――聞き書きのこと(続)の4のつづき――
山 﨑 怜
(前書)
以下の第5回から第8回は本誌前号(第22号)で紙幅の関係で掲載できなかったものを前号巻末での約 束にしたがって収載するもの(原泉、中野重治の聞き書き)であり、元の文章は全く不変のままであるこ とをとくにおことわりしておきたい。関心のある読者は前号の39ページから読み通していただけるとあり がたいと思う。
第5回 話し手 原泉
(電話)
(前言)これは中野家への訪問の希望(日時の設定)に対して、それに応じえぬことへの原の電話である。
原は大きく二つの理由を挙げて、山﨑の訪問にこたえられないことを述べた。二つのうちの第2の理由は ここで詳述することにふさわしくない事情であるため、第1の理由のみを記録しておきたい。
I 会うとしても2月27日だが、それも無理だと予想されるので、ご訪問の応諾はいまはできません。中 野は2月27日までに、ある文章をかき上げる必要があります。さらに中野には雑音ぬきで本業にまいし んしてもらいたいのです。目や耳をわるくして、とくに耳が遠くなり、明日も医者へ行く。そういう体 調の中で、やるべき仕事を一杯かかえており、それを自分としては存命中に中野にやらせたい。また自 分たちはあなたにはすでに全部さらけだして述べたので、そのことは承知してもらいたいのです。
〔以上が第1の理由、中野の多忙な文筆活動と体調の悪化である。第2の理由は省略。〕
第6回 話し手 原泉
(ご自宅)
(前言)中野に会えなくても原に会えるだけでよい、とする山﨑の、つよい願いをきき入れて2月25日 に訪問をゆるされ、同日の午後、4時間に亘つて原のお話をえた。多くはこれまでの事実の確認やいくつ かの新事実の述懐であり、また、ここでは記録しない前回で言及した第2の理由についての、かなりの時 間を割いての意見交換であった。この第2の理由問題は別の形で、また別の機会に紹介し、この第6回分 の聞き書きでも触れることは(その一部は例外として)差し控えたい。この日、原は自分の話は身辺雑記 風のもので、中野に話をきけないのは山﨑には不満足である筈で、申しわけないと再三再四いう。超多忙 の中野は向うの別室で仕事をしており、時々、原への質問のため、原と山﨑が会話中の部屋にこられた り、書物や資料の参照にため、同じく会話中の部屋の書棚にある事典や資料を探しにあらわれたりされ、
そのたびに原は釈明をくりかえされ、山﨑は山﨑で恐縮した。そういう形の聞き書きであり、ある少時 間、中野本人との会話もあった。それは挨拶代りの会話であり、聞き書きではないのだが、その一部は当 日の雰囲気をあらわすだけでなく、中野らしい人柄を示すので、あえて記録しておく。
I これが消印12月12日、中野重治、原泉宛の通知ですよ、1977年11月、村山濱(清州すみ子)、村山亜 土の両名での印刷文(私製はがき)はこうなっています。〔といきなりいわれて、それをyはよむこと になった。はじめてよむ挨拶文である。〕〔「8月には、東京雑司谷墓地に亡き知義の納骨をすませ、さ らに高松市姥ヶ池の村山籌子の墓に分骨をいたし、近くそのわきに故人の筆になるささやかな石碑も建 つことになりました。」
ご存知ですか?
y 全く知りません。いま、はじめて知りました。宛名がきの筆蹟は亜土さんですね。
I 9月30日に出た本の出版記念会(阿木翁助著『演劇の青春』早川書房)が青山一丁目、皇家飯店で11 月30日にあり、その席上、清州すみ子は分骨の会に山﨑が出席した(原の表現ではこういう行事に山﨑 が「かんだ」)と発言し、原はその席で「それはおかしい」と大声を上げました。あなたは墓前での分 骨の会に出席していないと電話ではいわれましたが、本当ですか?
y 出席しておりません。分骨そのものに一切干与していません。清州さんや亜土さんからも一切、連絡 はありませんでした。私は家族でも親族でもありませんから。
I そうであればそれでよい。あなたに、そんなことに関わる資格はありませんよ。〔原は知義の骨を籌 子さんの墓:に分骨するのは籌子さんの遺志に反するという面持ちにみえた。〕
それから、このコピーを差し上げます。ご存知ですか?この文章。
y 知りません。これはじつにありがたいものです。〔『統一評論』第139号、1976年12月に掲載された村 山知義「あの素晴らしい国」(18-20ページ)の文章である。内容はかつて知義が渡鮮した折の思い出、
新協劇団の団員だった朝鮮出身の俳優との邂逅など、また、みずからの演出「春香伝」の回想と朝鮮の 描写。〕
y 中野重治全集はいつ終わるのでしょうか?
