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ヘルマン・ノールと社会教育運動(2)
一民衆大学運動と青少年福祉活動一
教育研究室 菊 池 龍 三 郎
(昭和48年10月27日受理)
立は・以下の三つの要因によって決定された。1 社会的教育学と民衆教育 (1)一般的な民衆教育の理念。この理念によって,啓
本稿ではヘルマン・ノールの民衆大学運動・特に前稿 蒙主義の流れと,そして新しく出現した民主化の傾向と
では触れなかった民衆大学運動に関係していった動機と 結びついて,成長しつつある世代は,その生活現実のす当時の状況を述ぺることと,いわゆる社会的教育学の運 ぺてにおいて,教育的な関心と努力の対象になった。
動(Sozialpadagogische Bewegung)のうち,青少年 (2)フランスの社会運動の知識と社会的貧困への配
福祉活動(Jugendwohlfahrtsarbeit)の統一の問題,さ 慮。貧困の深刻化に対処し,社会的災厄を防止し,その らにそこにみられるノールの思想性について若干の考察 ために教育的な力を動員して都市や地方に新しい生活環 をしたものである。はじめに少しばかり用語の整理をし 境を建設すること。「危険に対する責任」(Ge黛hrdung)
ておきたい。 という社会的教育学の概念は,ここに発生した。
日本と同様・ドイツにおいても社会的教育学(Sozia1− (3)青少年の非行。非行が人間の社会的,教育的な状 padagogik),社会教育(Sozialerziehung),民衆教育 態のひとつの結果であることが明らかになったため,非
(Volksbildung),成人教育(Erwachsenenbildung)など 行を教育の問題としてとらえるようになったこと。
の用語があるため,それらを相互の関連の中で,個々具体 今世紀初頭の教育改革運動に社会的教育学の理論の萌 的に定義することは極めて難しい。日本の場合,社会教 芽が見られる。(Ch・J・Klumker, A・Fischer, G.
育即成人教育,しかもそれを学校教育や家庭教育と並ぶ Baumer, H・Nohl)これらの法的な具体化が,1924年 第三の教育領域とする理解のしかたがある。しかしドイ の「青少年福祉法」と「少年裁判法」である。学校や家
ツでは,教育改革運動の結果明るみに出た教育の第三の 庭の外での青少年補導,青少年保護教育・刑務所内教育 (1)領域として社会的教育学をあげることが多い。ところが などが,社会的教育学の理論の出発点となったところの
社会的教育学と成人教育はまた別のものなのである。成 教育実践の分野であった。それ以来,社会的教育学の分 人教育,たとえば民衆大学などは民衆教育に属し,これ 野は,変容と拡大によって変化し分化した。その結果,
は19世紀からすでに始まっていたものである。いったい 今日ではそのほか外くの種類の塾教育・(たとえば青少
社会的教育学とは何か。グロートホフの「教育事典」か 年活動,青少年社会活動)教育相談,両親相談・家庭相 (2)ら見てみよう。以下はその要約である。 談,児童保護,少年保護等の組織的・教育的措置などが
社会的教育学(Sozialpadagogik)という用語は, 社会的教育学に入る。
さまざまの教育的課題,制度や施設,さらにそれらの理 これらすぺての制度・組織・計画に共通していること
論の特定の領域を指す名称として使われだしたもので, は,それらが一家庭にはじまり学校や職業教育を経て「工業社会への組み入れのための特別の援助」として不 成人教育に至る成長者への一貫的な指導ないし教育の過
可欠のものになってきている。それは社会的葛藤場面で 程と並んで一常に特殊な教育場面の中で計画的に講じ発生する問題や課題のすべてを含んでいる。そしてこれ られる措置,ないし家庭や子どもや青少年の欲求に対し は社会が教育的批判にさらされるようになり,、しかも伝 て補助的機関として対処する弾力的な措置であるという 統的な教育制度が,成長しつつある者の発達を保証する ことである。
には,もはや十分ではないことがはっきりしてきて始め 一定の教育的な課題及び計画や制度や施設の総体をあ
てこの意味で使われるようになった。社会的教育学の成 らわす用語である社会的教育学は・その点でドイツで使
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166 茨城大学教育学部紀要 第23号
われている社会教育(Sozialerziehung)という概念と ちのノールに関する思い出をもとに,ノールへの女性ら は異なるものである。社会教育という概念は,ほとんど しい心のこもった暖かさで書かれている。しかもそれは
すぺての教育事象一その事象が家庭や学校や労働ρ場 .単なる伝記,教育学書の範囲を超え・両大戦間のドイツあるいは社会的教育学の施設のうちのどこで行われるか 特有の「精神科学的教育学」を生みだした思想界の状況 とは関係なく一に対するある一定の社会的な観点をい を理解するための重要な貢献とみなしてよい書である。
うのである。 第一次大戦が終り1918年11月20日にノールはイエナに
以上のことから,社会的教育学は,家庭教育や学校教 戻った。すでにこの時期,キールをはじめとしてドイツ 育と並ぶ第三の教育領域をあらわす領域概念である。し 各地は革命運動の激動の渦中にあり,ベルリンでは,11
かもそれは教育だけでなく,福祉の領域までも教育的観 月9日に革命が勃発していた。しかしそこに成立した革点からとらえて対象とする広範な領域である。しかし,社 命政府も,いわゆるスパルタクス団と独立社会民主党左 会的教育学は成人教育などの民衆教育(Volksbildung) 派との内部抗争によって,革命のエネルギーをキャナラ とは一応区別されている。ノールにおいても民衆教育と イズしうるだけの政治的な指導体列の確立までには至ら
