真田宝物館 特別企画展
松
代
藩
と
黒
船
来
航
真
田
宝
物
館
松代藩
と
江 戸 時 代 、 幕 府 は 異 国 と の 関 わ り を 必 要 以 上 に 避 け 、 開 国 の 窓 口 を 制 限 し て い ま し た 。 し か し 、 十 八 世 紀 後 半 に な る と 、 日 本 へ 黒 船 ( 異 国 船 ) の 接 近 が 目 立 つ よ う に な り ま す 。 そ の た め 日 本 国 内 で は 海 防 の 重 要 性 が 盛 ん に 唱 え ら れ る よ う に な り 、 幕 府 は 寛 政 年 間 ( 一 七 八 九 ~ 一 八 〇 一 ) 以 降 、 沿 岸 諸 藩 へ 海 防 体 制 の 強 化 を 呼 び か け 、 ま た 将 軍 の お 膝 元 で あ る 江 戸 湾 警 衛 の 強 化 を 図 り ま し た 。 松 代 藩 は 、 陸 地 に 囲 ま れ 領 地 に 沿 岸 を 持 っ て い ま せ ん で し た が 、 海 防 と ま っ た く 無 関 係 だ っ た わ け で は あ り ま せ ん 。 八 代 藩 主 真 田 幸 貫 は 天 保 十 二 年 ( 一 八 四 一 ) に 幕 府 の 老 中 と な り 、「 海 防 内 懸 り 」 を 務 め ま し た 。 そ の た め 多 く の 海 外 情 報 を 集 め 、 藩 内 で も 率 先 し て 軍 備 の 強 化 を 進 め ま し た 。 嘉 永 六 年 ( 一 八 五 三 ) に ア メ リ カ の ペ リ ー 艦 隊 が 浦 賀 に 現 れ る と 、 松 代 藩 は 品 川 に 設 け ら れ た 台 場 の 警 衛 を 担 当 す る こ と に な り 、 翌 七 年 ( 一 八 五 四 ) の ペ リ ー 再 来 航 で は 、 横 浜 に 設 け ら れ た 応 接 場 の 警 衛 を 務 め ま し た 。 こ の よ う に 松 代 藩 は 海 防 政 策 に 大 き く 関 わ っ て お り 、 真 田 宝 物 館 に は 海 防 関 係 の 資 料 が 多 く 残 さ れ て い ま す 。 今 回 の 展 示 で は 、 真 田 宝 物 館 所 蔵 の 海 防 関 係 資 料 を 元 に 、 八 代 藩 主 真 田 幸 貫 が 取 り 組 ん だ 海 防 政 策 と 、 ペ リ ー 来 航 後 に 松 代 藩 が 担 当 し た 海 防 の 実 態 に 迫 り ま す 。 最 後 に な り ま し た が 、 本 展 覧 会 の 趣 旨 に ご 賛 同 頂 き 、 貴 重 な 資 料 を 出 品 し て 下 さ い ま し た 所 蔵 者 の 皆 さ ま 、 ご 協 力 を 賜 っ た 関 係 各 位 に 対 し 、 心 か ら 厚 く 御 礼 申 し 上 げ ま す 。 平 成 二 十 五 年 九 月 真 田 宝 物 館
ごあいさつ
目
次
【 凡 例 】 一、 本 図 録 は、 平 成 二 十 五 年 六 月 五 日 か ら 九 月 二 日 を 会 期 と す る 真 田 宝 物 館 企 画 展「 真 田 幸 貫 と 海 防 」 お よ び 平 成 二 十 五 年 九 月 四 日 か ら 十二月二日を会期とする真田宝物館特別企画展 『松代藩と黒船来航』 の展示解説図録である。 一、 本図録の編集は、必ずしも展示のテーマ、展示の順序と一致しない。 一、 展示資料は会期中に展示替えを行う。 一、 掲 載 資 料 の う ち、 所 蔵 先 が 明 記 さ れ て い な い も の は、 真 田 宝 物 館 の 所蔵である。 一、 本 図 録 の 刊 行 に あ た り、 嶋 村 元 宏 氏( 神 奈 川 県 立 歴 史 博 物 館 ) よ り 玉稿を賜った。 一、 展 示 の 企 画 は 学 芸 員・ 降 幡 浩 樹、 専 門 員・ 山 中 さ ゆ り、 溝 辺 い ず み が担当し、小山万里、丸山恵美子の協力を得た。 一、 作品展示解説は、 一章 「真田幸貫と海防」 は山中さゆり、 二章 「ペリー 来 航 と 松 代 藩 士 の 記 録 」 三 章「 警 衛 」 は 溝 辺 い ず み が そ れ ぞ れ 執 筆 担当した。 一、 図 録 写 真 は 高 久 良 一 氏 に 撮 影 を 依 頼 し た。 そ の 他 の 写 真 は 当 館 所 蔵 の原板を使用した。 一、 史料の欠損、または判読不明の文字は、□□(字数分)で示した。 ごあいさつ 目次・凡例 論 考 「松代藩とペリー来航」 嶋村 元宏 図版 第一章 真田幸貫と海防 一節 幕末の海防政策 二節 老中真田幸貫の海防 三節 真田幸貫を取り巻く人びと 四節 佐久間象山の登用と砲術 五節 松代藩の海外情報収集と役割 第二章 ペリー来航と松代藩士の記録 一節 ペリー来航 二節 交歓 ― 松代藩士が描いたペリー一行 ― 第三章 警 衛 一節 横浜応接場警衛 二節 太田陣屋 三節 品川第六台場警衛 掲載資料一覧 主要参考文献 謝 辞 1 7 8 16 28 32 44 53 54 68 81 82 100 108 127 130 131神奈
