秋田大学教育学部教育工学研究報告 第20号 1998年
小学校の音楽教科書 における 日本 と西欧
T桂 博幸 ・鈴木 敏朗 * 秋 田大学教育学部
我が国 は明治以来,西洋 と歴史 を共有す ることな く, その物質文明だけを取 り入れて き た・ その結果,今 日の精神的,文化的混乱が もた らされ るようになった.音楽文化や音楽 教育 について も同様 のことが言え,以下 のよ うな問題点が指摘 され る.
1 ) 西洋音楽が, その歴史 を欠 いて 日本 の音楽文化や音楽教育 に取 り入れ られたために, 日本人 の歴史感覚や残存す る生活感情 と締 ま りな く混在 し, 自律す ることがで きない 音楽文化 を産んでいる.
2)
音楽文化や音楽美 は,伝統,生活様式,行動 の形式 などの身体性を基盤 に形象化 さ れ るが,今 日の音楽教育 は, これ らの ことを考慮す ることな く行 なわれている.
3)
音楽教育 は音楽文化 を継承 してい く活動であるが,それについての視点が欠 けてお り,今 にのみ生 きる子 どもに教育 しよ うとしている.
これ らの問題点が,小学校の音楽 の教科書ではどのように考慮 されているかを明 らかに す るために,昭和4 9年度か ら平成 8年度 まで, 2社 の幾っかの年度の教科書 に掲載 された 歌唱曲 と鑑賞曲,めあてなどを調べ,検討 した.
その結果,上記 の問題点を典型的に形象化 した ものが,小学校 の音楽教科書であること が明 らかにな った.
キーワー ド:音楽教科書,身体性の拘束,継承
1.
問題の所在
文化 は, たとえば博物館 に陳列 された数々の中に, 動か しようのない ものとして固定 されて在 るものな のだろうか.美 は, た とえば美術館に飾 られた作品, 演奏会場で奏 され, あるいは
CDに閉 じ込 め られた 西欧音楽の古典 の中に,最早疑 いようのない もの と して初 めか ら在 るものなのだろうか. もしそ うであ るな ら,文化 も美 も, 自分 にとってまった く無縁 の ものであると言 う他 ない. それ らの自分の生 にもた らす ものが,喜 びであるのか, あるいは充足 退屈, 嫌悪,煩わ しさなどであるのか は, 自分のその時々
1998年1
月
20日受理千TheWe s tandJapanl nt heMus i cTe xt booksof t heEl e me nt ar ySc hool
* Hi r oaklKATS URAandTos hl aklSuz uKI ,Col l e ge ofEduc at i on,Akl t aUni v e r s l t y,Akl t a
の状態 によって目ま ぐる しく変転す るか らである.
西欧音楽であれば,時に自分が驚 くほど日本人で あることに力み返 り, そ こに馨陶 しさ,煩 さばか り ではな く,忌避,嫌悪,憎 しみをす ら感ず ることが ある.それに も拘 らず,時には信 じ軌 、ほどの美を 感 じ, 己の中にあ った逃れようのない西欧をあっけ にとられて見つめているといった具合である.我が 国の音楽 について も,事情 は変 らない.均せば,氏 謡 も邦楽 も西欧音楽 より愛好 してはいるのだが, そ の時々の状態 によって西欧音楽 と同様, 日本人を意 識 している時 に惹かれ,西欧を見つめている時に退 屈 した りしていることに気付 く.文化 は,美 は,過 去の営みの結果 に固定 されて確固 としてあるものな のか. こうした疑 いを抱 いたのは,新 しいことで は ない ( 鈴木
,1969,1973).以来, 解決 の 目途 の立 たぬままそれに悩 まされて きた.
多 くの人 にとっては, これ はバカバカ しい問題か
も知れぬ.文化や美が,過去 の遺物や作品の中に閉 ざされて在 る筈 はないか らであ る. しか し,歌唱教 材 、 \ ぉぼろ月夜′ ′の指 導 (岡, 1
989)は, ま さに ( 文化的,美的)価値 を教材 の中 に固定 されて あ る もの と見ている例であ り, このよ うな指導 は,教育 の世界 に溢 れてい ると言 って よいほどに広 く行 われ てい る ( 桂,鈴木,1
993).そ う した現状 に も拘 らず他方 には,子供 たちの様式 とも型 とも無関係 な何 の技術 も伴 わぬ行為 に,無限 と言 って もよいはどの ( 文化的,美的) 価値 を認 めて しま う指導 ( 松本 , 山本,1
985)も少 な くないのであ る. 『今 日の音 楽 教育 が忘 れているもの』 ( 桂,鈴木, 1
994)は, 学 校 の音楽教育 が, この問題 にまった く悩 む こと無 く 行 われている不思議 さを指摘 した ものであ る,
ここか ら次 の二つの問が生ず る.
a
( 文化的, 美 的) 価値 は作 品 にあ るのか, そ れ とも人 の行為 の内にあ るのか
b
前者 で あれ ば それ は どの よ うな作 品 で あ るの か, もし後者 な らそれ はどのよ うな行為 なのか
様 々な民族が,広 く文明化 された世界 の中の各所 で,今 もなお愛好 しているそれぞれの民族音楽 につ いて考 えをめ ぐらすな ら, この間 に答 え ることは容 易 な ことで はな い. それ ら一 つ一 つ の民 族音 楽 に ( 文化的,美的)価値 はあるのか. で は, それ ぞれ の民族が歌 い,踊 り,奏す るその行為 に ( 文化 的, 美的)価値 はあ るのか.答 えが どち らで あ って も, 恐 らく自分 には, その どち らか らも ( 文化的,美的) 価値 を感 じ取 ることがで きないであろうことが,はっ
きりと予想 で きるか らであ る. それ らの多 くは,珍 しい ものに対す る好奇心 の対象 に しかな らないであ ろ う. そ うであるのに,西欧音 楽 の あ る もの に は, 時 に抗 い難 い魅力 を感 じるのであ る.一度 も西欧 の 歴史 に参画 した ことがな く, ま してやその様式,形 式,技術 を産み出す苦 しみの経験 な どした ことがな いに も拘 らずであ る.