しての民衆大学は,青少年福祉などの社会的教育学と ず,扇動と誹諦,中傷の入り乱れる中で,極めて不安定は,論理的に明確ではないにしても区別はなされてい な状勢下にあった。ノール自身も社会主義的革命に対し (4,る。しかしラープケの指摘するところによれば,ノール ては本質的に同調していたとはいえない。が,かれが最
更に弟子のヴーエニガーなどにとっての中心的関心は, も懸念したことは,経済的窮乏と党派的抗争の中で,ドイ 民衆陶冶(Volksbildung)や民衆教育(Volkserziehung) ツ国民の内部分裂が一一層大きくなることであった。兵役 の問題であった。かれらにとって民衆教育は,一方で, に就いていた当時,とりわけ敗戦間近の頃の兵士の精神
「単純な民衆の教育」であった。なぜなら「民衆はこれ 的荒廃を目のあたりにして,かれの中に新しいタイプの
まで歴史の中㌘ち捨てられ,乱んでいた紛であっ糖濁傭想硝まれて、・た・と、・うのは陶冶(Bildu噛 スから」である。したがって民衆教育は一それをノ 五9)から一かれの言葉をもってするなら「より高次の生」一ルが「社会的教育学の運動」 (Sozialp記agogische (h6heres Leben)の世界への接触から一除外されてい
Bewegung)と総称したように一「社会的教育学の動 ること,これこそがこの危機的状況下での労働者階級の機」を基調としていた。また他方で,かれらにとって民 独自の悲劇であると思われたからである。大体,戦前に 衆教育は,「民族の困窮」(Volksnot)あるいは「民族の 存在していた民衆教育施設は,多かれ少なかれ学者の通 破壊」(Volkszerst6rung)に直面して,新たな「民族の 俗的な講義が主体であり,とても労働者,農民の真の要
秩序」(Volksordnung)の創造を志向する教育的な試 求に応えることはできなかった。それはまた従来の教育行をも意味していた。これがドイツ運動の動機であった 学の性格にもよるところが多いとノールは考える。ここ し,そのドイツ運動の教育運動的展開の頂点を成すの に教育学は,その「新しい器官」(neues Organe)を創 が,青少年運動と民衆大学運動であった。ここに問題の り出さねばならない。しかしこのような意識はなにもイ 複雑さがある。しかし一応ここでは,社会的教育学と民 エナだけにあったものではなく,ドイツの他の諸々の地
衆教育とを分けることにする。 域でも,同様の意識に基ずいて様々の試行が準備されていた。自由神学者ヴァイネル,国民経済学者ケスラー,
皿 ノールの民衆大学観 古いヘルバルト学者であるラインなどのほか・いろいろ
の人々が,このような状況のもとで何か新たなものの創
一 民衆大学の構想 造を模索していた。こうした動きは,ノールにとっても前稿ではノールが民衆教育運動とりわけ民衆大学運動 心強いことであった。精神的,物質的窮乏,国民的統一
に関係していった経緯は省いておいたので,そこのとこ の緊要,その意味でVolks・hoch−Schuleの機は熟してろをここで改めて少しく詳細に述ぺておく。これにはノ いた。しかも都合よく・まずツァイス工場の労働者は,
一ルの忠実な弟子でかれの死に至るまでその膝下にあっ その伝統的に質の高い労働と・労資協調論者で支配人の た,現存のドイツ教育学界の指導者のひとりであるエリ エルンスト・アツペの改革に負うところの,よりりベラ
ザベート・プロホマンによるノールの伝記 Herman ルな社会的意識を有していたから,この新しい試みを積Nohl in der padagogischen Bewegung seiner Zeit 極的に受け入れた。それにしてもツァイヌ・ばかりでなく・
1879−1960 が参考になる。本書は正確な個人的知識・ テユーリンゲン州全体が,この運動のよりよい土壌であ
未公開の記録や書簡,またノールの友人,弟子,同僚た ることが次第に実証された。しかし何といっても・民衆
菊池:ヘルマン。ノールと社会教育運動(2) 167
大学運動がまずイェナで開花し,次いでテユーリンゲン きる抹態になっており,ほかに7校が開設準備中であっ
州全体の運動に結実していったのは,ノールのたくまし た。1920年の末にはテユーリンゲンの都市や農村には90 いエネルギー一と信念の力に負うところが多かったとプロ 校もの民衆大学ができていた。しかもその前1919年9月
ホマンはのべている。雑i誌Sammlungの1952年7月号の には既にテユーリンゲンの各民衆大学の最初の全体会議
回想録の中でノールは次のようにのべている。「ちょうど が開かれていた。むろんこれら多数の民衆大学のタイプ そのころに,ヴァイネル(H.Weinel),ブーフバルト(R・ は,地域的条件などにより,決して画一的なものではな
Buchwald)と私とはイエナに民衆大学を設立し,それ く・デンマークの季節寄宿制民衆大学(Heimvolkshoc噂 をテユーリンゲン踪大学一と拡大した・私に}鐵争中 hschule)に鞭取ったド潅弁・ビア・カー民衆大学に兵士たちとの交流によって得た経験以外にこれといっ (Dre量βigacker V・h・S),のほかに・熟(Heim)形
て役に立つ知識は何もなかった。しかし成果はすばらし 式をとり履修期間に制限のない講座・課程(KU「s)もあいものであった。それはあたかも神があらゆる風帆を一 り,更に,都市や農村における夜間民衆大学(Abendvol一 度に開いたかのようであった。開設後の一日目に私たち kshochschule)などとさまざまであった。しかしそれら
はイエナで2000人の聴講生の登録を見,ほどなくテユー・ 多種多様な民衆大学全体の意義と精神を,ノールは次リンゲンに100の民衆大学をもつにいたったのである。」 のように定式的に述ぺている。我々は水で薄められた
