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女性研究者のためのフェローシップの創設

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―アメリカ女性大学人協会(AAUW) とフェローシップ・キャンペーン ―

坂本辰朗

『教育学論集』第68号 (2017年3月)

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女性研究者のためのフェローシップの創設

―アメリカ女性大学人協会(AAUW) とフェローシップ・キャンペーン ― 坂 本 辰 朗

1.本論文の基本的問題設定

 1920 年代は、アメリカ合衆国における史上最初の高等教育一大拡張期であった。

これは、女性の高等教育機会についても真であり、学士課程学生全体に占める女性学 生の比率は 1920 年に 47%を超えるに至る*1。大学卒業女性たちの組織、アメリカ女 性大学人協会(以下、AAUW)のある執行役員が、当時、述べたように、もはや学 士課程へのアクセスについては男性と肩を並べようになったが、大学院以降の女性 の学術的達成がそれに追い付いていないという状態であった。AAUW はその結成の 目的を、①女性の高等教育のスタンダードの維持と向上、②女性へのスカラシップ、

フェローシップの支給、の二つを挙げていた。後者についていえば、今や、学士課程 学生を対象としたスカラシップ以上に、フェローシップ制度の充実が目指されるべき であった。しかしながら、以下に見るように、AAUW が支給するフェローシップは、

量的にも質的にも見劣りのするものであった。

 本論文では、1920・30 年代の AAUW によるフェローシップ制度改革をとりあげ、

以下の研究課題を設定する。

⑴ AAUW が、新たなフェローシップ制度を創設するにあたって、そこでは、ど のような優先的関心が働いていたのか。また、誰が、キーパーソンであったのか。

⑵ フェローシップ制度改革は、AAUW の活動に、どのような帰結をもたらした のか。それは、当初の優先的関心に応えるものであったのか。

 主要史料は、RecordsoftheAmericanAssociationofUniversityWomen,1881- 1976.(LibraryofCongress 所蔵)、RecordsoftheAmericanAssociationofUniversity Women.MassachusettsStateDivision,1930-1976.(SchlesingerLibrary,Radcliffe Institute,HarvardUniversity. 所蔵)および RecordsoftheAmericanAssociationof UniversityWomen.BostonBranch,1886-1978.(同前)である。

2.1920 年代における新たな全米的フェローシップ制度の興隆

 第一次大戦後、アメリカ合衆国では、国家を世界の科学先導国へと飛躍させるべく、

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大掛かりな科学研究振興政策が始動した。その一つが、全米的なフェローシップ制度 の創設であり、その最大の成果が全米研究評議会(NRC)によるナショナル・リサー チ・フェローシップ(1919 年)であった。

 筆者が別の機会に明らかにしたように、ナショナル・リサーチ・フェロー制度が創 設された際に決定された、その究極の目的とは、「アメリカ合衆国の科学研究体制の 革新を、大学における研究の力量を向上させることによって達成する」ことであった。

そのために、一方で、優れた研究能力をもつ若手人材の発見と支援が、他方で、その ような人材を、その力量がもっとも発揮できるような国内の大学4 4 4 4 4に結集させ、それを もって、確固たる自然科学・医学の研究拠点(すなわち、研究大学)を形成すること であった。ロックフェラー財団からの巨額の資金援助によって可能になったこの制度 は、10 年も経過しないうちに学術界でその評価を確立した*2

 ナショナル・リサーチ・フェローシップは、今日で言うポスト・ドクトラル・フェ ローシップ(PDF)であったから、応募するにはすでに Ph.D. を取得していなければ ならなかった。年間給与額は最低で 1,500 ドルであったが、審査委員会の判断で、能力、

業績に応じて、より高額な給与が支給された。事実、初年度(1919 年)採用の 13 名 のフェローの給与を見ると、1,500 ドルが5名、2,000 ドルが3名、2,300 ドルが3名、

2,800 ドルが1名、3,000 ドルが1名と、むしろ標準給与額以上を支給された者が大半 であった。

 ナショナル・リサーチ・フェローシップが、当時、関係者たちに、成功事例のひと つとみなされたことは次の事実に明らかである。すなわち、同じように、「ベスト・

アンド・ブライテストを発見し、彼らに創造の自由をあたえる」*3ことをめざした全 米的な制度が、次々と創設されたことである。全米科学アカデミーは、1923 年、社 会科学リサーチ・カウンシルを設立した。名称のとおり、これは、全米研究評議会の 社会科学版である。そして、ローラ ・ スペルマン ・ ロックフェラー財団の援助のもと、

1925 年から、フェローシップを授与し始めた。グッゲンハイム財団は、1925 年、グッ ゲンハイム・フェローの制度を開始した。周知のように、これは、あらゆる学問分野 を、さらに大学研究者だけでなく芸術家をも対象にした支援政策であった。さらには、

全米諸学会評議会(ACLS)は、1930 年、これもまた、ロックフェラー財団からの援 助によって、人文学分野を対象としたフェローシップを授与し始めた*4

3.全米的フェローシップの嚆矢としての AAUW フェローシップ

 もっとも、全米的フェローシップの嚆矢という点では、実は、AAUW が 1888 年 に開始したヨーロッパ・フェローシップにそれを求めなければならない。この制度は、

