Vol pp Quarterly Journal of Geography I km E. Jackson St. San Jose Nihonmachi San Jose s Japantown

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* 岩手大・非 〒 020-0105 盛岡市北松園 2-29-13

サンノゼ日本町の生成と歴史的展開

── 空間構成の変容を中心に ──

杉  浦     直* 要 旨  本論文は,カリフォルニア州サンノゼ市における日本人街(サンノゼ日本町)の 生成と歴史的展開を,特にその空間構成,すなわち商店を中心とする各種施設の構 成とその空間的配置の変容に着目して分析・検討し,この日本人街の地理的・歴史 的性格及び日本人街としての存続理由を考察したものである。同日本町は,19 世 紀末から 20 世紀初頭にかけてサンタクララ平原の日系人農業労働者コミュニティ の中心として生成し,1910 年代までには小売り業,サービス業,コミュニティ施 設などのバランスのとれた日本人街として成長した。その後,戦中の中断期を経て 戦後の日系人再定住期に再建され,現在は再活性化策などの影響もあって施設数が 増加し,中心部に小売り店舗,特に日本食レストランが集中する盛り場として存続 している。総じて,空間的構造の大きな変化は見られず,小規模な日系エスニック・ タウンとして今日まで存続してきたと言える。大規模な再開発を経ずに存続できた 理由としては,ホスト社会との良好な関係,都市計画のダイナミズムの弱さ,コミュ ニティ組織との協同を重視する再開発公社の方針など外的要因,諸組織の協力体制 の構築など内的要因が複合的に働いたことが考えられる。 キーワード エスニック・タウン,日本人街,サンノゼ,空間構成 I. は じ め に 1. 研究の目的と意義 カリフォルニア州サンノゼ市のダウンタウンか ら北に 2 km ほど離れた東ジャクソン通り(E. Jackson St.)を中心とする地区は,歴史的な経緯 から「サンノゼ日本町(San Jose Nihonmachi また は San Jose’s Japantown)」と呼ばれ,今でも日本食 を中心とする 20 軒以上のレストランを含む商業 地区(盛り場)の状況を呈している。このサンノ ゼ日本町は,サンフランシスコ日本町,ロサンゼ ルス・リトルトーキョーとともに北米に現存する 3つの日本人街の一つと目されるが,日本におい てその実態や歴史はあまり知られていないと言っ てよい。 サンノゼ日本町の歴史的展開についての既存研 究を概観すると,日本語のある程度まとまった記 述としては江淵(1982)があり,戦前・戦後の日 本人街の状況が解説されている。しかし,この研 究の主目的は日系三世たちの意識や行動であり, 地理的実体としての日本人街を描写しようとした ものではない。他には,『在米日本人史』(在米日 本人会,1940)や『米国日系人百年史─在米日系 人発展人士録』(加藤,1961)などのアメリカ日 系人史関係の書籍に過去のサンノゼ日本町につい ての具体的記述が見られる。筆者は,アメリカに おける日系を中心としたエスニック・タウンの一 連の研究において,このサンノゼ日本町にも着目

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し,エスニック・タウン生成・発展モデルの検証 材料として取り上げた(杉浦,2011)ほか,近年 のランドマーク建設などその表象的過程を分析し た(杉浦,2013)。しかし,その長期の歴史的・ 地理的変容に関しては,十分な検討を行っていな い。 同地区を取り上げた現地の研究としては,まず

“San Jose Nihonmachi”と題した都市計画分野にお

ける Hirabayashi (1977)の修士論文がある。ここ ではこの日本人街の歩みが総合的に記述されてい るが,地図表現を駆使してその空間構成の変容を 分析しようとする視点は十分ではない。また,市 の保存・修復事業の資料として提出されたカレイ 社の報告書(Carey & Co. Inc., 2004)は,日本人街 の歴史的文脈を考慮するため,初期の形成からの 歩みを記述し既存の地図なども引用・呈示してい るが,一次資料から空間構成の変容を検討したも のではない。最近になって,Fukuda and Pearce (2014)により,サンノゼ日本町の総括的な歴史 を扱った著作が出版された。ここでは初期の日本 町以前の状況から現在(2010 年まで)の再開発 動向に至るまで,この地区の歴史的歩みが詳述さ れているが,個別のトピックスや人物が中心であ り,やはり空間的なパターンの把握という側面は 欠如している。以上のように,既存研究において は地理的な次元を重視した実証的研究の分野で大 きな欠落があると総括できよう。 以上に鑑み本報告においては,サンノゼ日本町 の生成と歴史的展開を,特にその空間構成,すな わち商店を中心とする各種施設の構成とその空間 的配置の変容に着目して分析・検討し,この日本 人街の地理的・歴史的性格を考察する。その際, 上記各文献における部分的な地理的記述を援用し つつ,新たに日系人住所録類などを使用してこの エスニック・タウンの空間構成をより具体的に把 握することを試みる。考察に際しては,空間構成 の変容をもたらす再開発などの都市的過程の性質 やそこに働くガバナンスの特質にも目を向け,戦 後多くの北米日本人街が解体・消失していくなか でこのサンノゼ日本町が存続してきた理由も考え てみたい。 日本人街のようなエスニック都市空間(エス ニック・タウン)の生成・変容に関する実証的研 究は,従来の地理学においてもかなりの研究集積 がある。しかし,個別の商業業務地区としてのエ スニック・タウンの空間構成の変容を具体的に追 究した研究は限られている。特に住所録類を使用 してエスニック・タウンの施設構成の変容を分析 した論考としては,リトルトーキョーを扱った南 川(2001),バンクーバーの日本人街を対象とし た佐々木・下村(1994)が挙げられる。ただ,こ の両者とも地理学分野からの研究ではなく,地図 を使用した空間的パターンの提示という側面には 欠けている。地理学者による研究としては飯田 (2010 ; 2011)によるホノルルの日本人街の研究 があり,住所録類による分析のほか,日本人街の 状況を表す地図類が引用される。なお,上記各研 究はいずれも第二次大戦前に焦点が置かれてい る。筆者もシアトルにおいて住所録類を使用して 日系施設の構成と分布の変化を分析したが,広域 の都市地域を対象としたため日本人街域内部のパ ターンには特に注意を払っていない(杉浦, 1996)。本研究は資料の制約もあり望まれる精度 での分析には至らなかったが,エスニック・タウ ンの変容を施設レベルで把握する歴史地理学的な 基礎作業の一事例として位置づけたい。 2. 分析資料とその精度 エスニック・タウンの空間構成の変容を把握す る資料としては,前述のように当該エスニック集 団の住所録類が利用されてきた。各施設の住所か ら地図化することによって空間的パターンを再現 でき,複数の年次の比較によって経年的な変化も

