歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶三七 一︑歴史物語の語り手 鎌倉から室町にかけての中世文学の作品の中に︑﹃今鏡﹄﹃水鏡﹄﹃増鏡﹄という︑歴史物語というジャンルの名称
で呼ばれる作品がある︒その前の平安期に書かれた﹃大鏡﹄のあとをつぐ内容で︑構成もそれを踏襲していることか
ら︑それとあわせて四鏡と呼ばれている︒いずれの作品も︑ある︑かなり非現実的な語り手が︑自分の見聞きした
様々な歴史的なできごとを語り︑それを聞く人物も物語中に登場するという︑いわば外枠のある形式の物語となって
いる︒ ﹃大鏡﹄では︑語り手は百九十歳の大宅世継と百八十歳の夏山繁樹という老翁である︒彼等は雲林院の菩提講で出
会った若侍に︑道長の栄華を中心とした歴史を語り︑周囲の人々が聞き入る︒
後一条朝で終った﹃大鏡﹄のあとを継ぐという設定が﹃今鏡﹄であり︑そこから高倉天皇までの約百五十年間の歴
史を語っている︒ここでは大宅世継の孫で紫式部に仕えた百五十歳の老婆という女性が語り手として登場し︑旅の途 清 水 由 美 子 ││女が歴史を語る時代││
歴史物語の語り手をめぐる一考察
三八
中の一行に様々なできごとを語っていく︒
鎌倉時代に入って︑﹃大鏡﹄の前の時代を語るという設定での︑神武天皇から仁明天皇までの間の歴史叙述を繰り
広げるのが﹃水鏡﹄である︒ここでは︑あまりにも古い時代を語るためか︑大和の竜蓋寺から長谷寺をめぐって参籠
した七十三歳の老婆が︑通夜の眠気覚ましに︑修行者から︑仙人から聞いたという話を聞き︑それを語る︑という二
重の枠構造を取っている︒
﹃今鏡﹄の後の時代を語り継ぐのが﹃増鏡﹄であり︑作者を二条良基とする説もあるが明らかではない︒十四世紀
の成立とされる︒ここでは百余歳の尼が宮廷生活を語るという設定であるが︑﹃大鏡﹄以降の枠物語の構造は崩れて
きており︑歴史に関する記述の中にその老尼の感想が混じる程度に後退している︒
このように﹃大鏡﹄以後の三作品は︑それぞれに特色を有し︑一括りで論ずることは難しいのであるが︑語り手と
して男性ではなく女性が登場する︑という点は共通する点として︑また︑﹃大鏡﹄と異なる点として指摘できるので
はないかと考える︒
しかし︑この三作品の語り手が女性である事を︑単純に﹃大鏡﹄の語り手が男性である事の対極において考え︑女
性性が加わったことを﹃今鏡﹄以降の三作品の特徴であると見ることには慎重である必要がありそうだ︒﹃大鏡﹄の︑
語り手ではないが︑聞き手に女性性を見出す見方があるからである︒
四鏡の聞き手や語り手の性別について最も注目すべきなのが加藤静子の考察︵
1である︒加藤は︑︿語り手と語りの︶
場﹀︑︿語り手と聞き手﹀などといった点から︑﹃栄花物語﹄や四鏡を中心に本文に即して丁寧な考察を積み重ねてい
るが︑本稿の関心から重要だと思われる指摘は︑﹃大鏡﹄の聞き手を女性だと断定したものである︒
加藤はそれまでの﹃大鏡﹄の聞き手を女性だと推測する論︵
2を受け︑それを一歩進めた︒その際に根拠としたの︶
は︑聞き手の︑人前で世継らに直接声をかけることを憚る様子︑御伩の奥のできごとまでが白地になることへの驚
愕︑政治的なことに対する﹁おどろおどろし﹂といった反応︑服飾に対する関心︑などであるが︑最も大きな根拠と