そ うであるな ら,西欧音楽 に限 ってその作品群 に は,初 めか ら ( 文化 的,美的)価値 が内在 してい る と言 うのであろ うか.我 々の歴史 も文化 も, そ うし た音楽 を産 み出 した西欧 とは無関係 である. それな らば様 々な民族音楽 同様,我 々にとって,我 々自身 の文化,生活 が好奇心、 の対象 とな らざるを得 ないで はないか. そ して 自分が この ことを思 う時, 自分 自 身 の中に抜 きがた く存在す る西欧を拒否 し嫌悪す る ように,西欧の音楽 を嫌悪 し,拒否 していることに
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気付 く.我 が国 の音楽教育 は, どこと対比す ること も, どこを真似 ること も必要 のない,我が国の人 々 の坐 の, ( 感覚 的快以上 の ものによ る) 充足 を 目指 す,我が国 自身 の音楽教育 であろ う. そ うであ りな が ら現在 の音楽状況 は,我 々の中 に否定 しよ うもな く西欧があ り,無意識 の内 に西欧 と対比 しているこ とをはっきりと物語 ってい る.価値 は作品 にあ るの か,行為 にあ るのかの混乱 を産 む要因の大 きな一つ が, ここにあるので はないか.
こうした問題意識 は,抱 き続 けて来たにして も我々 には大 き過 ぎる.今 の我 が国 の文化が 自分 たち白身 の歴史 の所産であ り, それを産 み出 した労苦 もまた 自分 たちの ものであるな ら,確か に ( 文化的,美的) 価値 は日々の行為 自体 の中にあると領 けよ う. その 中に安住 し,行為 す ることで,生 の意味を 自足す る こともで きるであろ う. しか し, それを産 み出 した 歴史 に も参画せず, その様式,形式,技術 を産 み出 す労苦 も経験せぬ文化 の, しか もそ の精華 だ けを, 作品 として, あ るいはその複製 として受 け取 ってな お, それ に美 を感 じて しま うのである. そ うだ と し た ら,文化 や美が,確 として過去 の遣物 の内にあ る のか, それ とも日々の行為 の内に形象化 され るもの なのかの混乱 が生 じて も当然で はないか.
そ して この混乱 は,音楽 のみに止 まるもので はな い. それ は生活全般 にまで及 び, そ こか ら日々の行 為 の意味を剥奪 してい くことに もな るのである. つ ま り文化 的 に も, 自律 し得 な くな るのである.宮台
(1997)の 「終 わ りな き日常」 とい う物 言 いが, 彼 自身 の混乱 によ ってその ことを如実 に示 して い る.
日常 が終 わ りな きものであ るのは当然であ り,世代 を越 えて終 わ りな く続 くもので な けれ ばな らな い.
美 の基盤 も,生 の充足 も, その 日常を拘束す る伝統, 様式,形式 の中 に こそ,有 る もので はないか.
問題が我 々の手 に余 って当然で あ ろ う. しか し, 問題 が 日々の生活 にまで及ぶ可能性 があるのであれ ば,解決 のために微力 を尽 くす ことが,問題意識 を 抱 いた者 の責務 であ るとも思 え る. それには,検討 の対象 を絞 る必要 が ある.音楽教育 が, 日々の生活 に美 と充実 を もた らす ものでなければな らないの は 当然であろ う.そ してその音楽教育 は,教科書 によっ て行 われている. そ うであ るな ら,焦点 を この音楽 教科書 にあて, それを上記 の問題意識 によって検討 してみ ることも,解決 の一助 にな るので はな いか.
これが本論 で検討 しよ うとす る問題点であ る.
秋 田大学教 育学部教育工学研究報告
2.日 的
美 は,評価 されて初 めて在 るものである.何が ど れほどの美かは, それを評価す る基準を持 たねば定 まるもので はない.文化 の自律 とは,基準を も含め たその全体 の自律である筈であ り, それによって 自 足す ること無 くして,人 の生 の充実があ り得 るとは 考え られぬではないか.音楽 の教科書 は,少 な くと もその自足のための手掛か りを与えるものでなけれ ばな らぬ筈であ り,教材 の選択 も,配列 も, その目 的に適 うものでなければな らぬ筈である.
本論では,小学校全学年の音楽教科書を,代表的 な
2つの出版社か ら時代を隔てて選 び,それを様 々 な側面か ら検討す ることで,上記 の点がどのように 考慮 されているかを探 ろうとす る. 問題 が大 き く, 深刻で もあ り, この小 さな検討では羊頭を懸 げて狗 肉を売 ることになるであろうことは,既 に して分か り切 った ことか も知れない. しか し,われわれの も う一つの, そ してよ り大 きな目的は,多 くの先学か らご教示 を受 けたいということである.本論の勇の 目的は, この願 いであるのか も知れない.
