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神戸湊川能楽堂略史(二)

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     はじめに   大 正 元 年 か ら 昭 和 十 年 ま で 神 戸 に 存 在 し た 湊 川 能 楽 堂 に つ い て、 前稿 「神戸湊川能楽堂略史 (一) 」(『古典芸能研究センター紀要』 8 号 ) に お い て、 設 立 ま で の 経 緯 と 設 立 者 の 大 西( 手 塚 ) 亮 太 郎 に つ い て 述 べ た。 重 複 す る 点 も あ る が、 本 稿 で は、 引 き 続 き 大 正 期 か ら 昭 和 初 期 の 能 楽 堂 お よ び 神 戸 の 能 楽 界 の 様 子 と、 閉 鎖 に 至 る ま で の 経 緯 に つ い て、 わ ず か な ら 現 在 確 認 で き た こ と を ま と め ておきたい。

  な お 表 記 に 関 し て は、 前 稿 と 同 じ く 大 西 亮 太 郎 は「 ( 手 塚 ) 亮 太郎」 、能楽堂は改称後の名称「湊川能楽堂」で統一する。

     一

湊 川 能 楽 堂 は、 設 立 以 来、 神 戸 唯 一 の 本 格 的 な 能 楽 堂 と し て、 当 地 の 能 楽 界 と 足 並 み を 揃 え て 発 展 し た。 定 例 の 能 会 が 毎 月 第 四 日 曜 日 に 開 催 さ れ た ほ か、 神 戸 で 開 催 さ れ る 大 き な 能 の 催 し に は 必 ず 使 用 さ れ て い た。 「 神 戸 素 人 能 の 黄 金 時 代

」 で 神 戸 が も っ と も 活 気 に あ ふ れ て い た の は、 大 正 七、 八 年 頃 で あ っ た。 当 時 の 舞 台 写真は、 当時大阪で刊行されていた 『能楽写真界』 (大正五年創刊) や 神 戸 で 刊 行 中 だ っ た『 神 戸 謡 曲 界

』 な ど の 雑 誌 に も 掲 載 さ れ て い る が、 こ こ で 舞 台 に 見 所 も 少 し 写 っ た 写 真 を み よ う。 次 頁 に 掲 載 し た の は、 「 有 吟 会 」 主 催 の 大 正 八 年 二 月 の 番 組 と 舞 台 の プ リ ン ト 写 真( 古 典 芸 能 研 究 セ ン タ ー 蔵 ) で あ る。 当 時、 数 多 い 素 人 会 の 中 で、 謡 や 仕 舞 に 限 ら ず 活 発 な 演 能 活 動 を し て い た の は、 こ の有吟会(福崎仁主宰)と、 兵庫地区の松籟社(神田慶太郎主宰) であったとされる。 福崎仁は、 亮太郎門下で大西四天王 (郡保太郎 ・ 上 田 周 太 郎・ 佐 久 間 金 之 助 ) の 一 人 と 云 わ れ た 人 物 で、 神 戸 市 の 元町三丁目に住み続け、大阪では「元町老」とも呼 ば れていた

  こ の 会 直 前 の 昭 和 七 年 末、 大 阪 で は、 亮 太 郎 の 念 願 が 叶 っ て 大 阪 能 楽 殿 が 落 成 し た。 こ の 大 阪 能 楽 殿 は、 二 階 部 分 に 亮 太 郎 の 私 宅 も あ っ た。 少 々 横 道 に そ れ る が、 亮 太 郎 の 日 記 風 雑 記『 大 正 八 年 記 事

』 か ら、 そ の 前 後 の 様 子 を み て お こ う。 能 楽 殿 は 大 正 五 年 四 月 起 工、 同 七 年 八 月 十 日 上 棟 式 を 経 て 完 成。 亮 太 郎 一 家 は 年 内 に引越を済ませ、 大正八年正月は 「新宅」 で迎えた。同書の起筆は、 亮 太 郎 に と っ て 記 念 す べ き 年 と な っ た 大 正 八 年 正 月 一 日 で、 こ の 時 に 亮 太 郎 一 家( 家 族 は 妻 の 竹 野、 長 女 の 芳 子 ) と と も に 正 月 を 迎 え た 門 下 は、 ( 加 藤 ) 貞 蔵・ ( 木 下 ) 一 二・ ( 井 田 ) 文 二 の 三 名     神戸湊川能楽堂略史(二) ︱大正~昭和初期の神戸︱

    大   山   範   子

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で あ っ た

。 四 日 は 恒 例 の「 神 戸 宮 巡 り   翁   御 面 掛 ケ 」 で、 前 稿 に も 述 べ た よ う に、 神 田 慶 太 郎 の ほ か、 亮 太 郎 と 加 藤 貞 蔵、 そ し て 神 戸 在 住 門 下 の 福 崎 仁・ 改 正 辰 三

の 総 勢 五 名 が 湊 川 能 楽 堂 に 集 合、和田神社 ・ 七之宮(七宮神社) ・ 長田神社 ・ 楠神社(湊川神社) ・ 生田神社の順に奉納をした。

  正 月 行 事 の 後、 し ば ら く は 日 毎 の 簡 単 な 記 事 が 続 く。 十 九 日 は 「 神 戸 定 期 能 」、 二 十 三 日 に は 翌 日 か ら の 舞 台 披 能 に 先 駆 け て、 午 前 六 時 に 門 人 が 集 ま っ て 舞 台 披 き を し た。 同 日 条 に は、 自 身 が 神 歌 を 謡 っ た 旨 と 舞 台 上 の 人 物 配 置 図 が 記 さ れ、 図 の 片 隅 に は「 廿 三 日 舞 台 披 ヲ 例 ト シ テ / 明 年 一 月 二 日 謡 初 ヲ ナ ス コ ト 」 と 書 き 添 えられている。翌二十四日から三日間が 「舞開式能 (*ママ) 」で、 「入 場者六百人余」 「同   八百人余」 「同   千人余」とする