この時期の記録はかなり詳細にわたっている。「多くの (内容のない)大学(Verw註sSerte UniverSitat)を提
事前の話し合いの後で,1919年2月25日ツァイス商会内 供するためでなく,我々がそのための十分な学習及び教においてテユーリンゲン民衆大学の設立集会が開催さ 授の自由を要求するが故に,この共同体(Gemeinschaft)
れ,これにはすべての政党,主義,宗派の代表者が参加 を大学(Hochschule)と呼ぶのである。この大学はいか
した。」プロホマン自身も驚いているように,これは, なる主義主張に対しても,それが学問的基礎を有するも この繭の醐における激烈な政治的対立を考えれば・ のである限り・それらに発言磯会を与え扇公平に取驚くべきできごとであった。ここで暫定的な活動委員会 扱い)それによってあらゆる政党を超克する。そしてこ が選出され,シュトラウス(W.L. v. Strauss)やディー の大学に学生として入学する者はだれでも・かれが学ぶ デリッヒスCL Diederichs)のほかに教師一名,労働組 意志があるかどうか,かれが何を学ぼうとしているのか 合書記一名,ツァイス商会代表一名,そしてノールとブー どうかを自ら決定し・そしてかれは大学が自由に提供す
フヴァルトが書記として加わった。ツァイヌ、商会は10000 るところのものを使って自己の自由な世界を創造するこ
}ルクを贈呈し事務局の場所蝉備した.注》1㌦とヴァ とになる.」そしてまたこの大学は,「それが精神活 イネルが,イエナの民衆の家(Volkshaus)の大会議室で 動,啓蒙・そしてより高次の陶冶への衝動を自らのうち民衆の協力と参加を要望するはじめての集会を開いたの に感じている人すべてに対して・その門戸を開放するが
は,1919年のはじめ学期間休暇の終る前のことであっ 故に 民衆の学校 (Volksschule)でもある・」民衆大た。プロホマンにいわせればノールの講演が与えた感動 学は,何らの資格も授与しないし・かといって入学者に は強烈であったらしい。あたかもノールが「運動の魂」 何らかの入学資格を要求するものでもない。「学び協働 であるかのように思えたと言っている。1921年にでた謁 しようとする意志のある者なら誰れでも歓迎される。か 録はノールのこのことを,次のように証言している。 くして,もしも民衆大学が我々民衆共同体の新しい器官
「これまで運動を指導し,その全活動を運動に捧げてこ であるなら,各宗派の聖職者も含めて,従来さまざまの学 られたノール教授は今回(1919年秋)ゲッチンゲン大学 校種類の教師の間に存在していた分裂を除去するのに役 の招聰によりこの運動を離れることになった。しかしこ 立つことになろう。民衆大学では,ある課程での学習活
、 黷ゥらもずっと,我々に,しばしば助言と助力を与えて 動が他の関連する課程での学習活動に拡大していくよりくれるものと信ずる。かれは我々の団体の第1号の名誉 になっているが・これは伝統的な大学(Universitat)で
Cであ81」 の羅禰座の閉鎖性とは性格娯にするものであるか
テユーリンゲンにおける運動の急速なそして健全な発 ら,その意味でも民衆大学は新しく設立されたものでな
展についてもう少し付け加えることにする。1919年3月 ければならない。民衆大学内ではいかなる自主的な試行1日には,ノールの呼びかけで Blatter der Volkshoch一 や活動も支持されてしかるべきであり・決して・形式的
schule Th廿ringen・の第一号が発行のはこびとなり, に煩項に規制されるぺきではない。したがって・先ずは
各地で予期しないほどの反響を見た。これによると6月 じめは国家による立法化は何ら必要ではない。後になれ 1日現在でテユーリンゲンでは,26の民衆大学が活動で ば,国家が現在の他の学校制度と同じく民衆学校制度を168 茨城大学教育学部紀要 第23号
本当に真剣に,そしてその責任において忠実に取扱わね ノールやプロホマンの言述から,いかに民衆大学が「精 (6)ばならなくなる日が来るであろう。」実際には,民衆大学 神」を重視あるいは偏重していたか明らかであろう。し
は19年のワイマール憲法第148条「民衆教育は民衆大学 たがっていかに現実の「困窮」(Not)を民衆大学運動の
も含めて,国,州・及び市町村によって促進されるべき モチーフにしても,それを「精神の自由」の問題に局限である。」 との規定によって,民衆大学はじめ成人教育 するとき,「困窮」のリアリティーは稀薄になる。結果 への国家的助成が開始される。これによって, 民衆大 的に〃自由 民衆大学が弱体化し,知識よりも訓育によ
学騒ぎ (Volkshochschulerumme1)と皮肉られるほど る民族精神の昂揚をめざすデンマーク型の季節・寄宿制(注4)
の盛況をみせることになる。 民衆大学が,すでにナチスの政権獲得以前から着実に普
それから10年以上たって出版された「ドイツにおける 及していくのはこのためである。 (7)
ウ育改革運動と陶冶の理論」(1929)の中で,ノールは しかしかといって,ノールたちに政治的意図がなかっ 青少年運動(Jugendbewegung)と並んで民衆大学運動 たというわけではない。考えていたのは・「対立」と
を・新しい教育精神を特色づける学校外の教育運動のひ 「過去の遺物」を負わない民衆大学を,「陶冶の統一」
とつとして位置づけた。この中でかれはもう一度1919年 (Bildungseinheit)の場とし,そのための新しい「陶冶」
のドイツの状況一敗戦による挫折,疲弊した国土, を創造することによって終局的には「かけ橋のない階級 革命と反革命による国内分裂・一をふりかえり「残さ 分裂,宗派・政党の分裂」を克服する前提とすることで
れたのは教育だけであった」とのぺている。かかる状況 あった。その意味では政治的であった。その点でノール
