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一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析

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一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析

その他のタイトル A Survey of Pelagic‑fisheries and Manufacturing‑industries

著者 柏尾 昌哉

雑誌名 關西大學商學論集

3

5

ページ 446‑470

発行年 1958‑12‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021786

(2)

446 

羽島が浮んでいる︒

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析 一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

徳島市から小松島を経て砂浜を約一〇里南下すると椿町という漁村へ着く︒ここから真東に突出しているのが蒲 生田崎である︒ここまでが徳島のいわゆる紀伊水道海域で︑それから南ほ鋭角を画いて南面する海部郡の沈降性リ アス式荒磯が太平洋を望んで展開されている︒この徳島の南部海区を普通は太平洋海域といい︑海洋の性格は外洋 的で︑漁業の対象も回遊性魚族に向けられている︒徳島の太平洋海域には︑北から南西の高知県境へ向って︑由岐︑

日和佐︑牟岐︑朝奥︑宍喰と五つの漁業の町が並んでいる︒報告の対象は牟岐町である︒

牟岐町は︑徳島市から約二〇里︑即ち椿町から太平洋海域沿いに更に一〇里南下したところに在り︑国鉄牟岐線 の終点である︒この町は︑長さ約三里半︑巾約一里半の長方形をしており︑長い方が海岸沿いになっている︒海岸 線は直線的な荒磯であるが︑西南がくぽんで牟岐湾となり︑ここへ長方形の町を縫って牟岐川が流入し︑沖合に出

(3)

47

現在の牟岐町は︑牟岐浦︑中村︑河内︑灘︑内妻︑橘︑辺川︑川長の八部落を包摂し︑約五七平方キロの面積を

持つ町になっているが︑昔からいわゆる牟岐といわれて来たのは牟岐浦と中村である︒報告の中心はここへおきたい︒

ただ︑この旧牟岐だけを判然として統計的に統一することが困難であった︒ために︑牟岐全体の統計と混こうし

て使用したので︑理解しにくくなったかも知れぬと危んでいる︒出来るだけ生の資料を使用しようとしたが︑多く

のくい違いや不確実なところに出くわしたので︑勢い指導層の主張に比重がかかりすぎた︒重要な点を逃している

かも知れない︒紙数の関係で中心問題の分析が不充分になったことをあいまいな歴史的分析と一緒におわびしてお

東牟岐浦︑西牟岐浦︑中村︑出羽島︑何れもその創始は詳らかでない︒ただ︑西牟岐浦から千数百年前の古墳時② 代の土器が発見されていることを考えると︑同浦には相当古くから人家が存在していたのかも知れない︒すると︑

戦国時代には既に海部川下流一円即ち鞘奥一帯に海部氏が勢力をのしていたから︑西牟岐浦ほ勿論東牟岐浦も当時

浦として成立していたとも考えられよう︒南北朝の頃から盛んに建立された五輪塔が発見され︑しかも明らかに戦③ 国期のものが存在していることは︑浦の成立を証明していると考えられるかも知れない︒

牟岐には城址といわれるものが三つある︒東牟岐浦の観音山︑西牟岐浦の古城︑西牟岐浦北西の台ノ山がこれで

一番大きい観音山城址は普通は牟岐城址といわれ︑戦国末期には牟岐大膳允がいたが︑天正期に長曽我部元

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

(4)

48 

の発展を長いあいだ阻止して来たことは疑いない︒ 往時の牟岐ほ陸路として土佐街道一本しかなかった︒牟岐の貧弱な農業が︑交通の不便と相連なって︑この部落

めて少ない︒牟岐が浦として発展して来た実状を物語るものであろう︒中村もかなり農業に重点がおかれてはいる

ものの︑農村としては弱いことが判る︒だから︑全般的に見ると︑農業はもとより貧弱で︑自給すらおぼつかない︒

それにも拘らず︑慶長から寛永年間へかけて徳島各農村に見られる新田開発も熱心には行われていないようである︒

適当な農業用地の発見が困難であったこともその原因であろうが︑むしろ︑全面的に漁業中心の行き方をねらった

立していたと考えられる︒

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三五三

0

0

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶④ 親に帰服したという︒しかし︑長曽我部の支配も長く続かず︑同一三年に早くも豊臣秀吉に征せられ︑替って蜂須賀家政が封ぜられるのである︒詳細は不明であるが︑何れにしても蜂須賀入国までに牟岐は或る程度漁浦として成