来年か、さ来年か〔と笑われ〕それまでは中野に生きていて欲しい。〔と原はしきりにいわれた。〕
y すでに何度もうかがったのではありますが、籌子さんと親しくなった頃のご自身の住居の変更と年月 の移りゆきを教えて下さい。
I 昭和5年12月28日、中野が保釈になり、昭和6年のはじめから昭和7年春まで中野と原は上落合に住 みました。このときより、籌子と親しくなりました。昭和7年からは原は転々として、あちこちにいま した。昭和9年にアパート、大木戸ハウス(当時の四谷区愛住町。いまは新宿区)に住みつき、昭和9 年12月31日に柏木5丁目に移転、昭和13年の春頃まで。原の柏木時代は、籌子さんに病気はなく元気 だったとしか思えません。そのとき、かの女は元子さん(知義の母)と同居していました。
原は、「春香伝」を少し(数日)やったあと、肺浸潤を発病して1年10力月、劇団を休みました。こ れは入院したのではなく、入院せずに療養したのです。地理的には、柏木とかの女の家とは非常に近 く、かの女の猫をねずみをとるために借りたこともありました。
昭和13年の春頃、世田谷区2丁目に移りました。籌子の家からは遠くなって、「疎遠」になったので す。ここは中野と原の豪徳寺時代ともいう場所です。昭和30年(末)まで住んでいました。
神宮プールに飛び込んだのは大木戸時代です。この四谷区愛住町のアパートに、籌子はしばしば尋ね てきました。ここからは神宫プ一ルはすぐ近くだったのです。
y 貴司悦子をご存知ですか? 籌子は昭和16年1月にかの女の葬式に出席したのです。
I 心やさしい人だった,しかし病弱でした。それは籌子と較べると、とくにそうでした。籌子は健康そ のものにみえました。
y 悦子の童話には籌子さんの影響はありましょうか? もっとも童話の中身も形も全く異なりますが
。
I それは中野に聞いて下さい。
y 籌子さんの、その頃の思い出で、ほかに何か。
I 豪徳寺時代に昭和14年2月1日生まれの娘に、お祝いとして外国の毛糸で、子供用の、といっても しゃれたドレスをくれました。それを写した写真もあります。ビーハイブ会社の製品で、大変、軟か く、手ざわりのいいものです。生まれたあと、2才位のときに着せました。そういうことからも、昭和 14年の籌子の発病説にも疑問を感じます。〔結局、原には籌子の発病のことが分からずじまいのようで ある。〕
写真のことですが、1941年9月27日(土曜日、晴)に井の頭公園で、原に連れられて歩いている娘の 着ているのは籌子さんが編んだ毛糸の服です。その写真がのこっています。籌子さんから、いただいた 女の子用の服に朝鮮服があります。小さな女の子、4歳か5歳位の女の子用のものです。
y それはいつのときでしようか?
I 戦時中のように思います。
y ここで戦後の昭和21年(1946)、籌子の亡くなられる前後のことをおうかがい致します。
I 亡くなる前の見舞いのことです。誰かが私に籌子がわるいと告げたので、「太陽のない街」出演中に 鎌倉に行きました。ほとんど徹夜で話をしました。籌子さんは「ここでは病気は治らない」という。原 は富本さんに相談して病院なり医者なりがみつかったら、行く気があるかをきくと、「行く」というこ とだった。そこまで打ちあわせをして,自分がとろっとしている間に、朝となり亜土が薬をもらって帰 宅し、知義が「高い薬を使っているのだから、医者のいうことをききなさい」と籌子にいいました。ト ムさんは釣銭を首にぶら下げているシマの財布に入れていました。
籌子は「私の病気は治らない。あなたは中野さんがいるから治ったのです,私は治らないのだ」とい う。しかし、そのとき、籌子さんの病気を死に病(やまい)とは原は思いませんでした。
かの女が亡くなったのは、それから2週間も経っていないときのように思います、亜土ちゃんがやっ てきて「死んだ」ことをきき、呆然といたしました。すぐお通夜に行きました。近藤きよに久しぶりに 会いました。通夜の席のこと。富本一枝さんもおられた。翌日は小田急で富本一枝さんといっしょに 帰ってきました。その電車の中で、こうしようと思つていたと、はじめて上記の計画のことを述ベまし た。あとの祭です。近藤さんは同道しませんでした。帰りの方向のちがいか、時間の都合か、その他の 理由からかは覚えておりません。
y 藤川さんはおられませんでしたか? 通夜の席に。
I 記憶にありませんね。
y 火葬場には行かれましたか?
