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祖 先 祭 紀 と 家 廟
‑明朝の対応‑
井上
(はじめに)
宗法という男系親族組織化の原理は、中国固有の親族組織の性格を考えるうえで重要な位置を占める。アヘン戦争
後の近代、中国内外の社会科学者が世界各地の親族との対比において、中国独自のものと認識した親族こそ、宗法の
もとに組織化された親族すなわち宗族であったのである。この宗法はもともと周代封建制のもとで行われたものと伝
えられるが、周代の宗法を模範とLtそのもとに組織化される親族集団(宗族)を確立Lt究極、官界との関係の永
遠なるを求めようとする見解が登場するのは末代のことであ‑、その担い手は士大夫(科挙官僚制度のもとで生み出∩‑)された知識人)であった。しかし、こうした宗族形成の動きが、理想であるかあるいはご‑限られた家系において実
践されるにとどまるのみでな‑'顕著な社会現象として記録されたという点で注目されるのは、明朝成立前後である。
明朝成立前後の時代における宗族形成の運動についてはかつて論及したことがある。明朝の建国者である太祖朱元
埠は元末の宗教反乱のなかから台頭して勢力を築いた人物であ‑、長江を渡って宋代以来の先進地域である漸東山間
部に入り、宋学の正統を誇る漸東学派の協力を得たことが、儒教を指導理念とする王朝建設の契機となった。この地
域の知識人は、モンゴル王朝の統治下にあって、科挙官僚制度を通じて国政を担当するという道を閉ざされていたが、
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王朝末期における儒教重視政策の波に乗って中央政界進出への足がかりをつかみ、更に、明朝建国後は、江南の他の
地域の知識人とともに、政権の中枢部を掌握したといわれる。明朝成立前後のこうした環境の変化は'漸東の知識人
の間に、宗族形成の動きを再開させることとなった。漸東学派の領袖宋涯、そしてその弟子の方孝標は'義荘'族譜、︻2)詞堂の事業によって宗法復活を目指す動きが斬東・漸西なかんず‑漸東において高揚したことを伝えている。注目さ
れるのは、明朝が、宋代以降、この時期に至るまでの士大夫の要求を王朝の礼制のなかに組み込んだ形跡が認められ
ることである。
この間題に関連する優れた研究としては、牧野巽氏の二篇の論考'「宗両とその発達(上)」(﹃東方学報﹄東京第一
冊'一九三九年)及び「司馬氏書儀の大家族主義と文公家礼の宗法主義」(﹃近世中国宗族研究﹄、日光書院、一九四
九年)がある(それぞれ第一論文、第二論文と呼ぶ)。氏は、祖先祭紀と祭把を挙行する場としての廟の制度(廟制)(3一を案出した北宋の程帳(明道二年‑一〇三三‑大観元年111〇七)の見解と、程瞳の廟制を受け継いで両堂(廟)
の制度を規定した南末の朱書二建炎四年‑二三〇〜慶元六年‑二一〇〇)の﹃家礼﹄に比較分析を加え、両者とも
に「宗法主義」っまり宗法のもとに親族を組織化する思想に立脚していることを明らかにするとともに、﹃家礼﹄が
王朝の礼制に影響を与えた点に言及している。すなわち、明朝は建国後まもな‑、官僚と民を対象とした祖先祭紀と
家廟(両堂)の制度(以下、家廟制度と略称)を制定しているが'この家廟制度が朱書﹃家礼﹄の両堂制度に準拠し
ている点に着眼したのである。したがって、元未明初期における宗族形成の運動の高揚、そして、明朝が﹃家礼﹄に
準拠して家廟制度を定めている点を踏まえるならば、明朝は、建国に協力した士大夫の要求を受けて'宗法原理を組
み込んだ家廟制度を制定したのではないかという推測も成り立ちうる。(41しかし、結論を先取りしてtlllnJえば、この推測は否定されることになる。明朝は、﹃家礼﹄の両堂制度に準拠して家
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廟制度を定めながら、桐堂制度を支える宗法原理はこれを捨象したと考えられるのである。本論の狙いは'牧野氏の
研究を手がかりとして、この間の事情を明らかにすることにある。検討の手順は'第一に'程随の廟制と﹃家礼﹄の
両堂制度にどのように宗法原理が組み込まれているのかを再検討し'第二に、第一点を踏まえて'明朝の家廟制度に
考察を加える。なお'筆者はすでに前稿において'嘉靖年間、礼部尚書の夏言が提示した家廟制度改革に焦点を当て
て,この問題についての若干の分析を行っている(舵,本論では,明朝成立期に視点を移して理解を深めようとするも
のである。
一﹃家礼﹄と宗法原理
宋儒によって理想とされた周代の宗法の構造を確認しておこう。周代の封建制では'諸侯の嫡子が君続を継ぐのに
対して'庶子はすべて臣下に‑だり、嫡子と分かれて一家を創設するが、宗法ではこの諸侯の庶子を別子と称す。別
子は後世子孫の始祖として配られ'その嫡子は、別子を継いで祭紀を主宰Ltこれを宗という(継別)。この別子の