家政の入国以来は︑那賀︑海部二郡に郡代がおかれ︑その下に組頭庄屋が設けられて庄屋以下の役人を監督させ

る等︑職制が整備され︑この治世の下で︑牟岐が漁浦として発展したことは日本の漁浦一般の傾向と同様である︒

阿波藩の棟附記録のうち文化年間の数字を﹁阿波誌﹂から拾って見よう︒牟岐は戸数及び人口に較べて村高が極

︱ ︱ 1

石五斗五升0

(5)

4‑49 

制がほぼ完備し︑その体制の下で︑ 先ず︑第一の発展期から見て行こう︒

だから︑牟岐が本格的に発展し始めるのは︑太平洋の荒波に耐える大形の船が出来て︑海上交通路が開発され︑

且つ又︑商品経済が或る程度滲透してから後のことである︒

及びアワビ︑テングサ等である︒そのうち︑最も早く目をつけられたのは︑

T

であったのだろう︒ アワビ︑テングサ等の貝類海藻類であ

足利以前の記録が全くないので︑確実なことは判らないが︑由岐あたりで早くから見られた海士による潜水漁は まだなかったようである︒恐らく足利期までのここの漁業は︑自然的な採藻採貝か沿岸性魚類の一本釣程度のもの 徳川期以降の発展はかなり著しい︒この期における牟岐水産業の推移ほ︑大体において日本水産業の一般的発展

傾向と軌を一にしている︒即ち︑貞享︑元禄頃に第一の発展期を迎え︑文化︑文政︑天保頃に第二の発展期を迎え

蜂須賀入国以来︑行政機構の整備とともに︑ようやく日和佐︑牟岐等の漁浦に対する積極的水産政策が登場する︒

寛永から寛文へかけて︑新しい漁場の開発︑新しい技術の奨励︑金融の便宜附与等の諸政策が見られるのはこれで ある︒このような藩の水産政策の下で︑浦は初めて漁村としての体制を整えるに至った︒漁場への部落乎等の入会

一般的には︑小規模分散的な家内労働的小漁業が普及したようである︒サバ︑

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

り︑次いでは︑沿岸性資源のイワシ︑ 徳島の太平洋海域の水産資源といえば︑ 漁業の面から更に観察を進めて見よう︒

カツォ︑マグロの回遊性魚族から︑

サバ︑プリ︑イワシ︑

(6)

450 

タイの一本釣等はその代表的なものであった︒又︑手押舟によるカツオ釣漁業もかなり盛行したら

カツオブシ製造に関する記録も残っている︒しかし︑漁法としては単独のカツオ一本釣の段階であった︒

加工技術の発達普及も目覚しく︑例えば︑食用干イワツは既に元禄期にほ浦のすみずみまで伝えられていた︒勿

論︑これは︑商業資本が漁浦へ浸入しつつあった事実を物語っている︒徳島城下町の形成と海上交通の発達ほ︑漁

一般的には元禄頃の繁栄期は漁網の発展期であるが︑牟岐では︑この時代には大網らしいものは存在して

いなかった︒勿論︑小型の抄網︑掩網の類ほ存在していたのだろうが︑多少とも協同作業を必要とするような漁網

以上のように観察して来ると︑当時の漁業はいわゆる磯漁が中心で︑ほぽ水平線に立った部落民が︑小規模の家

内労働的生産形態で入会漁場を形成して漁業を行っていたものと考えて大過ないようである︒しかしながら︑漁場

に固定された漁民ではあっても︑既に加工魚類の売買を通じて商品経済の波に巻き込まれつつあったことを忘れて

次に︑第二の発展期に移ろう︒

この部落にとって食糧の問題は一貫して深刻極まるものであった︒特に︑化政以降の米麦諸物価の値上りは︑漁民を難渋の極に追いつめ︑郡代に対する生産手段や生活資料の貸付け要望の訴願が相次いでなされている6

うな部落事情の下では︑その支配力を握るのが漁民に対する食糧供給者である場合が多い︒即ち︑庄屋とか商人と

か或は近隣農村の高持百姓とかがこの地位に立つものである︒加えて︑共有漁場で行われる磯漁業においては不漁 が当時存在したという記録は見当らない︒

獲物商品化を大きく促したのである︒ 一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶二六

(7)

451 

漁法であり︑又それだけに高い生産力を持っていた︒ がしばしば到来する︒商品経済化は間断なく進む︒こうしていわゆる漁民層の分解が始まり︑共同経営の形態又は

最も代表的なのは地びき網の出現である︒この地びき網は寛政頃から亀屋四郎兵衛の単独経営で行われ︑郡代佐⑧ 和瀧三郎が拝借銀を許して奨励したとある︒亀屋氏というのははっきりしないが︑回漕商人ともいい伝えられてい