当時、アメリカ合衆国内では研究の機会を著しく制限されていた女性研究者に、ヨー ロッパの大学で博士号学位を取得することを支援するものであり、その歴史的意義は 十二分に評価されてよい。

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 しかしながら、第一次大戦後、前出のような新構想の全米的フェローシップの創設 を前に、AAUW もまた、そのフェローシップ制度の一大改革に取り掛からざるをえ なくなった。というのも、これらの新制度は、少なくとも公式には、男性、女性双方 の研究者に等しく開かれていた上に、今日、フェローシップという用語が意味するよ うに、博士号取得者に十分な経済援助を保証し優れた研究機会をあたえるという、か つての AAUW のそれに比べて、応募資格、待遇、期待される成果のどれをとっても、

革新的な高水準にあったからである。

 反面、容易に推察できるように、前出の新たな全米的フェローシップ制度は、女性 研究者には敷居の高いものであった。ナショナル・リサーチ・フェローについてみれ ば、制度が開始されてから 12 年の期間(1918 年 -1931 年)で、物理学・化学・数学 フェローシップ委員会への申請者は全部で 803 名であり、新規採択者は 314 名、採択 率は約 39%であったが、このうち女性の採択者はわずか8名(物理学3名、化学4名、

数学1名)であり、文字どおり、微々たる数であったのである*5。  

4.AAUW と国際女性大学人連合

 「創造的な学術と研究を産み出す並はずれた可能性を持つ女性」*6が受給するべき フェローシップ制度をどのように構築すべきなのか。AAUW の新たなフェローシッ プ制度への模索にとって大きな転機となったのは、国際女性大学人連合(International FederationofUniversityWomen 以下、IFUW)への AAUW の加盟と、IFUW が創 設しようとした国際フェローシップのアイデアであった。この国際フェローシップと は、IFUW 加盟国の大学卒女性が、出身国以外での4 4 4 4学習・研究を可能にするものである。

 IFUW の創立は 1919 年7月、ロンドンにおいてであり、翌 1920 年ロンドンにて 最初の総会を開催、五か国の代表が集った。第二回総会が 1922 年パリ(16 か国が加盟)、

第三回総会が 1924 年オスロ(当時のクリスチャニア)であり、この時点で 20 か国が 加盟した。

 IFUW の正史は、1918 年の秋のある日の夕刻、当時、コロンビア大学バーナード・

カレッジのディーンであったギルダースリーブ(VirginiaCrocheronGildersleeve, 1877-1965.)が、渡米中の二人の英国人――ロンドン大学のスパージョン(Caroline Spurgeon,1869-1942.)とブリンガム大学のシジウイック(RoseSidgwick,1877- 1918)に対して、女性大学人の国際組織を提案するところから開始されている*7。す なわち、ギルダースリーブこそ IFUW 結成の立役者のひとりであった。

 IFUW と AAUW は、その創立とその後の発展が、コインの表裏と表現できるほ ど、密接な関係にあったのである。IFUW は、各国の女性大学人の連合組織である が、この場合、各国を代表する女性大学人の組織はひとつに限られる。ところが、ア メリカ合衆国の場合、IFUW 結成直前の時点で、二つの女性大学人の組織が存在し た。すなわち、1882 年にボストンで結成された女性大学卒業生協会(Associationof

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CollegiateAlumnae)と 1903 年創設の南部女性大学人協会(SouthernAssociation ofCollegeWomen)であった。1921 年3月、これら二つは合併し AAUW となるが、

それは最初から、IFUW 加盟が目的であったのである*8。以降、AAUW は、その ジャーナルの毎年の 10 月号を国際関係特集に充てるなど、IFUW との関係を強化し ていく。IFUW への支援を訴えるギルダースリーブの論調は、最初から一貫して理 想主義的な色彩を強く帯びていた。たとえば、1924 年 10 月号のジャーナルの巻頭論 文で、IFUW の第2代会長に就任したばかりのギルダースリーブは、IFUW の創設 から現在までの歩みをたどったあと、IFUW は今や「揺籃期を終えて、事実上、完 全な成熟期に入った」とした上で、「ドイツからは未だ、女性大学人の全国組織は参 加していないが、時期大会までに、ドイツ女性たちが組織をつくり参加を申請する ことで、現在の私たちの連合が抱えている重大なギャップが埋まることを切に希望す るものである」*9としている。さらに、IFUW 内につくられた新委員会の中でも、国 際連盟(LeagueofNations)との協調を進める委員会の活動がもっとも重要であり、

この委員会が、AAUW の国際活動、とりわけフェローシップに関する情報を求めて いる、とする。また、IFUW は国際フェローシップに関する委員会も創設しており、

国際フェローシップのための 100 万ドル基金計画を遂行しようとしている。「真に将 来性があるすべての女性学術者を探し出し、彼女にその才能を開花させるあらゆる機 会を提供しなければならない」として、「国際フェローシップがめざすのは女性によ る学術という大儀のためだけではない。それは同時に、他のどんな方法よりもすぐれ て、国際理解という大儀のためになるのである」とするのである*10

 この言明の背後にあるのは、第一次大戦以降のアメリカ合衆国の国際主義、とりわ け、AAUW の幹部たちにとっては、彼女らの“盟友”であったウィルソンが掲げた それであろう。しかし、彼女たちは、よりよき国際関係の構築と世界平和の実現を、