I 私は行っておりません。
y 籌子さんの岡内家の人たちへの評価とか意見をきかれたことはおありでしようか?
I 岡内家の両親、祖父母についての籌子さんの評価はきいたことはありません。ただ大木戸ハウスの 頃、その大木戸ハウスの1室に末弟の弘三が住んでいたとき、「あれはしょうがない奴」と評したのを 覚えています。定職もなく、ブラブラして部屋には何もおいてなかったのです。この末弟は大木戸ハウ スにややおくれてはいってきた住人だったのでした。
y かの女のこと、かの女とのつきあいの中で感じていること、すでに何回もおうかがいしていることも
多いのですが、改めてお教えいただけるとありがたく思います。
I 籌子さんはいつも予算生活をしないといけないと忠告するのですが、われわれ貧しく育ったものには 一言あるのです。しかし、私がかの女に近づいたのは,あっさりとした気性が双方に共通していたから ですね。頭のおかっぱもお互いに共通していました。
y 例のトムさんをしりぞけて鍵をかけた(夫婦関係の拒否)のはいつ頃でしようか?
I 新しい二階家ができてから。籌子の部屋は一階の一(ひと)部屋だった。
y 蔵原消極説と蔵原積極説とがありますが、どちらのほうが正しいでしようか?
I 私は消極説をとります。籌子さんは「向うがはっきりしない」とこぼしていました。
y 例の東和商事の試写会の思い出を重ねて教えて下さい。
I あれは東和商事の輸入映画で、あれは籌子さんが原を誘って行ったのです。そういうとき、例の佐々 木ふさなどに逢うので、籌子さんは極度に嫌がったのです。しかし、佐々木ふさのほうは村山に対して なんとも思っていず、また、何もなかったのが事実です。このことはあとで分かったことです。トムさ んが一方的に積極的だったのでしよう。
なお、知義について、かれが死んでから考えると、いつも損な役割をした人であったと思うことが多 く、いまはむしろトムさんに同情している。〔といわれていくつかの事実に言及されたが、ここでは省 略する。〕
〔このあと、各種の雑談に及ぶ。とくに先述第2の理由についての雑談と対論がつづく。第2の理由 に関するのは先述の分骨をめぐる「かんだ」の問題とそれにからめての当時高松在住のN氏のことであ る。N氏は山﨑の講演をきいて村山籌子研究を目指し、山﨑留学中に同人誌に村山籌子の研究を発表、
これを中野に送付、さらに在世中の知義に会い、その手記を執筆、その分骨式に出席し、清州すみ子さ んはNと山﨑とをとりちがえたり、またN氏が中野訪問をこころみた(原は自分たちは迎えるつもりは ないと述べた)ことをめぐってのことである。山﨑は中野にN氏の行動について手紙をしたためたが、
この手紙についての中野と原の意見をめぐってのことをもふくむ。その委細は約束にしたがって詳述は 避けたいが、原との対話はじつに有益であった。
N氏のことのほか、原は知義の『自叙伝』、知義の密葬と告別式のこと、籌子の病歴と告別式、富本 一枝のお子様のこと、トムさんをめぐる清州すみさんと村山亜土のこと、佐野碩の生涯と仕事をまとめ ること、さらに中野の現在の生活と仕事のことなど、次々に話題はひろがり深まったのである。
原によると、中野は他人様からみると元気にやっているようにみえるが、体調はわるく、それをは ねとばして、かきのこしたいことを生きているうちにやらせたい。会うのを拒否しているのではなく、
はっきりいって忙しい、時間のないのが正直なところ。山﨑の中野宛の手紙については返事の必要があ れば本人が書くであろうが、質問があれば、できるだけ箇条書のほうがよい、原はなにせ身辺雑記風な ことしか、お話できないから、中野に会うことは必要だろうし、といったことを話をされているとき、
中野が辞書か何かを取りにあらわれ、帰り際でもあったので挨拶をした。山﨑の顔をみるなり、「肥っ たなぁ―、気をつけないといけませんよ、肥りすぎは注意しないといかん、あんたは今いくつだ」とき く。47歳というと、「これからあと、10年ではおそすぎる、今から健康に気をつけなさい」といい、「外 国でゴチソウを食べてきたのか」と冗談をいい、いいえ、外国では適当にやせていたのに帰国して太っ た旨を述べた。〔留学前の1973年の秋に会い、およそ5年ぶりにお会いしたことになる。〕