川
県
立
歴史博物館
主任学芸員
嶋村
元宏
幕 末 日 本 を 震 撼 さ せ た ペ リ ー 来 航 。そ の 時 、信 州 松 代 藩 主 真 田 幸 教 は 、 自 ら 積 極 的 に 江 戸 湾 防 備 を 担 う こ と を 幕 閣 に 願 い 出 て い る 。他 藩 に 見 ら れ な い 異 例 の こ と で あ っ た 。 嘉 永 六 年( 一 八 五 三 )六 月 三 日 に 浦 賀 に 来 航 し た ア メ リ カ 東 イ ン ド 艦 隊 へ の 対 応 に 関 し て 、六 月 九 日 付 で 阿 部 正 弘 を 筆 頭 と す る 老 中 に 宛 て 、品 川 御 殿 山 警 衛 を 願 い 出 た 1 。こ れ は 軍 議 役 を 命 じ た 佐 久 間 象 山 の 献 言 に も と づ き な さ れ た も の で 、す で に 御 殿 山 の 警 衛 に つ い て は 福 井 藩 が す べ て 担 当 す る こ と に な っ て い た が 、そ の 一 部 を 松 代 藩 に も 任 せ て も ら い た い と い う も の で あ る 。 そ の 後 こ の 願 い 出 は 、松 代 藩 内 に あ っ て 佐 久 間 象 山 等 と 対 立 す る 反 対 派 に よ っ て 取 り 下 げ ら れ る こ と に な る が 、嘉 永 七 年( 一 八 五 四 )正 月 、ペ リ ー 艦 隊 が 再 来 航 し た 際 に は 、応 接 場 が 設 け ら れ た 横 浜 や 江 戸 湾 に 新 た に 築 造 さ れ た 品 川 第 六 台 場 の 警 衛 を 担 当 す る こ と に な る 。 ペ リ ー 来 航 時 に お け る 松 代 藩 の 活 動 で 他 藩 と く ら べ て 特 筆 す べ き 点 は 二 点 あ る が 、そ の う ち の 一 つ が こ の 警 衛 活 動 で あ る 。 当 然 、江 戸 湾 防 備 は 松 代 藩 に 限 っ た こ と で は な く 、多 く の 藩 に 割 り 当 て ら れ た が 、横 浜 応 接 場 の 警 衛 と い う 重 責 を 任 さ れ た の は 小 倉 藩 小 笠 原 家 と こ の 松 代 藩 真 田 家 だ け で あ り 、幕 府 の 松 代 藩 に 対 す る 強 い 信 頼 感 を 裏 付 け る も の と い え よ う 。 す で に ペ リ ー 来 航 時 に お け る 松 代 藩 の 警 衛 を 中 心 と し た 動 向 に つ い て は 、『 松 代 町 史 』2 、『 長 野 県 史 』3 、『 長 野 市 誌 』4 等 の 自 治 体 史 、お よ び 松 代 の 歴 史 を 長 年 に わ た り ひ も と い て こ ら れ た 大 平 喜 間 多 氏 の 研 究 5 で 明 ら か に さ れ て い る と こ ろ で あ る が 、小 文 で は そ れ ら の 先 学 に よ り な が ら 、再 度 松 代 藩 の ペ リ ー 来 航 時 の 警 衛 の 状 況 と 、警 衛 時 に お け る 松 代 藩 独 自 の 情 報 探 索 活 動 に つ い て 、ア メ リ カ 船 の 情 報 を 提 供 し た り 、人 足 や 馬 を 提 供 し た り す る な ど 松 代 藩 の 活 動 を 支 援 し た 人 々 を 紹 介 し つ つ あ ら た め て 詳 述 す る こ と に し た い 。 ま た 、も う 一 点 特 筆 す べ き こ と と し て 、二 人 の 松 代 藩 士 、す な わ ち 藩 医 の 高 川 文 筌( 森 嶺 )と 能 役 者 の 樋 畑 翁 輔 が 、こ の 当 時 の 状 況 を 克 明 に 描 き 、 絵 に 遺 し て い る こ と が 挙 げ ら れ る 。松 代 藩 自 体 が 横 浜 応 接 場 の 警 衛 を 任 さ れ た こ と に 加 え 、幕 府 応 接 掛 の 一 人 で あ っ た 伊 沢 政 義 と の 関 係 で 、応 接 場 内 に 入 る こ と が 許 さ れ 、直 接 ペ リ ー 等 ア メ リ カ 人 士 官 を 実 見 す る こ と が 可 能 で あ っ た こ と に よ る 6 。 す で に こ の 二 人 に よ る 絵 が 多 数 遺 さ れ て い る こ と は 周 知 の 事 実 で あ り 、あ ら た め て 述 べ る 必 要 も な く 、ま し て や ま っ た く 新 た な 事 実 を 付 け 加 え る も の で は な い が 、こ れ ま で 知 ら れ る こ と が な か っ た 、新 た に 発 見 さ れ た 史 料 の 記 述 も 紹 介 し な が ら 、特 に 文 筌 の 活 動 に 目 を 向 け て お き た い 。は
