宗 教 学 的 見 地 に お け る 仏 身 論
78
0
0
全文
(2) 42. も仏身論は仏教の中で教義的に確立したというわけではない︒ただ犬体一定の方向に向って思惟されてゆきっっあ. るとでもいうべきであるかもしれない︒たしかに︑仏身論ば仏の実体や性格に思いを馳せる者にとってある種の情. 熱を湧きたたせる主題であり︑思索の対象であったがゆえに︑各種各様に思索さ︑れ自由に論ぜられてきたともいえよ. う︒それゆえ︑まだ未確定であり︑多様な内容を内蔵している仏身論を三位一体論と比較することは少々早計であ. 二仏身説. る︒ただし︑その成立経過を比較Lてみるならば両者の思惟方法や展開の相異が鮮明になることはいうまでもない︒. 二. 釈迦が入滅してのち︑ほどなく色身の釈迦と常住法身の釈迦という間題がおこった︒いかに仏となったとはいえ︑. 釈迦はなお人間である︒しかしこの世から肉体が消えても︑真如と一体となった釈迦は不滅であるという考え方は︑. 釈迦の存在を惜愛し敬慕する弟子たちによって説かれたのであるが︑たんに敬慕だけでなく︑宗教的思惟の根拠か. ら主張されたものであることはいうまでもたい臥姉崎正治の﹁現身仏と法身仏﹂の研究はその仏陀論の近代的な理 解によって一つの新しい照明をもたらしたものとおもわれる︒. 竜樹の犬智度論においては︑仏身は二身としてつぎのようにのべている︒. ﹁仏有二種身︑一者法性身︑二者父母生身︑是法性身満十方虚空無量無辺色像端正相好荘厳無量光明︑無量音声︑. 聴法衆亦満虚姦犠纏蟹常嚢種身種種名号嚢蓋種種方便度衆生常度一切無須憲蓋萎性茗. 能度十方衆生受諸罪報老是生身仏︑生身仏次第説法如人法以有一種仏故受諸罪無各︑⁝⁝﹂︵大智度論巻九︶ さらに生身︑法身と二種の仏身あるこどをのべている︒. ﹁次菩薩有二種身︑一老結業生身︑二者法身﹂︵同巻十二︶︒これは仏だけでなく︑仏たらんと志す菩薩においても︑. 905.
(3) 43. 結業生身と法身の二つをあげている︒この場合︑法身よりも結業生身を最初にあげているのは︑. 二身仏から三身仏へ. に生きている人間にとって現実性を濃厚にもっているからである︒. 三. この方がこの世界. 元来︑仏身論は二仏身論からはじまったといって差支えない︒そして︑後世の三身仏︑十身仏のような発展を遂. げるまでにまず釈迦の仏身が中心間題であったこともいうまでもない︒これには仏身は現象面と実在面との二つか. ら考察するのは自然な思考であるといえる︒まず浬築経の中につぎのような区別があることが分る︒. ﹁生身﹂と﹁法身﹂であり︑前者はいわゆる﹁父母所生﹂身であり︑﹁仏応化之身﹂を指す︒後者は法性之身で釈 迦がこの世に出現しようとしまいと存在しつづげる常住不動の身である︒. これとならんで︑同じ渥築経に﹁常身﹂︑﹁無常身﹂の二身がある︒常身はいうまでもなく︑﹁如来常住解脱之身﹂. として衆徳をそたえ︑万行を成就し︑生減せぬすがたをいい︑無常身は︑如来が方便のために一切衆生を度脱せL. めんがために︑かりに生死の身をコ爪現Lして出家︑修道︑成仏︑説法し︑﹁入於浬繋﹂をなす姿をいう︒前掲の ﹁生身﹂よりやや詳しく釈迦の人間的生涯を具象化している︒. さらにその他にでてくる﹁法性身﹂︑﹁生死身﹂も類似性をもつ︒法性身は法身と同じで︑﹁十方二偏満シ︑無量. 無辺色像端正相好荘厳ニシテ︑無量光明︑無量音声ヲ以テ能ク十方法身菩薩ヲ度セソトス﹂と解す︒これにたいし. ﹁生死身﹂はいわゆる仏が﹁方便カヲ以テ生ヲ現ジ︑減ヲ現ジテ初出家乃至成仏得道ヲ示シ︑一切悪法ヲ尽断シ︑. 一切善法ヲ皆成就ス︑次第二説法シテ諸ノ衆生ヲ度ス﹂姿をいう︒法性身もただ不増不減離箱常住の理法というの. ではなく︑法身の菩薩を解脱させようとする主体でもあり︑生死身となって生滅の中に姿をとりながら︑成仏得道. 904.