〔中野は語を継いで、物かきは50歳をすぎて少し物事が分かりかけ、それについての筆がすすむのだ が、肉体の老化で頭がぼやけ、かくべきことがかけなくなる、つまり精神の充実と身体の劣化が平行す
るから、物かきはとくに老化を防ぎ、肉体を若がえさせることが大切だ、俺なんかはそのことに気付か ず、もう手おくれなんだ、全集にしても若返ってこれからかきたいものだといわれ、あんたはいま、そ の大事な時期にあるんだ、といわれた。50歳をすぎてから、ぼつぼつ世の中のこと、いろいろのことが 分かつてくる、この年齢以後が物事を研究する人には大切で健康を維持して仕事をふかめることだ。自 分のように年をとると、頭がぼけてだめなんたよ、といい、円熟と肉体のアンバランスを嘆くかのよう な口ぶりであつた。ヒゲをはやして、いつになく温厚な感じである。こういう忠告とも挨拶ともいえぬ 語らいをして、奥の部屋に引っ込まれた。これが中野に会った最後である。〕
第7回 話し手 原泉
(電話)
(前言)1978年6月9日、原泉より藪から棒に電話があり、同年5月25日付の山﨑宛の手紙で、小林多 喜二関連の大抵の本に出ている「1935年2月21日、神田大雅楼」での「小林多喜二を偲ぶ会」の集合写真 について、この1935年説はまちがいで、1931年の春ではないか、という原の文面をみずから訂正して、や はり1935年説のほうがただしいとする電話の記録がこの第7回の中身である。山﨑からいえば原の自作自 演、一人相撲の感なきにしも非ず、ともみられるが、原の過剰ともいえる親切心に由来するので、ここに 誌しておきたい。この写真に山﨑がこだわるのは、当時のプロレタリア文学関係のほとんどの人物がここ に集まり、いないのは多喜二と蔵原惟人の両人のみであり、会の目的が両人の家族を励ますか、癒やすか のためであって、しかもこの会がもと籌子個人の発案によるとされているからである。
私は原の手紙にもとづいて「村山籌子――続・ナップ時代の友人による(2)――)(『日本福祉大学研 究紀要』第99号、第2分冊、1988年8月、248-249ページ)でこの写真を掲載し、原の手紙の要旨と山﨑 の解説を記し、原の1931年春という新説にも疑問のあることをも同時に述べた。原の電話は結論からすれ ば十分に納得され、やはり元の1935年説に落ち着くべきであろう。〔これは1936年が正しいのだが、ここ では述べない。〕
以下、自作自演気味の原の説明と、多喜二の妹に確かめたという電話内容を紹介したと思う。
事の経緯は日付とか場所、多喜二の拷問死を追懐する会とかの一般の説明(『多喜二文学アルバム』な ど)は疑わず、そこに村山籌子らしき人物が前面に撮っているにもかかわらず、かの女についての説明が 一般には、おこなわれていないので、この写真を原泉に送付して、この女性が籌子であるかどうか、ま た、かの女は笑っているので、この笑い顔の理由をどうみられるかをお訊ねしたことにはじまる。追悼の 会であれば、笑い顔にはなりにくいのが普通である。
これに対するお答えはすでに何年か前に原との面談の機会に口頭でいただき、私は納得して事はおわっ ていたのである。ところが78年5月25日付の私宛の手紙でいきなり「当時偲ぶ会などとはいわなかった 筈」といわれ、さらに1935年説はあやまりで、1930年5月の党同情者事件で逮捕された村山、中野、壺井 繁治など多くは同年12月末に保釈されたが、「おくれて東京で検挙された小林多喜二が保釈にならない時 期に村山籌子さんの発案で私をまき込み、会費1円、お客さまが多いので片岡鉄兵さんに金5円也を出し てもらってつじつま合わせた集まりでした」とかかれ、会は「滞ソ中の蔵原留守家族、多喜二留守家族」
を囲む集会だったといわれ、「片岡鉄兵さん以外はみんな貧乏ぐらしの時期であった」とされた。当時の 片岡鉄兵は人気大衆作家で印税が多かった小説家だが、プロ文学やその文士たちに理解があったという。
