熊本大学学術リポジトリ
表現の類比 ; 二 : 見ることについて(プラトン『
テアイテトス』184B−186E)
著者 岡部 勉
雑誌名 文学部論叢
巻 6
ページ 63‑95
発行年 1981‑11‑30
その他の言語のタイ トル
L'Analogie de l'Expression,? : Le voir (Platon Theetete 184B−186E)
URL http://hdl.handle.net/2298/9931
63 ゑげ》ミ:}〆トレ且ぷこ鐘にづ肢で籍・》(升一元隅ン』 :if表;現の類比(二):■
「見ることとは何か」という問いは、心理学者のものでも文法学者のものでもない。私はここで、見ることを、判断す ること、知るとと等から区別したいと考えている。しかしこのことは、私が心理学者や文法学者に対して議論しなければ
ならない、ということを意味するものではない。 見ることが、判断することや知ることと別であるということは、自明の事柄であって、問うまでもないことである、と 思われるかも知れない。だが、見ることを説明しようとして、(1)或る人々(第一の人々)はそれを、観念を抱くこと、 (2) 思惟すること、判断すること、推量すること、或は比較すること、対照すること、区別するとと等であるとする。他方、 (2)こうしたこと一切を、見ることから排除しようとする人々(第二の人々)もある。この人々の場合、見ることに残 される唯一のものは、言わばものとの盲目の出会いのようなものでしかない。それというのも、何と出会ったかという間 (3) 題は、既に見ることの領分を超えているというのがこの人々の考え方だからである。更に、(3)それらが判断すること
等であるかどうかは別として、見ることと知ることとは同じであると主張する人々(第三の人々)もある。そのように主 張する人々のうちの或る人々(プロタゴラス主義者)は、すべてが思うことでしかないとする。彼らによれば、私が、
表現の類比(二) 『デアイ
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今、立方体を見ているという場合でも、或は私が、ユークリッド幾何学に於て一一一角形の内角の和は二直角であると知って いるという場合でも、どちらも同じように冗単に私がそう思っているということでしかないのである。また別の人々(へ
、、
一フクレイトス主義者)は、すべてがなるということでしかないとする。それ故、「私の見たそれは立方体である」と一一一一口っ てはならないし、「|一一角形の内角の和は二直角である」と言ってもならない。この場合、正確にはどのように言うべきで (4) あるにせよ、彼らによれば、そのどちらについても、とにかく同じように一一一一口わなければならないのである。 ここで私が議論しなければならないのは、以上の三種類の主張をなす人々に対してである。見ることと、判断すること や知ることとの間の区別は、少しも自明ではない。そこで、私は先ず、それらの間に全く何の区別もないと主張する第三 の人々に対して、区別があるということを、とりわけ見ることと知ることとの間には明確な区別があるということを、論 証することにしたい(二参照)。との論証に際しては、われわれはプラトン(『テアイテトス」’八四日’一八六E)の議 論を参照することが出来る。何故なら、その議論は、正に、見ることと知ることとは同じであるとする主張に対して、見 (5) ることは知ることではない(||つは区別される)ということを、最終的に明らかにするはずの議竺mだからである。 ところで、その論証はどのようにしてなされれば良いのか。このことに関して、少くとも次のことだけは明らかであ る。即ち、彼らの主張(感覚することと知ることは同じであるという主張)が彼ら自身の主張する仕方(プロタゴラス説 とヘラクレイトス説)によっては根拠付けられ得ないということが明らかにされたとしても、唯それだけでは、その論証 (二つは同じでないということの論証)は少しも癒されたことにはなら趣い、ということである。l例えばプロタゴラ ス説については、次のようにしてそれを論駁することが出来る。プロタゴラス主義者は、或る人が或ることについて何か 或ることを思・たという場合、その人がそのことについてそう思った態らば、へご窒麓怠蜂腰・てそうである〔真 である)、ど主張鋼する〔そし元、この点では、〉感覚することと知ることとの間に何の違いもないとする)。言い換えれば、
凸エゴ0丁」。彼らは、「そう思う」ととが「そ)式である」ことの必要十分条件である、と主張するのである。即ち、彼らの.主張〈M) 表現の類比(二)
熊!
では、同じでないということの証明はどのようにしてなされれば良いのか.lそれがどのようにして態されるのであ
れ、少くともそれは、単に扇同じであるということがあれやこれの主張する仕方によっては証明出来ない、ということが 明らかにされるだけではなされ得ないのであるから(このことは既に明白である)、それとは別の仕方でなされねばなら ない。問題は、その別の仕方が、「見ることとは何か」に関わる何らか積極的な主張を含むことになるのかどうか、一一||pい 換えれば『一アアイテトス」’八四B’’八六Eの議論は、「見ることとは何か」についてのプラトン自身の積極的な主張 (7) 来ない。 ある【〃は〃の十全》 条件でもない二A)」 る」が真である(雌)、ということになる。.それ故、Sにとってはpは偽である(砿)・峰は〃に反する。従って(Mは .(6)・ 自己自身を論駁することになる.l以上のようにして、彼らの主張が退けられたとしよう。しかし、このことによって 直ちに、感覚することと知ることとは同じであるとする主張そのものが退けられたことにはならない。それによって明ら かにされたのは、単に、その同じであるとする主張を、「そう思う」ことが「そうである」ことの必要十分条件であると するととによっては、決して根拠付けることが出来ないということだけである。だが、それによって、同じでないという ことが何らか少しでも証明されたということばない.lこの点はヘラクレイトス説の論駁(’八一B’’八三C)につ いても同様である。ヘラクレイトス説の場合は、仮にその説に従って「一切は生成変化する(場所に於ても性質に於て
、、、、・
も)」とすると、何についても「そうであってそうでない(より正確には、そうと一一一一回ってはならないし、あると一一一一口うことも 許されない)」ということが帰結するだけである。それ故、感覚することと知ることとは同じであるのでもないし、同じ でないのでもない。少くとも、それによって同じであるということを、また同じでないということも、証明することは出
は、すべての人にとって表現の類比(二) 近解釈である毛 と思ったとしよ》か・すみど〃に鍔って、
}も由■■「そう思うことはそうであるととの必要十分条件である(j)」は真であ一ろ(〃〉、.というこ’とで 〉牡と』ろで小今(「或る弧』(β〉が[b《でないか即ちかぎ必櫻条胖で為五K.(|A)何十分
幻◆■少宕口
。、)にとっては「がで瀞いr即ち、|劇であり且つ一Aであ
▲66
