跡見学園女子大学国文学科報第二十号(平成四年三月十八日)
﹁ただ﹂の修辞
1 良経歌 一 首 の 形成と享受 1
川平ひとし
はじめに
人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風
藤原良経の︑よく知られた一首の表現を改めて分析し位置づ
けるために︑この作品を殊に印象づけていると考えられる結句
﹁ただ秋の風﹂に見える一語︑﹁ただ﹂のもたらす効果に焦点を
合わせて︑その表現性・修辞性を細読したいと思う︒
ところで︑右の良経歌の﹁ただ﹂に留意するという観点は早
くより見られ︑中世から近世に至るこの歌の長い享受史におい
ヘへては︑﹁ただ秋の風﹂の﹁ただ﹂の含みもつ甚深微妙なあやを賞
揚するのが一つの習いですらあった︒たとえば心敬﹃さ﹀めご
と﹄(草案本)に云う︑ 此のたゴの二字は︑昔より玄妙不可説のことに侍るとかや︒
は︑そうした観点を承けた言説であろう︒確かに︑人影の無い
不破の関屋の︑荒廃した板庇に吹く秋風の情景は︑﹁ただ秋の風﹂
によって一層鮮明となる︒まことに﹁ただ﹂は﹁秋の風﹂の肅
殺の気配を際立たせる役目を果してさえいる︒私たちも中世の
人々とともに︑この絶妙の﹁ただ﹂を︑﹁玄妙不可説﹂あるいは
ユ ﹁金言妙句﹂﹁奇特﹂の如く嘆賞してよいかも知れない︒ただし
以下で試みたいのは︑一語の醸し出す詩的感興に対する手放し
の讃辞を今改めて記すことではなく︑この﹁ただ﹂を良経たち
の言葉の状況のもとへ能う限り差し戻して︑﹁ただ﹂の表現性・
修辞性の﹁玄妙﹂﹁奇特﹂なるあり方と﹁不可説﹂とも云われる
所以を︑むしろ旦ハ体的に説き示してみたい︒とり纒めて言えば︑
一良経によってこの一首の﹁ただ﹂が定着せしめられるに至
る表現史的状況と︑そのもとでの良経歌の位置を問う︒すな 一32︻
わち形成論の次元︒
二後代における享受史の中で︑この歌の﹁ただ﹂を特立して
称揚するという作品読解上の︑あるいは表現解釈上の一つの
枠組が形作られたことの意義を問う︒すなわち享受論の次元︒
の二つの次元を設けてただし小稿ではより多く一について
L考えてみたい︒
最初に当該歌に関する基礎的な事実を確かめておこう︒この
歌の初出は︑建仁元年(一二〇一)八月三日和歌所影供歌合であ
る︒﹁関路秋風﹂題︑二番左︒右は雅経︒俊成の判は勝︒新古今
集に入集(雑中・一六〇一)︒撰者名註に︑初出時︑番いの相手で
あったゆえに︑この良経歌の表現に最も敏感であった者の一人
と考えられる雅経の名を見出し得る︒隠岐本に保存された歌で
ある︒家集の秋篠月清集には︑秋部に︑﹁院にて和歌所始之後は
しめたる影供歌合に﹂の詞書のもと︑同じ歌合の折の六題の中
の︑秋部にかかわる﹁初秋曉露﹂と﹁故郷虫﹂との間に載せら
れている(定家本=二八)︒
さて︑およそ詩作品一篇の表現を読むために幾つもの接近方
法があり得るように︑当該の良経歌についても自ずと種々の観
点から読解し得るであろう︒今は素朴に︑小稿の主要な関心事
である﹁ただ﹂との繋がりに留意しながら︑この一首の歌句を
辿ってみたい︒ 歌句を追う
無人あるいは空虚のモチーフを簡潔に提示する﹁人住まぬ﹂
の歌句によって一首は始まる︒この引き締った否定表現は︑例
えば八代集中の類似句︑