原のもともとの疑問は1935年、昭和10年という年は治安維持法の深まり、昭和12年といった「日支事 変」をやがて起こそうとする帝国政府の軍国化とつよまりの年に、これほど多くの「左翼文士」が一堂に
会するのは危険きわまりない,一網打尽におわる、そんなことはありえない、それだから、あるまじき会 合と推定し、1931年の春ならば、まだ危険人物観念がよわかったという判断に由来していた。
しかし、山﨑べたように(前掲、『日本福祉大学研究紀要』第99号、1998年8月、248ページ)、立野の 出所は31年2月、小林の保釈は同年1月、山田清三郎の逮捕は2月であって、立野や山田が写真に収まっ ているので、31年説の根拠はかなり疑わしい。この点では、35年説のほうが自然であり、説得的でもあろ う。そこでこの電話のように35年説に回帰すればやはりそうであったかと山﨑は素直にうけとめた次第で ある。この原からの電話は6月9日、午後8時5分から20分間ほどであった。
I 例の写真の件です。やはり1935年のほうが正しいと思います。自分は小林多喜二の妹さん(幸のこ と)とつきあいがあり、札幌在住の妹さんに電話して35年であることがはっきりしました。自分の記憶 ちがいであったことが分かったのです。妹さんによると、かの女は修学旅行で上京して東京で兄と会っ たことがあるが、その後、兄が殺されてから洋裁を習うために昭和9年か10年頃に上京したことがあ り、この会合はその上京時のとき以後だということです。1931年ということはありえないということ だった。そういうことで35年説のほうが正しい。しかし会自体は前にかいたように籌子がプランを立て たもので片岡鉄兵から5円を寄付してもらったことははっきり覚えています。あの料理屋の名前は自分 は維新号という記憶があり、それを前にもかきましたが、正確な名前を知っているわけではありませ ん。また、あのとき、テーブルが三つ位あり、小林と蔵原一家の所の料理はあまっていたが、他のテー ブルはすぐになくなり、やがてうわっと小林、蔵原のテーブルにみんなが集まったのです(ここで原は 笑う)。
y この写真の件はよく分かりました。じつはもうひとつの写真、水泳前か水泳後か、籌子や知義が水着 をつけている鎌倉の海岸での写真を別便で送りました。このほうの写真についても籌子、知義、亜土さ ん以外の大人について名前をすでにうかがったことがありました。この私の写真同封の手紙はみられた でしようか?
I まだ、みていません。(着いているかどうかは明言されなかった)写真をみていないのではっきりし ませんが、自分が籌子さんに連れられて行ったのは鎌倉の海岸だったと思います。それは山内光の家 だった。山内光は俳優で、戦後、科学映画社をつくり、国際的な賞をもらった人です。山内光はピカ ちゃんともいわれ、その山内光は〔といわれて山内の結婚相手とか、他の関係者のことも教えていただ いたが、ここでは省略〕鎌倉に住んでいたので、山内光の家ならば鵠沼の海岸でなく鎌倉の海岸です ね。まあ、写真が着いて、知っていたらお知らせするし、知らなければ知らないとご返事しましよう。
じつは自分はいま忙しいので、早くこの件〔籌子についてのさまざまのこと〕は忘れたいと思い、先日、
すぐに返事をかいたことがかえってまちがいを犯すことになり、申しわけない〔といい、あの写真をど こで入手したのか、ときく。「村山家のもの」とご返事申し上げた。]
〔なお、水着をつけた海岸での写真には子供時代の亜土さんも撮っているので、生前の亜土にも何度 も教示を仰いだが、両親以外の大人については記憶にないとのことであつた。〕
第8回 話し手 原泉
(ご自宅にて)
(前言)これは1980年11月12日(水)午後3時から午後6時までの聞き書きである。記録では、これは 最後のものであり、中野亡きあと、原は中野が出した誰かれ宛の手紙の中身のすべてをコピーして手元に 残すという作業に従事中であった。そのために、原は印刷文にしたため、貴方様に中野がしたためた手紙
(はがき、封書その他の形の)がありますれば、その手紙をお貸したまわるか、コピーの上たまわるか、
