付 け ら れ る とす るな らば、 この欲求か らも 「 学の体系」の立場 に接近 してい くことが可能 になる であろ う。すなわち、 この欲求を含めた 「 学の体系」は 言わば <欲求の哲学>として 「 哲 学の欲求」に応えるものであるはずである。 ここに‑‑ゲルの根本的関心事を見出す こと ができるのではないだ ろ うか。

今 日われわれは、‑‑ゲルの場合 と似た形で 「 哲学の欲求」 を持 っている. 自己 と世界 との関係 との総体 としての 「 生」は分裂 してお り、意識 としての個別的存在者たるわれわ れは、 自己をどのよ うに世粋に関わ らせ るのか とい う問いを持ちつつ も、 この問いに答 え を見川 していない。 この世界に対 して、 この世界を支配 しよ うとした り、 この世界か ら自 己を閉 じこもらせた り、 白己をこの世界 と直接的に同一にさせ よ うとした りす ることも意 識が採 ることのできる態度である。 しか し、そのよ うな態度では自己‑の問いに答 えるこ とはできない とすることもまた、われわれ には可能である。 とい うのは、先の態度では 自 己は世界 との関係 において安定 した位置を確保できない と思われ るか らである。そ うでは な く、われわれ に求め られ るのは、 この世界 の生成 の巾に 自己を位置付 けて、分裂 した

「 生」の総体性 を 回 復 し、その統一を岡る とい うことである。 この ことによってこそ、わ

れわれの 「 哲学の欲求」を溝足 させ る方向が見出されるであろ う。われわれは、その よ う

な展望‑の示唆 を‑‑ゲル哲学か ら受 け取 ることができよう。 このような示唆を与える と

ころに、‑〜ゲル哲学の今 日r J ' J意味が存在す るであろ う.

(9)

文献 目録

1・ He gel ,Ge or gWi l hel m Fr i e dr i c h:

Ges a mmel t e We r ke・l n Ver bi ndung mi tde rDeu t s c hen For s c hun gs gemei ns c ha f thr s g・Yon de r Rhei ni s ch‑ We s t f al i s chenA ka de mi ederWi s s ens cha f t en.Ha mbur g1 968f f . ( ‑GW) Wer kei nzwa nzi gB加den.The or i eWer ka us ga be.Re da kt i onEvaMol denhaue rundKa r lMar kusMi ‑

c he l .Fr a nkf

ur

t / M 1 969

ff.

(‑TW)

Ge or gWi l he l m Fr i e dr i chHe gel ‑ sphi l os ophi s c hePr opa de ut i k・Wer ke.Vol l s t 由一 di geAus ga bedur ch ei nenVer ei nYonFr eunde nde sVer e wl gt en.Ach zehnt erBa nd.Hr s g.YonKa r lRos enkr a nz.

Be r l i n1 840 ( ‑Pr op)

Ent wur fzurphi l os ophi s chenPr opa deut i k・l n:He gel sEnt wi i r f ez urEnzykl opi i di eundPr opa de ut i k na chdenHa nds chr i f t enderHar va r d‑ Uni ve r s i t a t .Mi tei nerHands chr i f t pr obe.Hr s g.von J.I J Owenber g.He ge l ‑ Ar chi v.Hr s g.vonGe or gLa s s on.Ba ndI,He f t1.L e i pzi g1 91 2.1 5‑58

( ‑H Ar c h)

Phi l os ophi s c he Pr opa de ut i k ,Gymna s i a l r e denundGut a cht en 臼ber den Phi l os ophi c‑ Unt er r i ch t . Sa mmt l i cheWer ke・J ubi l a ums a us ga bel ' nz wa nzi g B山一 den・Hr s g.vonHer ma nnGl ockne r ・ Dr i t t e rBa nd.St ut t ga r t1 927 (‑Pr 叩 )

Nur nber gerSc hr i f t en・Te xt e,Re de ,Ber i c ht eundGut a cht enz um Ni j r nber gerGymnas i a l unt e r r i ch t . 1 808‑1 81 61Sa mmt l i c heWer ke・Ne ueKr i t i s cheAus ga be・Ba ndX Xl ・Hr s g.vonJ oha nne s Hof fmei s t e r . L e i pzi g1 938 (‑NS)