  そ の 後、 二 月 十 四 日 に は「 式 能 慰 労 ト シ テ 門 人 三 拾 名 浪 花 座 幸 四 郎 勧 進 帳 見 物 ニ 行 」 き、 続 く 二 月 十 六 日 条 に「 神 戸 舞 台   有 吟 会 能 」 と し て 番 組 を 記 し て い る( 「 素 謡   靏 亀   福 崎 他 / 能   忠 度   吉 川 市 三 / 羽 衣   鷲 尾 / 隅 田 川   直 木 三 郎 / 舟 弁 慶   天 野 / 一調   善知鳥   公雪   賀光」 )。

  掲 出 し た 番 組 写 真 で は、 会 場 は「 大 西 能 楽 堂 」 に「 湊 川 」 が 小 字で添えてある体だが、 神戸以外では一般的に「神戸大西能楽堂」 と 呼 ば れ て い た

。 見 所 と と も に 舞 台 が 写 さ れ た 写 真 は こ の 二 葉 の み( 他 は シ テ 姿 の 別 撮 り

) だ が、 見 所 と 舞 台 の 高 さ の 感 じ や 距 離 感など、その様子を多少はうかがうことができよう。

  設 備 に 関 し て は、 設 立 十 二 年 後 に 見 所 の 増 築

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、 ま た 大 正 十 三 年 十 一 月 に は、 門 下 の 木 下 一 二 の「 高 諷 会 」 が 見 所 東 部 に 敷 舞 台 を

上:大正8年2月16日 有吟会番組(於 湊川能楽堂)

左上:素謡「鶴亀」、左下:能「忠度」前場

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新 設 す る な ど

((

、 改 善 さ れ て い る が、 詳 細 は 未 詳 で あ る。 当 時、 本 舞 台 は 女 性 が 使 う こ と は で き な か っ た が、 こ の 敷 舞 台 は 使 用 が 認 め ら れ て い た。 ま た、 本 舞 台 の 見 所 を そ の ま ま 流 用 で き た た め、 謡会などの利用には好評だったようである。

     二

前 稿 で も 述 べ た よ う に、 大 正 十 三 年 三 月、 亮 太 郎 は、 門 下 の 加 藤 貞 三( 本 名 貞 蔵 ) を 後 継 者 と し、 長 女 芳 子 の 夫 と し て 迎 え た 際、 自 身 も 大 西 か ら 手 塚 へ と 改 姓 を し た。 そ れ に 伴 い 能 楽 堂 は「 湊 川 能楽堂」 、定例の能会も 「湊川定期能楽会」 と改称した。もっとも、 内 実 は 変 わ ら ず、 能 楽 堂 に は 門 下 の 木 下 一 二 が 留 守 番 役 と し て 住 み、亮太郎もし ば し ば 稽古に足を運んでいた。

  大 正 末 期 か ら 昭 和 に か け て、 湊 川 能 楽 堂 で 開 催 さ れ る 催 し の 数 は 急 に 減 少 し た わ け で は な い が、 大 正 半 ば の ピ ー ク 時 に 比 べ て、 観 客 数 は 格 段 に 減 少 し た よ う で あ る

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。 も っ と も、 こ れ は 湊 川 能 楽 堂 の み な ら ず、 一 般 的 な 傾 向 で も あ っ た。 時 代 的 に も 能 を 支 え る 素 人 弟 子 の 内 実 が 変 わ り は じ め て い た。 観 客 も 然 り で あ る。 大 正 十 五 年 二 月 に は、 大 阪 で 青 年 楽 師 が 流 派 を 超 え て 結 成 し た 錦 風 会 が、 見 所 に ビ ラ を 撒 い て 拍 手 を 禁 止 し た と い う で き ご と が 起 こ る が、 こ れ な ど も 観 客 の 変 質 し た こ と の 現 れ の 一 つ だ ろ う。 見 所 に は、 こ れ ま で の よ う に 社 中( や 他 門 ) の 弟 子 ば か り で は な く、 純

粋 な「 観

劇 」 の た め に 訪 れ る「 観

客 」 も 混 じ る よ う に な っ て き たのである。

  昭和二年には、 大阪朝日会館を会場とした「朝日能」が始まり、 一 般 大 衆 が 安 い 料 金 で 能 を 楽 し む 機 会 を 提 供 し た。 こ の 時 に は、 演 能 に 際 し て 当 日 の 演 目 を 掲 載 し た 解 説 入 り 特 製 謡 本( 袖 珍 本 ) を用意するなど、 能になじみのない観客に向けた配慮もなされた。 同 様 の 試 み は 以 後 各 所 で 行 わ れ る よ う に な る。 昭 和 三 年 十 一 月 二十日 ・ 二十一日には朝日新聞社会事業団主催の「御大典奉祝能」 が 開 催 さ れ、 こ の 時 も 朝 日 会 館 特 製 の 記 念 謡 本 が 配 付 さ れ た。 こ れ な ど は 特 に、 そ れ ま で 能 に 係 わ り の な か っ た 一 般 層 が 能 に 近 づ く き っ か け と な り 得 た だ ろ う。 時 期 的 に も、 ラ ジ オ 放 送 や レ コ ー ド で 謡 に 親 し み、 学 校・ 会 社 の ク ラ ブ で 気 軽 に 謡 を 稽 古 す る 人 口 は 増 え つ つ あ っ た。 だ が、 か つ て の 富 裕 層 の ご と く 大 規 模 な 後 援 のできる、 いわゆる「紳士(婦人)謡曲家」は減ってきていたる。