(4) 44. して衆生を済度しようとする主体でもある︒. ﹁華厳経﹂の中には真身と応身の区別もある︒真身は真智が法身と合して名づげたもので︑起信論にいう﹁自体. 有大智慧光明偏照法界﹂であり︑応身は万物衆生にあまねく︑﹁随其心量現種種身﹂といい︑月が水にうつるげれ. ど︑月自身には去来の相はないという警は︑後にふれるように三身論にも用いられる︒金光明経で﹁応物現形如水. 中月﹂というのも全く同じである︒二身といっても実体とその映った影ともとれる︒ただ楡を用いる場合︑現実の. ものは実体が消滅すれぼ︑影もまた当然消滅するけれど︑この仏教思想においては実体は消減することはあり得な いが︑影の消減はあり得ると考える︒. また仏地経論では仏が行を積み︑成道して感得した無量相好︑法界に偏ねく満ちている相を実色身といい︑仏が. 大悲願力によって大菩薩衆のために︑種種の身︑相好︑言音を現わし︑時処にしたがい︑宜しき所に形を現わすを. 三身仏について. ﹁化色身﹂とも呼んでいる︒これは仏の悲願による分け方であるともいえる︒. 四. 今までのべてきたように︑二身仏説はたしかに釈迦仏の法身性と色身︵父母生身︶の問題︑生滅と永遠性の問題. として恩惟されてきたのである︒これはあくまで釈迦仏を中心としての事柄である︒それゆえ︑この二身仏は元来. 三身仏とは全く異ったものであると説く仏教学老もいる︒三身仏説は二身仏説の発展であるとみるかどうか問題は. 残るとしても︑三身仏となったときかなりちがった宗教思惟へと飛躍していることに注目しなければたらない︒. 釈迦仏が精進苦行のはて︑鉄坐し︑菩提樹下に成道したとき︑覚老として法を体得し︑いわば父母生身が法身と. なったのである︒これにたいして法身が衆生済度のために化身し色身をとる場合は︑一つの救済思想の展開となる. 903.
(5) 45. のである︒ここには往相︑還相のごとき宗教的特質がみられる︒法華経で久遠実成の法身仏は衆生済度のために応 化仏となる︒この応化仏は釈迦であり︑教祖ともいうべき存在を意味していた︒. ところが︑この応化仏にたいして︑衆生済度の誓願を立てた釈迦仏の菩提行として現成した報身仏を別に立てて. 考えるに至った︒これは当然菩薩の菩薩行に応ずる仏身を明かにしたものである︒これによって仏身論は宗教的な. 活動力を遺憾なく発揮することができる︒二身仏説の竜樹ののち世親は﹁金剛般若波羅密経論︑菩提流支訳巻上﹂. の中で﹁仏有三種︑一老法身仏︑二者報仏︑三者化仏﹂とのべている︒従来の法身仏中心の仏身論を﹁報身仏﹂中 心に転換したのは明かに世親である︒. 一般的にみて︑天台教学の﹁三身仏﹂の教説はもっとも広く知られ︑影響力も少なくなかったとおもわれるので︑ まず第一にここで簡単に考察しておくことにする︒. 慧遠が唱える三身は法華論にもとづくもので︑いわゆる﹁開真﹂︑﹁合﹂︑﹁応﹂でこれが﹁法身﹂︑﹁報身﹂︑﹁応身﹂. にあたる︒﹁法身﹂を理体とし︑報身は仏の智体をあらわし︑この理智不二の妙体が︑衆生済度のために種々の身. を応化するとき︑これを応身︵叉は化身︶となすのである︒この中で初地の菩薩に応化する仏身を勝応身と呼び︑. 凡夫及び二乗に応化する仏身を劣応身という︒釈迦仏はこの劣応身にあたると見なしている︒この三身の中の法身. 仏を毘盧舎那と呼び︑訳して遍一切処といい︑報身仏は盧舎那浄満︑あるいは光明遍照である︒応身仏は釈迦文仏 となすが︑諸趣随類の十方諸仏を含むことになる︒. ﹁天台止観六﹂では﹁就境為法身︑就智為報身︑起用為応身﹂といい︑仏地論においては﹁仏具三種身︑一者自. 性︑二老受用︑三老変化﹂とのべている︒また﹁唯識論十﹂では﹁自性身﹂︑﹁受用身﹂︑﹁変化身﹂をあげているが︑. いずれも法身︑報身︑応身に相対するものである︒. 902.