すまぬ家にまできて︑紅葉にかきていひつかはしける
人すまずあれたるやどをきて見れば今そこのはは錦おりける
(3)(後撰・冬・四五八・枇杷左大臣)
と見較べるとき︑その特色は一層明らかとなる︒良経の﹁人住
まぬ﹂は︑右の﹁人すまず﹂のように意味上︑次の歌句へと直
ちに続いて事柄の理由を示すかのように叙述するのでなく︑む
しろ非叙述的であって︑初句のみで一息途切れるような軽い断
切感を含みもっている︒この断切感の中に︑すぐさま私たちは︑
故郷有母秋風涙旅館無人暮雨魂
(新撰朗詠集・雑・行路・為憲)
の﹁無人﹂や︑或いは﹁不住﹂などの︑空無や不在を示す漢詩
的表現の調べを感じ取ることができるだろう︒こうして初句﹁人
住まぬ﹂に現れているモチーフと調べにして既に私たちはいか
にも良経風の表現様式に立会うことになるのである︒
ただしこの初句を︑空前の独創的な歌句と見做すのは当らな
い︒なぜなら平安末期に既に次のような初句﹁人住まぬ﹂の用
例を見るからである︒
ωひとすまぬあらののぬまをたがためとかこひてさけるかきつ 一33一
ばたそも(為忠家初度百首・春・沼水杜若・仲正・一四二)
初秋はしの三日ばかりに︑ある人の来て︑くれにおよび
てあそびたりけるによめる秋風といふ心を
@人すまぬあれやの軒にはふむぐらかたまくりする秋のゆふか
ぜ(為忠集・一〇二)
(4)おなじこころを
の人すまぬ草のいほりはあるれどもすむものとては秋の夜の月(同右・一四〇)(桜)
⇔ひとすまぬ野辺のさくらにしめゆひて花のぬしとやよにちら
さまし(風情集・四一八)
単に先行例が存するというだけでなく︑特に@のに見られる
ように︑﹁人住まぬ﹂と初句に置いたあと荒れ果てた様を云い︑
当の荒廃を際立たせる情景を末に据えるという趣向すら︑既に
一つの類型であった︒良経歌もこの類型に沿うものであるが︑
同時にまた類型に還元し得ない異質な面をも備えている︒異質
性をもたらしている理由の一つは︑恐らく﹁人住まぬ﹂と歌枕
地名﹁不破関﹂とが結びつけられた点にあろう︒
もとより当該歌は﹁関路秋風﹂題によって詠出されている︒
元の歌合における同題の十八番三十六首はどれもー﹁関﹂の
語を詠入れないまでも︑地名からそれと解されるものを含めれ
ばII惣じて歌枕の﹁関﹂を意図的に詠んでいると見てよい︒
それらの﹁関﹂を多い順に示せば︑﹁白河﹂十首︑﹁清見﹂六首︑ ﹁須磨﹂六首︑﹁相坂﹂六首︑﹁衣﹂三首︑残る五首は各一首ず
つの例である︒すなわち良経歌の﹁不破関﹂は多用される常套
的な﹁関﹂以外から選ばれていることになる︒なぜ﹁不破関﹂
は選ばれたのか︒種々考えられるその理由については暫く措こ
う︒ここでは歌枕地名﹁不破関﹂によって生まれる︑次の二つ
の効果を強調しておきたい︒
一︑この地名にまつわる古代以来の歴史の記憶や詩的な連想が
喚び起されること(本論末のく付V参照)︒
二︑旅人の視点が導入されること︒
特に二は此の一首の眼目にかかわる︒第二・三句﹁不破の関屋
の板びさし﹂のリズミカルな﹁の﹂連接に伴って︑土地から場
所へ︑そして場所から建物の一部へと︑旅人の視線は表現主体
の視線と一体となって移動する︒あたかもズームアップしなが
ら焦点を絞り上げるカメラワークの手法である︒
第三句に見える﹁ひさし﹂(庇)は﹁軒﹂周辺の語彙群の一つ