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検討できる。アメリカの日系人の場合,戦前から 現地の日系新聞社などが発刊する年鑑類に日系人 住所録が付載されており,個人のほかビジネス施 設・団体の欄が別立てで設けられるのが通常であ る。本研究ではサンノゼについての記述を有する これらの住所録類のうち,年次の間隔と筆者の利 用環境を考慮して,戦前については日米新聞社(サ ンフランシスコ)発刊の『在米日本人年鑑附録, 在米日本人住所姓名録』1905 年版(『日系移民資 料集,第 III 期,日米年鑑』日本図書センター, 2011,に収録),同『日米年鑑附録,在米日本人 住所姓名録』1912 年版(同),『日米住所録』1941 年版,戦後については北米毎日新聞社(サンフラ ンシスコ)発刊の『北米毎日年鑑』1950 年版及 び 1972 年版を使用した。これらの資料の信頼度 と対象の包括度について厳密に検討することは難 しい。ただ筆者はシアトル日系社会のケースにお いて,より正確な資料と思われる合衆国議会下院 移民・市民権委員会の公聴会に提出された 1920 年のシアトル市における日系人経営のビジネスリ スト1) と『北米年鑑(附録住所録)』1916 年版及 び 1928 年版を比較したことがあり(杉浦,1996, 注 31),その際ビジネスに関しては 7∼9 割の包 括度が期待できることを確認した。資料や地域が 異なるので一概には言えないが,ビジネス施設・ 団体に関してはこれら住所録類の記述が有力な資 料となることは間違いない。 サンノゼ日本町については,そのビジネス構成 を示すほかの種類の資料も存在する。一つは,ほ ぼ一生涯をこの日本人街で過ごした日系二世のイ シカワ医師(Tokio Ishikawa)が残した「サンノゼ 日本町 1910-1935」と題する地図とその解説資 料2) で,地図にはサンノゼ日本町域の 95 の敷地 が記され,解説資料には各敷地を占有した店舗等 施設の情報が対象年次間の変化を含めて記述され ている。資料の性質上,ある程度正確な情報と判 断され,本研究では 1930 年代前半を示す資料と して使用した。もう一つは,「日本町アトラスプ ロジェクト」によって Ben Pease が作成した 1940 年時点でのサンノゼ日本町の地図で,サンボーン 地図と日系人住所録(Japanese American Daily News directory, 1940)を資料として当時の日本町 の状況が再現されている3)。空間構成を知る最良 の資料と思われ筆者はこの資料の利用を検討して きたが,地図から復元した当時の日系ビジネスの 数が他の住所録類から示される数よりかなり少な いことから全面的な利用は断念し,番地や個別の 施設の位置を知る情報としてのみ利用した。なお 現在の状況に関しては,2010 年時点での現地調 査に拠っている。 II. 空間構成の変容と都市的過程の進展 1. サンノゼ日本町の生成と初期の日本人街 サンノゼ地方を含むサンタクララ平原への日本 人移民の登場は,1890 年頃からと目される。同 地方は当時,豊かな果樹・野菜・ナッツ農業地帯 と化しており,日本人移民は農業労働者としてこ の地方に流入した(Fukuda and Pearce, 2014, p. 25 ; SJCI, 1985, p. 19)。20 世紀初頭までには日本人 滞留者数が数百人に達し,ほかに 3,000 人ほどの 季節労働者が通過していたという(Hirabayashi, 1977, p. 8)。サンノゼ日本町は,こうした周辺の 日系農業労働者コミュニティの中心地として発達 することになる。 アメリカ西海岸の都市における日本人街の生成 はチャイナタウンの存在と関係が深い(以下,杉 浦,2011, pp. 130-133)。サンフランシスコやシア トルの初期の日本人街の位置は,先行したチャイ ナタウンの位置と重なるか,きわめて隣接してお り,サンノゼ日本町の場合も例外ではない。サン ノゼの中国人コミュニティは 1860 年代までに相 当な規模に達し,1870 年代にはダウンタウンの

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一角(Market St. と San Fernando St.)に居住区(チャ

イナタウン)を築いた(Yu, 2012, pp. 21-24)。この

チャイナタウンは 1887 年に放火による火災に よって荒廃し中国人たちは移動を余儀なくされる (以下,SJIC, 1985, pp. 20-21 ; Carey & Co. Inc., 2004,