(6) 46. このような三身の理解は教学的には一応まとまってきたとはいうものの︑報身が﹁法身ノ智二就ケルヲ﹂いうと. すれば︑やや思弁的に過ぎる嫌いがたしとしない︒強いて報身の特質を指摘するとすれば︑法身が慈悲の智慧をと った姿をいい表わしているとみるべきである︒. 本来︑仏如来はこの三身を具足し︑阿褥多羅三頚三菩提を摂受しているものであり︑三身は各個別々に存在して. いるのではなく︑﹁従体三身相即︑無暫離時既許法遍一切処︑報応未嘗離於法身︑況法身処二身常在故知三身遍於. 諾法何独法身乎﹂︵輔行一之一︶とのべているごとくである︒いいかえれば︑三身具足してはじめて仏如来といい 得る︒. いかに仏身一体観をもちながら︑その作用︑活動面の様相を把握するかということで古来多くの人々が思索L︑. 苦心している︒つぎに蘇東披の言葉をあげておくことにする︒﹁六祖壇経﹂を読んでみたところ︑三身仏のことがよ. く説かれていて心眼が開ける想いであった︒しかし彼もまた彼なりに一つの楡をかりてこの問題を考えてみたいと 前置きしてつぎのようにのべている︒. ﹁眼見是法身︑能見是報身︑所見是化身︑何謂見是法身眼之見︑惟非有非無︑無眼之人不免見︑黒眼枯晴亡見性不. 滅︑故云見是法身︑何謂能見是報身︑見性難存眼根不具︑則不能見若能安養其根不為物障常使光明洞徹見佳乃全. 故云能見是報身︑何講所見是化身︑根性既全一弾指項所見千万縦横変化倶是妙用︑故云所見是化身︑此楡既立三 身愈明如此是否﹂︵東披志林巻二︶. 眼の見を法身︑能見を報身︑所見を化身として考えることにより︑三身の三つの存在と働きの統一を明瞭にして いる︒. 90工.
(7) 47. この蘇東披の﹁眼﹂の楡えに通ずるものに︑宝王論における﹁一月楡三身﹂がある︒月をもって三身仏を見よう. とする︒大意をあげると︑まず﹁以月体職法身︑月光楡報身︑月影職応身﹂とあり︑﹁由法身即是常住之理︑理体. 唯一不遷不変︑而能出生諸法︑統摂万事︑猶如月体一輸在天影含衆水﹂︑理法の法身は不変不増不減しかも一切の. 存在を生起せしめ︑統一あらしめる根源である︒これは丁度月輸が天空にあって一切を照らしているようなもので. あると解する︒これにたいして報身は﹁即是寂照之智︑智無自体︑依理而発明了一切︑無有差謬猶如月光照臨万像. 無有隠形﹂とのべ︑智に自体性はないが︑理法の働きとして一切を明かにしようとする︒智はまさに月の発する光. のごときもので︑法の活動性︑作用力をあらわす︒応身は﹁即是変化之用︑用無自性従体而起︑有感則通無感不応︑. 猶如月影有水則現︑無水不顕然﹂とあるごとく︑その変化の作用をいう︑あたかも月影を宿す水のすがたあり方に. 応じて月は現われる︒この最後の応身仏は化身仏とも呼ばれ︑千変万化して衆生の機根に応じてその働きを示す仏 をいうのである︒. 唐. 梁粛. つぎの﹁三如来﹂︑すなわち﹁三身仏﹂についての画讃は︑唐の梁粛のものであるが︑この時代にはすでに三身仏 は一つの形態として確定して来ている︒. 三如来画像讃. 法王之身有三日報日応日法報身従無辺功徳生応身依無辺衆生生法身従如如無有生分別説三共極一貫原夫人道之体. 離一切相視其本也積大徳施大慧合大道成大身是其報也出入十界随所利見如水月鏡是其応也自因至果故不得不有其. 報病一切病故不得不行其応応亦名也報亦名也名乎哉其実相之賓乎経云観身実相観仏亦然嘗試思之以為衆生蓋反仏. 者也是三相在仏為三徳在凡為三障一者生死却空寂空寂即法身也二老煩悩即智慧智慧即報身也三着結業即解脱解脱.