3 .和魂洋才
我が国 は,西欧の機械文明による武力 と, 自我拡 張の途轍 もない欲望 とに脅え,大慌てで西欧を取 り 入れようとして来た. しか し,西欧の全ての取得 を 意図 したわけではない. また,意図 して もで きるこ とで はなか った.我 々には,西欧の血生臭 い歴史の 共有 など不可能 なのである. それは,今 もなお少 し も変 っていない.取 り入れを企図 したのは,西欧の 歴史が産み出 した産物 のほんの一部で しかない機械 文明のみであ り, それによって富国強兵を図 りつつ, 自身の歴史 は和魂 と して温存 しよ うと したので あ る.
それはある時期 までは,可能であるかのように錯 覚 し得 たのではないか.少な くとも日清, 日露 の戦 役 まではそ う錯覚 し得 たように我々には思 える. け れども歴史 も, その産物 たる文化 も, その実体 は因 習を も含んだ伝統であ り,生活 の様式であ り,行動 の形式であ り,それ らは,身体性 ( 鈴木 林,篠田,
1994,1995,1996,1997)を媒介 に してのみ,命の 継続が可能 な ものなのである.他方文 明 は, ( 公 ‑ 管理 ‑保障) の拡大進展 のための仕組 み, 技術 で あ り ( 柿,篠田,鈴木
,1998,投稿 中), 明治 の 日 本 は,西欧 の独善 的 自我 が この文 明を手 に彼等 の
( 公)を拡大 せん と したその欲望 に脅 えたので あ る.
こうして我 々の受容系 ( 柿,篠 田, 鈴木
,1998, 投稿中) は,西欧を向かざるを得な くな り,相変わ
らず幾分 か は反応系 を拘束 し続 ける我 が国 の歴史 は,必然的に西欧の文明 と対立す ることとな ったの である. この文明が,我が国の文化を蚕食す ること 無 しに進展す ることが不可能であることは明 らかで あ り,否応 な く今 日まで,我が国の文化 を崩壊 させ 続 けて きたのである.和魂洋才の意図 は, こうして 空 しく潰えたわけである. その代わ りに宿 った もの が歴史 を欠 いた西欧であ り, これのす る悪戯が,義 初 に述べた西欧の極端 な理想化 と極端な排斥 との間 の動揺なのであろう. こうして我 々の身体性 は,香 定 しような く残 された 日本 と,崩壊 した 日本 の代替 たる歴史を欠 いた西欧 とが締 まり無 く混在する文化 この何の拘束力 も持たぬ文化に委ね られることになっ た, と言えるので はないか.
教科書 にもそれが現れているとす るな ら,将来 と ち, この混迷 を抜 け出す希望 は薄 いということにな る. これが,検討すべ き第‑点である.
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.美の形象化
文化 の自律が, 日々の生活の現れを評価す る基準 を内に持っ ことであるな ら,人 にとって己の生の充 足を可能 にす るの も, それを評価す る基準を己の内 に持 ち,生 の意味を自足す ることで あ る筈 で あ る.
我が国の音楽活動 のほとん ど全てが,その基準を西
欧か ら借用 し,西欧 との対比 の中で しかその意味を
見つけ られぬ ものであることは,今更言 うまで もな
いことであろ う.
TVの音楽 は,例外的な日の例外
的な時間を除 き,終 日西欧風のそれで埋 め られてい
るとい う事実が, その ことをはっきりと物語 ってい
る. これでは人が,謂 われの判明せぬ欲求不満 に苛
まれ るのは当然ではないか. しか もこの不満 は, そ
の原因か らして解消す ることは不可能であり,せめ
て正義 の仮面 をかぶせ,文明の成果か らより多 くの
分 け前を奪 うことで満 たされ ると錯覚す るよ り他 な
い もので もある. しか し,分 け前が等量 になる,上
辺 の意味で平等 になるなど,未来永劫有 り得 ぬこと
は明 らかである.文明が社会を平板化すればす るほ
ど, 自然の不公平 は形 を変えて顕在化 し,不平等感
は一層募 ることになる.人が進歩 を唯一 の価値 と信
じ続 けるのは, この他 には救 いを見出す ことがで き
ぬか らで はないのか.
己の生 は, 自足 に依 る他 その充足 は望 めない もの なので ある. そ して, それを実現す るためには,秤 価 の基準 を自 らの内に持っ ことを可能 にす る独 自な 領域が存在せねばな らない. そのそれぞれの領域 に 価値 を与 え るものは,現実 の世界 に対す る身体性 の 活動 を想定 した観念であ り, そ うした活動,行為 を 想定 した観念 を産 出す る土台が歴史であ り,文化で あるのだ. その歴史,文化 の実体 は,既 に述 べたよ うに伝統であ り,生活 の様式, 行動 の形 式 で あ り, 言 い過 ぎを覚悟す るな ら, それ ら全て は身体性 に対 す る拘束 と して現実化 す るものなのであ る. そ うで あ るか らこそ,観念 が空論 に陥 らずなお理想で もあ ることが可能 なのである.
美 を具体的な形象 とす ることを可 能 にす るの も, それ ら身体性 を拘束す る伝統 であ り,様式,形式で あ り, そ うした拘束 に美 を見 出せぬ限 り,美 の形象 化 な ど有 り得 ないのである.前項 に述 べ た よ うに, 西欧文明の受容 は, そ う した拘 束 の体系 を蚕 食 し, 今 日の締 ま りのない文化 を もた らした.身体性 を拘 束す る何物 も無 ければ,行為 の全て は相対化せ ざる を得ず,創造的音楽活動 ( 松本, 山本,1
985)な るその場限 りの無秩序 な行為 に,創造 の名 と無限の価 値 を与 え る主張が出現す るの も必然 とい うことにな る. こうして全 ての行為 が美 の現実化 に無効 とな り, その結果,受容す ら懇意 に任 され ることになる.