女性たちが大学おける研究に積極的に参画していくことで初めて可能になると考えた のである。

 IFUW が提案した国際フェローシップ制度の創設では、各国の女性大学人の組織 に何らの分担金を課すことがなかったために、この時点でそれは、その実現性が希薄 な、ひとつのアイデアにすぎなかった。このことは逆に、当時の IFUW で最大の会 員数を擁していたアメリカ合衆国の AAUW にとっては、その実現がひとつの責務と なったわけである*11

5.スカラシップからフェローシップへ――AAUW 政策の重心移動

 AAUW は、規模がさまざまな、全米に散在する支部と呼ばれる地方組織の緩い連 合体であり、会員はまず、この支部に属し、日常の活動もまたこの支部活動にあった。

すでに見たように、AAUW はその活動目標の一つとして、女性へのスカラシップ、

フェローシップの支給を挙げていたが、従来、スカラシップとフェローシップでは、

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まず、学士課程の学生を支給対象の中心にした前者が注目されるのはやむをえなかっ た。AAUW 本部は、会員ひとりあたりの会費の八分の一をフェローシップ基金にプー ルしていたが、支部が独自に募金活動をおこなったスカラシップ、フェローシップも 存在し、スカラシップの総額は、1920 年代なかばでフェローシップ資金の実に約9 倍に達していた。さらに、1920 年代半ば、AAUW が運営していた全米フェローシッ プ制度は、研究だけでなくさまざまな目的を持つものを合わせて全部で 11 あったが、

このうち、受給条件として Ph.D. 取得を課していたのはアリス・フリーマン・パーマー・

フェローシップのみであった。そのパーマー・フェローシップも、1917 年の時点で 年間支給額わずか 500 ドルであり、この年は、支給が決定した候補者に辞退され空席 になってしまった。翌年からその支給額を 1,000 ドルに引き上げたものの、たちまち 資金が枯渇しその維持が困難になり、結果として 1920 年からは隔年支給とせざるを えなくなったのである。

 AAUW の幹部たちは、以上のような惨憺たる現状に強い危機感を抱いた。1926 年、AAUW フェローシップ委員会の委員長は、「現在、必要とされているのは、小 規模の基金を凡庸な候補者に支給することではない。私たちは慈善団体ではなく教 育団体である」*12とした。さらに、当時の AAUW 会長のラインハート(AureliaH.

Reinhardt,1877-1948. 当時はミルス・カレッジ学長)は言う。以前にも増して、今や、

能力ある女性に研究を可能にすることが、私たちのみが果たせる任務となってきてい る。「スカラシップはますます、私たちの担当分野ではなくなってきている。という のも、スカラシップは今や、数え切れない組織団体が支援しているのに、女性へのフェ ローシップ支給となると、私たちがやらないと、まったく支給されないということに なるであろうからである」と。彼女は、「協会としては、能力ある者と能力ない者とを、

もっとはっきりと区別すべきである」として「当該学生の貧しさということが、第一 に考慮されてはならないのである」とまで断言する*13

 1927 年、ラインハートを継いで AAUW 会長となったウーリー(MaryE.Woolley, 1863-1947. 当時はマウント・ホリヨーク ・ カレッジ学長)の構想は、さらに壮大であ る。彼女は言う。AAUW の会員がその所属する支部へアイデンティティを求めるこ とは理解できるが、今や私たちは、全米的組織としての一体感を持つべきである。さ らに私たちは、過去に私たちがなしてきた成果を振り返るだけでなく、将来の世界に 私たちは何ができるのかを考えるべきである。「IFUW の会員であるということをと おしての、私たちの協会がおこなえるアピールほど強力なものはないであろう」。「『団 結する』ことが、困難を解決するもっとも実際的な方法であることはすでに証明され ている。他国からやってくるすべての思慮深い学生こそ、国際理解・同情・善意にとっ て、最大の資産である」*14とした。この、「スカラシップからフェローシップへ」と いう AAUW の政策の重心移動は、1920 年代半ば以降、決定的となっていく。

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6.新たなフェローシップ制度のための基金創設キャンペーンと AAUW の組織再編成  IFUW が創設しようとした国際フェローシップのアイデアを、AAUW 独自のフェ ローシップ基金創設へと変貌させたのが、1929 年、ウーリーの後継者として AAUW の会長へと就任したギルダースリーブであった。AAUW の力によって 100 万ドル基 金を設置、これによって、IFUW 国際フェローシップと AAUW 国内フェローシップ の双方を創設し、「創造的な学術と研究を産み出す並はずれた可能性を持つ女性」を 支援すること――これが、AAUW 会長に就任したギルダースリーブの構想であった。

 100 万ドル基金の資金調達にあたって、AAUW 本部がまずやらなければならなかっ たことは、フェローシップ基金募集のためだけにとどまらず、AAUW という組織全 体を、より近代的な組織に再編成することであった。ウーリー会長自身のことばを引 用するならば、これからの AAUW の運動は、「まずは、効率性4 4 4ということが考慮さ れなければならない」(傍点は原文ではイタリック)のであり、この効率性とは、二 つの C、すなわち、Centralization(中央化)と Concentration(集約化)を意味する。

中央化とは、各支部の自律性は認めつつも、AAUW 本部が確固としした統率力を発 揮することである。集約化とは、組織運営に必要な各種委員会の数をできるだけ減ら し、常設委員会に権限を集約することである*15