見た荊齢Ⅲいたりするのか」という問いである(一八四B)。”そ山てそれに 見ることと知ることとは同じであると主張する人々に対して、どのようにしてプラトンは同じでないということを論証 するのか。先に述べたように、この点を先ず見定めることにしたい。ところで、われわれはプラトンの議論を大きく二つ に分けることが出来る.即ち、前半一八四B’’八五El私はそれを、相蘂な葱二つの問いに応じて、←更に二づに分肱
!1
.(9) る(その各々は一一1|と一一北一一に於て考察される〕1トーと後半一[八六AⅢE(一一卜一一一に於て考察される).とであるや’千』都 表現の類比(二)
を含むのかどうか、そしてもし含むという場合には、その主張は先の第一の人々のそれと一致するものであるのか、それ とも第二の人々のそれと一致するものであるのか、或は全く別の考え方を要求するものであるのか(私にはそう思われ る)、そしてそれはどのような考え方であるのか、を確かめることである(三参照)●lその結果われわれは、知ること に対して、つまり知ることとの違いに於てある、見ることの何であるかを明らかにすることが出来よう。
ところで一般に、聞くことと見ることとは同じ種類の事柄とされる(仮にこの点に何らか問題があるとしても、ここ ではそれについては問わない)。それに対して、同じく一般に、話すことと見ることとは別の種類の事柄とされる。そし
てこれら二つがそのように区別されるということは、これも亦、自明のこととされる。しかし、その点に問題はないの か。とりわけ知ることに対してこれら二つを置くとき、それら二つについてわれわれはどのように考えるべきであるの (8) か。最後に、私はこの点に若干一一一一巨及したい(四参照)。
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(二’一)さて、プラトンはその議論を次のような問いを提起するこ ’一
宙。ご洵崗も、
”』・萄鈎J学玩’一、、、、、
とからはじめる。即ち、「人は何によって句③) ついては、「われわれは同じも、(仮にそれをv
67
か。更に、この問いに対して「別々のものによって(即ち、目によって見、耳によって聞きへ手によって触一れろ等)」と
(、)答えることは、一体どのような困難を生じさせることになるのか。 私は、以上について明らかにするために、次のような例を考察することからはじめることにしたい。1--今、私が或る ものを手にしているとしよう。そして、私は私の手が球に触れていると感じたとするbだが《次にふとそれに目をやる と、意外にもそれは立方体であったとしよう。私はこのことに驚くであろうし、また、本当に立方体であるのかどうかも う一度見直して確かめようとするであろう。そして、もし本当に立方体であるとすれば、最初に触れたときにどうして球
(泥)と間違えたのか、不思議に思うであろう。このように極端な例は極く稀にしかないか●も知れない。しかし、あり得ないと いう訳ではない(そしてそれで十分である)。むしろ問題は、私が球ではなくて立方体を見たときに、意外に感じたり、 驚いたり、確かめようとしたり〈或は、本当に立方体であると知って、不思議に思ったりするというそのことである。 何故私はそうしたことを経験することが出来るのか。それは、私が私の触れたものと私の見たものとが同じ一つのもの であるということを何らかの仕方で捉えることが出来るから、或は少くとも、単に「球に触れる、或は立方体を見る」と いうだけでなくて、何かそれ以上のこと、つまりそれが同じ一つのものであるのか、それとも別の二つの.ものであるの か、そしてそれは立方体であるのか球であるのか、それとも(二つであって)両方であるのかといったことを、私が問題 にすることが出来るからではないか。11これに対して、仮に私がそういったこと一切を問題にすることが出来ないとし たら、うまり単に「球に触れる穴或は立方体を・見る」というだけであるとしたら〈球に触れた後で立方体を見たとしても 私は決して驚いたりしないであろう。その場合には、私は一方で球に触れ、他方で立方体を見たという唯それだけのこと と名付けよう)によって見たり問い‐たり触れたりす
(叩〕説明される沖しか壜しハ鳥何故このこと・がは心めに砿か 何が薑確かめられることになるのか。言い換えれば、〈
表現の類比(二) められねばならないのか。だしてか本当のところ、’これによって一体
■■?’,スUm〉謡」上叫ブC」LL、い▽7涙」し」・生缶]薩賑〈炉映り7。・上峰班切蘓」との》スヮ、L」協盛杉仏・〈・一〈州ハ、倒れ没〉 「掴によって見るのか」、といくう問いは〈、’そもそも何を問おうとするの
誰!
IⅢ私が驚いたのは(同じものが球であわて立方体であるということを、二つ れば、それは、私の見たものと私の触れたものとが同じ一つのものであるとい この球と立方体とに関する例はプラトン自身のものではない。しかし私は、このような例を考察することによってプラ トンが最初に出した問い、即ち「人は何によって見たり聞いたりするのか」という問いが、|体何を問おうとするもので あるかを明らかにすることが出来ると考える。先に私は、‐私の例に於て、|方で球に触れたと感じ他方で立方体を見たと いう場合に、何故私は驚いたりするのかということが問題であるとした。何故私は蕊い旗のか。:この問いに正確虻答える ことは輯’ゲラトンの「入は何によ唾っ竃見たり聞いたも等一沼のか》」という問一いの意味を正しく捉える仁込に屯妬であろうp》 でしかないからである。仮にもう一度触れ直して、今度は立方体を感じたとしても、それが先に見た立方体と同じ一つの ものであるのかどうか、或は今度触れたものが先に球と感じたそのものであるのかどうかが問題になり得ないのであるか
、、、、
ら、要するに今度は立方体を感じたという唯それだけのことでしかない。’一一一口い換えれば、私が手によって球と感じたその
、、、、
限りに於てそれは球となり、立方体と感じたその限りに於ては立方体となり、また目によって立方体と見たその限りに於 てそれは立方体となるのである。従って、それは球でもあり立方体でもある。また逆に、立方体でもなく球でもない。そ (咽) れ故、それが何であるかということも問題と癒り得ないのである.’ところで、私であれ誰であれ、戒は他の何とされ るのであれ、同じものが見たり触れたりするのだとしてみても、そのことはここに生じた困難に対して何の関わりもない ことである。例えば、この同じ私が一方で球に触れ、他方で立方体を見たとしても、そして仮にそれらのことが同時に生 起したとしても、そのことに私は少しも驚かないであろう。また、仮に私がそのときその手を見ているとしても、事態は 少しも変らない。何故なら、この同じ私が見て触れるのであるということによっては、私の触れたものが私の見たそれで あるというそのことは何ら保証されないし、それどころか、そうしたことが問題になるということの可能性すら開かれる 表現の類比(二)
でしかないからである。
ものであるのかどうか、
(川)
ことはないからであう●。
の感覚が
うことを
しく捉える仁込に屯妬であろうp》 私に告げたからである。言い換え 、何かによ・って私が捉えていたか
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驚いたり、一方は球であって他方は立方体であるということに驚かなかったりするのは、これもその何かによってそれが