嫡子以下'嫡系の子孫は'大宗の名称で呼ばれる。これに対して'別子の庶子は欄として祭租を享けるが'この頑を
継ぐ嫡子以下も、祭紀を主宰する宗であり、このような別子の庶系に属する宗を小宗という。大宗・小宗のうちへ大
宗の系統では百世不運を認められ'永遠にその地位を継承し、大宗から枝分かれする小宗の系統を全て統制するが'
小宗の系統では'五世にして遷るtを原則とする。つまり'別子の庶子を欄として配る嫡子が小宗となって以降、四
代目の嫡系子孫は別子の庶子から数えて五代目の小宗であり'彼は高祖(別子の庶子)を継ぐの小宗として'同様の
原理によって庶系の各世代から分かれた三つの小宗(曽根を継ぐの小宗へ祖を継ぐの小宗'欄を継ぐの小宗)を統制
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することになる。これを欄を継ぐの小宗に属す族人から見れば'一つの大宗と四つの小宗(継高祖、継曽祖、継祖'
継禰)に事えることになる。このように小宗の組織は常に高祖を共通の祖となす親族を統制する構造をもっており、(6)その範囲を越えることはない。
では'程陳の廟制'﹃家礼﹄の両堂制度には'どのように宗法の原理が組み込まれているのか。牧野氏は'「宗法主
義」(ないし「宗法」'「宗族制度」)という概念で一括して程障'朱書の見解に分析を加えているが'この点について
は'牧野氏自身が分析に際して認識していたもののtより明確に清水盛光氏が指摘したところの'宗法復活論のなか
での意見の分岐,つまり,大宗復活か小宗復活かという議証を踏まえて再論しておく必要があると考える。
︹程陣の見解︺(8一程陣によって案出された廟制は'﹃二程遺書﹄巻十八㌧「伊川先生語」に収録されている、
毎月朔には必らず新を薦む(仲春に含桃の類を薦むるが如きなり)。四時の祭りには仲月を用う(仲月を用うるは'
物成ればなり。古者'天子諸侯の孟月に於けるは'首時と為すなり)。時祭の外に、更に三祭有り。冬至に始祖を
祭り八鹿の初めて民を生むの祖Vt立春に先祖を祭り'季秋に欄を祭る。他は則ち祭らず。冬至は陽の始めなり。
立春は物を生ずるの始め八一に初に作る)なり。季秋は物成るの始め二に初に作る)なり。始祖を祭るには'主
無‑祝を用う'批を以て廟中に配し'位を正して之に事う(祭り只だ一位なるは'夫婦同に享‑ればなり)。先祖
を祭るにも'亦、主無し。先祖とは'始祖自り下'高祖より上にして'一人に非ざるなり。故に二位を設‑(祖と
批は位を異にし、一に二位と云う。所を異にするは'勇婦同には享けざればなり)。常祭は高祖より下に止まる(父自りして推し、三に至りて止まるは人情に縁るなり)。募親の後有る者は自ら祭りを為し'後無き者は之を別わか̲ノIL位に祭る(叔伯父の後為り。如し残したれば亦各のおの祭る)。・・・家ごとに必らず廟有り(古者'庶人は寝に祭り'
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士大夫は廟に祭る。庶人は廟無ければ'影堂を立つべし)。廟中'位を異にす(祖は中に居り'左右'昭穆の次序
を以てす'皆夫婦自ずと相配して位を為り'男婦は坐を同じ‑せず)。廟には必らず主有り(既に眺したれば'当
に葬る所の処に埋め'人の高祖より上を奉和せるが如きは'即ち当に眺すべきなり)。其の大略は此の如しO且つ
財瀬の如きすら皆本に報いるを知るに'今'士大夫の家は多‑此を忽そかにLt奉養に厚‑して祖先に薄Lt甚だ
不可なり。
という。程陸がこの廟制で提示する祖先祭紀の方法は'高祖以下四世の祖先を祭る常祭'及び三祭に類別されるが'
宗法原理を踏まえるとき'祖先祭紀の主体はいずれにおいても'宗子でなければならない。このことは'以下に列挙
する彼の言葉に示されている。すなわち'「宗子とは'祭紀を宗主せるを謂うなり」(同上書巻十七)'「凡そ宗を言う
者は祭紀を以て主と為す'人'此を宗として祭紀するを言うなり」(同上書巻十八)'「古に所謂支子祭らざるとは'
惟だ宗子をして廟を立て'之を主らしむるのみなり。支子は祭らざると錐も'斎戒して其の誠意を致すに至りては'
則ち祭を主る者と異ならず。輿にすべ‑んば則ち身を以て事を執りへ輿にすべからざれば則ち物を以て助‑。但だ別
に廟を立て位を為って事を行なわざるのみ。後世如し宗子を立てんと欲せば'当に此の義に従うべし」(同上書巻十
五)tという。程陸が'祖先嫡系の子孫を宗子となして'これに廟を設立させ'祖先の祭紀を司らせるべきであると
いう考えをもっていたことは明かであろう。
この点を念頭に置いて'二つに類別された祖先祭紀の内容を紹介してみよう。最初に'高祖以下四世の祖先を祭る
常祭についてである。
天子自り庶人に至るまでへ五服未だ嘗て異なる有らず'皆高祖に至る。服既に是の如‑んば'祭紀も亦'須ら‑是
の如‑なるべし。其の疏数の節は未だ考うべきこと有らざるも'但だ其の理は必ず此の如し。七廟'五廟も亦'只