起訴法定主義成立史研究序説
池 田 秀 彦
はじめに
被疑者が犯罪の解明・予防に協力した場合の量刑規定を定める,2009 年7月 31 日のドイツ刑法改正法は,同年9月1日に施行された
1)。同改正法により導入され た刑法 46 条 b は,被疑者の協力的行動について量刑上考慮し,刑を減軽しまたは 刑を免除することを認める。この改正法は,学者のほか,実務家及び実務家団体か ら様々な点について厳しい批判を加えられているが,その一つが起訴法定主義との 関係である。
ドイツ刑事訴訟法は,刑事訴追機関に,訴追可能な犯罪が存在する場合に,「事 実に関する十分な根拠」がある限り,全ての被疑者の起訴を義務づけている
(刑訴 法 152 条2項)
2)。もっとも,今日この原則を貫くことはできないため,数多くの例 外規定が設けられており,刑訴法 153 条 b は,裁判所が刑を免除できる要件があ る場合には,検察官は,裁判所の同意を得て,公訴を提起しないことができるとし ている。刑法 46 条 b が刑の免除を定めているため,この例外規定により,被疑者 は犯罪の解明等に協力した場合には,起訴されないことがあり得ることになる。こ れが許されるのかという批判である。議論の詳細はおくとして,被疑者が犯罪の解 明等に協力することの見返りとしての不起訴は,起訴法定主義の趣旨からは,疑問 符がつきかねないものを含んでいるのであろう。
このような議論を通して,ドイツの刑事司法において起訴法定主義に如何に重き が置かれているか窺い知ることができる。そこで,本稿では,この法改正を契機と して,我が国では紹介されることのない,ドイツの刑事訴訟法の基本原則の一つで ある起訴法定主義の成立史について検討し,成立の経緯等を明らかにすることとし たい
3)。
Ⅰ.ドイツの訴追原則
訴追制度のあり様は,一国の刑事司法の根幹に関わる問題である。犯罪があれ
ば,必ず処罰されるべきだとしても,捜査機関の捜査力,それにかかる費用等の面
からみて,それを完全に実現することの難しさは想像に難くない。また,刑罰を科
するかどうかという点について,政策的考慮を認める今日の刑罰観のもとにおい
て,その判断を裁判官にだけ委ねるのか,或いは訴追段階において検察官にもそれ を行わせるのかは,一つの問題である。さらに,検察官にその役割が付与されたと して,その判断を検察官かぎりの裁量によるものとするか,或いは司法コントロー ルの可能性を認めるかどうか,またさらに,その裁量の範囲・基準を明定するかど うかという点も極めて重要な問題である。こうした制度のあり方は,国によって異 なり,多様である。
わが国の刑事訴訟法は,起訴便宜主義
(248 条)を採用し,起訴・不起訴の判断 につき検察官に広範な裁量権を認めており,これに対する司法コントロールの可能 性は,極めて限られた範囲でしか認められていない
4)。 これと著しい対照をなすの がドイツにおける訴追制度である。
ドイツでは,起訴法定主義
(152 条2頂)が採用され,一定の嫌疑のある事件の 訴追に関する検察官の裁量は原則として排除されている。そして,これを担保する ために起訴強制手続の制度
(172 条)も設けられている
5)。
このような保障措置の施された法定主義は,被疑者の社会的地位に関わりなく訴 追が行われるという意味での法の下の平等をもたらすものとして,多くの学者によ って,その意義は極めて高いものとされている
6)。しかし,他面法定主義を厳格に 実施することの難しさが次第に明らかとなり,1924 年に例外規定が設けられるに 至った。その後,例外規定の数は,漸次増加し,現在では,刑訴法 153 条から 154 条 e に定められている。例外規定は,大まかにいえば,4つの類型,即ち①犯罪が 軽微であり刑事訴追の利益が存在しない場合,②刑事訴追利益が他の方法で充たさ れる場合,③優越的な国家利益が存在する場合,④被害者自身が刑事訴追を行い得 る場合から成るが,具体的には,次のような場合である
7)。
⒜ 軽罪につき,責任が軽微で訴追することについて公益が存しない場合
(153 条)⒝ 軽罪につき,一定の賦課または順守事項を被疑者に課することによって,刑 事訴追に存する公益に代えることができる場合
(153 条 a)⒞ 裁判所が刑の免除をなしうる要件が存する場合
(153 条 b)⒟ 外国でなされた犯罪
(153 条 c)⒠ 一定の政治犯罪に対する手続の遂行により著しい不利益がもたらされるおそ れのある場合
(153 条 d)⒡ 一定の政治犯罪において,いわゆる行為による悔悟
(tätige Reue)が認めら れる場合
(153 条 e)⒢ 重要でない余罪
(154 条)⒣ 一罪の一部
