ウィーンにおける赤と緑の連立
―― 2010 年市議会選挙と赤緑連立政権の形成 ――
東 原 正 明*
はじめに
1980 年代、ヨーロッパでは複数の国で環境政党・緑の党が国政レベルで の議会進出を果たした。オーストリアでも、すでにチェルノブイリ原発事 故以前から国内での原発建設に反対する運動を展開してきたグループなど を母体としつつ、左右の環境保護勢力が合流する形で緑の党が結成され、
1986 年の国民議会選挙ではじめて議席を得た。さらに 1998 年には、ドイツ において連邦レベルではじめて緑の党が政権に参加し、ドイツ社会民主党
(Sozialdemokratische Partei Deutschlands(SPD))との連立により赤緑連 立政権が成立した。SPD のシュレーダー(Gerhard Schröder)を首相とす るこの政権は 2005 年まで 2 期 7 年継続することになるが、その間には脱原 発政策が決定されるなど緑の党の政策が連邦政治に反映される結果となっ
*福岡大学法学部講師
た。1また、それ以前にもドイツでは、ヘッセンなど州レベルで赤緑連立政 権が構築されており、緑の党の与党としての経験は連邦政府に参加する前 から蓄積されつつあったといえる。2一方オーストリアでは、2010 年に至 るまで連邦レベルのみならず州レベルにおいても SPÖ が緑の党と連立する ことはなかった。しかしこの年、州であるとともに市でもあるウィーンに おいて、オーストリア社会民主党(Sozialdemokratische Partei Österreichs
(SPÖ))が緑の党とともに連立し、州レベルで初の赤緑連立政権が誕生し た。
本稿では、ウィーンで成立したこの赤緑連立政権について、なぜ SPÖ が 緑の党と連立するに至ったのかという視点から政権の形成過程を明らかにす ることを目的とする。まず、連邦国家オーストリアにおけるウィーンの特殊 な立場について、その独自性をふまえて述べる。次に、赤緑連立政権が作ら れるきっかけとなった 2010 年ウィーン市議会選挙に関し、各政党の支持層 や政党間の票の移動について出口調査をもとに確認するほか、選挙戦での各 政党の主張を、緑の党の重要な政策である環境政策と選挙戦で大きなテーマ となった外国人政策に絞って分析する。さらに、選挙後の各党内における議 論と赤緑連立政権成立の背景を検討したのち、この政権綱領に基づいて、こ こでも緑の党の影響が強く表れている環境政策や野党との間で明確に立場を 異にする外国人政策について、特徴を明らかにする。そして最後に、赤緑連 立政権がなぜ形成されたのかに関して考察する。
1.連邦国家オーストリアにおけるウィーンの位置
オーストリアは連邦制を採用しており、政治的には連邦(Bund)、州
(Land)、市町村(Gemeinde)という三つの層からなっている。この三層 の中間に位置する州は相対的に大きな権限を有するオーストリアの重要な政
治単位であり、ブルゲンラント、ケルンテン、ニーダーエスタライヒ、オー バーエスタライヒ、ザルツブルク、シュタイアーマルク、チロル、フォーア アルベルク、そして首都であるウィーンの九つがある。
このような連邦国家であるオーストリアでは、州政府の形成方法は国 家レベルで単一ではなく各州政府が自ら決定しており、その種類は大 きく分けて二つである。その一方は、「プロポルツ(比例配分)の原理
(Proporzprinzip)」に基づく「プロポルツ政府(Proporzregierung)」と呼 ばれるもので、州議会に議席を持つすべての政党が、その議席数に比例して 州政府の閣僚ポストを得る形態である。この「プロポルツの原理」を採用す る州では、多くの場合、州議会に議席を得ている政党は州政府を形成してい る政党でもある。このような州政府を保有している州は、ブルゲンラント、
ケルンテン、ニーダーエスタライヒ、オーバーエスタライヒ、シュタイアー マルク3の五州である。4もう一方は「多数派の原理(Mehrheitsprinzip)」
を採用するその他の四つの州(ザルツブルク、チロル、フォーアアルベル ク、ウィーン)であり、それらの州では州議会多数派が州政府を形成する形 態をとっている。そのうちザルツブルクとチロルは、1998 年まではプロポ ルツ政府を採用しており、それ以前から「多数派の原理」の下で州政府を形 成していたのはフォーアアルベルクとウィーンのみであった。5
このうち、首都ウィーンは、州(Land)であるとともに市(Stadt)でも あるという特殊な地位にあり、ドイツの首都ベルリンやハンブルク、ブレー メンと類似する政治的地位にある。6 ウィーン州議会(Landtag)はウィー ン市議会(Gemeinderat)でもあり、ウィーン州首相(Landeshauptmann)
はウィーン市長(Bürgermeister)でもある。このようなウィーンの特殊性 の根拠は、同市とそれを取り囲む形で存在するニーダーエースタライヒ州の 分割プロセスについて記された 1920 年憲法にまでさかのぼるものであり、
ウィーンは 1922 年 1 月 1 日にニーダーエースタライヒ州から独立し、現在
に至っている。7
任期を 5 年とするウィーン市議会は、定数 100 であり、比例代表選挙に よって選ばれる。8 市議会は市長や副市長(Vizebürgermeister)、 市政府
(Stadtsenat)の閣僚である参事(Stadtrat)を選出する。 市議会から選出 される市政府は、基本的には多数派の原理を採りつつプロポルツの原理も 取り入れた特殊な混合形態として形成される。市政府のメンバーである参事 は、市議会の党派構成に基づき、プロポルツの原理にしたがって任命される が、この原理は実質的には十分機能していない。参事は、ウィーン市憲法
(Wiener Stadtverfassung)の規定にしたがって少なくとも 9 名、最も多く て 15 名が選ばれるが、すべての参事に職務上の管轄があるわけではなく、
二つの種類の参事が存在する。市議会で多数派を構成し政権を担う政党の参 事には、「職務執行参事(amtsführender Stadtrat)」として財政や都市開発 など様々な職務領域が与えられているが、それ以外の政党の参事は政権の役 職を担わない「監査参事(kontrollierender Stadtrat)」でしかない。9 監査 参事は市政府に参加し、投票権も持っているが、職務執行参事のように職務 領域を有しているわけではなく、したがって行政組織を従えているわけでは ない。また、副市長の一人は市議会最大政党から選ばれる。そして、第二党 が市議会で議席の 3 分の 1(34 議席)を占めている場合にのみ、その党から もう一人の副市長が選出される。10
