著者 野上 建紀
雑誌名 金大考古
巻 52
ページ 19‑23
発行年 2006‑04‑15
URL http://hdl.handle.net/2297/2986
有田・白焼窯調査報告
1 はじめに
白焼窯跡は佐賀県有田町幸平に所在する。有田町幸 平 1476-5 駐車場建設に伴う確認調査を 2002 年 11 月 13 日〜 27 日に行った結果、窯体の一部が発見された。
2 調査方法
安政 6 年(1859)の『松浦郡有田郷図』(Fig.2)に 描かれた白焼窯の位置と地籍図によって、おおよそ幕 末時の窯体の位置を推定し、その範囲の表土を除去し た。そして、幕末時の白焼窯跡を検出した後、工事に よる掘削によって影響を受ける部分の発掘調査をする とともに、攪乱土壙を利用したトレンチを設定して、
発掘調査を行った。
野上 建紀
3 調査結果
①遺構(Fig.4、Pl.1 〜4)
1号窯と2号窯の2基の連房式階段状登窯が検出さ れている。1号窯は安政 6 年(1859)の『松浦郡有田 郷図』に描かれている登り窯であろうと推定される。
1号窯は焼成室が3室検出されており、下からA室、
B室、C室と名付けた。焼成室では奥壁、側壁、砂床、
火床が確認されているが、後世の攪乱により床面はか なり破壊されている。奥壁はA室及びB室で確認され ている。奥壁の幅は 40 〜 50cm である。A室とB室 の高差は約 90cm、B室とC室の高差は約 1 mである。
側壁はA・B・C室で確認されている。いずれも西側 のみ確認されており、東側の側壁は調査区外にあたる。
そのため、焼成室の横幅の計測はできなかった。焼成 室の奥行はB室のみ計測可能であり、4.48 mである。
側壁の位置からA室はB室より横幅が狭く、C室はB 室より広かったと推定される。『松浦郡有田郷図』と現 地形図を対照させてみると、A室の位置が4室目(胴 木間を除く)にあたる。すなわち、B室、C室はそれ
Fig.1 白焼窯跡位置図
Fig.2 『松浦郡有田郷図』安政 6 年(1859)
Fig.3 白焼窯跡周辺現地形図
Pl.1 調査区全景(手前から A,B,C 室) Pl.2 1 号窯 B 室床下
Pl.3 1 号窯 A 室・2 号窯 A 室 Pl.4 1 号窯 B 室床下整地面(6b 層上面)
1 赤褐色砂層 粘性・しまりなし。(2a層)
2 黄白色〜赤褐色粘土層 固く焼き締まる。(3a層)製品は 18 世紀末〜 19 世紀初。
3 赤褐色土 粘性なし。ややしまっている。(4a層)製品は 17 世紀後半が主。
4 暗褐色土 焼土を含む。粘性・しまりなし。(5a層)
5 暗黒褐色土 粘性あり。しまりなし。(6a層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
6 黒褐色土 炭を大量に含む。粘性・しまりあり。(6b層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
7 黄褐色土 + 赤褐色土 + 黒褐色土(7a層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
8 黄褐色土 粘性・しまりあり。(7b−1層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
9 暗褐色土 粘性・しまりなし。(7b−2層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
10 赤褐色土 粘性・しまりなし。(7b−3層)製品は 17 世紀後半が主、19 世紀を含む。
11 黄褐色土 + 赤褐色土 粘性・しまりあり。(8a層)
12 赤褐色砂層 粘性・しまりなし。(8b層) 製品は 18 世紀が主。
13 黄褐色土 窯壁片・ハマ・製品からなる。
14 黄褐色粘土