Be wu J 3 t s ei ns l e hr eundI Ag ikf t i rdi eMi t t e l kl a s s e1 808/ 09.1.Tei l .Neuundvol l s t a ndj gedi er tvon l ngaGor t a t .I n:J a hr bu chf orHe ge l f or s chung.Hr s g.vonHe l mutSchnei der .1( 1 995), 1 5‑42 ( Be w L 此 S e yns l ehr ea l sEi nl e i t ungi ndi ePhi l os ophi c.Sei t e n204‑21 9.Hought onLi br a r y de rHa r var d‑ Uni ver s i t d t ) ( ‑Be w 1 808/ 09,Gor t a t1 995)

Gei s t e s l e hr eal sEi nl ei t ungi ndi ePhi l os ophi e.FOrdi eMi t t eL kl a s s e1 808/ 09.Na chs chr i f t( Ber l i n:

Na chl a J 3He gel1 6I I ) ( ‑Ge i1 808/ 09)

Te xt ez uHe ge l sNi i r nber gerPhi i nome nol og ie,Her aus ge ge benunder l a ut er tvonUdoRa mei l ・l n:

He ge 1 ‑ St udi en.29 ( 1 994) ,9161 ( da r i n: lGei1 808/ 09 § l l § 29] ) ( ‑Ra mei l1 994) phi l os ophi s cheEnc ycl opa di e.Fordi eOber k】 a s s e1808/ 09.Na c hs c hr i f t( Ber l i n‥Na chl a B He ge l1 6

Ⅰ H ,Bl1‑28) (‑En z1 808/ 09)

Sub j e c t i ve L og ik,Fordi eOber kl a s s e1 809/ 1 0.Na c hs c hr i f t( Ber l i n:Na chl a B He ge l1 6I V) ( ‑SL 1 809/ 1 0)

L og ik.Fordi eMi t t el kl a s s el 81

0/ll

.Ma nus kr i pt( § 29‑ § 1 32 , TW 4. 1 701203)undNa chs chr i f t ( Ber l i n:Na c hl a B He ge l1 6V): L ogi kf ordi eMi t t el kl a s s ede sGymna s i ums( NOr nbe r g1 81 0

‑ l l f f ) .Di eDi kt a t eHe gel sundi hr eOber ar bei t unge n.Her aus ge ge be nvonPa ol oGi us pol i und He l mutSchnei de r .He gel i a na.Ba nd 1 5.Fr a nk f ur ta. M.2001 (‑L 1 81 0/ l l ,Gi ‑ us pol i / Sc hnei der20( ) 1)

Sys t e m derbe s onder nWi s s e ns c ha f t e n.Furdi eOber kl a s s e181

0/ll

.Na chs c hr i f t( Be r l i n:Na chl a s s

(10)

He gel) 6VI ) ( ‑SbW 1 81 0/ ll )

Ps ych ol ogJ ' e.Kur s usf i i rdi eMi t t cL kl a s s cI H

l

1 / 1 2.Na chs chr i f tYonChr i s t i anS.Mei neLPar a gr a phen undAnmer kungen ( Ni i r nher g1) (‑ps y1 81 1 / 1 2)

Text czu He gel sNi i r nbcr gcrPhi i nome nol ogi e.Her a us ge ge benundcr l i i u t cr tYonUdoRamei l .l n:

He ge1 ‑ St udi en.29 (1 994) ,9‑61 ( dar i n: 【 Ps yl H

H

/ 1 2 § 1‑ § 4 8 ] ) ( ‑Ramei 11 994) Phi l os ophi s ch eEncykl opi i di e.Kur s usf L i rdi eObcr kl i l S S C1 81 2 / 1 3. Ni l Chs chr i f tYon Chr i s t i anS・Mei ‑

neLPar a gr a ph cnundAnmer kungen ( NOr nbe r g 1 :Ms . 1 763);Nと I Chs chr i f t YonJ ul i usFr i e‑

dr i chHci nr i chAbe gg.Anmer kungcn ( NL i r nbcr g2)

(

‑Enz】 8】 2/1 3) .