じ
め
に
松
代
藩
と
ペ
リ
ー
来
航
1 論 考 松代藩とペリー来航第 一 回 目 の ペ リ ー 来 航 に 際 し、 品 川 御 殿 山 一 部 警 衛 負 担 を 希 望 す る 願 書 は、 軍議役佐久間象山の進言により藩主幸教の名で、 幕閣に宛て出されたの で あ る が、 御 殿 山 を 持 ち 場 に し た い と い う こ の 願 書 7 は、 内 容 的 に も 佐 久 間 象山の意見が強く盛り込まれたものであることはこれまでの研究で指摘さ れ て い る と お り で あ り、 全 く 異 論 は な い。 し か し、 内 容 を 見 て い く と 一 つ 特 徴 的 な こ と に 気 が つ く。 そ の 願 書 の 文 面 に は「 亡 祖 父 」の 文 言 が し ば し ば 見 ら れ る の で あ る。 「 亡 祖 父 」と は 松 代 藩 第 八 代 藩 主 に し て 幸 教 の 祖 父 に あ た る 真 田 幸 貫 の こ と で あ る。 象 山 の 意 見 が 強 く 見 ら れ る 願 書 に 頻 繁 に 幸 貫 が 引き合いに出されているのである。 幸 貫 を 引 き 合 い に し て 書 か れ た こ の 願 書 は、 一 般 的 な 願 書 と は 若 干 趣 を 異にしていると思われる。 そこで、 まず幸貫を引き合いにしてまで書かれた 願 書 に つ い て 検 討 し、 ペ リ ー 来 航 時 に お け る 海 岸 防 禦 お よ び 警 衛 に 対 す る 松代藩の熱意がいかほどのものであったかを把握しておきたい。 ま ず 冒 頭 に は、 幸 貫 が 常 々 幸 教 へ 言 い 聞 か せ て い た こ と が 記 さ れ て い る。 すなわち、 幸貫は 「外寇之防禦」 について一生苦心していたが、 藩経営も思う よ う に 行 え て い な い 中 で も、 「 火 器 制 作 」つ ま り 大 砲 や 鉄 砲 な ど の 武 器 製 造 だけは常に心がけており、 万が一江戸湾周辺で 「異変」 があった際には、 江戸 常 駐 の 有 り 合 わ せ の 家 来 で は 不 十 分 か も 知 し れ な い が、 防 禦 に 全 力 を 傾 け たいと常々言っていたという。 その言葉は、 今でも強く幸教の耳に残ってい る と し、 海 岸 防 禦 を 担 う こ と は、 先 代 の 遺 志 で あ り、 そ れ を 受 け 継 ぎ た い と いうことを強く訴えかけているのである。 そ し て、 今 回 渡 来 し た 数 艘 の 異 国 船 は、 浦 賀 番 所 を 突 破 し、 本 牧 周 辺 ま で 侵入してきたが、 将軍の威光に恐れをなしたか、 当初投錨した地点まで戻っ た、 と 詳 細 に 異 国 船 の 動 向 を 説 明 す る。 こ れ は、 異 国 船 来 航 の 報 に 接 し た 佐 久 間 象 山 が、 藩 命 に よ り 六 月 四 日 か ら 六 日 に か け て 浦 賀 で 異 国 船 の 動 向 を 探索した結果をもとにした記述と思われる。 そ の よ う な 状 況 を 踏 ま え、 幕 府 と し て は こ れ か ら 江 戸 湾 周 辺 の 防 備 を 分 担 さ せ よ う と し て い る 段 階 で あ る の で、 「 亡 祖 父 製 置 候 火 器 を 以、 兼 而 之 遺 志 を 相 継、 相 固 メ 可 申 場 所 壱 ヶ 所 被 仰 付 候 様 仕 度 奉 存 候 」と、 幸 貫 の「 遺 志」 を継いで防禦すべき場所を一箇所申しつけてもらいたいとしている。 持 ち 場 に つ い て は、 一 見 幕 府 の 命 じ る ま ま に 受 け 入 れ る よ う に 記 載 し て いるが、 本音は別のところにあった。 大砲は火薬を大量に使用するので人家 が 近 い 場 所 で は 危 険 で あ る た め、 ま た 少 し で も 浦 賀 周 辺 で 異 国 船 の 侵 入 を 食 い 止 め た い の で あ れ ば、 浦 賀 近 辺 へ の 出 張 が 申 し 付 け ら れ る と 考 え て い る と 述 べ つ つ、 「 す で に 本 牧 周 辺 に ま で 侵 入 し て き て い る の で、 当 然 品 川 周 辺 海 域 ま で 侵 入 す る こ と は 予 想 に 難 く な く、 そ の 時 に は 御 殿 山 あ た り が 重 要な場所になるのではないかと考えております」 、と暗に御殿山を持ち場に 希望するのである。 