、、、、、、、、
立方体であるということを(場合によっては、立方体でないということを)、或は球であるということを(球でないという
(巧)・ことを)捉えることが出来る(そう思うことが出来る)からである。その何かによって、私はそれが一つなのかそれとも
二つなのか、同じなのかそれとも別なのか、またそれは何であるのか、立方体であるのか球であるのか、それとも両方で あるのかといったことを捉えることを出来る(そう思うことが出来る)のでなければならない。先にわれわれは、その何
℃、、、
かを唾と名付けて置いた.それによって、人は見たり聞いたり触れたりするのである.lこの場合の「によって」が何
℃
を意味するかは明白であろう。それは、唖が見るということでも、Pが見るというととそれ自体を成立させるということ でもない。先の例に於て、言わばvを取り除いて「同じものによって」ではなく「別々のものによって」見たり触れたり
(胆)するとした場合でも、見る、或は触れるというそのこと自体が不可能になるということはないからである。しかし唖がな いとするならば、私の見たものが私の触れたものと別のものであるのかそれとも同じものであるのか、二つであるのかそ
れとも一つであるのか、立方体であるのかそれとも球であるのか、或は両方であるのかといったことを、そもそも問題に
、、
するととすら出来なくなるのである。一一一口い換えれば、もし唖がないとすると、私はそれ(との同じ一つの立方体)を見た
、、
とすることも、それ(あの同じ一つの球)に触れたとすることも出来なくなるのである。同じかどうか、一つかどうか、 何であるかといったことが問題にすらなり得ないところでは、何を見、何に触れたかということも問題となり得ないであ
、、、、
ろうpこれと逆に、Ⅵによってはじめて私はそれを見たとすることも、それに触れたとすることも出来るようになるので
、、
ある。それ故、「によって」が規定しようとしているのは、むしろ何を見、何に触れたのかという問題、要するにそれの とが出来た(そう思うことが出来た)からである9それだけではない一 ら、諾幾は少くとも何眼かによって同じ一つのものであると恩
P
なかったとしたら、それはっ私‐が球と立方体との二つの別
表現の類比(二) の『別の、もの狼で.あるとい うととがⅢ螺小たからである。.そして、0もbその旧勘合Hに私叔瓢蝿か
P更にへ《厳であうで立方・体であ着どぷいマフご埒」に私が うことを、やはりその何かによって捉えろと
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(’’’二)さて、先回りして言えば、プラトンが前半の残りの議論の結論としてわれわれに承認させようとするのは、
、、、、、、、、
次のようなこと、即ち「唖それ自身を通して調べられるものと目や耳を通して調べられるものとがある」ということであ (咽) る(’八五E)。前者に属するのは、あるとかない、同じとか異なる、|つとか一一つ、或は似ているとか似ていない、美 しいとか醜い、善いとか悪いといったことであり、プラトンはこれらを「共通のもの(『口憲・一員)」と呼んでそう規定す (四) る。それに対して後者に属するのは、赤いとか白い、(幸曰の)高いとか低い、柔いとか固い、甘いとか辛いといったこと である。これらは或る特定の感覚を通してのみ捉えられるものである。その意味は、例えば赤い色は目を通して見ること は出来るが耳を通して聞くことは出来ない、逆に高い音は耳を通して聞くことは出来るが目を通して見ることは出来な (卯) い、ということである。-lわれわれはここで、プーフトンの前半の残りの議論の最初のところに立ち帰って、そこでのプ ラトンの問いを自ら問い直すことにしよう。その際われわれが予め認めて置かなければならないのは、「共通のもの」と そうでないものとの区別ということだけである。後者は、文字通りの意味に於て、目を通して見ることの出来るもの、耳 を通して聞くことの出来るもの、手を通して触れることの出来ろもの等であった。では、それに対する「共通のもの]と は見ることも聞くことも触れることも出来るものであるのか。それとも、グラトンの結論が示唆するよう胆へ.逆に見る己
うbそれは、
とも聞くことも触れることも出来 八五B)、.とれ、がここでのプラト 表現の類比(二)
(Ⅳ) 「何であるか」という問題に関わる事柄なのである。そしてそれだからこそ、「何によって見たり聞いたりするのか」と いう問いは、感覚することと知ることの区別についての議論の最初に提起されねばならな‐かつたのである。前半の残りの 議論についての考察によって、このことはより一層確証されるであろう。
厳密な意味に於て人 ンの問いである。北-1との問いによって何が問一われようとしているか・は既に明白である は何を感覚することが出来て、何を感覚することが出来ないか彩一明ら●かにしようと’する ないものであるのかp凸要すぢに、評「それは何を通して(望凰軒。・か).捉えられるのか]》(一一
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これに対してプラトンはどのような議論を提出するのか。‐ll先ずはじめにプラトンは、感覚されるものは或る感覚を 通しては感覚されるが別の或る感覚を通しては感覚されないということを確認する二八四E’’八五A)。今、相異な る感覚を通してのみ感覚されるものAとB(例えば、この或る色とこの或る音)があるとしよう。そして、それらについ
てそれらに共通のことc(それは先に挙げた「共通のもの」のうちのどれか一つでも良いが、それだけでなく、どんなこ とであれそれらについてそれらに共通に考えられることでありさえすればそれで良い)を考えたとしよう。問題は、何を 通してそのCを調べることが出来るのか、言い換えれば、何を通してそれらがCかどうかを調べることが出来るのかとい (皿) うことである(’八五AIB)。これは実際にはあり得ないことであるが(とプーフトン自身断っている)、仮にCが辛いと いうことであれば、それは舌を通して調べることが出来よう(’八五BIC)。-l何故あり得ないことであるのか。それ
(亜)は、単に、或る色が辛いとか或る幸曰が辛いといったことが、経験的にないからではない。むしろそれは、原理的に、Aと Bが各々相異なる感覚を通してのみ感覚されるものである場合、それらについてそれらに共通のCを感覚することが出来 (鋼) るような、そういう感覚というものはあり得ないからである。仮定によって、AとBを共に感覚することの出来るような と、それは、私が同じというこ↑ 来るということなのであろうか。 (ニー|)に於て、例えば私の触れたものが私の見たものと同じ一つのものであるかどうかといったことを、手や目によ ってではなくて、⑫によって捉えるのであるとした。言い換えれば、その切によって私はそれ(同じ一つのその立方体や 同じ一人のその人)を見るのであった。それを別のものや別の人と錯覚することもあるかも知れない。しかし、それを錯 覚とし、そして訂正するとともやは鼻可能である。では、そのようにして私は同じ一つのその立方体を見るのだとする
、、