るから︑部落外商業資本の流入の一形態かも知れない︑この主要漁獲物はイワシであった︒ちなみに︑阿波は当時⑨ イワツの主要な西国漁場の︱つに数えられていた︒その経営は︑幕末にはギルト制に似た株制が採用されているこ

小型ひき網の一種である打瀬網もこの期にはかなり盛行している︒これは帆で船を走らせて海底の網をひく漁法

ヒラメ︑

ェビ等の漁獲にすぐれている︒牟岐で操業されたのは主として磯打瀬で︑沖打瀬は事故

が多く禁止されたりしたので余り操業されなかった︒だから︑ここの打瀬網漁業は三人ないし五人の漁夫で操業す

O l   hu  

る小規模のものであった︒とはいっても︑従来の一本釣に較べると遥かに多額の資本と多くの労働力を必要とする

この打瀬網漁法も従来の漁民の平等関係を分解するものであり︑若干の漁民が打瀬網を基盤に上向して行った︒

網元層の多くが︑先の時代に打瀬をやっていたというのはこの事実を示していよう︒もっとも︑漁民だけの力で上

向したのではなく︑庄屋勢力とか高持百姓とか商人とかとからみ合いながら勢力を張って行ったのはいうまでもな

い︒打瀬網漁法は幕末に衰退し︑紀伊熊野から伝来した旋網の一種である縛網にその地位を奪われる︒

カツオ釣漁業も︑文化から安政期へかけての土佐の繁栄に影響されてかなりの発展を示している︒近代的カツォ

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶ とから考えると︑程なく株制形態へ移行したものと思われる︒ 個人的単独経営の形態が出て来るのである︒

(8)

52

( 3 )  

( 1 )  

(2

) 

中村という名称で呼ばれるようになったのほ秀吉の検地以来のことで︑以前は単に牟岐と呼ばれていた︒

発見されたのは︑朝鮮土器と称せられる古墳時代の土器の破片で︑長さ二寸︑厚さ三分で︑表面上に筵目があり︑裏面に

並行孤線がある︒この土器は大正一1二年笠井藍水氏が発見されたものである︒

中村に特に多い︒なお︑同地の神子田半左衛門祠のものは戦国期のものであると立証されている︒ に設置されていた︒ 商業資本の吸着が一般化する︒ いわゆる高持︑網元︑船元︑親方等の名称の下に全漁村の支配的上層階級となる小数の層と︑むしろ漁業労働力の提供者としての多数の網子︑子方層とへの階層分解が積極化して来るのである︒そして︑支配的上層階級へ対する

なお︑旧藩時代の税制は︑寛政︱一年に沿海浦々に魚御分一所が設置され︑漁獲物販売は必ずここを通過するよ

うにして︑売上高の一0分の二の口銀を藩収入として決定したのである︒牟岐では︑東牟岐浦と西牟岐浦の二箇所 型化協業化し︑商品経済の一層の進展と相連って︑一方に広汎な小規模家内労働的小漁業を残しながらも︑他方︑ 一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶" i  プシ製造法も土佐から伝来し︑カツオは高級商品魚として商業資本の注目を集めていた︒天保頃には一0人乗のカ

ツオ漁船が沖漁に出たというから︑この期にはカツオ釣漁業は既に協業的操業の段階へ進んでいたものと思われる︒

h u  

10

人乗カツオ漁船が近世の土佐の規則となっていたことを考えると︑これも土佐から伝来したのであろうか︒し

かし︑このカツオ漁業の経営がどのような形をとって行われたかは判然としない︒地びき網経営のように株制を採

用していたことが想像されるが︑高持百姓の仕込みによると考えられるものも多い︒

以上のように︑この時期においては︑他の先進的優秀漁業地のすぐれた漁業技術が伝来し︑その結果︑漁法は大 ニ八

(9)

53 

( 1 2 )  

(11) 

( 7 )  

(8

) 

( 9 )   ( 1 0 )  

( 6 )  

( 4 )  

(5 ) 

海部郡誌刊行会﹁海部郡誌﹂

1 1

蜂須賀入国以前︑牟岐村には青木七郎兵衛という豪族が勢力を張っていた︒蜂須賀氏はこれを寛永四年郷高取にしている︒

なお︑享保年間の文書によると︑牟岐村組頭庄屋として青木七郎兵衛の名前が記されている︒

元禄期に︑徳島が土佐︑紀州と並んでカツオ産地として有名であったことは﹁本朝食鑑﹂の次の記載で明瞭であろう︒

﹁鰹・・・而土佐阿波紀伊伊勢駿豆相房総陸奥等諸州最多採之﹂

農林省水産局﹁旧藩時代の漁業制度調査資料﹂︵第一綱︶一10ー三一八頁

海部郡誌刊行会﹁海部郡誌﹂二0五頁

山口和雄﹁日本漁業史﹂六二頁丸川久俊•佐々木繁太郎・小金丸増次郎「最新水産全書」(第四篇漁業)九OI九五頁

なお︑打瀬網漁法については次書を参照されたいし

農商務省﹁日本水産捕採誌﹂

近代的カツォ︒フツの伝藩系譜ほ次のようである︒

‑;・・土佐⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝阿波・伊予

r:    