しているのは︑﹁歴史語りを聞く最も外縁の︿聞き手﹀が︑︿語り手﹀であり︑﹁女性﹂であるという設定﹂を︑﹃大
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶三九 鏡﹄をつぐことを自称する三つの鏡物が踏襲しているということにあると思われる︒この場合の︿語り手﹀とは︑物語全体の語り手であり︑物語の中に組み込まれた︑いわば枠の内部の語り手とは区別されている︒ 加藤氏の説を含めて︑四鏡の歴史語りの担い手をもう一度整理してみよう︒
加藤は︑さらに︑この﹁枠の中での話の聞き手﹂=﹁物語全体の語り手﹂が︑すべて女性として設定されている理
由を︑﹁男性が︑歴史を自由に独自な構造で書くときの︿隠れ蓑﹀﹂がこの設定だったからであり︑作者が﹁歴史的世
界を記す責任を回避することができた﹂からだとし︑歴史を仮名で書く物語としての必然であったと結論づける︒
二︑姿を現して歴史を語る女性たち
物語の外側の語り手について女性が仮構されることに関する加藤の考察は首肯できるものである︒しかし︑﹃今鏡﹄
と﹃増鏡﹄においては︑枠の中で歴史を語る語り手までもが女性として設定されていることをどのように考えたらよ 枠の中での語り手 ﹃大鏡﹄ 大宅世継・夏山繁樹・若侍
﹃今鏡﹄ あやめ︵世継の孫︑老媼︶
﹃水鏡﹄ 仙人から聞いた話を語る修行者
﹃増鏡﹄ 百余歳の尼
枠の中での話の聞き手 ﹃大鏡﹄ 女性
﹃今鏡﹄ 女性
﹃水鏡﹄ 尼
﹃増鏡﹄ 女性
四〇
いのであろうか︒また︑﹃水鏡﹄においても︑老尼は長谷寺での通夜で︑自らの後世の祈りを頼んだ修行者から眠気
覚ましに話を聞き︑それを自分の備忘録として書き付けたという設定であり︑尼は﹃大鏡﹄における若侍にあたると
考えてよいのではないか︒何度もまどろみながら聞いたという状況や︑その話の後で修行者が姿を消すという設定
は︑修行者が仙人の存在する冥の世界とこちらをつなぐ中間的な存在とされているように思え︑それは︑おそらく
は︑﹃水鏡﹄が﹃大鏡﹄以前というあまりにも遠い時代の歴史を語る内容である事に関わるのであろうが︑尼は枠の
中に足を踏み込んだ︑唯一の︑こちら側の存在と言える︒単なる聞き手とは意味合いが異なり︑存在の重さは増すと
考えてよいのではないだろうか︒
このように見てくると︑﹃大鏡﹄とは違って︑後をついだ三つの鏡物とされる作品において︑発信者としての女性
が立ちあらわれてくることを︑加藤の指摘とは別の問題として注視する必要があるように思える︒
既に述べたように︑﹃今鏡﹄の作者は寂超であるとされ︑﹃増鏡﹄にも二条良基説がある︒﹃水鏡﹄についても︑作
者として名が挙がるのは男性のようであり︑﹃扶桑略記﹄との関わりが大きい内容を持つ事もあり︑どちらかという
と男性の手によると考える方が自然に思える︒そうすると︑そうした男性の作者が︑歴史の語り手として︑女性を設
定したということになるのである︒
語り手として女性が姿を現す︑ということに関わって︑想起されることがある︒それは︑中世の女流文学者の手に
なる日記や随筆においては︑中古までのそれとは違って︑自分のことを一人称で語り︑表現主体としての自己が前面
に押し出されているという事実である︒
例えば︑﹃蜻蛉日記﹄や﹃更級日記﹄では︑自分=作者のことを次のように﹁人﹂と表現する︒