さらに、市内は 23 の区(Bezirk)に分かれ、各区には住民によって直接 選ばれた区議会(Bezirksvertretung)と、区長(Bezirksvorsteher)をトッ プとし間接的に選ばれた区政府(Bezirksvorstehung)が存在するが、各区 の権限は弱いものとなっている。11
政党政治という点に関しても、これまでウィーンは他の州と比較して独 自の性格を有していた。「赤いウィーン」という言葉で表現されるように、
戦間期のウィーンは社会民主主義勢力の拠点として、カトリック政党への
支持が多いオーストリア国内の農村地域とは異なる状況にあった。市政を 担った社会民主労働者党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs
(SDAP))は、ウィーンにおいて住宅政策など様々な実験的政策を遂行し たのであった。12 戦後もウィーン市議会では、SDAP の後継政党であるオー ストリア社会党(Sozialistische Partei Österreichs(SPÖ))13が多数派を 維持してきた。敗戦直後の 1945 年選挙以降、SPÖ は 1996 年と 2010 年の 選挙を除き市議会で過半数を維持した。敗戦後から 1969 年までのウィーン 市議会選挙を分析した政治学者ドレツァル(Martin Dolezal)は、SPÖ が この間にウィーンでの支配的な地位を維持し、強化することに成功したと 分析している。14さらに、同じく政治学者のプレシュベルガー(Werner Pleschberger)らは、世代を超えて広がる、政治的に「普通の経験」となっ ている SPÖ 体制に多くの人々が慣れており、市役所という言葉が SPÖ と同 義語となっているとし、市役所は「SPÖ によって支配された執行機関の道 具」であると指摘している。15
ウィーンにおけるこうした SPÖ 支持の強さは 1973 年の市議会選挙で頂 点に達した。同党の得票率は戦後最高の 60.2%となり、定数 100 のウィーン 市議会において 66 議席を占めるに至った。一方、1996 年選挙では、躍進し たオーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreichs(FPÖ))が 27.9%
を獲得したのに対し、SPÖ は 39.2%にとどまり、1991 年に行われた前回選 挙と比較して 9 議席減らして 43 議席となった。しかしその後の選挙では SPÖ が再び過半数の議席を回復した。2005 年に行われた市議会選挙で同党 は 49.1%の票を獲得し、55 議席を得て過半数を維持した。また、この選挙 では、緑の党は 2001 年に実施された前回選挙と比較して得票率を 2.2 ポイ ント増加させて、14.6%、14 議席を獲得した。さらに、オーストリア国民党
(Österreichische Volkspartei(ÖVP))も 2.4 ポイント増の 18.8%で第二党 となったが、FPÖ は得票率と議席を減らし、14.8%で 13 議席となった。16
表:戦後のウィーン市議会選挙における各政党の得票率(単位は%、カッコ 内は獲得議席数)
SPÖ ÖVP FPÖ 緑の党 LIF KPÖ
1945 57.1 (58) 34.9 (36) 8.0 (6)
1949 49.9 (52) 34.9 (35) 6.8 (6) 7.9 (7)
1954 52.7 (59) 33.2 (35) 4.6 (0) 8.2 (6)
1959 54.4 (60) 32.4 (33) 8.0 (4) 5.2 (3)
1964 54.7 (60) 33.9 (35) 5.7 (3) 5.0 (2)
1969 56.9 (63) 27.8 (30) 7.2 (4) 2.9 (0)
1973 60.2 (66) 29.3 (31) 7.7 (3) 2.3 (0)
1978 57.2 (62) 33.8 (35) 6.5 (3) 1.8 (0)
1983 55.5 (61) 34.8 (37) 5.4 (2) 2.5 (0) 1.1 (0)
1987 54.9 (62) 28.4 (30) 9.7 (8) 4.4 (0) 1.7 (0)
1991 47.8 (52) 18.1 (18) 22.5 (23) 9.1 (7) 0.6 (0)
1996 39.2 (43) 15.3 (15) 27.9 (29) 7.9 (7) 8.0 (6) 0.6 (0)
2001 46.9 (52) 16.4 (16) 20.2 (21) 12.4 (11) 3.4 (0) 0.6 (0)
2005 49.1 (55) 18.8 (18) 14.8 (13) 14.6 (14) 1.5 (0)
2010 44.3 (49) 14.0 (13) 25.8 (27) 12.6 (11) 0.7(0) 1.1(0)
出典:ウィーン市ホームページ公表のデータおよび Martin Dolezal, Wien blieb rot. Landtagswahlkämpfe in Wien 1945-1969. in: Herbert Dachs (Hg.), Zwischen Wettbewerb und Konsens. Landtagswahlkämpfe in Österreichs Bundesländern 1945 bis 1970. Wien, 2006. S.412 より、筆者作成。 その他、1969 年には民主的進歩党
(Demokratische Fortschrittliche Partei(DFP))が得票率 5.2%で 3 議席を獲得し た。なお、1949 年と 1954 年の FPÖ のデータは、その前身の政党である独立者同 盟(Verband der Unabhängigen(VdU))のものである。
2.2010 年ウィーン市議会選挙
(1)選挙の結果と投票動向
2010 年に行われたウィーン市議会選挙の投票率は 67.6%で、2005 年に行 われた前回選挙(60.8%)よりも 6.8 ポイント上昇した。この選挙で SPÖ は 引き続き第一党となったが、FPÖ が大きく得票を増やし、2001 年以降 SPÖ 単独政権が続いていたウィーン市政に変化が生じることになった。調査によ れば、この選挙で最も重視されたテーマは学校制度や教育問題、医療につい てであり、いずれも 63%の有権者が重要であったと回答した。また、治安 については 61%が指摘したほか、環境保護や再生可能エネルギーについて も 51%の有権者が挙げた。そして、移民受け入れ政策を争点とした有権者 は、41%であった。17それではまず、この 2010 年選挙での各党の得票状況 を見てみよう。
この 2010 年選挙で SPÖ は、44.3%の得票率をあげて第一党となった。