下にあって「その時には民衆大学は,向上への新しい器 は,ドイツの新しい陶冶の方向を示すプリットナー(W. (8)官であるように思われた」のである。1919年以後運動が Flitner)の「非専門家の陶冶」(Laienbildung)を高く
多くの地方に普及し,いわゆる〃民衆大学騒ぎ といわ 評価していた。ノールやプリットナー,ヴァイネルや
れる様相を呈し・かつ,それによって運動が形式的にも ブーフバルトたち指導者すぺてが主張したように,民衆 内容的にも様々の方向へと分散していった時でもなお, 大学における陶冶は聴講生自身の経験や問題,期待や関 ノールは「それでもなお・戦争で民衆を見直すことを学 心と結びついて進められていた。こうして日常的次元の び,そしてあらゆる理想の崩壊に直面して,民衆のかか 経験や問題が精神生活の高次の問題にまで発展するはず る精神的蓄積のうちに新しい未来の究極の基盤を見出そ であるとの期待は,民衆大学運動にとどまらずドイツ改
うとする戦争帰りの精神的燗た惣齢的な責憾だ革糖学の鞭な歴史的競であった・すなわちこ蝋けは不変であった。」 とのぺている。 でノールたちの行き方は,「テユーリンゲンの方向」
かかる分裂的対立的国内状況の中で・なぜこれほどま (ThUringer Richtung)とよばれるのである。「テユ でに民衆大学にドイツ国民の〃精神的 復興の足がかり 一リンゲンの方向」を貫ぬく「民主主義」の原理が「民 を求めようとしたのか。民衆大学は「全ての対立と,時 衆共同体」(Volksgemeinschaft)であった。プロホマ 代の過去の遺物を負わず,しかも時代の困窮をその根源 ンにいわせれば民衆共同体はそれ自体としては「非政治 において把握できる機関である」と思っていたからにほ 的なもの」であり,そしてそこにおいては「政治的斗争 かならない。しかし,ここで「対立」と「過去の遺物」を負 のための教育」はさけられねばならなかっ差碧)
わないということ,すなわち「対立」をはじめから運動の
二 民衆大学における陶冶パースペクティブの外におく民衆大学は,当然限界をも
っという疑問が生ずる。例えばさきにのぺた1919年2月 一般に,1920年代のさまざまの民衆教育運動は,社会
25日のツァイス商会での会合に党派主義・宗派のちがう 的な構造変革が個人の内部に深く食いこんだ結果生じた 人たちが対立をこえて集まったということ,さらに「民衆 文化危機感を共有している。危機を文明による文化の侵 大学はすべての主義主張を公平に取扱う」ということ, 食ととらえ,既成の文化や陶冶を批判し,再生を志向す そこにいわゆる大戦後の〃自由 (すなわち政治的・宗教 る。いわゆる民衆大学における「新方向」も,かかる文 的中立)民衆大学がひとつの国内対立における暗黙裡の 化危機感に立っている。ここではノールの所論をもとに
政治的・宗教的妥協の産物を意味するのではなかった 民衆大学が意図した新しい文化及び陶冶の創造の問題にか。すでにのべたように19年以後には国家による財政的 ついてのぺることにする。その点で1920年の論文「新し
助成が開始されていた。ここにおいて一般的な傾向とし いドイツの陶冶」は,この時代のドイツの文化批判,陶ては,成人教育としての民衆大学は,その「自由」の内 冶批判を理解する上で有意義な論文である。
実において変化を示すようになる。これまでのべてきだ 1陶冶批判
菊 池:ヘルマン・ノールと社会教育運動(2) 169
1870年ごろに,ニーチェやラガルデからはじまる文化 仰」の統一によって解消されるほど簡単なものではない
批判によって,ドイツの陶冶はその小市民的,閉鎖的, し,陶冶の分裂は,ドイツ人の現実的な存在構造の奥深
教養主義的,俗物的性格をきびしく批判された。教養 くまで達しているからである。(Paまdeia)の理想に現実的客観的な有能性,行為(Le− (3}シュプランガーは,「職業」(Beruf)を統合の istung)を欠落しているというのである。ノールによれ 核にする。「職業陶冶のまわりにあらゆる陶冶財をまと
(12)
ば陶冶批判は特に三点にしぼられる。 めることにより,統合の理念は新しい意義を得る」とす
(1)人間をひたすら科学的技術的発展の道具にしてい る。この解決策が,時代がかかえる問題の核心に触れて たこと。そのため本来全体的なものであるはずの陶冶が いることは間違いない。すなわち「生活の方向にもとず
技術的知性に接小化されていた。 く陶冶財の選択とその自己形成への関係ずけ」という陶(2)しかもこうした科学的陶冶でさえ,「陶冶された 冶課題に,ひとつの重要な観点を提供するものではあっ
もの」(Gebildete)と「陶冶されていない者」(Unge一 た。それにもかかわらず,この考え方は現実には民衆間の bildete)の二つの部分に分裂し,共通の民族文化が個人 陶冶の分裂をより大きくする危険性がある。またあまり
の精神性から失われていること。 にも早く現実の職業の分化の中に青少年を組入れること(3)この科学的陶冶自体は,もはや理想を統一する力 の発達上の危険性もある。つまりこれは,職業というも
をもちえず,専門主義と博識に分裂していること。 のの理解を通して生活は浄化されると考えているが・そうではなくて反対に,新しい生活と生活の情i操(Ges三n一
2 陶冶の統合 nung)が職業を浄化すると考えるぺきなのだ。何事にもこのような陶冶の欠陥,とりわけ陶冶の分裂という現 青少年が無関心であることの原因は,たしかに学校と生 実に立って,分裂を克服する試みのひとつが・ヘルバル 活に連続性が欠如していることにあろう。しかしかとい ト学派にはじまる「統合の理念」(Konzentrationsidee) って学校と生活の結びつきを・再び「学校の方向を職業
である。その後三つの観点からの統合が試みられた。ト に向けること」によって取戻そうとすべきではなく,む レルチ,ベンツ,シュプランガーのそれである。 しろ「文化と,文化を形成する活動との生きた関連」に学校教育の方向を向けるべきなのである。
