• 検索結果がありません。

(public)」概念の意味 : 「公的市民(public citizen)」論の可能性と危険性

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "(public)」概念の意味 : 「公的市民(public citizen)」論の可能性と危険性"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

(public)」概念の意味 : 「公的市民(public citizen)」論の可能性と危険性

著者 唐木 清志

雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇

巻 27

ページ 33‑45

発行年 1996‑03‑25

出版者 静岡大学教育学部

URL http://doi.org/10.14945/00008334

(2)

静岡大学教育学部研究報告 (教 科教育学篇 )第 27号 (1996.3)33〜 45

アメ リカ社会科の「参加」学習論における

「公 (public)」 概念の意味

一「 公 的市民 (public citizen)」 論 の可 能性 と危 険性 ―

The Mean of ̀Public' on Learning through Participation in case of UoS.Social Studies Education

Possibility and Danger in  ̀Public Citizen'

唐 木 清 志 Kiyoshi KARAKI

(平 成 7年 10月 2日 受理 )

1  は じめに   す本研究の目的―

Fo M.ニ ューマ ン (Fred M.Newmann)は 述べ る。「社会参加活動 を計 画す る際 のわ れ われの ヴィジョンは ,次 の教育 のニーズに基づ くべ きである。それは ,私 的利益 を増 進 す るた めに参加す る人 々を育成す ることで はな く ,む しろ ,公 共善 (public good)を 追 求 す る過程 で合意 をつ くり出 そ うとす る公 的市民 (public citizen)を 育成す ることであ る」 1)。 近年 の

「 参加」学習論 の特徴 は ,ア メ リカ社会科 において一貫 して「 参加」学習論 を リー ドして きた

■ューマ ンの この言葉 に端的に表わされている 2)。 その特徴 とは ,従 来 の公民教育 (civic edu cation)が 結果的に私的利益 に囚われた「 私的市民 (private citizen)」 の氾濫 を許 して しまっ

た ことを反省 し ,「 参加」学習 の日標を ,公 共的空間 (共 同体 )の 維持・ 発展 の ため に「 共 に 話 し ,共 に決定 し b共 に行動す る」 ことがで きる「 公的市民」の育成 とした点 にある。

自分 たちの公共的空間を「 共 に」創造 しよ うとす る過程 は ,意 見 の対立す る人 々の間 に

,‐

活 発 な議論 を通 じて相互理解を育む過程 で もあ り ,そ れ は結果 と して人々の間 に「関係の豊かさ」

を もた らす。現代社会 で最 も必要 とされ る「 豊 か さ」 は ,  この「 関係 の豊 か さ」 に他 な らな

,

3)。 未曾有 の経済発展 は「 量 の豊 か さ」や「 質 の豊 か さ」を人 々に享受す るに至 ったが ,そ

の一方 で「 差異化」や「 孤立化」 とい う状況を生み出 し ,結 果的 に「 関係 の豊 か さ」 を貧 困 に して きた。「 参加」学習の活性化 は ,こ の「関係 の豊かさ」に貢献す る機能を もつ。多様 な意 見 を もつ人 々が互 いの意見 に耳を傾 けなが ら合意 を創 り出 し ,協 力 しなが ら行動 して い く過程 こそ ,「 参加」学習の核 となるべきである。 したが って ,「 公的市民」論の可能性 とは ,社 会 科 において「 参加」学習論を議論する際に ,こ のような人間の共同性に注意 しなが らカ リキュ

ラム開発をす ることができるという意味である。

しか しその一方で ,「 公的市民」論の危険性にもわれわれは目を向けなければな らない。民

主主義で求 め られる合意形成 は ,合 意できなか った人々あるいは合意形成に参与できなか うた

人々の意見を「最大多数の最大幸福」の名の下 に切 り捨て ,最 終的に多数者の合意を少数者 に

強制す るという傾向を内在 している。近年の「参加」学習論 は ,こ のような「公的市民」論 の

危険性への配慮が十分になされないまま展開されている。それは冒頭に紹介 したニューマ ンも

例外ではない。「公的市民」論の今 日的意義を認めつつ も ,そ の前提 として ,異 質 な生 ゆえに

常 に抑圧を受 け ,少 数者 として切 り捨て られてきた諸個人の自律性を ,「 参加」学習 のなかで

(3)

保証 してい くことが必要 であると ,筆 者 は提案 したい。

本研究 で は ,以 上 の議論 を踏 まえ ,最 終的に日本 の社会科 の日標 にあ る「 公民 (的 資質 )」

概念 の問題点 を明 らかにす る。そのために ,次 の二つの観点を設 けた。第一 に ,「 公 的市民 」 論 の可能性 と関わ って ,「 公民」概念 のなかに「 公」な領域を「共」に創造 しよ うとす る「 関 係 の豊 か さ」の視点が生か されているか。第二 に ,「 公的市民」論 の危険性 と関 わ って ,「 公 民」概念 のなかにアイヌや在 日韓国・ 朝鮮人等 の異質 な生 に対す る配慮 がなされて いるか。

2  現代 における「 公民 と しての徳 (dvic宙 rtuo)」 の衰退   ―「 公的市民」論の必要性一 共 同体 の維持・ 発展 のために「共 に話 し ,共 に決定 し ,共 に行動す る」 ことがで き る「 公 的 市民」を育成す ることは ,以 前 よ り「参加」学習論 のなかで論 じられて きた。 しか し ,近 年 の

「 参加」学習論 では ,教 育 目標 とな る市民像 の「公的」 とい う側面 が殊 更 強調 され る傾 向 にあ る。その理 由 は ,例 えば We C.パ ーカー (Walter c.Parker)が 「 もし我 々の間に公民 と し ての徳 (civic virtue)が 存在せず ,私 民 と しての徳 (private virtue)の みが存 在 す る とす る な らば ,我 々を安全足 らしめる政治 は存在 しないことになる」 4)と 嘆 いた よ うに ,近 年 の「 公 民 と しての徳」の衰退 が著 しく ,こ のままではアメ リカ民主主義 が崩壊 しかねない とい う危機 意識 が働 いたためと思われ る。そ して ,こ のよ うな危機意識 は教育関係者 だけでな く ,広 く社 会一般 の人 々の間に も広が り ,こ うして「 公民 としての徳」の衰退 への対処 は近年の政治哲学 0 法哲学 の一大 テーマ とな ったのである。

多 くの政治学者・ 法学者 は「 公民 と しての徳」の衰退 の原因を ,  リベ ラ リズム (自 由主 義 )

の無制 限な拡大 に置 いた。彼 らによれば ,個 人の私的領域 に至上 の価値 を置 く リベ ラ リズムが

「 個人主義 の癌的な増殖」 5)を 育 み ,最 終的に「 公民 としての徳」の衰退 を進展 させ た とい うの である。「 人間 は自 らの運命の支配者であ り ,す べての個人 は自力 による成功 の可能性を もつ」

とい う意味での「 個人主義 (individualism)」 は開拓時代 よ リアメ リカの精神的伝統 の一 つ と な って きたが ,(平 等社会 )で あるアメ リカ民主主義 の下 では個人主義 がやや もす る と利 己主 義 とつ なが り ,自 分 の利益 のためにのみ行動す る市民で満 たされて しま うことは ,19世 紀 の段 階ですでに A。 トクヴィル (Alexis de Tocqueville)に よって予想 された ことで もあ った 6)。