かくありし時過すぎて︑世の中にいとものはかなく︑とにもかくにもつかで︑世に経ふる人ありけり︒︵﹃蜻蛉日記﹄上︑﹁序文﹇一﹈はかない身の上を書いた日記﹂︶ あづま路の道のはてよりも︑なほ奥つ方に生ひ出でたる人︑いかばかりかはあやしかりけむを︑いかに思ひは
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶四一 じめけることにか︑世の中に物語といふもののあんなるを︑いかで見ばやと思ひつつ︑⁝⁝︵﹃更級日記﹄︑﹁一︑上洛の旅﹇一﹈東国の生い立ち︑あこがれの門出﹂︶ ﹃和泉式部日記﹄では主に﹁女﹂である︒
宮︑例の︑忍びておはしまいたり︒女︑さしもやは︑と思ふうちに︑日ごろの行ひに因じて︑うちまどろみた
るほどに︑門をたたくに︑聞きつる人もなし︒⁝︵六︑﹁あけざりし真木の戸口﹂︶
雨うち降りて︑いとつれづれなる日ごろ︑女は︑雲間なきながめに︑世の中いかになりぬるならんとつきせず
ながめて︑⁝⁝︵七︑﹁待ち取る岸﹂︶
中世から近世にかけて︑﹃和泉式部日記﹄ではなく﹃和泉式部物語﹄というタイトルで広く読まれたため︑この
﹁女﹂という三人称語りも︑筆者ではない別の人物をさすものという見方もあるが︑近藤みゆきは︑過去の助動詞
﹁たり﹂の多用を論拠に︑この作品があくまでも日記文学であると述べている︵
3︒従いたい︒︶
それに対して︑鎌倉期に阿仏尼が書いたとされる﹃夜の鶴﹄では︑次のように一人称で﹁我﹂と表現される︒
さりがたき人の﹁哥よむやうをしへよ﹂と︑たびたび仰せられ候へども︑わがよくしりたる事をこそ人にも教
へ候なれ︑いかでかは︑といなみ申し候ふを︑あながちに恨み仰せられ候もわりなくて︑そぞろなることをかき
つけ候ぬるぞ︒ゆめゆめ人にみせられさぶらふまじ︒
︵ ﹁ 一
はしがき﹂︶
⁝⁝﹁遇不逢戀﹂といふことを︑京極中納言定家の歌とおぼえ候︑
色かはる美濃の中山秋こえてまた遠ざかるあふさかの関
四二 かやうにぞ多くよまれて候ふめる︒われならば︑﹁あうてあはざる恋ぞくるしき﹂などよままし︑とおぼえ候︒
︵ ﹁ 二
題の心を会得すべきこと﹂︶
﹃とはずがたり﹄でも同様である︒
呉竹の一夜に春の立つ霞︑今朝しも待ち出でがほに︑花を折り︑匂ひを争ひて並み居たれば︑我も人並々にさ
し出でたり︒︵巻一・﹇一﹈﹁後深草院と父大納言雅忠の密約﹂︶
伱ゆく駒の早瀬川︑越えて返らぬ年波のわが身に積もるを数ふれば︑今年は十八になりはべるにこそ︒百千鳥
さへづる春の日影のどかなるを見るにも︑何となき心の中の物思はしさ︑忘るるときもなければ︑華やかなるも
うれしからぬ心地ぞしはべる︒︵巻二・﹇一﹈﹁物思わしき春 父大納言をしのぶ﹂︶ こうした事実に注目したのが︑﹃日本文学史﹄︵
4の説明である︒そこでは︑こうした一人称語りの傾向の初めとし︶
て︑﹃建礼門院右京大夫集﹄があると見る見方が打ち出される︒
まず︑﹃建礼門院右京大夫集﹄の冒頭に︑﹁我が目ひとつに見んとて書き置くなり﹂とあること︑さらに一首目とし
て︑自分のみが見聞きしたことを後世に残したいという切実な気持ちのこもった歌を配することに着目し︑そのこと
で﹁我﹂が強調されていることに注目︑源平の争乱という激動の時代の出来事を自分の目で見た作者が︑その体験を
伝えるには︑﹁我﹂を主体にして書き始めることこそがふさわしく︑そうした作者の存在証明としての﹁我﹂が︑和
歌の一人称的な語りとも結びついて︑﹁一気に三人称的な叙述で始まる形式の制約を吹き飛ばしてしまったのではな