 1929 年末になり、ようやく、フェローシップ 100 万ドル基金キャンペーンのため の組織の概要が整うことになる。AAUW は、全国をユニットと呼ばれた単位に分割 し、それぞれのユニットが、①国際フェローシップ、国内フェローシップのどちらを 担当するのか、②目標額、③当該フェローシップの名称、の三つについて自主的に決 定し、それを本部が統括するという体制を創り上げた。それぞれのユニットが 3 万ド ルの基金を集めた段階で、各フェローシップ制度の開始が可能とした。国際フェロー シップについては、その執行はすべて IFUW に委譲する―ただし、フェローシッ プに、たとえば、学問分野の指定・年齢制限などの制約をつけないことを条件で―

という構想であった。ユニットは、都市単位で結成したもの(ボストン・フィラデル フィア・ニューヨークの三都市)から州単位、いくつかの州にまたがる地区単位など、

この時点で 17 ユニットが結成された*16

 目標額は各ユニットが自主的に決め、ワシントン本部が各支部に割り当てることは せず、さらに目標達成までの期限も定めていないわけであるから、本部の仕事は、毎年、

ユニットが達成した募金額を公表するだけのように見える。しかしフェローシップ委 員会の議事録・本部への報告文書を見るならば、実際には、AAUW ワシントン本部 のフェローシップ委員会が、キャンペーンの原動力であり、その強力な統率力なしに はキャンペーンは進まなかった。このフェローシップ委員会は、支部が立地する州管 区をとおして、組織的募金活動を働きかける。各支部には、フェローシップ委員会の 委員長名で、寄付獲得のさまざまな手法を通知しており、そのためのリーフレットを 作成している。また、委員長は、各支部から上がってきた、寄付が期待される人物の

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名前を集約し、直接、書簡や資料を送るなど、きわめて精力的な働きかけをしている

*17。州管区に対して、管轄支部の集金額総計、支部の参加率だけでなく、会員一人あ たりの獲得金額までを報告するように求めており、その数値は毎年、AAUW のジャー ナルにて公表された。さらには、後にボストン支部の活動を検討する際に明らかにな るように、場合によっては、州管区・支部に強力な“指導”をおこなった。

 寄付獲得の手法としては、通常、考えられるような講演、コンサート、茶話会、ク リスマスカードの販売、など、実にさまざまな手法が使われている*18。1934 年、ミ ネソタ支部の一会員が約二年のリサーチを費やして作成した ConquestofaContinent と題した歴史ピクトリアル地図の頒布は、469 支部がこれを利用し、約 7,500 ドルの 純益を生み出すことになった*19

 全米研究評議会によるナショナル・リサーチ・フェローシップとは異なり、

AAUW には特定の大口スポンサーがついていたわけではなかったから、100 万ドル 基金の資金調達は、基本的に末端の各支部の会員たちの募金活動に拠らざるをえな かった。寄付にあたっては、AAUW 側は「まったく制約をつけない」フェローシッ プの創設を目指したために、国際フェローシップか国内フェローシップのどちらにす るかということ以外に条件をつけることはできなかった。これは、他のフェローシッ プとの差別化、特に、女性へのフェローシップということを考慮すれば当然の措置で あったのかもしれないが、ある場合には逆に、寄付を妨げる要因にもなった*20。  

7.クルセード・フェローシップの創設

 基金創設キャンペーンが開始されたものの、各地区・支部の足並みは揃わなかっ た。そもそも、獲得寄付の多寡以前に、支部の参加率が 100%に到達しないことに加 え、ユニットの中には、国際フェローシップ、国内フェローシップのどちらを担当す るのかさえ、態度を明確にしないものがあったのである。1935 年になり、ようやく、

すべてのユニットが国内 / 国際の区分を明確化し、国内フェローシップ 13、国際フェ ローシップ8、計 21 ユニットとなる。このうち、10 ユニットが4万ドルを、11 ユニッ トが3万ドルを募金目標とした。

 1934 年度は、フェローシップ基金に大きな変更が加えられる。クルセード・フェロー シップの立ち上げであった。これは、各ユニットで、1 万ドルを超えた基金を集めた ユニットから、その運用利潤を供出してもらい、それを全国でまとめて、国内、国際 の二種類のクルセード・フェローシップ(いずれも、1,500 ドル)を授与するという ものである。この時点ではどのユニットも、目標金額(3万ドルあるいは4万ドル)

を達成していないため、AAUW の新フェローシップ制度は開始されていない。クル セード・フェローシップはその先駆けとなるものであった。しかしながら、このフェ ローシップは、その条件として、前者は、アメリカ国内あるいは海外に居住するアメ リカ人女性で「大学院での学習あるいは研究をめざす者」であり、かつ「これまでに

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専念してきた課題において卓越した業績が上げられる者」ということであり、後者は、

「国際女性大学人連合に所属するすべての国の女性」という点が異なるだけで、あと は同じである。すなわちこれは、厳密に言えば、AAUW が当初は目指していたはず のポスト・ドクトラル・フェローシップではなかった*21

8.地方支部の対応―ボストン支部のケース

 ボストンは、AAUW の発祥の地であったということで、その支部は AAUW の中 で最も旧いものに属し、多くの会員が在住していたために、マサチューセッツ州管区 の中でもボストンのみでユニットを構成することになった。