  舞 台 の 使 用 頻 度 と い う 点 に つ い て は、 大 正 末 年 頃 の 神 戸 で 各 所 に 稽 古 用 舞 台 が 作 ら れ た こ と も 見 過 ご せ ま い。 特 に、 後 述 す る 上 田 隆 一 が、 大 正 末 年 に 自 宅( 兵 庫 区 絵 下 山 町 二 丁 目 ) に 作 っ た 能 舞 台 は 注 目 さ れ る。 こ の 舞 台 は、 新 築 の 自 宅( 木 造 二 階 建 て ) の 二 階 部 分 に 設 け ら れ た も の だ が、 「 橋 掛 り、 鏡 板 及 正 面 屋 根 な ど 凡 て 本 舞 台 式 の 構 造 に 成 れ る も の

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」 で、 橋 掛 か り が 短 く 見 所 は 畳 敷 き な が ら、 二 百 五 十 人 ほ ど 収 容 可 能 だ っ た と い う

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。 も ち ろ ん、 本 格 的 な 能 楽 堂 で は な い の で、 上 田 主 宰 の「 観 正 会 」( 当 時 の 神 戸 で は 最 も 会 員 数 が 多 か っ た ) も、 大 会 は 湊 川 能 楽 堂 で 開 催 し た が、それ以外はこの「観正会能舞台」を使うようになった。

っ て 届 け た り と、 東 奔 西 走 の 活 躍 を 続 け た。 持 病 の た め 体 調 万 全 め た り、 関 東 大 震 災 に 見 舞 わ れ た 東 京 の 楽 師 に 関 西 で 見 舞 金 を 募   「 大 阪 能 楽 殿 主 」 の 亮 太 郎 は、 そ の 後 も、 阪 神 能 楽 組 合 長 を 務

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と は 云 え ず、 つ と め る 舞 台 数 も 減 っ て き て は い た が、 昭 和 二 年 一 月 に は 還 暦 祝 賀 能 を 開 催、 そ の 後、 自 祝 に 翁 面 を 二 十 面 作 り 全 国 の主たる神社に奉納。昭和三年四月二十日には、 特に許された 「関 寺小町

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」を披いている。

     三   大 正 期 か ら 昭 和 の 初 め ま で 神 戸 の 能 楽 界 を 支 え て き た 湊 川 能 楽 堂 は、 昭 和 六 年 十 一 月、 亮 太 郎 の 逝 去 に よ っ て 大 き な 転 換 点 を 迎 えることになる。

  折 し も、 能 楽 堂 の 経 営 困 難 を 打 破 す べ く、 同 年 の 下 半 期 は、 定 期 能 楽 会 の 見 直 し が な さ れ て い た。 出 演 者 も、 神 戸 の 手 塚 同 門 の みならず、 神戸に縁のある(稽古場を持つ)能楽師を組み入れた。 「 湊 川 定 期 能 」 の 従 来 の 顔 ぶ れ に 加 わ っ た の は、 た と え ば 同 年 十 月 で は、 大 西 信 久・ 林 喜 右 衛 門・ 手 塚 貞 三、 十 一 月 は 生 一 泰 秀・ 手 塚 貞 三、 十 二 月 の 素 謡 に 生 一 綾 生・ 井 上 嘉 一 郎 と い っ た 演 者 で あ る。 日 程 も 第 四 日 曜 か ら 第 一 日 曜 日 に 変 更 さ れ た。 さ ら に、 時 世 を 鑑 み て も 実 現 は 時 期 の 問 題 と さ れ て い た、 能 舞 台 の「 女 人 禁 制」の鉄則がまず撤廃されることになった。

  能 楽 堂 は い ろ い ろ な 意 味 で「 開 放 」 さ れ、 そ の 体 制 に も 変 化 が 生 じ た。 翌 七 年 九 月 十 五 日、 そ れ ま で 十 余 年 間 能 楽 堂 内 に 居 住 し て い た 木 下 一 三( 昭 和 六 年 秋 に「 一 二 」 か ら 改 名 ) が、 神 戸 市 湊 西 区 水 木 通 三 丁 目 五 十 九 番 地 に 転 出、 独 立 す る こ と に な っ た。 代 わ っ て、 大 阪 か ら 上 野 義 三 郎 が 一 家 で 転 居 し、 神 戸 に 来 任 す る

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。 上 野 は、 舞 台 に 関 す る 権 限 が 与 え ら れ て い た。 つ ま り、 使 用 料 の 値 下 げ や そ の 他 の 便 宜 を は か る な ど、 経 営 状 況 改 善 に 向 け て 現 場 で対応できるようになったのである

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  同年九月二十五日には、 湊川能楽堂で神戸在住職分が出演して、 上 野 義 三 郎「 来 神 披 露 能 楽 会 」 が 阪 神 の 同 好 家 を 招 待 し て 開 催 さ れ た。 当 日 の 番 組 は 以 下 の 通 り

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。 傍 線 を 付 し た 演 者 は 神 戸 在 住 者 ( 実 線 は 手 塚 門、 波 線 は 手 塚 門 以 外 ) で、 そ れ 以 外 は、 狂 言 役 者 の 茂 山 を 除 き 大 阪 在 住 の 亮 太 郎 門 下 で あ る。 こ の う ち 宇 治 正 夫 は 後 年 離 脱 す る こ と に な る が

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、 当 時 は ま だ 旧 亮 太 郎 門 下 は、 後 継 者 の貞三を中心に足並みをそろえていた。