ω トレルチもまたドイツの陶冶のカオスに対して, ドイツにおける陶冶の分裂,陶冶の小市民的,教養主
「単純化と統合」(Vereillfachung u・Konzentration) 義的欠陥は,したがって,文化と文化を形成する人間の が必要であると説く。かれはディルタイの説を継いで, 活動との関連を再認識することによって克服されるはず 単純化と統合の視点を「われわれの陶冶の決定的な歴史 であるとノールは考えている。公民教育,労作学校,統 的基礎の自覚」におこうとする。この歴史的基礎は,古 一学校などの運動,学校自治とか生徒会とか民衆大学の 代,中世キリスト教世界,北欧的一ゲルマン的一ロマン 思想,教員養成をめぐる大学改革の試みや青年運動の中 的世界及び自然科学の四っの構成要因から成る。それら に,ノールは新しい陶冶創造の努力を見出している。
は陶冶の中で互いに異質的に並存し,緊張関係の中で陶
3新しい陶冶の条件冶の「自由と広がり」を保証している。そこでドイツ世
界を形成するこれら歴史的起源に絶えず還ることに統合 敗戦によるあらゆる理想の崩壊と時代的困窮に直面し の足がかりを求めようとする。しかしこの統合観は現代 て,ここにノールは,ドイツの新しい陶冶の備えるべき の陶冶が背負っている危機,すなわち陶冶と生活との分 本質的特徴を五っ取出している。
離に対して何らの解決をも与えていない。 (1)新しい陶冶は,これまで民族の陶冶の担い手であ
(2)ベンツの試みた統合は・ドイツ民族固有の生 った大学がその理想を学問に求め,学校がそのための準
(Eigenleben),それの客観化された価値内容(Gehalt) 備を施してきたところの,いわば「上からの陶冶」(Bil一 からの統合であった。神話や伝説,文学・宗教や哲学に dung von oben her)ではない。ドイツ観念論の崩壊に 結晶したドイツ民族固有の高次の生が価値内容である。 よる諸学の統合理念の喪失以来,大学における学問の専 ドイツ運動がもとめたのもこれであった。しかし,かか 門主義は,もはや人間を形成する位置にはないからであ る価値内容を統合の中心に据えることは,必要条件では る。新しい陶冶は「下から上への陶冶」(Bildung von あっても十分条件ではない。ベンツにおける価値内容が unten nach oben)である。
「精神」の世界に限定されていたことをノールは批判す (2)上に挙げた諸運動は,民族全体の新しい統一的文
る。現実の陶冶の問題は,ドイツの歴史的世界への「信 化意志に基ずいており,かかる文化意志の具現者は教師
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(注4)
であるということ。 ロギー的内実については,前稿でのべた通りである。
(3)新しい入間性すなわち新しい身体感情・自然への
親しみ,国土や大地や郷土,更に生きた芸術への新しい 皿 青少年福祉活動の精神的エネルギー
感情,これらは飽食の中で麻痺した感受性に代わる新し
一 教育改革運動と青少年福祉活動い活動性の要求と密接に関わっており,労作学校,芸術
教育運動・渡り鳥運動の主張は,この新しい人間性の創 ノールの社会的教育学の中心領域をなすのは,青少年
造の努力である。 福祉活動(Jugendwohlfahrtsarbeit)である。かれのは(4)郷土と労働世界のリアルな関係の中での世界の建 じめての社会的教育学の論文は1927年の「青少年福祉活 設。新しい共同社会(Gemeinschaft)の創造。すなわち 動の精神的エネルギー」(Die geistigen Energien der 単なる職業的,政治的な共同社会ではなく,同胞的,人 Jugendwohlfahrtsarbeit)であった。これは,1926年ハ 間的な共同社会・これは青年運動や民衆大学運動によっ ンブルクでの社会的教育学大会における講演の記録であ て深く意識され,労作学校・統一学校・更に生徒会の中 る。この論文は論文集「青少年福祉」(Jugendwohlfahrt
でもとめられたものてある。 −Sozialpadagogische Vortrage)の中に収められてい (15)
(5)形而上学的な価値内容(metaphisisches Gehalt) る。序文でノールは「今日教育改革運動の精神が最も強
に対する新しい価値感情。 くあらわれているのは,学校以外ては,おそらく青少年福祉活動である。ここには,かつてのペスタロッチやフ
4陶治の内容と方法レーベルにおけるような教育的なものの本質が純粋にあ 新しい陶冶をめざす民衆大学は,教育改革運動と同じ らわれている。」 とのぺている。「精神的エネルギー」
原理に立っていた。そのひとつが「生活近接」(Leben一 の理論は(民衆大学運動とともに教育的民衆運動に属す
(エ3)
snahe)という考え方である。これは単に方法学的意味 る)青少年運動が青少年福祉活動を促した五つの運動の
でのみ理解されるべき観点ではなく,教授学的な意味を ひとつにすぎないという観点に立っている。これに対し
ももったものである。「生活近接」の原理は,ルソー て,「社会的教育学の運動」は,青少年運動の第二鍛階
ペスタロッチ以来の近代教育学の中で構築されてきた原 を直接的に受け継いだものとなっている。青少年運動と 理であるが,ノールや,その弟子のヘス=クル闇ク・更 社会的教育学の運動は,「社会への奉仕,民族の未来へ
にヴゴ゜ニガーやクラフキ,ブレットナーなどは,こね の責任感」を共通の課題として連続する。
をKundeと呼び,こ加を「学校の方法」(Schulmeth・ ノールが理解していた青少年福祉は1924年4月施行の
ode)に対する「民衆大学の方法」(VQlkshochschulm一 青少年福祉法に含まれる活動範囲と同じも0)であった。