 ボストン支部には他の支部にはない、いくつかの特徴があった。その第一は、上述 のように、最古の支部のひとつであったから、組織として成熟しており、活動も多 岐にわたり、支部独自のスカラシップとフェローシップも設立していた。当然、募 金活動は日常活動として常設委員会が置かれていた。もうひとつの特徴は、前述の AAUW における国際主義への模索が、ボストン支部においては、さらに鮮明かつ具 体的に見られたことである。

 第一の募金活動についてみれば、会員一人あたりの獲得金額もつねに一定以上を示 し、年々、着実に増加した。ただし、今回のフェローシップ 100 万ドル基金キャンペー ンについては、手酷い失敗を経験しただけでなく、どちらかと言えば実現可能性の乏 しい計画立案に終始した。1931 年 10 月、当時、ヨーロッパではロシア劇団によるメー テルリンクの「青い鳥」が好評であったために、ボストン支部がスポンサーになって、

その米国初演を計画したが、資金を集めるどころか 724 ドルという巨額の赤字を残す ことになり、これが原因でその年の支部年報が発行不能になった*22。また以下に見 るように、ウーリー国際フェローシップ創設キャンペーンもいよいよ1年余となった 1936 年4月、ウーリー学長に献呈する記念サイン帳にひとり2ドル献金してもらっ て 5,000 人の署名を集めれば1万ドルとなるという壮大な計画が提案されるが、実現 しなかった*23

 理事会の議事録には、ボストン支部の国際主義への志向をあらわす事案がいくつも 登場している。たとえば、1930 年のロンドン海軍軍縮会議に関連して、ボストン支 部理事会は、支部長名で、あらゆる軍艦の削減を求める書簡をフーバー大統領に送る という決議を採択している*24。また、1934 年3月には、当時すでに IFUW 内でおこっ ていた、IFUW からドイツ女性大学人協会を締め出す動きに絶対反対を表明する決 議をおこない、AAUW ワシントン本部に送付している*25

 1934 年末、ボストン支部のフェローシップのための募金活動に転機が訪れる。1937 年6月までに4万ドルの基金を集めるために、別個に募金活動をおこなっていたノー ス・ニューイングランド・ユニットと合併することを決定した。これは、1937 年6 月には、20 世紀のはじめより長きに亘ってマウント・ホリヨーク・カレッジの学長

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を務めていたウーリーが退任するために、それを記念して、合同でウーリー国際フェ ローシップを創設するためであった*26。創設趣意書は以下のように述べている*27

 ノース・ニューイングランドが 21 ユニット中、協会の中で最初にフェローシップを設 立するのはまことに時宜にかなったことである。というのも、協会自体がノース・ニュー イングランドの女性たちによって設立されたわけであり、私たちはそのパイオニア精神を 受け継ぐという誇りをもつものである。また、ノース・イングランドほど、これまで協会 のフェローシップに直接的にお世話になった地区はない。1889 年以来、協会のフェロー シップを受給した 220 人の女性のうち、ノース・ニューイングランド出身が実に 35 人な のである。

 1937 年6月までの目標額達成はならなかったが、3万ドルを原資に、ウーリー国 際フェローシップが 1940 年度から開始されることになった。

 AAUW 本部のフェローシップ委員会はまた、ボストン支部に強力な“指導”もお こなっていた。1936 年2月、ボストン支部のグラジュエイト・フェローシップ委員 会の委員長は、ワシントン DC 本部から、現時点では 100 万ドル基金フェローシップ の方が重要であるから、グラジュエイト・フェローシップのための活動は止めてほし いとの要請があったことを理事会に報告している。理事会で議論した結果、今手元に ある、グラジュエイト・フェローシップをワシントン本部に委譲する案は否決、また、

ウーリー国際フェローシップに組み入れる案にも反対があり、最終結論において、手 元のグラジュエイト・フェローシップのための基金は信託預金として、このための募 金活動は一時停止とすることが決定する*28

9.フェローシップ制度改革の帰結

 こうして、1939 年末の時点で、AAUW は新しいフェローシップを含めて、全部 で 13 の研究フェローシップを設立し、翌 1940 年度から授与できることになった。こ のうち、100 万ドル基金からのフェローシップは全部で9つ(内訳は、6つのユニッ トが提供するフェローシップに加えて3つのクルセード・フェローシップ。支給額 はすべて 1,500 ドル)となった。1939 年度はまた、募金総額が 525,945,58 ドルと、目 標額 100 万ドルの 50%を突破した。フェローシップへの応募の条件は「通常は4 4 4(in

general,

原文はイタリック)、Ph.D. 取得のためのコースワークを2年間修了した者、

またはすでに学位を取得した者」であり、Ph.D. 取得をフェローシップ受給の基礎資 格にすることは遂にできなかった。これは、この時代の女性研究者への支援としては やむをえないことであり、むしろ、「能力ある女性に研究を可能にする」ためには必 要なことであった。