教科書 が,何等身体性 を拘束す る伝統,様式,形 式 を求 めないな ら,人 は,今後 とも己の生 の自足が 叶わず, なお も欲求不満 に苛 まれ続 けなければな ら ぬ ことにな る. これが,検討すべ き第二点 とな る.
5.生 きた伝統
音楽教育 と,地球上 における人類生存環境 の問題 とは, ま った くの無関係であ ると思 え るか も知 れな い. しか し今 の音楽教育が,過去 か ら未来へ と音楽 を受 け渡 してい く活動 なのだ と考 え るな ら,両者 は 決 して無関係で はない.
環境問題 につ いて は,環境 ホルモ ンによ って巻 き 貝が全滅 の危機 に瀕す るよ うな事態 にな って も,状 況 は,相変 わ らず高 を括 っているとしか思 われない ( 柿,篠 田,鈴木,1
998,投稿中) . この原因の一つ に,人 は, その心理的環境 ( 鈴木
, 1998, 投稿 中) に,空間軸 と時間軸 とを統合す ることが困難 だ とい うことが上 げ られ るので はないか. その統合 は, 四
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次元 の世界 を もた らす, 四次元 を形象 に描 こうとす れば, そ こに形象 な らざる意味が生 じて しま う.覗 快 な空間的形象 に比 して,意味の印象 は薄い.結局, 時間軸 は心理的環境 において希薄化する他な くなる.
こうして時間軸 を希薄化 させ,多 くの人 は,今 だけ を生 きてい くことにな る. この己の生 の続 く問だ け を生 きていることが,環境問題 に高 を括 らせている よ うに思 え るのだ. これか ら生 まれて くる人 々,未 来 の人 々, そ うした今 は存在 しない人 々 とも共 に生 きることな くして,環境問題 を切実 に捉 らえ ること は不可能 であろ う.
過去 の無 い者 に,未来 は有 り得 ないのだ.未来 の 人 々 と共 に在 るためには,先ず,既 に亡 き人 々 と共 に在 ることがで きね ばな らない. この,死者 と共 に 在 ること, そ して末だ存在せぬ人々と共 に在 ること,
この ことが生 きた伝統 なのであ る.父祖 の歌 を既 に 亡 き死者 たち と共 に歌 うことな くして, どうして未 来 の人 々が今 の我 々 と共 に歌 って呉 れよ う.未来 の 人 々が我 々 と共 に歌 って呉 れ ることを信 じられぬ と き,今 はまだ存在せ ぬその人 々 と共 に在 ることがで きるとは思 えないのであ る.我 々が父母,祖父母 と 共 に歌 わねば,子孫 たち も決 して我 々 と共 には歌 う まい.
私 たちに とっての歴史 とは,父母,祖父母 の歌 を 共 に歌 い,彼 らがそのまた父母,祖父母 と歌 ったで あろ う歌 を も,死者 たち と共 に歌 うことであ り, そ して我 が子 が,孫 が,子孫 たちが,私 たちの歌 を共 に歌 って呉 れ ると信 ず ることであ る.筆者の 1人 は, 大戦中,盲 目の祖母 の手 を引いて空襲 の業火 の中を 逃 げ惑 った.道 々には多 くの死体が横たわっていた.
戦後大川 には,多 くの焼死体 が長 くそのままであ っ た.祖母 も,母 も,我 が家で息 を引 き取 った.寝棺 を作 らねばな らな くな った ことか ら,多 くの変死体 に も出会 った.死者 は,我 が家 を離 れ るまで身近 な ものであ った. こう した個人的経験 だ けが,死者 と 共 にある実感 を抱 かせ るのであろ うか. もしそ うで あ るな ら,環境問題 は,破滅 に至 るまで解決不能 だ とい うことにな るので はないか.
歴史 に敬意 を払 うことは死者 たちを尊重す ること であ り ( チ ェスタ トン
,1908), 我 々が死者 た ちを 傷つ け, 冒涜 し,排除 した時,す ぐ次 の世代が,未 だ死者 な らぬ我 々を も,我 々が傷つ けた死者 と同様 に看倣 し,傷っ け,排除す るか も知 れ ぬ, 近 年 の, 如何 な る拘束 も存在 しないかの如 き少年少女 の振 る
秋 田大学教育学部教育工学研究報告
舞 い ( おや C,おばん狩,窃盗,恐喝,殺人,売春) は,そ うした必然の結果であるか も知れない.
今の音楽教育 が忘 れて い る ものにつ いて論 じた ( 桂,鈴木,1
994)中で, その1つ に父祖 の歌 を受 け継 ぐことを上 げた.教科書では, これが実現 して いるのだろうか. これが,検討 しようとす る第三点 である.
6.音楽文化の混乱
本項以下では
,2つの主要 な出版社の音楽教科書 の内,小学校 の 1年生か ら
6年生 までの ものを,二 十数年前か ら現在 まで数点選 び, そこに示 された内 容や曲 目か ら,第
3‑ 5項で述べた問題点 を検討 し ようとす る.
教育芸術社 の ものについては,昭和51 年度,5
8年 皮,平成
4年度, 8 年度 の,小学校 1年生〜 6 年生 の音楽教科書 を取上 げた.
教育 出版株式会社 の教科書 については,昭和4
9年 皮,5
2年度,61 年度,6
4年度,平成
4年度, 8 年度 の,小学校
1年生
〜 6年生 の音楽教科書 を取上 げ た.