ethode)としたことは,前稿でのべた通りである。むう しかし社会的教育学と青少年福祉の概念的な区別は,ノ んここていう「方法」が単なる「教授法」の意味でない 一ルにおいては必ずしも明確ではない。むしろ論文集の
ことはいうまでもない。 サブ・タイトルが社会的教育学論文集となっていること一例をあげれば運動の指導者の一人・シュタインメツ からも,かれが双方の概念を同義的に取扱っていたとも
ツも「生活近接」の原理を民衆大学の教授活動の本質的 推測できるのである。ハッケヴィッツもこのことを指摘な特徴とし,ライプチッヒ民衆大学のカリキュラムをあ している1ゆ
げている。
二 五つのエネルギーとその統合(1)生活の自然的基礎 (2}生活の社会的基礎(経
済,法・国家,社会) (3)世界認識及び世界解釈(哲 教育改革運動と同様,青少年福祉活動も「時代の困窮」
学・文化,教育) (4)芸術及び実習(文学,造型,音 に促さむて発生したものである。「困窮」の根源をノー
楽)(5)体窟、(6)鰍な諸問題をもつ生活領域(例 ルは・19世紀樋じ儒呈した工業化及びその副次的現 えば婦人問題) 象である大都市化と労働事情や住宅事情の悪化に求めここにみられる「生活近接」による「生活の科学化」 る。さらに,それにともなう道徳的,肉体的荒廃は,人 は民衆大学運動一般にみられる特徴であった。また民衆 間を結びつけていた「あらゆる紐帯の解雛」をもたらし 大学では・「生活共同体」(Lebensgemeinschaft)や「学 「価値の喪失」へと導く。
習共同体」(Arbeitsgemeinschaft)が積極的に採用され ノールによればかかる危機への最初の対応は,労働者
た。しかしあらゆる対立を「共同体意識」のうちに解消 階級にはじまる。しかし「社会主義は存在への意識の従
することによって,公民意識創造の場としたそのイデオ 属の理論から出発しながらも,これに対してより直接的
菊 池:ヘルマン・ノールと社会教育運動(2) 171
に関係する教育学にはほとんど関心を示さなかった。」 これを社会的教育学から見れば,「政党間の抗争の背後 後になってはじめて,「新しい連帯感を用意し,子ども にある共通な全体を見ること」を教えるかぎりで「公民
・ (23ノ
を非階級的な教育によって新しい社会の担い手へと教育 的全体意識への組入れ」という課題であった。
する」労働者階級の教育的課題の認識ができあがった。 これまで挙げてきた19世紀の四つの運動は・未だ市民 その主要な手段は,公平な機関,共同体,および労働で 的な文化及び陶冶の世界とその価値への信仰を持ち続け
(17)
ある。 ていた。社会主義でさえも,支配権力が授けるこの精神
しかしノールは,社会主義が,「それが社会生活の結 的所有物(geistige Besitz)を労働者階級に対して社会 合の豊かさの全体を一枚岩の連帯というもので汲み尽せ 化することを要求していたほどである。前章皿でのべた ると信じ,家庭を誤まった所有概念の隔世遺伝と理解し ように,ニーチェによる文化批判によってはじめて,い
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ていた」ことにその倫理的限界を見る。したがって,社 わゆる文化危機意識が発生し,これが教育改革運動の動 会主義がもたらした人間の新しい権利観,人間の孤立化 機となっていくのである。したがって教育改革運動・と を克服するすべての労働者の連帯が,同時代の人々に誤 りわけ青少年運動の開始によって・市氏的文化への信仰
解されたと考える。 を共有はしているものの,本来異なる起源を有するこれ社会主義の中に革命的な性格だけを見る人々の誤解か ら四つの運動は,少なくとも表面的には・ある「高次の ら社会主義に最も敏感に反応した「国内伝道」(lnnere 次元」で調停されたようにみられる。結局,ノールの説く Mission)は,青少年福祉活動の第二のエネルギーであっ ところからは,このように結論するほかない。すなわち
た。国内伝道は,家庭の崩壊,青少年の非行化,アルコー ノー一ルは,四つの運動一青年運動は第五の運動として触 ル,遊興など諸悪の根源を「神の疎外,信仰の喪失」に 媒として付け加えられているが一の中に,ある共通のも
帰する。そのためには,「牧師と自由な愛の活動」によ の(ein Gemeinsame)を指摘しようとした。「共同体」る再生が必要であると説く。運動の創始者ヴィーヒェル (Gemeinscbaft)の概念がそれである。かれは次のよ
ン(wichern・J・H・)は1848年の革命の中に国家や家庭 うにのぺている。「連帯,キリス、ト教的隣…人愛,精神的
(24)
や教会の崩壊の脅威を見,国内伝道こそ社会主義と革命 母性,それに青年の結合による共同体の力が加わる。」
に対抗する唯一の手段であるとの見解をもっていた。 共同体概念のほかに,さらに青少年福祉の五つの異な
ノールはこれを「宗教的結合の排他的強調の一面性」と るエネルギーを統合するものとしてノールがあげている
(19)
して批判する。ここから国内伝道は,人文主義な教育と のが,青年運動がもたらした「教育的工一トス」(pa一
の結びつきを失ってしまい,ペスタロッチは国内伝道に dagogisches Ethos)である。かれは青少年福祉活動に
(20)
よって拒否される。 おける教育的な努力は,教会や国家あるいは政党のため
第三のエネルギーとして,ノ・一ルは,婦人の一般的な の運動とは無縁であり,福祉活動内部でそれぞれのエネ 人間としての権利を求める婦人運動をあげている。婦人 ルギーがもたらす緊張は,教育的工一トスの中で止揚さ 運動は「経済政策だけでは必らずしも十分には言い汲せ れるはずであると信じていた。
(21)
ない深い文化的危機」に由来する。婦人もまた単に家庭 このようなノールの考え方は,いわば共通の全体に注 の中だけでなく,文化全体の中で「その最も内的な本質 目することによって相違を無視しようとする行き方であ