いか﹂とした上で︑﹁このような先蹤があって︑中世の身の上を語る女流日記は﹁我﹂を前提とした作品群を成立さ
せた﹂と述べ︑さらに次のように続ける︒
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶四三 ⁝⁝王朝時代の女流日記は自己の内面を見つめ内省する傾向があるが︑中世の作品群は自己の行為︑行動が中心となり︑その身体性が前面に押し出される形で描かれるという特色がある︒それは歴史の激しい変化や異常事態に出会った﹁我﹂が︑それゆえにこそ︑﹁我﹂の位置とその存在意義を確認するかのように刻みつけられたのだ
と考えられる︒
平安時代から︑院政期︑鎌倉時代へと時代が推移する中で生きた女性たちの生き方に影響を与えたのは︑必ずしも
動乱の経験だけではないかもしれない︒武士階級の進出や貴族階級の衰退︑宗教界における変革や進展︑家族制度の
変化など︑女性を取り巻く環境の変化の大きさも︑中世の女性たちの精神に大きな影響をもたらしたと考えるべきで
あろう︒もちろん︑こうした文学作品における一人称語りの登場を︑そうした社会的な女性の立場の変化と直接的に
結びつけることには慎重であるべきだ︒しかしながら︑中世の女性の立場や彼女たちの文学活動を考える時に︑見落
とすこともできない重要な視点を与えてくれる指摘であると考えるのである︒
さらに︑このように︑王朝時代から中世への時代の変化に伴って︑女性の文学に対する態度に変化が兆していたと
するならば︑このことが歴史物語の枠の中での語り手に︑女性が登場するようになったこととも関わる可能性がある
と考えてもよいのではないかと思われるのである︒﹃大鏡﹄では姿を現すことがなかった歴史語りに関わる女性が︑
院政期以降成立した歴史物語においては︑歴史の語り手として表舞台に姿を現したことの背景に︑日記や随筆におい
て︑女性たちが一人称で姿を現して語り始めたことと同じものがあるように思えてならない︒
もちろん︑﹃今鏡﹄﹃水鏡﹄﹃増鏡﹄において︑女性が歴史を語ると言っても︑日記や随筆とは違って︑語り手の個
性が表れるわけではなく︑また︑その存在自体も︑﹃増鏡﹄に至っては非常に軽いものになってしまっている︒単純
に﹃建礼門院右京大夫集﹄の流れの末に置くことには問題があるかも知れない︒
しかし︑例えば﹃水鏡﹄の末部において︑自らに仁明天皇の御代のことまでを語った仙人が姿を消してしまったと
したあとで︑作者は老婆に次のように語らせている︒
四四
⁝⁝心より外にはといひしかども︑此の事をけちてやまん事口惜くて︑かきつけ侍るなり︒世あがり︑ざえかし
こかりし人の大鏡などいひて︑かきおきたるに違ひて︑詞いやしく︑ひがごと多くして︑見所なく︑文字おちち
りて︑見む人に譏りあざむかれんこと︑疑なかるべし︒紫式部が源氏などかきて侍るさまは︑たゞ人のしわざと
やはみゆる︒されどもその時には︑日本紀の御局などつけて︑笑ひけりとこそは︑やがて式部が日記にはかきて
侍るめれ︒ましてこの世の人の口︑かねて推し量られて︑かたはらいたくおぼゆれども︑人のためとも思ひ侍ら
ず︑只若くより︑かやうの事の心にしみならひて︑行ひのひまにもすてがたければ︑われひとり見んとて︑かき
つけ侍りぬ︒
﹁ざえ﹂︑つまり漢文の教養のある男性の手による大鏡との違いを謙遜しつつも︑自らが歴史を書き残すことを紫式
