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晋応
究
古 典 ギ リ シ ア の 人 口 問 題 と 人 口 思 想
南 亮
三
B 良
目次
序説
一︑ギリシアの入口及び入口問題(三二三)
のギリシアの入ロー②ギリシアの過剰人口問題i㈹アテネ及びスバルタにおけろ實状1④ギリシア
の没落と入口減退
二︑スパルタ︑〃レーテ︑アテネの入口政策(三三八)
⑧スパルタにおける入口政策と入口減退の理由i㈹〃レーテ及びアテネの人口政策
三︑プラトソの人口思想(三四九)
古典ギリシアの入口問題と入口思想三一九
∂
商學討究第五巻(下)三二〇
⑦﹃ポリテア﹄にあらはれ五るプラトンの國家観︑結婚灘︑及び入口思想1㈲﹃ノモイ﹄にあらはれ六
る入口思想1⑨プラトンにおける入口問題の重貼・アリストテレスとの津鎖
四︑アリストテレスの入口思想(三六日)
10アリストテレスの國家観と結婚観11ーアリストテレスにおけろ﹃入口の限度﹄i12アリストテレス
におけろ入口問題の意味‑結語
序 説
食物を獲得する方法の攣化は︑換言すれば生産關係の愛化は︑肚會組織の性質ゐよび種類を憂化
せしむるが︑之れと同時に︑ある群團の大いさは人口歎と食物範園との關係によつて決定的な支配
をうける︒そしてこのことは︑食物獲得方法が幼稚なればなるほど一暦明白に現はれ來πる︒人間
の原始生活は狩猟を主とし︑ついで遊牧を生じπと一般に考へられてゐるが︑この段階にゐいては
入間の勢力ようも自然の支配をうくることが甚だ大であるがカめに︑増加する人口に劉して食物範
園を自由に損大するを得ない︒人間の原始生活に湖れば湖るほど︑人はそこに︑殺見︑棄見等の手
あらき人口制限方法の盛んに行はれてゐπ事實を見出すであらう︒それはカだに︑ヨーロッパ諸民
族の古き歴史が示すばかbではない︒日本の古代史竜まカ︑之れについての資料を吾々に提供す
ρ
る︒
ところが︑食物の獲得が土地の耕作から行はれる場合︑即ち人間の努力が主として農業に向けら
れるに至ると︑食物範園は著しく援大され︑そして除ほど安定性を得てくる︒一面には︑一定の地
域に今迄ようもよ6多くの人口を居住せしめうると共に︑他面には︑人間の生活關係が自然の支配
から除ほど逃がれうる︒オッペンハイマーの謂ゆる領土國家竜まπ︑こ\にその登生過程を竜つの
である︒‑歴史上吾々が古代と稽する時代︑即ちギリシァ"ローマの時代は︑人間の縄濟生活が
すでにこの段階にまで爽展してゐπ時代である︒
古典ギリシアは︑しかし︑軍なる農業國として終つπのではない︒黒海︑地中海にわπつての植
民地の建設と相侯つて︑ギリシァの縄濟生活は徐々ながら︑工業と商業とによつて着色きれてく
る︒すなはちギリシアの登展は︑農業あよび牧畜を基礎とする自然経濟的状態から︑商工業を中心
とする貨幣経濟的・交通縄濟的段階への躍進を示すのである︒しかしてこの登展の上に大きい役割
を演じπものは︑何は措いて竜︑強い人口の壇加であつπ︒
経濟生活にむける如上の愛化は︑やがて登肚會生活上の攣化を招來し︑ひいては政治的意識形態
の上にも著しい影響を及ぼすに至る︒隷属的・拘束的土地所有の代うに今や自由的個人的土地所有
古典ギリシアの入口問題と人口思想三ご一
商學討究第五巻(下)三二二
が現はれ︑肚會生活上の古き強制的・傳統的性質は失はれて父権的大家族制はその姿を没し︑と㌧
に自由なる個人主義的共同生活の新形態が現はれてくる︒ギリシァ哲學の最高峰をなすプラトンーー
へぬヘヤァリストテγスの政治的︑ないし國家的思惟禮系もまカ︑乙の抗しがカき時勢の推移のまつπだ中
に構成きれたのであつて︑謂はば一個の反動思想をなすものと見ることが出來よう︒
さて以上の序説をもつてこ\に私の論究を開始しようと思ふことは︑古典ギリツァの経濟的登展
はその人口運動と如何なる關聯を竜ち︑何が人口問題として戚ぜられてゐπか(第一節)︑ギリシ・
ア諸國は事實その人口に甥して如何なる方策をとつπか(第二節)︑卦よび︑當時の代表的著作家
πちはその國家的思索の内部にゐいて人口問題を如何に取扱つカか(第三・四節)︑の諸問題にか
\はる︒それ等はしかし︑こ\で一括して論ずべく飴bに多方面なる研究範園にまカがつてゐる︒
私のこ\に行ひうるところは︑それ故に禿璽︑これ等の問題を通じての古典ギリシァの人口思想一
般の理解に劉する︑わつかなる鳥鰍圖を提供するにとど懐るで南らう︒だがそれは︑私にとつて
は︑今後あそらくは連績して行はる\であらうところの︑経濟史︑経濟學史を貫徹しての︑私の人
日學的研究の序曲をなすものである︒πだし︑一般歴史に關する私の認識は︑實のところ︑まだ初
等級の段階にすら達しないほどの貧しさである︒專門の史家にとつては或ひは日常茶飯事にぞくす