(8) 48. 即応身也三徳成子悟三障成干逃逃而不服也遂自絶子仏乗哀哉予嘗斎心命工裂素作鱈聖徳之形容可挙目而見見而後. 知思思而後知至知至之路蓋由是美騰仰之不足遂為之讃庶観者有以知三如来不在心外不可以有無心取云. ﹁法王之身﹂はいうまでもなく︑釈迦自身である︒報身仏︑応身仏︑法身仏の三身仏の考えは︑すでにこの唐の. 梁粛の頃固定していたとおもわれる︒彼は明白につぎのように規定している︒﹁無辺ノ功徳二従リテ報身生ジ﹂︑応. 身は﹁無辺ノ衆生二従リテ生ジ﹂︑法身は﹁如如無有従リ生ズ﹂︒しかし報応は名であって実相の賓ともいう︒身の. 実相を観ずると仏を観ずるもまた同じである︒一には生死即空寂︑空寂即法身︑二には煩悩即智慧︑智慧即報身で. あり︑三には結業即解脱︑解脱即応身である︒仏にとって三徳になるものが︑衆生には三障となる︒. 砒盧遮那仏︑盧舎那仏︑釈迦牟尼仏の三仏を讃し︑さらにこの三仏をあわせ︑﹁総讃﹂をおこなっている︒. 大哉法体体如虚空︑不始不終不垢不浄︑不辺不中是謂浬繋是謂法身諸仏性海是無上正真︑. ︒. 妙哉報体体法而大由清浄功徳色無擬徳色無藤成実知慧範囲法界尽未来際. 讃釈迦 牟 尼 仏. 讃. 神哉化功其化無方︑休有烈光以百億色身播百億国土段権顕実或黙或語示我寂減錐又林之下. 総. 三聖一身本無有異恒沙諸仏其道一致衆生惟妄覚妄斯至懸像著明用嚢心地. 899.
(9) 法報応身三仏は﹁三聖一身﹂で如来の存在性と活動性︑生成性を示すものである︒この三身の解釈は教派により︑. 時代によって異っている︒ここで取り上げるのは︑その多様な歴史的差異や変化の間題ではなく︑宗教的人格性と. 非人格性の観点からこれらがいかに思索され︑相即した関係をもっているかを考察することにある︒. 造像においては入減後の釈迦仏に現身で遭えぬ悲嘆が根拠となっている︒﹁含生ハ道慕ノ痛ミヲ街ム︑是ヲ以テ. 応真ハ三乗ノ愚ル廃キヲ悼ム﹂︵前出魏霊蔵韓法紹造像題記︶といい︑﹁夫レ霊光曜カザレバ大千ハ永夜ノ悲シミヲ. 題記︶とのべている︒﹁比丘尼法険造像題記﹂によれば︑﹁夫レ聖覚量ヲ潜メテ︑形相ヲ絶チ︑幽宗弥々麹ケク︑撃. リ尋ヌルモ暁ラカナル莫シ︑影像二非ル自リハ︑遺訓安ソグ崇ブ可ケソヤ﹂とLて︑現世に生きる衆生にぼ形像. ︵影像︶でなければ︑仏の教えを崇ぶよすがとする︒﹁仏ハ有ノ上二非ズ︑法界ヲ身ト為ス︑形ヲ垂レテ物ヲ化シ︑. 述ヲ傭シテ人二同ズ﹂︵大盧舎那像藷記︶は︑法身と応︵化︶身についてのべたものである︒ここにおいては︑非人. 