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鬼頭英一鬼頭英一

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可能性︑現実性︑必然性は︑正に存在の様相であるから︑存在の種類に応じて︑これらのものの意味も変ってく

る︒たとえば︑数学的存在における可能性と自然的存在における可能性と歴史的存在における可能性と実存的存在に

おける可能性とは︑その意味を異にする・可能とは︑ありうること︑存在可能であって︑その存在の種類如何によっ

て存在可能の意味が異るのは当然である︒たとえば正四面体は図形として可能であるという意味と自然領域において

ある化合が可能であるという意味とは区別せられる︒また歴史領域において︑現在の歴史的状況でば政変が可能であ

るという場合の意味と︑実存領域において︑自由に決断することが可能であるという意味とは異る︒それは︑それぞ

れ存在可能の存在の意味が異るからである︒このことは︑現実性︑必然性の場合にもあてはまる︒一般に存在を離れ

ては︑可能性も現実性も必然性も考えられない︒それらは︑それぞれ存在の可能︑存在の現実︑存在の必然である︒

︒︹屯L︶

そして存在の意味如何に応じて︑様相の意味も異ることになる︒

⑩可能性が一つの存在領域︑現実性が別の存在領域を表わすこともあるが︑ここではその意味は問題としない︒その意味で

は︑存在様相としての可能性や現実性ではないからである︒

ここでは先ず存在と可能性との関係の考察を行う︒可能とはありうることであり︑その意味で存在と不可分である

存在と可能性

■ ■ ■ ■ ■

l様相論その二1

鬼頭英一

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ことは既に述べたところであるが︑この意味での存在は︑領域を表わす存在である︒図形がありうるとは︑数学的に

存在しうることであり︑この存在は︑数学の領域の領域範嶬といいうるものであろう︒ある出来事が歴史的に起りう

るという場合も同様であろう︒歴史的生起は歴史的存在に外ならぬからである︒しかし化合しうるというような例に

︑︑︑︑︑︑︑ なると︑その領域のありかたの一種の可能なることが述べられているの言領域範嶬としての存在そのものではな

い︒実存領域での決断しうるということも︑最も重要なありかたの一つであるに違いはないが︑決断するありかた以

外のありかたが実存領域にないわけではないから︑これも︑ありかたの一種である︒ひるがえって図形が存在しうる

というときも︑具体的にはその場合の公理体系如何によってはそのありかたの意味がかわるはずである︒つまりわれ

︑︑︑︑ われが特定のものについてありうるというときは︑その領域での一般的なありかたをいうとともに︑その時々の特殊

的なありかたをも表わしているのが普通である︒そのことは︑存在と可能性とが不可分なのだから︑可能性について

いわれていることでもある・

実存領域についていえば︑ここで存在可能とは︑本来は実存が実存しうることであろう︒しかしここでは︑構造が

極めて多義であって︑何が存在しうるといわれるかという存在可能の主体が必ずしも一義的ではなく︑従ってそのあ

りかたの意味も一義的ではないように思われる︒実存は︑単にあるものではなく︑ありうるものである︒この意味で

︑︑

可能的実存である︒㈲単にあるだけでなく︑これからありうるもの︑㈲単に一本道を辿るものではなく︑他の道を

︑︑.︑︑

も辿りうるもの︑働単に他動的にでなく︑自らその一つの道を択びうるものである︒即ち︑時間的意味の可能性︑

可避的な意味での可能性︑自由の意味での可能性が一体となって実存の可能性を構成している︒㈲と︒とは︑客体的

な存在についてもこれを認めうる︒事物もまた︑これからもありうるものであり︑またこれからどうなるか決まって

いないものであるからである︒しかしこれらも︑実存の自由なる可能性のうちの二つの契機として了解される場合に

は︑客体的な意味での可能性とは異った独自の実存的意義をもつ・これからといっても自由なる実存の﹁これから﹂

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であるからである︒ところで実存は︑自己のありかたに関心をもつものである︒実存が存在可能である限り︑自己の

ありかたに関心をもっとは︑自己の存在可能︑あるいは︑可能性に関心をもつことに外ならない︒それでは︑われわ

れが関心をもつ自己の可能性とは何であるか︒それは︑どうなるかわからず︑自らもどう決めるか確定していない自 ︑︑︑︑︑ 己のこれからの成り行きであり︑さきにあげた三契機のうち第一契機が重要な位置を占めていることになる︒しかし