(154 条 a)⒤ 被疑者が外国政府へ引き渡される場合及び国外へ追放される場合
(154 条 b)⒥ 被強要者または被恐喝者がその犯した犯罪を暴露するとの脅迫により,強要 または恐囑をうけた場合
(154 条 c)⒦ 民事法上または行政法上の先決判断を必要とする場合
(154 条 d)⒧ 虚偽告訴または侮辱に基づく刑事手続または懲戒手続が継続している場合
(154 条 e)
このように,多くの例外規定の存在を前にして,最近では,実証的研究に基づい て,法定主義そのものの実効性にも疑いの目が向けられ,法定主義による均一の法 適用ということを「政治的迷信」にすぎないと断ずる者も現れている
8)。またさら に,起訴法定主義は,刑罰思潮の変化により「一部,その本来の理論的基礎を失っ た」とする声も聞かれている
9)。しかしながら,かかる論者も,必ずしも法定主義 の意義自体を批判しているわけではない。
Ⅱ.ドイツ刑事訴訟法制定の経緯
現行ドイツ刑事訴訟法典は,1987 年4月7日のそれであるが,その源泉は,
1877 年2月1日のドイツ刑事訴訟法である。この 1877 年の刑事訴訟法は,その形 式においても,その内容においも,度重なる改正が行われてはいるが,しかし体系 的乃至全面的改正は行われてはいない。殊に,本稿で取り扱う起訴法定主義につい ては,前述のように,その例外規定は,著しく増加しているものの,法定主義とい う原則は,少なくとも規定の上では,今日に至るまで,何等の変更もなされていな い。即ち,ドイツにおける起訴法定主義は,1877 年の刑事訴訟法によってその確 立をみたわけである。そこで,1877 年の刑事訴訟法における法定主義採用の経過,
その過程でなされた論議等について考察することにする。 しかし,この考察にあた っては,刑事訴訟法そのものの制定の過程の大要を知る必要があるので,以下で は,まず,刑事訴訟法そのものの制定の経過の大要をみた上で,次に,その中で,
起訴法定主義がどのような経過及び論議を経て採用されたか検討してみることにす る。
なお,本稿において,その取り扱う問題は,1800 年代のことであり,これに関 する文献は相当あるにはあるようであるが,それを入手し或いはこれを閲覧するこ とさえ,極めて困難である。そこで,以下では,専ら,Hahn の Materialien と Glaser の Handbuch 等に拠りつつ叙述をすすめることにする。
1 刑事訴訟法草案作成の経緯
⑴ 1877 年のドイツ刑事訴訟法の制定は,19 世紀の中頃から起こった統一法制 定の動きの一環としてなされたのであるが,その全体についての観察は,容易なこ とではないし,また本稿ではその必要もないので,単に刑事訴訟法の制定について だけ
(但しこれと密接に関連する他の法規に全くふれないわけにはいかないが)叙述する ことにする。
⑵ 刑事訴訟法制定のための活動は,1868 年4月 18 日の帝国議会
(Reichstag)及び同年6月5日の連邦議会
(Bundesrat)の決議に基づいて行われることになり,
その準備段階として,最初の草案及びその理由書の作成がプロイセンのプレジデン
トである Friedberg と,その補助者である Löwe,von Lente,Erler 等によってな
された。この草案は,1873 年の年頭に,その理由書及び付嘱文書と共に,連邦議
会に提出され,且つ公にされた。これは,一般の著書において第1草案
(ersterEntwurf)
と呼ばれた
10)。
⑶ このいわゆる第1草案に対して多くの批判が寄せられた。そこで連邦議会 は,1873 年3月 12 日に,改めて 11 人の法律家によって構成された委員会を設け,
草案を作成させることにした
11)。
この委員会は,1873 年5月 17 日から7月3日まで 39 回の会議を開き,3次に 亘る読会を経て,草案を作成し,これを連邦議会に提出し,この草案はその理由書 と共に公にされた。これは,第2草案または修正された草案
(revidierter Entwurf)と呼ばれた。そして,この草案と併行して裁判所構成法の草案の作成も行われ た
12)。
⑷ ところが,この裁判所構成法の草案について種々の問題
(中でも特に Schwur- gericht についての問題)があり,その関係から刑事訴訟法についても,なお検討を 加える必要が生じた。このため,連邦議会は,4人の委員からなる委員会を作り,
この委員会は,前記の第2草案について2点の修正を施した上,これを 1874 年5 月 12 日に連邦議会に提出した。この間,裁判所構成法にも変更が加えられ,両法 についての最終的な草案は,1874 年 10 月 29 日に帝国議会に提出された。刑事訴 訟法についてのこの最終草案は,第3草案と呼ばれた。そして,この第3草案と呼 ばれたものが,帝国議会における審議の対象となった草案である
