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いのちの森を守る闘い : 南方熊楠の思想

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いのちの森を守る闘い : 南方熊楠の思想

著者 芳賀 直哉

雑誌名 <いのち>と環境を考える. ‑ (静岡大学公開講座ブ ックレット ; 5)

ページ 51‑72

発行年 2012‑03‑01

出版者 静岡大学生涯学習教育研究センター

URL http://hdl.handle.net/10297/6712

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はじめに   南方熊楠は、今から一〇〇年ほど前、当時はまだ誰も緑を保護しようなどと考えていなかった時代に、エコロジーにつながる非常に先駆的な活動をし、実際に森林を守る活動を行いました。

  三重県御浜町の引作という集落に、大きな楠があります。この引作神社の大楠は、南方熊楠が奔走して守った、本当なら切られていたかもしれないという象徴的な楠です(図1)。一方、静岡県にも意外と大きな楠があります。有名なのは熱海の来宮神社にあるご神木の楠で、これも一五〇〇年ぐらいたっているといわれています。函南から三島にかけても千年を超えるような大きな楠が何本か残っていると伺っています。   昔からだいたいどこの神社にも楠があって、ご神木とされてきました。一〇〇〇年~一五〇〇年前にどなたかが植えたのだと思いますが、楠はかなり長生きをする植物の一つです。しかも樹高が三〇~四〇メートルと非常に高くなり、両側に枝を張って、葉が落ちない常緑樹です。また、楠には防虫効果があります。樟脳の「樟」は楠という意味で、楠の木を切ったものをたんすに入れておけば、虫が寄り付きません。 第3回

   いのちの森を守る闘い

    ──南方熊楠の思想── 芳賀

  直哉

図1 引作神社の大楠

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昔の人もここから生命力を感じ取ったのでしょう。

  身近なところでは、「となりのトトロ」というアニメーションに楠が出てきます。メイとサツキがお母さんの病気療養のために移り住んだ家の裏山には鎮守の森がありまして、そこに締め縄を渡してある楠の大木があります。ご神木です。この木には大きな洞 うろがあり、そこをのぞくと、下の方にトトロが寝ているという場面がありまして、トトロは実在しませんが、昭和二〇年代後半から昭和三〇年代にかけての、日本の農村の原風景が描かれています。

  先ほどご紹介した引作の大楠の隣には立派な説明文があって、幹回りが一五・七メートル、樹高が三一・四メートル、推定樹齢が一五〇〇年で「南方熊楠先生の調査」と書いてあります(図2)。

  南方熊楠は、四〇歳以降、亡くなるまでの三十数年間、和歌山県の田辺という町に住んでいましたが、彼が四〇歳ぐらいのとき に、明治政府が全国の神社をつぶすという政策を取ります。なぜそんなめちゃくちゃなことをしようとしたのか、理由ももちろんあるのですが、神社は普通、広大な境内、広い森を持っています。特に田舎の神社は一つの山そのものが境内であると言っても過言ではなく、神社をつぶすということは、結局のところ山の木を切るということです。そういうことが、実際に明治の終わりに全国的に起こったのです。歴史上、このことはあまり知られていませんが、今からちょうど一〇〇年前、日本は今日でいう自然破壊を大々的に行ったわけです。これに南方熊楠が率先して反対したということで、日本で一九九〇年ごろに「エコロジー」「自然保護」と言われ始めた時期に、自然保護活動の先駆者として見直されました。  しかし、知る人ぞ知る方で、一般的にはなじみがないと思います。まず読み方が難しいですね。「JIN―仁―」というテレビドラマに南方先生という医師が出てきたそうですが、南 みなかたという名字は和歌山県に結構あります。ところが、熊 くまぐすという名前は珍しく、「熊」は動物、「楠」は楠ですから、動物と植物と両方を持っている名前です。  動物の名前を持っている人は今でも多く、辰巳さん、辰子さんのように、生まれた年の干支を自分の名前に持って

図2 大楠の説明板

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いる方もいます。「熊」は十二支にはありませんが、恐らく熊野という地名から取られているのだと思います。「楠」はもちろん楠のことです。生命力が非常に強い植物ですので、この名前を子どもに当てて長生きを願うという風習が、和歌山の方では古くからあったようです。

  ちなみに、熊楠が生まれたのは現在の和歌山市ですが、和歌山市から南に一五キロメートルぐらい下ったところに海南市という町があります。現在では工業地帯になってしまって昔の面影がないのですが、ここに藤白王子という名前の神社がありまして、一本の楠の大木が残っています。別名「楠神社」ともいわれていまして、近郊の人たちは、子どもが生まれるとここにお参りをして、「楠神社」の「楠」の字をもらって名前を付けるという風習がありました。恐らく現在でもまだ残っていると思いますが、熊楠の「楠」も、ご両親が海南市の藤白王子にお参りをして名前をもらったと伝えられています。

  熊楠は、自分が動物と植物の名前を二つとももらっていることを後々まで誇りに思っていました。これは推測ですが、彼が生命に対して学問的な研究だけでなく、気持ちの上での共感を抱いたのも、動物と植物の名前が付いていたからではないかと思います。   本日は、最初にエコロジーというお話を簡単にさせていただきます。その後、南方熊楠の細かいお話に行く前に、一九七〇年代以降の環境問題が全世界的にどういう形でこんなに関心を持たれるようになったのか、それまで二千数百年の自然と人間との関係とまったく違う新しい自然観が二〇世紀の終わりに出てきたのですが、その考え方、新しい思想を少し紹介させていただこうと思います。これは欧米が中心ですので、少し南方熊楠の話から離れますが、後半にまた今日のメインテーマである南方熊楠のお話をいたします。