「 公民 としての徳」の衰退 は同時 に個人 と国家の中間 にある公共的空間 ,具 体的 に は共 同体

(コ ミュニテ ィ )の 衰退 を意味 した。本来人間 は共同体 におけ る人 間関係 の なか で「 公民 と し

ての徳」を陶冶 し ,そ うす ることで「 よ り活発 な公的生活 (a mOre宙 tal public life)」 を維

持 す る。 しか し ,今 日で はそのよ うな学習の場 としての共同体が衰退 し ,そ のため「 公民 と し

ての徳」を身 に付 けた「 公的市民」 も同時に消失 した。このような危機 の克服を目的 と して成

立 した政治哲学 0法 哲学 が ,「 共 同体主義 (communitarianism)」 で あ る。極 めて抽 象 的 ,

かつ論者 によって微妙 な違 いのあ る共 同体主義 であるが ,こ の陣営 の論者 にはあ る共通 の問題

意識 があ った。それが リベ ラ リズムおよび リベ ラ リズム全体 の共通 の前提 と考 え られた個 人主

義 的な人間像 0社 会像 に対す る批判 である。具体的には ,「 リベ ラ リズムは個人 の自律 を強調

しなが ら ,(倫 理的側面 での )ア ノ ミー化 と (政 治的側面 での )ア パ シー化を進行 させ ,結 局 ,

個人の倫理 的 0政 治的主体性 を貧困化 して しまった」 7)と ぃ ぅ批判 で あ った。 ここで は ,共 同

体主義 の リベ ラ リズム批判を明確 にす るため に ,陣 営 の代表 的論者 で あ る M.」 。 サ ンデ ル

(Michael J.Sandel)3)に 注 目 し ,彼 の「負荷なき自我 (the unencumbered self)」 /「 位 置

あ る自我 (the stituated self)」 論 に言及す る。

(4)

アメ リカ社会科の 「参加」 学習論における 「 公 (public)」 概念の意味

サ ンデルは リベラリズムで論 じられる「 自我」が「負荷なき自我」であると述べ る。サ ンデ ルによれば ,「 負荷なき」とは伝統 ,歴 史 ,共 同体などか らまった く切 り離 された状態を指す 6 これはあらゆる伝統や蓄積を抹消すべき汚泥の堆積物 とし ,唯 ―「 自分」だけが思考 の出発点 足 りうるというデカル ト的近代主義 (「 我思 う ,故 に我あり」 )の 伝統を引 き継 ぐものである。

リベラリス トは言 う。「 自我 は ,自 らが肯定する目的に優先 している」 0)。 「 自我 が 目的 に優 先す る」 とは ,「 私が私の意図や愛着 (attachments)に よって定義 されず ,そ れ らを検分 し ,

評価 し ,お そ らく変更す ることに立 ち戻 ることが可能である」。 という意味である。サ ンデル の りがラリズム批判 は ,こ こに始まる。この「負荷なき自我」は ,一 見 ,絶 対的な自由を享受 しているかのように見えるが ,そ の自由は空虚である。かかる自我 は自身の選択の指針 となる 内なる原理を欠 くために ,結 局 ,移 ろい易い感情に他律的に従属す ることになる。 こうして ,

自我 は一方で自己の内側の私的領域 (欲 望 )を 至上のものとし ,そ の一方で自己の外側 の公的 領域 (公 共善 )に ついては極めて懐疑的な立場をとるようになる。これが「個人主義 の癌的な 増殖」と「公民 としての徳の衰退」の構造である。

では ,サ ンデルは リベラリズムの自我論に対抗するためにどのような自我の在 り方を主張 し ゛ たのであろうか。サ ンデルの自我の捉えは ,次 のような彼の主張のなかか ら読み取 ることがで きる。「私の人生の物語 は ,私 の自己同∵性が導 き出される ,そ のような共同体……の物語 の なかにつねにはめ込 まれている」。。このように「 自己の生活史が共同体 の歴史 の中に埋 め込 まれ ,自 己の同一性が共同体を特色付 ける諸 目的によって部分的に構成 されたもの」 2)を

自我 の真の在 り方 と捉え ,サ ンデルはこれを「位置ある自我」と呼んだ。このように自我 の選択基 準が彼の生活す る共同体の歴史および善に規定 されるという考え方は ,サ ンデルだ けでな く ,

他の多 くの共同体主義者にも共通す る認識であった。。

このような共同体主義者の主張 は ,現 代社会において「公民 としての徳」が衰退の一途を辿 っ ていることを論 じたことで ,個 人 (私 )と 社会 (公 )の 関係の望ま しい在 り方をよ り根源的な レベルで問い返す契機 となったという点で意義がある。そ して ,こ れが「公的市民」論 の登場 を可能にす る社会的 0哲 学的文脈 となったのである。

しか しなが ら ,わ れわれはここで次のような リベラリズムか ら共同体主義へ向けられた反批 判 に耳を傾 けなければな らない。「共同体主義 にみ られる共同体の構成的優位性の観念 は ,  れを過度に強調・ 実体化するなら ,個 人を共同体の価値伝統やそこでの役割のなかに絡め とる ことによって ,個 人の自由を侵害す る恐れを妊んでいる」 0。 「 公」が「 おおやけ」す なわち

「 お上」 として受 け止め られる精神風土を もち ,「 公」への無 自覚 0無 批判 な寄 り掛か りが危 惧 される日本においては ,こ の リベラリズムか らの反批判に真摯に耳を傾ける必要がある。 リ バ ラリス トによって提示 された ,個 人を「 自己解釈的存在 (a sё lf¨ interpretaing being)」 と 捉える視点 は ,日 本において個人 と社会 (共 同体 )の 在 り方を考 え る上 で重要 な視点 である。

われわれが自己解釈的存在であるということは ,自 分の生活す る共同体の価値伝統 ,歴 史 ,役

割 は多かれ少なかれ最終的にはわれわれ自身の解釈 に依存 しているということである。共同体 を特徴付ける善の構想 も ,わ れわれの解釈を通 じて しか存在 しないことになる。善 は共 同体 の なかに「 ある」 ものではなく ,諸 個人の個性的なはた らきによって「創造する」 ものである。

この共同体の善を「創造する」という視点は ,「 参加」において も重要な視点 となる。そ し

て ,そ の視点を重視す る論者は ,少 数ではあるが ,共 同体主義者のなかにも認め られた。それ

が ,,次 章で取 り上 げる B.R。 バーバー (Beniamin R.Barber)で ある。井上 は ,共 同体主

(5)

義 を「 歴史主義的」 (「 特定 の共同体 の歴史 と伝統 の内に埋 め込 まれた共通 の善 き生の構想を , 成員 た る諸個人 の自同性 の基盤および自己実現 の指針 と して ,維 持・ 発展 させ ることを政治 の

目的 とす る立場」 )と 「 参加民主主義的」 (「 公共 の事柄 へ の共 同参加 と民主 的 自己統 治 に , 諸個人 の間 の共 同性 と絆 を求 める」 )に 分類 したが Lバ ーバ ーは後者 の陣営 に属す る。   :