るであらう事項にも︑私は時に︑誤懐つπ叙述を與へないとも保しがたい︒ つてあきたい︒ この黙︑あらかじめ断
一︑ギリシアの人口及び人口問題
の
へ古典ギリシァはそ竜そも幾許の人口を竜つπか︑懐力それは如何なるひ動をもつて塘減しカか
はユリウス︒ベロッホの詳密なる研究①あるにか\はらず︑その測定は甚だ困難である︒のみなら
ず︑古代諸國の人口統計的表現についてや\竜すれば人の陥る日般的誤うは︑事實以上に多く評慣
しすぎることである︒これは︑入が見なれない土地の人口を観察する揚合に常に犯すところの錯誤
である②︒ホメロスやヘロドトスの文學的記述に散見せらる\藪字的表現はゐくとするも︑アウグ
スタス帝の時代にディオドールUδαo﹁が行つπ調査も︑それは史上に傳へらる\この種調査の最
も早き竜の﹂一つであるが︑やはう如上の誤うを犯してゐカ︒即ち彼れの説では︑古典ギリシアの
人口は彼れの時代にあけるようも遙かに大であつπ③︒この種の見解はその後永い間支持されて來
尤︒モンテスキュー竃︒暮霧ρ9聲︑ユスティ甘︒︒ユ︑カムバーラント9日σ︒}昌α等はその代表者で
古典ギリシアの入口問題と入口思想三二三
商學討究第五巻(下)三二四
ある︒しかして之の誤りを指摘しπ最初の人はデェヴィット・ヒ・﹁ムであつて︑彼れは︑古典ギリ
シァの人口は近代文明諸國にゐけるほど大ではなかつた︑また大となうえなかつπと論じ出で
πω︒近代に必ける古代人口の研究は︑かくしてここに︑その最も信頼すべき典篠を有するに至つ
たのである⑧︒
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だだしギリシアにゐいては︑一般的な戸口調査は未だ知られてゐなかつπ︒わつかに部分的な兵
士に關する籔字だけが存するのであつて︑それを資料として近代史家の研究が行はれてゐるのであ
る︒アテネでは年々軍籍に入る義務ある青年だけが登録されπ︒規定の上ではその年齢は十入歳だ
つカが︑實際の上では︑事實上武器をとるに適すると思はれる青年だつカ︒だからこれ等の青年は
正確な年齢層を示してゐなかつπ︒のみならずこの軍籍簿は︑陸上の兵士として動務し力上層階級
●
の子弟にのみ關しπのであつて︑海上の兵士πるものは含まれてゐなかつπ︒紀元前三七七年にはアティカで一般的財産調査が行はれπが︑これとても近代的意味にゐける人口調査の一ではなかつ
π︒アレキサンダー大帝の後にデメトリオスUo∋︒舟二︒ωが初めて成年男子の調査を行つπ︒しかし
この調査もそれ以上には出でなかつπのである︒他の諸國にゐける状態も懐π︑アテネにゐけると
ほぼ同様であつπ︒即ち︑主としては兵士の補充︑軍隊の編成のπめに︑ついでは誤税を目的とし
て調査が行はれπ︒しかし︑本來の戸口調査はいまだ知られてゐなかつたのである⑥︒
α)内鏑屋δ窪矯U冨団o︿2犀臼巨㈹らoω﹀=臼εヨu︒㌦騨・㊤・Oこω・09.
さてペロポネス職孚(前四三一‑四〇四年)の勃登當時︑アテネでは︑職場に邊bうる乗馬兵が
一︑○○○人︑甲胃兵鵠○℃年魯が=二︑○○○人︑ゐよび豫備兵として一六︑○○○人あつπ︒この
豫備軍は普通市民の老年ゐよぴ青年層から成立ち︑ま力一部分は蹄化人竃︒8岸窪をも含んでゐ
だ︒そして︑首都の警備と城砦の防備とに當つたのである︒このほかに海上の兵士がゐカ︒之の職
箏のときアテネは三〇〇蔓の船を礒装して第一線に立πしめカといふから︑ペストにようて喪はれ
πものを除外しても海兵↓ゴ象︒昌の藪は︑六︑二〇〇ないし入︑五〇〇人がゐだと推算されうる︒最
後の肚會層は奴隷であるが︑これには家庭勢働に從つだ竜のと生産螢働に從つπもの︑即ち
古典ギリシァの入口問題と入口思想三二五
●
ゆ
商學討究第・五巻(下)三二六=餌岳切亙巽・二と﹀吾舞︒・ωζ芝窪との匠別があう︑かつ︑その歎の推算も正確を期しがだい︒ヒペレ
イデス=巻o﹁︒一αoωはアティカにゐける奴隷の総歎を一五〇︑○○○と算しπが︑これは多きに過ぎ
てゐる︒ペリクレス(前四九三i四二九年)の時代には一〇〇︑000人以上とは算しえない︒
そこで︑以上の諸資料にもとついて吾々が︑紀元前四三一年頃のアティカの人日についてほぼ確
定しうることは
上履市民の歎七〇︑○○○人
下履市民の藪六五︑○○○人
蹄化人の数一五︑○○○人
奴隷の藪一〇〇︑○○○人‑
≧のほかに外國人があつπから︑全膿としての人日歎は二五〇︑○○○人内外と考へてよからう︒
この藪字はカールシ←テットの掲ぐると乙ろであるがω︑モムベルトもまπ二五萬ないし三〇萬人
と算してをう凶︑さらに古ぐはベロッホの︑ほぼ等しい藪字に到達してゐπところである⑨︒いま
假りに二五萬ないし三〇萬の人口歎をとつて當時のアティカの面積に割當ててみると︑一手方キロ
メートル六〇ないし入○人の密度となる︒乙の人口密度は當時としては相當に高いが︑理由は︑乙