と、それは、私が同じということを、或は一つということを、そしてまた立方体であるというそのことをも見ることが出 ものである。.、言い換えれば『見えるもの(感覚を通して もの)とを穴厳密に区別しようとするものなので●ある脾
表現の類比(二) 捉えられる0もの〕.と見えない,もの(感覚を通しては捉えられ』ぱい このこと他当然問われなければならない。・われわれは先のところ
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うととが明ら ちかそれが何 Bとじて捉え
しAが赤いと (郡) 避けることが山山来ないであろう。 表現の類比(二)
感覚はない。だが、仮にcが感覚することの出来るものとすると、Aとcを共に感覚することの出来る感覚、或はBとC を共に感覚することの出来る感覚はあるかも知れない。しかし、AとBとCのすべてを感覚することの出来るような一つ の感覚はあり得ないQそれ故、Cを感覚することの出来る感覚oを通しては、AとBが共にCかどうかを調べることは 出来ない.Cを通しては、必ずAかBのどちらか一方を感覚することが出来極いからであるblcが感覚することの出 来ないものであることを一一一一口うには、以上で既に十分である。しかし(と人は反論するかも知れない)、何故oを通してA とBが共に感覚されるのでなければならないのか。Hを通してAを感覚し曰を通してBを感覚し、そしてoを通してC を感覚する(○はHまたは曰と同じかも知れないし、或は別かも知れない)としてはならない理由は何か。これに対し ては、次のように言うことが出来る。即ち、相異なる感覚を通してのみ感覚されるAとBについてそれらに共通のCを感 覚するということが問題である以上、それはやはり、原理的に不可能である。何故なら、例えばHを通して感覚されたA について○を通してCを感覚するということは、実はHと0,AとCの各々が同じものである場合を除いては、絶対に あり得ないからである。それを逆にあり得るとすることは、同じものがHを通してはAeの或る色)として感覚され、 Oを通してはC(との或る味)として感覚されるとするようなものである。これは、言う迄もなく、AとCが同じもので あって同時に別のものであるとすることである。Cは感覚され得るとした場合、われわれはこのような結果になることを
以上によって、「共通のもの」は感覚され得ない、それ故それは感覚を通して調べることの出来ないものである、とい
られ、・釘その上でそれらについてそれらに共通のCが捉えられるのでなければならないということである。’も いうことであるとすれば、先ずそれがこの赤として捉えられ、その上でそれについてCが、ざ例えばそれの美 かとなったpでは何を通して調べれば良いのかpこれについてはぺぐ次の埒と瀞け憾既に閥ちかであるp寸即 であれ鱒括れを通じてCが捉えられるのでなければならないのであるが〈その場合(AはAとしてまたBは
q』
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これまでの考察によって次の二つのことが明らかになった。即ち、感覚されるものとされ得ないものとがある(両者は 厳密に区別される)ということ、そして、感覚されるものは感覚を通して捉えられるが殉感覚され得ないものである「共 通のもの」は切それ自身を通して捉えられるということである。これら二つのことは、感覚することと知ることの区別に とってどのような意味を持ち得るのか。感覚され得ないものがあるということは、それだけで既に感覚することと知るこ (幻) ととが同じでないということを、部分的には指示しているかに思われよう。われわれは確かに「共通のもの」は感覚され
表現の類比(二) 各々同じものである場合を除いては不可能なのであった。それに対して、先ずAと感覚されたものをそれとして捉えた上 で、それについてCを捉える、これは取りも直さず「AはCである」と捉えることなのであるが、この場合には「AとC は同じである」ということにはならない。何故なら、「AはCである」とは、決して「AとCは同じである」ということ ではないのであって、むしろ逆に、それは「AとCとは別のものである」ということを、即ち「Aはcでない」というこ (配) とを何らか含むのでなければならないからである。ところで、|般に「苑はFである」ということが捉え言われるとすれ ば、それはwによってでなければならないのであった(ニー|参照)。それ故、AについてCを捉えるということも、切 によってでなければ不可能である。われわれは(何を通してかは別としても)PによってCかどうかを調べるのである。 そしてもし、それを通して「共通のもの」を捉えることの出来るようなものとしては、今その可能性が原理的に否定され た感覚以外に選ぶ余地がないとすれば、結局のところわれわれは、他の何ものをも通さず、唯切それ自身を通してのみそ (鋼) うしたものを捉えるのであるとしなければならないのは必然である。 しいということか、捉えられるの 同時に別のあの淀泌渇縫ず漏涯吐 ることの出来る感覚・を通上て、 でなければならないのである。これは、先の場合と通っ・て、、Aと0が同北し仏0ので莇驍ねて 冠鑓ない鈩先の場合にはT仮定にょゐてCは感覚されるものであったから、Cを感覚す
■IE・。,。‐JⅡ’7吾『轍を通処て感覚された一Aにつぃて心を感覚謝るという廷)と》侭、》》数とC及びⅣ「とqが
’よ“i、・・,,,●似,‐雷IIll11I1ll・Il!■1■■■■■可可■140■心■ロロ!‐■■■『;‐00口’二
74.-
次のよう極考えるべきであることを示唆している。
●
しては立方体を見たという場合、・われわれが一一1’ (’’’三)さて、知ることは感覚することではないということを最終的に論証しようとするプラトンの後半の議論は、
次のような問いによってはじめられる。即ち、「あるというそのこと(gq自)」はⅥによって唖それ自身を通して捉えら れる、とすべきであるのかどうかという問いによってである(一八六A)。そして、それについては直ちに「最もあらゆ るものに共通のものである(颪ン(3貝叶ミ司骨刊e已司§罰、『B)」とされる。それ故、このことを認めるのである限り、 そしてまたわれわれの二’二に於ける考察に従うのである限り、それはPによって唖それ自身を通して捉えられるとしな ければならない(同上)。 得ないものであるとした。しかし、感覚され得ないものがあるということは、どんな意味に於ても、直ちに感覚すること と知ることとは同じでないということに結びつきはしない。われわれは、感覚され得ないとされたその「共通のもの」が 知ることの出来るものであるかどうかについては、今のところ何も知らない(それはrによってYそれ自身を通して捉え られるとしたが、これが知ることとどう関わるのかについては未だ何も知らない)からである。それ故、これまでの考察 の限りでは、感覚することと知ることの違いについてわれわれは何も知らないのである。11だが、もし知ることについ て、それは「共通のもの」のうちのどれか一つ(それで十分である)を捉えることを少くとも必要条件とする、というこ とが明らかにされるならば、そのときには感覚することと知ることとは同じであると主張し続けることがもはや許されな くなるであろう。そして、そのとき同時に、われわれは、十全の意味に於て、知ることを感覚することから区別すること が出来るようになるであろう。