3  「 参加」を通 して「 関係の豊か さ」を回復すること   一「 公的市民」論の可能性―

バ ーバ ーの論を検討す ることで ,「 個人を共 同体 の善 に繋 ぎ留 める」 とい う共 同体主 義 の も つ危険性 を明確 にで き ,共 同体 の善 を歴史や伝統 の呪縛か ら解放 しなが ら ,そ の善 が諸 個 人 の

「 参加」によ って創造 され るものであるとい うことに気付 くことがで きる。 そ して 同時 にその

「 参加」過程 は ,人 々の間の「 関係の豊か さ」 (「 共 に話 し ,共 に決定 し ,共 に行動す る」 )を

回復す る過程 で もあ る。

バ ーバ ーはまず現在の公民教育 (civic education)プ ログラムの問題点を次のように述べる 6

「 今 日の ほとん どの公民教育 は……公民的な知識 ,そ して ,政 治的判断 (公 的な問題 に関す る 個人的 な判断 )と 同一視 され る認知的な能力 と結 び付 いて きた」 0。 バ ーバ ー は近年 の公民教 育 が認知面 ばか りを強調 している点 に注 目 し ,そ こで育成 され るの は受動的な市民であ ると述 べ る。つ ま り「熱心 にテ レビのニュースを見て ,数 年毎 に行われ る選挙 にお いて投 票 で きる」

だ けの受動 的な市民 を育成す るのであ るな ら今 日の公民教育 で十分であろ うが ,「 もし生 徒 が 積極的 に公的な思考様式 に従事す るよ うにな り ,さ らに ,市 民活動 のすべての領域 にわ た って 思慮深 く参加す るよ うになることを望 む とす るな らば ,公 民教育 プ ログラムと社会科 プ ログ ラ

ムには ,実 際 の公民的経験―実際の参加 や権限付与一 とい う強力 な要素 が必要 となる」 0と

べ るのである。 このよ うな論調 は ,ニ ューマ ンが ,「 市民的資質教育 が失敗 して い る最 大 の原 因 は ,『 考 え ること』ばか りに学習の重点が置かれ ,『 行動す ること』が軽視 されて い る こと にある」 0と 分析 し ,70年 代 に「 参加 」学 習論 を主 張 した経緯 と同 じで あ る。 ニ ューマ ンは

「 公的市民」 とい う言葉を もって今 日の「参加」学習で育成すべ き市民像 を描 いたが ,バ ーバー

はほぼ同様 の意味で「 われわれの問題 として考 え られ る人間 (we¨ thinker)」 。 とい う市民像 を描 いた。さ らにその具体像が「 共 に話 し ,共 に決定 し ,共 に行動す る」 ことが で きる市民 で あ った。

政治学者 であ るバ ーバ ーの中心的な主張 は ,所 与 の共同体の共通 な善への統合 をめざす「 統 一的民主主義 (Unitary Democracy)」 を却 け ,民 主 的参加 プ ロセスを通 じて公共善 を創造 してゆ く「 強 い民主主義 (StrOng Democracy)」 を主 張す る ことにあ った

2の

。バ ̲バ ー は

「 強 い民主主義」を次 のように定義す る。「 強 い民主主義 とは単 に人 々が 自分 た ちを統 治 す る 人 々を選 ぶ とい うシステムで はな く ,コ ミュニテ ィのすべての メンバ ーが 自己統治 (self‐ goヤ e

mance)に 参加す るとい うシステムである。またそれは単 に代表者 を選 んだ り監視 した りす る ことを必然的 に伴 うだけでな く ,地 方・ 国家 レベルで コ ミュニティの出来事 に参与 してい くに とを必然的 に伴 うものである」 "。 つ ま り「 参加」によって ,私 的利害 に囚 われ た私 人 が ,公

共善 を志向す る公民へ と転化 し ,そ の結果 ,共 同体 の公共性 と共同体的紐帯 が新 たに創 造 され るとい う見方が ,バ ーバ ーの「 強 い民主主義」論 の中心である。

バ ーバ ーは ,1989年 ,雑 誌『 社会科教育 (Social Education)』 の特集号「 参加 的市民 的資

質 (Participatory Citizenship)」 において「公的 な会話 と市民行動 (Public Talk and Civic

Action)」 とい う論文 を発表 している。 この論文 は「共 に話 し ,共 に決定 し ,共 に行 動 す る」

(6)

アメリカ社会科の 「参加」 学習論における 「公 (public)」 概念の意味

ことのなかで も ,と りわけ「共に話す (common talk)」 に着 日し ,そ の今 日的意義を論 じた ものである。

バーバーは論文のなかで「共に話す」という言葉を用いず ,そ れに代わる言葉 として「 公的 な会話」という言葉を使用す る。彼 はそれについて次のように述べる。「政治的あるいは公的 な会話 は ,個 人内会話 ,科 学的会話 ,多 くの他の有益な一相対的には個人的であるけれ ど も一 会話の形態 とは全 く異なっている。公的な会話 とは ,共 通の問題一例えば ,公 共善一 につ いて 市民の間で共 に行われる会話のことである」

2つ

。バ ̲バ ーはこの「 公的な会話」が現代社会 に おいては縮小される傾向にあるという認識 に基づいて ,本 来「強い民主主義」と「 強 い市民的 資質 (StrOng Citizenship)」 の核 となる「公的な会話」の場を ,現 在 の公民教育 プ ログラム なかに設 けることが必要であると提言する。さらに ,バ ーバーは「公的な会話」の特徴 として 次の四つをあげる。「第一に ,そ れは話す ことと同様に聞 くことを必然的に伴 っている。第二 に ,そ れは認知的であると同時に情緒的である。第二に ,そ の意図は純粋な反省の世界か ら参 加 と行動の世界へ と向けられる。最後に ,そ れは個人的な表現方法 というよりはむ しろ公的な 表現方法であり ,し たがって ,そ れは従事 した市民のコミュニティヘの参加に依存す る」が。

第一の特徴において ,バ ーバーは ,  リベラリズムを「話 し手の暴力」と位置づ け ",会 話 に

おける「聞 く」側面に着 目する。それは ,会 話のなかに「他人の立場に身を置 き ,理 解 しよ う と努め ,わ れわれと似ている点を聞 こうと懸命に努める」のという部分があることを強調す る ためである。そ して ,こ の他人への「寛容性」こそ共同性の中心であると述べる。第二 の特徴 において ,バ ーバーは会話における情緒面に着 目する。バーバ早によれば ,現 在 ,会 話 は「 合 理性」の名の下に認知面ばか りを強調 して しまってお り

,共 感や愛情 といった情緒面を見失 っ ている。会話 とは本来人 と人 とを引き付 ける役割を果たすにも関わ らず ,会 話が人 と人 とを対 立 させ る機能を果た している。これでは ,共 同性がますます衰退す る ,  とバ ーバ ーは述 べ る。

第二の特徴 において ,バ ーバ ーは ,W.ジ ェームス (willia血 James)を 引用 しなが ら

2つ

,

「 公的会話」をプラグマティズムの一形態 と位置づける。その上 で ,「 会話 を通 して ,わ れわ

れは代わるべき未来を創造 し ,共 同体の像を構成することができる。……公的会話 は世界 につ いての会話ではない。それは ,世 界をつ くり ,世 界を作 り直す会話であ る」 "と 述 べ る。そ し