同党の得票率は、戦後最低であった 1996 年選挙(39.2%)を上回ったもの の、2005 年に行われた前回選挙(49.1%)を 4.8 ポイント下回った。獲得し た議席数も 49 議席にとどまって過半数に届かず、1996 年選挙(43 議席)に 次ぐ低水準となった。市政を担う SPÖ は、同年 2 月に市民を対象にした意 向投票(Volksbefragung)を行い、18その結果に基づいて選挙直前から毎週 末の地下鉄 24 時間運行を実施するなど、有権者に対して「選挙用のあめ玉
(Wahlzuckerl)」を与えようとしたともいえる政策を実施したが、十分な 選挙結果を得ることができなかった。
また、連邦レベルでは SPÖ と並ぶ二大政党である ÖVP は、伝統的に SPÖ の固い地盤である「赤いウィーン」では支持を集めることができてお らず、とくに 2010 年の選挙では戦後最低となる 14.0%の得票率で 13 議席に とどまった。同党は 1991 年以降、2005 年選挙後の 5 年間を除いてウィーン
市議会では FPÖ に次ぐ第三党であり、2010 年選挙では前回選挙より得票率 を 4.8 ポイント低下させた。ÖVP は、西部諸州には強い支持基盤をもつも のの、ウィーンでは異なる状況に置かれており、結局のところ市政において
「周辺化している」19ということができる。
一方、極右のオーストリア自由党20 は、今回の選挙で 25.8%を獲得して 第二党となり、全議席の 4 分の 1 を超える 27 議席を得た。同党は得票率 を前回選挙より 10.9 ポイント増加させ、1996 年選挙(27.9%)に次ぐ戦後 二番目の得票で「唯一にして明らかな勝者」21となった。そして緑の党は 12.6%を獲得し、第四党ながら ÖVP に迫る 11 議席となった。これは、同党 にとって前回選挙に次ぐ戦後二番目に高い得票率であった。
この 2010 年ウィーン市議会選挙における各党の支持層や投票動機、各党 間の票の移動について、世論調査機関である ISA と SORA が行った調査に 基づいて検討してみよう。22
SPÖ は、教育水準で見た場合、大学卒業者も含めたすべての層から支 持を得ていたとみられる。しかし同党は、女性の 50%から支持されてい たのに対して、男性からの支持は 41%にとどまっていた。また SPÖ は、
両親のうちの少なくとも一方がオーストリア以外の生まれであるか、
あるいは本人がオーストリアへ移民してきたという意味で「移民の背景
(Migrationshintergrund)」を持つ者の 55%から得票した。また、社会住宅 在住者の 57%が SPÖ に投票するという結果であった。さらに職業別では、
労働者(Arbeiter)の 52%から支持を得る一方、事務職員(Angestellte)
からは 38%の支持にとどまった。SPÖ に対する投票動機としては、1994 年 から市長を務めるホイプル(Michael Häupl)の市政が継続することを望む 有権者が多く、同党が市政でよい働きをしていることを挙げる声が続いた。
一方、FPÖ に関しては、SPÖ とは逆に男性からの支持(26%)が女性 からの支持(20%)よりも多かった。また年齢別では、60 歳以上の有権
者から 27%の支持を集めており、29 歳以下(23%)、30 歳以上 59 歳以下
(23%)の年齢層と比較してその割合はやや高かったが、とりわけ 60 歳以 上の男性では 32%に支持されていた。FPÖ への投票者の意識のうち他の政 党への投票者と明確に異なる点は、ウィーンの生活環境についての評価で あった。他の政党への投票者では 80%以上がウィーンは非常に生活するに 値する都市であると考えているのに対して、FPÖ への投票者ではウィーン での生活への不満を持つ者が多く、46%がウィーンは質の高い生活をする環 境を失っているとの意見を持っていた。FPÖ への投票動機としては、SPÖ の絶対多数(absolute Mehrheit)獲得を阻止することや、同党が移民受け 入れに反対していることが指摘される。
ÖVP は、年齢や「移民の背景」の有無、性別で支持に大きな変化はな く、どの分類においても 14%前後の得票率であったが、職業別では伝統的 な支持層である自営業者(18%)と事務職員(17%)からやや多く支持され ていた。ÖVP への投票動機でも SPÖ の絶対多数獲得阻止が重要であり、さ らに同党が自らの利益を代表している点が続いた。
そして緑の党においては、29 歳以下の若者からの支持率が 20%と高く、
対照的に 60 歳以上では 5%にとどまった。職業別では、自営業者(24%)
や公的機関の職員(öffentlich Bedienstete)(18%)、事務職員(17%)に おける支持率が比較的高い。投票動機として多かったのは、同党の環境保 護政策を支持していることのほか、ウィーンにおける FPÖ に対する対極
(Gegenpol)となることへの期待であった。
緑の党への支持が比較的多い若年層の投票動向に関してであるが、調査 によると 16 歳以上に選挙権があるこの選挙では、同党は学生や生徒から多 くの支持(30%)を集める一方で、両親が大学入学資格であるマトゥーラ
(Matura)を持たない有職の若者では支持が非常に少なかった(3%)。23 これに対して、今回はじめて選挙権を得た年齢層のうち、職業を持っている
人々では 45%が FPÖ に投票するという結果になった。世論調査の専門家で あるオグリス(Günther Ogris)は、この選挙で「FPÖ はマトゥーラを持た ない男性からとくに支持を得た」と分析している。24
それでは、各党間の票の移動はどうだったのであろうか。「独り勝ち」状 態であった FPÖ を中心に見てみよう。今回の選挙では、FPÖ は 19 万 4517 票を獲得したが、ISA と SORA の分析によれば、そのうち約 4 万 5000 票 が 2005 年に行われた前回選挙では SPÖ に投じられた票であったと推測さ れる。また、FPÖ は緑の党からも同様に約 2 万 4000 票を得た。そして前回 棄権した有権者も今回は約 4 万 4000 人が FPÖ に投票したと考えられる。
同党へは ÖVP からも約 2 万 1000 票が移動したと見られ、今回選挙で FPÖ は、市議会に議席を持つ政党のうち唯一、前回選挙と比較して得票率を高め ることに成功した政党であった。25
このように ISA と SORA の出口調査によれば、この選挙では SPÖ 支持 層から多くの有権者が FPÖ へ投票したとみられるが、特定の行政区ではさ らに明確な傾向が見てとれる。26たとえば、労働者が多く居住し、伝統的に SPÖ の拠点となっていた 11 区スィンメリンクでは人口の 18%が外国人、
31%が「移民の背景」をもつとされるが、ここで SPÖ は前回選挙と比較し て得票率を 12.8 ポイント減らす一方で、FPÖ は 18.3 ポイント増となった。