r

i ・

r・ ・

・ ・・ 伊

豆 ・・ ・

・ ・・ 焼

なお︑カツオブッに関する詳細は次書を参照されたい︒

東京鰹節問屋組合﹁かつをぷし﹂

山口和雄﹁日本漁業史﹂ーニ七頁

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

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454 

(表1)

22  14  12 

3,350  4,837  5,022 

人口及び戸数推移(本籍所在)

I I

3,212  4,663  5,183 

6,562  9,500  10,205 

1,255  1,621  1,836 

(表2) 産業別従事戸数(本籍所在)

¥ │ │  │ 年 度 漁 業 農 業 1商 業 I工 業 1その他1

本業 556 201 139 61 865 11,621 

14

副業 48 115 179 59 233 634  本 業 561 210 182 78 805 11,836  12

副 業 58 126 168 65 227 644 

⑬ 

明治五年の行政区劃により︑旧藩時代の牟岐は第八大区第三小区に編入され︑新制度の下に出発した︒更に︑

二年には︑大小区制の廃止にともない郡区町村編成法が施行され︑日和佐に海部郡役所︑数村毎に村役場︑牟岐で

は牟岐浦他四ヵ村と辺川他ニカ村に公選戸長が設けられた︒こえて︑二ニ年には︑町村制実施にともない︑牟岐各 ②明治維新から太平洋戦争に至る時代

村は統一され村役所がおかれ︑更に︑大正四年には︑町制が施行さ

れ︑今の牟岐町の前身が出来上ったのである︒このような経過を通

岐浦・出羽島︶の戸数は約七割が漁業専業で︑農業専業は僅か

0.

最初に農業から観察しよう︒田畑合して三百町歩に満たない牟岐

の農地面積は︑戸数に較べると誠に貧弱である︒だが︑貧弱な農業

であるが故に︑叉︑多数漁民を抱えたこの部落にとっては重要な意 に存在している︒ちなみに︑昭和︱二年の牟岐浦︵東牟岐浦・西牟 業はほとんど中村部落に集中され︑漁業と商工業は牟岐浦に集中的 を占め︑次いで農業︑商業︑工業の順になっている︒そのうち︑農

2︵ 表 )

によって︑牟岐の産業構成を見ると︑漁業が圧劉的比重 戸数も急速に増加して行ったのである︒ して︑牟岐は順調な発展を続け︑

︵ 表

1)

に見られるように人口も

(11)

‑455 

約二百戸がいわゆる農家であると考えてよかろう︒更に︑同年の数字によると︑

︱町以上の経営戸数が五三戸であ

ところで︑農業を専業として或は主として経営するには最低八反以上は必要であろう︒とすると︑昭和︱二年で とんどが小作関係に入っている訳である︒ 二反未満の土地所有者が意外に少ないことが先ず注意を引く︒つまり︑二反未満の副業農業をやっているものはほ

3) 自小作別耕地面積推移(単位町)

` ! 田 ! 畑 ! 計

年 度 自作 I小作 自作 I小作 自作 I小作

14 128  68 62  26  190  94 

12 122 70 74 44 196 114 

4) 経営規模別戸数推移

I~~反未満|2~5 │ 5 8 │8

〜 叫

1

22町以上

14 2ss 193 64 146 38 13 

12 321 195 66 147 39 14 

‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑

5) 土地所有規模別戸数推移

t::12反 未 満I2 5 5 8 is 1 1 2 2町以上

14 103 206 88 124 49 26 

12.112412271 9311261  501  26 

にこれを︵表

5) の土地所有規模別戸数と照合して見よう︒

漁家農業の上限は大体一二反といわれているからである︒次 よる農作を行っていることを意味している︒というのは︑ いささかでも食糧自給の途を構じようとして老幼婦女子に 渦中へ巻き込まれた礁民が不安定な漁業生産に対処して︑ この数字は増加している︒これは︑急速に資本主義経済の 家のそれではなく︑漁家或は商家の副業であろう︒しかも︑ れは牟岐が漁村であるから当然であろう︒勿論︑これは農 て観察すると︑二反未満層の圧倒的数字が目につくが︑こ ても最初に注意を引く︒経営規模別戸数を︵表