て ,バ ーバーの「公的会話」の説明で最 も重要であるのが ,次 の第四の特徴である。

第四の特徴についてバーバーは次のように述べる。「市民の問いは ,私 は何が欲 しいかでは な く ,何 がコ ミュニティにとって利益 となるかである。公的会話 は ,こ うして ,私 的 な思考 よ りもむ しろ公的な思考の性質をもつ。そ して公的会話 は ,市 民が一緒 に論議 したり考えた りす るような公的な場においてのみ実行 されるものである。本物の公的判断は ,単 ,部 屋 の中に 座 ったままで独力で開発す ることはできない。それは市民の相互作用の産出物である。そして , それは公衆が集 まる場においてのみ可能であり ,他 者の立場に立 って物事を考える能力を必要 とす るのである。以上のことを生徒に最 も良 く教えるためには ,次 のことに配慮すべきである。

すなわち ,そ れは ,参 加者が本当の決定を下す権限を有 してお り ,し か も参加者が共通 の関心 に基づ く課題を共有 している集団のなかで ,生 徒が市民 と共に作業す ることを許 さなければな

らない」 ")。 第一か ら第二 までの特徴が ,総 合的 に この第四の特徴 のなかで述 べ られて いる。

それは ,市 民の問いは「何がコミュニティにとって利益 となるか」であること ,そ の問 いは市

民相互の論議のなかで生 まれること ,そ の際には他者の立場に立 って考える寛容性が必要であ

ること ,し たが って ,「 参加」学習において「 公的会話」を重視するならば生徒が一市民 とし

(7)

て本 当の決定 を下せ るよ うな (本 当の市民 と共 に作業で きるよ うな )場 を提供すべ きで あ る こ と ,で あ る。

以上 の議論 によ り ,「 公的市民」および「 われわれの問題 と して考 え られ る人間」 の エ ッセ ンスが明 らか となる。それ は ,人 間相互 の「共同性」にある。

近年 の豊 か さ論 は「 カネやモノの豊かな社会」か ら「 人間の豊かな社会」をへの転換 を指 向 した ものであ る。さ らにその内容を詳 しく見てい くと ,「 人間の豊 かな社会」論 の内容 が ,具

体的 には「 量 の豊 か さ」に代 えて「 質の豊か さ」を追求す るだけで は不十分であ り ,そ の議 論 は「 関係 の豊 か さ」 まで及 ばなければ意味がないとす るもので あ る ことがわか る 80p。 「 参加 」 は正 に この点 で今 日的意義がある。すなわち「地域社会 における参加民主主義 の活性化 は ,地

域 ごとの多様性 を もた らす一方 ,地 域内で対立す る人々の間 に ,活 性 な論議 を通 じて相互理 解 を育 む ことによ り ,『 関係 の豊か さ』に貢献す る機能 を も ,確 か に もち うる」 "の である。バ▼

バ ーそ してニューマ ンが「 公的市民」論 において述べた人間相互の共同性 は ,「 参加 」 とい う 活動を通 して こそ陶冶 され る能力 である。

近年 の社会科 では ,フ ィール ドヮーク /ボ ランテ ィア /コ ミュニティ・ ゲス トなどの個人 と 共 同体 との関係 に着 目 した もの ,国 際理解教育 などの個人 と国際社会 との関係 に着 日したもの , 環境教育 などの個人 と個人を取 り巻 く環境 との関係 に着 目 した もの ,さ らにデ ィベー トや多文 化教育 など個人 と個人 の関係 に着 日 した教育研究が盛んであ るが ,そ れ らはみな「 関係 の豊 か さ」の貧困を憂慮 し ,そ の回復を願 って展開 されて いるものである。経済学者である馬 場 は次 のよ うに述 べ る。「 未曾有の高度成長 は ,だ れに も予想で きないテムポで 日本社会を富裕 化 し た。 この過程 で子 ど もたちは多 くの ものを奪 われ ,多 くの ものを与え られた。そのカタログを ,

もっと も単純 な形 でまとめれば ,奪 われた ものは ,自 然 ,労 働 ,仲 間であ り ,与 え られ た もの

は ,物 質的な豊か さ ,大 衆娯楽型情報 ,生 きる目的 と しての受験である。奪われた もの は ,す

べてが無駄 で非本質的だ とまではいえないが ,人 間存在 にとって不可欠 で もな く ,  しば しば過 剰 であ るがゆえに有害であ った。 この収奪 と過剰給付 のセ ッ トが ,子 どもたちの想像力 と創造 力 を枯渇 させ た」。 このなかで「 自然 ,労 働 ,仲 間」の喪失 はそれぞれ「 子 ど もと自然 ,子

もと労働 ,子 ど もと子 ども」の「 関係 の豊か さ」の貧困を意味 し ,「 物質的豊 か さ ,大 衆娯 楽 型情報 ,生 きる目的 と しての受験」の獲得 は「量 の豊か さ」 と「 質 の豊 か さ」の過 度 な強調 を 意味す る。本 当に大切 なのはどち らなのか。それ は明 らかに前者 の はず で あ る。 したが って ,

「参加」学習 は ,フ ィール ドワーク ,ボ ランテ ィア ,環 境教育 ,デ ィベ ー トな どの教育論 と無 関係 で はな く ,理 念上 そ して方法論上 セ ッ トに して考 え られ るべ きであ る。

4  「 参加」の前提 と しての「 不合意の共生」社会   「 公的市民」論の危険性―

しか しなが ら ,「 公的市民」論 には ,社 会科 において議論す る際に注意 しなければ な らな い 危険性 があ る。それは ,「 共 に話 し ,共 に決定 し ,共 に行動」 しなが らなされ る合意過程では , 合意 で きなか った人 々あ るいは合意過程 にそ もそ も参与 で きなか った人 々の生 を無視す る恐 れ を含んでい るとい うことである。「 共 に〜す る」過程 は ,個 人が「他人 の立場 に立 って考える」

過程 であ るか ら ,一 応理念上「個人の生」を認 めているよ うに もみえ る。 しか し ,「 公的市民」

論 が「 参加民主主義」 とい う一種 の政治論 に基 づいているか ぎり ,最 終的には多数決 とい う手 段 を とってで も「 合意」を求 めるのであ り ,そ の過程で上記のような「 合意で きなかった人々」

の生 を否定す る恐 れを含む ことになる。そ して ,こ れ こそが ,  リベ ラ リズムが共 同体主義 を批

(8)

アメリカ社会科の 「 参加」 学習論における 「 公 (public)」 概念の意味

判す るもう一つの論点 (他 の一つは ,第 2章 で言及 した「個人を共同体の善 に繋 ぎ留 めること によって『個人の生』を否定する」という批判であった )で ある。次の主張 は ,  リベ ラ リス ト である井上が「参加民主主義」の限界を示 したものであるが ,そ れは同時にバーバーおよびニュー マ ンの「公的市民」論が内包する危険性でもある。「地域内のコミュニケーションによる合意 形成 も ,隠 微 な社会的圧力による同調強制 と ,『 話の分か らない連中』の排除に化す危険性 を 内在 させている」 0。 「公的市民」論の今日的意義を認めつつ も ,そ れを社会科 のなかで論 じ るためには ,こ の「合意の強制」過程を考えてみる必要がある。なぜなら ,そ もそ も戦後社会 科 は戦前の「 隠微な社会的圧力による同調強制」を否定 したところを出発点 としているか らで ある。そ して ,戦 後社会科の象徴の一つである「公民」という概念が ,本 当にこの「 合意 の強 制」を払拭 しているのかどうかを ,今 日もう一度考えてみる必要性を感 じるのである。