エコロジーとは

†語源――三つのレベルでのecology

  エコロジー(ecology)という言葉は、今日では誰でも知っていると思いますが、元になったのはドイツ語です。一九世紀の終わりにドイツ人の生物学者エルンスト・ヘッケルが、生物と生物との関係を明らかにする新しい学問分野として「Oekologie(エコロギー)」という言葉を作ったのです。ですから、これはごく新しい単語で、最初のうちは生物学の一分野として出てきました。

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  言葉の成り立ちを少し紹介しますと、今、エコ(eco)が付く言葉はいろいろありますが、もともとはギリシャ語の oikosという言葉から来ています。「ideology」などに使われている、「―学」「―論」と訳すlogyも、ギリシャ語の

logosという言葉から来たものです。ですから、エルンスト・ヘッケルが作ったOekologieはギリシャ語が起源で、「oikosについての学問」「oikos についての考え方」というような意味です。

 oikosとは「家」という意味です。家といいましても広く、

houseやhomeといった一軒一軒の家庭や建物ももちろん家です。しかし、地球全体も、生物が運命共同体として生息している大きな家と考えることができます。また、もう少し中間のレベルとしては、日本やアメリカのような国も家と考えることができます。

  自然保護活動というときのecologyは、「生態学」と訳してしまうと生物学の一分野になってしまうので、片仮名で「エコロジー」といいます。そのときには、地球全体、生物界全体を一つの家(oikos)と見立てて、そこでの生物と生物の関係(人間とほかの生物、人間と自然との関係)という意味だと理解しているのだと思います。

  しかし、二つめのレベルで国を一つの家と見立てた場合 は、economyという言葉があります。economyは「経済学」と訳しますが、これはoikos(家)のnomos(ギリシャ語で「ルール」の意)ということで、ecologyのecoとeconomyのecoは、実は一緒です。だいたい、ecologyとeconomyは相対立するもので、経済活動を考えれば自然は少しぐらい破壊してもいい、経済発展の方が重要だというようにいつも対立するのですが、実際には経済学(economy )のecoも生態学(ecology)のecoも、同じ「家」という意味なのです。 economyとは「家のルール」という意味です。経済学は、一八世紀ごろにイギリスを中心として成立してきた、当時としては新しい学問です。今日の経済学は国際的になってしまいましたが、最初の経済学は一国経済学(national economy)で、国の中の物流、お金の流れのことをいっていました。ですから、経済学が二つ目のレベルのoikosです。

  最も小さいレベルの「ハウス」や「ホーム」も当然、家です。その家のいろいろなルールを決める学問が、家政学という分野です。英語ではdomestic economy(家庭の経済学)といいますが、やはりこれもoikosなのです。

  言葉の話はともかくとして、少なくとも最初に作られたときのecology のeco は、一番大きなレベルでの地球全体、

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自然全体を一つの家と考えて、そこでどういう関係が望ましいのかということで、生物と生物の関係を明らかにしていこうという学問をecologyと呼んできました。

†エコロジー=植物棲態学

  このエコロジーという言葉が日本にいつごろ入ってきたかというと、実は、言葉そのものの歴史は意外と古く、南方熊楠は一九一一年に柳田国男にあてた手紙の中で二回ほどエコロジーという言葉を使っています。

  これが一番早いのではないかと思っていたところ、ある人から、もっと早くこの言葉を使った人がいると教わりました。一九〇六年ごろ、熊楠が書いた五年前に、三好学という人が「生態学」という訳語を紹介しているそうです。三好学は東京帝国大学の植物学の教授で、ドイツに留学していたときにエルンスト・ヘッケルが新しく打ち立てた ecology(Oekologie)をいち早く吸収し、日本に帰ってきてから、「生態学」という今日と同じ訳語を付けたようです。ですから、南方熊楠よりもっと早い段階でエコロジーを紹介した人がいるわけです。

  しかし、私たちは今日、具体的な自然を守るという行動や、行動しないまでもそういう気持ちを「エコロジー」と 言っています。「生態学」と言ってしまうと学問の一分野になってしまいますが、大学で学ぶ分野は一般の人にはあまり関係がなく、片仮名で言う「エコロジー」の方が身近です。確かに静岡大学にも生態学という研究室はありますが、あまり現実的ではない感じがしてしまいます。  自然保護の具体的な活動の中でエコロジーと唱えたのは、やはり南方熊楠が日本で最初の人で、今からちょうど一〇〇年前の一九一一年に、書簡の中で紹介しています。その中で、熊楠はエコロジーを「植物棲態学」と訳しています。本当は植物だけではないので「生態学」の方が正しいのですが、植物が「棲息」して、植物同士のいろいろな関係があって成り立っているという意味を込めているようです。先ほど、自然保護活動の中でエコロジーを紹介したと言いました。その具体例については後半で詳しくお話ししますが、神社合祀反対活動の中でエコロジーを唱えているという意味では、やはり今日のエコロジーの先駆者と言ってもいいでしょう。

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二〇世紀の新しい生命観・自然観

†人間と自然の関係を表す二つの立場――人間中心主義と生命

中心主義

  新しい自然観について、西洋の幾つかの思想家を紹介しながら、簡単にお話ししたいと思います。西洋では、人間は自然を支配するものという位置付けがずっと続いていました。人間は自然を自由に利用して、そこからたくさんの富を得て人類が幸福になるのだ、これは神様から与えられている人間の権利であるという考え方が紀元前からあったのです。