4)

︵ 表

3)

農地面稜の約三分の一に及ぶ小作地の存在︑更にそれが

︵ 表 3) 大正から昭和へかけて増加している現象︑これが何といっ 味を持っているのである︒

(12)

56 

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

︱町以上の土地所有者は七六戸に及んでいる︒いわゆる地主層が一町以上の土地所有者層に在ることを示

している︒そして︑その中には︑ずばぬけて大きい青木家︑次いで広田家の他に中西︑久米︑久佐木︑喜田︑満石︑

春山︑長尾等の旧庄家系の家が圧倒的に多く︑ほとんどが中村部落に本拠を構えている︒︐ 

nu

 

このような旧庄屋系地主の台頭は︑青木家と出羽島との関係でも判明するように︑天保以降急激に見られるよう

^ u  

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である︒他の小型地主層の形成はほぼ明治一0年前後と推定される︒これ等庄家系地主を頂点にして︑牟岐の地主

対小作の関係は極めて根強く全部落をおおっているのである︒この限りにおいて︑漁浦も地主の支配下に入ってい

当時二六00町歩︵現在は町村合併で四八00町歩︶といわれた山林を見てみよう︒このうち︑五︱︱町歩の御

林は明治初年に民有地に払下げられたが︑入会制の完備しない明治八・九年頃に濫伐され木材用造林は駄目になっ

てしまった︒さて︑残りの山林はどうなっているのであろう︒半分の約一

00

0町歩は部落有となっているがかん

木林で︑製炭︑製薪用でしかない︒後半分の一

00

0町歩の木材用造林はその八割までが庄家系地主層の所有とな

っている︒このような山林所有関係を見ると︑地主層の部落支配が更に強力なものであったことが理解出来よう︒

︵ 表 6)

は牟岐における商業戸数の区分と推移を示すものである︒約半分は行商を中心とした副業であるが︑こ

れが急速に減少しているのは正常な配給組織が次第に整って来たためであろう︒

商業の中心は小売である︒徳島市からの鉄道が牟岐で終点となっていることは︑それより南の各漁村の消費物資

が一応牟岐へ集中されたものと考えられる︒だからこそ︑非常に多くの一般小売が存在したのであろう︒又︑専門

小売のうち︑大部分が漁業用資材関係のものを扱っているという事情も︑牟岐以南の各漁村の存在を考慮しなけれ

(13)

4.57 

6) 種 類 別 商 業 戸 数 推 移

年]定l 1ll I専売門 1漁業卸関係Iそ忍他 11金融業 1その他

14318  76  28  10  13  27  156 

12 350  │ 81  40  18  20  35  10  146 

「その他」というのは,ほとんどが副業商業で行商が圧倒的に多い。

既に見たように︑幕末頃の牟岐の漁業は︑地びき網︑磯打瀬︑縛網︑ の手に移動しているのである︒ ばなるまい︒これ等の小売商店はほとんどが弱小な経営をしていたようである︒

部落の支配力を持つ地主層と多少とも関連しているのは︑卸売商業︑

金融業等であり︑それがかなりの度合いで増大しているのは︑それだけ地主層 地主層と工業との関連は更に著るしい︒もっとも︑漁業関係製造工業の半分は漁家副業

であり︑他の半分も大して大きいことはない︒大きい工業でしかも地主層が進出している のは︑造船︑軽機械︑製材︑

サービス業︵特に

ガラス等の部門で︑魚類加工等は意外に少ない︒明治年間に 地主層が支配していたと思われる魚類加工及びその流通は︑大正末期には早くも他の階層

一本釣等の沿岸漁

業を中核にカツオ漁業と採藻採貝とであった︒ところが︑ただ︱つの沖合漁業であったカ ツオ漁業が幕末から衰退の傾向を示し︑加えて︑明治に入ると︑沿岸漁業も一様に下降し 始める︒極端な不漁ほ明治四

0

年頃まで続くが︑これが漁民層の分解を大きく促進したこ とはいなめないし︑地主層の漁民支配即ち網元化を促進して行ったことも必然であろう︒

漁業不振は︵表

8) の漁獲高統計からも知ることが出来る︒明治時代の貧弱な漁獲高は

0

万貫にも満たなかったのである︒この憔業不振に対して既に出来つつあった網元層は どのような手を打って行ったであろうか︒沿岸漁業の不振による全般的窮乏化は網元をも

の商業部門への進出と考えても大過あるまい︒

(14)

.458 

(表8)漁獲高推移 7) 漁船隻数推移

;討ご

I漁獲高(貫)

22 150,000(推)