先ず第
1点 の問題である文化的,精神的混乱を如 実 に示 しているのが,西欧精神の根幹 をなすキ リス ト教 の扱 いである.学校教育 は宗教的に中立である 筈であ り,確かに,仏教, イスラム教 についてはそ れが守 られている.延べ二千曲に達す る歌唱教材 に は,仏教 またはイスラム教 を歌 った ものは,ただの
1曲 も含 まれていない. しか し, キ リス ト教 に関 し ては実 に寛大であ り,明 らかにイエスの生誕を祝 う 賛美歌である 『きよ しこの夜』 は,両社 の教科書 に 繰 り返 し登場す る.厳密 さを緩 めれば
, 1社の もの には 『山のク リスマス』 なる歌 が載 せ られてお り, サ ンタクロースは両社 に, これ も繰 り返 し登場する.
内なる不十分 な西欧を,キ リス ト教の布教で補お う としているかのよ うで さえある.
この問題点 を上 げた項で, 自分の中に否定 し難 い 西欧があるに も拘 らず,その内なる西欧 は, それを 産み出 した歴史 とも背景 となる生活 とも無縁 の もの であ り,他方 には, その西欧を もって して も壊滅 し 得なか った 日本が,歴史 と生活感情を伴 って厳 とし て存在 してお り,今 日の 日本 の文化 は, その締 りの ない混i 肴のなかで混乱 しているのではないか と述べ た.なかよ し行進 曲で はな く 『なか よ しマ ーチ』, 小 さな暦ではな く 『 小 さなカ レンダー
』, 山の描写
ではな く 『山のスケ ッチ
』,音の饗宴 で はな く 『音 のカーニバル』 ( 漢字標記 にはこだわ らない),上 げ てい くと切 りがないのであるが, こう した曲名 に, その混乱がはっきりと示 されているように思えるの である.
さ らに曲名 について言えばその 日本語が,筆者等 には非常 に貧 しい,極言すれば汚 い ものであると感 じられる.『とん とん くるりんぽん くる りん
』, 『と
べ とべぴ ょんぴ ょん』 , 『こぶたぬ きつね こ
』, 『 歌え
パ ンパ ン』 など, なぜ, こうした題名の曲を教材 と しなければな らないのか理解 に苦 しむ. 『しあわせ な らてをたた こう
』, 『たの しくさょうも』, 『ともだ
ちシン ドバ ッ ド
』, 『 花 のメルヘ ン』 , 『ツ ッピンとび
うお
』, 『チラテ ラ粉雪』 などの題名 も , 『 ふるさと』 ,
『 花
』, 『 冬景色』 などに比べて とて も美 しい 日本語 とは言えないと思 うのであるが,如何であろう.
殊 に歌唱教材の選 曲には, この文化の混乱が決定 的に現れているので はないか. たとえ外国起源であ れ,既 にその事実が意識 されない もの は除 いて も, 我が国固有の歌 に比 して外国の歌,殊 に西欧の曲が 圧倒的多数 を占めているのであ る. (日本 :西欧) の比 は,教育芸術社 の教科書で, 1 年生では
(5 :5), 2
年生では
(5:8), 3年生では
(4:ll
),
4年生では
(3 :16), 5年生では
(3 :15), 6年 坐では
(3:13)である.教育 出版社 の もので は,
1年生で
(8:6), 2年生で
(7:ll), 3年生で
(6 :19), 4年生 で
(7 :16), 5年生 で
(7:25), 6
年生
(5 :28)とな って い る. しか も西欧 の歌 は,各年度 の教科書 に繰 り返 し掲載 され るので あるが,我が国固有 の歌 は,わ らべ うたなどを除 く と繰 り返 され ることが少 ない.
問題の所在 において
2つの問いを立てた.音楽教 育 の関係者 はこぞ って," 美的価値 が泰西名 曲の中 に作 り付 け られて るのは当然で はないか′ ′ , と最初 の問いに答えているかのようである.
文化 とは,継承 され るものであろう.中で も音楽
教育 は, その ことを 目的 とした教科である筈ではな
いのか.そ うであるな ら,今 日の締 りのない混清 を
引 き継がせ ることで,子 どもたちの精神 に混乱 まで
を受 け継がせてほな らないであろう.相馬盆唄,花
笠音頭,大漁節,南部牛追 い唄,鯵 ヶ沢甚句,そ し
て我等が秋田の生保 内節 など,小学生 にも歌唱可能
な東北の民謡だけを見 て も,教科書 にある歌 の数 々
に勝 るものが多数 ある.偏狭 な民族主義,滅私 によ
る判断放棄の愛国 はもとよ り望むところではないが, そ うした歌 に教育 の始 めか ら親 しんでおれば,少な
くとも内なる西欧を,幾分かは今 より対象化可能 に なるのではないか. これ ら民謡 に音楽的,教育的意 義が充分過 ぎる程 に存す ることは,既 に詳細 に論 じ ている ( 桂,鈴木,1
992).
我 々は,教材の
1/3はわ らべ うた によ る様 々な 様式,形式 の美 しさを教 え る教材, 1/3は伝統 的 な日本 の音楽 および,近 い父祖 と共 に歌 う歌,残 り を西欧 に偏 らぬ外国の音楽 によって教科書を編成す べ きだ と考えている.わ らべ うたによって音階, リ
ズムの発達的系統性 を考慮 しなが ら,音楽的行動 の 様式,形式的美 による拘束 を意図す る教材の作成が 充分可能であ ることは, これまた既 に充分論 じた こ
とである ( 鈴木,1
986,1987).