傭る母1生を危機の中ではたらかせる課題」をも・てい る・そういった考え方に1ま,「生」(L・b・・)雛の形る。精神的母性を共同体の力として,婦人は社会的課題 而上学的理解がひそんでいる。すなわち,どのような運 に対処し,しかる後に経済的状況から職業活動を要求さ 動にも生が客観的に表現されていると考える。したがっ れる。婦人学校によって職業への可能性が開かれ,「幼 て,このような形而上学的立場からすれば,相違や対立 稚園運動」によって社会的教育学の新たな課題領域が開 もすぺて,歴史的,社会的領域における単なる偶有的な
かれる。 ものとしてしか理解されない。こういった方法で全体やノールは,「社会政策運動」(s。zialpolitische Bewe一 共通性を指向する行き方に,相対化と正しい社会的関係
gung)は,青少年福祉活動の第四の精神的エネルギー の認識を妨げるある性格を指摘することができよう曾5)であるとする。1872年の「社会政策協会」の設立,75年 それぞれの運動の本来の推進力が異れば終局的には異な のトライチュケに対するシュモラーの公開質問にはじま る目標に行きつく。目標の相違は,運動問の対立をもた る社会政策運動は,運動の動機を,貧民や労働者階級に らす。この対立を現象としての共通性から止揚すること 対する法的救済措置を国家に要求することにもち・その はかえって,運動間の緊張のリアリティーを見失うこと
目標は新しい共同体意識と国家的結合の形成であった。 になる。 1
172 茨城大学教育学部紀要 第23号
たとえば・国内伝道運動と社会主義の対立は,前者が に,すなわち愛の結合にもとずく共同体の原理にもとめ
(29)
後者の教育的に積極的な側面を 誤解 していたと見る られる。したがってノールが,その共同体思想にあわせ ことは是認されえない。もしそうだとすると国内伝道の て,例えば社会主義から「連帯」だけを切り取り,それの 発生の必然性は・かかる一面的な教育学的評価によって もっすぐれて政治的,社会的,人間学的な本質を,媛小 否定されてしまう。国内伝道は多くの課題をもって発生 化し,それによって対立を止揚する一契機たらしめると したが・そのうち若干の課題が反革命的であったのであ き,たしかに,そこにノールの「社会的」教育学の,ま る。国内伝道はプロイセンにおけるプロテスタンティズ た弁証法的思考の思想性が端的にあらわれてくる。
ムと絶対主義的封建主義との固い結びつきから必然的に 生じたのである。しかしそれと並んで,国内伝道にはプ
ロイセン内部における教義上の論争と,それにともなう 〔注および引用・参考文献〕
新教派の澗落の危険に対処するという課題があり,その
注1ツァイスの支配人であるエルンスト・アッベ(E.Abbe)ために「愛の活動」を行ったのである。したがって発生
は,労資協調論者,社会改良主義者で,労働時間短縮とは必然性をもち,誤解によるものではなかった。
能率向上の関係を自分の工場で実証し,歴史学派的社会
三 結 語 政策学者の実証的根拠を提供したが,かれはまた労働者
教育にも熱意を示し,すでに1896年からイエナのコメニとはいえ・それによってかれの社会的教育学の運動ヘ ウス協会が下級労働者を対象として始めた通俗講座に月 のアプロ陶チの仕方の意義が少しく減殺されることは 謝負担を行っている。
あっても否定されるべきではない。そもそもこの講演の
目的は・、運動の全体的な展望と「運動のb臓部」を明ら 注2ドライシビアッカー民衆大学は・バィチュ(EWeエー
瀦株タ織搬二霜野奪1叢1懲諜1灘1難1「共有しうるもの」であり,それなしに福祉活動の統一的 び教師が講義するという形式はとらず,内容や方法を決
な腱は開けてはこない・・一ル}畝のよう妨向を示 め、のは生徒たちの欲求潤心問題であ。た.しかし 唆する・「たしかに緊張関係は存在するし,論理的な思 バィチ。の報告によると陣近で実際的な教捌象の希 索でそれを除去することもできない・しかしそれらは, 望はなく,も。ばら世界観,宗教論芸術,国鷹済学,
ひとつの共通な基本的態度の中で,それぞれの最終的な 政治学,社会学にまで発展する問題が選ばれたという。
対雄を解消する・そ傭は翻されるのではなく噺 たとえば僻議的であるべきか否か・・マルクス主しい統一へと止提される。」青年福祉活動の異質なエネ 義から見た国家の発展 一汰生の意味 , 宗教問題 ,
ルギ簡を「止揚」するひとつの「共通な基本的態度」を キリスト教への態度 ・ 職業への態度 ・ 何故に労働 ノールは,「ひとりひとりの人間への教育的な行為及び 者は芸術と科学を拒否するのか ・ 教育問題 ・ 青少年
献身」・すなわち「教育的工一トス」にもとめたのであ の性の問題㍗蒙庭の成立㍗平和運凱 汰間は善か
る・福祉活動の績はW・h1ということ1まの中にある。 等々である・教師と生徒は・これらの問題を観をかこ
徽,犠濃戴篇膝禦 錨欝塗轟謙蕪押
身することによって,それぞれの福祉活動のエネルギ_ 注3民衆大学は19世紀の「旧方向」(普及的・拡張的民衆教 は,教育活動になりうる可能性を獲得する。 育)の時代から,政治的・宗教的対立の間に立って,中
それぞれのエネルギーは,社会的教育学が含むべき全 立的な知識の啓蒙に重点をおくことによって政治的中立 領域の「ひとつの必須の領域」を明るみにしていること 性を確保しようとした・20世紀に入ってエルトペルク によって,それらは全体連関をなし,そして今日,危機 (R・von E「dbe「g)以後の新方向(形成的・集中的
が「より明るみに,より身近に」なる1。つれ,そのどれ 踪鮪)も同じ舳で考えていた・ノールも榊的世もが青年福祉活動にとつて「不可欠」のものと磁 撫1蟻驚ことによつて政治的轍が確
その場合ノールは・対立を止揚する彼岸}訂新し・汰 注、。イ_ル共和国成立を契機に,全国でおよそ、。。もの