【素謡】 「神歌」手塚貞三、 「加茂」宇治正夫、 「熊野」改正龍造、 「通小町」小林賢次 (*片山門下) 。 【独吟】 「葵上」泉湖東 (*橋岡門下) 、「頼政」福崎光三。 【 仕 舞 】「 敦 盛 」 山 崎 菊 治、 「 笹 之 段 」 小 島 甚 三 郎、 「 笠 之 段 」 木 下 一 三、 「 隅 田 川 」 岩 名 萬 次 郎、 「 実 盛 」 貴 田 政 三、 「 天 鼓 」 竹谷貞一、 「野守」上田隆一 (*伊東門下) 。 【舞囃子】 「山姥」上野朝太郎。 【能楽】 「船弁慶」上野義三郎 【狂言】 「福の神」茂山忠一良

  翌 十 月 二 十 三 日 に は、 「 故 手 塚 翁 追 善 謡 会 」 が 開 催 さ れ た。 大 阪 で は 十 月 九 日 に 追 善 能 楽 会 が 行 わ れ た が、 当 地 で は 松 諷 社( 大 西 家 主 宰 ) の 主 催 に よ っ て、 神 戸 門 下 の 各 社 中 が 初 め て 連 合 し て の 会 と な っ た。 当 日 の 出 演 は、 有 吟 会( 福 崎 仁 )・ 正 諷 会( 改 正 龍 造 )・ 和 諷 会( 小 島 甚 三 郎 )・ 風 韻 会( 宇 治 正 夫 )・ 高 諷 会( 木

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下一三) ・光吟会(福崎光三)などであった。

  ま た、 こ の 会 は、 能 楽 堂 の「 女 人 禁 制 」 解 禁 後、 初 め て 女 性 が 舞台に上がる機会となった。 『神戸謡曲界』 主幹の塩谷甲南は 「時 代 の 推 移 を 視 る の 明 を 欠 か な か つ た 翁 は 今 地 下 に あ つ て、 正 に 時 機 到 来 せ り の 会 心 の 笑 み を 漏 ら し て ゐ ら れ る 事 だ ら う と 思 は れ る

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。」と、亮太郎の先見性について触れている。

  以 後、 女 性 だ け の 謡 曲 会 が 初 め て 能 楽 堂 で 開 催 さ れ た の は、 十 一 月 十 八 日 で あ っ た( た だ し 非 公 開 )。 出 演 者 は、 旧 亮 太 郎 門 下の神戸在住者五名(谷多實子 ・ 内村優子 ・ 曾根君子 ・ 香西貞都子 ・ 松 浦 玉 枝 ) 以 外 は 大 阪 か ら の 来 訪 で あ っ た と い う。 ち ょ う ど こ の 頃神戸では、 女性による謡曲同好会「華謡会」も組織されている。 前 掲 の 香 西 貞 都 子 ほ か 約 十 名 が 中 心 に な っ て、 月 一 回、 私 邸 な ど 非公開ながら会を開き活発に活動していた。

  能 楽 堂 に お け る 女 人 禁 制 の 撤 廃 に つ い て は、 神 戸 で 湊 川 能 楽 堂 が 先 鞭 を つ け た 後、 翌 年 は 大 阪 の 生 一 能 楽 堂 が、 次 の 年 に は 大 阪 能 楽 殿 が 女 性 の 使 用 を 認 め る こ と に な っ た。 大 阪 能 楽 殿 で は、 こ れを機に、 昭和九年三月、 最初の婦人大会を開催した。 神戸からも、 以下の有力な五名が参加している。

   素 謡「 靏 亀 」・ 舞 囃 子「 卒 都 婆 小 町 」 谷 多 實 子、 素 謡「 草 紙 洗小町」 香西貞都子、 素謡 「安宅」 (ワキ) 内村優子、 素謡 「道 成寺」 (ワキ)竹中琴梅、 (番組未詳)曾根君子

  先 の 会 と 名 前 は ほ ぼ 重 な る が、 こ の 女 性 達 は す べ て 亮 太 郎 門 下 で、 後 年 の 亮 太 郎 七 回 忌 追 善 会 の 番 組 に も 多 く 夫 婦 揃 っ て 名 を 連 ね て い る

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。 こ う し た 人 々 が、 亮 太 郎 の 活 躍 し た よ き 時 代 の 昔 な が ら の 素 人 弟 子 で あ り、 ま た ひ い て は 能 楽 堂 を も 支 え て い た こ と が わ か る

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。 手 塚 同 門 も ま た、 こ う し た 後 援 者 に 囲 ま れ て、 従 来 と さ ほど変わらぬ態勢のままであった。

  一 方 で、 神 戸 に お い て、 行 く 先 を 見 据 え な が ら、 能 の 大 衆 化 に 対 応 す る 工 夫 を 次 々 に 実 現 し て い っ た の は、 伊 東 隆 三 郎 門 下 の 上 田 隆 一

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で あ っ た。 彼 は 昭 和 七 年 二 月、 大 槻 十 三( 大 阪 ) と 井 上 嘉 一 郎( 京 都、 後 の 嘉 介 ) と 三 人 で、 神 戸 能 楽 会 を 創 立、 旧 関 西 学 院講堂に敷舞台を設け

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、毎年二月 ・ 六月 ・ 十一月に公演を行った。 上 田 は、 能 楽 の 普 及 の た め に、 観 能 料 を 下 げ た り 上 演 時 間 を 短 く するなど、さまざまな試みを重ねていく。