7.身体性の欠如
現代が身体性 の欠如 した,少 な くとも極端 に希薄 化 した時代であることは, これまで繰 り返 し論 じて きた ( 篠 田,柿,鈴木,1
993,鈴木,柿,篠田,1
994,
1995,1996,1996,柿,篠田,鈴木, 1
998). そ し て,歴史,文化 の実体が伝統であ り,身体性を拘束 す る生活様式 であ り行動 の形式であることも既 に述 べた.美を感受す るのは,対象を形象化 し得た時で あ り, それを実現するのもまた形象化することによっ てである.美 を観念 の中で のみ考 え る者 は, ただ ( 美) とい う言葉 をめ ぐって空論 に耽 っているに過 ぎないであろう. それは他者 に何等 の作用 もせず, 具体的に継承 され ることもない ものである.少 な く
とも音楽 は, ( 既 に亡 き人 も,未 だ生 まれぬ人 も含 む)人 と人の間で相互 に作用す るものであ り, この ことは形象化が有 って初めて可能であるのは,言 う まで もない ことである.
感受す るにせ よ実現す るにせ よこの形象化 は,身 体性を拘束す る伝統,様式,形式無 しには不可能で ある.そ して,形象化無 しには凡ゆ る行為が相対化 せざるを得ず,その何 の基準 も持たぬ相対的世界 に は,美的価値 はおろか,他のいかなる価値 も存在す ることがで きない. た とえ理論であって も, その構 築 に何程か現実 における行為を想定せぬ限 り,ただ の空論 に陥 る他ない.音楽教育 は, こうした身体性 に及ぶ伝統,様式,形式 の継承 と無関係で はあ り得 ない筈であ る. そ して,その ことは当然教科書 に も 反映 していなければな らないであろう.
58
しか し 「めあて」 なる,単独で用い られた場合 に 我 々には相当な違和感を感 じさせ る語 によってまと め られた項 目に,上記の配慮があるとはまった く感 じられない ( た とえば (あて)がある, ない, とい う言 い方 の (あて) を単独で用 いた場合 には,違和 感 が感 じられないだ ろ うか)
.「リズムにの って」
「 気持 ちを こめて
」「曲の特徴
」「 様子を思 い浮べて」
「 楽器 と仲良 し
」「 歌 って遊んで
」「 身振 りを付 けて」
「 動物 と仲良 し
」「 虫 と仲良 し
」「 身振 りの工夫
」「 節 の感 じ
」「 弾むよ リズム
」「ドレミと仲良 し」 などの
「めあて」なるものに, どれ程の伝統, 様式, 形式 の継承が意図 されているのであろう. しか も, それ らの言葉 は,教育 の中で初 めて出会 う日本語 として は,百歩譲 って も美 しいとは言 い難いものであると, 我 々に感 じられ る.
はっきりとした発音 と静かな声, 安定 した速度, 立 ち居振舞 の形式, 他者 と協調 す るための振 る舞
い, 日本語の美 しい歌 い方,柏の応答, リズムの応 答,音程の協調,行為 としての美 しい表情,我 々は こうした ことを こそ目標 とすべ きだ と考える. こと に特徴的なのは,懇意的な ものを含めて生徒の行動 を限 りな く肯定 し,音刺激 に対 して何の束縛 も無 い 反応です ら, その促進を図ろうとしているかに思 わ れ る点であ る. 時空 間 を統合 した行動環境 の誘導 ( 相良,1
947)に従 って,時間的行動形態 と空 間的行動形態 の時空一体 の行動表現を考 え る時 ( 長崎, 鈴木,1
997),情動が相当に優勢 で あ り (間) を取
ることの苦手 な子供たちには,反応 の促進 より ( 待 つ こと) ( 間を取 ること) など,即座 の行動 を抑制 す ることで身体を拘束す る教育 こそが重要 になるの で はないか.
これでは,音楽関係者や音楽教育関係者が, あ ら ゆる歴史的拘束を排除す ることで全ての行動を相対 化 し,時に無秩序な行動 に限 りない価値 を与 えなが ら, 口を揃えで ' 美 を形象化す る基盤 が 日常 にお け る行動 などであるわけがない", と問題 の所在 にお ける第
2の問いに答えているかのようである.
我々が身体性 を意識す るのは, それに対す る拘束 によってであ り, その身体性 の意識 な しには,現実 に対す る行動 を予測 した行動環境 の統合 は叶わぬ も のである.最近,感情の暴発 を制御で きぬ子供が問 題 とな っているが,教育す る側がそ うした拘束を嫌 い,心理的状態のまま何の拘束 も無 しにす る反応を 促進 しよ うとす ることが, その大 きな原因にな って
秋 田大学教育学部教育工学研究報告
いるか も知れぬ とは考 えないのだろ うか.
8.
今 だけを生 きる
個人 的経験 を も含 めて,死者 と共 に在 ることの重 要性 を論 じたのが第
5項 であ る.既 に居 な くな った 者,現在存在 しない者 と共 に在 ることな どで きるこ とで はない, とい うのが ごく普通の考え方であろう.
しか しそ うで あ るな ら,末 だ生 まれて いな い人 々, 3 年後 ,30 年後 ,300 年後 に生 まれ て くるで あ ろ う 人 々 とも,共 にあることはで きぬ ことになろ う.前 項でな したの は,今 この瞬間の心理的状態 を,無拘 束 に発散す ることをよ しと しているか に思 われ る音 楽教育 の批判 であ った.考 えてみれば,今生 きてい る者 と しか共 にあることがで きぬのであれば,つ ま るところは,今共 に在 るもの と しか共 に在 る ことが で きぬ とい うことに もなろ う.今共 に在 るものはそ の時々の意味 しか持 たぬ故 に, 己以外 の何物 を も考 慮 しない振 る舞 いを抑制す るものは皆無 とな る.携 帯電請, ポケ ッ トベルなど,生身 の接触 を忌避 して いると しか思 えぬ機器 の普及が, この こととまった
く無関係 だ とは思 えぬのである.