格的な法身仏と現実に応化して働きかける人格的な応化身仏とが見られるだげであって︑報身仏といったものを考. え︑これによって三身仏論を展開するという段階ではないことはいうまでもない︒しかしいかに造像とはいえ︑ ﹁信﹂がなければならないという点にはかわりはない︒. ﹁金光明最勝王経﹂の中の﹁分別三身品第三﹂においてつぎのごとく語る︒. ﹁善男子︑一切如来有三種身︑云何為三︑一者化身︑二着応身︑三者法身如是︑三身具足摂受阿擬多羅三窺三菩提. 若正了知速出生︑善男子云何︑菩薩摩詞薩了知化身︑如来昔在修行地中︑為一切衆生修種種法︑如是修習至修行. 満修行カ故得大自在自在力故︑随衆生意︑随衆生行︑随衆生界︑悉皆了別︑不待時︑不遇時︑処相応︑時相応︑. 89ε. 懐キ︑明縦遭ハザレバ︑葉生ハ遣廃キノ徴ヲ含ム︑是ヲ以テ如来ハ群縁二応ジテ︑以テ述ヲ顕ハス﹂︵楊大眼造像. 49.
(10) 50. 行相応︑説法相応︑ 現種種身是名化身︒﹂. キリスト教におげるキリスト論と同じように三身仏は本来釈迦論であった︒釈迦論とは釈迦不減説である︒釈迦. は現実の身体であるから入減はするが︑久遠仏である︒なぜたらば阿籍多羅三窮三菩提を摂受しているからであ. る︒それゆえ︑この金光明経でも一切如来は三種ノ身︑化身︑応身︑法身を具足している︒如来は過去菩薩地にあ. ったとき︑﹁一切衆生ノ為二種種ノ法ヲ修シ﹂︑修行を成就し︑大自在を得衆生の意行界に随って時処を待たず行相. 応︑説法相応に﹁種種ノ身ヲ現ズル﹂︑これを化身と名づける︒この化身はのちにいう報身に該当する︒. 戸身は如来菩薩が通達を得んが為に︑﹁説於真諦為令解了生死浬築是一味故︑為除身見衆生怖畏歓喜故︑為無辺仏. 法︑而作本故︑如実相応如如︑如如智︑本願刀故︑是身得現︑具三十二相︑八十種好︑項背円光是名応身﹂とのべ. ているごとく︑如如智本願力により相好を現じて発動する︒この経でいう応身は他経でいう毅身に匹敵する︒いい. かえれば︑仏の法身︵真身︶に応じて動き働き出す智慧であり︑心であり︑初地の慈悲である︒. 善男子云何︒蓄薩摩詞薩︒了知法身︒為除︒諸煩悩等障︒為具︒諸善法故︒唯有如如︒如如智︒是名法身︒. 法身をここでは﹁如如・如如智﹂ と呼んでいる︒. 一切如来︒智慧具足︒. 一切煩悩︒究寛滅尽︒. 得清浄仏地︒是故法如如︒如如智︒摂一切仏法︒. 前二種身︒ 是仮名有︒ 是第三身︒ 是真実有︒ 為前二身︒ 而作根本︒何以故︒離法如如︒離無分別智︒一切如来︒ 無有別法︒. 897.