pp. 11-13 ; 杉浦,2013, p. 73)。これに救いの手を 差し伸べたのはドイツ人ハインレン(Heinlen, J.) で,東ジャクソン通り,東テイラー通り(E. Tay-lor St.),北六番通り(N. Sixth St.),北七番通り(N. Seventh St.)に囲まれた自所有地に中国人を収容 する建物をいくつか建設した。これがハインレン ヴィル(Heinlenville)と呼ばれた中国人居住区の はじまりで,商業用スペースを有していたためす ぐ一種のチャイナタウンへと成長した。このハイ レンヴィル・チャイナタウンに吸引される形で日 系の店舗等施設が立地し,初期の日本人街が形成 されることになる。チャイナタウンに初期日本人 移民の居住とビジネスが惹き付けられた理由につ いては,まず中国人の経営する食堂,賭博場,労 働斡旋業などの施設が単身男性中心の日本人労働 者の利便に適っていたことが挙げられる4)。しか し,当時のアメリカ西海岸の都市社会において中 国人と日本人の構造的位置が類似していたことが より根本的な要因であろう。当然,必要とする施 設も居住や諸活動を可能にする経済的条件も似 通っていた(杉浦,2011, p. 133)。 滞留する日本人移民の数が増加するにつれ,日 本人経営の店舗が出現・増加し,ハイレンヴィル も次第に日本人街の一部になっていくが,その過 程の詳細は不明である。1890 年代にはギフト ショップ,洗濯屋,苗木業などの日系店舗・施設 が出現したと思われるが,その数を示す資料はな い(Fukuda and Pearce, 2014, p. 29)。利用できる最 も古い日系人住所録である『在米日本人年鑑』附 録の住所録 1905 年版を見ると「日本町域内」5) 28軒の店舗・施設が立地し,実質的にある程度 の規模の日本人街が形成されたことが判明する (第 1 表)。 そのうち小売り業の店舗は食堂 6 軒(店舗名か ら日本食と思われる)を除くと少なく,あまり繁 華な盛り場であったとは言えない。サービス業施 設のうち,旅館と床屋,銭湯が過半を占め専門的 サービス業はほとんどない。これら施設の分布を 見ると(第 1 図),サービス業施設が集中した北 五番通り 590 番地を除いて東ジャクソン通りに面 したものが多く,またハインレンヴィル・チャイ ナタウン域の南端にも数店舗立地していたことが 分かる。施設の多くが業種から見て日本人移民を 主たる対象としていると思われる。すなわち,初 期のサンノゼ日本町は,サンタクララ平原に滞留 第 1 表  サンノゼ日本町域内日系施設構成 (1905, 1912) 業種/種別 1905年 1912 年 レストラン 6 5 食品店/酒店 2 その他の小売り店 2 17 娯楽施設 2 9 小売り業施設計 10 33 医療施設 1 3 新聞/雑誌出版 2 3 理容/洗濯/銭湯 3 9 ホテル(旅館)/下宿屋 4 10 運送業 1 3 その他サービス業 1* 4 サービス業施設計 12 32 製造(製造小売り含)/修理 2 6 その他営業(内容不明含む) 2 コミュニティ施設** 4 15 計 28 88 *内容詳細不明 **教会・寺院・学校等 資料 : 『在米日本人年鑑附録 在米日本人住所姓 名録』日米編集局編,日米新聞社,サンフ ランシスコ,1905,及び『日米年鑑附録  在米日本人住所姓名録』同,1912

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する同胞たちを対象にしたごく小規模な中心地で あったことが判明する。なお,日本町以外のサン ノゼ市内には 18 軒の日系店舗等施設があり,日 本人のビジネス活動はやや市内に分散していたこ とも判明する。 この初期のサンノゼ日本町の具体的な建造環境 に関しては前述したイシカワ医師の以下の回想が 参考になる。「初期の日本町を描写することは, 馬つなぎの柱,板張りの歩道,砂利道をもつ馬と 幌馬車の日々を心に描くことである。下水施設が ないので,雨季には氾濫がしょっちゅうあった。 いくつかの店があり,家族は通常店舗の後ろか 2 階に住んでいた。下宿屋,風呂屋,そしてプール ホールが目立っていた」(Fukuda and Pearce, 2014, p. 31)。いつのことかはっきりした記述はないが, 20世紀初めの頃の状況を述べていることは間違 いない。ちなみに Fukuda らが記述したジャクソ ン通りの「北米商会」は 1906 年創業の最初期の 店舗の一つであり,2 階は住居,下は小売スペー スに当てられていた。こうした店舗の存在は,チャ イナタウンとは独立した日本人街が生成してきた ことを例証しているという(Fukuda and Pearce, 2014, p. 30)。 2. 戦前盛時の日本人街とその変容 アメリカ西海岸の日本人街の戦前の最盛期は概 ね 1910 年代から 1920 年代であり,サンノゼの場 合も例外ではない。『在米日本人年鑑』付録の住 所録 1912 年版によれば日本町域内に 88 の店舗等 施設があり(第 1 表),日本人街が大きく成長し たことが示される。小売り業(広義)の店舗33,サー ビス業施設 32 と均衡が取れ,医療その他の専門 的サービス業も増加した。特筆すべきは,日本人 第 1 図 サンノゼ日本町域内日系施設分布(1905 年) 道路に直交する記号列は同一住所の施設(以下の図も同)。 資料 : 『在米日本人年鑑附録 在米日本人住所姓名録』日米編集局編,日米新聞社,サンフランシスコ, 1905

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会,県人会(郡人会),組合,寺院・教会(本願 寺出張所,美似教会),日本人学校などコミュニ ティ施設が 15 と急増していることである。これ はサンノゼの日系人コミュニティが初期の移動労 働者的社会を脱してある程度移民エスニック・コ ミュニティとして成長してきたことを示してい る。しかし,当時のサンタクララ平原日系社会が なお独身男性の多い社会であったことは,旅館/ 下宿屋の数が示している。彼らは農場で働き,仕 事の端境期には日本人街の下宿屋に戻ってくる。 下宿屋は,また彼らに農場の仕事を斡旋する役割 も果たしていたという(Carey & Co. Inc., 2004, p. 14)。なお,これら下宿屋の施設名には「南海屋」 「九州屋」「熊本屋」など日本の地域名から取った と思われるものが目立つ。これは,経営者の出身 地にちなんだものと思われ,宿泊者も同郷の者が 多かったと推測される6)。これら施設の空間的配 置を見ると(第 2 図),北六番通りから東ジャク ソン通りに逆 L 字型に集中分布していることが 判明する。特に小売り店舗は東ジャクソン通り(特 に北側)に多く,サービス業施設やコミュニティ 施設はやや中心から離れたところに立地する傾向 が見られる。注目すべきは,日本町域外に日系施 設が 12 あり,市内日系施設総数に占める割合が 1905年より顕著に低くなっていることである。 エスニック・コミュニティの成長が空間的な集中 を伴って進行したと言える。 アメリカの日系社会は 1930 年代に入り,1924 年移民法改訂の影響,国内の経済状況の悪化,日 米関係の緊張などの要因により,全体として人口 減少など閉塞期を迎える。都市に成立した日本人 街もこの時期やや縮小したところが多いが,サン ノゼの場合はどうであったのであろうか。イシカ ワ医師が残した記録から 1930 年代前半のサンノ ゼ日本町を復元した結果,総施設数は 71 であり, 1912年の資料が示す数字より少なくなっている。 第 2 図 サンノゼ日本町域内日系施設分布(1912 年) 資料:『日米年鑑附録 在米日本人住所姓名録』日米編集局編,日米新聞社,サンフランシスコ,1912