40 188,500  14 353,387  12 699,550  22 496,600 

(推)は推定数字である,

;芯ご

I無 動 力 船 1 動 力 船 22 330 

330 

40 389  390  14 450  40  490 

12 355  156  511 

22 182  166  348 

強く圧迫し始め︑明治二0年以降は網元の動きも活澄となって来る︒

第一に打たれた手は︑依然として不振を続ける沿岸漁業権の大部分を︑漁業組

合を設立して移譲し︑損失負担の安全を計ったことである︒明治一九年に東牟岐

浦漁業組合を︑同二二年に西牟岐浦漁業組合と出羽島漁業組合を︑設立したのは

第二には︑新しい漁法特に動力漁船による沖合礁業への進出である︒明治三五

年の定置網敷設︑大正五年以降の動力漁船による大掛りのカツオ漁業更にはマグ

ロ延縄漁業等はその代表的なものである︒そして︑これが実を結び始めるのは大

正末期以降のことである︒

と漁獲高の増加とが確実に正比例しているのに気付くだろう︒

こうして︑牟岐漁業は大正以降どうにか立ち直り︑昭和一0年頃には一応の繁

栄期を迎える訳であるが︑網元層の性格には若干の変移が見られる︒即ち︑新し

い漁法及び動力漁船の入手には莫大な資金が入用である︒この資金の借入れを依

頼した相手が他ならぬ庄屋系地主層であった︒既に︑土地所有その他の関係を通

して漁業に対しても大きい力を持ちときには網元をも兼ねていたこれ等地主は︑

この時期に小網元をも完全に自己の支配下に包摂してしまった訳である︒自らは

資金面を通して小網元を握り︑小網元に新漁業をやらし︑或は漁業組合を掌握さ

︵ 表 7)

と︵表

8)

とを対応すれば︑動力漁船の増加 このような意図があったのである︒

一 四

(15)

459 

昭和︱二年︑日本が日華事変という決定的な帝国主義戦争の渦中に入ってから︑戦時体制整備にともなう国内収 ( 1

6 )  

(1 4)   ( 1 5 )

 

g

一 五

せ︑更には︑魚類加工業をも実施させたのである︒先に︑魚類加工とその流通が地主の直接の手を離れていたよう

従って︑村の支配機構は︑庄屋系地主ーー小網元││漁民という系列となり︑漁業権漁業の無力化とともにむし

ろ資本主義的でさえある小網元に対して︑庄屋系地主は︑かなり強い商業資本的性格を具えていたといえよう︒と

はいっても︑これ等地主は封建的収奪を忘れてはいないし︑他方︑自己の経営する造船所と軽機械工場とをこの機

構に結び付けることによって手に入れることの出来る資本主義的利潤も決して逃しはしない︒牟岐漁業は︑このよ

うな旧制度を保ちながらも︑動力漁船による沖合化にともなって全体として次第に資本主義化して来るのである︒

第八大区というのは今の悔部郡一帯を含み︑その第三小区には︑牟岐洞︑出羽島︑中村︑内淡村︑浅川村︑浅川浦の六村

が含まれていた︒

牟岐浦他四ヵ村というのは︑中村︑内要︑川長︑灘を指し︑辺川他ニカ村というのは︑橘と河内を指すものである︒

蜂須賀氏入国のとき無人島であった出羽島は藩の守護上極めて重要な地位にあったから︑正保1一年︑牟岐の庄屋青木七郎

兵衛に番役を命じ︑扶持として︑事実上出羽島の領有を認めた︒寛政以降︑ここが開墾され住民が住むようになったが︑

島は依然として青木家の所有となっている︒

明治初年頃から︑漁家の土地借用が増大し︑しかも︑旧来の地主以外のものから借りているものがかなり多く︑借した方

は後に小地主となっている︒

農地改革と漁業改革

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶ に見えたのはこのためである︒

(16)

460 

9) 自小作別耕地面禎推移(単位町)

ミ \ 田 \ 畑年 度 自作 I小作 自作 I小作 1自作1小作 l

22 I 122  I  70  I  74  I  44  I 196  I 114  27 2241  61  981  51  3221  11  30 I 256  I  I 105  I  I 361  I 

‑‑

(表10) 経営規校別戸数推移

[ ; ; 区 : 、

12〜5

5〜;8 1│1 212町以上

321  I 195  I  66  I 147  I  39  257  I 213  I 162  I 203  I  38  248  I 209  I 191  I 213  I  39 

22  27  30 

4 0 0  

奪はいうまでもなく大きい打撃であった︒

奪機構の強化は︑この漁村にも次々と圧迫を与えて来た︒漁船は相次ぐ徴用に次第にその数を減じ︑石油︑綿糸︑

マニラロープ︑ゴム︑針金︑鉄綱材等の漁業用必須資材も強力な統制を受けて入手が困難になり︑優秀漁民のほと んどは戦争に引き抜かれて行った︒ようやく沖合漁業に活路を見出しつつあった牟岐にとって︑漁業生産手段の収