Hc gcl sH Phi J os ophi s cheEnzykl opi i di c"i nNt i r n ber g.Mi tci ncrNa chs chr i f tYon

]

8 1 2 / ] 3her aus gc gc ‑ bcn und cr l d ut er tYon Udo Ramei L .J n:Hc gc1 ‑ St udi en.3( )(1 995),9‑3H ( dar i n:l Enz

l H1 2/ 1 3 1 ) ( ‑Ramci 11 995)

2. 研 究文献

Hci de gger ,Mar t i n 1 980:Hc gel sPh

omcnol ogi cdesGei s t e s .Ge s amt こ I uS ga be.I I. Aht ci l ung:Vor l l es ungen

l

L )l L )‑44.Band32.Fr ank f ur ta. M.

Hi i s l e,Vi t t or i o1 ( ) 87:He gel sSys t em.Derl dcal i

smu

sderSub j ckt i vi t i i tundda sPr obl em derl nt er s ub‑

j ekt i vi t i i t .Hambur g

細川亮 ・2日( ) 2 『‑ ‑ゲ ル現 象学 の判! 念 』 創 文社

Kozu,Kuni ol t ) 88:Da sBe di i r f ni sdcrPhi l os ophi e.Ei nUbcr bl i ck t i berdi eEnt wi ck】 un gde sBe gr i f f ‑ s komp] exe s"Bc dur f ni s " , " Tr i eb " ,"St r e ben"und"Be gi er de"bciHe ge l .He gel ‑ St udi en.Bei ‑ hc f t3( I . B( ) nn

幸津 L 或巨と 1 991『哲 学 の欲 求 ‑ ‑ゲ ル の 「 欲 求 の哲学 」』 弘文 堂

同 1 り96 『現 代社 会 と哲 学 の欲 求‑ い ま人 情 J と して 生 き る こ と と人権 の思想 ‑ 』 弘 文堂 Der s . 1 999a: Be w u J 3t s ci n und Wi s s ens cha f t .Zu He geJ sNt i r nber gcrSys t emkonze pt i on.He gel i a na.

Band1 ( ) .Fr ankf ur ti l . M. / Ber l i n / Ber n / Ne w Yor k/ Par i s / W i en. :Pet erLangGm bH .Eur opai s ch er Ver l a gderWi s s ens cha f t e n.

同 1 9( ) り b 『意識 と学 ニ ュル ンベ ル ク時 代‑ ‑ゲ ル の体 系構 想 』 以 文社

同 2( ) ( ) ( )「 学 の 次 元、 と りわ け 『 絶 対 的 理 念 』 にお け る意識 の 止 揚 ‑ ‑ 〜 ゲ ル の ニ ュル ン ベ ル ク時 代 ギ ムナ ジウム講義 にお け る後 期体 系構 想‑ の発展 史の ・ 局 面 を め ぐって

‑ 」 『 日本女 ( ・ 大′ ' 邦 己要 人 h l 胴 f 二 会 学 部 』 ‖) ( 2( ) ( ) ( ) ),1 47‑ 1 65.

同 2nnl a 「 ‑ ‑ゲ ル の体 系構 想 にお け る意 識 の位 嗣 付 け‑ イ ェナ 時 代 か らニ ュル ンベ ル ク l 酎 t : ‑ の発展 史‑ 」『 日本女 予大 学紀 要 人 肌社 会 学 部 』11( 2( ) 01) ,7

3

‑ 1 ( ) ( ) . 同 2( ) ( ) l b 『 「 君 死 にた まふ こ となかれ 」 と 『き け わだ つみ の こえ』・「 無言 館」 ‑ 近 代 日

本 の戦争 にお ける個 人 と国家 との関係 をめ ぐって‑ 』 文芸社

同 2( ) 02a 「 意 識 と絶 対的 理 念 ‑ ニ ュル ンベ ル ク 時代 ‑ ‑ ゲ ル の体 系構 想 にお け る方 法 の 問題 ‑ 」 『日本 女 子 入学紀 要 人間社 会 学 部封 2( 20( ) 2),25‑64.