単なる事物のこれからの成り行きではないのだから︑第二︑第三の契機も消失してしまっているのではない・ところ

で自己の可能性に関心をもつというときには︑同時に可能性の投企ということが行われている︒関心をもつことは︑

了解をもつことであり︑可能性に関心をもつことは︑自己を可能なる実存とし︑投企し︑可能性を何等かの意味で了

解しているのである︒実存は︑存在可能であるのみならず︑存在可能として了解しているのである︒このことは︑可

︑︑

能性を投企していることである︒ここで投企される可能性と投企されなくともある可能性とが区別されることにな

る︒実存は︑後者の故に前者を投企するともいえる︒実存が実存であるかぎり︑自由なる可能性をこれからにもつも

.︑︑

のであり︑かつその可能性を投企している︒ここでは︑投企された可能性とある可能性とが相蓋うているといえる︒

︑︑

しかし特定の可能性の投企となると︑必ずしもある可能性と一致するとは限らない︒そこで先ず可能性投企の様々の

場合を想定して見る︒

今述べた実存一般の状況定立としての可能性投企を根源的可能性投企と呼ぶ︒これを超える可能性投企︑即ち実存

を止揚するような可能性投企があるか否かは︑後の問題として︑根源的可能性投企の範囲内において行いうる可能性投

企の種々相を考えたい︒先ずわれわれは︑明日の私のありかたにつき可能性投企を行う︒明日到着するであろう友人

との面会を私の可能なるありかたとして想定する︒あるいは︑明日決行しようと思っている旅行を私の可能なるあり

かたとして想定する︒どちらも私の特定のありかたについての可能性投企であるが︑前者は︑私の自由に決める問題

としての可能性ではなく︑単に私に起るであろうことについての可能性の投企であり︑後者は︑単に私に起るのでは

なく︑私が決める可能性としての可能性の投企である︒共に広い意味では︑いい当てるいい当てないということがい

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実存の可能性につき︑存在と可能性との関係をわれわれは問題としている︒実存は︑実存可能性に関心をもつもの

︑︑︑

であるから︑その関心の構造を分析しているわけである︒その分析の結果︑実存は︑ありうる可能性であると同時に ︑︑︑︑︑ その可能性につき可能性を投企しつつあるものである︒従って実存には︑可能性があると共に︑実存は︑可能性を投

企しているものであるから︑実存には二重の可能性があることになる︒しかしどちらの可能性も実存がありうるとい われうる︒私に起るであろう可能性については︑可能性投企が見当違いで︑そういうことは起りそうもないというこ とがある︒私の決める自由な可能性は︑私が明日決めることであって︑今いい当てる当てないということは無意味な

︑︑︑

ようであるが︑たとえば病気が重くて︑明日の病状はそういうことを自由に択べる状況にないというのが︑本当の可

能性であるという場合もあろう︒そういうとき自由に旅行できるつもりで可能性を投企するとすれば︑その投企は︑

的外れであることになろう︒これに対して︑いい当てる当てないということが原理的に無意味な可能性投企もないこ

とばない︒それは︑可能性投企の中和変様乃至想像変様の場合であるQ即ち︑そういうことの起りそうな動機もない

のに︑何かが私に起ると自由に想像する場合である︒大臣になれたらと想像する場合これである︒またよい就職先が

二つあってそのどれかを択ぶという状況を空想する場合もこれである︒想像上の可能性投企の場合には︑自由な想像

で︑本気の投企ではないから︑本当かどうかを問題にすることは無意味である︒これに対して︑さきの場合には︑投

企された可能性につきへ本当にそれが可能なのかどうかを問うことができる︒我々にとって重大なのは︑勿論後の場

合である︒しかしこのような可能性は︑将来のことであるから︑決して完全に捉えることはできないはずであり︑︑従

ってその可能性投企のうちには︑想像的要素も含まれていることが多いが︑全体として本当の可能性を捉えようとす

るものである集り︑通常の想像上の可能性投企とは︑本質上区別さるべきである︒

一一

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区別されるだけである︒ う意味での実存可能性である点で共通であり︑ただ一方が本当にある可能性︑他方は投企されたる可能性という点で