御 殿 山 に つ い て は 福 井 藩 が 担 当 す る こ と に 決 ま っ て い た が、 守 備 範 囲 が 広範であることを理由に、 「就而は右辺相固候様、 此節蒙 仰、 万一異国船内 海 江 乗 入 候 節 ハ、 少 人 数 ニ は 候 得 共、 力 之 限 り 防 禦 仕、 亡 祖 父 生 前 之 夙 志 を も 相 達 度 奉 存 候、 此 段 何 分 に も 宜 御 勘 弁 御 差 図 被 下 度 奉 存 候 」と、 御 殿 山 の 一部警衛を希望し、 異国船が江戸湾内に侵入した際には、 少人数であっても 防禦に力を注ぎ、 幸貫が生前に抱いていた志を全うしたいと、 並々ならぬ決 意を披瀝したのである。 そ も そ も 幸 教 の 祖 父 幸 貫 は、 周 知 の よ う に 寛 政 の 改 革 を 推 進 し た 老 中 松 平 定 信 の 次 男 と し て 生 ま れ、 真 田 家 へ 養 子 に 入 り、 藩 主 と な っ て い る。 定 信 は 老 中 で あ っ た 寛 政 四 年( 一 七 九 二 )、 根 室 に 通 商 を 求 め て 来 航 し た ロ シ ア 使節ラクスマンの対応にあたり、 その後海岸防禦体制の重要性を認識して、
一
、
海
防
に
対
す
る
松
代
藩
の
熱
意
2 論 考 松代藩とペリー来航は じ め て 海 岸 防 禦 御 備 掛( 海 防 掛 )を 兼 任 し た 人 物 で あ る。 そ の 次 男 と し て 生まれた幸貫も、 水野忠邦とともに天保期の幕政を担う老中職に加え、 天保 十三年 (一八四二) には実父定信同様海防掛も兼ねたのである。 そ し て 幸 貫 は 海 防 掛 と な る と、 佐 久 間 象 山 に 洋 学、 特 に 伊 豆 韮 山 代 官 の 江 川 太 郎 左 衛 門 英 龍 か ら 洋 式 兵 学 を 学 ば せ て い る。 ペ リ ー 来 航 前 年 の 嘉 永 五 年( 一 八 五 二 )に 幸 貫 は 没 し た が、 そ の 遺 志 で あ る 海 防 に 対 す る 並 々 な ら ぬ 熱 意 は、 佐 久 間 象 山 を 中 心 と し て 松 代 藩 の な か に 脈 々 と 受 け 継 が れ て い た のである。 嘉 永 六 年 の ペ リ ー 第 一 回 来 航 時 に お い て は、 先 に 見 た よ う に 幕 府 へ 願 書 を出す一方、 江戸藩邸から国元に宛てて鉄砲、 弾薬および臨時出役を要請す る 急 飛 脚 を 送 っ て い る。 そ し て そ れ に 応 じ て 十 三 日 の 朝 徒 士 五 人 が 江 戸 へ 向け松代を出発し、 矢代駅 (現在の屋代) に到着したところで、 江戸から来た 飛脚からの書状を受け取った。 その書状には 「昨十二日朝五時過異国船帰帆 致 し 候 ニ 付、 臨 時 出 府 の 儀 ニ 不 及 」と あ り、 久 里 浜 で の 大 統 領 国 書 奉 呈 を 終 え、 すでにアメリカ艦隊が十二日朝退帆したので、 国元からの臨時出役は不 用であることが認められていたのである 8 。 品 川 御 殿 山 の 警 衛 を 希 望 し た が、 ペ リ ー 艦 隊 が 一 時 日 本 を 離 れ た こ と に より、 その必要はなくなってしまったのである。 また、 その直後、 この時警衛 活 動 を 推 進 し て い た 象 山 等 の グ ル ー プ に 反 対 す る 勢 力 が 画 策 し、 幕 府 に 提 出 し た 御 殿 山 警 衛 を 希 望 す る 願 書 を 取 り 下 げ さ せ、 さ ら に 象 山 を 軍 議 役 か ら 罷 免 さ せ る な ど、 警 衛 推 進 派 は 松 代 藩 内 に お け る そ の 政 治 的 主 導 性 を 一 時奪われることになった。 し か し、 ペ リ ー が 再 来 航 を 果 た し た 嘉 永 七 年 正 月 に は、 再 度 警 衛 推 進 派 が 嘉 永 七 年 二 月 十 日 、横 浜 応 接 場 で 幕 府 主 催 の 饗 応 が 催 さ れ た 当 日 は 、午 前 六 時 頃 に 支 度 す る よ う 触 が 出 さ れ 、午 前 七 時 に 宿 舎 を 出 発 し 、持 ち 場 に つ い て い る 。正 午 頃 か ら 祝 砲 を 相 図 に 上 陸 が 始 ま り 、そ の 様 子 に つ い て は 、今 後 の 参 考 の た め と し て 、代 わ る 代 わ る 見 学 す る こ と が 許 さ れ た 。そ し て 、午 後 四 時 頃 饗 応 が 終 わ っ た が 、残 念 な が ら 饗 応 の 具 体 的 な 様 子 に つ い て は 、「 亜 墨 利 加 人 御 警 衛 一 件 」に 記 載 は な い 。 勢力を得て、 横浜応接場の警衛を担当することになった。 