  一九七〇年ごろに、自然破壊を引き起こす発想の元凶はユダヤ・キリスト教、旧約聖書の「創世記」にあると批判する学者が出てきました。いろいろ調べてみますと、なるほどそういう考え方が「創世記」の中に出てきます。神が天と地をつくり、動物と植物をつくり、最後に人間をつくった。神はその人間を祝福して、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。おまえたち人間はすべての鳥と獣と地に這うものを治めなさい」と言って、その権利と能力を人間に与えたと書いてあります。「支配しなさい」「従わせなさい」という非常に強い口調の言葉が、「創世記」のある個所に三回続けて 出てきています。それを指して、人間が自然を支配するという最初の考え方がユダヤ・キリスト教の思想だと言ったのです。  ところが、どうもそれだけではないようで、紀元前三世紀ごろ出てきたストア派の哲学者、セネカが書いた文章の中にも、同じように「人間は自然を自由に使える。それは人間の権利である。自然から人間は第二の自然をつくり出すのだ」という言葉があります。そういう考え方が、ギリシャ思想の中にも出てくるのです。どちらが先かという問題ではなく、どうも西洋では紀元前から人間が自然の中心にあって、自然を利用することは当たり前だという考え方が支配的だったといえると思います。  しかし、それはあくまで考え方であって、それが実際に大々的に自然破壊につながるようになったのは、産業革命で機械化が始まってからです。それまでは自然を破壊するといっても手で畑や山を掘る程度ですから、自然にとっては痛くもかゆくもなかったのですが、産業革命以降は機械で大々的に大きな穴を掘り、地下に眠っていた石炭、石油、ウラニウムなど、いろいろなものを取り出しました。ここから、本当の意味で自然破壊が起こってきたわけです。

  現在は二酸化炭素の排出量がどんどん増えて、温暖化が

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進んでいると多くの科学者が言っています。温暖化ではなく冷却化だと言う学者もいますが、地球の平均気温は上がっているという考え方が主流で、実感的にもそうだと思います。子ども時代と最近を考えてみたら、冬があまり寒くありません。私は名古屋で生まれましたが、子ども時代はよく雪が降りました。しかし、最近はあまり雪が降ることはありません。感覚的にどうも温暖化が進んでいるようで、夏も最近はちょっと暑いと思います。それはともかくとして、産業革命以降の石油や石炭の利用によって二酸化炭素が排出され、温暖化が引き起こされているということは、ほぼ常識になっています。ですから、国際的に温暖化を引き起こす二酸化炭素の排出量を削減しようと努力しているわけです。

  そういう何千年も続いてきた人間中心の自然観を見直さなければいけない、このままでは人類の存続そのものが危ぶまれると、期せずして一九七〇年ごろにいろいろな学者が言いだしました。そして、それまでの「人間中心」ではなく、「生命中心」の自然観が何人かの思想家によって打ち出されるようになっています。

  人間中心の発想では、真ん中にあるのが人間、周りにあるのが自然で、図形としては円になります。これが長年の 西洋の自然観でした。一方、生命中心になると、確かに人間も大事だけれど、ほかの動植物も大事だということで、二つの中心があります。そうすると、図形としては楕円形になります。  ところが、言葉の呪縛というものがあって、例えば日本語の「環境」という言葉は「環 」と「境 さかい」からできています。このようなイメージで環境という言葉が使われてきているのです。これは日本語に限ったことではなく、英語の

environmentを直訳すると、「取り囲まれている状態」です。ドイツ語のumweltは「周りの世界」、フランス語のmilieuも「周囲」「周辺」という意味です。したがって、どの言語でもみんな、人間が一番真ん中にいて周りに自然があるというイメージで環境をとらえてきたのです。生命中心の新しい自然観では、ほかの言葉がないので「環境」という言葉はずっと使いますが、発想は違います。

†生命中心主義のモデル――netとknots   生命中心の考え方を思考のモデルで表すと、網の目になります。網は、一本の糸ではなく、お互いに結び目を持っています。最近は全部ナイロンになっているので結び目がないのですが、昔の漁師さんが使っていた網は、麻で作っ

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ていたので結んでありました。結ぶと、破れてもまた直せるからです。ナイロンでももちろん直せないことはありませんが、女性のナイロンストッキングがそうであるように、一ヶ所が切れると伝線して全部切れてしまいます。そうではなく、結び目(knots)があるような大きな網(net)というモデルで自然を考えてみると、分かりやすいと思います。

  結び目の一個一個が、この地球上に生存している種です。人類も一つの種です。ゴキブリも、ライオンも、トラも、全部種です。これが結び目を構成しています。ところが、毎日毎日この地球上から種が絶滅しています。この例えで言うと、結び目がほどけて穴が開いているということです。一ヶ所穴が開くと、放っておくと周りに広がっていきます。生物界は食物連鎖によって成り立っていますので、ある種が絶滅すれば、それを餌としていた種も絶滅します。そのようにして、一つの結び目の周辺から穴がどんどん大きくなって、修復ができなくなってしまうという状況が、今一番危惧されています。

  人類から遠いところで穴が開いても、直接の影響はないかもしれません。しかし、すべて関係し合っていますから、やがて人類の方に来るのは当然のことです。生命中心主義の考え方は、そのように関係として自然を見ることが大事 だというものです。すべての生命は網の目のようつながっている、関係し合っているという発想で、網の目モデルがあるわけです。

†新しい自然観の先駆者――アルド・レオポルド

  新しい自然観を最初に唱えたといわれているのが、アルド・レオポルドです(図3)。アメリカ人で、森林生態学とでもいうのでしょうか、農学部を出た人で、アメリカでは非常に有名なのですが、日本ではあまり知られていません。一九世紀の終わりに生まれて、二〇世紀の半ばに亡くなりましたので、いわゆる地球環境問題がまだ起こっていない段階の人です。

  いわゆる地球環境問題がいわれ始めたのは、一九七〇年代以降です。一九七三年にストックホルムで国連環境サミットが開かれ、一九九三年にブラジルのリオデジャネイロで、より深刻な状況で国連の環境問題のサミットが開かれました。日本はこのときに初めて首脳を送っています。当時は海部首相でしたが、それ以前は、環境問題といっても日本