部の文学活動になぞらえ︑批判を覚悟の上で書き残すのは︑仙人の語った話が失われることが口惜しかったからだと
言うのである︒
これは︑先ほど引用した﹃日本文学史﹄の中でも注目されたことであるが︑建礼門院右京大夫が︑自分の家集を︑
﹁たゞ︑あはれにも︑かなしくも︑なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの︑あるをり〳〵ふと心におぼえし﹂こ
とを︑思い出されるままに︑自分のためだけに書き記したものだと述べている心境に通じるものだと思われる︒右京
大夫が書き記したのは︑自分が見聞きした体験だったが︑やはりそれは普通の日常のできごとではなかった︒平家の
滅亡という空前絶後のできごとを後世に残そうという使命感を持ったとき︑彼女の言葉は歴史叙述となったのではな
いだろうか︒﹃今鏡﹄以下の物語での歴史の語り手に女性が登場するのも︑このように女性の間に歴史を書き残そう
という意識が芽生え始めた証左と考えたい︒
さらに︑﹃水鏡﹄の中で︑自らの叙述行為を︑﹃大鏡﹄との違いを述べた上で︑紫式部と同じだとする点にも着目し
たい︒ここでは︑﹃大鏡﹄とは違う女性としての歴史叙述なのだとという自覚が強調されているのである︒
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶四五 三︑院政期以降の政治情勢における女性の歴史語り 一方で︑現代的な感覚に近いとらえ方で︑女性が歴史を論じ始めたなどと考えるのも正しくはないとも思われる︒
それは︑﹃今鏡﹄以降の作品においても︑女性たちが語った歴史は︑あくまでも宮廷社会内部で見聞きしたことに限
られる傾向があったからである︒
例えば︑保元元年︵一一五六︶に起こった保元の乱を描く﹃今鏡﹄の記述は︑﹃保元物語﹄のそれとは︑大きく趣
を異にする︒
保元の乱とは︑天皇家と摂関家の内部対立が絡み合い︑そこに実働部隊としての︑源氏と平氏といった武士たちの
家もそれぞれ二分して争うことになる乱であった︒実際の戦いは一晩で終結したものであったが︑都が兵火に包ま
れ︑貴族の藤原頼長が矢に当たって命を落とし︑乱後︑都の中で死刑が実施され︵形としては死刑の実施ではなく︑
武士同士の私刑と見なされ︑刑法としての死刑の実施は三年後の平治の乱での藤原信頼が三五〇年以上ぶりとされた
ようだが︶︑後にこの戦いの勝者である藤原忠通の子︑慈円が﹃愚管抄﹄において﹁武者ノ世﹂の到来のきっかけと
認識して嘆いたように︑天皇家や摂関家の後継問題が︑武士による武力によって決着をみた戦いであった︒
﹃保元物語﹄が描く合戦シーンは︑崇徳上皇・頼長方に属した源為朝の超人的な活躍に重点が置かれ︑後白河天皇
方の武士︵源義朝︑平清盛など︶が御所に火を付けるという奇襲作戦で決着が付くまでの︑実際の戦いの様子はよく
わからない︒﹃保元物語﹄では為朝が強弓で敵を串刺しにするなどといった場面は白河北殿とされるが︑﹃吾妻鏡﹄な
どによれば︑大炊御門の門内とあり︑実際は鴨川をはさんでの一進一退の攻防であったかと推測される︒いずれにし
ろ︑武士が死に︑敗走中の頼長たちに流矢が飛んでくる︑武士たちにとっては命を懸けた戦いであったことに違いは
ない︒結局︑頼長は父・忠実との対面も叶わず命を落とし︑崇徳院は仁和寺に駆け込み︑最終的に讃岐に流される︒