一八年以降︑その打撃は特にひどく︑牟岐は再び旧藩時代さながらの採

藻採貝と一本釣漁村へ後もどりしてしまった︒

足は︑石油︑綿糸等の強力な統制継続とからみ合って︑この漁村の 回復に大きい支障となった︒だが︑この漁村には幸い採藻採貝と一 本釣の磯漁業があった︒この磯漁業の回復は︑他の一般漁村のそれ より若干早く︑従って食糧危機を背景にかなりの閻利益を手に入れ ることが出来た︒だから︑牟岐の立ち直りは意外なくらい早い︒

に上る下層に対してはいわゆる民主化政策が遂行されたことは衆知 の通りである︒これが農業における農地改革であり︑漁業における

漁業改革であった︒

農地改革の結果︑︵表

9) で判明するように一二分の一以上に及んだ 田畑の小作地は完全に消滅した︒地主と小作の関係も表面的にはな

ところで︑日本産業の巨大資本中心復興政策とともに︑厖大な数 0年に戦争は終った︒巨大資本中心の復興政策と米殻食糧の不

一 六

(17)

461 

くなった訳である︒

しかし︑経営規模を見ると︑二反未満の副業農業が依然多いし五反前後の極小農業は逆に増大して︑貧弱な農業

経営は全く解消されないで残されている︒つまり︑農業経営自体としては︑零細経営から由来する不合理性はその

まま残置された訳である︒とすると︑地主の力がなくなっただけが取得であろうか︒なるほど︑農地に関する限り

地主の支配力はなくなった︒だが︑前にも述べたように︑ここの庄家系地主はほとんどが山林持ちである︒山林は

開放されないまま︑旧地主の手に残った︒だから︑旧地主の力はまだ強い︒

けれども︑この旧地主的支配力はかってのいわゆる地主的支配力ではない︒既に︑ここの旧地主がかなり前から

資本家的性格を持ちつつあったことは︑工業面への進出や小網元支配のための資金投入等でうかがうことが出来る

が︑農地改革を機に彼等は資本家的支配へ大きく踏み切ったようである︒勿論︑封建的な名残りを最高度に利用す

ることも忘れてはいないが︑それはあくまで利用であって︑本質はもう地主ではない︒

今の漁業協同組合は︑昭和二三年制定の水産業協同組合法によって規定され︑古典的な協同組合原則が適用され

た︒漁業改革の主眼は︑この漁業協同組合を沿岸漁業の漁業権管理と自営団体へ組織替えすることを中核とし︑こ

れによって漁民の主体性を確保しようとしたのである︒このため︑昭和二四年新漁業法が制定され︑その中に︑旧

漁業権の一斉消減︑漁業調整委員会の設置等々一連の民主的粉飾が盛り込まれたのである︒だが︑何よりも重要な

のは︑この新漁業法による民主的運営の甚軸が漁業協同組合におかれているということである︒だから︑漁業協同

組合が民主的でなければ新漁業法の効能は半減してしまうのである︒

ところが︑牟岐でも漁業協同組合の設立は二六年前半に完了しているのに︑新漁業法施行による切換漁業権の下

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

(18)

462 

(1) 

家系旧地主にとっても痛ようを感じないことであった︒ 一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

附は同年後半から二七年へかけて実施されている︒つまり︑新しい漁業協同組合の発足の方が新漁業法の施行時期

より早かった訳である︒ということは︑新しい漁業協同組合の内容が民主化されていないということである︒新組

合の内実は旧漁業会そのままの移行といってよい位である︒ただ︑従来の小網元は表面上退陣しているが︑親戚︑

縁者︑友人等を要職に送り込み︑依然として実権を掌握し続けようとしていたのである︒この組合自体の民主化は

漁民に残された最大の課題であった︒

更に︑旧漁業権の一斉消減といっても︑牟岐ではこのような漁業権による漁業が既に大した地位を占めてはいな

かった︒敗戦直後の立ち直りの時期にこそ重視されたこの漁業も︑沿岸資源の急速な低下と他漁村の回復にともな

って︑ほどなくその地位を沖合漁業に奪われたのである︒だから︑小網元としては︑このような漁業権を失うこと

はさほど痛手ではなく︑むしろ新しい漁業協同組合を掌握して組合の名の下に有利な漁業に乗り出した方が得なの

である︒漁業改革は小網元にとって或は望むところとなったのかも知れない︒そして︑それは小網元を支配する庄

こうして︑以後の漁業は︑組合を中心に旧網元の力を包含しながらも︑沿岸漁業の停滞と衰えにともなって次第

に沖合及び遠洋の資本主義的漁業へと進まざるを得なくなるのである︒

漁村農業と林業

全体として食糧不足に悩む漁村にとって貧弱ではあっても農業は重要な地位を占めている︒二反未満の極小耕地

(19)