13)。
2 帝国議会での審議及び刑事訴訟法制定までの経過
⑴ この第3草案について,帝国議会の審議が開始されたのは,1874 年 11 月 24 日のことであり,それは単に刑事訴訟法ばかりでなく,裁判所構成法及び民事訴訟 法を加えた,いわゆる司法3法の審議として行われた。そして,議会において,各 議員の若干の意見の陳述があった後,Gneist の提案によって 28 人の委員からなる 委員会によって先議がなされることになった。そして,この委員会は,その中に文 言検討のための委員会
(Redaktionskommission)を設けた後,1875 年6月 11 日から 翌年の2月 2 日まで 82 回に亘り第1読会を開き,草案についての検討を行った
14)。 ⑵ しかし,その後連邦議会の決議があった関係等から,同委員会の第2読会が 1876 年5月2日から開始され,最初に連邦議会の決議の報告があり,続いて裁判 所構成法についての審議を含めて,逐条的審議が 1876 年7月3日まで続けられ,
さらにいわゆる編集上の変更をなした上,委員会としての報告書が作成された
15)。 この報告書の提出の後,委員会で再度の審議がなされたが
(1876 年 11 月6日─ 14 日まで),これで委員会での検討は終わり,帝国議会での全体会議
(Plenum)の第2 回の審議が開かれるに至った。
⑶ 帝国議会での全体会議における第2回の審議は,1876 年 11 月 27 日から 12
月2日までの6日間に亘って行われ,一応の結論を得たが,若干の条文につき,連
邦議会から異議が述べられたため,帝国議会での第3回の審議が 1876 年 12 月 20
日,21 日の両日に亘って行われ,その結果ここに 1877 年2月1日のドイツ刑事訴
訟法の内容が確定したのである
16)。
Ⅲ.起訴法定主義の成立の経緯
前記Ⅱにおいて,1877 年のドイツ刑事訴訟法制定の経過の大要を述べた。以下 では,この一連の立法過程の中で起訴法定主義が,どのようにして成立し,どのよ うな論議を経て確立されたかという点についてみることにする。
1 刑事訴訟法草案における起訴法定主義の成立
1877 年の法律においては,その 152 条2項が起訴法定主義を認めた規定であり,
この条文は,そのナンバーも,内容・文言も現行刑事訴訟法と全く同じである。し かし,前記の第3草案即ち後に帝国議会における審議の対象となった草案において は,それは 134 条2項に規定されており,その内容は次のようなものであった。
即ち,同条2項は1項の「Zur Erhebung der öffentlichen Klage ist die Staats- anwaltschaft berufen」という規定の後をうけて「Dieselbe ist, soweit nicht ge- setzlich etwas Anderes bestimmt ist, verpflichtet, wegen aller gerichtlich straf- baren und verfolgbaren Handlungen einzuschreiten, wofern zureichende thatsächliche Anhaltspunkte vorliegen」と規定していた。
これをみても判るように, 1項は現在の法律と全く同様であるが,2項について は,その文言に若干の相違がある。即ち,この草案規定中「etwas Anderes」が
「ein anderes」に,また[wofern]が「sofern」にと字句の変更がなされた。
これは,議会における委員会の第2読会において
(前出⑵参照)なされたもので あるが
17)なぜそのように変更されたかについては明らかでない。おそらくは,単 なる文言の適否の問題であり,規定の実質には変わるところがないと思われる。
また,この草案の 134 条2項の規定が,その準備段階における草案作成の際いつ 挿入されたかについては,Glaser によると第3草案においてはじめて入れられた ものとされている
18)。
2 起訴法定主義についての議論
準備段階における草案作成の際に,これについてどのような論議がなされたのか については,さしあたって知る材料がない。しかし,帝国議会に第3草案が提出さ れた段階以後における説明,論議等については,ある程度これを知ることができる ので,以下その大要を述べることにする。
⑴ まず,草案理由書中