であり︑素材である﹁板﹂と結びついた﹁板びさし﹂同様︑興
味深い用例史をもっている︒歌句としての﹁板びさし﹂はと言
えば︑﹁浜ひさぎ﹂﹁浜びさし﹂﹁苫びさし﹂などと同じく︑響き
の縁でーあるいは音に依存して﹁久し﹂を引出すための
修辞としてしばしば用いられる︒﹁庇﹂ー﹁久し﹂の連接が強い
膠着力もしくは規制力をもつ修辞であったことは︑この歌句の
用例史からも窺えよう︒他ならぬ良経自身に﹁いたびさしひさ
しくなりぬ﹂(秋篠月清集・二二四)の例も見られる︒しかし当該歌 一34一
の第三句末に言い留められた﹁板びさし﹂の歌句の主軸は︑響
きの縁を断ち切って︑もっぱら﹁板びさし﹂というモノもしく
は景物の映像のみに集中する︒﹁板びさし﹂は空虚と荒廃を凝縮
する映像として上句末に据えられ︑下句末の﹁ただ﹂に導かれ
た﹁秋の風﹂の映像と対置されることになるのである︒
荒廃を強調する第四句﹁荒れにしのちは﹂で注意されるのは
﹁のち﹂の語である︒﹁のち﹂は︑﹁はて﹂﹁あと﹂などと同様に︑
種々の情景と結合して︑喪われた︑あるいは移ろう時間や空間
を暗示する︒﹁荒れにし﹂の後に﹁のちは﹂と付加されることに
よって︑嘗て在った光芒の時から久しく続いた荒廃の時を経て︿今﹀に到るまでの︑決して帰ることのない時間の深淵が
重く沈んだ気分とは異なる︑むしろ不思議に明澄な響きを伴っ
て語られる︒
そして一首は﹁ただ秋の風﹂で結ばれる︒この時代に著しく
好まれ︑シンボルとも化した﹁秋の風﹂は﹁ただ﹂によって強
調される︒先ほど記したように︑上句・下句対置のシンタクス
のもとで︑上句に示された空虚と欠落の情景は︑﹁秋の風﹂と照
らし合って一段と印象づけられる︒打ち捨てるように提示され
た結句は︑吹き過ぎる﹁秋の風﹂の映像を残像として揺曳し続
けるであろう︒
ちなみにこのような言い捨ての表現は良経の手法の一つでも
あり︑俊成もまた良経歌(﹃後京極殿御自歌合﹄二+九番右・秋夕)
村雨は程なく過ぎて日晩の啼く山かげに萩の下露 に対して︑
右の︑鳴く山陰に萩のした露といひ捨てられて侍る︑なほ
袖にかかる心ちし侍りて勝と可申哉︒
の如く︑その表現効果を評価している︒
思えば当代﹁体言留め﹂は安定した句法として広く用いられ
ていたが︑ここに見る良経の﹁ただ﹂は︑既にシンボルとして
十分に純化を遂げた﹁秋の風﹂と結び合うことによって︑︿言い
捨て﹀の手法を一層急進化して﹁体言留め﹂の水準を恐らく一
気に超え出ようとする試みであった︒
以上とり纒めて述べたような︑この一首の表現構成上の特質
を︑やや距離を置いて眺め︑かつ私たちの見知っている概念で
言い表すとすれば︑写真・映画や美術における手法としての﹁モ
ンタージュ﹂と重ね合わせてもよいだろう︒あるいは︑新古今
的表現に著しく窺われる手法の一つとしてR・ブラウアーの指
摘した﹁断片化﹂という概念を当て嵌める方がより適しいかも
知れない︒なるほど右の諸概念は︑歌句が切れ切れに累層的に
接ぎ合わされるような構成を持っている良経歌の︑表現手法の
あり方をよく言い当て得ているだろう︒
しかし問題は恐らくもう一歩先に在るはずである︒こうした
手法を繋ぎとめているもの︑言い換えれば手法の内質と︑この
ような表現を可能にし生成せしめた表現状況を捉えることこそ 35