劉師培﹃中国歴史教科書﹄訳注︵四︶一 要旨および凡例一︑本稿は清末の学者劉師培︵一八八四︱一九一九︶が光緒三十一年︵一九〇五︶から翌三十一年︵一九〇六︶にかけて出版した﹃中国歴史教科書﹄第一冊・第五課および第二冊・叙例︑第一課を現代語訳し注釈を加えたものである︒ここでいう﹁中国歴史﹂とは︑漢民族の起源から西周時代まで︑いわゆる﹁孔子登場以前の中国史﹂を範囲としたものであり︑古文︵戦国期の字体︑古文経学派は経学の祖を孔子以前に置いた︒︶経学者であった劉師培の思想に沿った歴史書だといえよう︒本書と比すべき同時代の歴史書としては︑夏曽佑︵一八六三︱一九二四︶﹃最新中学教科書 中国歴史﹄全三冊︵一九〇四︱〇六︶があり︑井澤は︑すでに﹁夏曽佑﹃最新中学教科書 中国歴史﹄訳注︵三︶﹂までを発表している︒今後も両訳注を交互に発表していく予定︒なお本来であれば︑訳注は原著の順序どおりに発表すべきであるが︑本紀要の発行が削減された関係で︑今回以降︑本著において重要である課を内容ごとにまとめて発表することにし︑次々号では第一冊・第六課︑第七課および第二冊・第二課︑第三課の訳注を発表する予定である︒ 二︑﹃中国歴史教科書﹄の本文は﹃劉申叔遺書﹄所収の寧武南氏校版を底本とし︑万仕国校点﹃儀徴劉申叔遺書﹄︵広陵書社︑二〇一四年︶を参看して︑字句の誤りなどを訂正した︒三︑本文と自注とを区別しやすくするために︑本文は太字とし︑本文中に挿入されている著者の自注は原書に従って小字とした︒四︑︹注釈︺では可能な限り本文中の引用文の出典を明らかにし︑それに誤りや不足がある場合︑訂正︑補足を適宜行った︒五︑本文及び注中の﹃ ﹄は書名を示すが︑書名であるか否かの判断が困難な場合︑書名に準ずるものにも使用した︒︵ ︶は訳者によるもので︑術語の解説や意味の補足に用いた︒六︑原文の表記には旧字体︑注における引用文の表記には︑常用漢字体・現代仮名遣いを用いた︒
第一冊
第五課 商代之興亡 商之先世曰契、母曰簡狄、有娀娀氏今青海北︒之女、其父不可考。﹃史
一
劉師培『中国歴史教科書』訳注(四)
井 澤 耕 一
﹃人文コミュニケーション学論集﹄七号︑一-一六頁
© 2021 茨城大学人文社会科学部(人文社会科学部紀要)
井澤 耕一二
記﹄諸書︑皆以契爲帝嚳子︑恐不足信︒﹃詩﹄言﹁天命玄鳥︑降而生商﹂︑卽﹃呂
覽﹄﹁有娀氏女搏燕卵﹂之説︒蓋上古知有母不知有父︑故托言呑燕卵而生︒
至於湯祖帝嚳︑由於得天下後之托詞耳︒契在舜時爲司徒、﹃書﹄堯典︒賜
姓曰子、封於商、卽今商州︒〇﹃史記﹄︒復遷居於蕃。蕃在太華之陽、
今華州︒〇﹃世本﹄︒契卒、子昭明立。﹃史記﹄︒斯時諸侯尚無定封、卽
宅居亦無定、故昭明復遷砥石、今陝州︒昭明子相土、復遷居商丘。
今縣︒〇﹃左傳﹄︒相土三傳至冥、﹃史記﹄︒爲夏司空、死於水。﹃禮記﹄
祭法︒冥子垓立。﹃史記﹄︒垓遷於殷。今衞輝府︒〇﹃竹書紀年﹄︒垓子
微立、亦名上甲︒復遷居於鄴、今大名府︒〇﹃路史﹄︒五傳而至主癸、
﹃史記﹄︒時商復居商丘。主癸卒、子天乙立、是爲成湯。故由契至湯、
共歷十四世。﹃史記﹄︒
湯旣嗣立、復遷於亳、從先王居、﹁先王﹂卽契也︒卽契所封之故也、
﹃書序﹄鄭注︒〇僞孔傳以爲穀熟之亳︑又以﹁從先王居﹂爲帝嚳︑大謬︒故