バーバーの言葉を もう一度引用 してみる。「市民の問いは ,私 は何が欲 しいかではな く ,何

が共同体 にとって利益 となるかである。公的会話 は ,こ うして ,私 的な思考 よりもむ しろ公的 な思考の性質を もつ。そ して公的会話 は ,市 民が一緒に論議 したり考えたりす るような公的 な 場 においてのみ実行 されるものである」→。バ ーバ ーの この「 公的会話」論 が ,「 公的市民」

像を的確 に言い表わ した ものであることはすでに述べた。それは ,「 自分の生活す る共 同体 に とってどんな利益があるのかを常に考えなが ら行動できる」市民 ,さ らには「他の市民 と共 に 論議 し ,決 定 し ,行 動できる」市民をさした。そ して ,そ のよ うな「 公的市民」 は ,「 参加」

学習を通 してこそ育成できるということにもすでに言及 した。以上のことを十分 に認識 しつつ も ,同 時に次のような「公的市民」論の危険性に触れなければな らない。すなわち ,第 一 に ,

バーバーの上記の論述では「何が共同体にとって利益 となるか」と問える人間を「市民」 と捉 えているが ,そ のような問いはともすると「最大多数の最大幸福」 という功利主義 に基づ き , 共同体の利益 とは時には対立する少数者の利益を否定す る危険性を含んでいる。第二 に ,バ

バーの論述では「一緒に論議 したり考えたりするような公的な場」を重視 しているが ,  この公 的な場 にそ もそ も参与できない人間のことは十分には考え られてお らず ,し たが って「 公的会 話」を通 じて得 られた「合意」も少数者の意見を反映 していないという危険性が十分考え られ

る。

同 じようなことは ,ニ ューマ ンの「参加」学習論にも言える。本稿の冒頭に載せたニューマ ンの言葉を引用 してみる。「社会参加活動を計画する際のわれわれのヴィジョンは ,次 の教育 のニーズに基づ くべきである。それは ,私 的利益を増進するために参加す る人々を育成す るこ とではな く ,む しろ ,公 共善 (public good)を 追求す る過程で合意 をつ くり出そ うとす る公 的市民 (public citizen)を 育成す ることである」 0。 私的利益 に囚われた人 々に代 わ る ,公 共 善 の追求 に全力を尽 くす人々をニューマ ンは「公的市民」という言葉で言 い表わ してお り ,そ

の概念 自体 はバーバー同様今 日的意義が大 きい。しか しなが ら ,最 終的に「 合意」を創 り出そ うとす る限 り ,合 意できない人の意見を否定するという危険性を常にはらむ ことになる。 もち ろんニューマ ンは以前に「参加」が個人の「 自己決定 (self¨ determination)」 権 を行使す る 機会を提供す ることを述べている。そ してその際 ,次 のような発言を した。「 もし集合的な自 己決定 という名 において ,大 衆が入種 と宗教 に基づ く区別を通 してマイノ リティの権利を否定

しようとす るな らば ,そ の時大衆の参加 は制限されなければならない」 35D。 このよ うにニュー マ ンの「参加」論か らは ,少 数者の生を保護する視点を認めることもできる。 しか しそれで も

「 合意」を求める過程が ,時 として少数者の生を踏みにじる危険性を は らんでいることは否定

(9)

で きない。興味深 いことに ,80年 代以降 のニューマ ンの「 参加」学習論 のなかに は「 公」 へ の 言及が多 く見 られ るに も関わ らず ,そ の一方 で「 マイノ リテ ィの権利」への言及 はほ とん ど見

られないのであ る。

以上 の主張 は ,日 本 ではよ り深刻 な問題 と して受 け止 めなければな らない。日本型順 応主 義 が少数者 の意見 を踏 みに じる危険性 は ,西 洋 の諸国家 よ りも極 めて高 くな ることは容易 に予想 で きる。実際 ,西 洋型 コ ミュニテ ィとは異 なる日本型地域共同体 で は ,「 よそ者 を排 除 す る」

傾 向が以前 と して根 強 く残 ってお り ,地 域づ くりに少数者 の意見が反映 されない ことも少 な く ない。 もちろん ,近 年 では草 の根的な活動 である「 まちづ くり」「 む らお こし」が盛 ん とな り , 一見す ると少数者 の意見 も多数者 の意見 と同様 に尊重 されて いるよ うに も見え る。 しか しなが

ら ,そ の過程 で育て られ る「『 私 たちのまち』意識 は ,『 ここは私 たちのまちだか ら ,私 た ち

の流儀 に従 って もらいたい』 とい う意識 に ,従 って また ,非 同調的な少数派住民 に対 す る多数 派住民 の排他性 と不寛容 に転化す る危険性 に対 して ,決 して永久免疫 を与 え られて いな い」

86D

のであ る。

本章 で は ,「 公的市民」論を論ず る前提 として ,「 個 の尊重」や「 個 の自律」 とい う自我 の もつ普遍的 な意義を認 め ることが必要 であると述べた。 もしその意義 を認 めな い とす るな ら , それ は自我 にお ける不合理 な権威 に対す る批判的精神 の側面 ,そ して異質 な生 に対す る寛容 的 精神 の側面 を見落 とす ことを意味す る。日本人の過剰 な「 依存性」や「 事 なかれ主 義 」 は ,  の フィルターを一度 は通す必要があろ う。つ ま り ,日 本 にお いて こそ異質 な もの との共生 ,異

端 の容認 が前提 にされ るべ きであ り ,共 同性 (共 同主義 )が 同質性 (集 団主義 )に 矮 小化 され ないために も「共生」

3つ

の理念が必要 となるのである。法哲学者 であ る小畑 の言葉 を借 りれ ば ,

「 合意 の強制」か ら「不合意 の共生」社会への転換 が ,「 公的市民」論 を主 張す る前提 と して 必要 となるのである 0。

5  おわ りに   一「 公民」概念の問題点一

̀public'  とい う語 は一般的には「 公」や「公的」 と訳 され るよ うで あ るが ,  ここで は「 公 共性」 と して考 えてみたい。そ うす ることで ̀public'が そ もそ も「 公」 の側面 と「 共 」 の側 面 とい う二面性 を持 つ ことが明確 となるか らである。題 目に掲 げた「『 参加』学習論 にお け る

『 公 (public)』 概念 の意味」 とは ,「 参加」学習 において ̀public'に つ いて考 え る際 に は こ の二面性 を考慮 しなければな らないとい うことを言 い表 わ して いる。