間性」と「新しい社会的結合」を結像させる・そこでは 蘇大学が設立された.しかしイ。プレの進行ととも、こ
その精神的,社会的支柱が「働くものとの連帯」「公民 衰退した。1932年には215校があり年間約33万入を収容
的な共同体」「家庭の内面的な関係」「世代間の親密さ」 していた。WScheibe;ibi己S.367−36&
菊池:ヘルマン・ノールと社会教育運動(2) 173
注5 ノールの教育学は教育改革運動と不可分の関係にある。 (6)E.Blochmann;ibid. S・91・
かれによれば教育運動は世紀の転換期における文化危機 (7)H.Nohl;Die Padagogische Bewegung in . 感に由来する。工業化は規格的な物質文明と都市化をも Deutschland u. ihre Theode,1929.(fUnfte Aufl.
たらし,ゲマインシャフトが崩壊してゲゼルシャフトに 1961)
再編されていくことをもって文化危機の根源とする。と (8)H.Noh1;ibid. S.23.
りわけゲゼルシャフトへの変質である「都市化」を「大 (9)H.Noh1;ibid. S.23.
衆化」及び「生産過程の非人格化」の原因とみなす. (10)E.Blochmann:ibid, S.92.
ハッケヴィッツの指摘するように,ノールにおける文化 (11)H.Nohl;Die neue・deutsche Bildung, in:
危機感のイデオロギー的内実は,大衆の出現つまりその P註dagogik aus dreiβig Jahren:1949.
意識に迫りくるプロレタリアートに対する不快の念に露 (12)H.Noh1;ibid. s.9−20.
呈される。そこから教養ある市民階級(BildungsbUr・ (13)W. Scheibe;ibid. S.370 f.
gertum)が必然的に文化危機感の担い手となる。かか (14)P. Steinmetz;Die Deutsche V. h. S. bewegung, ,
る文化危機打開の道を教育改革運動は,そのあらゆる分 1929,S.51. W. Scheibe;ibid. S.371.
野においてゲマインシャフトの再編にもとめる。それに (15)H.Noh1;Die geistigen Energien der Jugend・
よって大衆を「人格化」し,共同体への帰属意識によっ wohlfahrtsarbeit, in:Jugendwohl・
て民衆(Volk)あるいは貧民(P6bel)を 「公民」 fahrt−Sozialp註dagogische
(Staatsbarger)へと転化させる。 W. von Hacke・ Vortrage−,1927.
witz;Das Gesellschaftskonzept in der Theorie (16)W. von Hackewitz;Das Gesellschaftskonzept der Padagogischen Bewegung,1966, S.193 f. in der Theorie der P註dagogischen
(1)W.Scheibe;Die Reformpadagogische Bewe・ Bewegung, i966, S.110.
gu119,1972, S・323・ (17)(18)H. Noh1;ibid. S.3,
(2)H・Groothoff, hersg・;Padagogik(Fischer Lex・)・ (19)H。 Noh1;ibid. S.5.
1964,S.288 f・ (20)W. von Hackewitz;ibid. S.113.116.
(3)H・−D・Raapke;Erwachsenenbildung als Volk− (21)(22)H. Noh1;ibid. S.6.
sbildmg・in:Geisteswissenschaftl− (23)H. Noh1;ibid. S.7.
iche Padagogik am Ausgang ihrer (24)H. Nohl;ibid, S.9.
Epoche−E・Weniger:(1・Dahmer (25)W. von Hackewitz;ibid. S.116.
u・W・Klafki hersg・)1968・S・ 271・ (26)H. Noh1;ibid, S.2,
(4)E.Blochlnann;Herman Noh11879−1960・1969・ (27)H. Nohl;ibid. S.10.
S.87f. (28)H. Noh1;ibid. S.2.
r
i5)E.Blochmann;ibid. S.90. (29)H. Noh1;ibid。 S.12.
Herman Nohl und die sozialpadagogische Bewegung(2)
一Volkshochschulbewegung u. Jugendwohlfahrtsarbeit− F
Ryuzaburo Kikuti
Abs缶act
Erstens, diese Aufsatz−in Anschluβauf die letzte−behandelt zunachst das treibende Motiv,
welches lag der Arbeit H. Nohls in der Volkshochschulbewegung nach seiner Heimkehr in 1918
zu Grund, und die Bildungskritik und das Bildungsschaffen als die wichtigste Aufgabe.
zweitens, hier briDgt d1e Rede auf die sozia1P益dagogische Arbeit H.Nohls, vor allem Jugend一