湯興西方。﹃史記﹄︒
湯聘伊尹於有莘今渭水旁︒之野、﹃孟子﹄︒進之於桀、故尹五就湯、
五就桀。﹃孟子﹄︒卒去夏㊜湯、﹃尚書大傳﹄︒湯立爲相、劉向﹃新序﹄︒
故商國日强。湯乃東觀於洛、﹃尚書﹄雒予命︒〇此湯都關西之證︒繼征葛國。今山西垣曲縣︑非河南寧陵縣之葛郷也︒〇﹃孟子﹄︒復征有洛、﹃逸
周書﹄﹃竹書紀年﹄︒〇卽河南洛水旁國︒南荊。今湖北南境︒〇﹃竹書紀年﹄︒
桀乃囚湯於夏臺、今禹州︒〇﹃史記﹄︒旣而釋之。﹃竹書紀年﹄︒時夏桀
失德、諸侯歸湯、重八譯而來朝者六國、漢南諸侯歸者亦四十國。﹃尚
書大傳﹄︒商乃滅溫、今縣︒取韋、今滑縣︒征顧、今范縣︒征昆吾、今
許州︒〇以上均﹃竹書紀年﹄︒以逼河南之桀都。既而率師伐桀、升自陑陑、 今潼關旁︒與桀戰於鳴條之野、今陳留︒〇書序︒並克昆吾。﹃紀年﹄︒
夏師敗績、書序︒桀奔三。今曹州︒〇﹃紀年﹄︒湯遂從之、遂伐三
、書序︒戰於郕郕。今汶上縣︒〇﹃紀年﹄︒桀南徒、至不齊、不可考︒
民皆往商。﹃逸周書﹄︒湯乃放桀於南巢之歷山、見上︒蓋皆由西東征
也。湯既勝夏、乃踐天子位、﹃史記﹄︒立景亳、今偃師縣︒於河南建爲
帝都、建東亳於商丘、仍西亳於商州、魏源﹃書古微﹄︒皆曰「商邑」。
﹃白虎通﹄︒湯立十三年而崩。﹃史記﹄︒
湯崩、太子太丁未立而卒、其弟外丙立、二年。仲壬立、四年。﹃孟
子﹄趙注︒仲壬旣崩、伊尹立太丁之子太甲。﹃史記﹄︒太甲不明、伊尹
放之於桐、今偃師縣︒〇書序︒伊尹攝行政事。﹃史記﹄︒三年、太甲悔過、聽伊尹之訓己。﹃孟子﹄︒伊尹乃迎太甲、授之政。太甲修德、稱
爲「太宗」。太甲崩、立三十三年︒子沃丁立。沃丁崩、立十九年︒弟
太庚立。太庚崩、立五年︒子小甲立。小甲崩、立十七年︒弟雍己立、
時商衟已衰。雍己崩、立十二年︒弟太戊立。﹃史記﹄︒太戊嚴恭寅畏、
不敢荒寧、﹃書﹄無逸︒故商道復興、號曰「中宗」。太戊崩、子仲丁立。
仲丁遷於。今熒澤縣︒仲丁崩、立九年︒弟外壬立。外壬崩、立十年︒
弟河亶立、遷居於相。今内黃縣︒河亶甲時、商復衰。河亶甲崩、立
九年︒子祖乙立、遷居於邢、今邢臺縣︒〇書序作﹁圮於耿﹂︑字形之訛也︒
殷復興。祖乙崩、立十九年︒子祖辛立。祖辛崩、立十四年︒弟沃甲立。
沃甲崩、立五年︒祖辛之子祖丁立。祖丁崩、立九年︒沃甲之子南庚立、
以上﹃史記﹄︒遷居於奄。當在河北︒○見﹃紀年﹄︒南庚崩、立六年︒祖
丁之子陽甲立。自仲丁廢子、立弟子、諸弟子爭立、比九世亂。及陽
甲崩、立四年︒弟盤庚立、﹃史記﹄︒自奄遷居亳殷、卽景亳︒○﹃紀年﹄︒
劉師培﹃中国歴史教科書﹄訳注︵四︶三 故以「殷」爲國號、﹃書﹄鄭注︒行湯之政、殷衟復興。
盤庚崩、立二十八年︒弟小辛立。小辛崩、立三年︒弟小乙立、殷政
復衰。小乙崩、立十年︒子武丁立。武丁得聖人傅説、故殷衟復興、
號曰「高宗」。武丁崩、立五十九年︒子祖庚立。祖庚崩、立十一年︒
弟祖甲立。﹃史記﹄︒祖甲初譲國於祖庚、﹃書﹄無逸鄭注︒然卽位淫亂、
殷復衰。祖甲崩、立三十三年︒子稟辛立。稟辛崩、立四年︒弟庚丁立。
庚丁崩、立八年︒弟武乙立、復遷居河北、卽相也︒○以上﹃史記﹄︒又遷居於、今淇縣︒〇﹃紀年﹄︒武乙震死、立三十五年︒子文丁立、﹃史
記﹄︒自徒居河北。﹃紀年﹄︒太丁崩、立五十三年︒子帝乙立、﹃史記﹄︒
仍由河北遷、﹃紀年﹄︒時殷政益衰。帝乙崩、立九年︒子辛立、是