図3 アルド・レオポルド

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人はピンと来ていませんでした。

  話は脱線するのですが、西洋人の発想と違って、日本人はもともと自然との関係が極めて無意識的に一体化されていて、これだけ自然が豊かな国土にいるので、自然が破壊されているとはあまり感じてきませんでした。ですから、公害は一九七〇年代の日本に当然あったのですが、アメリカ人やヨーロッパ人のように環境問題とはそれほど言ってこなかったのです。一九七〇年代の日本は、「エコノミックアニマル」という言葉が象徴するように、環境より経済が中心でしたが、九〇年代になるとがらっと雰囲気が変わり、コマーシャルなどにも「地球にやさしい」という言い方が出てくるようになりました。

†倫理概念の拡大と共同体概念の拡張

  レオポルドは、一九四六年に発表した「土地倫理」という論文の中で、それまでの倫理と違う、新しい発想の倫理が必要だと言いました。それまでの倫理は、うそをついてはいけない、殺してはいけないなど、同世代の人間同士の関係を律するものでしたが、新しい倫理観は自然を対象にしています。動物や植物に対してわれわれはどんな行動をしたらいいか、どんな行動をすることが倫理的かというこ とで、倫理という考え方を従来よりもかなり広げています。  同じように、彼は共同体という言葉の概念も広げました。地域共同体というと、皆さんも一定の地域、例えば町内会に住んでいるお隣さんやお向かいさん、同じ組の人などだと理解していると思います。もっと大きくなると、自治体も国も共同体です。しかし、そこの構成員はすべて人間です。「うちの町内会では、犬や猫も会員です」というところはないと思います。しかし、レオポルドは人間だけでなく、犬や猫も共同体の一員だと考えたのです。これはまったく新しい考え方です。  ただし、実際には人間だけがいるわけではなく、いろいろなものがいます。先ほどの網の目モデルを思い出していただきたいのですが、一つ一つの結び目を保持しなければいけないので、今、盛んに「種の保存」を叫んでいるわけです。絶滅しかけた種は貴重だから、少数であってもとにかく保存しなければいけない、だから絶滅危惧種は捕ってはいけない、殺してはいけないという条約を作って、種の保存を目指しています。なぜそんなものが必要なのでしょうか。それは、どんな弱小な種も一個の結び目であり、それが大きなnetを構成しているからです。穴が開いてしまった自然は、もう自然としては機能しなくなってしまう、だ

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から全部の結び目がそろっているような網を維持しなければいけないという考え方です。

  そうはいっても、これはなかなか難しいことで、好き嫌いもあります。ゴキブリの好きな人はいません。大嫌いな人は、ゴキブリも一つの種だ、だからゴキブリを守ろうなんてとんでもない、ゴキブリはこの地上から絶滅すればいいと思っているかもしれません。ゴキブリを殺してはいけないとは言いません。ゴキブリを見ると条件反射のようにスリッパでたたいてもいいでしょう。しかし、絶滅させてはいけません。

  これは笑い話ですが、確かに人類にとってあまり役に立たないものもあり、かえって害になるようなものももちろんあります。しかし、そういうものも含めて全部結び目なのだという発想ですから、例えばトキは貴重かもしれませんが、トキだけ守ればいいということではありません。

†エコロジカルな良心(conscience)

  もう一つ、レオポルドは、私たち人間が同じ自然界(共同体)を構成する他の動物や植物に対して配慮する、倫理的な行動をするということは、誰かから命じられてやるのではなく、人間が「エコロジカルな良心」を生まれつき持っ ているからだと言っています。  普通の意味の良心は分かりますね。人間は誰でも良心を持っているといわれています。中には良心のかけらもないような人がいるかもしれないけれど、同じ人間なら少しぐらいは持っているでしょう。「良心とは何ぞや」というのは難しいのですが、この社会が成り立つには、一般的に良心というものが前提になっています。しかし、その良心は人間同士の中で行動して出てくるもので、自然(動物や植物)を尊重したり愛したりというものは、今まで良心という発想の中には入っていませんでした。それを、レオポルドは新しい良心、エコロジカルな良心だと言っています。  良心は、日本語では「良い心」と書きます。中国語でも、漢字だから同じだと思います。意味は「道徳的な心」「倫理的な心」ですが、英語ではconscienceといいまして、「みんなが一緒に何が善であるかを知っている」という意味で使っています。scienceは「知」という意味です。おおむね、英語でもドイツ語でもフランス語でもみんな良心とは「知」、すなわち何が善であるかを知っていることです。  ところが、中国人の解釈は非常に立派で、良心とはすなわち「良知良能」、よく知っており、かつ、よくできるということで、「できる」という要素があるというように考えて

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います。確かに、「こういうことを見過ごしてはいけない」と分かっているけれども、やはり怖いので、ついついそのまますっと逃げてしまうと、後でその行動に対して良心が自分を責めます。良心の痛みです。初めからできないなら、良心が痛むことはありません。できるのにしなかったから、良心が批判するわけです。ですから、何が正しいかを知っていると同時に、そのことを行うことができるという能力があって良心です。

  しかもレオポルドは、エコロジカルな良心を人間は生まれつき持っていると言いました。この点は非常に心すべき考え方だと思います。

†自然の権利(rights of nature)について

  もう一つだけ、レオポルドの言ったことについてご紹介します。今、アメリカでも日本でも、あちこちの裁判所で自然の権利訴訟が起きています。例えば、有明海の諫早湾に堰を造ったことによって、干潟にいるムツゴロウなどのいろいろな海洋小動物が生息環境を失って絶滅してしまうということで、自然保護団体が堰の建設を差し止める裁判を起こしました。そのときの原告にはムツゴロウが入っていますが、そういうものを「自然の権利訴訟」といいます。   裁判というものは普通、人間がやるものだと思っていますけれども、そうではなく、レオポルドは自然にもその権利があると言って、「土地倫理はもちろん、これら(動植物種という)資源の改変や管理、利用を止めさせることはできないが、それらが生存し続ける権利(their rights to continued existence)を、少なくとも場所によっては、自然の状態のままに存続することを是認する」という文章を残しています。  それが現実の訴訟の場で初めて争われたのは、一九七〇年初めにウォルト・ディズニー社がミネラルキング渓谷に一大アミューズメントパークを建設しようとしたときです。ロッキー山系の国立公園の非常に風光明媚な場所にパークを造ることを州知事が許可したと聞いて、自然環境保護団体はそんなものが造られると貴重な自然が失われるということで、そこに生えている木や岩などを原告にしてテネシー州の州知事を相手に建設許可差し止め訴訟を起こしました。  そのときに初めて木が原告になっています。木は、切られてしまうという直接の被害を受けるからですが、当然、裁判長は「ばかなことを言ってはいけない。木がなぜ訴えることができるでしょうか。だいたい、木はしゃべれないでしょう。木は法廷に来られないでしょう」と言っていま