また、21 区フロリツドルフの住民のうち 12%が外国人、23%が「移民の背 景」をもつとされており、この区で SPÖ は得票率が 11.4 ポイント減となる 一方、FPÖ は 17.5 ポイント増加させた。この FPÖ の得票増大について、
日刊紙『ディ・プレッセ』はその要因を外国人問題であると指摘している。
同紙は、この外国人問題が現在では社会と政治における決定的なテーマであ り、FPÖ に限らず選挙戦はこの問題によって特徴づけられているとする。
「現在、政治的な論争において移民問題のように市民を情緒化させることの できるテーマはほかにはない」のである。27
(2)各党の主張 ―環境政策と外国人政策を中心に―
次に、選挙戦で各党はどのようなことを訴えたのであろうか。ここでは、
環境政策と外国人政策に対象を絞って各党の選挙綱領を比較することにしよ う。環境政策については、選挙後に連立政権を組むことになる SPÖ と緑の 党を中心に、各党のこの選挙での基本的な立場を確認することにする。それ は、緑の党が政権に加わったことによって、ウィーン市政の環境政策が一定 程度同党の影響を受けることになるからである。
長い間市政権を握ってきた SPÖ は選挙綱領において、2009 年にコンサル ティング会社 Mercer によって実施された世界 215 都市の生活の質に関する 調査で、ウィーンが世界で最も生活の質の高い都市と評価された点を取り上 げ、「ウィーン人は当然ながら生活の質の高さを誇らしく思っている。世界 の 215 都市の中でウィーンは明確な 1 位であった」として、市政がいかに順 調に進められているかを強調した。28その上で SPÖ は、ウィーン市内に国 立公園や広い森がある点、ゴミの焼却を通じて多くの家庭に暖房熱や電気を 供給している点など、ウィーンの環境の良さや市政府が多くの成果をあげて いる具体例を挙げた。そして同党は、ウィーン市で今後予定している環境政 策について具体的な項目を掲げている。その基本認識はやはり Mercer 社の 調査結果をふまえたもので、世界で最も生活の質が高い都市である状況を
「継続するために、我々は自然資源や生活の基盤を守るよう、引き続き多く のことをしなければならない。それは、さらに多くの緑を増やし、新たな気 候保全プログラムを実行するとともに、エネルギーの一層の効率化、そして 再生可能エネルギーの強力な導入によって行われる」と彼らは訴えた。SPÖ は環境政策の基本として「あらゆる家の玄関の前により多くの緑を、隣接す る緑地までの距離を短く、全ての人に高価値の食料品を、健全な農業を、美 しい街を、ウィン・ウィンな状況としての気候保全を」という点を掲げ、
ウィーン市民に対してその直接的な日々の生活に一層質の高いものをもたら
し、逆に市民の側から環境改善に貢献してもらう動機付けを与えることを目 指した。29
これに対して、ウィーンの環境が置かれた状況についての緑の党の認識 は、長く市政府の座にあり自らの実績を強調したい SPÖ とは全く異なった ものであった。緑の党の選挙綱領では、「ウィーンは生活する価値の高い都 市である。ただし現在、それは人々が適切な地域に住んでいる場合のみであ る。多くの人々の周辺には緑がなく、彼らは交通量が多い通りに面し、騒音 と汚れた空気に悩まされている。力が湧いてくる、あるいは遊ぶための休め る公園はなく、夏に熱せられた都市を冷やしてくれる木々も緑もない」とし て、ウィーンの現状が強く批判された。緑の党は、環境改善を通じて人々が ウィーンでの生活に喜びを感じること、そして、ウィーンへの通勤者が市内 から周辺地域に転居するのを防ぎ、彼らに公共交通機関を利用してもらうこ とを通じて自動車通勤を減らして、騒音や排気ガスなどによる環境への負荷 を抑えることも訴えた。こういったことから、緑の党の環境政策は交通政策 とも密接な関係を持つものであるといえよう。30
さらに ÖVP は、自らがエコロジーな持続性(ökologische Nachhaltigkeit)
やエコロジーな社会的市場経済(ökosoziale Marktwirtschaft)を重要視して いることを明確に認めている。その上で同党は、「ウィーンでは環境インフ ラへの投資がここ数年先延ばしにされた。ウィーンは二酸化炭素排出のよう な本質的な環境データでは数値の減少を達成することはできなかったし、再 生可能エネルギーの供給ではさらに順位が低下した。それによって、よりき れいな空気やより少ない騒音、この都市の価値の高い自然資源のエコロジー な利用を通じて、ウィーン市民がより高い生活の質を手にする機会は無駄に された。それとともに、この領域における投資の増加によって経済力と雇用 の場を生み出す可能性も活用されなかった」と、環境政策と経済政策を結 びつけつつ、これまでのウィーン市政府の政策を批判した。その上で ÖVP
は、ウィーンのエネルギー供給が再生可能エネルギーの導入に成功していな いとも指摘し、同市はオーストリア国内でも最も遅れた状況にあると断定し た。こうした認識のもとに ÖVP は、ウィーンを太陽熱利用技術の中心的な 都市にするよう求めた。さらには、エネルギー供給と関連して断熱材開発に も投資することによって雇用を生みだすとともに、二酸化炭素排出量の減少 も達成できるとした。ÖVP の政策は、その支持層に経営者が多いことから も明らかなように、環境政策と経済政策を関連づけることが意識されたもの になっていた。31
これら三党が環境政策を積極的に訴える一方で、FPÖ の選挙綱領には環 境問題に関する言及が全くなかった。交通政策では地下鉄の延伸や近郊電車 である S バーンの駅建設などが要求されている程度であり、この要求と環 境政策との関連については触れられていない。また、ウィーンの自然環境に ついての認識や政策も打ち出されていなかった。32
環境政策に加えて、各党の外国人政策や統合政策についても検討してみ なければならない。のちに述べるように、ÖVP の敗因として、党内からは 同党の外国人政策が FPÖ を強く意識しており、政策的に著しく近接してし まったことも指摘されている。出口調査によれば、2005 年選挙で ÖVP に投 票した有権者のうち 16%が今回は FPÖ に投票しており、その割合は、労働 者層を中心に FPÖ との間で激しい競合関係にある SPÖ の 14%を上回って いる。33 こうしたことを念頭に、各党の外国人政策や統合政策を選挙綱領か ら比較してみよう。
まず、ナショナリズムに基づく排外主義的な主張を展開する FPÖ につい てであるが、彼らは選挙綱領において「1980 年代後半以降、ウィーンへの 激しく、制御されていない移民が起こっている。付随する措置を伴わないこ の移民の波は、多くのウィーン人にとって大きな問題をもたらした。それは とりわけ住宅や雇用の場、学校、保健システム、公共空間の利用や治安と