爲紂。紂爲不衟、﹃史記﹄︒寵妲己、﹃晋語﹄︒用費仲、惡來、﹃史記﹄︒
殺比干、﹃史記﹄︒九侯、卾侯、﹃禮記﹄明堂位注︒不聽祖尹之言。﹃商書﹄︒
時周室滋大、武王東伐、諸侯皆叛殷。紂距武王於牧野、淇縣︒紂兵
敗走、乃衣寶玉衣、赴火死、殷室遂亡。﹃史記﹄︒
殷代共歷六百餘年。﹃帝王世紀﹄︒武王封紂子武庚、以續殷祀。﹃史
記﹄︒及武庚作亂、成王乃黜殷、命殺武庚、命紂庶兄微子諬代殷後、
書序︒封之於宋。﹃史記﹄︒又封紂諸父箕子﹃書﹄馬注︒於朝鮮而不臣、
﹃史記﹄︒故殷祀未絶。
〔現代語訳〕
商の祖は契 せつといい、その母は簡狄 てき、すなわち有 じゅう娀娀氏 今︵清末︑ 以下同じ︶の青海の北 ︵1︶︒のむすめであるが、一方契の父は考証できな
い。﹃史記﹄などは︑契を︵五帝の一にも挙げられた︶帝嚳 こくの子としている が︑おそらくは信用できない︒﹃毛詩﹄︵商頌・玄鳥篇︶にいう﹁天︑玄鳥
に命じ︑降りて商を生ましむ﹂は︑﹃呂氏春秋﹄︵季夏紀・音発篇︶の﹁有
娀氏の女︑燕卵を搏 う﹂った伝説にほかならない︒思うに︑上古の聖賢の中
には母の存在のみが知られている場合があり
︶2
︵︑それより燕の卵を口に含ん
で出産したという伝説となったのであろう︒湯の祖を帝嚳とする説は︑殷
が天下を平定した後の説にすぎない︒契は舜の時に司徒となり、﹃尚書﹄
堯典篇︒子 しの姓を賜り、商に封じられた。今の商州︵現陝西省商洛市︶
にほかならない︒〇以上﹃史記﹄︵殷本紀︶︒契はふたたび蕃 ばんに居を遷し
たが、蕃は太華山の南にあった。今の華州︵現陝西省渭南市︶︒〇以上
﹃世本﹄︒契が卒すると、子の昭明が即位した。﹃史記﹄︵殷本紀︶︒当
時諸侯にはまだ定まった封地がなく、宅居も定まっていなかった。
そのため昭明はさらに砥 とせき石に遷った。今の陝州︵現河南省三門峡市︶︒
昭明の子、相土の時代には商丘に遷った。今は県︵現河南省商丘市︶︒
〇以上﹃春秋左氏伝﹄︵襄公九年︶︒相土から三代後に冥が即位し、﹃史
記﹄︵殷本紀︶︒夏の司空となったが、黄河で溺死した。﹃礼記﹄祭法篇︒
その後冥の子である垓 がいが即位し、﹃史記﹄︵殷本紀
︶3
︵︶︒垓は殷に遷った。
今の衛輝府︵現河南省衛輝市︶︒〇以上﹃竹書紀年﹄︒垓の子微またの名
を上甲、が即位すると鄴 ぎょうに居を遷し、今の大名府︵現河北省邯鄲市︶︒
〇以上﹃路史﹄︵巻二十六︶︒五代たって主 しゅ癸 きが即位した際には、﹃史記﹄
︵殷本紀︶︒商は再び商丘に居を遷した。主癸が卒すると、子の天乙 いつ
が即位し、彼こそが成湯である。以上契から湯王まで、計十四代で
ある。﹃史記﹄︵殷本紀︶︒
湯が位を継ぐと、亳 はくに遷ったが、そこは先王が居た所であり、﹁先
井澤 耕一四
王﹂とは契である︒契が封ぜられた故地という意味である。︵﹃毛詩正
義﹄商頌・玄鳥篇疏所引の︶書序鄭玄注︒〇︵﹃尚書﹄胤征篇﹁湯始居亳︑
從先王居﹂の︶偽孔安国伝が︑亳を穀熟県︵現河南省商丘市︶にあった亳︑
﹁従先王居﹂の先王を帝嚳と解したのは︑大いに誤っている
︶4
︵︒よって湯は
西方より興ったのである。﹃史記﹄︵殷本紀︶︒
湯は伊 いいん尹を有 ゆうしん莘今の渭 い水 すいの付近︒の野から招聘し、﹃孟子﹄︵万章篇