民主社会 は本来「 共」的に治 めるのが最 も柔軟性 に富んで いる。 しか し ,近 代化 の諸 過程 は

「 公 =お おやけ =お 上」 とい う図式を確立 し ,そ の結果「 公共性」 のなかか ら「 共 」 の要素 を 締 め出 して しま った。そればか りか ,し ば しば「 公共性」はむ きだ しの権力 その ものを意 味す ることさえあ った。現代社会の病理現象 であ る「差別」「 暴力」等 は ,こ の「 公」 の要素 の拡 大強化 と深 く関わ っている。

本稿 で明 らか に した「 公的市民」論 の可能性 と危険性 は ,以 上 の文脈 のなかで論 じられ た も のであ る。す なわち ,民 主社会の実現 に貢献で きる市民 の育成 を 目標 とす る社 会科 教育 で は ,

̀public'に おける「 共」の要素 に焦点が当て られて然 るべ きであろう (→ 「 公 的市民 」論 の 可能性 )。 「 参加」学習 は正 にこの点 で今 日的意義 がある。一方 , ̀public'の なか には「 公」

の要素 もあ ることを忘れてはな らない。つま り ,「 共」の拡大が同質性・ 排他性 と結 び付 くこ

とで容易 に「 公」へ と変化 し ,多 数者 による少数者 の生 を抑圧す ることに もな り兼 ね な い とい

(10)

アメ リカ社会科の 「 参加」 学習論における 「 公 (public)」 概念の意味

うことであ る (→ 「 公的市民」論 の危険性 )。 「 参加」学習 はこの点 を十分 に考慮 しな ければ な らない。

また ,以 上 の議論 に基づ けば ,日 本 の社会科 にお いて現在 日標 として掲 げ られて いる「 公民 (的 資質 )」 概念 の問題点 を指摘す ることもで きる。 ここで「 は じめに」 で掲 げた観点 を もう 一度確認 してお くと ,そ れ は ,第 一 に「『 公的市民』論 の可能性 と関わ って ,『 公民 』概 念 の なかに『 公』な領域を『 共』に創造 しよ うとす る『 関係の豊かさ』の視点が生かされているか」

,そ して ,第 二 に「『 公的市民』論 の危険性 と関わ って ,『 公民』概念の なか に アイ ヌや在 日 韓 国・ 朝鮮人等 の異質 な生 に対す る配慮がなされて いるか」の二つであ った。

「 公的市民」論 を踏 まえて ,わ れわれ は ,「 公民」が「 オオ ミタカラとしての公民」 で はな く ,「 公共 的空間を『 共』的な活動 によって絶 えず創造 しよ うとす る公民」であ る ことを もう 一度確認すべ きであ る。「 公民」は統治 され るべ きスタテ ィックな人間ではな く ,社 会 を創造 す るダイナ ミックな人間でなければな らない。そのために ,社 会科で は ,子 ど もを社 会 の一 員 とみな し ,地 域住民 と子 ど もが共 同作業 (common wOrk)で きる場 を設 定 す べ きで あ る。 そ のよ うな視点か ら現行指導要領をながめて見 ると ,地 域住民 と子 ど もの共同作業 に触 れて い る の は ,わ ずか に小学校第二学年 の「 2内 容」の (1)に おける「 …… 自分 も社会の一員 と して協力 で きるよ うにす る。」 とい う一箇所 に過 ぎない。発達段階を考慮すれば ,学 年 が上 が るにつ れ て地域住民 との共同作業 の場 が多 く設定 されて然 るべ きだと考え るが 0,第 二学年以降 脇 力」

とい う言葉す ら見 られない。 もちろん「 現場では地域住民 との交流を社会科 のなかで積極 的 に 取 り込 む傾 向にある」 とい う主張 もあろ う。確かに ,清 掃活動 や福祉活動 などを社会科 に取 り 込 む試 み は ,徐 々にで はあ るが一部 の社会科教師によってなされて きてお り ,今 後 その よ うな 体験的 な学 習が増 え ることを期待 したい。 しか しそれ らの実践 の多 くにおいて ,子 ど もは社 会 の一員 ではな く依然 として「子 ども」のままである。子 どもによる清掃活動 や福祉活動 が社会 の一機能を担 うことは稀 であ り ,そ れ らの活動内での地域住民 の役割 も ,子 ど もと共 に作 業 す るパ ー トナーには程遠 く ,多 くの知識を もった「 大人」 という位置づけになっている。地域社 会 とい う現実 の場 において こそ ,子 ども一人 ひとりは個性的な役割 を発見 し ,社 会 にお け る自 己の存在証 明を獲得す る。現実 ゆえに逃 れえないさまざまな拘束のなかで ,苦 悩・ 葛藤 0衝 を経験す ることで ,は じめて子 どもは社会の一員 と しての 自覚を もつよ うになるのである。

また ,現 在 の「 公民」論 のなかには異質の生 に対す る配慮が十分 になされていない と思 われ る箇所 があ る。例 えば学習指導要領「社会」の第 3学 年 にお け る「 ¨ "・ 地域 社 会 の成 員 と し ての 自覚 を育て る」 く1目 標 (1)〉 ,「 :・ …・地域社会を大切 にす る態度を育 て る」 〈1日 標

(2)〉 などはその例である。これ らは社会学者である Ro M.マ ッキーバ ー (Ro Mo Maclver) が「 われわれ意識 (we̲feeling)」 という言葉で表現 したものである。「 われわれ意識」 とは 共同利害関心を もち ,か つ共同生活を送 るところに生ずるものであり ,簡 単に述べれば ,そ

はわれわれの村 ,町,市 等を大切に しようとす る意識にほかならない。地方 における共同体 の 崩壊 ,都 市における共同体的な意識のつなが りの欠如 といった現代社会の特徴を考えれば ,  のような「 われわれ意識」を社会科を通 して育成することには重要な意義がある。しか しその 一方で ,次 のような「 われわれ意識」の側面にも目を向けなければならない。「われわれの町 , 市 ,地 方 ,そ してわれわれの民族が特にそうだが ,そ れ らが避難 された りおびやかされた りす

るとき ,心 の中にわきあがって くるのがこの感情である。民族の防衛のために私的犠牲がはら われるの もしば しばである。…・ ,0そ の結果 ,人 はその集団と離れがた く結びついていると感 じ

41

(11)

る。す なわち彼 にとっての コ ミュニテ .ィ は ,『 彼 の家であ り ,彼 の血 をわ けあ った同族 (h6me of his home amd flesh of his flesh)』 なのである」 0)。 このよ うに「 われわれ意識」が容易

に「 家意識」や「 同族意識」 と結 び付 く可能性 のあることで ,わ れわれ は社会科 にお け る「 公 民」概念 が「 公民 の共同体」へ と変化す る可能性 のあることを確認 しな ければ な らな くな る。

「 公民 の共 同体」の問題点 は ,こ の理念 が公民的生 とい う特定 の タイプ に属 す る生 の諸 構想 を 賛美 し ,そ の受容を各個人 に迫 ることにある。つま り ,「 公民」概念を振 り騎す ことで ,ア

ヌや在 日韓 国 0朝 鮮人 ,さ らには障害者 など少数者 として切 り捨て られて きた異質 な生 が ,公

民 的教化 の対象 とな る恐 れがでて くる。各個人 自 らの生 は本来 自由に発見 し ,創 造 し ,選 択 す る ものであ るか ら ,こ れは基本的権利 の侵害 とも言 え る。 したが って ,社 会科 において多文化 教育 および人権教育 などが盛んに議論 され るよ うになった今 日こそ ,社 会科 の 日標 に「 公民 」

とい う人間像を掲 げ ることの意味を ,も う一度真剣 に考えてみ るべ きであろ う。

【鷲 主】

1)Newmann,Fred M。 (1989)。 Reflective Civic Participationo Sο ctα J Eα cα ι jο,53‐ 6。

p.357.