‑463 

12) 経営規模別世帯数及び町政世帯数(昭32)

I~ミ\2反未満1 2 5 │ 5 8 │81│1 22町以上

1世 帯 数 249l  211J  19ol  212J  401 

1町政担当

11)

産業別世帯数

31)

産業種 1世帯数

(2) 

一 九

一般小売が漁村の開発にともなって次第に専門化して行った にしがみ付く漁家は極めて多いし︑商店を開きつつ副業農業を営ん

このような農業の重要性を考慮すると︑︱町以上を経営する農家

の地位は相当に高いことが想像される︒この層の中には庄屋系旧地

主も含まれている︒︵表

1 1 )

によって町政担当層を見ると︑わずか四

0の世帯数の中に実に八つが含まれ︑この層が村の実力を握っていることを示している︒

ところで︑床屋系旧地主は山林持ちが多いことは既に述べた︒事実︑四0の一町以上層

の中で︑大なり小なり山林を持っていないのはわずか六戸にすぎない︒つまり︑三四世帯

は山林を所有している訳であり︑しかもそのうち七世帯は本格的に林業をやっている︒更

に述べると︑そのうち三世帯は何れも製材業を兼ね︑二世帯は木造船業の役員を出し︑更

に一世帯は運送業を開いている︒しかも︑そのほとんどが庄家系である︒

商業の構造

戸数の上で一番多いのは何といっても小売商業である︒特に︑小売商業の中でも専門小

売の急激な増加が目につく︒

結果であろう︒牟岐は鉄道の終点で︑かってほ牟岐とそれ以南の消費資料は一応ここに集

中されていた︒しかし︑戦後︑近隣村落にも一般小売店が相次いで開かれたため︑牟岐の

各小売店は︑むしろ小さい卸売を兼ねた専門小売化を急速度に進展させなければならなか

I I

  漁 業

695 

農 業 450 

商 業 348 

工 業 112 

会社員 312 

林 業 26 

その他 295 

2,138 

でいるものもかなりある︒

(20)

464 

13)

心~I 総

12  28  33 

種 類 別 商 店 戸 数 推 移

I 売 サ ー ビ ス

I一 般 I専 門 [ 漁 業 関 係Iそ の 他 贔 I金 融 業 [ そ の 他

│ 81  40  18  20  35  10 

41  66 1s  31  38 

26 72 13  36  40 

3 5 0 3 4 8 3 6 0  

146  139  146 

14) 東 ・ 西 牟 岐 浦 小 売 店 推 移

ぃ~I 東牟岐 1 西牟岐

年 度 一 般 I専 門 一 般 I専 門 12 I  39  I  28  I  31  281  321  301  331  201  221 

9

0   2 4  

業も都市金融資本︑例えば四国銀行︑河波商業銀行︑徳島相互銀行

一漁村における遠洋漁業と製造工業の分析︵柏尾︶

ったのである︒当然のことながら︑ここの一般小売は激減した︒この間の推移を最も良く 物語っているのが東西両牟岐浦の小売店統計︵表

1 4 )

鉄道の駅があり交通に便利な西牟岐浦が急速な専門小売化を行っているのに対して︑古 くから開けた東の方は発展にとり残されている︒これは単に小売商業だけでなく︑他の商 業部門でも見られる現象である︒より大きい卸売商業やサービス業︑金融業等ほすべて西 に集中され︑行商等の小さい副業商業はほとんどが東に残存している︒

さて︑卸売商業であるが︑若干の漁業関係卸売商業以外はすべてが西に集中され︑扱う

商品も各種各様である︒この卸売商業の増加傾向も近隣部落の小売 商業増加によるのであろう︒かつては︑この部門へ直接手を下した こともある庄屋系旧地主は︑現在では少くとも表面上何等関係がな

さそうである︒というのは︑

←都市というコースをとっていた商品の流れが︑今や︑地元原料

コースに圧倒されたからであろうか︒ともあれ︑現在の卸売商業は︑

すべて都市製造工業或は問屋のルートから商品を受け入れている︒

かつては地元原料

l

地元加工

l

サービス業は少々増加しているが大した変動はなく︑金融

参照

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