費用は一切、原のほうでお支払いする旨をかかれた。中野の手紙の現物はすべて受取人の貴方様に用済み 後にお返しするということであった。以下の聞き書きには、yに直接にこの印刷文を手渡される場面があ る。
また、この日は宅昌一氏がすでに原宅を訪れており、yには同席者がいるがよいかとあらかじめ了承を 求められた。もちろん、了解済みの山﨑ではあったが、原や宅の開放的な性格なしにはこの日の聞き書き はありえなかったのである。宅は和歌山かのご出身で名家の出であるが、プロレタリア演劇畑で活躍した 人であり、知義や籌子を知る人でもある。「散髪屋」からの帰りに原宅に寄ったといい、住所録(五月の 会)2冊を手に、知人、友人の生存の確認作業、また住所の確認のこと、原との協同で作業をつづけるの をききながら、また、みながら、山﨑は両人に伺うことになった。Tは宅昌一。
I ふとりましたね。
y はい、先生にもいわれたことがあります。
I あなたは中野の手紙をうけとりましたか? いま、こういう収集をやっています。〔といわれつつ、
「ねがい状」を渡される。前言に述べた中野のかいた手紙文の収集のための原の依頼状である。〕
y はい、持っています。
I ほう、持っていますか? ここ10年、中野が手紙をかいたのは、自分の必要からのみでした。村山籌 子は自分の仕事のなかにはない。なかった筈です。それは最初のものへの(山﨑の最初の手紙あるいは 文章への)お返事ですか?〔この手紙は平凡社刊『中野重治書簡集』に掲載されている。〕
y そうです。
I、T いま、中野の手紙の宛名人、手紙を差し出した相手の方の名前をたしかめているのです。高松や 香川県関係の人についても。心当たりはありませんか?
y 壺井栄顕彰会はいかがでしょうか? その文学賞の審査など、先生には関係がありそうです。
I それはありません。ああ、そうそう、佐々木正夫がいますね?
y はい、おられます。
I 記録しておきます。それから宮がつく人がいましたね?
y 宮井進一さん? 島木健作の『生活の探求』のモデルとされている。
I そう、宮井進一がいる。これも記録しておきます。
〔ここで香川県以外の人についてもやりとりがあったが、省略〕
この「ねがい状」は200部刷ったのですが、不足してしまい、300部増し刷りしました。
y 手紙は全部で何千通、何万通とあるのではありませんか?
I そんなにはありません。
y いまの所、どの位、ご返事がございましたか?
I 3分の1位です。
〔山﨑はこの日の午前中に村山亜土に会ったが、その際、亜土は「村山知義ご遺族様とは何事か、ど うしてあんなことをするのか、妙な人だな」とこの「ねがい状」に触れて失笑されたことを急に思い出 した。亜土は語を継いで「ぼくは探すのはめんどうくさいので送りませんよ」といい、山﨑が中野の籌 子さんについて述べた山﨑宛の手紙をもっているというと、亜土は「それは原さんに是非とも提供され てはいかが」とつよく促されたことを思いうかべた。その後のことになるが、亜土はこの日は「めんど うくさい」といわれたにもかかわらず、じつは日があまり経たないうちに原の要請に応じて手元にある
中野の手紙を原に送り、原はそれをコピーして亜土に返却した事実がある。亜土という人は山﨑には
「めんどうくさい」といいながら、その言に反して黙って人の依頼には応ずるといったタイプの、はに かみ屋というか、そういう形で人をはぐらかす人物であり、そういう類の、いまいましい体験が山﨑に はほかにも多くあるのだが、ここでは言及を避けたい。〕
y 〔Tに向けて〕籌子さんをご存知でしょうか?
T あまり知りません。村山に用事があって家に行けば、かの女がいました。あんまり話をした覚えはす くない。
しかし村山はきらいだったが、籌子さんは好きだった。好感がもてましたね。
y 印象はいかがでしたか?
T 何かモダーンな感じだった。お金持の家の人にみえました。村山とは随分ちがっていました。
I 〔Tに向かって〕あんたが同じだから〔金持の出自の意〕、同類だね。気があったでしょう?