そ の 時 の 状 況 を 詳 し く 記 録 し た「 亜 墨 利 加 人 御 警 衛 一 件 」9 は、 正 月 十 五 日、 ペ リ ー 使 節 の 応 接 に あ た り 上 陸 場 所 周 辺 の 警 衛 を 幕 府 か ら 命 じ ら れ た ことから始まる。 この日はまだ具体的な場所について指示はなかったが、 翌 十 六 日 横 浜 ・ 本 牧 周 辺 で あ る こ と が 決 ま る と、 江 戸 家 老 望 月 主 水 を 総 督 に、 佐 久 間 象 山 を 軍 議 役 に 任 命 し、 ま た 後 に ペ リ ー 等 ア メ リ カ 使 節 の 記 録 画 を 遺 す こ と と な る 能 役 者 の 樋 畑 翁 輔 も 海 防 臨 時 出 役 に 加 わ る こ と と な っ た。 さらに二十八日には樋畑同様ペリー等の肖像画を描くことになる藩医高川 文筌も海防臨時出役を命じられている。 な お、 幕 府 か ら 海 防 を 命 じ ら れ た 際 の 警 衛 体 制 に つ い て は、 す で に 天 保 十 五 年( 一 八 四 四 )に 定 め ら れ、 老 中 阿 部 正 弘 へ 書 面 に よ り 提 出 さ れ て い た が、 役職や割り当て人数などが現状と合わなくなっていたこともあり、 若干 変更が加えられたうえで、 それにしたがって組織されている。 二 月 六 日 に 海 防 臨 時 出 役 の 面 々 は 江 戸 藩 邸 を 出 発 し、 望 月 主 水 等 数 人 は、 神奈川宿に宿泊したが、 その他は川崎宿に到着すると、 川崎宿では有名な旅 籠 屋 の 稲 毛 屋 甚 八 方 に 投 宿 し た。 そ し て 十 日 か ら は じ ま る 日 米 交 渉 の 舞 台 となる横浜 ・ 本牧周辺の警衛を本格的に始めたのである。
二
、
ペ
リ
ー
来
航
時
の
対
応
三
、
横
浜
応
接
場
警
衛
時
の
探
索
活
動
と
松
代
藩
を
支
え
た
人
々
3 論 考 松代藩とペリー来航饗 応 の 様 子 に つ い て は 、こ の 海 防 臨 時 出 役 に 参 加 が 命 じ ら れ た 藩 医 の 高 川 文 筌 と 能 役 者 の 樋 畑 翁 輔 が 絵 と し て 遺 し て い る が 、そ の 絵 と と も に 高 川 文 筌 か ら の 聞 書 が 記 述 さ れ た 文 書 に 詳 し い 。以 下 、文 筌 か ら の 様 子 を 聞 い た 松 代 藩 士 の 記 録 10を 見 て い き た い 。 饗 応 か ら 三 日 後 の 二 月 十 三 日「 横 浜 応 接 場 の 斥 モノミ 」、 つ ま り 探 索 を 命 じ ら れ た 松 代 藩 士( 姓 名 不 詳 )は 、早 暁 新 橋 の 松 代 藩 邸 を 出 発 し 、五 人 の 従 者 と と も に 横 浜 へ 向 か っ た 。 横 浜 へ 至 る 途 中 の 様 子 も 詳 し く 記 さ れ て お り 、大 森 で は 伊 予 松 山 藩 が 土 俵 で「 砂 盾 」を 作 り 、大 砲 を 設 置 し て い る 様 子 や 、神 奈 川 宿 で は 明 石 藩 が 各 旅 宿 に 幕 を 張 っ て い る 様 子 が 詳 細 に 記 述 さ れ て い る の に 加 え 、途 中 尾 張 藩 や 福 山 藩 の 武 装 し た 一 団 と 出 会 っ た こ と や 、川 崎 で 有 名 な 旅 館 兼 茶 屋 の 万 年 屋 に は 諸 藩 の 探 索 方 が 休 息 し て い た こ と も 記 録 し て い る 。 藩 士 は 神 奈 川 宿 に 到 着 す る と 、二 つ あ っ た 本 陣 の 内 、よ り 横 浜 に 近 い 鈴 木 源 太 左 衛 門 の 本 陣 に 入 っ た 。こ こ は 、幕 府 応 接 掛 の 一 員 で も あ っ た 浦 賀 奉 行 伊 沢 美 作 守 政 義 が 仮 役 宅 と し て 滞 在 し て い た と こ ろ で も あ っ た 。 こ こ に は 海 防 臨 時 出 役 の 一 員 と し て 佐 久 間 象 山 と と も に 横 浜 応 接 場 の 警 衛 に 参 加 す る こ と が 命 じ ら れ て い た 藩 医 の 高 川 文 筌 も 身 を 寄 せ て い た の で あ る 。文 筌 は 、松 代 藩 の 一 員 と し て 横 浜 に や っ て 来 て い た の で あ っ た が 、伊 沢 の 求 め で 伊 沢 付 の 医 師 と し て 応 接 場 内 も 含 め 伊 沢 と 行 動 を 共 に し て い た の で あ る 11。 そ の 文 筌 か ら 十 日 の 饗 応 時 の 様 子 と ア メ リ カ と の 通 商 の 可 能 性 に つ い て 情 報 を 入 手 し て い る 。 