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す。確かにもっともな意見ですが、よく考えると、実際に本人が裁判所に行かないと裁判はできないのかというと、そんなことはありません。裁判というところでは代理人の弁護士が原告の利害を代弁するわけですから、本人が行かなくてもいいのです。もう一つ、人間でなければ訴える権利がないのかというと、それもおかしな話です。人間ではないのに、例えば法人格を持ったものは裁判を起こせますね。会社は人間ではありませんが、自分の会社の利害を裁判で堂々と訴えることができます。そう考えたら、木も訴えられるのではないかと考える裁判官が実際に出てきました。面白いですね。しかもアメリカの最高裁判所です。

  しかし、やはり木は原告にはなれないという意見が多数だったので、この訴えは却下されました。つまり、ウォルト・ディズニー社は、法的には正々堂々とアミューズメントパークを造れたのですが、結局は造りませんでした。なぜかというと、この論争の中で、やはり貴重な自然を切って公園を造るのはよくないと、世論がウォルト・ディズニー社を非難するようになったからです。開園しても客が来なければどうにもなりませんので、ウォルト・ディズニー社は計画を断念したわけです。したがって、ミネラルキング渓谷は非常に風光明媚なところとして残っています。   これが自然の権利訴訟というもので、日本でもあちこちで闘われています。静岡県で言うと、静岡空港の建設反対訴訟がそうで、ここでは里山に営巣しているオオタカが原告になりました。もちろんオオタカは裁判所に行けませんので、オオタカになり代わって、私が原告になっています。これは最高裁まで行って否決されましたので、裁判的には駄目でしたが、アメリカであればここで世論が沸騰しますから、空港はできなかったと思います。日本はそのあたりがいまいちなので、実際には空港ができてしまいましたが、レオポルドはそういうかなり新しい考え方を提起しました。

†アルネ・ネス――deep ecology

  ノルウェーの哲学者、アルネ・ネスも新しい自然観を広めた人です。「deep ecology(深いエコロジー)」は一九七三年にネスが発表した宣言文の中に出てくる考え方なのですが、今日、この考え方は、ヨーロッパ各国で政治的勢力になっている「緑の党」というところに入ってきました。「緑の党」は環境政策をメーンとする政党で、ドイツではもはや弱小政党ではなく、連邦政府の政権に入り、外務大臣を出していたと思います。また、ドイツのある州では第一党で、その州の政策を決定するまでになっています。フランスやイ

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タリアにも同様の環境政党がありますので、deep ecologyは単なる思想哲学ではなく、現実的な政治的勢力の形成にも影響力を与えてきました。

†生命中心思想の先駆者――アルバート・シュヴァイツアー

  もっと根本的な考え方から言いますと、二〇世紀後半に出てきた生命中心の価値観は、アルバート・シュヴァイツアーが二〇世紀初めに「生への畏敬」の倫理という発想をして以降、ずっと続いていますから、ごく最近になって生命中心の自然観が立ち現れたのではありません。

日本の思想家・実践家

  南方熊楠

†南方熊楠の人となり

  南方熊楠は多方面で活躍されましたので、単なる自然保護活動だけを取り上げて、南方熊楠の全貌を語ることはできませんが、神社合祀反対活動が自然保護活動につながるところなので、そもそもなぜ彼は神社の森を守る活動をしたのか、その根本のところは何だったのかということを簡単にお話ししたいと思います。

  熊楠はユニークな人でいろいろな逸話が残されています。 例えば、小さいときから記憶力抜群で、いろいろな言葉を読み書きできたそうです。小学校高学年、一〇~一一歳のころには友達の家の書斎にある江戸時代の植物図鑑「和漢三才図会」を読んで覚え、家に帰ってから記憶だけでそれを紙に写したという逸話がありまして、現在も実物が残されています(図4)。よほど記憶力が良かったのでしょう。私も見ましたが、鳥や獣の挿絵も全部、本当に細かいところまで正確に書き取っています。その後、地元の旧制和歌山中学校を出て上京し、現在の東京大学の予備門というところに入学するのですが、学問は好きだけれども勉強は嫌いな人ですので落第します。結局、上の帝国大学には進めず、故郷の和歌山に帰ったのですが、家がお金持ちだったので、両親がお金を出してくれて、その後、アメリカに遊学しています。

  熊楠が東京帝国大学予備門に入学したときの同窓生には、

図4 少年時代の南方熊楠

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有名な夏目漱石、正岡子規などがいます。一八六七年、つまり明治維新の年に生まれていますので、みんな同じ年です。

†熊楠の原点・粘菌にみる生命の不思議

  熊楠は神社合祀反対という活動を通して自然を守ろうとしたわけですが、なぜそういう活動をしたのでしょうか。実は、この人は粘菌という非常に原始的な生物をたくさん集めて分類していて、本人によると新種も含めて約五〇〇〇種集めたそうです。