 しかしながら、フェローシップ制度は、この時点で、すでに制度上の軋みを見せて いた。

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 ひとつには、この制度は、元来、運用利回りを年5%で計算して設計されたもの であったが、1930 年代末にはそれが3%近くまで落ちた結果、フェローシップ年額 1,500 ドルの支給は、3万ドルの基金ではもちろん、4万ドルでも難しくなったので ある*29。理事会の議事録には、次のような議論が記されている。たとえ4万ドル集まっ ても、毎年、授与するためには補填しなければならない。不足を補填する方式で行く のか、それとも、1,500 ドルの運用利回りを生んだ年のみ、フェローシップを授与す るのか。理事会としては補填方式を支持したい*30。ちなみに、前述の全米研究評議 会による 1940 年度のナショナル・リサーチ・フェローは、最低で 2,000 ドルが支給 されており、1,500 ドルというのは、もはや一昔前の標準給与になってしまっていた のである*31

 さらに、国際フェローシップについては、本来、IFUW 会員の女性に「出身国以 外での学習・研究」をおこなわせるためのものであったが、今やその前に「もしも可 能ならば(ifpossible)」という一句を挿入せざるをえなくなった。留学・在外研究ど ころか、海外渡航そのものが困難になったからである。これに加えて、以下に見るよ うに、本人の意思とは無関係に海外移住を強制されたケースも頻出した。

 1940 年のラインハート国際フェローシップ(サウス ・ パシフィック地区提供)

の受給者となったオーストリア女性は、本来、本国の女性大学協会の人物証明

(endorsement)が必要なのであるが、その本国が併合(Anschluss)によってすでに 消滅しているため、この手続きを省略せざるをえなかった。この女性は、もともと ウィーン大学で教育・研究をおこなっていたのであるが、ユダヤ系であったがために、

ポストを追われていた。アメリカ合衆国のパデュー大学での研究を希望していた。さ らに、同年は、前述のウーリー国際フェローシップの最初の授与年であったが、受給 者となった女性はロシア出身であったが、故国を追われ、ドイツに移住、ベルリン大 学で学んだものの、ユダヤ系であるためにドイツを去らざるをえず、プラハの大学で 学位を取得したものの、三度、国外に退去した。フェローシップ申請時はイギリスの 女性大学人協会の会員であったのである。ちなみに、ウーリー国際フェローシップの 授与式では、同時に、IFUW-AAUW 合同会議が開催されたが、IFUW 側から出席 できたのは、すでにアメリカ合衆国あるいはカナダで教育・研究をおこなっていた IFUW 会員のみであり、ヨーロッパから渡米予定の4人は渡航不能ですべて欠席と なった。

 1920・30 年代の AAUW フェローシップ・キャンペーンの意義は、AAUW フェロー シップ委員会の 1938 年末時点での、理事会宛報告書の以下の引用に要約されている といえよう。

 本協会の会長ならびに幹部役員たちは、フェローシップ基金プログラムを、全支部に共 通な同一の関心であるとする。すなわち、私たち 823 支部の結束を促進する共通の関心へ の価値を強調する。フェローシップの募金はつねに、本協会における長期にわたる教育的4 4 4

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プロジェクトであるとみなされてきた。すなわち、フェローシップ基金を積み上げるとい うことだけに価値があるのではなく、最高水準の学術の価値について理解を促進し、研究 への女性の貢献へ関心を促す教育的4 4 4プロジェクトなのである(傍点は引用者)*32

 100 万ドル基金の完遂は予定期間を大幅に超過し、第二次大戦後の 1954 年になっ たが*33、この基金キャンペーンは、フェローシップの重要性を全国の会員に認識さ せることとなり、新たな国際フェローシップを実現させるだけでなく、国内フェロー シップについても、宿願であった応募資格、待遇、成果達成のそれぞれの刷新を実現 した。とりわけ、基金キャンペーンはまた、戦間期の AAUW 組織へ一大統率力をあ たえることになった。

付記:本論文は、2015-18 年度科学研究費補助金による研究「アメリカにおける女性 研究者を対象としたポスト・ドクトラル・フェローシップの研究」(基盤研究⒞、

坂本が代表)の成果の一部である。

1 BarbaraMillerSolomon.

In the Company of Educated Women (Yale University

Press,1985),63.

2 拙論、「女性研究者とナショナル・リサーチ・フェローシップ」2016 年度アメリ カ教育史研究会・全体会合宿(コープイン京都・2016 年1月 10 日)2016 年度アメ リカ教育史研究会・全体会合宿(コープイン京都・2016 年1月 10 日)

3 MichaelLazerson,“WhitherAmerica’sFellowships?”Change30 ⑶ :32-33.

4 Commission on Human Resources, National Research Council.

Postdoctoral Appointments and Disappointments: A Report of the Committee on a Study of Postdoctorals in Science and Engineering in the United States(NRC,1981),21-23.

5 “Preliminary Report of the Fellowship Board in Physics, Chemistry, and MathematicsNationalResearchCouncilfortheperiod1919to1930Inclusive.”

TypewrittenMSS.NAS-NRCArchives,CentralFile,FELLOWSHIPS:Research FellowshipBdinPhysics&ChemistryGeneral1930.