ま た 、藩 士 自 身 も 直 接 見 聞 を 重 ね て い る 。ア メ リ カ 人 兵 士 が 墓 地 で 石 地 蔵 に 関 心 を 寄 せ て い る こ と や 、綿 を 選 り 分 け て い る 老 婆 か ら 綿 を も ら お う と し た り 、大 八 車 に 関 心 を 寄 せ た り と い っ た ア メ リ カ 人 兵 士 の 行 動 に も 目 を 向 け て い た 。さ ら に 、ア メ リ カ 人 兵 士 が 葬 ら れ た 増 徳 院 へ 向 か う 途 中 、村 人 が 背 負 っ て い た 赤 子 に 愛 想 よ く し て い る ア メ リ カ 人 兵 士 に も 出 会 っ て い る 。 そ の 後 、海 防 臨 時 出 役 総 督 で 松 代 藩 江 戸 家 老 の 望 月 主 水 が 滞 在 す る 増 徳 院 を 訪 れ 会 見 し 、公 命 を 伝 え る と と も に 、六 日 以 来 の 警 衛 に 対 し て 労 い 、十 日 の 応 接 以 来 の 状 況 を 聞 き 辞 去 し て い る 。 こ の よ う に 横 浜 応 接 場 の 警 衛 と は 別 に 情 報 探 索 活 動 も 継 続 し て い た の で あ る が 、こ の 活 動 は 地 元 の 人 々 の 支 援 の 中 で お こ な わ れ て い た 。 神 奈 川 宿 で こ の 藩 士 は 鈴 木 本 陣 を 訪 れ た が 、す で に 先 月 十 六 日 、す な わ ち 松 代 藩 に 対 し 横 浜 の 警 衛 が 命 じ ら れ た 日 に も 神 奈 川 宿 を 訪 れ 、源 太 左 衛 門 を 見 知 っ て い た こ と も あ り 、今 回 の 訪 問 に 対 し て 源 太 左 衛 門 は 藩 士 の 来 訪 を 労 い 、さ ら に 海 上 で の 探 索 活 動 が ス ム ー ズ に 行 え る よ う 船 を 手 配 し て い た 。 ま た 、松 代 藩 に 対 す る こ の よ う な 支 援 は 、こ の 鈴 木 源 太 左 衛 門 だ け で な く 、川 崎 宿 周 辺 の 村 方 か ら も 行 わ れ て い る 。「 日 記 控 」嘉 永 七 年 八 月 十 三 日 の 条 に 、等 々 力 村 の 市 左 衛 門 、溝 口 村 の 利 兵 衛 、峯 村 の 平 田 周 蔵 の 名 が 見 え る 12。市 左 衛 門 は 物 資 運 搬 の た め の 人 馬 を 提 供 し た こ と 、利 兵 衛 と 平 田 周 蔵 は 人 足 を 差 し 出 し た こ と 、万 一 江 戸 市 中 か ら 立 ち 退 き 命 令 が 出 る 程 の 非 常 事 態 に な っ た 場 合 の こ と を 想 定 し 、そ う な っ た 場 合 に 松 代 藩 の 婦 女 子 の 避 難 場 所 の 確 保 に も 心 を 懸 け て い た こ と に よ り 、市 左 衛 門 に 対 し て は 、「 血 米 」一 人 扶 持 を 、他 の 二 人 に は「 血 米 」二 人 扶 持 が 給 さ れ て い る 。 さ ら に 、西 浦 賀 の 紀 伊 國 屋 伊 兵 衛 に は 、度 々 飛 脚 で 異 国 船 情 報 を 通 達 し て く れ た こ と に 対 し 中 元 と 歳 暮 を 百 疋 ず つ 与 え ら れ る よ う 手 は ず が 整 え ら れ て い る 13。 松 代 藩 士 が 警 衛 し て い た 横 浜 周 辺 地 域 の 人 々 の 支 援 を 受 け つ つ 、横 浜 応 接 場 の 警 衛 中 も 松 代 藩 は 独 自 に 異 国 船 の 動 向 に つ い て 探 索 活 動 を 継 続 し て い た の で あ る 。 4 論 考 松代藩とペリー来航
二 月 十 日 に 行 わ れ た 饗 応 の 様 子 を 描 い た こ と で 知 ら れ る 高 川 文 筌 14は、 す で に 述 べ た よ う に、 松 代 藩 の 海 防 臨 時 出 役 の 一 員 と し て 横 浜 へ 来 て い た が、 実際の活動は幕府応接掛伊沢政義の御側医として、 応接場内に入ること が許され、 その様子を描くことが重要な任務となっていた。 そして十三日に 江 戸 藩 邸 か ら 派 遣 さ れ た 松 代 藩 士 に、 自 身 の 描 い た 絵 15を 見 せ つ つ 次 の よ うに説明している。 ま ず、 ア メ リ カ 使 節 は、 後 に 上 座 の 奥 に 設 け ら れ た 別 室 に 入 っ て い っ た ペ リー、 アダムス、 ウィリアムズ、 ペリーの子ともうひとりの五人の他に、 士官 三 十 人 程 が 搨 に 腰 を か け、 幕 府 側 は 林 復 斎、 井 戸 弘 道、 伊 沢 政 義、 鵜 殿 長 鋭、 松崎満太郎と並び、 その側にオランダ語通訳の森山栄之助が控え、 次の搨に 座る浦賀奉行組頭黒川嘉平の後ろで文筌自身はその様子を描いた。 