同 2002b 『 帖 代小 説 の 人 問 像 ‑ 藤 沢周 平 とともに歩 く‑ 』花 伝社

(11)

同 2003a 「 後 期 ‑ ‑ ゲル の体 系構 想 にお ける . 鋸 甲声と実在 哲 学 との関係 につ い て‑ ニ ュル ンベ ル ク時 代 ギ ムナ ジ ウム講義 を手 が か りに‑ 」 『日本 女 r大学紀 要 人間社会 学 部 』1 3( 2( 1 03),73‑ 1 ( ) ( )

同 2川) 3b 『茶道 と日常 生活 の美学 ‑ 「 「 1 巾」 「平 等」 「 同胞 の精 神」 の 一つ の形 ‑』花伝 祉 同 20( 1 4a 「 後 期‑ ‑ゲ ル の体 系構 想 にお け る理 念 か ら自然 ‑ の移 行 につ い て 一発展 史的視

点 の も とで の そ の体 系的 意 味 を め ぐって ‑ 」『 日本 女 子 大 学 紀 要 人 l 削社 会 学 部 』 1 4( 2004),77‑89

同 2004b 『 『たそ がれ 清 兵衛 』 の 人間像 一藤 沢 ) 甘平 ・l l I [ 田羊次の作 品 世界一 』 花伝社

1 本稿の叙述は、Ko z u1 988; 同 1 991; d c r s.1 999a ; 同 1 999b のそれ を前視 している。 また 論旨の 点では、r L 7 ‑ J2000,2001 a, 2002a, 2003a, 2004a と重複 している部分がある0

2 二つの体系については、f l e i d e gge r1 980: 2 f f .参照。 この点について内容的に深め られ ること もな く、両体系の違い とい うことだ けがその後 も共通の理解 となっていた。 これに対 して最 近、細川亮 . によって 、 J ' l の違いが極めて H ) J I 際に対比 され、 とりわけ精神現象学体系をめ ぐっ てその理念についてはっき りとした解釈が提示 されている。希 l l りr I20 02: 44‑48,94197 参照。

へ‑ゲルの体系構想を全体 として取 り 口ヂた‑‑スレの研究が注 Hに値す る。H6s l c1 987: 60

‑1 54 参照。

3 ニュルンベルク時代の資料についての文献学的根拠 を囲めることが この時代についての発展 史的研究の前提である。 この点がへ‑ゲル研究 A 般、 とりわけその発展史的研究の現段I i 削こ おける焦点の ▲ つになっている。質料 としては従来のテ クス ト

(prop

, H 血 c h

,NS

, T

W 4)

か ら 末公 用の講義筆記 ( 文献 日録参照)に至るまで、少な くないテ クス トがある。 ここには 「 批 判的歴史的桝究」の形成のプ ロセスの ・ つの事例が′ 1 ミ されているo講義筆記について も文献 批 判が 進 行 しつ つ あ り、そ の成 果 が 現 わ れ て きて い る 。 Ra me i 11 994, Gor t a t1 995, Ra me i 1 1 995, Gi u s pol i / Sc hn e i d e r2001 参照。他 の資料 と合わせ、これ らが一巻にま とめ られた ものが GW I Oである。′ 軒者としては、ニュル ンベル ク時代ギムナ ジウム講義研究を例 としての文献 学的研究について 、草 津 1 999b: 383‑407 で述べた。

4 意識の方法的意味お よび意識 と学 との対話的構造、そ してこれ らと 「 哲学の欲求」 との関係 についてはKo z u1 999a: 111‑1 1 6; I l , ‑ J1 999 b: 2651291; J H A J2000: 1 49‑1 53 参照。 「 哲学の欲求」

についてはDers.1 988: 1 03‑1 48 ;l 司 1 991: 1 1 011 56 で主題的に論究 した。現代における 「 哲 学の欲求」の問題をめ ぐって、その 一つの在 り

ノを人権の思想の うちに捉え、それが 「 哲学 への欲求」 として位躍付け られ るとい うこと、そ こか らさらに 「 哲学の欲求」への転換が生 じることによって現代における 「 哲学の欲求」が展開 され る とい うことについて同 1 996: 228

‑278 で考察 した。他の個別的な例の考察 を ト 12 001 b; 2002 b; 2003b; 2 004 b で試みた。

(日本 女 子 大学教 授 )

参照

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