2)70年 代の「参加」学習論では個人内の批判的精神の陶冶に主眼が置かれたのに対 して ,近

年のそれは個人間の共同性の陶冶に主眼が置かれている。この点 はすでに次の拙稿 において 明 らかに したので参考 されたい。「 アメ リカ社会科における『 参加』学習論 の展開   一 F.

M.ニ ューマ ンの『参加』論を中心 に一」 日本社会科教育学会『 社会科教育研究』 No.72, 1994年 ,pp.44‐ 56.

3)こ の「関係の豊かさ」論に関 しては ,法 哲学者である井上達夫の論稿 を参考 に した。井 上達夫・ 名和田是彦 0桂 木隆夫『共生への冒険』朝 日新聞社 ,1992年 ,pp.94‐ 108。

4) Parker,walter C。 (1989)。 Participatory Citizenship: Civics in Strong Sense.Sο cjα J

ユ勉 cα ι jο れ ,5316.p.357.パ ーカー ,ニ ューマン ,そ して第二章で取 り上げるバーバーといっ たメンバーによって編まれた『 社会科教育 (Social Education)』 の特集号「 参加的市民的 資質」 (1989年 )は ,70年 代 に一世を風靡 しその後鎮静化 した「参加」学習論 を ,今 日的 な 意味で もう一度見直す ことを目的 として編集 されている。

5)ロ バー ト ON・ ベラー (島 薗進・ 中村圭志訳 )Dい の習慣   一 アメ リカ個人主義 のゆ く え一』みすず書房 ,1991年 ,p.破 。

6)ト クヴィルは次のように述べている。「利己主義 は一切の徳の芽を枯 らすが ,個 人主義 はさ しあたり ,公 的な徳の源を涸 らすだけである。しか し ,永 い間には他のすべての徳を攻 撃 ,破 壊 して ,つ いには利己主義に吸収 されてい く」。 (ト クヴィル (岩 永健吉郎 0松 本礼 二訳 )『 アメ リカにおけるデモクラシー』研究社叢書 ,1972年 ,pp.96‐ 97.)

7)井 上達夫「共同体論   一その諸相 と射程一」日本法哲学会編『 法哲学年報  1989  現代 に おける 〈 個人一共同体一国家〉』有斐閣 ,p.9。 井上 は「単一 の く主義〉で はな く ,必 ず し も予定調和の関係のない複数の異なった く 主義〉の複合体 だか ら」 (p.20)と い う理 由で ,

「共同体論 (communitarianism)」 という訳語を用いる。 しか し本稿ではより汎用性が高 い と思われる「共同体主義」という訳語を用いた。

8)ハ ーバー ド大学の政治学教授であるサンデルは ,共 同体主義の立場を「近年最 も明確 に ,

(12)

アメリカ社会科の 「 参加」 学習論における 「 公 (public)」 概念の意味

且つ強力 に展開 した」 (井 上達夫「 共同体 の要求 と法 の限界」『 千葉大学法学論集』 4巻 1号 , 1989年 ,p.130。 )人 物 である。サ ンデルの他 に も A.マ ッキ ンタイア (Alasdair Maclntyre) や M.ウ ォルツ ァー (Michael Walzer)ら 著名 な共 同体主 義者 はい るが ,井 上 の言 葉 に も あ るよ うに「 最 も明確 に」 リベ ラリズム批判を行 ったのはサ ンデルであ り ,し たが って本稿 で も彼を取 り上 げることと した。

9)ロ ールズ (矢 島釣次監訳 )『 正義論』紀伊國屋書店 ,1979年 ,p.437.サ ンデルの リベ ラ

リズム批判 は結局 の ところロールズの「正義論」批判 であ った。

10)サ ンデル (菊 池理夫訳 )『 自由主義 と正義 の限界』三嶺書房 ,1992年 ,p.対

ii。

11)前 掲書

̀p.対

v。

12)井 上達夫『 共生 の作法   下会話 としての正義―』創文社 ,1986年 ,p.233。

13)例 えば ,A.マ ッキ ンタイア (Alasdair Maclntyre)は 次 のよ うに述べてい る。「 (共 和 主義 の )伝 統 の中心 にあ るのは ,個 人的欲望 と利益 の総計 に先立 ち ,そ れ とは独立 に性格 づ け可能 な公的 な善 (public good)と い う観念である。個人 に徳 が あ るとは ,そ の公 的 な善

を個人 の行動 に対す る基準 として認 めて いることに他 な らないのだ。」 (ア ラスデ ア・ マ ッ キ ンタイア 〈篠崎榮訳〉『 美徳 なき時代』みすず書房 ,1993年 ,p.289。 )さ らに R.N.ベ

ラー (Robert ǸBellah)も 次 のよ うに述べている。「 真 の共 同体 とは『 記憶 の共 同体』 , す なわち自 らの過去 を忘れ ることのない共同体であると言 うことがで きる。過去 を忘れ な い

よ うに ,共 同体 は自 らの物語 を ,自 らの成 り立 ちを語 る物語 を継承 し ,ま た共 同体 の意 味 を 体現 し例示す るよ うな男 たち女 たちの姿勢を教 え る。」 (ロ バ ー ト ON・ ベ ラー『 心 の習慣

一 アメ リカ個人主義 のゆ くえ―』,p.186.)

14)平 井亮輔「 正義 0対 話 0デ モクラシー (― )一 ハ ーバ マス と正義論 の可能性一」京都 大学法学会『 法學論叢』第 130巻 第 2号 ,1991年 ,p.43.

15)井 上達夫「 共同体論   一 その諸相 と射程一」 ,pp.11‐ 121  なお平井 は前掲論 文 にお いて ,

「 歴史主義 的」を「 統合主義的」そ して「 参加民主主義的」を「 参加主義 的」 と も言 い換 え て いる。 (p.39。 )

16) Barberぅ Benjamin R。 (1989).Public Talk and Civic Action:Education for particip‐

ation in a Strong]Demcracyo Sο cjα J Eご cα ι jο,53‐ 6. p.335。

17) Ibid。          '

18)Newmanni Fred M。 (1975).Eれ ι jο /or(策 ι ttθ れ ス cιjο rCん α JJa裂 ダ ο/or SeCο れαα ry

CEtrric J 脇 .Berkeley,California:McCutchano p.4。 な お 当書 に は ,ニ ュ ー マ ンの「 参 加」学習 に関す る考 え方 ,お よび「 参加」学習 カ リキュラムの枠組みが提示 されて い る。筆 者 は本書 を ,ア メ リカにおける「 参加」学習の出発点 とみなす。

19)Barber,Benjamin R。 (1984).&rο れ g Dθ ttο cracyr」 Rじ jο わαι O句POκ ι jcs/or  α 屁 ″ ス gο . Berkeley, California: University of California Press. p.153。