  粘菌は、植物を枯らすバクテリアを食べるので、枯れた葉や枝に付きます(図5)。どのような一生を送るかというと、綿帽子が上に載っているような「子実体」という形態が一番目立っていて、何ミリという世界なのでよほど目を凝らさないと見えませんが、一応肉眼でも見えます。そして、上のところが割れて、 粘り気のある液体が出ます。それが乾燥すると、胞子が風で飛ばされて、どこかの森や林に落ちて、枯れた枝や木に付きます。  この粘菌は、植物とも動物とも言い難いような生物です。なぜかというと、アメーバのように動き回って、バクテリアを食べるからです。そして、子孫を残すために集まってきて、子実体になって、また胞子を出すというライフサイクルを、ずっと繰り返しています。雄と雌の区別もありません。生と死の境目がどこかも分かりません。  南方熊楠は、そういう非常に単純な生命現象の研究を自分の学問としました。お金にはなりませんが、面白かったのでしょう。ですから、彼は粘菌を求めて山の中に入っていったり、自分の屋敷にある柿の木から新種の粘菌を採取したりしましたが、人が踏み入るようなところに貴重な粘菌はいません。じめじめしたようなところにいるので、神社の境内は粘菌の格好の生息場所です。昔は、境内の森林で木を切ったり木の実を取ったりすると神罰が当たるといわれていたので、あまり人が入り込みませんでした。そういう神社の境内林は、熊楠にとって大切な粘菌の生息環境なのですが、そこに神社合祀という政策が出てきたので、自分の研究上、大打撃になると考えました。

図5 粘菌の生活環(ライフサイクル)

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  そう言うと、かなり自己中心主義ではないかと思われるかもしれませんが、自分のことのように考えないと、人間というものはなかなか動きません。熊楠は学問研究の原点である粘菌の危機をまさに自分のこととしてとらえたわけで、神社合祀という政策に反対して神社や緑の森を守る活動をしたのも、その根本には粘菌という生命の不思議の探求があったと私は考えています。

  実際に、彼はいろいろなものを研究することによって「生命の大不思議」を追求しようとしました。二八歳ぐらいのときには幼稚園児が描いたような図を描いて、「これがまさに宇宙の森羅万象を表している」と言っているのですが(

絵も曼荼羅です。 宙が分かると言っているので、その意味では熊楠が描いた れていますが、あれは宇宙を表しています。彼はこれで宇 大日如来が真ん中にいて、その周辺にいろいろな仏が描か 方曼荼羅」と呼びました。確かに密教のお寺にある曼荼羅は、 ることが大事だと書いてあります。ある人は、これを「南 の場合は粘菌が研究対象ですが、何でもいいので突き詰め るようになり、さらに宇宙の法則が分かるようになる、彼 ら突き詰めて研究していくと、自然の法則がうっすら分か 71ページ図8参照)、その説明文には、何か一個でいいか †神社合祀令

  熊野地方には非常に深い森があります。村といっても、隣の字 あざまで行くのにずいぶんかかるわけです。ところが、一九〇六年(明治三九)に神社合祀令が出されて、かなり強制的に神社の数を減らせと言われ、一町村一社と数が制限されました。二〇社ある村は一社にしなさいということです。住民にとってみると、こんなにひどいことはありません。

  日本の神社の成り立ちを考えてみると、明治のころの村は相当面積が広いので、行政区画を細かくするために幾つかの大字に区切り、さらに字に区切っていました。ですから、○○村大字○○字○○という番地になるわけです。もちろん字の中でさらに集落で細分化されますが、いずれにしても、字を最小の集落単位と考えると、一つの村に二〇ぐらいあるのが普通でした。その字にいつのころか分からないぐらい昔から住み始めたのですが、最初は同族が住むわけで、自分たちの氏神さまをその土地に祀って字ごとに神社が建てられるので、神社が二〇あることになります。

  それを強制的に合併して、だいたいの場合は村役場近くの神社だけを残して一九社は廃止せよというのがいわゆる神社合祀令です。明治の終わりですから、まだ過疎にはなっ

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ていません。確かに一〇軒ほどしかない小さい部落もありますが、農林業を営んで、貧しいとはいえ神社を中心に生活していました。むしろ神社を唯一のよりどころとしている住民に、祀っている神様を移せということです。

  神様は目に見えないので、いずれにしても集めることはできます。こちらの神様もあちらの神様も一つの神社に集めてきて、良心的なところは小さな祠を作ってお祀りするけれども、ぞんざいなところは紙だけ貼って本殿にするというところもありました。一方、廃止された神社はどうなるかというと、建物から境内に生えている松や樫の木まで全部切ってしまいます。丸裸にされてしまうので、当然、粘菌も生息できません。文化財はそれほどないでしょうが、どんな小さな神社とはいえ数百年の歴史があるのですから、昔から伝わっている古文書はあるわけで、貴重な歴史文献もこのときに失われてしまいました。

†神社の減少

  ただし、県によって、減少した神社の数に違いがあります。和歌山県は隣の三重県に次いで神社が廃止された数が多く、約五〇〇〇社あった神社が一〇〇〇社ぐらいしか残りませんでした。熊楠は「七分の一になってしまった」と書いて いますから、わずか五年の間に四〇〇〇社がなくなったのです。  神社合祀令が出される前は、日本全国で一九万社の神社がありました。ところが、一九〇六年(明治三九)に法律が出されてから、一九一三年(大正二)か一九一四年(大正三)に廃止されるまでの約一〇年弱の間に、七万社が廃止になっています。あとは、都市化による自然減がありながら、一九四五年(昭和二〇)までは一二万社という状態が続き、その後、ますます大きな都市化があって過疎化が広がり、現在は大小併せて九万社ぐらいになっています。ここまで減ったのは、やはり法律によって強制的に、わずか数年の間に減らされたことが一番大きいと思います。静岡県は幸いなことにそれほど影響がなかったので、神社の数はそれほど減っていませんが、和歌山県と三重県ではかなり減っています。

†神社合祀令の影響

  ただ、実はメリットもありました。広い境内林、つまり一山が神社の所有なので、そこの木を切って薪として売ることができたのです。明治の終わりですから石炭・石油はまだ燃料として使われておらず、ご飯を炊くにしてもお風