そして、 文 筌 が「 密 談 所 」と 呼 ぶ 別 室 へ ペ リ ー 等 が 移 動 す る と、 残 っ た 者 た ち は 席 を 乱 し、 絵 を 描 い て い た 文 筌 の 周 り に 寄 っ て き て「 銘 々 の 写 真 」す な わ ち 自 身 の肖像画を描くことを要求したという 16。 ま た、 宴 席 で 振 舞 わ れ た 茶 菓 に 対 す る ア メ リ カ 側 の 反 応 に つ い て、 ど の 菓 子も食べていたが特にカステラは好んでいたという。 しかし、 南蛮菓子の一 種である有平糖を食べる際には日本では礼を失するような食べ方をしてい たのに辟易としている。 そして、 食事については、 味噌仕立ての吸い物、 ぶり の刺身等が出されたが、 「作り身の他ハ好ま」 なかったという。 酒 は 甘 い も の を 好 ん で い た と し、 「 養 命 酒 」を 飲 ん で い た と い う。 幕 府 は こ れ ま で 朝 鮮 通 信 使 な ど を 饗 応 す る 際 に は、 老 中 阿 部 正 弘 が 支 配 す る 福 山 藩 の 保 命 酒 と 呼 ば れ る 酒 を 供 し て い た の で、 お そ ら く 今 回 も そ の 保 命 酒 と 思 われるが、 アメリカ人の口にあった酒だったようである。 ペ リ ー 来 航 時 に お け る 松 代 藩 の 動 向 に つ い て 主 に、 警 衛 時 に お け る 情 報 探索活動と記録活動の二点に焦点を当て述べてきた。 しかし、 紙幅の関係で 全く触れることができなかった二点を紹介し、 小文の結びとしたい。 ま ず、 横 浜 応 接 場 の 警 衛 に 際 し 実 際 に 警 衛 を 開 始 す る ま で は 老 中 松 平 乗 全 か ら 指 示 が 出 さ れ て い た の が、 実 際 に 警 衛 が 始 ま る と 幕 府 応 接 掛 伊 沢 政 義から指示が出されるようになった。 また、 伊沢は安政二年二月再度文筌を 下田へ同行させている 17。文筌を伊沢が借用し、 絵を描かせていたことはこ れ 以 前 に も あ っ た よ う で あ る が、 こ の 伊 沢 と 松 代 藩 あ る い は 文 筌 と の 関 係 を明らかにする必要があろう。 次 に、 松 代 藩 の お 抱 え 絵 師 で あ る 三 村 晴 山 18の 活 動 に つ い て は、 今 回 利 用 した 「日記控」 に出てこないことは、 ある種不思議ことであると思われる。 晴 こ の よ う に、 当 日 の 状 況 を 文 筌 は 江 戸 か ら の 藩 士 へ 伝 え る と と も に、 密 談 所へ移動した幕府応接掛とペリーとの間でどのようなことが話し合われて いたかを推測した。 幕府は通商を許可することはできないとしながらも、 そ れ で は ア メ リ カ 側 が 引 き 下 が ら な い の で、 こ の 場 を 丸 く 収 め る た め に 伊 豆 の大嶋周辺で交易をしようとしているのではないか、 という。 その根拠とし て、 アメリカ側は非常に穏やかであり、 応接場を後にしたときには喜んでい るように見えたことをあげている。 当 然、 こ の 文 筌 の 推 測 は ま っ た く 事 実 と は 反 し た こ と で あ っ た が、 幕 府 は 通 商 を 許 可 す る の で は な い か と い う 噂 は、 こ の 時 点 で 警 衛 に あ た っ て い た 諸藩の間で相当流布していたようである。 さすがに、 応接場の様子を描くこ とは許されても、 交渉内容までは文筌にも伝わってこなかったようである。
四
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文
筌
の
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5 論 考 松代藩とペリー来航山 は 島 津 斉 彬 を は じ め 多 く の 人 々 と 交 友 を 持 っ て い る こ と で 知 ら れ、 佐 久 間象山の遺した記録からは晴山も横浜周辺にきていたようである。 しかし、 正 式 に は そ の 名 は 出 て こ な い の で あ る。 晴 山 に よ る ア メ リ カ 使 節 を 描 い た 絵 の 存 在 も 確 認 さ れ て お ら ず、 晴 山 が ペ リ ー 来 航 当 時 ど の よ う な 活 動 を し ていたのかも興味深い。 1 『 大 日 本 古 文 書 幕 末 外 国 関 係 文 書 』( 東 京 大 学 史 料 編 算 所、 一 九 七 二 年 ― 以 下、 『 幕 末 』と 略称) 第一巻一四九号文書。 