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また,日系施設に限ると 57 とさらに少ない(第 2表)。しかし,これをもって日本人街が 1920 年 代より衰退したと見るべきかどうかは,資料の性 質が大きく異なるので慎重を要する7)。この資料 で注目すべきは日系以外の施設の情報も含まれる ことで,当時まだ中国系の店舗が相当数(12 施設) 残存していることが判明する。各施設の敷地を示 した地図(資料の関係上必ずしも正確ではないと 推定される)からは,施設の空間的配置の概略が 1912年のときとあまり変わらず,北六番通りか ら東ジャクソン通りの逆 L 字型がその中心にな ることが読み取れる。なお北六番通りは中国系の 小売り店舗の比率が高いことが一つの特徴であ り,ハイレンヴィルのチャイナタウンが 1930 年 代前半まである程度存続し,日本人街と連続する 盛り場を構成していた可能性が高い8) 太平洋戦争直前におけるサンノゼ日本町の状態 を 1941 年発行の『日米住所録』から見ると(第 3表),総施設数は 62 となりやはり 1912 年時点 よりかなり少なく,特に小売り施設でその傾向が 顕著である。 すなわち,1930 年代の閉塞期を経て日本人街 はやや衰退したと見たいが,異なる傾向を指摘し ている報告もあるので結論は留保したい9)。各施 設の空間的配置を見ると(第 3 図),小売り業を 中心とした北六番通りから東ジャクソン通りの逆 L字型配置のほか,北五番通り(N. Fifth St.)の南 側にコミュニティ施設やサービス業施設の集中が 見られる。総じてサンノゼ日本町は 1910 年代か ら戦前期を通して,意図的な都市計画による大き な変更を伴わない漸次的な都市過程のなかで,そ の規模や空間的配置を基本的にはあまり大きく変 第 2 表 サンノゼ日本町施設構成(1930 年代前半) 業種/種別 日系 中国系 その他 計 レストラン 2 3 5 食品店/酒店 7 2 9 ギフト店/雑貨店 1 1 その他の小売り店 8 2 10 娯楽施設 1 3 4 小売り業施設計 19 10 29 医療施設 6 6 各種専門的サービス業施設 2 2 自動車関連施設 1 1 運送業 1 1 美容/理容/銭湯 4 4 洗濯屋 1 1 ホテル(旅館)/下宿屋 7 7 サービス業施設計 22 22 製造/修理(製造小売り含) 7 2 9 コミュニティ施設* 9 2 11 計 57 12 2 71 *教会・寺院・学校等

資料 : Ishikawa, Tokio : San Jose Japantown 1910-1935, Notes to the Guide Map

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えずに存続してきたと言える。 3. 戦後のサンノゼ日本町 戦時強制立ち退き・収容後の,サンノゼあるい はサンタクララ平原への日系人再定住及び日本人 街復活の過程に関してはあまり詳しく分っていな い。戦後ロサンゼルスで発刊された『米国日系人 百年史―在米日系人発展人士録』によれば,再定 住開始から 2 年後には「(日本町は)戦前に倍加 する躍進振り」とのことで「帰還 4 年後の今日で は,戦前の面目を全く一新して商況頗る殷賑」と 記されている(加藤,1961, p. 442)。この記述の 根拠は示されていないので文字通りに受け取るこ とはできないが,少なくとも一時アフリカ系労働 者の街と化したサンフランシスコ日本町などより 再生は早かったと思われる。また,1947 年の戦 時転住局(WRA)の調査では,サンノゼ市内に 約 100 家族の日系人がおり,戦前より多い数の日 系人が北五番通りと東ジャクソン通りの交差点の 3ブロック以内に居住していたと言う(Hirabayashi, 1977, pp. 41-42)。 住所録類が示す日本町の姿はどうであろうか。 1950年発刊の『北米毎日年鑑』付録の住所録では, サンノゼ市内に 74 の日系施設を記載している。 しかし,本論文で言う「日本町域内」に限れば 44施設であり,強制立ち退き以前の日本町より かなり少ない(第 4 表)。すなわち,この資料か ら見る限りこの時点ではサンノゼ日本町の復興は まだ途上であったと見るべきであろう。 各施設の分布を見ると,小売り施設はほぼ東 ジャクソン通り(北四番通りと北六番通りの間) に限られ,これに直行して北五番通りにもコミュ ニティ施設やサービス業施設が立地している(第 4図)。注目すべきは,もとハインレンヴィル・チャ イナタウンが在った北六番通りの東,東ジャクソ ン通りの北のブロックには全く施設が立地してい ないことである。これは,この区域にサンノゼ市 の施設団地(通称「コーポレイション・ヤード」) が整備されたためで,1940 年代末から 60 年代に かけて古い建物が取り払われ,市の消防詰所や修 理場が建設された(Carey & Co. Inc., 2004, p. 22)。 なお,北六番通り西側に施設の復活がないのも, この動きに影響されたものと思われる。このよう に,1950 年までにサンノゼ日本町はほぼもとの 位置に再建されたが,規模が縮小して逆 L 字型 の配置はなくなり中心も西に 1 ブロックずれた北 五番通り-東ジャクソン通りの交差点に移ったと 総括されよう。 1972年発刊の『北米毎日年鑑』住所録では,「日 本町域内」に 62 の日系施設が認められ(第 4 表), ほぼ戦争直前の日本町と同等規模の日本人街が再 建されたことになる。特にレストランを始めとす 第 3 表  サンノゼ日本町域内日系施設 構成(1941) 業種/種別 日系 レストラン 3 食品店/酒店 6 その他の小売り店 7 娯楽施設 1 小売り業施設計 17 法律/保険 3 医療施設 5 各種専門的サービス業施設 2 自動車関連施設 3 運送業 2 美容/理容/銭湯 5 洗濯屋 1 ホテル(旅館)/下宿屋 3 サービス業施設計 24 製造/修理(製造小売り含) 7 庭園業 1 コミュニティ施設* 13 計 62 *教会・寺院・学校等 資料 : 『日米住所録』日米新聞社,サンフ ランシスコ,1941