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呂を沸かすにしても主な燃料は薪でしたので、大阪あたりの薪問屋が切った木を買い取って、何千円という収益が上がります。その収益は全部、合祀先の神社にあげなくてはいけないことになっていました。

  そうすると、神社が残った部落はいいけれど、廃止されたところは当然怒ります。ですから、合祀した先の神社と元の集落の氏子たちとの間で、祭りのお金を出せ、出さないといったことで争いが頻発しました。神社がなくなり、自分たちの神様がいなくなってしまっては、お祭りができません。したがって、無形文化財としてずっと継承されてきたお祭りが、この時期に一挙に失われてしまいました。

†神社合祀令の内容

  一九〇六年(明治三九)に出された法律は、たった三行、「神社寺院仏堂ノ合併ニ因リ不用ニ帰シタル境内官有地ハ官有財産管理上必要ノモノヲ除クノ外内務大臣ニ於テ之ヲ其ノ合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与スルコトヲ得」というものでした。

社に行ってしまうということです。そうすると、あちこち 止した神社の木を切ったお金、五〇〇〇円は、合祀先の神   「譲与」とは無償でということですから、つまりは、廃 は逆らえないという感じでした。 住民運動ができるような時代ではなく、お上が言うことに すから、非常に不満があったのです。しかし、今のように く氏神さまをよその神社に合祀せざるを得ないのが実情で 一〇軒や二〇軒しかない貧しい村では無理なので、泣く泣 基本財産五〇〇〇円を作れば神社を残すというのですが、 をまったく無視して、強制的にやったところが問題でした。 狙っていたのですが、地域の実情や地域の人たちの気持ち   誰が考えたのか、明治の終わりのこの政策は一石三鳥を 二〇個もあると出せないという思惑です。 れは神社が一つだけなら村のお金でお祭りの経費が出せる、 の政策に賛成しています。地方自治体も賛成していて、こ 神主は自分たちの経済基盤が強固になるということで、こ て、利子で神主の給料を出すことにしました。ですから、 から一〇万円ぐらいのお金が集まります。それを基金にし

†熊楠の「神社合祀反対意見」

  熊楠が神社合祀反対活動をしたのは、彼が特別信仰深かったということではなく、粘菌の生息環境を守ることが第一の理由ですが、そのほかにも、九項目にわたって政策が間違っているということを書いています。

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  神社合祀反対意見の最初に、合祀によって敬神思想が高まってはいないことを挙げています。狐や天狗や生霊を祀っているような神社は、諸外国からは迷信だと言われてしまうので、そういう神社はなくして氏素性の立派な神社だけ残しましょうというのが政府の言い分で、神社を整理するのは敬神思想を高めるためだと言っているのですが、それは事実に反すると、最初に彼は反論しています。

  氏神さまをお参りするためには、役場のあるところまで谷越え山越え行かなくてはならないので、お参りしなくなってしまった。お祭りのときのお金は納めないし、遠いところでお祀りするなら、近いところに新しく天狗や生霊を祀って祠を造り、そこでお参りしておこう、あるいは、これは神社合祀の直接の影響ではないのですが、新しく成立した新興宗教に入ってしまおうというようになってしまって、国が言うような効果は上がっていないと言っています。

  合祀によって、村民の融和が妨げられたとも言っています。特に漁師は命懸けの営業なので、何か縁起が悪いことがあれば、災いを取り除くために氏神さまにお参りをしたり、大漁であれば感謝したり、非常に信仰心が篤いのです。その漁師の神様、えびすさんが移されてしまったということで、合祀先の住民とけんかになって、警察ざた、刃傷ざ たが起こりました。あるいは、薪を売った何千円というお金を、神主や有力者らが自分のポケットに入れたという話が結構あります。  また、神社は憩いの場であり、社交の場です。神社の神殿の前にはお祭りができるように広場があって、そこに集まってきてはおしゃべりをしたり、コミュニケーションを取ったり、子どもがチャンバラごっこをしていたのですが、そういうものがなくなってしまって、子どもたちが畑でチャンバラごっこをし、畑を荒らされた人が首根っこを捕まえて、親に「おまえのところの子は何だ」と言って争いが起こったとも書かれています。  それから、お祭りは地域経済にとっては決して小さくない営業活動です。いくら春と秋だけといっても、三日間ぐらいはお祭りをしますから、今年は久しぶりに晴れ着を作りましょう、ごちそうを食べましょう、旗やのぼりを作りましょうというように、それだけで営業するような人が地元にはいました。しかし、神社がなくなり、お祭りが行われなくなったために、それがなくなってしまった、だから合祀は地域の経済活動をそぐと言っています。  それから、これは県民性なのですが、和歌山あたりの人は、前に海が広がっていますので進取の気風があって、県

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外へ出ていっていろいろ出世をする人も出てきます。例えば、和歌山だと大阪が一番近くの大都市ですから、そこへ小さいときからでっち奉公に行って、立派になると、お祭りのときなどに、故郷の神様にかなり多額の寄付をする人がどの村にもいました。ところが、神社がなくなると、寄付をしたくてもその対象がないということで、愛郷心、愛国心が失われると言っています。

  最後に、文化財が失われる、今日で言う自然が減少してしまうということも述べていて、だいたい八項目にわたって合祀政策は間違いだということを書きました。これが合祀反対論で、熊楠は何種類もこれを書いています。東京で出ている一流紙に載せたものが一番有名ですが、地元の新聞にも掲載しました。

  熊楠が神社合祀反対を主張し始めたのは一九〇九年(明治四二)で、法律そのものは一九〇六年(明治三九)に発布されていますので、三年ほどたってからのことです。最初のうちは静観していたのですが、お上の強制的・画一的なやり方に業を煮やして反対したのが実情のようです。