2 松代役場編、 一九八七年。 3 長野県編、 通史編 第六巻 近世三、 一九八九年。 4 長野史誌編さん委員会編、 第四巻 歴史編 近世二、 二〇〇四年。 5 『 佐 久 間 象 山 』( 吉 川 弘 文 館、 新 装 版、 一 九 八 九 年 )な ら び に、 『 佐 久 間 象 山 伝 』( 宮 帯 出 版 社、 二〇一三年) 。以下、 象山の動向はこれらによる。 6 松下愛 「高川文筌について ―資料紹介と横浜応接場での様子―」 (『松代』 第二三号、 松代 文 化 管 理 施 設 等 管 理 事 務 所 ・ 真 田 宝 物 館 )、 拙 稿「 ペ リ ー ・ イ メ ー ジ の 成 立 と 展 開 ― 画 像 資 料を素材として」 (特別展図録 『ペリーの顔 ・ 貌 ・ カオ―「黒船」 の使者の虚像と実像―』 (神 奈川県立歴史博物館編 ・ 刊、 二〇一二年、 所収) 参照。 7 前註 ( 1)『幕末』 第一巻一四九号文書。 以下、 「願書」 の内容はこれによる。 8 「 日 記 控 嘉 永 六 年 六 月 」( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵 信 州 松 代 真 田 家 文 書、 2 6 A― 0 0 9 9 9) 六 月 十 三 日 の 条。 な お、 前 掲 註( 3)『 長 野 県 史 』な ら び に 同( 4)『 長 野 市 誌 』で は、 六月十五日のこととして記述されている。 本稿では、 「日記控」 に従った。 9 「 亜 墨 利 加 人 御 警 衛 一 件 」( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵 信 州 松 代 真 田 家 文 書、 2 6 A― い 000213) 。 10 「 神 奈 川 公 役 日 記 」(『 開 港 日 記 』第 十 巻 所 収、 東 北 大 学 附 属 図 書 館 狩 野 文 庫 所 蔵 )。 本 史 料 に つ い て は、 前 掲、 特 別 展 図 録『 ペ リ ー の 顔 ・ 貌 ・ カ オ ―「 黒 船 」の 使 者 の 虚 像 と 実 像 ―』 一〇二―三頁に、 全文の釈文を掲載している。 11 影山純夫 「高川文筌論」 (『松代』 第九号、 真田宝物館) 、松下、 前掲論文、 前掲、 拙稿参照。 12 「 日 記 控 嘉 永 七 年 八 月 」( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵、 信 州 松 代 真 田 家 文 書、 2 6 A― い 001011) 八月十三日の条。 13 「 日 記 控 嘉 永 七 年 十 二 月 」( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵、 信 州 松 代 真 田 家 文 書、 2 6 A― い 001016) 十二月十日の条。 14 影山、 前掲論文は、 高川文筌について初めて本格的に論じている。 15 真田宝物館が所蔵する 「横浜応接場秘図」 と考えられる。 なお、 文筌は同様の絵を老中阿部 正 弘、 幕 府 応 接 掛 伊 沢 政 義 な ど へ 贈 っ て い る が、 ま っ た く 同 一 で は な く、 描 か れ て い る ア ングルやアメリカ使節の並び順が異なっている。 この異同については、 今後の課題として おきたい。 16 文 筌 が ア メ リ カ 士 官 を 描 い た こ と に つ い て は、 前 掲、 松 下 論 文 に お い て、 佐 久 間 象 山 が 竹 村金吾に宛てて書簡を利用し明らかにしている。 17 『 日 記 控 安 政 二 年 二 月 』( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵、 信 州 松 代 真 田 家 文 書、 2 6 A― い 001017) 二月十二日の条。 18 特 別 展 図 録『 松 代 藩 の 絵 師 ― 三 村 晴 山 』( 松 代 藩 文 化 施 設 等 管 理 事 務 所 ・ 真 田 宝 物 館 編 ・ 刊、 二〇〇六年) 参照。 以下、 晴山に関する記述はこれによる。 【 付 記 】 「 信 州 松 代 藩 真 田 家 文 書 」 の 閲 覧 に 際 し 、 国 文 学 研 究 資 料 館 に は 多 大 な る 便 宜 を 図 っ て い た だ い た 。記 し て 謝 意 を 表 し た い 。な お 小 文 の う ち 、高 川 文 筌 に 関 す る 記 述 は 、科 学 研 究 費 基 盤 研 究( C )「 ペ リ ー 来 航 関 係 画 像 資 料 の 史 料 批 判 的 研 究 」( 課 題 番 号 四 〇 二 六 一 一 九 三 、研 究 代 表 者 ・ 嶋 村 元 宏 )の 成 果 の 一 部 で あ る 。