  翌 昭 和 八 年 六 月 二 十 七 日、 神 戸 能 楽 会 は、 神 戸 初 の「 学 生 観 賞 能 楽 会 」( 兵 庫 県 学 務 課・ 神 戸 保 導 連 盟 後 援 ) を 先 述 の 旧 関 西 学 院 講 堂 能 舞 台 に お い て 開 催 し た。 大 阪 で は す で に 能 楽 同 志 会 に よ る「 学 生 招 待 能 」 は 昭 和 五 年 か ら 回 を 重 ね て お り、 昭 和 七 年 九 月 に は「 教 育 家 招 待 能 」 も 始 ま っ て い た。 ( 東 京 で は、 昭 和 八 年 十 一 月 二 日 に 観 世 が 第 一 回 学 生 招 待 能 を 催 し て い る。 ) 番 組 は 以 下のようなものであった。

   男 子 の 部 … 舞 囃 子「 高 砂 」 伊 東 巌

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、 能「 羽 衣 」 上 田 隆 一、 狂 言「蚊相撲」茂山忠一良

   女 子の部…舞囃子「加茂」大槻十三、 能「小袖曽我」伊東巖、 狂言「不聞座頭」茂山吉次郎

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  時 機 に 敏 な こ う し た 動 き に 対 し て、 前 述 の 塩 谷 甲 南 は、 「 多 士 才 々 を 以 て 知 ら れ て 居 る 手 塚 神 戸 同 門 会 」 が「 教 育 家 招 待 能・ 学 生 招 待 能 な ど を 開 催 し て い な い 」 こ と に 苦 言 を 呈 し て い る。 こ の 言は、 おそらく多くの声を代表するものだったろう。その意味で、 手 塚 同 門 は、 近 代 化 へ の 対 応 に 一 歩 遅 れ を と っ て い た と も 云 い 得 る か も し れ な い。 昭 和 五 年、 神 戸 に 全 国 初 の 謡 曲 連 盟「 神 戸 謡 曲 連 盟 」 が 成 立 し た 時 も、 手 塚 同 門 の 会 は 参 加 が な く 話 題 に な っ た が、これもまたある面では同様だろう。

  昭 和 八 年 六 月 二 十 三 日 に は、 観 世 左 近 を 招 い て、 手 塚 亮 太 郎 の 追 善 能 楽 会 が 開 催 さ れ た。 番 組 は 下 記 の 通 り で、 こ の 年 の 一 月 に 観 世 流 復 帰 を 発 表 し た ば か り の 梅 若 万 三 郎 も 出 演 し て い る。 古 く か ら 梅 若 家 と も 親 交 を 重 ね て き た、 亮 太 郎 の 追 善 会 な ら で は の 顔 ぶれであった。

   能「小袖曽我」手塚貞三 ・ 大西信久、 「三井寺」観世左近、 「船 弁慶」梅若万三郎、

   素謡「忠度」梅若万三郎、舞囃子「藤戸」梅若万佐世、

   仕舞「俊成忠度」片山博通、

   狂言「水掛聟」茂山忠三郎、狂言「神鳴」茂山久治

  湊 川 能 楽 堂 の 定 期 能 は、 そ の 後「 神 戸 手 塚 能 楽 会 」 と 名 称 を 変 え て 続 く が、 相 変 わ ら ず 能 五 番 と い う 大 き な 催 し で も あ り、 観 客 が 増 え る こ と は な く、 経 営 は 悪 化 の 一 途 を 辿 っ た。 慢 性 的 な 赤 字 を 抱 え た 能 楽 堂 は、 し ば し 命 を 長 ら え た も の の 経 営 難 は 続 き、 遂 に手塚貞三は、能楽堂閉鎖を決意する。      四

  昭 和 十 年、 手 塚 門 の「 元 町 老 」 福 崎 仁 が 舞 台 を 引 退 す る こ と に な っ た。 引 退 後 は「 多 数 門 下 を 擁 す る 手 塚 家 に 入 り、 同 家 の 大 に 対する補強工作、 乃ち内面的に之が統制の重任を帯びる訳である。 そ う し て 若 き 手 塚 氏 を し て 俗 事 よ り 遠 ざ か り、 芸 事 に 専 念 せ し む る と い ふ、 同 家 の 将 来 の 安 き を 慮 つ た に 外 な ら な い も の と 思 は れ る

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。」と云われたが、時すでに遅しの感があった。

  引 退 披 露 の 会 は 神 戸 で は 二 月 十 一 日( 祝 ) に、 大 阪 で は 二 月 二 十 三 日 に 観 世 宗 家 を 迎 え て の 素 謡 会 が 開 催 さ れ た。 湊 川 能 楽 堂 で の「 福 崎 仁 氏 引 退 披 露 能 楽 会 」 は、 神 戸 の 楽 師 総 出 と い う 赴 き で、 同 門 は も ち ろ ん の こ と、 他 社 中 の 者 や、 他 門 へ 移 籍 し た 宇 治 正 夫・ 四 谷 多 蔵 も 出 演 し た。 番 組 は、 福 崎 と 貞 三 の「 翁 」 に 始 ま り、 能 だ け で も 鶴 亀( 宇 治 正 夫 )・ 敦 盛( 上 野 朝 太 郎 )・ 草 紙 洗 小 町( 改 正 龍 造 )・ 砧( 木 下 一 三 )・ 石 橋( 半 能、 大 西 信 久・ 上 野 義 三 郎 ) と い う 盛 大 な 会 で あ っ た。 一 方、 大 阪 能 楽 殿 の「 福 崎 氏 引 退記念素謡会」 は二月二十三日 (土) 夕刻より手塚貞三主催で開催、 福崎仁は光三とともに「鷺」を演じた。