T そうかも知れません。籌子さんはどうして村山が好きになったのですかね?才能にほれたんですか ね?
I そうでしよう。かの女には村山の人間性は分からなかったのでしよう。なにしろ、あの頃の村山は前 衛芸術の巨頭で大したものだったからね。しかし、村山を「お兄様」と呼ぶことから、あとでは「あの
―」に変わったのでした。籌子さんにとって、蔵原がもっと思いきりがよかったら、しあわせだった。
かの女は村山と手を切ったにちがいない。〔といわれて、蔵原論に移り、宅氏と原の蔵原の人物論をめ ぐるやりとりがつづいたが、省略する。〕
T 村山は酒にようと、よくいっていました。自分の作品で評判のよいものは、いつも籌子さんがかんで いるといったのです。
I へぇー、そんなこと村山がいっていたのですか?
T はぁ、酒によったときですがね。
y そういうとき、たしかに村山さんはのろけるといわれています。籌子に一目をおいていたのは事実で す。
I 〔Tに向かって〕これね。こんなものまであるんですよ。〔といいつつ、妓芸員原泉子の認可状、鑑札 などをみせる。妓芸員とは女優とのこと。第2次大戦後に保護監察を解くという文書もある。モスクワ 芸術座、スタニスラフスキー、ゴーリキーの写真など、写真類も多い。山﨑もそれらを手にとってみ る。さらに、中島京子さん〔中島健蔵夫人〕から、こんなに沢山の手紙を送ってくれました。これほど 貸してくれたといって手紙の束をみせる。中島健蔵宛の中野の手紙の束である。京子さんはまだあるか も知れないが、ひとまず、これといってくれています。原はまた、これ、この箱に一杯ある「来簡集」
も整理しなくてはならないんです。随分あるでしょう?といわれる。さらにまた、千田是也の手紙をみ る。これもかなりの数がある。いずれも1930年頃のものとみえた。名義は千田是也でなく、本名のも の。また、富本一枝の、日本式巻紙の手紙はほどいてみせる。例の達筆で見事な書簡である。〕
y 富本さんは亡くなる前に、みんなに迷惑をかけるといって受けとった手紙類を焼却したときいていま す。そのためか籌子さんの富本両人宛の手紙も失われました。
I どうしてそんなことをするんですかね。それは憲吉さんが京都に家をもったための件で、ゴタゴタし て焼いたんですかね。それにちがいないと〔自分でうなずくようにくりかえされた。〕
手塚英孝は中野のはがき1枚を送ってきて、もはや自分の命もどうなるか分からないから、もってい てもしようがないので、くれてやるといってきました。〔といわれて、手塚宛手紙の数などについて原
は意見を述べられたが、省略〕
それとは別なことですが、なかには中野の字でないものを中野のものと思って大切に保存している人 があります。こちらはちよっと気の毒で説明しにくいことがあるんです。
T 中野さんと原さんの字はよく似ていますからね.最近、よく似てきています。
I そんなことありません。そんなに似ていませんよ。
y そうですね。先生の字は丸くて大きいですね。
I 昔はね、随分、右下がりの字でしたから。私がね、なおしなさい、と随分、いいまして直りました。
放っておくと、すぐ右下がりになりました。
原稿のほうは、第2次大戦後は全部、返してもらうことを心掛け、原稿には、いつも朱で原稿を返し て下さい、とかくようになりました。だから、市中に流れていません。しかし戦前のものはどこへ行っ たか分かりません。そういうものが市場に出ることがあるかも知れません。
y 最近は原稿そのものが高い値段となり、放っておくわけにはまいりませんね。
それはそうと仏壇はございますか?
I うちは無宗教で仏壇も何もありません。お墓は福井の在所にあります。お葬式も無宗教でやりまし た。中野の写真はこのようにありますがね。〔といって板の間の拡大写真を示す。〕
こちらの、これは〔といって色紙を指で示しながら]京都の人が大切に額に入れていたものを貸して くれたものです。〔「のし」と右上に朱書があり、その左に「花は蕾(つぼみ)ではじまる」の四行詩が かかれ、「なかのしげはる」と署名がある。〕これは結婚した人のためのお祝ということです。こういう ものを貸してくれるのもありがたいことです。中野はあまり色紙をしないので、これは珍しいものなの です。
y 先生は最近は全集〔筑摩書房版〕のみに打ち込まれたのですか?