しかし、その「あるというそのこと」とはどのようなことであるのかねこれについて一へ『わみ紗われのこれまでの考察は、,。| のように考えるべきであることを示唆している。;化1-||‐1一・の私の例に於て年例えば私が手を通しては球を感じ目を通 表現の類比(二)
及び二’二の考察によって確認したところに従うならば、
それ湖同じ75
、、
ところで、以上の考察からすると、[曰を通して立方体を捉えるということと、⑫それ白]身を通してそれが立方体である ということを捉えることとは区別されねばならないのであった。このことは恐らく奇妙なことと思われようg何故なら、 私が一方で手を通して球を感じ他方で目を通して立方体を見たというような場合、普通はもう一度良く見直すか触れ直す かすれば、それが球であるか立方体であるかを調べることが出来るであろうからである。これ以外にそしてこれ以上に、 簡単でしかも確実な方法はあるまい。すると、目を通して、或は手を通してそれが球であるかどうか、立方体であるかど うか等を調べることが出来るとすべきなのであろうか。それにまた、目を使うことも手を使うこともせず、それがどのよ うなものであれ単に唖だけを使って、それが球であるかどうか、立方体であるかどうか等を調べることが出来ようか。
。、
‐1--しかし、何度目を通して立方体を見ようと、また何度手を通して球を感じようと、唯それだけではそれが立方体であ
、、、
るへ或はそれが球であるということにはならない。感覚することによっては、決して「共通のもの」である「あるという そのこと」を捉えることが出来ないからである。 Lプラトンの、感覚することと知ることとは同じでないということについての論証の、最後の部分は極めて簡潔である。
表現の類比(二) の挙げている例(一八六B)に則して繰り返して言えば、或る固いものの固さや或る柔いものの柔さを感じるのは手を通
、、、、’
してであるCだが、一方は固いものであるというそのこと、他方は柔いものであるというそのこと、そしてこの場合には
、、、、
一一つのものであるというそのことV更にはこれら一一つは反対のものであるというそのこと等を捉えるのは、唖によってⅥ
、、。、、
それ自身を適してである.’それ故、「あるというそのこと」とは、例えば「これは立方体である」に於けるそのある (犯) ということである。 身を通して調べられねばならないのであった。私が球を
も、、、□00□、Ⅱ:、』□
る。しか-〕そのことと、それが球であるというそのこと、或は立方体であるというそのこととは別である。プラトン自身 っのものであるかどうか、そしてまたそれは球で
命、、、あるかそれと‐も立方汕体であるかといつ 感じたのは手を通してであり、立方体を見たのは目を通してであ
たことは、Ⅵによって⑫そ●赫白]76
表現の類比(二)
それは、今確認したばかりの、「感覚することによっては「あるというそのこと」を捉えることは出来ないということを使 ってなされる。即ち、それが何であれ或るものについて「あるというそのこと」を捉えてそのことに達する(『ご×§)と とがないのであれば、それについて「真のこと(耳ン匙、§)」に達したとすることは出来ない。ところで、それについて
「真のこと」に達していない(それについて「真のこと」を捉えていない)のであれば、それについて知っているとする
.(”)ことは出来ない(一八六C)。しかし感覚することは、「あるというそのこと」を、従って「真のこと」を捉えることがあ り得ない。他方知ることは、「真のこと」を、従って「あるというそのこと」を捉えるのでなければ勺決して知ることで はあり得ない。両者の違い(⑫←R8.日)は明白である(’八六D)。それ故、||つを同じであるとすることは出来ない。 感覚することと知ることとが区別されるべきであるということは、以上によって明白である二八六E)。 この最後の論証は、既に明らかなように、先に述べた、知ることが「共通のもの」の一つである「あるというそのこ と」を捉えることを必要条件とする、ということに基づいている。そして、この論証はそのことがなければ成立し得ない (犯) のである。しかし、知ることの何であるかがそれによって十分定義され尽したのでないことは一一一三う迄もないであろう。知 ることが「あるというそのこと」を捉えるということによって定義されるとしても、「あるというそのこと」を捉えると いう正にそのことが何によって成立するかは、少しも明らかではない。それは、例えば「これは立方体である」と思いな (別) す(9.噸…)ことによって成立するのであろうか.lだが、われわれはこの問題にこれ以上立ち入る必蘂はない。わ れわれにとっては、知ることが最終的に何によって成立するのであれ、とにかくそれは感覚することから厳密に区別され ねばならない、ということが明らかになれば、それで十分である。ことでわれわれが次にLなければなちないいのはむう見 ることとは何か」に関しZ〈‐似止の考察は何をもたらし得渇かを明らかにすることであるp‐・↑へ劇畑心一‐もJJ人綱…’ぐY1北{
》イPq◆一・〒ぬし卍〉rへ。‐]》1,、!・・・』.,.・・・j・1...‐‐・・…》一J’,,....。‐..‐9凶伯.,....,,〆・へ.」』四・コ。・宅,1...1’・ヴ知・」j院ⅢI』:今生。 !■977
(’’’1|)それについて私は、先ず最初に、私が一のはじめのところで言及した第一の人々と第二の人々とに対して議 論する必要があると考える。第一の人々は、恰も見ることが出来るためには単に見るということだけでは不十分であっ て、それだけでは何も見ることが出来ないかのように、見ることに他の多くのことを絡みつかせるのであった。つまり彼 らはそれを、観念を抱くこと、思惟すること、判断すること、推量すること、或は比較すること、対照すること、区別す るとと等であるとするのであった。これに対して第一一の人々は、そうした多くのことであるとすることについては言う迄 もなく、一一一一口わば単に「見る」と言うことについてすら、それを言い過ぎであると考えるのであった。この人々にとって は、例えば赤を見るという言い方は既に不正確なのであって、正確には、何か或るものを見てその結果、赤の観念を抱い た、とでも一一一一曰うべ鑿なのである.Iこれら二つの主張健、見ての通り、互いに相容れ種いものである。二つを調停する ことは出来そうもない。それにしても、何故、各々の主張はこのように相反する結果になるのであろうか。 第一の人々についてわれわれは、『屈折光学」に於けるデカルトをその代表者とすることが出来よう。デカルトが見る ことについて考えるときのモデルは、例えばわれわれが銅版画を前にしているようなそういう場合である。そこにはイン
、、
クのしみだけがある。しかし、われわれはそこに、それとは少しも似ていない森や街や嵐を見ることが出来る。何故、そ うしたものを見ることが出来るのか。それは、そこに森や街や嵐があるからではない?むしろそれは、デカルトによれ ば、盲人が杖を頼りにその杖を通して送られて来る信号を解読することによって、言わば「手でものを見る」ように、丁 (”) 度そのようにわれわれは目でものを見るのだからである。このことは色の場合でも、基本的には変りがない。デカルトに よれば、色の感覚は脳の内部に生じた運動の或る一定のあり方である。しかし、例えば赤を見るとは、要するに赤の観念 企丞