  同 年 の 初 春、 貞 三 は 能 楽 堂 閉 鎖 を 発 表 す る。 ( 図 ら ず も 日 刊 紙 に 掲 載 さ れ、 半 ば 公 式 の 発 表 と な っ て し ま っ た と い う。 ) さ ま ざ まな意見と憶測が飛び交った。当初は移転と伝えられたが、 後に、 敷 地 売 却 の た め の 閉 鎖 と 判 明 す る。 神 戸 唯 一 の 本 格 的 能 舞 台 の 閉

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鎖 を 惜 し む 声 は 大 き く、 『 神 戸 謡 曲 界 』 は 二 号 続 い て( 昭 和 十 年 一 月・ 七 月 ) 関 連 記 事 で う ま り、 特 集 号 の 体 を な し て い る

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。 大 阪 で 刊 行 さ れ て い た『 能 楽 世 界 』 に は、 能 楽 堂 閉 鎖 直 後、 神 戸 支 部 の 辻 田 摂 陽 の 署 名 入 り で、 手 塚 家 の 対 処 が 一 方 的 か つ 急 で あ り 遺 憾とする記事が掲載された

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  閉 鎖 に 先 立 ち、 貞 三 は 記 念 の 能 会 を 計 画 す る が、 神 戸 在 住 の 楽 師 は、 別 途 六 月 七 日 に「 神 戸 楽 師 会 能 」 を 催 す こ と に な っ た。 そ れも当初は、 五月一日(於湊川能楽堂)の神戸在住楽師の協議で、 六 月 第 四 日 曜 日 に 催 能 が 確 定 し て い た と い う

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。 仮 番 組 で は、 能 が 竹 生 嶋( 福 田 憲 照、 天 女 を 岡 崎 益 太 郎 )・ 邯 鄲( 宇 治 正 夫 )・ 熊 野 (改正龍造、 ツレ卜部和三郎) ・ 葵上(上田隆一、 巫女は中村国芳) ・ 殺 生 石( 木 下 一 三 )・ 乱   双 之 舞( 手 塚 貞 三・ 大 西 信 久 )、 舞 囃 子 の頼政 (上野義三郎) 、他に仕舞 (伊東巌) などが予定されており、 詳 細 は 次 回 の 協 議 で 決 定 す る こ と に な っ て い た。 そ の 後 の 事 情 は 未 詳 な が ら、 結 果 と し て、 神 戸 楽 師 会 の 能 会 は、 演 目 詳 細 は 若 干 変 更 し た も の の、 貞 三・ 大 西 信 久 以 外 は ほ ぼ 当 初 の 計 画 通 り で 開 催された。

  一方、 手塚家主催の能会 (『能楽世界』 予告番組欄には 「手塚能楽」 と掲載) は、 茶菓の接待つきの 「閉鎖記念招待能」 として行われた。 番組詳細は以下の通りであった

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  昭和十年六月廿二日(土曜)午後一時始   於湊川能楽堂     能組

   囃子「難波」井田文二、大原繁蔵 ・ 増田福太郎 ・ 吉田太一郎 ・ 平井眞一    「 安 宅   勧 進 帳 」 大 西 信 久   / 中 村 弥 三 郎 / 判 官・ 福 崎 栄、 ツレ ・ 若松武雄、同 ・ 森久重、同 ・ 村田正太郎、同 ・ 奥谷恒一、 同 ・ 藤田豊治、同 ・ 黒石謙三、同 ・ 辻嘉二郎、同 ・ 牛窓悦蔵、 同・ 久 保 田 種 雄 / 森 田 光 次・ 大 蔵 六 蔵・ 今 井 長 八 郎 / 間   茂 山吉次郎・茂山久治

   「蚊相撲」茂山忠一良    「 道 成 寺 」 手 塚 貞 三 / 江 崎 直 康・ 江 崎 茂・ 植 田 常 雄 / 野 口 傳 之 助・ 荒 木 兵 三・ 下 村 栄 一 ・ 三 島 太 郎 / 間   茂 山 忠 三 郎・ 茂 山喜三

   「 小 鍛 冶 」 上 野 義 三 郎 / 松 井 八 衛・ 市 場 豊 久 / 大 原 繁 雄・ 川 越英治・吉田太一郎・平井眞一/間・茂山幸四郎    「附祝言」

    後見地謡(番組裏面)

   「難波」改正龍造・卜部和三郎・浅井文一・杉野秀一・

   濱田繁・敦見幸治    「 安 宅 」 竹 谷 貞 一・ 小 島 甚 三 郎・ 小 寺 市 太 郎 / 手 塚 貞 三・ 木 下一二

(*ママ)

・ 井田文二 ・ 小山敏夫 ・ 佐伯富之 ・ 野口嘉春 ・ 木下猛 ・ 野田辰蔵

   「道成寺」上野義三郎・木下一三・改正龍造/竹谷貞一・

   小寺市太郎・澤正文・福 河

(*ママ)

光三・大本種吉・

   小山敏夫・浅井文一・山崎菊治/鐘後見   大西信久・

   大西信彦・毛呂井儀蔵・伊藤正太郎・木内冬蔵    「小鍛冶」手塚貞三・貴田政三・巌名萬治郎/澤正文・

   永井萬吉・奥谷貞三郎・大原民三郎・長谷川齊・市川公通・

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   長谷川清治・三宅松太郎・米田晴雲・藤井為次郎   神 戸 在 住 の シ テ 方 楽 師( 傍 線 部 ) は、 同 門 以 外 は 出 演 せ ず、 立 チ役を演じたのは上野のみであった。 この点について塩谷甲南は、 「 手 塚 家 主 催 の お 名 残 能 に 同 門 諸 氏 の 出 勤 し な か つ た 事 は、 其 間 の 消 息 は あ る に し て も 頗 る 遺 憾 と せ ざ る を 得 な い も の で あ る