6 このことばは、当時のグッゲンハイム財団の事務局長であったモウ(Henry AllenMoe,1894-1975)が、AAUW のノース・アトランティック地区に招かれ「女 性へのフェローシップ」と題した講演をおこなった際に登場する。HenryAllen Moe.“FellowshipsforWomen,”AAUW Journal19 ⑶ ,April1926,12.AAUW はそ のフェローシップ制度の改革にあたって、全米研究評議会のナショナル・リサーチ・

フェローシップはもちろん、グッゲンハイム・フェローシップも視野にいれ、「こ れらのフェローシップは私たちにとっても重要な機会である。というのも、これら

(14)

は、私たちのもっとも上級のフェローシップ―アリス・フリーマン・パーマー、

バーリナーの両フェローシップ―の目的の一部を満たすものである」としてい た。AgnesL.Rogers.“ThisMatterofFellowships,”AAUW Journal20 ⑴ ,October 1926,15. なお、AAUW の機関誌は、何度かそのタイトルを変更しているが、ここ ではすべて、AAUW Journalと略記する。

7 EdithC.Batho.

A Lamp of Friendship, 1918-1968: A Short History(International

FederationofUniversityWomen,1968), 1. 本 書 以 降、IFUW は そ の 通 史 を 公 表していない。IFUW の歴史を扱った近年の業績のうち、もっとも優れたもの は、MarieThereseSandell.“‘InternationalSisterhood’?:InternationalWomen’s OrganisationsandCo-OperationintheInterwarPeriod.”Ph.D.Thesis,University ofLondon,2007. である。

8 本論で以下に見るように、彼女はその回顧録で、この合併について、最初は果た して、南部女性大学人協会が合併を受けてくれるかどうか、大いに不安であった が、実際に南部女性大学人協会の会長に打診すると、実にすんなりと決まってし まい、驚いたとしている。VirginiaCrocheronGildersleeve.

Many a Good Crusade:

Memoirs of Virginia Gildersleeve(Macmillan,1959),135.

9 VirginiaC.Gildersleeve.“TheInternationalFederationofUniversityWomen,”

AAUW Journal18 ⑴ ,October1924,1.

10 Gildersleeve.“TheInternationalFederationofUniversityWomen,”2.

11 IFUW は、各国の女性大学人の組織に、その会員数に応じて、会費の負担を求 めていたため、当然、AAUW が最大の資金提供者であった。他方で、IFUW 総会 へ出席する投票権をもつ各国代議員数は、会員数に応ずる単純な比例配分ではなく 最大5名としていたので、AAUW は会員数から見ればきわめて少数の代議員しか 送り込めなかったことになる。この事態の変革―アメリカ合衆国の代議員数を拡 大すること―は、AAUW の理事会で討議されたが、最終的に、元のままとする 決議が行われている。

12 AgnesL.Rogers."ThisMatterofFellowships,"

AAUW Journal20 ⑴ ,October

1926,15.

13 Aurel1aHenryReinhardt."OurIncreasingPurpose,"AAUW Journal20 ⑶ ,April 1927,68.

14 MaryE.Woolley.“GreetingsfromOurNewPresident,”AAUW Journal20 ⑷ , June1927,99.

15 MaryE.Woolley.“AchievementVersusPossibility,”AAUW Journal22 ⑷ ,June 1929,171.

16 Report of the Fellowship Appeal Committee to the Board of Directors, November19,1929.AAUWArchives.Reel129:VI:25:763.AAUW アーカイブズ

(15)

文書はその全体がマイクロフィルム化されており、これを史料として使用する。こ の場合、史料の所在の表記は基本的に「リール番号:コレクション区分:ボックス:

フォルダ:フレーム番号」という形式を使用する。

17 たとえば、フェローシップ委員会は 1934 年度下半期(6月1日 -12 月1日)、個 人宛書簡だけで実に432通を送っている。FellowshipFunds,Jan9,1929-c.1953.n.d.

FellowshipsProgramRecords,1921-1976,AAUWArchives.

18 KatherineS.Arnold.“BranchScholarships,”AAUW Journal 18 ⑵ ,January1925, 12-13.

19 “TheBulletinBoard,”AAUW Journal28 ⑴ ,October1934,49. なお、この作品は そのタイトルから推察できるように、露骨な西部“開拓”路線に貫かれ、しかも、

女性がまったく登場しない歴史地図である。当時はすでに、メアリ ・R・ビアード の

America through Women’s Eyes

が刊行されていた。もっとも、ビアード自身はこ の作品について、好意的なコメントを寄せている。なお、AAUW はそのジャーナ ル等をつうじて、戦前は一貫して、ビアードの業績を高く評価している。たとえば、

女性アーカイブズ世界センターの設立についても、その直後にジャーナルで大きく 取り上げている。AAUW Journal 29 ⑵ ,January1936,101-102.

20 1936 年 1 月、 女 性 だ け の ツ ア ー を 専 門 に し て い た Women’sRestTour Association(19 世 紀 末 に 設 立 さ れ た 著 名 な 女 性 団 体 Women’sEducationand IndustrialUnion の一部)から 1 万ドルの寄付の申し出があったが、基金化にあ たってつけられた条件はAAUW 理事会が受け入れるものではなかった。Report oftheCommitteeofFellowshipEndowmenttotheBoardofDirectors,November 16,1936.AAUWArchives.Reel34:IV:A:1(1936):983;DorothyB.Atkinson(Chair, CommitteeonFellowshipEndowment)toMinaCarter,May26,1936.Fellowships ProgramRecords,1921-1976,AAUWArchives.Reel129

21 もっとも、初年度のフェローはラドクリフ・カレッジで Ph.D. を取得した女性、

翌 1935 年度はイェールで Ph.D. を取得、翌 1936 年度はジョージ・ワシントン大学 ロースクール出身の法律家、1937 年度、1938 年度はそれぞれ、イェール大とコロ ンビア大の大学院生が受給している。

22 ExecutiveBoardMeetingMinutes,November19,1931.Box 4,FolderIIB.18.

RecordsoftheAmericanAssociationofUniversityWomen.BostonBranch,1886- 1978.SchlesingerLibrary,RadcliffeInstitute,HarvardUniversity.