音楽教育 には, あたか も今 の この瞬間 しか存在 し ないかのよ うである. そ して, その ことを非常 によ
く示 しているのが,掲載 され る曲の寿命 である.
表 1 は,教育芸術社 の,昭和 51 ,5 8 年度,平成 4 ,
8年度 の,小学校 1年生
〜 6年生 の音楽教科書 に掲 載 された教材 につ いての ものである.
表
1
教育芸術社の小学校音楽教科書1年生】2年生 3 年生 4 年生 5 年生 6 年生
延べ曲数 1 41 1 2 2 1 2 6 1 2 8 1 1 9
j 1 1 21冊平均 p i 3 5 31 3 2 ㌔ 3 2
30! 2
8』掲載平均
2.01 . 9 1 . 6 2. 3 i 1 . 6 ㌔ 1 . 6 1回掲載 F 3 3 3 2 4 9 J 4 8 4 9 】 4 2 f2 回掲載 1 2 0 1 4 F 1 3 1 8 1 0 ∃ 1 5
3 回掲載 8 F l o 9 ≠ 8 1 0 8
;表 2 は,教育 出版株式会社 の,昭和 49, 52, 6 1, 6 4 年度,平成 4, 8 年度 の,小学校 1年生 〜 6 年生 の音楽教科書 の ものであ る.
表
2
教育出版社株式会社の小学校音楽教科書』1 年生 12 年生 13 年生 14 年生 5 年生 6 年生 延べ曲数 2 01 j2 0 5 ・21 9 2 0 8 【1 8 9 ま
179庵 曲 数 き1 0 2 1 0 6 1 2 3 い 2 8 51 1 6 1 1 2
!1 回掲載 5 7 5 7 F 6 5 j 8 2 7 2 7 0 2 回掲載 21 2 3 4 0 2 9 弓 31 3 2 鳥 回掲載 8 l l 7 7 4 3 4 回掲載 9 7 8 】 5 6 5 2 鳥 回掲載
∃2 4 3 1 1 1 】 2
延べ曲数 は
, 1点毎 に集録 されている曲数 の全 て を合計 した ものであ る.
総曲数 は, 同 じ曲が複数 の年度 にわた って掲載 さ れている場合 に, それを
1と数 えた曲 目数であ る.
1
冊平均 は,各学年 の教科書 に掲載 されている平 均 曲数である.
掲載平均 は
, 1つの曲が年度 をまたいで何回出現 す るかの平均であ る.教育芸術社 について は,母数 は
4つの年度 の教科書 を取上 げているので
4であ り, 教育 出版社株式会社 で は
6になる.
1
回掲載 は, あ る年度 の教科書 に限 って
1回だ け 掲載 された曲 目の数 であ る.
2‑ 6 回掲載 も同様,幾つかの年度 にわた って掲 載 された場合 の, それぞれの曲数 である.
本来音楽教科書 とは,毎年 の掲載教材 が ほとん ど 同 じであるべ きであろ う. で きるな ら,前年度,前 前年度 の教科書 によ って も,授業 の可能 であ ること が望 ま しい. これ はま った くの想像 であ るが,父祖 の代 か ら教科書 にほとん ど変更が無 いな ら, それを 媒介 に しての世代 を越 えた交流 も豊か になる筈で は ないか. それが
, 1年毎,本論での最短間隔 は
3年 であ るが, それ毎 に掲載 曲が変 ったので は,数年 を 経 ただけで, もう前 の世代 は共 に在 る人 々で は無 く
な るとい うことである.
こうした曲 目の激変 は,今流行 りの歌 を取 り入 れ
て通俗的感性 に迎合す る, あるいはただ曲 目を変 え
ることで旧年 の教科書 を無効 にす る,情報産業 に追
随す るな どの,教科書 を売 らんがための商策であ る
のか も知れない. およそある年度 に
1回 しか現れぬ
教材が,総 曲 目の半分 を越 え るな どとい うのは,許 容 の範囲を越 えた非常識 と しか思 え ぬか らで あ る.
その上
, 2回だけ掲載 された ものを合 わせれば,紘 曲 目の ほとん ど全て にな って しま うのである. しか もこの表 に示 した数字 は,共通教材 を も含んだ もの なのである.
ほんの数年で曲 目を激変 させ て い る この ことは, 音楽教育 に関わ るものが,今 だ けを しか生 きていな い ことの,何 よ りの証拠 であ るよ うに思 え る.地球 における人類 の生活環境 の問題 は,後 の世代 と共 に 在 ること無 くして は解決 の能 わぬ ものであろ う. こ の教科書 か らは,絶望 しか生 まれて こない.
9
.鑑賞教材
表3
両社の教科書の鑑賞教材
延 べ 曲 数 t 1 59
:2 49 …
…総 曲 数 93
118 ;≒2 回 掲 載 1 7 38
!5 回 掲 載 3
表
3に掲 げたのは,歌唱教材 と同様 の方法で鑑賞 教材 を分析 した ものである.共通教材 を含んでの数 値であ ることも,歌唱教材 と同 じであ る.
鑑賞教材 の最大 の問題点 は, そのほとん ど全 てが 泰西名 曲, あるいは名曲 とは言 い難 い もの ( 優 れた 作 曲家 の代表的曲で あるとは言 い難 い曲) によって 占め られてい ることであ る.我 が国固有 の音楽 は, 教育芸術社 の場合で延べ
9曲,曲数 に して
6曲であ
り, どち らも全体 の 1割 に も満 たない.教育 出版社 株式会社 の場合 は, それよ りは幾分多 いが, それで も延べ に して も曲数 に して も
1割 であ る. それ に引 き換 え ドイツ, オース トリアの ものは,前者で延べ 46 曲, 曲数 23 曲,後者で延べ 77 曲, 曲数 30 曲に及ん でいる.