﹃保元物語﹄で描かれる︑その崇徳院が史上最強と恐れられる天狗の姿の怨霊となる様はあまりにも有名である︒
この戦いとその後の顚末を︑﹃今鏡﹄は次のように記す︒
四六
⁝⁝院︵崇徳院の父︑鳥羽院清水註︶のおはしましし折より聞こゆる事どもありて︑御垣の内厳しく固められ
けるに︑嵯峨の帝の御時︑兄の院と争はせ給ひけるやうなる事出で来て︑新院︵崇徳院清水註︶御髪おろさせ
給ひて︑御弟の仁和寺の宮におはしましければ︑しばしはさやうに聞こえしほどに︑八重の潮路をわけて遠くお
はしまして︑上達部・殿上人の︑ひとり参るもなく︑一宮の御母の兵衛佐と聞こえ給ひし︑さらぬ女房一人二人
ばかりにて︑男もなき御旅住みも︑いかに心細く朝夕におぼしめしけん︒
⁝⁝あさましき鄙のあたりに︑九年ばかりおはしまして︑憂き世のあまりにや︑御病も年に添へて重らせ給ひけ
れば︑都へ帰らせ給ふこともなくて︑秋八月二十六日に︑かの国にて失せさせ給ひにけりとなむ︒
白峯の聖といひて︑かの国に流されたる阿闍梨とて︑昔ありけるが︑この院に生まれさせ給へるとぞ︑人の夢
に見えたりける︒その墓のかたはらに︑よき方にあたりたりければとてぞおはしますなる︒八重の潮路をかきわ
けて︑はるばるとおはしましけむ︑いと悲しく︑心地よきだにあはれなるべき道を︑人もなくて︑いかばかりの
御心ちせさせ給ひけむ︒︵﹁すべらぎの中 第二 八重の潮路﹂︶ すでに述べた︑武士たちが命を懸けた戦いは︑﹁御垣の内厳しく固められけるに︑嵯峨の帝の御時︑兄の院と争は
せ給ひけるやうなる事出で来て﹂と語られるだけである︒讃岐に配流された後で︑帰京の望みはおろか︑自筆の写経
の入京も拒否されて︑激しい憎悪をたぎらせる崇徳院の面影はない︒
繰り返すようであるが︑﹃今鏡﹄の作者は︑藤原為経︵寂超︶だと推測されている︒寂超の生没年は明らかではな
いが︑康治二年︵一一四三︶に出家したとされ︑嘉応二年︵一一七〇︶の住吉社歌合に出詠しているので︑保元の乱
には伿世の身ながら同時代人として立ち会っていることになる︒西行とほぼ同時代人と考えてよい︒
一方︑﹃保元物語﹄で描かれるような︑怨霊となった崇徳院の姿が都の人々の間で噂されるようになったのは︑安
元二年︵一一七六︶に︑高松院︑建春門院︑六条院︑九条院と院号を持った皇族が相次いで亡くなったことがきっか
けと考えられており︵
5︑寂超がそうした崇徳院にまつわる噂を耳にしないまま世を去った可能性は大きいかも知れ︶
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶四七 ない︒少なくとも︑﹃今鏡﹄執筆時には︑そうした風聞がなく︑﹃今鏡﹄が描くような︑崇徳院の最期の様子が伝わっ
ていただけだったと思われる︒
しかし︑﹃今鏡﹄が︑後の怨霊化にもつながる崇徳院の心境に無関心だったかと言えば︑そんなことはない︒﹃今
鏡﹄はこの乱の遠因になったできごとを次のように記し︑﹃保元物語﹄が描かない宮中の事情を語っている︒
⁝⁝今の女院︵美福門院清水註︶時めかせ給ひて︑近衛の帝生みたてまつらせ給へる︑東宮にたてまつりて︑
位譲りたてまつらせ給ふ︒
その日辰の時より︑上達部さまざまの官々まゐり集まるに︑内より院にたびたび御使ありて︑蔵人の中務少輔
とかいふ人かへるがへる参り︑また六位の蔵人御書捧げつつ参るほどに︑日暮れがたにぞ︑神爾玉宝剣など︑春