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る小売り施設の数が多くなり,より繁華になった ことが示される。一方,コミュニティ施設の数は 戦前よりやや減少したが,これは県人会的な組織 が再建されなかったことが大きい。空間的配置を 見ると,東ジャクソン通りに小売り店舗が集中し, これに北五番通りのコミュニティ施設やサービス 業施設が加わる基本パターンは 1950 年と変わら ないが,北六番通り西側にも若干の施設立地が見 られる点が変化と言える(図省略)。 その後,1980 年代や 90 年代におけるサンノゼ 日本町の施設構成とその分布に関しては,現段階 で適切な年次の住所録類資料が入手できず詳細を つかむことができない。そこでここでは空間構成 に影響を与えたと思われるいくつかの都市過程に ついてその概略を見ておこう。 サンノゼ日本町域における都市再開発の動き は,サンフランシスコやロサンゼルスの日本人街 域と比べるとかなり遅く,1980 年代に入ってか ら始動したと見られる。再開発を主導したのはサ ンノゼ市再開発公社(The Redevelopment Agency of the City of San Jose)で,1983 年に「近隣商業地 区プログラム(Neighborhood Business District Pro-gram)」を立ち上げ,そのターゲットの一つとし て日本町域を指定した。その事業推進のコーディ ネート組織として選ばれたのは地元の経済振興組 織である「ジャクソン-テイラー商業・専門職組合」 (1961 年結成)であり,両者の協同的なガバナン スの下に日本町域最初の包括的都市計画と思われ る「日本町商業地区再活性化計画」が策定され (1987 年),1990 年前後に諸プロジェクトが実施 された(関係パンフレット10)の記述 ; Sakamoto, 2004, p. 4 ; 杉浦,2013, pp. 79-80)。この計画の柱は, 店舗のファサードの改善,ロゴマークをもつ柱や バナーの設置など日本町の街路景観の改善を目的 としたプロジェクトであり,直接施設を創出する 都市計画ではないが,地区の魅力を高め施設の進 第 3 図 サンノゼ日本町域内日系施設分布(1941 年) 資料:『日米住所録』日米新聞社,サンフランシスコ,1941

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出を促した可能性は高い。 より直接的に施設数・構成に影響を与えた都市 過程は,1993 年日本町域が正式に再開発地区に 指定された後の 90 年代後半における住商複合施 設「ミライドービレッジ」の建設である11)。この 開発は,サンノゼを拠点に活動する日系実業家 Y. Uchida氏が土地を購入して計画したもので,プロ ジェクト費用の 80% を再開発資金に拠っている (RASJ, 1996, p. 1)とは言え,民間主導型の再開発 という性質が強い。この施設の敷地は戦前倉庫, 機械修理場,アートスタジオなどがあった(RASJ, 1996, p. 13)日本町の範囲外と見られる 1 ブロッ クで,同施設の建設は日本町の範囲を拡大し,新 たな数ユニットの商業スペースを付加した。 また,2000 年代に入り「サンノゼ日本町ラン ドマーク・プロジェクト」が実施された。これは, カリフォルニア上院議員法案 307 号(2001 年 10 月通過)に対応して設けられたカリフォルニア日 本人街保存のためのプロジェクト資金によって実 施されたもので,新たに多くの記念碑やシンボル 群が創造された(杉浦,2013)。先の再活性化策 と同様,直接商業施設を創出するプロジェクトで はないが,日本町に多くの装飾的な景観要素を付 加して繁華さを演出し,それがビジネスの進出を 刺激する効果を有していたと推定される。 4. サンノゼ日本町の現況 では,こうした諸過程を経て,現在のサンノゼ 日本町の施設数・構成はどうなったのであろうか。 2010年 2 月に筆者が実施した現地調査によると, 「日本町域内」には 96 の施設が確認され,この数 字は 1972 年時点よりかなり多い(第 5 表)。資料 の性質が異なるので一概には言えないが,この区 域が商業・業務地区としてさらに成長してきたこ とが示される。調査では「日本町域内」における 店舗・オフィス等の施設の業種を確認したほか, 施設が外に向かって表出しているエスニックな性 格(表出エスニシティ)から便宜的にその施設の エスニック系列を判断した。表出エスニシティは, 施設名,看板やビラなど文字景観,商品の種類, 業種など外から観察できるエスニックな特徴であ り,施設が主な対象としている顧客のエスニシ ティ,どのようなエスニック系列の施設として見 られたいかという施設の意識を表していると解釈 される(杉浦,2007, p. 15)。調査時点で日系のエ スニシティを表出していると判断される施設はほ ぼ半数の 46 に留まり,日本人街としての性格は やや後退したと言える。施設の 3 分の 1 強ははっ きりしたエスニシティを表出していない(非エス ニック系の)施設であり,特にサービス業施設で その比率が高い。 第 4 表  サンノゼ日本町域内日系施設構成 (1950, 1972) 1950年 1972 年 レストラン 2* 8 食品店/スーパーマーケット 4 4 娯楽施設 1 ギフト店/雑貨店 1 1 その他の小売り店 6 13 小売り業施設計 14 26 法律/保険 3 1 医療施設 5 5 各種専門的サービス業施設 5 3 自動車関連施設 1 3 美容/理容 5 8 洗濯屋 1 2 ホテル/下宿屋 1 サービス業施設計 20 23 製造/修理(製造小売り含) 4 5 庭園業 1 コミュニティ施設** 5 8 計 44 62* *1軒は中国料理 **教会・寺院・学校等 資料 : 『北米毎日年鑑』北米毎日新聞社,サンフ ランシスコ,1950 ; 1972