60
これ らの教科書 は, 日本人 の音楽教育 のための も のであろ う. それ に も拘 らず,教育芸術社 で は ドイ ツ, オース トリアの曲が我が国 固有 の音 楽 の
5倍 , それ よ り少 ない とはいえ教育 出版社 株式 会社 で は, およそ
3倍 である. しか もこの数値 は,純粋 に ドイ ツ, オース トリアの作品以外 は全 て除 いての もので あ る. その除いた
1つ の国のアメ リカ合衆国の曲か らで さえ,前者 12 曲,後者 13 曲 と,我 が国の伝統音 楽 よ り多 くの鑑賞曲を指定 しているのであ る. さ ら に,採用 されている西欧 の曲の多 くが名 曲 とは呼 び 難 い ものであること, どうい うわけか 『きよ しこの 夜』 が含 まれている ことな どに至 って は, どうに も 理解 に苦 しむ選 曲で あ る.
年間数曲の鑑賞教材であれば, その大半 が我 が国 固有 の音楽 または, それに基づ く作品で 占め られて 当然 だ と思 うので あ るが, どうで あ ろ うか. 声 明, 長唄,舵,三曲合奏 な どを排除 した理 由が どうして
も理解で きないのであ る.子供等 のそれ らを受 け入 れ る感性 の有無 な ど,問題 で はない, た とえ感性が 拒否 しよ うとも, それ らは我 々の歴史であ り,我 々
自身 なのであ る.
また
, 1回 しか現 れない教材が全曲数 の半分以上 を占めているの も,歌唱教材同様 であ り,年度が変 ると子供 たちは別 の音楽 を聞か され るわ けで あ る.
鑑賞教材 において も,今 だ けに しか生 きることを考 えていない音楽教育関係者 の実態が,如実 に現れて いると言 えよ う.
前項 および本項で見 た状況 は, ま った く不思議 な ことである.今 だけを生 きるのであれば,今 を生 き る者 の行為 に こそあ らゆ る価値 の源 がなければな る まい.過去 の歴史 と も未来 の歴史 とも縁 を切 り, そ れを無視 す るだけで はな く否定 まで して今 だ けを生 きているのに,今生 きる者 の行為 に も,作 り出す も のに も美 のかけ らす ら見 よ うとは しない. それ に も 拘 らず,西欧の歴史 的所産である泰西名 曲 には,始 めか ら美が作 り付 け られ,固定 されてい ると主張す るのである. しか も,我 々の歴史 を無視 したの と同 様,西欧 の歴史,文化,つ ま り因習をも含んだ伝統, 生活 の様式,様 々な行動 の形式 とは無関係 に, であ
る.
これ まで見て きた限 りで は, こうした精神 の混乱 を典型的 に形象化 した ものが,小学校 の音楽教科書 で あ った, と結論せ ざるを得 ない.
秋 田大学教育学部教育工学研究報告
10.
結 びに代 え て
問題 自体 が, そ もそ も我 々の手 に負 え る もので は なか ったのか も知 れな い.充分 に論 じつ くした とは とて も思 えないか らで あ る. しか し, 西欧 と歴史 的 日本 との間 の文化 的混乱, ま った くの身体性 に対 す る伝統,様式, 形式 的拘束 の欠如,過去 と未来 へ の 歴史 的連続性 へ の配慮 の欠如 な ど, 問題 と した
3点 が,音楽 の教科書 に現 れて い るか も知 れぬ とい う疑 いだ けは, 喚起 し得 た よ うに思 う.
これ らの問題 は,今後 も継続 して検討 して いか な ければ, た とえ
1歩 の前進 も叶わぬ難題 で あ ると思 え る.先学 の ご教示 を是非 と もお願 いす る次第 で あ る.
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SincetheMeijieraJapanhasintroducedthe materialcultureoftheWest,withoutsharing thesamehistory.Thisattitudecreatedconsider‑ ablespiritualandculturalconfusion.Theslmilar confuslOnWasbrollghaboutin thefieldofthe musiccultureand themusiceducation,andas aresu
l t
,produced severalproblemsmentioned below.1
)AstheWesternmllSichasbeenintroduced intotheJapanesemusiccultureandthemusIC educationexclusiveoftheWestern history,the Westernmusicco‑existschaoticalywithJapanese historicalsenseandthesurvivlng Japaneselife sense,developlngthemusicculturethatwasnot autonomous.2)Themusiccultureandthesenseforbeauty ofmusicareshaped,basedonthephysicalsense forthetraditions,thelifestylesandtheforms ofbehaviours.However,thecontemporarymusic educatorsdo notrecognlZetheimportanceof thesevalues.
3)Althoughmusiccultureshouldbeinherited bythemusiceducation,musiceducatorslackthis pointofview nurturing thechildren who live onlyforthepresent.
Wehaveexaminedwhatkindsofthecomposi‑ tionsforslnglngandlistenlngappearinthemu‑
sictextbookspublishedbythetworepresentative companiesduringtheperiodbetweenthe1970's and 90'
S
,and investlgated how the problems mentionedabovearereflectedinthemusictext‑ booksoftheelementaryschool .
Ourinvestlgationhasshownthattheabove mentionedproblemsaretypicallyobservedlnthe
musictextbooksoftheelementaryschoo
l .
KeyWords:MusicTexts,PhysicalRestrictions
,
Inheritance(ReceivedJanuary20,1998)
62 秋 田大学教育学部教育工学研究報告