いう分野において、測定可能なほど生活の質が低下したということであり、
この問題にとくに該当するのは社会的弱者である」との認識を示した。そし て、ウィーン市政において「SPÖ は「多様性」の名のもとに、可能な限り の「雑然とした社会」からなる左翼の多文化空間を「充実化」と称して促 進してきた。文化的に異質で教育を受けていない層、とりわけ原理主義的な イスラム信者による激しい移民活動は、すでに大きな並行社会あるいは対 抗社会(Parallel- bzw. Gegengesellschaft)を生み出している。さらには、
ウィーンでは庇護申請者の受け入れ率が意識的に超過されている」として、
多くの移民や庇護申請者がウィーンに存在することによって社会が分断され ていると批判した。また、治安に関しても、FPÖ によれば「犯罪増加の主 原因は「犯罪ツーリズム」と庇護申請詐欺である。ウィーンにおける家宅 侵入一味のほぼ 100%は東欧や南欧からやってきている。麻薬売買や売春で は、アフリカの黒人マフィアがウィーンで活発に活動している」のであっ て、同党の主張では外国人の存在と犯罪が密接に結びつけられていた。こう した状況認識をもとに、彼らは「非ヨーロッパ諸国からの移民受け入れ停 止」、「真の難民のみに庇護を」、「ブルカの使用禁止」、「イスラムセンターや ミナレットの禁止」、「シェンゲン協定の内と外の境界のコントロール」、「庇 護センターの建設禁止、庇護犯罪者の受け入れストップ」など、外国人の排 除を目的とした排外主義的主張を展開した。34
それに対して、今回の選挙で外国人政策に関して FPÖ に近い主張を展 開した ÖVP は、「文化的な多様性はウィーンにとって大きな利益をもたら す。ゆえに我々は、統合(Integration)を同化(Assimilation)とはみなし ていない」としつつも、「文化的な多様性に対して、文化的慣習あるいは宗 教的な根拠のある伝統が基本的人権や自由権を侵害しそうな場合には制限 が設けられる」とした。彼らはオーストリア社会との間で、「移民の側から 一定程度文化的に適合しなければならないと同時に、ドイツ語の習得は統合
の成功にとって必要不可欠」であるとの考えを示した。そして ÖVP は、統 合と庇護、移民は明確に区別されるとして、庇護は人権であって迫害され た者はジュネーブ難民条約に基づいて保護されるとしたものの、移民につ いては、「経済やイノベーションの立地点としてのウィーンは、この街で働 く人々のノウハウや能力に頼って生きている。ゆえにまさに、ウィーンの ためにベストの人物を連れてくる必要がある」として、オーストリア経済 にどれほど貢献できるかといった観点で能力を評価し、受け入れる政策を 推進する連邦政府の立場を支持した。また、ウィーンの人口の 3 分の 1 が オーストリア以外の国籍を持つか国外で生まれたオーストリア国籍保持者 である点を指摘し、外国人統合のための広範なマスタープランの必要性を訴 えるとともに、SPÖ はそれを整備していないと批判した。彼らがとくに強 調したのは、ドイツ語能力がなければ統合の可能性も、教育や労働に参加 する可能性もないという点であり、移民のオーストリア社会への統合に際 しては、十分なドイツ語能力が鍵になるとした。それゆえ、オーストリア へ移民する予定の者に対して、移住する前に一定のドイツ語力を身につけ ることが求められた。さらに ÖVP は、移民に対して「我々の社会で受け入 れられるための前提条件である、オーストリアの法秩序や価値秩序への明確 な理解を表明する」ことを要求している。この、彼らのいう「居住者心得
(Hausordnung)」には世俗性も含まれており、女性に対しての宗教的な動 機による服装規則などのような「オーストリアの基本権とは一致しない宗教 的な倫理観は許容されない」としたのであった。この考えに基づいて、公共 の場所でのブルカやニカブのような女性の顔を覆う服装の禁止が主張され、
イスラム教徒に対する強い態度が示された。さらに ÖVP は、ウィーン市の 多くの地域で SPÖ の住宅政策が外国人によるゲットー形成の問題に直面し ているとし、FPÖ と同様に SPÖ の政策は「並行社会」の発展を促進してい ると批判したのであった。35
これら二つの政党に対して、ウィーン市政を担い、統合政策を進めてきた SPÖ は異なる立場を明確にした。彼らはまず、「ウィーンに対して、出身の 異なる人々が共同生活を行うという、人々がお互いを煽ることなく解決を目 指すべき挑戦が突きつけられている」として、外国人の「統合は一方通行で はなく、全ての人々の共通した努力を必要としている」、「我々の国の多様性 は、社会の繁栄や経済のためのチャンスであるとともに必要でもあるとみな されなければならない」との認識を示した。したがって SPÖ の統合政策の 目的は、「多様性の中で敬意を持って共に生き、共通の言語を話すこと」な のであった。このような SPÖ の統合政策に対する考えは、「人種主義や外国 人敵対性に明確に反対する態度によって支えられている」といえる。具体的 には、ÖVP もその必要性を主張しているように、近年オーストリアでは移 民に対してドイツ語履修を強制する政策がとられているが、SPÖ はドイツ 語の履修を重視しながらも、「第二外国語を取得するためには母国語が重要 であるという点も認識しており、それを促進する」として、言語の多様性維 持の重要性についても言及した。36
さらに緑の党も、「統合は同化ではない」として、ウィーンにおける人種 や国籍の多様性について容認する立場を明確にしている。彼らは、「ウィー ンは文化的、言語的に多様な都市であり、移民都市である」とし、「以前か らウィーンに住む者と移民は共同でウィーンを構成してきた。福祉社会や情 報社会への変化は、我々すべてによってなされた」という認識を示した。そ の上で、危機の時代においては労働市場でオーストリア人と移民の間に競合 する圧力がかかる点を指摘し、「移民は法的、構造的に不利な扱いを真っ先 に受ける立場にある。彼らはウィーンにおいてますます激しく人種的に不当 な権利侵害にさらされ、経済的、社会的不平等や高い失業率に直面させられ ている」と、ウィーンに住む外国人が多くの問題を抱えて厳しい立場にある 現状を批判した。緑の党は、外国人の置かれた状況改善する上で機会の平等
が重要である点を指摘したのであった。37
3.ウィーンにおける赤と緑の連立政権
(1)選挙後の各党の反応
2010 年のウィーン市議会選挙の結果、ウィーンでははじめて SPÖ と 緑の党による連立政権が作られることになった。オーストリア放送協会