15 赤褐色土 ハマ・製品からなる。製品は 18 世紀が主。
Fig.4 白焼窯跡検出遺構平面図・土層図
ぞれ5室目、6室目あたりに相当する(Fig.2・3)。当 時の肥前の登り窯では一般的に焼成室の 10 室目あた りまで焼成室の規模が下から上へ拡大する傾向にあ り、検出結果と合致する。
2号窯は1号窯のA・C室の床下で奥壁、床面が確 認されている。B室床下では後世の土壙断面に床面の 断面を確認したのみである。1号窯と同様に下からA 室、B室、C室と名付けた。いずれも側壁は確認され ておらず、焼成室の横幅は不明である。焼成室の奥行 はB室とC室を合わせて 7.6 mであり、平均約 3.8 m となる。
調査区内で最も古い堆積層は2号窯の造成面の下の 土層(8b 層)及び2号窯床下土層である。これらは 2号窯築窯時の造成の際に埋め込まれたものか、それ 以前の窯の物原堆積層と推定される。そして、2号窯 の構築土層(8a 層)、1号窯の築窯時の埋め込み土(7 b 層〜6a 層)、1号窯の構築土(5a 層〜3a 層)、1 号窯の床砂(2a 層)の順に堆積している。6a 層の 上面には大ハマが敷き詰められており(Pl.4)、5a 層
〜4a 層の高さでは側壁の下にトンバイが2段重ねら れており、側壁下部の基礎としている。4a 層〜7b 層は1号窯築窯時に堆積したものであるが、遺物の大 半は 17 世紀後半の製品と窯道具であり、19 世紀初め 頃の製品は少量出土するのみである。19 世紀初め頃の 製品と窯道具は2号窯の製品と推定されるが、17 世紀 後半の製品と窯道具は2号窯とは異なる窯の物原から 整地用に持ち込んだものであろう。3a 層は上部が白 く、下部が赤褐色に変色した焼き締まった粘土層であ り、2a 層は赤褐色の砂層である。
そして、1号窯の構築土層及びその下層からは 18 世紀末〜 19 世紀第1四半期頃の製品が出土する。そ して、2号窯の構築土層及びその下層からは 17 世紀 末〜 18 世紀第3四半期頃の製品が出土する。よって、
1号窯と2号窯の築窯時期はそれぞれ 19 世紀前半、
18 世紀後半と推定される。
②遺物(Pl.5・6)
出土遺物は 17 世紀中頃〜 20 世紀に及ぶが、1層で は廃窯後に廃棄された生活遺物が多く含まれており、
確実に白焼窯に伴う遺物は2a 層以下の遺物である。
最も生産年代がさかのぼりうる製品は青磁・透明釉掛 分け碗であり、見込みに菊花文が入るものである。次
いで染付見込荒磯文碗・鉢などの鉢類、染付芙蓉手皿 などが続く。
出土遺物は(1)廃窯後の現代遺物[1層]、(2)
1号窯の製品と窯道具[1層の一部・2a 層]、(3)
2号窯の製品と窯道具[3a 層〜7b 層の一部]、(4)
2号窯以前の製品と窯道具[3a 層〜7b 層の一部、
8b 層・2号窯床下]に分けられる。
(1)〜(3)の遺物の年代は概ね(1)20 世紀、(2)
19 世紀、(3)18 世紀後半〜 19 世紀初である。(4)
の年代は 17 世紀後半の遺物(3a 層〜7b 層の一部)
と 17 世紀末〜 18 世紀後半の遺物(8b 層・2号窯床 下)に分かれる。8b 層は2号窯の前の窯(仮3号窯 と称す)の物原であった可能性が考えられ、1号窯や 2号窯の窯体の位置に仮3号窯の物原が形成されてい た可能性が高い。そして、1号窯を築く際に埋め込ま れた3a 層〜7b 層の中には8b 層に見られる製品と共 通するものはあまり見られないため、17 世紀後半に操
Pl.5 1 号窯 B 室床下埋め込み
Pl.6 2 号窯 C 室床下出土遺物
業していた窯の物原は仮3号窯の物原の位置とは異な ると思われる。そのため、17 世紀末〜 18 世紀後半に 操業した窯とは別の窯であった可能性が高い。よって、
1号窯・2号窯以外に少なくとも2基以上の窯があっ たと推定される。
4 まとめ