上︶︒桀に推薦したため、尹は五度湯に仕え、五度桀に仕えたこと
になる。﹃孟子﹄︵告子篇下︶︒彼は最終的に夏を去って湯に赴き、﹃尚
書大伝﹄︵湯誓篇︶︒湯は彼を相に任命して、劉向﹃新序﹄︵刺奢篇︶︒結
果、商国は日々強大となった。湯はそこで東方の(桀がいる)洛陽
に武威を示し、﹃尚書︵中侯︶雒 らく予命﹄︒〇これは湯王の都が関西にあっ た証左であろう︒次いで葛 かつ国を征服し、今の山西省垣 えん曲 きょく県︵現運城市︶
にあり︑河南省寧陵県の葛鄕︵現河南省商丘市︶のことではない︒〇以上﹃孟
子﹄︵梁恵王篇下︶︒また有洛、﹃逸周書﹄︵史記解篇︶︑﹃竹書紀年﹄︒〇河
南省洛水周辺にあった小国のことである︒南荊を征服した。今の湖北省
南境にあった︒〇以上﹃竹書紀年﹄︒桀 けつはそこで湯を夏台に囚らえたが、
今の禹州︵現河南省許昌市︶︒〇以上﹃史記﹄︵夏本紀︶︒しばらくしてそ
れを釈放した。﹃竹書紀年﹄︒時に夏の桀は徳を失い、諸侯は湯に服
属し、八度の重訳を経て来朝したのは六国、漢南の諸侯で帰属した
のも四十国にのぼった。﹃尚書大伝﹄︵湯誓篇︶︒商はそこで温を滅ぼ
し、今は温県︵現河南省焦作市︶︒韋 いを取り、今の滑県︵現河南省安陽市︶︒
顧、今の范県︵現河南省濮陽市︶︒昆吾を征服し、今の許州︵現河南省許
昌市︶︒〇以上はみな﹃竹書紀年﹄︒河南の桀の都に迫った。しばらく して軍を率いて桀を伐ち、陑陑か じら進軍して、今の潼 どう関︵現陝西省渭南
市︶付近︒桀と鳴 めいじょう條の野で戦い、今の陳留︵県 ︶5
︵︶︒〇以上︵﹃尚書﹄伊訓
篇の︶書序︒あわせて昆吾を破った。﹃竹書紀年﹄︒夏の軍が敗れると、︵﹃尚書﹄湯誓篇の︶書序︒桀は三 そう︵?︶に敗走し、今の曹州︵現山 東省菏 かたく沢市︶︒〇以上﹃竹書紀年﹄︒湯はこれを追い、三を伐ち、︵﹃尚 書﹄湯誓篇の︶書序︒郕郕で せい戦った。今の汶 ぶん上県︵現山東省済寧市︶︒〇以 上﹃竹書紀年﹄︒桀は南に逃れ、不 ふせい斉に至ると、地理的位置については
考証ができない︒民は商に服従した。﹃逸周書﹄︵殷祝解篇︶︒湯はそこ
で桀を南巣の歴山に放逐した。同上︒おそらく湯は西から東征した
と思われる。湯が夏に勝利すると、天子の位につき、﹃史記﹄︵夏本
紀︶︒景亳を建てた。今の偃 えん師県︵現河南省偃師市︶︒河南に帝都を置
き、東亳を商丘に、西亳を商州に建てたが、魏源﹃書古微
︶6
︵﹄︒双方と
も「商邑」と呼んだ︒﹃白虎通﹄︵京師篇︶︒湯は即位して十三年で崩
じた。︵南朝宋・裴 はいいん駰︶﹃史記︵集解﹄殷本紀所引の皇甫謐説︶︒ 湯が崩じ、太子の太丁も即位しないまま卒したので、その弟の外 丙 へいが即位した。在位期間は二年。次に仲壬が即位したが、在位期間
は四年であった。﹃孟子﹄︵万章篇下︶趙岐注︒仲壬が崩ずると、伊尹
は太丁の子、太甲を即位させた。﹃史記﹄︵殷本紀︶︒太甲は聡明でな
かったので、伊尹は王を桐 とうに放逐し、今の偃師県︒〇以上︵﹃尚書﹄太
甲篇上の︶書序︒伊尹が摂政となり政治を行った。﹃史記﹄︵殷本紀︶︒
三年が経ち、太甲は過ちを悔いて、伊尹の訓 おしえを聴くようになっ
た。﹃孟子﹄万章篇上︒伊尹はそこで太甲を迎え入れ、政を授けたの
である。太甲は徳ある政治を行ったため、「太宗」と称された。太