(11) 51. 化身仏︑応身仏は仮の存在であるのにたいして︑法身仏が真実の存在で前二者はこれを根本とみる︒法如如︑如 如智の一切の仏の教えを包摂している︒. 復次︒菩薩摩詞薩︒入無心定︒依前願力︒従禅定起︒作衆事業︒如是二法︒無有分別︒自在事成︒善男子︒警如. 日月無有分別︒亦如水鏡︒無有分別︒光明︒亦無分別︒三種和合︒得有影生︒如是︒法如如︒如如智︒亦無分別︒ 以願自在故︒衆生有感︒現応化身︒如日月影︒和合出現︒. この﹁金光明経分別三身品第三﹂で注目すべきことは︑今までかならず法身からはじまり︑応身化身の順序で語. られているものが︑まったく逆の理解しやすい方から考えられている点である︒しかも従来の報身仏というぺき仏. 身をこの金光明経では応身仏と呼んでいる︒すでに三身仏思想が確定したのちの新らしい批判と立論がここに見ら. れる︒三身を具足するのが一切如来の姿であり︑阿擬多羅三薮三菩提を摂受し︑生死の世界を離れるといい︑ここ. 人格性・非人格性より見た仏身論. に三身仏の功徳が説かれる︒. 五. 仏教思想の重要な位置を占めているこの仏身三身論は︑人格性・非人格性の見地からみるとき︑多大の興味深い 問題を提起することになる︒. まずこの法身仏は︑非人格性に相当し︑報身仏︑応身仏︵化身仏︶ば人格性にあてはまる︒この場合︑三身論に. あてはまる語がなく︑恰も二身論に復帰するがごとき観を呈している︒しかし︑本来報身仏︑応身仏は一つに見傲. 896.
(12) 52. Lていた人格性であったものを︑その仏性の働きにもとづいて二つに分けて考察し︑これに相当の名を与えたので. ある︒法身仏を理法身︑智法身の二つに分け︑この智法身を報身仏と名づけようとする仏教思想家もいるのである. から︑三身仏といっても一方から他方への推移は徴妙に融合し︑劃然たる限界を定めがたいのが特色でもある︒法. 身を理法とみ︑あらゆる存在の窮極の原理︑根源︑人問の智慧の動きをもたらすものとみるのは︑もっぱら天台教. 学の顕教の主張である︒これはすべての人間の観念や名辞︑人間的表現や思惟を拒絶するのであるから︑まさに言. 忘慮絶の世界ともいうべきである︒にもかかわらず︑法性法身︵理法身︶はそのままの状態で存在するのではたく︑. 法身を知らしめ︑自他受容の法楽に向い︑衆生済度の悲願︵誓願︶に目覚めしめる︒ここに智法身が独特の意味と 価値あるものとして仏身論の中に位置を占めるのである︒. 智法身は改めて﹁報身仏﹂と呼ばれ︑人格性の活動を示すものとなってゆく︒この三身仏の相互融合映発的な様. 相は︑仏教における人格性・非人格性の思索の深くして大きな規模を示すものである︒. それゆえ︑人格性・非人格性は二身仏への復帰ではなく︑入格性・非入格性の内容の思索の深化ともいうべきで. ある︒とくに人格性においては報身仏︑応身仏の二面で把握されるところに︑宗教的悲願とその成就にもっとも意 が払われているともいえる︒. まずわれわれは人格性として示される応身仏について一瞥してみる︒すでにのべたように応身仏は変化身︵化身︶. ともよばれ︑菩薩︑二乗凡夫︑及び諸趣の衆生のためにその能力や種類︑程度に応じて︑仏があらわれて済度Lよ. うとする人格的行為の生成のすがたである︒応身は衆生のための解脱の徳をつむものである︒これはかつて歴史と. なった釈迦仏に見られ︑さらに過去︑未来の十方諾仏の世界への済度に働いているものである︒この応身仏は機根. に応じて浄土︑稜土双方に居って未だ登地しないもののために︑法を現示する︒この応化の仏身は︑報身仏の慈悲. 895.