表現の類比(二)
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うものを、われわれは直接見るのではない。バークリーに
目を転じることに伴って生じた感覚と、距離の遠さの観念
(則)・ば癒らないのである.lバークリーの用いたモデル§ は音(または声)を聞くのであって、それのあらわしてぃ これに比べて第二の人々は極めて禁欲的である。われわれはその代表者として『視覚新論」に於けるパークリーを選ぶ ことが出来る。パークリーの場合、見ることの説明は次のようなモデルを使ってなされる。われわれは或る音を聞くと (誰かと会話している場面を考えれば良い)、直ちに或る観念を理解することが出来る(バークリーはその音とその観念 との結びつきを習慣によるものと考える)。この場合、われわれは音を聞くのであって、決して観念を聞くのではない。 同様にわれわれが見るのは観念ではないのであって、それが何であれとにかく観念とは別の何かである。例えば距離とい とが出来ない。 表現の類比(二)
(羽) を抱くことであり、脳の運動はその観念を呼び起こすための、単なる機会原因でしかないのである。それ故、脳の運動そ のものが色の感覚であるのではないのであって、単に私の脳の内部に或る運動が生じたというだけでは、それがどのよう な運動であれ、それは決して私に何の感覚も生じさせないのである。私に何か或る感覚が生じたとすれば、それは私が何 か或る観念を思い浮べたときである。従って、私が何の観念も抱かなければ、たとえどのような運動が私の脳の内部に生 じていようとも、私は何も見ることがないということになる。見ることを、観念を抱くとと等といった思考の営みから切 り離すことは出来ない。それどころか霞それはそうした愚考の営みそのものですらある・1以上がデカルトの見ること についての説明である。その銅版画のモデルそれ自体が誤りであるということはない。われわれは、比哺的な意味に於て ではなく、文字通りの意味に於て、そこに森や街や嵐を見るとして良いであろう。しかしその説明は、見ることを他の多 くのことであるとするだけで(しかもどれ程多くのことであることか)、少しも見ることの何であるかを明らかにするこ
ろ(それと如精びっいている)観念といったものをではないと者. との経験的で習慣的な結びつきによって説明されるのでなけれ よれば、私が或る距離の遠さを見たという場合べ美れ他鰔私が それ自体としては誤ってはいないであろう。確かに、われわれ
』
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(’’’’二)ところで、プラトン註釈者達の多くが、とりわけ『テアイテトス』一八四B’一八六Eに於けるプラトンを (犯) 第一一の人々の列に加えようとしていることは品それ程驚くに当らない。しかしそれは、プーフトンのそこでの議論が、見る
ことについての第二の人々の主張、或はそれに近似的なものを前提にしなければ、理解し得ないものとなるから、または その「知ることと感覚することとは同じではない」とする論証そのものが成立し得なくなるからではないpむしろ逆に、 後に明らかとなるであろうが、そのような主張を前提することによっては、その論証は成立し得ないものとなると同時 に、その議論を理解することも出来なくなるのである。註釈者達がプラトンを第二の人々の列に加えようとするのは、彼 らがプラトンの議論を、感覚することと判断することの区別に関する議論と誤解するからである。言い換えれば、彼らは プラトンを恰も第一の人々に対して議論しているかのようにみなすからなのである。感覚することが判断することである と主張するのは第一の人々であった。》そして、このようにプラトンが第一の人々に対して議論していると解する註釈者達
表現の類比三) 第一の人々の場合には、見ることは見ること以外の実に多くのものであるとされるだけで、それの何であるかは全く分 らないということになった。第二の人々の場合には、それと対照的に、見ることには「目を転じることに伴って生じた感 覚」というようなものだけが残されるだけで、実質的にはそれは殆ど何も見ないことであるという結果になった。執れに せよ、彼らから「見ることとは何か」を学び知ることは、到底出来そうにない。 ば良いのであろうか。 えられる。しかし、仮にとのことが正しいとしても、 れわれは距離の遠さを見ないとし工みまう。、ではへ」 をであろうかpしかしそれは目の運動感覚でないとしたら他に のであろうか。同様に、赤(の観念)』を見ないとしたら、普通 一体何を見るのであろうか。「目を賑Uることに伴って生じた感覚」
rBbモデルの}止しきは説剛扣の正しさではkい・パ・1ツリー忙撒ワて、⑳
他に何雷あ鞠得るのか空式zとわれ中釦稔泪ゆ運動感覚を滉掲 普通われわれが赤を見るという場合に、本当は何を見るとすれ
80
どうかを巡ってなされたのではなかったoそしてまた、糺実の廷ころ録プーウ汁シ鞭[赤産児患」町逢い杓一一一一口姉方を否定しない か巧匙やP笈髭の廷造腱馨や篭見ることは判断するととであると生張していると甦杠な名芒みなす必要はないPその言
、二、蜜』・lFrい方が含意して・いるのは(》取り敢えずは次のことだけであると考えるべきである。即ち、見るとはとにかく或る一定の何 かを見ることである。しかもそれは、「単なる何か」としか言いようのないもの『つまりいつでも不定の何かとしてのみ
。”『ロロPpLしかし、ここでプラトンは第一の人々に対して、感覚することが判断することであるかどうかを議論しているのではな い。もしそのことが問題であるとすれば、ここでプラトンがしなければならないのは、何かを見ることと、例えばそれを 赤と判断することとが違うという唯それだけのことを言うことであろう。そしてその結果、見ることについては、第二の 人々と同じように、正確には「赤を見る」と言ってはならないのであって単に「或る何かを見る」とだけ言うべきであ る、と主張することになるであろう。もしこのようであるとすると、ここでプラトンは殊更「共通のもの」について議論 する必要は全くなかったということになるであろうし、「あるというそのこと」に関する後半の議論は、それにも増して (説) 不必要なものであったということになるであろう。だが、プーフトンを第一一の人々の列に加えようとする人々の意に反し 〔犯) て、プラトン自身は「赤を見る」という一一一一口い方を否定しようとはしていない。では、これによってプーフトンは、第一の人 (羽) 々と同じように、見ることは判断することであると主張していることになるのであろうか。 しかし、問題は見ることが判断することであるかどうかということではない。それというのも、先に強調して置いたよ うに(’’1|)、ここでプラトンが議論している相手というのは、第一の人々でも第一一の人々でもなくて、むしろ第三の 人々だからである。その第三の人々に対する議論は、既に見たように(二’’一一)、感覚することが判断することであるか は、感覚することと判断することの区別が出来さえすれば、感覚することと知ることの区別は直ちになされ得るものと考 える。彼らによれば、プラトンは、知ることが判断の形式をとるということを、少くともここでは前提にしているはずだ える。彼らによれば、 (鋼) からである。 表現の類比(二)