幸平山の文献上の初見は、西有田町の『竜泉寺過去 帳』の万治 2 年(1659)「幸平山八左衛門子」の記載 である。以後、寛文 7 年(1667)「幸平山八左衛門」、
延宝 8 年(1680)「下幸平山賀左衛門母」と続く。製 品の器種組成そのものは谷窯と類似しており、白焼窯 は谷窯とともに 17 世紀後半の「幸平山」・「下幸平山」
に該当するものであろう。ただし、谷窯との関係は明 らかではない。谷窯でも 17 世紀代の窯体は確認され ておらず、白焼窯と谷窯の間にある現在の墓地付近に あったと推定されている。同じ窯であった可能性も否 定できない。両者の窯跡で出土している製品の比較検 討が必要である。
また、幸平山の名前は承応 2 年(1653)『万御小物 成方算用帳』の中には見られない。このことは幸平山 の開窯が 1653 〜 1659 年の間である可能性を示すが、
谷窯及び白焼窯では 1650 年代前半以前に生産年代が さかのぼりうる製品も出土しているため、1659 年よ り前は幸平山とよばれていなかった可能性もある。そ の場合、最も可能性が高いのは隣接している大樽山の 一部であるが、前記の過去帳の記載に慶安 5 年(1652)
「大樽山八左衛門親」とある。八左衛門の名前は幸平 山の記載にも見られるものである。両者の窯場の関わ りを示すものの、八左衛門が大樽山から幸平山に移っ たことを示すものであるのか、それとも大樽山から分 離し、幸平山へ名称が変わったものであるのかわから ない。なお、『金ヶ江家文書』明暦 2 年(1656)に記 された 10 名の金ヶ江家一族の中にも八左衛門の名は 見られる。過去帳の記載は苗字が記されていないため、
同一人物かどうか断定できないが、幸平山の開窯に 金ヶ江家一族が関わった可能性を示している。
17 世紀末になると新たに窯が築かれ、その時点では 墓地を挟んで谷窯と並立していた可能性が高い。その 具体的な位置は明らかではないが、『松浦郡有田郷図』
には白焼窯と墓地の境界に「天満□」の石祠と参道が 描かれている。有田の窯跡では窯尻の上方にしばしば
金大考古第 号
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2006 年 4 月 15 日
編集後記
今号は 2005 年に行われた前方湾海底遺跡の潜水調 査、フジェイラ首長国の踏査、1997 〜 2002 年にか けて有田町教育委員会が行った古窯跡の立会調査や確 認調査についての報告を掲載した。前方湾海底遺跡の 調査については正式な報告書が来春、刊行される予定 である。古窯跡調査についてはいずれも事務文書とし てのみ報告したもので公刊されていない。本来ならば 調査主体の有田町教育委員会で刊行すべきものである が、いつになるかわからないので、今回、掲載させて 頂いた。
さて、今年度より編集委員会を設けることとなった。
編集委員は以下のとおりである。 (野上)
垣内光次郎(石川県埋蔵文化財センター)
小松隆史(井戸尻考古館)
桜井秀雄(長野県埋蔵文化財センター)
佐々木達夫(金沢大学文学部)
庄田知充(金沢市埋蔵文化財センター)
野上建紀(有田町歴史民俗資料館)
前田清彦(鯖江市教育委員会)
渡辺芳郎(鹿児島大学法文学部)
こうした石祠が置かれていることを考えると、この石 祠を上限とする位置に登り窯が築かれていた可能性も 考えられる。この位置は検出された2号窯以前の物原 の位置とも矛盾するものではない。そして、さらに 18 世紀後半には今回の調査区の位置に2号窯が築かれ、
19 世紀前半には1号窯が築かれたと推定される。安政 6年(1859)『松浦郡有田郷図』に描かれている白焼 窯は1号窯であろうと思われるが、『皿山代官旧記』文 化 11 年(1814)の記載に見られる「白焼登」(焼成 室 23)が1号窯と2号窯のいずれが該当するか、遺物 の詳細な検討が必要である。