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第 4 図 サンノゼ日本町域内日系施設分布(1950 年) 資料 :『北米毎日年鑑』北米毎日新聞社,サンフランシスコ,1950 第 5 表 サンノゼ日本町域内施設構成(2010) 業種/種別 日系 アジア系その他 エスニック系その他 非エスニック系(不明含む) 計 レストラン/カフェ/バー 12 2 5 4 23 スーパーマーケット/食品店/酒店 2 2 ギフト店/雑貨店 4 1 1 6 その他の小売り店 5 1 5 11 娯楽施設 1 1 小売り業施設計 23 2 7 11 43 法律/保険 1 1 5 7 医療施設 3 2 2 7 各種専門的サービス業施設 3 1 5 9 自動車関連施設 3 3 美容/理容 2 4 6 洗濯屋 1 1 サービス業施設計 9 3 1 20 33 製造/修理(製造小売り含) 3 2 5 コミュニティ施設* 11 2 1 1 15 計 46 7 9 34 96 *教会・寺院・学校等 資料 : 現地調査による(2010 年 2 月 24 日最終確認)

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各施設の空間的配置を見ると,特に東ジャクソ ン通り沿いに営業施設が集中して連続する商店街 を形成しており,北六番通り西側にも営業施設の 集積が見られる(第 5 図)。北五番通りは,コミュ ニティ施設が分散して,商店街的な性格は示さな い。なお,東テイラー通りにも 15 ほどの営業施 設が立地するが,非エスニック系の施設が多く, 日本人街的な雰囲気はあまり感じない。総じて, 現在のサンノゼ日本町は総施設数において増加傾 向が見られるとは言え,ジャクソン通りを中心と した 3 ブロックほどの小規模な商店街であり,施 設構成の上では日系を表出する施設の比率が減少 しているが,いくつかの目立つ日本食レストラン の集中と日系色を強調するバナーやランドマーク の存在(杉浦,2013)が日本人街の存続を印象づ けていると言える。 III. お わ り に ここでは,以上の記述を要約しつつ,サンノゼ 日本町の地理的・歴史的性格,日本人街としての 存続理由,及び残された研究課題を考察して結び とする。 サンノゼ日本町は,19 世紀末から 20 世紀初頭 にかけてサンタクララ平原の日系人労働者コミュ ニティの中心として当時のチャイナタウンに隣接 して生成した。戦前の最盛期は 1910 年代から 1930年代前半までであり,小売り業,サービス 業などの営業施設のほかコミュニティ施設も充実 し,バランスのとれた「総合型エスニック・タウ ン」(杉浦,2011)として成長した。この時期の 日本町はサンノゼ市内の日系人の中心地のみなら ず,周辺の農場で働く日系人労働者が一時的に滞 留する基地でもあった。なお,区域内に中国系の 施設もある程度含まれていた模様で,戦前の日本 第 5 図 サンノゼ日本町域内施設分布(2010 年) 資料 : 現地調査による(2010 年 2 月 24 日最終確認)

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町はチャイナタウンと連続した盛り場を形成して いたと見られる。太平洋戦争中の中断期を経て戦 後の日系人再定住期にサンノゼ日本町は再建され たが,施設数の上で戦前と同規模に達したのは 1960年代以降と思われる。現在は,1980 年代か らの再活性化策など都市計画の影響もあって戦前 より施設数が増加し,中心部は小売り店舗,特に 日本食レストランが集中する盛り場として存続し ている。しかし,施設の 3 分の 1 強はとりたてて 日系エスニシティを表出していない施設であり, 意図的に創られたランドマークやシンボル群を除 けば日系色はやや薄れたと言ってよい。空間的配 置の上では,北六番通りと東ジャクソン通りの逆 L字型配置が消えて東ジャクソン通りに店舗が集 中する形の商業・業務地区になった。中心はやや 西にずれたが,大きな空間的構造の変化は見られ ない。総じて,施設数が 100 を超える時期はなかっ たと推定され,小規模な日系エスニック・タウン として今日まで存続してきたと言える。 周知のように,戦後カリフォルニアの多くの日 本人街が解体・消失していくなかで,サンフラン シスコ日本町とロサンゼルス・リトルトーキョー は,外部資本を取り込んだ大規模な再開発事業を 実施することで新しいタイプのエスニック・ビジ ネスタウン(杉浦,2011)として再生した。では, サンノゼ日本町は何故このような大規模な再開発 を経ないで日本人街として存続し得たのであろう か。筆者は,この地域の調査の過程で現地の研究 者やコミュニティの活動家たち12) にこの問題を幾 度か訊ねてみたことがある。そこで得られた意見 を参照しつつ,現時点で考えられる要因(可能性) を整理すると次のようなことが挙げられる。一つ は,日本町あるいは日系社会を取り巻く外的状況 に関わる要因である。前述したように,戦後にお けるサンノゼ日本町の再建はサンフランシスコな どに比して早かったと見られる。サンノゼにおい ては,強制立ち退き中,戦中仏教会の建物を含む 日系人の土地財産を管理した法律家 Benjamin Peckham,日系メソディスト教会の管財人を務め た実業家 John Crummy(Carey & Co. Inc., 2004, pp.