牙」
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(三-一一一)その議論に於て、とりわけ見ることとは何かに関わる限りのことでプラトンが積極的に主張しているとみな されるべきは、先の「見るとは或る一定の何かを見ることである」ということを除けばへ以下の三点であるp即ち、(1) 厳密な意味に於てへ見えるもの(感覚されるもの)と見え葱いもの(感覚され趣いものl「共通のもの」)の区別があ るということ、(2)見えるものは目(のような感覚)を通して捉えられるが、見えないものはⅥそれ自身を通して捉え られるということ、(3)見えないものの一つである「あるというそのこと」は、目のような感覚を通しては決して捉え られないものであって、正にこのことによって見ること(感覚すること)と知ることとは区別されることになるのである
ということ、以上の三点である。ところで、今、私が或るものの赤を見ているとしよう。この場合、われわれは(3)を
、、
次のように解すべきであろうか。一つまり(3)によって一一一一口われているのはう単に見ることによっては同じであるかどう
、T、、
か、一つであるかどうか勾赤であるかどうか鶴といったことを捉えることが出来ないということであるpそしてそれは、単
、、、、、、、って、いつでもそうだということでは決してない。それ故、見るとはとにかく或る一定の何かを見ることである(この場 (側) 合、単なる何かを見るということも、それはそれで一定の何かを見ることである)。‐1-‐もしこのことが、既に示唆された ように、見ることについての第一の人々の主張と理解されることも、また第二の人々のそれと理解されることも出来ない とすると、われわれには二体どのような可能性が残されているのであろうか。それ潮はどのように理解されるべきであるの か。言い換えれば、「テアイテトス』一八四B’’八六Eに於けるプラトンの感覚することと知ることの区別についての 議論は、見ることについてはそれをどのようなものであるとするのであろうか。 ある‐ものだけを見るということでは想い。‐われわれはいつで‘も赤’ばら赤、立方体弁やら立方体を見る.のでおワ・て、溌刃・斗口鵡
、、、、、
ければ白でもな/札へ叱或は立方体で魁なければ球で』も尊く「一・1その他如何散る‐もので↑もないような単な掻何かを見るのではな い。単なる何かを見ると}或るし座ないよう芯場合もあるに違いないが、それば詮笏いう場合もあるとい畝だけのことであ
表現の類比(二)
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侶膨
単に一定の何かであるということだけをでは●なくて、真にそれであるというと●とを捉えるので
-『氏戸J》といったこ》とである穴。という点を明示していたp「あるとい.うそのこと」..を捉えることによって、|私は私の見●た砂ものが、 捉えるならば或る一定の何かを見ることになり、捉えないならば単に不定の何かだけを見るこ
視r三f三グ串。表現の類比三)
に見ることによってはそれをそれとして捉えることが出来ないということなのであるから、当然、「赤を見る」という言 い方をしてはならないということになる。逆に、「赤を見る」という言い方を許容し、そのようにして一定の何かを見る のであるということを依然として主張しようとする場合には、(2)に反して見えないはずのものまで目を通して捉えら れるとすることになり、結局のところ(1)の見えるものと見えないものの区別を意味のないものとすることになるので
ある.lこれに対しては、そのように「赤を見る」という一一一一曰い方を許容したとしても、(3)を次のように解するので あれば、見えるものと見えないものの区別を無意味なものとしなくて済む、とする考え方もあるかも知れない。即ち、 (3)の言っていることは、見ることから「あるというそのこと」を捉える唖の働きを切り離してはならないということ
であって、もし唾なしでも見ることが出来ると考えた場合には、そしてその場合にのみ、先のように単なる何かを見ると
、、、、、、、
しか考えられなくなるのである。このように主張する人々は、実際プラトンによって寸切によって見るということが、前 半の議論のはじめのところで強調されていたではないかと付け加えるかも知れない。しかし、彼らの主張するように切に よって見るとしたところで、「あるというそのこと」が目を通しては捉えることの出来ないものである限りは、少しも事 情は変らないであろう。それとも、「あるというそのこと」は見ることによってもP何らかの仕方で捉えられるとすべき であるのか。そして、「切によって見る」は正にそのことを言わんとするものであると考えるべきであるのか。だが、も しそうだとすると、それはやはり見えるものと見えないものの区別を無意味なものとすることでしかあるまい。
然し乍ら品(3)の「あるというそのこと」を捉えることが出来るかどうかということで問題とされるべきは、それを
ではない□cわれわれの先の考察〈(一一小‐三)』は、・この場合に問題であるのは、、例えば私の見たいものが真に赤であるかどうか
、、。。、。、、、、、(皿)
早乙一道、可,小であるとぼうととだけをではなくて、.真にそれであるというととを捉えるのである約一一先の私の例に剛して とになるというよ鼠など産
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って唖それ自身を通してでなければ、そういったことを捉えることが出来ないということも明らかにされたのであねたp しかし以上のことは、切なしでは何も見えない、つまり見ることそれ自体が不可能になるということを意味しないし、そ れどころかへ或る一定の何かを見るということを否定することすら意味しないのである。それによって言われようとして いるのは、要するに、その場合私にはへ真に球に触れたのかどうか、真に立方体を見たのかどうかといったことを問題に する可能性がどこにも残されてないということであり、私はそういう仕方で球に触れたのであり、立方体を見たのである という唯それだけのことである。しかもこの場合、単にそれが真に球であるかどうか、立方体であるかどうかが問題にな り得ないだけではなくて、球の何であるか、立方体の何であるかということも同じく問題になり得ないのであった。それ 故、これは次のようなことであるとしなければならない。即ち、球に触れたという場合瓦そのものは球であるのでも球で
、、
ないのでもなく、唯球となるだけである。同様に立方体を見たという場合、そのものは立方体であるのでも立方体でない
、、、、
のでもなく、唯立方体となるだけである。言い換えれば、それが立方体となるという正にそのことが、立方体を見るとい うことなのであるp従って、「或る一定の何かを見る」ということに於て間題なのは、「一定の何かである」ということで
(砲)はなくて、「一定の何かになる」ということなのであり、その生成の説明方式なのである。