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。」 と 云 う。 先 掲 の『 能 楽 世 界 』 の 記 事 で は、 今 回 の み な ら ず、 こ れ ま で も 神 戸 在 住 楽 師 の 意 向 は 入 れ ら れ る こ と な く 様 々 な 事 柄 が 決 め ら れ て き た と 述 べ て い る。 い ず れ に し て も、 両 者 の 間 に、 何 ら かの確執めいたものが生じつつあったことをうかがわせる。

  能 舞 台 は、 当 初 は 解 体 さ れ る こ と に な っ て い た が、 そ の 後 二 転 三 転、 最 終 的 に は 兵 庫 七 宮 神 社 に 移 築 が 決 ま っ た。 そ の 折 に、 橋 掛 り と 鏡 の 間 も 同 時 に 譲 渡 さ れ た ら し い

11

。 能 楽 堂 内 に 居 住 し て い た上野は帰阪することとなった。

(1) 『神戸謡曲界』四十一号(昭和十年一月)による。(2) 神戸で大正十一年から昭和十五年(推定)まで、主幹の塩谷甲南(善助)によってで発行された会員制雑誌。趣向を凝らした色刷表紙に、ほぼA5版三十頁程度の冊子で、不定期ながら年に三、四冊ほど発行されていた。当地の能・謡曲に関わる情報(能会案内、演者や会員の近況など)のほか、主幹の塩谷による能評などが主な内容で、能一般については他書の引用や転載も見られる。発行部数も多くはなかったのか、現存するものは少なく、管見に入ったのは全五十七号(推定)のうち四十六冊のみ。一時期(十二号~十七号)は「四六倍判の新聞体」をとっていたとされ るが(横山杣人「明治大正年間出版能楽書目」、『謡曲界』昭和五年二月号)、未確認。  この雑誌はまた、能楽研究家の香西精が数多くの記事を寄稿したことで知られている。初投稿時の香西は、東京大学を卒業して神戸の伯母宅に寄寓し、観世流の謡や仕舞を嗜んでいた。(表章氏「香西精略年譜」によると、学生時代から伯母の後見役として神戸を帰省地とし、当地で謡を習っていたらしい。)昭和十年に謡と能の稽古を再開した頃から『神戸謡曲界』に毎号、実名および複数の筆名で、論説や時評から漫才・狂言に至るまで多彩な文章を同じ号に複数発表するようになった。  伯母の香西貞都子は、大西松諷社・木下高諷会社中の「夫人謡曲家」として神戸で名高く、同誌の記事や口絵写真などにもしばしば登場する。女性としては早い時期に舞台で能も舞っている(詳細後述)。(3) 福崎は十三歳で大西家に入門、大西閑雪からも指導を受け、明治三十二、三年頃来神。直木政之介、丹波謙蔵の後援を受け、直木家に寄宿して指導。専門の謡曲教授として神戸の草分けであった。昭和十年の引退後は、亮太郎亡き後のさまざまな後見のため大阪に出向いたとされる。息子は、「光吟会」を主宰する福崎光三。福崎仁の還暦の時(昭和六年)に家督を相続されている。(4) 大阪歴史博物館蔵。書誌の詳細は前稿参照。(5) 正月の亮太郎の記録からは、財閥や住友関係者など社中の有力後援者たちとの係わりようが伺える。例えば、元旦は、雑煮で新年を祝い、謡初(「四海波  公雪/難波  貞蔵/羽衣  一二/三笑  文二、独調/靏亀  公雪  芳子」)をした後は、大西家や社中門人の回礼を受け(井上/藤田/小野/岡橋/殿村/中村/大西/西之宮社中/斎藤/久原/住吉社中/田村)、夕刻は「久原家ニテ年酒」。久原は、久原財閥の房之介。野村・岡・森岡が同席している。翌二日も回礼を受け(上野  弟子四人/本富/倍 シン三郎  子供三人)、午前十時より住友家の謡会に出勤。番組には、春翠(以下の注5括弧内は引用者注、十五代目当主の友純)ほか、田辺(貞吉)・岡(素男)といった住友関係者の名がみえる。三日は回礼(記名なし)

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の後、午後から住吉洪濤會の初謡のため伊藤忠兵衛(伊藤忠財閥二代目当主)宅に赴き、終会後は翌日に備えて神戸入りしている。(6) 「改正龍造」。正諷会主宰。(7) 実際の収容可能人数はここまで多くはない。大阪能楽殿は、周知の通り、個人の所有舞台としては最大規模を誇るとされる。大阪歴史博物館蔵「大西能舞台及び附属建物平面図(縮尺二百分之壱)」によると、所在地は「南區天王寺堂ヶ芝町  但シ上本町九丁目東へ行キ  交番所左へ半丁」で、詳細は下記のごとく大規模な舞台であった。

  地坪総計  凡七百三拾七坪五合/建坪総計  階下  参百四拾五坪  階上  百廿九坪〇二五   見所  貴賓室  壱/仝  脇間  弐/特別室  拾弐/椅子見所  壱/平見所  百廿四/仝  二階  廿壱/合計百六拾壱ヶ所(8) 同時期刊の『能楽写真界』の写真のキャプションは「神戸大西能楽堂」。(9) 「忠度」前シテ・「羽衣」シテ・「隅田川」シテ・「舟弁慶」前シテ写真。(

( 10  ) 『大観世』大正十二年五月号「画伝大西亮太郎」。

( の湊川能楽堂の敷舞台」。 11) 『神戸謡曲界』五号(大正十三年十一月)の記事「謡曲会場として

( 話が始まる。 二十五号、昭和五年一月)では、湊川能楽堂定期能の観客の少なさから 香西精「玄人・素人︱対話於湊川能楽堂定期能︱」(『神戸謡曲界』第 12) 『神戸謡曲界』誌上でもしばしば話題にのぼっている。たとえば、