(Österreichischer Rundfunk(ORF))の委託によって世論調査機関の ISA と SORA が行った調査では、SPÖ の連立相手として有権者の 34%が ÖVP を望んでおり、緑の党を望む者は 28%、FPÖ は 19%であった。したがっ て、有権者が最も期待したのは SPÖ と ÖVP による赤黒連立政権が形成さ れることであり、SPÖ と緑の党による赤緑連立政権を望んだ者はやや少 なかった。38 しかし、SPÖ への投票者に限定して同様の質問をした場合、
43%が緑の党との連立を望み、ÖVP との連立を求める者は 40%であった。
僅差ではあるが、SPÖ 投票者の間では連立パートナーとして緑の党の方が 好まれる結果であった。39最終的に SPÖ は、ウィーンにおいて赤と緑の連 立政権を選択したのであった。
連邦レベルでの赤緑連立政権成立については、かつて政治学者のフィルツ マイヤー(Peter Filzmaier)が、2005 年に FPÖ で党内紛争が発生し、同党 から分裂して BZÖ が結成された直後に仮に選挙が行われていたならば、そ の可能性は高まっただろうと推測していた。彼によれば、もし選挙が実施 された場合、SPÖ と緑の党は選挙戦において、極右の FPÖ と 2000 年から 連立政権を形成してきた ÖVP に対抗する立場を通常よりも鮮明にしたと思 われるからであった。というのも ÖVP が勝利し、同党を中心とした連立政 権が作られる可能性が生じたとしても、当時の SPÖ 党首グーゼンバウアー
(Alfred Gusenbauer)と緑の党党首ファン・デア・ベレン(Alexander
van der Bellen)にとって、ÖVP の連立パートナーとなることは党内的に認 められないと考えられるからであった。40しかし、当時は任期半ばで国民議 会が解散されて選挙が行われることはなかった。FPÖ が ÖVP との連立政権 から離脱したのに替わって BZÖ が連立パートナーとして政権に残り、選挙 を経ずに連立の組み替えが行われた。そのため ÖVP 主導の右派連立政権が 維持され、連邦レベルで赤緑連立政権が成立することはなかった。41
その一方で、市町村レベルでは 1977 年にザルツブルク市議会選挙で 5.6%
の得票を得た「市民リスト(Bürgerliste)」がオーストリアの市民運動とし てはじめて議会に進出した。さらに「市民リスト」は、1982 年の同選挙に おいて 17.7%の得票率で 7 議席を獲得し、それによってヨーロッパで最初の
「緑の」市参事が誕生していた。42
それでは、2010 年の市議会選挙後のウィーンではどうだったのだろう か。まず、選挙結果を受けた各党の状況や反応、連立政権構築に向けた展望 について見てみよう。
選 挙 に 勝 利 し た FPÖ の 連 邦 党 首 シ ュ ト ラ ー ヘ(Heinz-Christian Strache)にとって、この選挙の目的は「ウィーン市における(SPÖ によ る)絶対的な赤い命令、そして SPÖ の絶対多数維持を打ち破り、FPÖ が支 持率 20%を越えること」であった。 選挙翌日の『ディ・プレッセ』の社説 は、「FPÖ は、他のすべての政党が失ったものをすべて勝ち取った。その最 大のものは、これまで完全に統治していた市長の政党である SPÖ からであ る」とし、その意味するところについて、「他のすべての政党への投票者と して期待されるべき人々が各党のより身近な支持グループとして固定されて いるのに対して、ハインツ - クリスティアン・シュトラーヘはウィーンにお いて不満の独占権やそれとともに予測がつかないほどの成長可能性を手に入 れた」ということであるとした。そして、「それに該当するのはシュトラー ヘの中心的なテーマである移民受け入れと統合だけではない。これらの問題
で FPÖ と厳しく一線を画した SPÖ と緑の党は、自らの支持者に、党が統 合というテーマを「支配している」ということを全く納得させられないでい るし」、右派的傾向を示し、FPÖ に近い政策を提示してシュトラーヘの掲げ る政策(明かり)に近づこうとした「ÖVP は、自らの「シュトラーヘの明 かり」路線によって予想どおり惨敗を喫した」と指摘した。43しかし、FPÖ は SPÖ の過半数確保を阻むことに成功したとはいえ、のちに述べるように ÖVP や緑の党が同党との連立を拒否する中で、シュトラーヘがウィーン市 長になる道は断たれることになった。選挙を指揮した FPÖ ウィーン幹事長 イェネヴァイン(Hans-Jörg Jenewein)は、党が「引き続き成長し、ブル ジョアジーの支持を受ける中道政党としての地位を確保すること」を望むと し、今後は ÖVP の支持基盤である「ブルジョア陣営に進出し、党の主張も 拡大させる」ことを目指すと表明した。44
SPÖ 内では、選挙戦の終盤、ÖVP との連携を目指す傾向が急速に衰 えた。市参事の一人は「かつてウィーン SPÖ には赤黒連立政権への賛 成が多数であったが、(ウィーン ÖVP 党首の)クリスティーネ・マレク
(Christine Marek)が台無しにした」と述べた。SPÖ の市参事ヴェーセ リー(Sonija Wehsely)は、「明らかに ÖVP は、ポピュリズムや外国人敵 対性への防護壁ではなかった」と指摘し、ÖVP は、治安問題や外国人政 策にねらいを定めた選挙戦を展開したがゆえに FPÖ の勢力拡大を助ける 結果になったことを非難された。その一方で、緑の党との連立について は、選挙結果を受けて SPÖ 党内で賛成意見が増加した。副市長ブラウナー
(Renate Brauner)は SPÖ と ÖVP による赤黒連立と SPÖ と緑の党による 赤緑連立は等価値にあると表明し、ホイプルの代理を務めるルードヴィック
(Michael Ludwig)も「緑の党には新たな原動力をともなったオプション を持っているという有利な点がある」と述べた。45 これに対して、選挙直前 の段階でホイプルは、SPÖ の「若い党員が明らかに ÖVP よりも緑の党に魅
力を感じていることは否定しないが、それが SPÖ の意見の幅を反映してい るわけではない」として、ウィーン市政府の連立政権の構成に関しては選挙 結果を見た上で「完全にプラグマティックに」判断することを強調してい た。46
一方、戦後最悪の得票率となった ÖVP では、党の連邦幹事長であるカ ルテンエッガー(Fritz Kaltenegger)が、SPÖ のホイプルと FPÖ のシュ トラーヘの争いの中で ÖVP が自らの選挙テーマを提示することに成功し なかったとの分析を示した。ウィーン ÖVP 党首マレクは選挙結果を「幻 滅し、失望するものだ」としつつも、次の選挙までの 5 年間ウィーンのた めに働くこと、そして SPÖ と連立することについて用意ができていると述 べた。また、連邦党首プレル(Josef Pröll)も「つらい敗北だ」と認めなが ら、ウィーンで ÖVP が SPÖ と連立政権を作ることを望んだ。一方、かつ ての ÖVP 連邦党首で連邦政府の副首相も務めたブーゼク(Erhard Busek)