われわれが可能性を見失っているとか︑徒らに可能性を描いているにすぎないとかいう表現も︑こ空一重の可能性

の関係として説明できる︒即ちわれわれは︑日常習慣的に限られた可能性しか見えないようになっているので︑折角

のよい可能性があるのにそれを見逃がしていることがある︒それは︑本当にある可能性を可能性として投企していな

いからである︒またわれわれは︑現実的にありもしない可能性を己惚れその他の動機からあるかの如くに思い誤まり︑

これを可能性として投企し︑これに酔うていることがある・これは︑前の場合とは︑逆の関係になっている︒

ところで実存が存在可能に関心をもつという場合︑さらに今一つの契機が関係している︒実存が関心をもつという

以上︑その可能性は︑単に与えられた可能性︑自由に決めうる可能性というだけではなく︑われわれにとって重要な

可能性という意味を含んでいる︒われわれは︑どうにかなるもの︑ある程度は自由にありかたを決めうるものと思っ

ているが︑われわれ自身がどうなるか︑どう決めるかについて無関心であることはできない︒どうなっても同じだ︑

どちらでもよいのだが気紛れで一方を択ぶだけだということも︑観念の上で考えることはあっても︑実際行為すると

きにはその通りには行為できない︒われわれは︑自己の存在可能につぎある要求をもっている︒かくあればよいとい

う要求をもっている︒しかもそれがわれわれに︑はっきりとはわかっていない︒われわれが︑どうなれば満足できる

のか︑どう決断すれば満足できるのか︑われわれ自身にもわかっていない︒多くの場合事前にかくなればどんなによ

いかと投企していたことが︑実際その通りになったとき︑期待外れに終るものである︒われわれが真に欲することが

あってもわれわれにわかっていないのかも知れないし︑われわれの要求そのものが絶えず変るものであるのかも知れ

ない︒またはわれわれは︑永久に充されることのない無理な要求を背負わされているのかも知れない︒しかしともか

くわれわれは︑それが何であるかわからぬにせよ︑かくありたき可能性︑われわれの望む︵目碕g︶可能性︵室侭!

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さきに実存一般の状況定立としての可能性投企を根源的可能性投企と呼び︑特殊的な可能性投企から区別した︒前 ︑︑︑︑︑ 者は︑実存である限り必ず投企している筈のものでありへ実存の直面する可能性の野と相蓋うものである︒実存は︑ ︲①この意味での可能性投企は︑一般的な状況投企の如きもので︑実存がこれからの可能性をもつというのと同様︑如何なる状

況においても実存が必ず投企していることであって︑ここでは︑かかる可能性があるということとそれを投企していることとは

相蓋うものである︒これは︑実存が何かを求めているということと同じである︒しかし実存が何か特定のありかたを望むものと

して︑ありたき可能性を投企するときには︑実際ある可能性とそうでない可能性とが必ずしも一致しなくなる︒即ちありたき可

能性として投企されたものが︑実は︑我々を充さない可能性であることが十分ある︒ここではある可能性とそうでない可能性と

は︑ありたい可能性とありたくない可能性という対立になっている︒ .︑︑ .︑︑ ところで第一の可能性︑第一お可能性は︑実存がありうるという可能性であり︑第三の可能性は︑実存がありたい

と思う可能性であって︑その点で区別せられるが︑ともにその﹁ある﹂の主体は︑実存であって︑実存自身のこれか

らの﹁ありかた﹂にかかわることに変りはないのである︒しかし父の死が可能性であるとか友人の到着が可能性であ

るとかいう場合には︑可能性の主体が実存自身ではないように見える︒父が死にうるのであり︑友人が到着しうるの

である︒しかも共に私にとって関心あることであり︑私にとっての可能性でもあるようである︒またこれと︑事物の

可能性とは如何なる関係に立つものであろうか︒これらの問題につき︑さらに分析を試みなければならない︒

︒︵つ且︶

痔彦丙①ごを投企しつつあるものであるqこの第三の可能性を顧慮しつつ︑自己のこれからのありかた︵第一の可能 性︶につき︑様々の可能性を想定し︵第一ろ可能性︶︑現在の決断を下すのである︒われわれが第一お可能性として 第三の可能性から遠い可能性︵即ち思わしくない状況︶を想定せずにいられないとき︑われわれは︑絶望の如き感情 を懐くであろう︒

一一一

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如何なるときもその前に可能性の野が開かれているのを見出す︒それは︑如何なる岸から見渡されるものであるか︒

前に可能性の野を見出すという限り︑何等かの岸に立って見渡すのでなければならない︒それも勿論存在の岸であ ︑︑︑︑ る︒それは︑今まで実存し来った実存の場ということができる︒実存の場という見地から可能性の野が見渡されるの