宮の御所昭陽舎へ上達部ひきつづきて渡り給ひける︒帝の御養子例なきとて︑皇太弟とぞ宣命には載せられ侍り
ける︒その御沙汰に︑﹁今日延ぶべし﹂など︑内より申させ給ひけれど︑﹁事始まりていかでか﹂とてなむ︑その
日侍りけるとぞ聞こえ侍りし︒︵同・前︶
鳥羽院の寵姫美福門院が生んだ近衛天皇に位を譲るように説得された崇徳院は︑近衛天皇を養子という形にして︑
将来は院として実権を手中にさせる︑という条件によって納得したのであったが︑宣命には﹁皇太弟﹂とあった︒だ
まされたことに気づいた崇徳院が譲位の儀式を延期するように申し出たが︑許されなかったというのである︒数年
後︑この近衛天皇も早世し︑そのあとに崇徳院の皇子重仁親王ではなく︑崇徳院にとっては同腹の弟後白河天皇が即
位したことが︑さらに崇徳院の不満を増幅させ︑父鳥羽院の崩御をきっかけに乱が勃発するのである︒
このように見てくると︑﹃今鏡﹄は保元の乱の戦いそのものにはあまり大きな関心を持たず︑それをもたらした宮
中の人間関係により注目していることが分かる︒
他方︑説話集の﹃古事談﹄は︑さらにその背景にあった︑鳥羽院と崇徳院の確執の原因が︑鳥羽院の妃︑待賢門院
四八
と鳥羽院の祖父白河院の隠された関係による崇徳院の出生の秘密にあったという衝撃的な話を残す︒戦いの経緯とそ
の戦後処理に重点を置く﹃保元物語﹄という軍記文学作品のありようと並べると︑三者の︑それぞれの文学ジャンル
の違いがはっきりするのである︒
こうした︑歴史物語としての﹃今鏡﹄の有り様を︑竹鼻績氏は次のように説明し︑さらに語り手が女性であること
を︑宮中社会を作品世界の中心とすることからくる必然だったとする︒
⁝⁝﹃今鏡﹄では︑もっぱら︑宮廷貴族社会の儀式典礼や︑詩歌管弦の宴遊や︑離宮・寺院の造営などの話柄
がとりあげられていて︑その点では︑﹃大鏡﹄よりも﹃栄花物語﹄に近いと言える︒﹃今鏡﹄の作者が︑王朝憧憬
の尚古精神と芸能尊重の精神とによってとらえた世界を描くにあたって︑必然的に求めたのは女性の語り手であ
った︒作者が憧憬する王朝は︑女流文学の隆盛をきわめた時代であり︑その頂点に位置するのが﹃源氏物語﹄で
ある︒その意味で﹃今鏡﹄の語り手の老媼が︑若くして紫式部に仕えた人物として設定されているのも︑作者の
周到な用意と言える︵
6︒︶
﹃今鏡﹄の作者が関心を持ったのが宮中社会だったために︑語り手が女性に設定されたとするこの説明は重要な指
摘だと思われる︒
先に述べた慈円の﹃愚管抄﹄の記述でも知られるように︑この戦いは都で起きた初めての本格的な武士同士の戦闘
であり︑天皇家や摂関家の後継問題が︑武士の手によって決着を見たという意味では︑都の貴族たちにとっても衝撃
であったはずだ︒悪左府頼長の流矢による戦場での死というのも︑作者が知らなかったはずはないだろう︒保元の乱
を引き起こした騒動の全体像を語る際にも︑実際の戦闘場面をはずして語るというのは︑やはりどう見ても偏ってい
ると言わざるを得ない︒
﹃大鏡﹄が描いた時代とは異なり︑﹃今鏡﹄以降が描く院政期以降の歴史は︑宮中内部の出来事を描くだけでは全体
歴史物語の語り手をめぐる一考察︵清水︶四九 像がわかりにくくなっていたはずである︒そうした時に︑宮中内部に視点を据えた﹁物語﹂として歴史を叙述していこうとした時に︑その偏りを︑いわば説明し正当化するために︑女性の視線を使ったということはあり得るだろう︒