は、ウィーンで ÖVP が是が非でも SPÖ と連立を組むことについて警告を 発した。彼によれば、連立を組む場合の基本条件は、市政府でどのような 権限を ÖVP が握れるのかという点であった。それに対して緑の党の政権参 加についても、彼はその適応過程には困難が伴うだろうとした。ブーゼク は、エネルギー供給における「石油やガスからの完全離脱を誰も真剣に受け 取ることはできない」、「ウィーンのエネルギー問題は大きな風車では確実に 解決できない」とし、緑の党の主張には実現性がないとの認識を示した。
また、党が行った選挙戦に関して彼は十分であったとは考えておらず、「明 らかに党が、途切れ途切れに FPÖ との競合へ足を踏み入れるという誘惑に 負けた。しかし、シュトラーヘを右に追い越すことはできない。決定的な 誤りは、ウィーンの選挙での ÖVP 独自のテーマを見つけられなかったこと である」と指摘した。したがってブーゼクの判断では、ÖVP の選挙テーマ が FPÖ に接近してしまったことが、同党の得票減へとつながったのであっ
た。47
ÖVP の敗北については、『ディ・プレッセ』も同党が選挙の際に訴えた 政策に問題があったと指摘した。同紙が強調したのは、選挙ごとにその立 ち位置が変化するウィーン ÖVP の「イデオロギー的移り気(Ideologische Sprunghaftigkeit)」についてであった。現在は EU の欧州委員会委員(地域 政策担当)を務めるハーン(Johannes Hahn)がウィーン ÖVP 党首であっ た時期にはリベラルな路線がとられ、同性愛者の結婚などの政策では連邦 ÖVP と異なる態度が示されるとともに、経済政策では民営化推進に強い賛 意が示されていた。しかし、マレクのもとでウィーン ÖVP は右派的な「法 と秩序の選挙戦」を進め、イスラム教徒に対するブルカの禁止や、移民に対 してオーストリアへ移住する前にドイツ語を履修しておくことを要求した。
このマレクの路線については、ÖVP の他の州組織からも問題視され、イン スブルック市長のオピッツ - プレーラー(Christine Oppitz-Plörer)もブー ゼクと同様に、FPÖ 党首の「シュトラーヘを右に追い越そうとするのであ れば、それはあまり意味がない」と批判したのであった。48
そして緑の党についてであるが、同党は選挙前からすでに得票の減少が予 測されていた。だが、党連邦代表のグラヴィシュニク(Eva Glawischnig)
は、自党がいくらかの票を失うとしても、「SPÖ が絶対多数を失うことが重 要だ」との考えを示していた。また、環境保護は緑の党の重要なテーマであ り続けてきたが、近年ではその一部を他の政党も唱えるようになってきた。
したがって同党は「反ファシズムやリベラルな外国人政策、右翼ポピュリズ ムに対する抵抗」へと主張を拡大させていたのであった。しかし、ウィーン での選挙にいたる数ヶ月の間に、緑の党はシュタイアーマルク州議会選挙で 5.6%、ブルゲンラント州議会選挙で 4%しか得票できず、政権の職を得るこ とに成功していなかった。しかも、そうした政権を担う経験と並んで、同党 は官僚機構と十分な接点を持ってもいないのであった。ウィーン市議会選挙
に立候補したヴェルナー - ロボ(Klaus Werner-Lobo)は、「問題は、我々へ 投票することを考える可能性のある人々が、我々の実行力の欠如を証明して いることである。なぜなら、我々は政権にはいないからである」と述べたの であった。49
(2)赤緑政権成立の背景
選挙結果を受けて、単独過半数を失った SPÖ は、議席を獲得したいずれ かの政党と連立政権を作らなければならない状況に置かれた。ホイプルは FPÖ との連立を拒否したが、これに対して FPÖ 党首シュトラーヘは、選挙 結果をふまえて、「人々は ÖVP にも緑の党にも SPÖ の立身出世の手助けを させたくないのだ」とし、「選挙の勝者である FPÖ は排除されるべきでは ない」と批判した。しかし、ウィーン ÖVP 党首のマレクが FPÖ との「共 同作業を行う機会はない」としたほか、緑の党連邦代表代理で、今回の選挙 においては筆頭候補であったファシラコウ(Maria Vassilakou)も FPÖ と の連立を「とんでもないこと」とし、どの党も FPÖ と連立を組む可能性を 完全に否定した。50
1996 年に SPÖ がウィーン市議会での過半数を失い、ホイプル市長のも と、はじめてウィーン ÖVP との間で連立政権が形成された際、それと並 行して SPÖ は緑の党とも協力関係を構築し、その関係は 2001 年や 2005 年 の市議会選挙で SPÖ が単独過半数を獲得したのちも継続した。これによっ て、緑の党の政策は無料のシティ・サイクル事業、バイオマス発電やパッシ ブハウス団地の提案など、環境政策の領域ですでに実現されており、週刊誌
『プロフィール』は、赤緑連立政権が作られる際には、むしろ統合政策や教 育政策が重要になるであろうと予測した。しかし、SPÖ における緑の党と の連立構想について党内では、当初から赤緑連立政権ができることで FPÖ がさらに強化されるのではないかとの危機感も高まっていた。ヨーロッパ議
会議員のスヴォボダ(Hannes Swoboda)は、自らが赤緑連立に賛成である と表明した上で、自党の支持層にその成果が十分伝わるかについて懸念して いると述べた。51
それでも『プロフィール』は、歴史的に SPÖ と緑の党の間には「複雑な 関係」があるとして、両党が連立することには一定の理由があると報じた。
同誌によると、SPÖ は戦前から戦後かけてオーストリアにおける中道左派 の政党として独占的な地位にあり続けた。しかし、反原発運動の高まりとと もに党員が環境保護運動へと流出する一方、オーストリア政府が脱原発政策 を選択することによって原発建設に関わるはずであった建設業などの労働組 合は大きな打撃を受け、環境保護運動への強い反発も生まれた。さらに、
1986 年に緑の党が国民議会選挙に候補者を立てた際には、ますます多くの 人々が SPÖ を離れ、その中には、緑の党の前連邦代表ファン・デア・ベレ ンも含まれていた。同時に、緑の党の掲げる政策について、数千の雇用の場 を消し去るものだとして、オーストリア労働組合総同盟(Österreichischer Gewerkschaftsbund(ÖGB))内で SPÖ を支持する会派が強く非難したので あった。
一方で、若い SPÖ 党員には異なる考えを持つ者もいた。のちに国民議 会 SPÖ 院内総務(Klubobmann)となったチャップ(Josef Cap)とウィー ン市長となったホイプルは、すでに 1982 年の段階で、党の理論誌『未来