( 13) 『神戸謡曲界』九号(大正十四年十一月)。

( 十五年十月)。 14) 加藤不二也「上田舞台披露会所感」(『神戸謡曲界』十一号、大正

子一巻、古典芸能研究センター蔵)に所収。   書状は昭和三年三月に製巻した「関寺小町許状」(昭和三年三月製巻巻 15) 大正十五年一月の観世宗家元滋より手塚亮太郎あて書状による。 (

( へ転居」し、「大阪へは当地より出張して従前通り稽古を」するという。 れて居る大阪の上野義三郎氏」は「一家を引きまとめ当地湊川能楽堂内 「木下一三氏転居」による。「手塚門下の逸足として竹谷貞一氏と併称さ 16) 『神戸謡曲界』三十二号(昭和七年十月)の記事「上野義三郎氏来任」

17) 註

( 16前掲書「湊川能楽堂の「女人禁制」の鉄則撤廃さる」。 18) 註

( 16前掲書に掲載の番組による。

( の記事「手塚門を離脱した宇治、四谷両氏」による。) かち、大槻十三門へ移籍する。(『神戸謡曲界』三十七号(昭和九年一月) 木下一三と並んで「三本柱とも云ふべき」人物だったが、同門と袂を分 19) 宇治正夫(風韻会主宰)は、手塚神戸同門会の中では改正龍造・

20) 註

( 16前掲書の記事「故手塚翁追善謡会」。

( 蔵「公雪斎亮太郎師七回忌/追善会精算帖」を参照。 月二十五日、於大阪能楽殿)番組による。及び、古典芸能研究センター 21) 手塚松諷社主催の「公雪斎亮太郎師七回忌追善会」(昭和十二年五

( ている。 亮太郎翁追善」としてこの種の団体としては異例ながら演能会を開催し 湊川能楽堂にて主催の袴能を上演、昭和九年五月二十七日には、「故手塚 調会」なる同好団体を作っていた。この会は、昭和八年十一月十八日に 22) 香西貞都子は、このほか園田正治・小島克己・飯田耕三と四人で「松 など多様な公演を企画し、戦前から戦後にかけてさまざまな新たな試み 以外でも「宝塚能」、「能と舞踊の会」(球場能)、「BK能」、学生鑑賞会 作ったが、後年、神戸能楽会館を作ったことで知られる。さらに能楽堂 十三にも師事、大正九年に帰神し、観正会を創設した。自宅に能舞台を 大西と勢力を二分していた伊東隆三郎に入門。大正七年に上京して大槻 う信念を抱き、実行に移した。上田は大正二年十九歳の時に、神戸では 惜しい」とも云われた人物。能は大衆の支持を受けてこそ発展するとい 関西で能の普及に力を尽くしたことで知られ、「能楽師にしておくのは 23) 上田隆一は、観世流職分(昭和十四年から)で、神戸のみならず、

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を展開した。その活躍については、坂田昭一氏『点を線にしたい︱私本・上田照也の歳月︱』(一九九〇年、上田英子)に詳しい。(

( 経営難改善のため、内外の改造をしたらしい。 をしている(三十六号、昭和八年十月)。ちなみに、湊川能楽堂はこの頃、 合)して、湊川能楽堂の発展にむけて皆が協力すべきではないかと提言 舞台を作るくらいなら、むしろ同舞台を湊川能楽堂と合併(正確には併 催している。この点について、『神戸謡曲界』の塩谷は、中途半端に新 ないので、上田(観正会)・井上(松聲会)とも自会は湊川能楽堂で開 会の定期催会以外は一般大会場として提供していた。本格的な舞台では 24) 新設された、通称「神戸能楽会舞台」は、大規模なもので、能楽

( 先代のあとを継いで「清吟会」を主宰していた。 五十二歳)の子。宗家で修行後、昭和七年十月二十日許されて帰神し、 25) 上田の師であった伊東隆三郎(昭和四年十二月二十六日歿、享年

( 昭和十年一月)。 26  ) 塩谷甲南「福崎仁翁舞台を引退さる」(『神戸謡曲界』四十一号、

( になった。 く、この合理的思考は、後年の神戸能楽会館設立へつながっていくこと 織を立ち上げ、協力して舞台を持つべきだと述べている。いうまでもな 台を維持することの困難さを指摘し、玄人の演者や同好者が集まって組 に値する。香西は、能楽界の現状を客観的に見つめながら、個人で能舞 考」という小論を(多くの稿とは違って本名で)書いていることは注目 27) 四十二号には先述の香西精が、この時点ですでに「能舞台経営論

( 二十日号。 28)「湊川能楽堂後始末に就いて」『能楽世界』四九四、昭和十年七月

( 29)『能楽世界』四八九、昭和十年五月五日号。

( 開催」(古典芸能研究センター蔵)に貼付の当日番組による。 30) 「湊川能楽堂閉鎖記念招待能計算書/昭和拾年六月廿弐日(土曜)

31) 塩谷甲南「湊川能楽堂閉鎖雑感」(『神戸謡曲界』四十一号、昭和 ( 十年八月)。

償譲渡御寄附」を依頼している。 状で、「今般当神社境内へ御貴殿御所有ノ湊川能楽殿橋掛及ビ鏡ノ間ヺ無 月十日付、七宮神社社司の太田直三郎より「手塚家能楽堂係」あての書 32) 大阪歴史博物館蔵「能楽殿無償譲渡申込書」による。昭和十年七

参照

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