︑︑︑︑

である︒これは︑現実の存在の場であり︑やはり︑実存が存在している場である︒かような場を捨象しては︑実存の

可能性は︑これを了解することができない︒実存の現実性の場と可能性の野とは︑互いに他なくしてはありえないも

のである︒この実存の場においてこそ︑この可能の野が開かれているのである︒

この状況のもとに︑われわれが特殊的可能性投企を行うことを述べた︒ところでわれわれが知りたいのは︑これか

らの可能性の野全体であり︑漠然たる形においては︑何等かの投企を行っている︒さきの根源的可能性の投企のよう

に︑単に如何ょうにかなるもの︑常に自ら自己の道を決めて行くものというような構造的投企よりは少し具体的に︑

自己のこれからの成り行きにつき漠然とした設計を画いてはいる︒しかしそれはあまりに不確定である︒空間的にも

構想力の拡がりが不十分であり︑時間的にもその延びが遠くへは及ばない︒従ってわれわれは︑身近かのこと︑近い

将来のことにづいて︑比較的詳しい構想を描いている︒そしてその中でもわれわれの特に関心をもつことがらを浮び

上らせて︑特殊的可能性投企を行うのである・たとえば︑明日の旅行は︑私にとっての可能性投企であるが︑それは︑

明日私のおかれる状況全体の投企ではなくて︑その一部を取り出し︑浮び上らせての投企である︒

この場合明日私が旅行しうることが私の可能性であることと私の旅行が起りうる可能性であることとは︑同一現象

を見方をかえて表現しただけのことである︒後の場合には︑私の旅行がありうる可能性とされているので︑可能であ

る当の主体が実存からノエマ的なものに移行しているようであるが︑結局は私が旅行しうることであるから︑究極的

主体は︑実存自身である︒しかし一応ノェマ的なもの︑この場合では私の旅行が可能性の主体と見ることもできる︒

この場合は︑ノエシス的存在可能とノエマ的対応物とが平行関係にあり︑同じ現象の異れる表現であって︑可能性が

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−−−−−−−

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1

事物化されたと解する必要はない︒ただ存在可能と対応者の可能性とが一応区別されることが注目に値する︒前の例

で︑私の父の死が可能であるということも︑私が父の死に出会いうるという存在可能の対応物の可能性をいっている

だけである︒この場合︑私の父の死が可能であるといっても︑私との関係においていわれているので︑私との関係を

捨象し︑無時間的立場で︑可能性が主張されているわけではない︒私が私の父の死に出会いうるという可能性をノエ

マ的に表現すれば︑私の父の死が私にとって可能であるということになる︒従って私の父の死の可能性ということは︑

実存の存在可能の反映に外ならない︒実存という存在の可能性においては︑このような可能性の反映が行われるので

ある︒このことは︑私の父の死というように︑私に関係深いことについて起るばかりでなく︑明日の雨天という可能

性も︑天候がわれわれの状況の構成要素であるかぎり︑私にとっての可能性という意味をもち︑私の存在可能の一つ

の反映である︒この私にとっての可能性は︑その対応する場を私の場から﹁われわれ﹂の場へと移行させることによ

って︑われわれにとっての可能性となる︒明日は雨が降るかも知れないという可能性は︑私にとってだけでなく︑わ

れわれにとっての可能性となる︒かくして可能性は︑ノエマ化されたばかりでなく︑共同主観化︑客観化されること

になる・即ちそれは︑共同主観的な可能性となる︒世界連邦がいつか成立しうるという場合︑これは︑﹁われわれ﹂

にとっての可能性としていわれていることが多い・しかしこれも︑われわれという実存共同の場から展望された可能

性の野のうちに投企された一つの可能性に外ならず︑まだ実存の場が捨象されてはいない︒

しかしわれわれは︑その状況と切り離してある事物を考え︑その事物がわれわれの可能性の野において可能である

かを吟味することもある︒たとえば軍備撤廃の状態というものを先ず考え︑これがわれわれの直面するこれからの野

において可能であるかどうかを吟味することもある︒たしかにこの場合︑はじめにはわれわれの場とは無関係に考え

られた事物であっても︑それがこれからの野において可能であるかを問うことになり︑これに可能性が認められたこ

とになると︑それは︑実存の存在可能を反映する可能性であることになる︒しかし同様にある事物の可能性といって

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も︑それ自身としての可能性︑たとえば無矛盾性とか思惟されうることとか構成されうることとか実在しうることと

かいう場合には︑実存の場から見られたものでなく︑むしろ実存の場を捨象して考えられたものであるから︑それを

認識する意識との対応関係は考えられるとしても︑自由なる実存の存在可能を反映するものではない︒従ってわれわ

一・

れのこれからの野に投企せられるものではない︒たとえば︑正六面体が可能であるとしても︑それは︑われわれのこ

れからの可能性の野を構成するものではなく︑いわば︑無時間的な事態が述べられているにすぎないのである︒これ

らを混同することにより︑実存の切実な活ける可能性が︑事物の無時間的な可能性と同様なものとしていわば凝縮さ

実存の場に可能性の野が開かれていることは別に︑実存そのそのが可能なる実存であり︑これからのありかたで︑

どうなるかわからぬものと解せられる場合もある︒実存に可能性の野が開かれていることと実存そのものが可能性に

外ならないこととは︑関連はあるが︑一応区別せられることがらである︒後の考えかたは︑実存を事物化した考えか

たに陥り易い傾向をもつ・実存にとって大切なのは︑これから如何にありうるかということで︑実存それ自身がどう

いうものであるかということではない︒︵未完︶ せられることもしばしばある︒

参照

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