23 ExecutiveBoardMeetingMinutes,April11,1936.Box4,FolderIIB.22.

24 ExecutiveBoardMeetingMinutes,March10,1930.Box4,FolderIIB.16.

25 ExecutiveBoardMeetingMinutes,March19,1934.Box4,FolderIIB.20.

26 BranchMeetingMinutes,December12,1934.Box4,FolderIIB.21.

27 “TheMaryE.WoolleyFellowshipCompletedby1937.”TypewrittenMSS.

(16)

Box2,FolderIB:1.RecordsoftheAmericanAssociationofUniversityWomen.

MassachusettsStateDivision,1930-1976.SchlesingerLibrary,RadcliffeInstitute, HarvardUniversity.

28 ExecutiveBoardMeetingMinutes,February17,1936.Box4,FolderIIB.22. こ のように、既存のフェローシップ基金の充実以上に、新しいフェローシップへのキャ ンペーンを重視するという方針は、すでに 1929 年4月の時点で、AAUW 理事会 が議論していた。すなわち、①既存のフェローシップの受給額を増やすよりもフェ ローシップ新設の方が、キャンペーン継続に説得力がある。②新フェローシップは、

他団体が授与する分野限定のフェローシップの数が増えてきているので、AAUW としては分野を指定しない方がよい、とするものである。MinutesoftheMeeting oftheBoardofDirectors,April13,1929.Reel34:VI:25:746.AAUWArchives.

29 Report of the Fellowship Appeal Committee to the Board of Directors, November8,1938.IV:A: 1(1938):678.AAUWArchives.

30 GeneralDirector'sCalendar,November8-11,1938

31 Report of the National Academy of Sciences Fiscal Year 1938-39(U.S.Government PrintingOffice,1939),28.

32 ReportoftheCommitteeonFellowshipEndowmenttotheBoardofDirectors, November8,1938, 6.IV:A: 1,680.

33 1953 年6月のミネアポリス年次大会にて完遂を発表。ただし、この時点では、

物価の変動等のため、当初の予定どおりにフェローシップ支給をおこなうことは もはやできず、AAUW は基金の更なる上積みをせざるをえなかった。RuthW.

Tryon.

Investment in Creative Scholarship: A History of the Fellowship Program of the

American Association of University of Women 1890-1956(AAUW,1957),192-194.

(17)

Fellowship System for Women Researchers: American Association of University Women’s Effort for the Creation

of a New Fellowship System.

Tatsuro Sakamoto

This paper aims to elucidate the reforms in the fellowship system for women researchers and the creation of a new fellowship system by the American Association of University Women (AAUW) in the 1920s and 1930s. The research questions are as follows:

(1)

What was the priority concern for AAUW in reforming the fellowship system? Also, who was the key person involved in creating the new fellowship system?

(2)

What changes resulted in the activities of the AAUW as a result of the reforms in the fellowship system and the creation of new fellowships?

Did this effectively address the original concerns?

Formed at the end of the nineteenth century, the AAUW established the European Fellowship for women researchers in 1888. At the time, this system supported women who had remarkably restricted opportunities for research within the United States and wished to obtain doctoral degrees at European universities. This scheme had deep historical significance.

The 1920s was the first expansion period of higher education in the

history of the United States. This was true also for women’s higher education

opportunities, and the proportion of women amongst undergraduate students

reached 47% in 1920. At this point, although women’s access to undergraduate

courses came into line with men’s, the academic achievements of these women

after graduation were still much lower. Therefore, it can be said that fellowships

for women were an increasing necessity. However, the AAUW fellowship system

was no longer fit for purpose. The National Research Council (NRC), the

Guggenheim Foundation, and others had introduced innovative fellowships with

high standards in terms of qualifications, remuneration, and expected outcomes.

(18)

The big turning point for the AAUW’s reform of the fellowship system and the creation of a new fellowship system was when the AAUW joined the International Union of Women Colleges (IFUW). The IFUW was conceived to create international fellowships for women researchers in its member countries.

Virginia Gildersleeve (1877–1965) took office as the president of the AAUW in 1927 and transformed IFUW’s ideas into AAUW’s new fellowship system. To achieve that end, it was necessary to reorganize the AAUW, which until this point had only been a loose autonomous coalition of the regional branches scattered throughout the country, into a modern organization.

In order to procure its target of a 1-million-dollar fund, the AAUW headquarters divided the whole country into units, each responsible for fund- raising. When each unit raised $30,000 of funding, a new fellowship program could be started.

The collection of the 1-million-dollar fund took much longer than

the scheduled period and was eventually completed in 1954. However, this

funding campaign made the members of the AAUW aware of the importance of

fellowships. The funding campaign also gave a major leadership role to the AAUW

during the interwar period.

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