  今日的な観点から、この人はどこがユニークかというと、外国に長くいたので、英語でもドイツ語でもフランス語でも、言葉は自由にできますし、非常に学識も深く、当時日 本人としては読んだことも見たこともない、イギリスの大英博物館に蔵書されている貴重な文献を読み、たくさんのノートに抜き書きして日本に持って帰り、そのお宝を元に、民俗学の分野でいろいろな文章を書きました。柳田国男はひょんなことから彼の名前を知って、ぜひ教えていただきたいと手紙を出します。ちょうど神社合祀反対活動をしていた時期だったので、それに答えて熊楠も、柳田に何とか協力してほしいと頼み、柳田も、忙しい人だったのですが、きちんとそれなりに協力しています。  結局、彼は亡くなるまでどこにも就職できませんでしたが、幸いなことに家が多少お金持ちだったので、そこからの援助を受けて、必ず現場に行っています。どこかの神社が廃止されようとしていると聞くと、そこへ行って現場を見たり、自分が行けなくても写真を送らせたりして、少しでも守ろうとしました。成功したところもあれば、駄目だったところもたくさんあるのですが、成功した例が、冒頭に申し上げた引作神社の大楠です。

†エコロジー運動の先駆者

  一〇〇年前にエコロジーという発想に立って、粘菌や木を含めた森林の命を守ろうとした南方熊楠の活動は、

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一〇〇年後の今日、もう一度見直されてもいいのではないかと思います。

  次の文章は、彼がエコロジーに言及した実際の文章です。柳田国男宛ての書簡で、一九一一年(明治四四)八月の文章です。

(神島は)実に奇特希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学ecologyを、熊野で見るべき非常の好模範島なるに   また、同じく一九一一年(明治四四)年には、和歌山県知事宛ての書簡で、次のようなことを書いています。

千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。

  ここで、六三歳、死ぬ一〇年ぐらい前の熊楠の写真をご覧ください(図6)。非常に有名な写真なのであちこちで出ています。   また、熊楠が住んでいた家は、あたかも熊楠がそこで今勉強しているような形で保存されています。  田辺市郊外のお寺に熊楠のお墓があります(図7)。そんなに立派なお墓ではなく、ごく普通ですが、このお墓から田辺湾の神島が見えます。  今は、彼の家の横に南方熊楠顕彰館という建物ができていて、紀伊田辺はそれほど交通の便がいいところではないので、ぼつぼつと見学者が訪れています。また、温泉街で有名な隣の白浜には南方熊楠記念館があります。

  最後に、先ほどご紹介した、熊楠が宇宙の全体を表した

図6 晩年(63歳)の熊楠 図7 熊楠の墓

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という「南方曼荼羅」と呼ばれる絵をご覧ください(図8)。一つのテーマをどんどん追求していくと、最終的には森羅万象が分かる自然法則に到達できると説明しています。彼にとっての自然法則、森羅万象の法則は、別の言葉で言うと「生命の大不思議」です。この「生命の大不思議」を自然科学では十分には解けない、最もよく解けるのは大乗仏教だと書きました。だから、仏教と科学は対立しなくてもいい、科学は仏教よりも少し下だけれども、宇宙の森羅万象を解き明かす一つの手段になる、だから仏教徒はもっと自然科学を勉強しろと言っています。

質疑応答

質問――資料には町村合併の反対運動もしたと書いてありますが、これは、神社の合併と絡めての反対ですか。

芳賀――実は、明治の終わりごろに、「平成の大合併」と 同じように町村合併がありました。また、工場の誘致もありました。さらに、熊楠が四四歳の一九一一年には、今の紀勢線が田辺の隣の御坊町というところまでしか来ていなかったので、当然、鉄道の誘致運動が起こりましたが、熊楠は反対しました。なぜかというと、結局同じことで、地域の共同体が崩れてしまうからです。それから、工場誘致については当然、自然が破壊されるからです。  明治終わりに政府が町村合併を進めたのは、強固な行政的統一体を作ろうと考えたからです。日露戦争が終わって、当時は不況でした。また、東北地方では飢饉があり、食い詰めた人が都会に流れてきていました。それで、明治の終わりころ「ルンペン・プロレタリアート」という言葉が出てきました。石川啄木もその一人ですが、政府はそれを引き締めるために、天皇の名前で戊申詔書を出しました。要するに、華美に流れるな、刹那主義的な考え方を取るな、親に孝行しなさい、つまり昔からの封建道徳を守れという内容の訓令を天皇の名前で出したのです。それぐらい引き締めをしないと国家がもたない事態になっていました。そこで、神社合祀政策と一緒に思想善導運動を進めたのですが、実はそれと町村合併は一体となっています。シンボル的に、村の中心に一個の神社と学校と役場をセンターのよ

図8 南方曼荼羅

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うにして残し、そこを中心にして思想善導運動を広げていったのです。それが報徳運動のような形になっていて、あれは二宮尊徳をうまく利用したものです。

  何よりも忘れてはいけないことは、そういう引き締めの中で、幸徳秋水の大逆事件が捏造されていることです。これは同じ時期にあって、全然別の話なのですが、流れとしては一体です。和歌山県では田辺の隣の新宮という町に、大逆事件で捕まった人が六人もいました。このとき死刑になった大石誠之助は、地元では非常に人望のある人で、熊楠ともやりとりをしていたので、大逆事件が起こったときには熊楠も警察に取り調べられています。ですから警官や権力が嫌いで、講習会場で偉い役人が講演をしていると、「何だ、おまえ」と言って信玄袋を投げつけ、警察に捕まえられて監獄に入っています。それぐらい情熱的な人だったのです。

  要するに、熊楠は地域に古くからあるまとまりを大事にしようと考えて、もちろん自然の保護も大事ですが、先ほど言った「地域のエコロジー」という観点で、神社合祀政策はそういうものも破壊してしまうという点から反対したようです。

参照

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