(13) 53. の大誓願︑本願がことごとく世界の歴史の現実の中に働きかけてあるものとなり︑その具体的な現実化の中におい て仏の法境を知らしめるのである︒. この変化の応身仏にたいして︑報身仏は︑広大無辺の法身仏から光のごとく仏の悲願が働きかけ︑活動する︒こ. れは般若の智慧ともいい︑衆生を救う功徳をつみ︑これがまず智慧となり︑光明となって動くのである︒いわば応 化仏に至って示されるまでの︑初地の慈悲︑本願の発動をあらわしている︒. わたしはこの報身仏を人格性の活動とよび︑応身仏はこの活動によって展開してやまぬ人格性の生成と呼ぶこと. にする︒報身仏︑応身仏によって仏の人格性には重要た二つの様相があることを明かに知ることができる︒. これら人格的な二つの仏身にたいし︑法身仏は明かに非人格性を表わLている︒﹁唯識論十﹂に﹁自性身︵法身︶. 謂諸如来真浄法界︑自受用︑平等所依︑離相︑寂然絶諸戯論︑具無辺際真浄功徳﹂とあるがごとく︑まさに超絶的. であり︑人間の一切の能力を超えている︒しかしすべての存在の根源であり︑報身仏︑応身仏の働きもここを源泉. としているのである︒この仏は窮極の実在性であるがゆえに︑ここにすべては包括されている︒強いていうならぱ︑. 前二者の仏身が仏の活動と生成を示しているとすれば︑この法身仏は仏の存在を徹底して暗示するものである︒. 仏教教学の上から見るとき︑三身仏は並列的に各個にその様相の相異を示しているだげではなく︑じつは報身仏︑. 応身仏はこの法身仏の中に包括されているとみるのがもっとも仏教的特質に合致した見解であるとわたしは信ず. る︒非人格性の仏性の存在中に人格的仏性が徹底的にその存在を依拠されているのである︒ただしわれわれが報身. 仏︑応身仏の中に法身仏の反照や聖なる意志をよみとることは充分あり得ることであり︑有隈な人間としてはその ような道にしか理解に近づくことはできないといえるかもしれない︒. 894.
(14) 54. 穴 釈迦仏と十方諾仏. すでにみてきたように︑三身仏は﹁毘盧遮那仏︑盧遮那仏︑釈迦仏﹂でいい表わしている場合も初期には見られ. るが︑時代とともにいつしか釈迦仏をいわず︑応身仏という独特の宗教語で表現するようになってゆく︒むろん︑. 応身仏の中に釈迦仏は含まれており︑第一に挙げられはするが︑それはいつしか覚者となった無数の諸仏の中の一. 仏としての存在と考えられるようになる︒このような宗教的思惟の傾向性は注目に値いする間題を含んでいる︒キ. リスト教においてはイエス・キリストは神と人間の伸保老としてその存在は絶対的意味をもち︑使徒信条において. も神の子イエス・キリストにたいする信仰がすべてに先んじている︒この点について釈迦仏が絶対性がないわけで. はない︑しかし︑釈迦という人格的存在はいつしか︑﹁仏﹂と呼ばれ︑また未来にも過去にも仏として出現する十. 方多仏︑諸仏もあり得るのである︒むろん︑釈迦仏といわなくとも︑仏陀であり︑ゴータマブッダであり︑﹁仏﹂と. いっただけで充分釈迦を意味していることもあるが︑しかしむしろこの十方諸仏を指しこの中に釈迦仏も包含され ている表象が多くなる︒. 華厳経︑梵綱経などが示しているように︑法身仏の毘留遮那仏から無慮無数の仏が湧出出現し来るが︑しかし他方. 仏国浄土はさまざまの思索や瞑想と宗教運動とともに東方薬師仏︵阿閾仏︶︑西方阿弥陀仏︑南方大日仏︑北方釈迦. 仏が居していると考える図相も成立してゆく︒﹁千釈迦︑千百億ノ釈迦﹂︵千膏千鉢大教王経︶を湧出させることも 願行力にょって可能となる︒. 893.