(Motive des Entwurfs),134 条2項について「罰せられ るべき行為がなされた場合,親告罪の場合を除いては,たとえ被害者が処罰の申立 てをしなくとも,犯人を処罰することが国家の一般的義務であるということがこの 第2項によって確認されたのであり,これによって,いわゆる起訴法定主義が明確 な承認をえたのである」との記載がある
19)。
⑵ 次いで,1874 年 11 月の帝国議会の全体会議での最初の審議において,法務
大臣 Mittnacht により,草案に関する概要説明かおり,そこで Mittnacht は,法定
主義を導入する理由について大要次のように述べている。即ち,刑事訴追権を,優
先的に或いは排他的に検察官に委ねることに対しては,それによって公的秩序が脅
かされ,また個人の権利が侵害されるという疑念が表明されており,そしてその理 由は,検察官は原則として,上位の司法行政府に従属するという関係にあるからだ とされるのが常である。しかし,この疑念は,国家訴追主義と並んで,検察官の職 務行為について,いわゆる起訴法定主義が定立され,検察官は法律上別段の定めの ある場合は別として,犯罪についての十分な事実上の根拠の存する限り,全ての犯 罪行為に介入する義務を負うものとされる場合には,ある程度減じられるであろ う,と。
この説明からは,検察官に訴追権を認めることに対する当時の懸念は,今日わが 国の公訴権濫用論にみられるような起訴が相当でない場合であるにも関わらず,公 訴の提起がなされることの懸念よりはむしろ,主として反対の場合,即ち起訴すべ き場合に起訴がなされない場合にあったということを窺い知ることができるであろ う。このことは,同草案が,検察官の不起訴処分についての不服の申立てや
(草案 145 条,146 条),私訴
(草案 335 条,336 条)を認めている点などを考え併せると一層 明白になる。
⑶
1874 年 11 月 26 日に帝国議会が設置した 28 人の委員からなる委員会は
(前 出Ⅱの2の⑴参照),1875 年6月 26 日の第1読会において,草案 134 条について討 議を行った。
ここで Gneist は,法定主義について疑念を表明し,次のように説いた。即ち,
本条文が承認され,法定主義が厳格に実施されるなら,検察官は,現在の2倍の事 件に介入せざるをえなくなるであろう。しかし,プロイセンでは,検察官が無視す る告発の数は,年間 14 万件にも上る。響きのよい「法定主義」という文言のため に,何人もその訴追に関し利益を有しないような軽微な事件にまで介入することを 検察官に強いるなら,検察制度の効用の大方が失われよう。また,本問題と私訴の 地位とは,極めて密接に関係しているが故に,本条文を無条件に承認することはで きない,と。
これに対し,ザクセンの検事総長で議員でもあった Schwarze は,Gneist と反対 の立場に立ち,ザクセンでの 20 年来の法定主義による好ましい経験を引き合いに 出したうえで,便宜主義によった場合に生ずる弊害を論難した。即ち,便宜主義に よれば,本来国家の元首にしか属さない広範な判断が検察官に委ねられることにな る。また,便宜主義によれば,区域ごとでの実務上の著しい差異がもたらされると 同時に,全ては検察官の個性や,時として気分にすら依存することになる。公衆 は,訴追に関する決定を検察官がいかなる理由をもってしたのか察すべくもないの であるから,検察官がすべての事件に介入しないことに不満を感じるであろう。検 察官自体も,明確で均一の指示を欠くため,確信がもてなくて迷うであろう。ま た,本問題と私訴の問題とは全く別の事柄である。補充的私訴は,補助手段でしか なく,それと法定主義の問題とは関係がない。そうでなくても,法定主義が実施さ れた場合には,検察官が公訴提起を拒否したにも関わらず,被害者が私訴を提起し たときには, 裁判所は,検察官の判断を信頼して,この訴を斥けるであろう,と。
ここで,Puttkamer は,やはり私訴がいかかる範囲で許されるかが確定しない
限り,本条文についての最終的決定を行うことはできないとし,検察官の起訴独占 を維持するなら,法定主義が妥当しなければならないであろうし,これに対して,
私訴が広範囲において認められるなら,検察官がとるに足りない事件を無視しうる ような構成を行うことが実務の要請である,とした。
続けて Gneist は,先の発言を敷衍して次のように述べた。即ち,便宜主義が支 配したプロイセンのような大きなラントにおいて,その結果は望ましいものであっ たし,公衆も,裁判所,検察官もこの原則を承認している。20 年来,プロイセン では,便宜主義につき,さしたる異議は唱えられていない。確かに,検察官に排他 的訴追権を与える場合には,便宜主義は,検察官にある種の不安をもたらすであろ う。しかし,この排他性がなくなれば,それもなくなるであろう,と。