20)バ ーバ =は まず「 政治形態 (Regime Form)」 を「 代議制民主主義 (Representaive Democracy)」 と「 直接民主主義 (Direct Democracy)」 に分類 す る。バ ーバ ーによれば

「 代議制民主主義」 は貧弱 な (thin)民 主主義 であ った。さ らに ,バ ーバ ーは「 直接民主主義」

を「 統一的民主主義」 と「強い民主主義」に分類す る。バーバーによれば ,統 一 的民主主 義

は「 合意」 という政治 モー ドによって定義 され ,し たが って理想的には共 同体 の意 志 を満場

一致 で決定 しよ うとす る。そのため ,統 一的民主主義 の下 では ,時 と して「個人 は 自己放棄

(13)

(self‐ abandonment)を し ,自 己を集合体 に溶 け込 ませ る ことで ,公 民 と して の アイ デ ン テ ィテ ィを確立す る」 ことになる。 しか しなが ら ,こ のよ うな集合体 (共 同体 )へ の 自己の 自同性 は ,「 明 らかに自律性 を喪失 させ ,究 極的に市民的資質 その ものを堕落 させ る ことに もな る」 (p■ 48。 )。 こうして ,統 一的民主主義 は全体主義 へ と進 む危 険性 を妊 む ことにな るのであ る。

21)Barber,Beniamin R.(1989).p.335。

22)Ibid.

23)Ibid.

24)バ ーバ ー は次 の よ うに「 話 し手 の暴力」 につ いて述 べて いる。「 代議制 にお いて話 す (speaking)機 能 は ,聞 く (listening)機 能が弱め られ る一方で強め られ る。……アングロ 0 アメ リカにお ける諸 システムは話す ことにプ レミアを与え ,聞 くことにペナルテ ィを与 えて い る。 …… その システムにお け る話 す機 能 は攻 撃 の形 態 を と り ,単 純 に は一 種 の権 力

(power)で あ る。それは他の手段 によって実行 され る ,す べての ものに反対す る戦争 (wa→

であ る。」 (Ibid,p.356.) 25)  Ibid.

26)バ ーバ ーは ,次 のよ うに会話 に関す る哲学を批判す る。「哲学者 と法学者 は次 の よ うな罪 を犯 した。すなわち ,完 全 に合理的な会話を媒介 に して ,完 全 に合理的な世界 を創造 しよ う と した ことで ,会 話 を過度 に合理化 して しまった。」 (Ibid。 )

27)バ ーバ ーは ,ジ ェームスのプ ラグマテ ィズムを「 第一 の物事 ,原 ,カ テ ゴ リー ,予 想 され る必然性 の方 向を見 ることを離 れ ,最 後 の物事 ,成 果 ,結 果 ,事 実 の方向を見 る とい う 態度」 (Ibid.)と 捉 えて いる。

28)Ibid.

29)Ibid.

30)近 年 の最 も典型的な豊か さ論 は ,次 の文献 である。暉峻淑子『 豊 か さとは何 か』岩波新 書 ,1989年 。暉峻 は次 のよ うに述べ る。「 日本人 にとって人 と人 とのかかわ りは ,多 くの場 合 ,商 品や カネのや りとりで しかない。人間全体 が ,モ ノとカネ ,経 済 の中にのみ こまれて しま って いるのである。そ こに人間の復権 を もた らそ うとす るな ら ,共 同体的な場 を ,私

ちは意識 的に構築 して いかなければな らない。 くり返 しになるが ,人 間の自由は ,孤 立 か ら

で はな く ,連 帯す る生活基盤があ って ,は じめて可能だか らで あ る」 (p.232.)。 「 参加 民 主主義的共同体主義」の主張 とも受 け取 ることので きるものであ る。

31)井 上達夫 0名 和 田是彦 0桂 木隆夫『 共生への冒険』,p.101.

32)前 掲書,p.102.

33)Barber,Benjamin R.(1989).p.336.

34)Newmann,Fred M.(1989).p.357.

35)Newmann,Fred M。 (1980).Political Participation:An Analytic Review and pro‐

posal. In Derek Heater and Judith A. Gillespie. Pο

ttι

jcα J Ed cα ι jο れ  jれ  FJ κ . London and Beverly Hills: SAGE Pulications.p■ 61.

36)井 上 達 夫 0名 和 田是 彦 0桂 木 隆 夫『 共 生 へ の 冒険 』 ,p.78。

37)本 稿で参考 にした「共生」論 は ,本 文のなかで も度々言及 している井上の ものに負 うて い

る。井上によれば最近よく使われる「共生」という言葉 は ,多 くの場合 ,「 みんな仲良 く生

(14)

アメリカ社会科の 「参加」 学習論における 「公 (public)」 概念の意味

きる」 とか「互 いに優 しく ,気 配 り して生 きる」 とい った意 味 で使 われて い る。つ ま り ,

「 調和」や「 協調」 とい うイメー ジにおいて ,そ の言葉 は使 われて い るので あ る。 しか し井 上 が主張す る「 共生」 はこれ らとは異 な ると して ,次 の よ うに述 べ る。「 我 々の い う 《共 生》 とは ,異 質 な ものに開かれた社会的結合様式 である。それ は ,内 輪 で仲 く共存共 栄 す る ことではな く ,生 の形式 を異 にす る人 々が ,自 由な活動 と参加 の機会を相互 に承認 し ,相 互 の関係 を積極的に築 き上 げてゆけるよ うな社会的結合である」 (前 掲書 ,p.25。 )。

38)小 畑清剛『 レ トリックの相剋   一合意 の強制 か ら不合意 の共生ヘー』昭和堂 ,1994年 ,参

照。

39)ア メ リカにおける「 参加」学習 は中等教育段階 ,と りわ け高校 に焦点 を合 わせ て展 開 さ れて いる。また ,ニ ューマ ンらによる調査研究 は興味深 いデータをわれわれに提供 して くれ る。 (Newmann,Fred M.,and Robert A.Rutter。 (1986)。 A Prpfile of High School Community Service Programs.Ettcα ι jο ttα J Lθ α Jarsん ゎ ,43‐ 4.pp.64‐ 71.Rutter,Robert

A。 ,and Fred Mo Newmann。 (1989).The Potential of Community Service to Enhance Civic Responsibility.Socjα Jユ 勉 cα ι jο,pp.371‐ 374.)彼 らによれば ,全 国の高校 の約 27%

が コミュニティ .サ ー ビスに関するプログラムを有 しており ,1984年 の段階で実際に6.6%の 生徒がプログラムを履修 していた。これは ,学 校 とは関係のない地域 のボ ランテ ィア活動 , 具体的には教会やコミュニティの諸団体が主催す るコミュニティ ・ サー ビス活動 を当然含 ま ない数字である。

40)Ro M.マ ッキーバー ,C.H.ペ ージ (若 林敬子 0武 内清訳 )「 コ ミュニティと地域社 会感情」『 現代のエスプ リ  68  コミュニティ』至文堂,pp.26‑27.

45

参照

関連したドキュメント

音節の外側に解放されることがない】)。ところがこ

2Tは、、王人公のイメージをより鮮明にするため、視点をそこ C木の棒を杖にして、とぼと

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

の総体と言える。事例の客観的な情報とは、事例に関わる人の感性によって多様な色付けが行われ

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