(Zukunft)』において「緑の党が悪意に満ちたライバルではなく、労働運 動にとって当然の同盟パートナーである」と指摘する論文を執筆していた。
彼らは、資本主義的な成長モデルの危機は、労働者にとって不吉な双子、す なわち失業と自然破壊を強化するものであるとの認識を示した。ゆえに環境 保護運動に対しては、労働運動の側からの明確な分析と展望を見出すことが 必要であって、SPÖ と労働組合の対応が不足していると認識される問題へ の答えを求める運動として把握されなければならないと訴えた。その上で、
SPÖ と環境保護運動の間には開かれた、誠実な対話過程を通じて、「新たな 社会的ブロック(neuer soziale Block)」がもたらされるのであって、それ は「変化する労働運動と変化するオルタナティヴ運動の歴史的同盟にとって より大きな意味がある」とさえ述べていたのであった。52 ホイプルは、この ように主張してから約 30 年後、ウィーン市長として緑の党との連立に取り 組むことになるのであった。
さらに 1985 年には、チャップはジャーナリストのペーリンカ(Peter Pelinka)とともに、ニーダーエースタライヒ州ハインブルクでの発電所建 設とそれに対する激しい反対運動を通じて、若者層をはじめとして国民の中 に根本的な価値の転換が起こり、女性運動や平和運動、環境保護運動などへ 関心が高まったと指摘した。そして、SPÖ の中核となる支持層が縮小して おり、ÖVP も同様の状況にあることから、両党の連立は「敗者の連立」で あって、それゆえ民主的な社会変革は SPÖ と ÖVP の間の見かけ上の平和 の中では悪影響を受けるとし、SPÖ と環境保護運動との連携や連立が持つ 可能性についても論じたのであった。53
こうした SPÖ 内における議論が赤緑連立政権形成のための党内環境を整 備したのに対し、2010 年の選挙後、緑の党からは、SPÖ との事前協議にお いて自らが信頼に足る相手であることが強調され、グラヴィシュニックは ファイマン(Werner Faimann)連邦首相や首相府次官(Staatssekretär im Bundeskanzleramt)で彼の側近のオスターマイヤー(Josef Ostermayer)
に対して、赤緑連立への賛同を取り付けようとした。そして、ファン・デ ア・ベレンはウィーン市参事への働きかけを行った。また、『プロフィー ル』によると、連立政権内で各党に配分される市参事のポストに関して、
ÖVP は SPÖ との交渉において 2 ポストを要求した。しかし、SPÖ が緑の 党と連立した場合は、比例の原則にしたがって 1 ポストを同党に配分するこ とになっており、ポスト数の面でも、両党は連立交渉で容易に合意できる状
況であった。今回、SPÖ を支持する労働会議所内の会派は赤緑連立を明確 に支持し、ウィーン SPÖ の幹部会も緑の党と連立交渉を行うことを全会一 致で決議した。SPÖ では、ウィーンでの緑の党との連立から生じるもう一 つの効果として、連邦レベルでの赤緑連立の可能性を開くことへの期待も広 がったのであった。
その一方で、すでに述べたように SPÖ 内でも赤緑連立への反発は存在し たが、それはファヴォリテンやスィンメリンクのような元来 SPÖ 支持が厚 く、緑の党の得票率が低い区でとくにみられた。これらの区では、SPÖ の 競争相手は FPÖ であり、緑の党とともに SPÖ がウィーンで外国人統合政策 を進めることで、排外主義的な FPÖ の政策に惹かれて投票政党を SPÖ か ら移した有権者に対して十分な訴えかけができるのかが懸念されたのであっ た。それでも、SPÖ と緑の党の外国人政策の間に大きな距離がないと考え るファン・デア・ベレンは、「ウィーンの SPÖ は統合政策の領域において正 しいことを多く行っている」との判断を示し、赤緑連立政権においてさらに 結合政策が進められることの重要性を指摘した。54
このような各党の状況をふまえ、2010 年の選挙後の連立政権樹立につい て考えてみる必要があろう。政治学者のプレシュベルガーらによると、そ もそも、これまでウィーン市政野党であった ÖVP、FPÖ、緑の党の間に、
SPÖ 単独政権からの脱却を目指した「戦略的な同盟」を形成しようとする 状況も意思もなく、これら野党の間には政治的な共通点が極めて少なかっ た。彼らによれば、野党三党の間には社会政策上の違いが存在しており、共 通の政治的なイニシアティヴをとることはまれであった。それゆえ、2010 年にウィーンで SPÖ の議席数が過半数を下回り、なんらかの形での連立 政権が必要になった場合でも野党三党が協力関係を構築することはできな かった。55
一方、1996 年から 2001 年の間に SPÖ と ÖVP の連立政権が存在した以
外、ウィーンでは長く SPÖ 単独政権が続いたが、そうした市政府の構成 とは関係なく、伝統的に SPÖ と ÖVP は経済政策について密接に協力し てきた。市の行政機関と、ÖVP の部分組織であり同党の重要な構成要素 の一つであるオーストリア経済同盟(Österreichischer Wirtschaftsbund
(ÖWB))56 は、ÖVP 内部の決定過程に影響を与え、市議会における党の 行動にも制限を加えるような事柄について、プロジェクトごとに調整を行っ てきた。したがってプレシュベルガーらは、ウィーンでは連邦政府におけ ると同様に SPÖ と ÖVP による連立政権が作られる素地が十分にあったと の見解を示した。だが、SPÖ はウィーンでの ÖVP との連立を拒否したので あった。57
さらに彼らは、実際に形成された赤緑連立政権について以下の六つの点を 指摘している。① SPÖ と緑の党による市政府は、過去数ヶ月の間、自身の 政治的停滞からの出口を必要としていた全オーストリアの緑の党で強く望ま れた、自他共に求める希望のプロジェクトであった。②緑の党の指導的な代 表者たちは、その政治的出自や習慣(habituell)、イデオロギーにおいて、
ウィーン SPÖ と親近性を持っている。③ウィーン緑の党はエコロジーな近 代化を支持する勢力や、女性や難民、若者失業者などのために財政支出を通 じた福祉国家の拡大促進を目指す修正社会主義勢力の集合運動である。貧困 者ないし顧客となるグループに対して援助を与えるような一連の終わりなき 支援政策が設計されるが、そこでは財政的に責任ある国家の行動という文脈 において援助の価値が評価され、あるいは秩序政策的な尺度が考慮されるこ とはない。④すべてではないが多くの都市政策上の鍵となるテーマにおい て、SPÖ と緑の党の間には綱領的な接点がある。⑤最近数年間の市議会選 挙後、SPÖ と緑の党は何度もいわゆる赤と緑のプロジェクトについて申し 合わせを行い、共同の政治的諸要求が「具体化」している。改革を実践する 中で連立トレーニングが存在したのであり、この実践の中で多数派であっ