これに対し,Struckmann は,Schwarze の立場を支持し,Gneist の見解を逐一 論難した。彼は,ザクセンのような小さなラントでの経験を権威あるものと認めな い Gneist の態度が理解できないとし,プロイセンで1年間に無視される 14 万件の 中に,十分な証拠の欠如を理由に起訴の見送られた事件が非常に多くの数に上るで あろう,と説き,また極めて軽微な事件を訴追することに公益は存しないとする Gneist の見解をとりあげ,これは,刑法典を正しく理解するものではなく,刑法 が一定の行為を刑罰を以て威嚇しているのは,こうした行為を処罰することにつき 公益が存することを認めているからである,と批判した。さらに,私訴の問題をと りあげ,私訴の提起と維持により,種々のめんどうなことや出費が伴うのであるか ら,私訴を提起しうる可能性は,被害者にとって役に立たない,と説いた。
また,Reichensperger に,原則として法定主義に賛成しつつも,それを徹底的 に貫くことを妥当でないとし,この立場から,Struckmann の主張に対して,刑法 典だけが問題となるのではなく,警察命令等も問題となる,と述べた。
さらに,Völk も Gneist を論難し,Gneist がザクセンでの経験を権威あるものと 認めなかったのに対して,550 万の人口を有し,法定主義の支配したバイエルンの 例を引き合いに出し,バイエルンにおいては,予審判事
(Untersuchungsrichter)が 告発されたすべての犯罪行為につき職権で取調を開始し,検察官の義務もこれと同 様であったが,別段不都合は生じなかった,とし,さらにプロイセンで年間 14 万 件の告発が無視されていたとするなら,それは刑法典を改正する差し迫った事態に あることを示すものにすぎない,とした。
これに対し,Marquardsen は,絶対的な法定主義に反対の立場をとり,例えば,
5,60 人が関与した違警罪において,全員ではなく,一人だけが処罰される場合で も刑罰法規の目的が達成される,と論じた。
以上のように,134 条2項につき,相当はげしい議論が展開されたが,結果的に
はその削除を求める明確な申立てがなかったため,票決に付せられることなく,承
認されたものとみなされた
20)。
Ⅳ.起訴法定主義成立に関わる諸要因
上記の審議内容からは,訴追原則として法定主義をとるか否かという問題が実務 上の考慮と並んで,私訴をいかなる範囲で認めるかという問題や,刑法の目的或い は実体法と訴訟法との関連性,さらには検察官の性格づけ等の問題と密接に絡みあ っていたことを窺い知ることができる。
これを,前記審議内容を基に要約すれば,次のようにいうことができるであろ う。即ち,法定主義に反対する者は,法定主義を実施した場合に検察官の負担加重 がもたらされるという実務上の不都合を問題とし,また,刑罰理論として,犯罪が あったとしても必ずしも罰する必要はなく,またこのようなものについては起訴す るまでもない,という刑法の一般予防主義に立つ傾向にあり,さらに私訴をできる だけ広く認めようとする傾きがあった。これに対して,法定主義を支持する者は,
便宜主義によった場合には,訴追判断が検察官の主観的裁量に依存し,それによっ て訴追判断に地域的差異が生したり,恣意が入ったりするという実務上の問題を注 視し,また,刑罰理論としては,絶対主義の立場に立つ傾向にあり,さらに国法 上,当罰的なものとして定立された行為については,その軽重の如何を問わず全て 訴追のうえ,裁判所の判断をうけるべきだとの実体法に重点をおいた思想に立って いた,と考えることができる。そして,検察官による起訴独占を維持する限り当然 のことであるが,法定主義を支持する者は,私訴に重きをおいていない。
それはそれとして,先にみたような Gneist に代表される有力な反対説があった にも関わらず,結局票決に付することもなく,134 条2項が承認されたことの背後 には,前に述べたように,当時においては,不当な不起訴処分の可能性に対する懸 念が非常に強かったことによるものと考えてよいであろう。
おわりに
以上,1877 年の刑事訴訟法の草案における起訴法定主義の立法過程について若 干の考察を加えた。
この原則の成立から 130 年以上経過した今日,この原則に関してどのような議論 が展開されているか,またどのような改正論
21)が展開されているかといった点は 興味ある事柄であるが,これについては,稿を改めて検討することとしたい。
注