18-19)など,日系人の財産の保全に協力したホ スト社会の人々がいた模様で,日系人と周囲の 人々との関係が比較的良好であったことがその一 因と推定される。そして,ロサンゼルスやサンフ ランシスコに比してアフリカ系など労働者の戦時 中の流入が少なかったサンノゼは,戦後都市計画 のダイナミズムが小さく,ときにエスニック・タ ウンを一掃し,ときにその新たな成長・発展のきっ かけとなる大きな都市計画がなかった(杉浦, 2011, p. 138)。サンノゼ市再開発公社による諸施 策がようやく活発化しはじめた 1980 年代におい て,日本町域も商業活性化を目指す都市計画の対 象となったが,公社はコミュニティ組織との協同 を重視するガバナンス方針を取り,日本町の既存 の特性を生かした再活性化策を基本とした。もう 一つは日本町あるいは日系社会の内部の状況に関 わる要因である。サンノゼ日系社会は,指導者た ちのリーダーシップもあってコミュニティのまと まりが強く,諸組織が協同して日本町の存続と再 活性化に尽力したという色彩が強い。ちなみに, 2000年代の「日本町ランドマーク・プロジェクト」 においては日本町の諸組織を束ねるアンブレラ組 織「サンノゼ日本町コミュニティ会議(JCCsj)」 が結成され,統一的な方針がコミュニティ内で確 認された。サンフランシスコやロサンゼルスにお いては,日本人街域の大規模なクリアランス型再 開発に際してコミュニティ内での立場や世代によ る対立が顕在化し再開発反対派の組織が結成され たが,サンノゼの場合再開発が小規模であったこ ともあって,そのような現象は生じていない。こ のような問題に端的な答えを提示することはもと より困難であるが,上記諸要因が複合的に働いて

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サンノゼ日本町の存続に繋がったと考えたい。 本稿はサンノゼ日本町というエスニック都市空 間の歴史的展開を把握する基礎作業として提示し たが,なお追及を必要とする研究課題を多く残し た。それらのうち特に重要なものを整理すれば, 以下のようになろう。 1) 本研究では日系人住所録類を使用してエス ニック・タウンの空間構成の変容を把握すること を試みたが,施設構成とその位置パターンの呈示 に留まり,具体的な建造環境については不明な点 が多い。各時点の大縮尺地図や新聞記事などから の情報援用の可能性をさらに追及する必要があ る。 2) 主要資料とした住所録類の網羅度や精度に ついては,さらに多くの資料と照合して検討する 必要がある。その際,異種の住所録類の比較,さ らに一般の市民住所録類や火災保険地図などの活 用の可能性を視野に入れることが求められる。 3) サンノゼ日本町存続の理由についての考察 を深化させるためには,かつてサンノゼと類似し た規模をもちながら戦後解体・消失してしまった ストックトン,サクラメント,フレズノなどの日 本人街との比較検討が必要となろう(杉浦,2011, pp. 138-139)。 付   記 サンノゼでの現地調査においては,コミュニ ティの多くの方々に大変お世話になった。特に, Tamon Norimoto 氏,PJ Hirabayashi 氏,Jimi

Yamaichi氏,Stephen Fugita 氏からは貴重な資料の

提供や具体的なご意見をいただいた。これらの 方々に厚く御礼申し上げる。

(2016 年 4 月 23 日 受理)

1) U.S. House, Congress, Committee on Immigration and Naturalization : Japanese Immigration Hearings before the Committee on Immigration and Naturaliza-tion, House of Representatives, 66th Congress, Wash-ington Government Printing Office, 1921(Arno Press, 1978, pp. 1109-1122)

2) San Jose Japantown 1910-1935 : Map compiled by Dr. Tokio Ishikawa, 1996, and Notes to the Guide Map (私家版の印刷資料と思われる) 3) 同プロジェクトのウェブページ(www.japan-townatlas.com) から利用可能なほか,筆者は Pease 氏より直接そのハードコピーを入手している。 4) カレイ社の報告では,ハインレンヴィル・チャ イナタウンが初期の日本人独身者たちに「差別の 怖れなしに」利用できるレストランなど多くの利 点を提供していたことが指摘されている(Carey & Co. Inc., 2004, p. 14)。 5) 東ジャクソン通りを中心に北は東テイラー通 り,南は東エンパイア通り(E. Empire St.),西は 北三番通り(N. Third St.)へ至るブロックの中ほど, 東は東七番通りまでを便宜的に「日本町域内」と した(第 1 ∼ 5 図に示した範囲)。 6) 前述したイシカワ医師の回想には「和歌山から の人々はしばしば南海屋に泊り…熊本や福岡から の 移 民 は 通 常 九 州 屋 に 泊 る 」 と の 記 述 が あ る (Fukuda and Pearce, 2014, p. 31)。

7) 同資料は敷地を占有した施設の記憶に基づく記 述なので,同じ建物内に存在した小さい施設を記 載していない可能性もあると推定している。 8) ハイレンヴィル・チャイナタウンの消失過程に

ついては Yu(2012, pp. 108-110)や Carey & Co. Inc.(2004, p. 16)によってその概略を知ることが できる。それによると 1931 年ハインレンの死後, 不動産業を営んでいた彼の子供たちは経済恐慌の ため家賃を集めることができず不動産税が未払い になり会社が倒産,ハインレンヴィルの建物はサ ンフランシスコの銀行に譲渡され取り壊された。 中国人たちは移転を余儀なくされ,一部は日本人 街の方に移動して商売を続けたが,多くはサンノ ゼを去り,同市のチャイナタウンは 1930 年代末に はほぼ解体した。その背景には,反中国人運動下 でのサンタクララ平原における中国人人口の長期