Ⅰ そうです。全集の完成に打ち込みました。目の手術を3回しました。1回目と2回目はかなりの間が ありました。3回目の手術のあと、40日位で亡くなりました。目をやられたのは痛かったのです。
y 籌子さんについてですが、藤川栄子さんは「籌子を本物の女性、誤解はされたが、けっして一般の人 がいうような女性ではなかった。本物ですよ、かの女は。私もね、誤解されたことがあるので、よく分 かるんです。籌子さんの真実性は見事だったんです」といわれました。藤川さんをご存知でしょう?
I 藤川さん?
y 藤川栄子さんです。
I あの藤川さん、よく知っています。最近は行き来はありませんが。私ね、あの人の夫君だった勇造 さん?
y そうです。勇造です。
I あの方も知っています。私はね、中野と結婚する前に勇造のモデル(半裸)だったんです。
〔この事実を原はこのように問わず語りに自ら語った。yはこの事実を早くから栄子さんから聞いて いたが、失礼になるので原にたしかめたことはない。この日、自ら、このように語ったことは注目され る。〕
藤川夫妻、いずれも知っていました。藤川さんはそんなに籌子さんを知っていましたかね?
そうそう、籌子さんが鶴川に疎開していたときに、世話されましたね。忘れていましたが、思いだし ました。
y 藤川栄子さんと籌子さんとは県立高女時代をはじめ、人生の大事な結節点で接触があり、大事な大事
な友人の関係でした。二人は県立高女の同窓で2年ちがいでしたが、親友そのものでした。いわゆるシ スター関係(当時の用語でS)にありました。人間としては、生涯の友でしたが、籌子さんがトムさん と結婚したため、両人は「不即」の関係におかれ、性格上の共通性(あっけらかんとした純枠さ)や芸 術観の共有、青春と郷里を同じくした親しさは「不離」の関係をつづけさせたものと思っています。
藤川さんをはずしては、籌子さんの生涯を跡づけることはできません。大切なものがぬけおちるよう に思います。
今日はありがとうございました。
〔籌子と藤川栄子との関係については藤川からの聞き書きに詳細に記録したので、関心のある方はそ れをみられたい。山﨑「村山籌子――県立高女時代の岡内籌子――」『香川大学―般教育研究』第45号、
1994年3月、221-233ページ〕
(後記)
以上が記録されている限りの中野重治、原泉夫妻からの聞き書きである。第三者に触れた人物論や人物 批評など、省略した部分がある。両人について、とくに紹介する必要はないであろうが、生没年など、籌 子の生涯にあわせて、いくらか誌しておきたい。
中野は1902年(明治35)、福井県に生まれ、金沢の四高を経て東大独文に学び、東大新人会入会、卒業 後、プロレタリア芸術連盟、ナップ、作家同盟に役員として参加、1930年(昭和5)4月、原泉と結婚、
その後、「同情者」やコップ(日本プロレタリア文化連盟)の仲間と相前後してシンパ事件など治安維持 法違反のかどで都合3度の逮捕、懲役刑、執行猶予の判決、戦前戦中は執筆禁止、保護監察の身となる。
敗戦後は自由な生活とはなったが1948年(昭和23年)、45歳の折、福井に大地震があり、アメリカ軍の命 令で日本警察隊に逮捕、東京へ送還されたことがある。戦後の政治家としての、また作家としての活動は 省略。1979年8月24日に死去。
原泉は1905年(明治38年)2月11日に松江にうまれ、1928年東京左翼劇場旗揚げに参加以来、プロレタ リア演劇運動に従事、村山知義の第1次新協劇団、戦後の第2次(再建)新協劇団にも参加した。退団後 は原泉の名で舞台、映画、テレビ、ラジオに出演。1989年5月21日に死去。原については、「原泉さんに きく(上)(下)ききて尾崎宏次)(1976年9月3日築芳蘭亭)、澤地久枝「原泉ひとり語り」(未完)、藤 森節子「原泉覚え書」(『象』に連載、最終回は第15号、1993年3月)、藤森節子による原の評伝(単行書『女 優原泉子――中野重治と共に生きて――』新潮社、1994年)もある。原にとって籌子は脇役であって、女 優、原泉子、原泉、そして中野の妻、中野政野こそ原の主役であることを、これらは生々しく語る。
しかも政治との関わりの率直さ、意気込み、また健気さは近代日本の女性のなかでも抜きんでたもので あった。