しかし、以上のように解することは、所謂生成(魚ごmqR)と存在(。。q胃)とに関する一一世界論の描きを受け容れよう
〔幅)とすることでは決してない。われわれが受け容れるべきは、見ることによっては「あるというそのこと」を捉えることが 出来ないという唯そのことだけである。しかし、たとえこのことが見えるものと見えないものとの厳密な区別に基づくの であるとしても、だからといって、見えるものについては「あるというそのこと」を捉えることが出来ない、それ故見え 言えば、私が一方で球に触れたと感じ、“他方で立阯万邨棒を見 たりするのではないとし偲花場合にはく}それ蛾同過言|うの.贈 方体竃あるのがどいつ麓ごとを没私は問題にすることすら
表現の類比(二) 出来ないのであつ鎭野そも正注だ「先の考艤に生一P定評酒にま
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たとしても、よりしv伽生澄叶Vれば、.『つ●ま△0Wによっ・て榔一餌れぞ化》阿閏賭 の定あるのか老夢か、:芝してそれ饒憾球であるの.かく’それと、も立
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式とは、
あ一つ》フ。 石ものについては、厳密な意味での知ることが成立し得ないということになるのではない。むしろ逆にわれわれは、もし 知ることがそもそも可能であるとすれば、これまでのわれわれの考察が示す限りでは、つまり知ることの必要条件が問題 とされただけで、j十分条件については何も問題とされなかったその限りでは、見えるものについても、他のものについて と同じだけ厳密に、知ることが可能であるということを明らかにしなかったであろうか。
ところで或る人々は、立方体や球、或は柔さや固さが、目を通して、或は手を通して捉えられるとすることに、或る疑 いを持つかも知れない。何故なら、それらは「イデア(エイドス)」であって、感覚されるものではないとプラトンは語 (“) っていたはずだからである。だが、この点については次のことに注意すべきである。即ち、例えば立方体が目を通して捉 えられるとしても、それは立方体の「何であるかというそのこと」が目を通して捉えられるということではないのであ るbもし立方体の何であるかが問題になるとしたら、それもやはり「あるというそのこと」を捉えることが出来るかどう かの問題としてでなければならない。それ故、それは見ることや触れることの問題ではなくて、知ることの問題なのであ る。従って、もし立方体の「イデア(エイドス)」というものがあって、そしてそれが立方体の「何であるかというその
こと」を言うものであるとすれば、それを捉えることが出来るのは、目や手を通してではなくて、やはりⅥそれ自身を通 (蝿) してである.lそれにしても、立方体の何であるか、蕊は立方体が球でないといったことすら、全く問題に癒り得ない ようなところで(感覚することとはそのように規定される以外にないのであった)、それでも猶、見るとは或る一定の何 かを見ることであるとすることに、|体どれ程の意味があるのかと人は問うかも知れない。しかし、もしそのことに意味 を見出すことが出来ないのであれば、その人は、否応なく、見ることは単に不定の何かを見謁仁と室山かないとす名セ・と. に同意しなければならないであろう懐量れだけではないPその人はまた、;「ある」と』「なる」とを混同することになるで 表現の類比(二)
結[同は同じものであって良い少〒することになるであらう。何叩取なら、’その入は、.「一定の何かでLある」というこ 即ち〈『あLるというそのこと」の問題及び・そのことについての理論と、「生成」の問題及びそれについての税明方
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るものが一定の何かになる)。 (2)見ることそれ自体に於ては、真偽は問題となり得ない。それは、見ることによっては「あるというそのこと」を
、、、
捉えることが出来ないからであり、(1)に関連して一一一一口えば(それ故見るととそれ自体に於ては、或る一定の何かであるか どうかということも問題になり得ないからであるP (3)しかし、(2)は見えるものについては真偽が問題となり得ない、言い換えれば見えるものについては、厳密な 意味に於て、知るということが成立し得ないということではない。見えるものについても、もしその「あるというそのこ と」を、唖によって唖それ自身を通して捉えるのであれば、そしてそれが知ることの唯一の成立条件とされる限りでは、 他のものについてと同じだけ厳密な仕方で知ることが出来るとして良い。 (4)ところで、(1)と(2)は、:||||ロわば唖を考慮の外に置いた場合の見ることそれ自体に関するわれわれの考察の 帰結である。しかし、唖を考慮に入れた場合の見ることについて、つまり「ヅによって見る」ということについては、ど のように考えられるべきであるのかCとの点に関しては未だ明らかにされていないo‐11最後にこの点を明らかにすると 同時に、それと関連する若干の事柄に言及することにしたい。;.:、
表現の類比(二) とと、「一定の一例かになる」ということの間に、 融芋,・・鰹酔う瓠...》.’・;品一才.塁《典鐵い禅一・・“へ 四{.
「見ることとは何か」に関する以上の考察からの帰結は、次の通りである。 (1)見るとは或る一定の何かを見ることである。しかし、或る一定の何かを見るということに於て間題なのは【或る
、、、、ロL二、
一定の何かであるかどうかということではなくて、或る一定の何かになるということである(見られることによって、或 .【〃〕 何ら違いを見山山,一q〈と。とが四四」采』Ⅸ》仏のだくか.Zp-でL〒(四『》〈》⑭.:.》。.]亨
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うもののことである。「Yによって見る」は、その意味に於て、 たりするととは決してないであろう。ところで、
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なるということであった。それ故、私私「表現」 ,結論から言えば、「唖によって見る」に於ける「唖によって」は、見るととそれ自体が成立するための条件なのではな く、,訓何かそれ以上のことが成立するための、つまり見ることが「表現」であるための条件なのである○見るととそれ自体 が成立するために唖が必要であるということはない。唖がなくても見ることは可能である。そうでないとすると、見るこ とが出来るということは、真偽を問題にすることが出来るということになる。それ故、「辺によって」は、少くとも見る ことそれ自体のではなくて、何かそれ以上のことの成立するための条件であるとしなければならない。ところで、われわ
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れは「切によって見る」のでなければ、われわれの見たものが同じ一つのものであるのかどうか、そしてまたそれは何で
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