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的な減少がある。

9) カレイ社による報告書では,New World Sun Year Book(1939)を資料として,サンノゼ日本町 は 1940 年までに「約 93 のビジネスと組織」を有 するに至ったとしている(Carey & Co. Inc., p. 18)。 資料によって何故数字が大きく異なるのか,この 資料を入手していないので断定的なことは言えな いが,日本町の範囲,ビジネス・組織として数え た対象などに相違があると予想される。

10) “Revitalization Strategy San Jose Japantown”, City of San Jose, Redevelopment Agency of the City of San Jose, Jackson-Taylor Neighborhood Advisory Commit-tee, and Jakson-Taylor Business and Professional Association(パンフレット,年次不詳)。 11) 同施設の開発年代に関して杉浦(2011)では 「1990 年代初頭」とした(p. 144)が,「1990 年代 後半」が正しいことを確認したので訂正する。 12) サンタクララ大学の Stephen Fugita 教授,サン ノ ゼ 日 本 町 コ ミ ュ ニ テ ィ 会 議 で 活 動 し て い た Tamon Norimoto氏からは,特に具体的な意見をい ただいた。 文   献 飯田耕二郎(2010): ホノルル市アアラ地区における 戦前の日本人街.大阪商業大学商業史博物館紀 要,11, 113-134. 飯田耕二郎(2011): ホノルル市モイリリ地区におけ る戦前の日本人町.大阪商業大学商業史博物館 紀要,12, 191-207. 江渕一公(1982): 日系アメリカ人の民族的アイデン ティティに関する一考察―カリフォルニア州サ ンノゼ日本町における三世の行動の分析を中心 として─.綾部恒雄編 : アメリカ民族文化の研 究─エスニシティとアイデンティティ.弘文堂, 137-199. 加藤新一編(1961): 米国日系人百年史―在米日系人 発展人士録.新日米新聞社,ロサンゼルス. 在米日本人会(1940): 在米日本人史.在米日本人会, サンフランシスコ. 佐々木敏二・下村雄紀(1994): 戦前のヴァンクー ヴァー日本人街の発展過程.神戸国際大学紀要, 46, 26-67. 杉浦 直(1996): シアトルにおける日系人コミュニ ティの空間的展開とエスニック・テリトリーの 変容.人文地理,48, 1-27. 杉浦 直(2007): サンフランシスコ・ジャパンタウ ン再開発の構造と建造環境の変容―活動主体間 関係に着目して―.季刊地理学,59, 1-23. 杉浦 直(2011): エスニック・タウンの生成・発展 モデルと米国日本人街における検証.季刊地理 学,63, 125-146. 杉浦 直(2013): エスニックな場所の再構築―サン ノゼ日本町におけるエスニック表象―.季刊地 理学,65, 69-89. 南川文理(2001): エスニック・タウンの経済的編成 ―リトルトーキョーの初期形成過程を通して―, 移民研究年報,7 号,101-114.

Carey & Co. Inc. (2004): San Jose Japantown Historic Context and Reconnaissance Survey. San Jose, Calif.

Fukuda, C. and R.M. Pearce (2014): San Jose Japantown : A Journey. Japanese American Museum of San Jose, San Jose, Calif.

Hirabayashi, P.J.N. (1977): San Jose Nihonmachi. MA Thesis (Urban Planning), San Jose State University. RASJ (1996): Final Relocation Study and Plan :

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SJCI (1985): “─ With Liberty and Justice for All” : The Story of San Jose’s Japanese Community. The City of San Jose Commission on the Internment of Local Japanese Americans (SJCI), San Jose, Calif. Yu, C.Y. (2012): Chinatown San Jose, U.S.A. 4th

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Historical Development of San Jose’s Japantown : Focusing on its Changing Spatial Arrangements

Tadashi SUGIURA*

The objectives of this paper are 1) to examine the historical changes in the spatial arrangements of San Jose’s Japantown (San Jose Nihonmachi), a Japanese urban ethnic business enclave in California, and 2) to consider its geographical and historical nature and the reason for its persistence up to the present.

San Jose’s Japantown first took place in the Chinatown area of San Jose as a small cultural and eco-nomic hub for the outlying Japanese farm laborers in the late nineteenth century Santa Clara Valley. By the early 1910s, it had grown to a sizable integrated enclave of Japanese coethnic businesses and com-munity organizations, and it had continued to exist as a bustling ethnic town until the outbreak of the Pacific War, even though it may have slightly declined in the 1930s. Within a few years after the war-time internment, large number of Japanese Americans resettled in the San Jose area, and by the mid

-1960s San Jose’s Japantown regained as many business establishments as there were in prewar days. Nowadays, it is thriving as an ethnic town with retail establishments, particularly Japanese res-taurants, service industry offices, as well as community-based facilities. The number of these facilities

does not seem to largely exceed that of the prewar Japantown. In general, this Japantown seems to stagnate at the stage of small-scale local hub for Japanese Americans in the area without drastic changes

in its built environment.

It is well known that, while many Japantowns in California failed to exist as ethnic towns after World War II, San Francisco’s Japantown and Los Angeles’ Little Tokyo have regenerated as substantial Japanese ethnic business enclaves through the large-scale redevelopment processes from the late 1960s

to the 1970s. Why only San Jose’s Japantown has remained without such large-scale urban

renewal ? The following factors may explain the reason for this ; 1) the external factors such as the comparatively tranquil relationships with the host society, the lack of powerful urban planning which may destroy the ethnic communities, and the policy of the Redevelopment Agency of San Jose which tend to lay emphasis on the collaboration with local communities, and 2) the internal factors such as the collaborative efforts of the Japantown community as shown by the formation of the Japantown Commu-nity Congress of San Jose, a comprehensive umbrella organization of the Japantown area.

Key words : ethnic town, Japantown, San Jose, spatial arrangements

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