既に述べた加藤の︑歴史的世界を記す際の責任の回避︑という指摘も再び思い起こされる︒院政期以降の︑歴史を動
かす主な担い手の変化︑さらにそれにも関わらず﹃大鏡﹄に倣って宮中を中心に歴史を叙述しようとしたときに︑男
性の作者が語り手として登場させたのが女性だったということである︒
四︑結 語 以上︑四鏡と総称される歴史物語のうち︑﹃今鏡﹄以降の作品において︑枠の内部で歴史を語る人物が女性とされ
ることの意味について考察してきた︒一つは︑日記や随筆などで見られる︑女性の一人称語りの出現という現象と同
じ事が起きていたのではないかという推測であった︒二つ目は︑武士の台頭に伴う政治状況の変化の中で︑物語とし
て歴史を語ろうとするさいに起こる︑宮中内部への偏りや歴史を語ることそのものの難しさを︑女性であるというこ
とで説明しようとする動きがあったのではないかということである︒
一見相反することのようにも見える︑こうした二つの要因が背景にあって女性の歴史の語り手が登場したと見るの
である︒このことは︑女性が﹁私﹂を前面に出して様々なことを語ろうとした反面︑男性の側には︑未だに︑女性は
宮中の内部のみを語る事こそふさわしいという︑王朝時代以来の観念が存在したことをあらわしている︒加えて︑六
国史という官撰の歴史から始まった歴史叙述ということに伴う限界もあったかもしれない︒私的な経験を語る日記や
随筆との本質的な違いをそこには見て取るべきだろう︒
しかし︑それでもなお︑中世という時代になっての︑女性の側のこうした小さな変化を見逃してはならないと思う
のである︒
五〇
使用本文 ﹃今鏡﹄
講談社学術文庫︵一九八四︶
﹃蜻蛉日記﹄ 新編日本古典文学全集一三︵一九九五︶
﹃更級日記﹄ 新編日本古典文学全集二六︵一九九四︶
﹃和泉式部日記﹄ 角川ソフィア文庫四六︵二〇〇三︶
﹃建礼門院右京大夫集﹄ 和歌文学大系二三︵明治書院・二〇〇一︶
﹃夜の鶴﹄ 講談社学術文庫︵一九七九︶
﹃とはずがたり﹄ 新編日本古典文学全集四七︵一九九九︶
﹃水鏡﹄ 岩波文庫 ︵一九三〇︶
※なお︑私意により︑一部改行などを改めた︒
注
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1︶ ﹃王朝歴史物語の生成と表現﹄︵風間書房︑二〇〇三︶など︒以下︑加藤に関する引用も同書による︒
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2︶ 小峯和明﹁大鏡の語り│語り手と筆記者の位相│﹂︵﹃日本文学﹄一九八八・一︶など︒
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3︶ 角川ソフィア文庫﹃和泉式部日記﹄︵前掲︶の解説︒
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4︶ 久保田淳編︑おうふう︑一九九七︑この項久富木原玲︒
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5 ︶ 山田雄司﹃跋扈する怨霊祟りと鎮魂の日本史﹄︵吉川弘文館︑二〇〇七︶など︒
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6︶ 講談社学術文庫﹃今鏡﹄解説︵一九八四︶︒