(15) 55. 七. 禅宗におげる三身. 仏教内において独特な発展を遂げた禅宗の中では︑この仏身はどのように見られていたか︒これについてはここ. では﹁六祖法宝壇経﹂にもとづいて考えてみることにしたい︒﹁繊悔第六﹂においてつぎのようにのべている︒. 善知識既帰依自三宝寛︑各各志心吾与説一体三身自性仏令汝等見三身了然自悟自性総随我道於自色身帰依清浄法. 仏於自色身帰依円満報身仏︑於自色身帰依千百億化身仏善知識色身是舎宅不可言帰︑向者三身仏在自性中︒. 禅においては三身仏が自性にあることを禅の修行において自ら悟らしめることに重点があることはいうまでもな. いが︑修行者がまず三宝に帰依したのちは︑この三身に色身を帰依せしめようとする︒三身の性格を明かにするた. めに︑清浄法身仏︑円満報身仏︑千百億化身仏と呼ぶ︒他宗が応身仏と呼ぼれているものが︑化身仏となっている︒. 清浄法身仏とは︑人問の本性が本来清浄なること︑万法︵ここは諸の現象を指す︶が自性より生ずること︑この. 正法を悟ることが﹁見性﹂であるとなす︒﹁自心自性二帰依スル﹂は︑﹁真仏二帰依スル﹂こと︑婁言すれば﹁見性﹂. は﹁見仏﹂であり︑﹁成仏﹂である︒しかし人聞の自性は不善心︑嫉妬心︑誰妄心等々の妄念に障げられやすい︒真 仏への帰依は︑これらを除御することにほかならない︒. さらに﹁円満報身仏﹂は︑﹁一燈能ク千年ノ闇ヲ除キ﹂﹁一智能ク万年ノ愚ヲ減ス﹂ごとく︑仏の本念を報身と名. づけている︒これは人間の本性に円明する無二の性︑念々の信の活動をあらわし無上菩提に至る念である︒これら. にたいし︑千百億化身仏は︑本来万法は空であるが︑一念思量すれぼ千変万化し︑天堂︑地獄︑竜蛇とも菩薩とも. 892.
(16) 56. なる︒いわば具体的に現象し現成するものは自性の化身︑すなわち︑自己のさまざまの姿のあらわれにほかならな. い︒法身が報身をとおして働きかけさまざまの姿にあらわれたものを化身という︒そこで六祖はつぎのごとく総括 する︒. 善知識︑法身本具念念自性自見即是報身仏︑ 従報身思量︑即是化身︑ 自悟自修自性功徳是真帰依︒. しかし・皮肉ある色身は舎宅であり︑これに帰依するというわけではないことはいうまでもない︒ただ人間の自性. 学道常於自性観. 後念忽絶一世休. 即与諸仏同一類. 吾祖惟伝此頓法. 普願見性同一体. 若欲当来寛法身 離諸法相心中洗. にあるべき三身を悟ること︑すなわち﹁自性ノ仏ヲ識ル﹂ことにある︒﹁無相類﹂の中でつぎのごとくのべている︒. 努力自見莫悠悠. 自己の本性が諾仏と一体なることを見性すべく︑どこまでも自己の内的体験として︑Lかもゆるやかな思索によ. らず︑頓法によるのが禅の方法である︒法身を求むるには自己の心を洗い浄化するよりほかに道はたい︒僧知通は. ﹁楊伽経﹂を千余遍読んだが三身四智の意を理会できず︑師に教えを求めた︒六祖は手短かにつぎのように答えた︒. 三身老消浄法身汝之性也︑円満報身汝之智也︑ 千百億化身汝之行也︒. 891.
(17) 57. 法身を性︑報身が智︑化身が行であると説く︒これはさきにのべた三身仏よりさらに簡略である︒ れ︑知通は頓悟してつぎのような偶を呈している︒. 三身元我体︑四智本心明︑ 身智融無藤︑身物任随形︒. これに摂化さ. 三身仏が自己自身に内証されて悟りが開かれるのである︒この態度は禅の徹底した実践によるもので︑ここを離. 禅公案における仏身. れて考えないところに特色がある︒三身仏は現代の言葉に置き換えれば︑存在と認識︵知的働き︶と実践による生 成ということになろう︒. 八. 禅においても三身仏は悟りの根本問題として公案に取り上げられている︒しかし︑実践的な公案による問答であ. るがゆえに︑﹁仏﹂﹁仏法﹂が提起されていて︑いわゆる三身仏の教学や教学の組織体系にはふれる場合が少ないの は当然である︒. 仰山寂禅師が潟山につぎのように問うている︒. ﹁如何是真仏住所︑濾云︑ 以思無思妙︑返思霊烙気窮︑ 思尽還源︑性相常住事理不二真仏如々︑ 師言下頓悟︒﹂. 890.
(18) 58. ここでいう真仏は法身仏といいかえてもよく︑理法身にほかたらず︑一切の思いが尽きて還り依拠すべき﹁源﹂. となる妙体である︒また仏身についての公案を一︑二あげてみるとつぎのごときものがある︒. ﹁越山霜禅師僧問︑如何是仏身︑ 師云︑禰那箇間仏身︑ 云釈迦仏身︑師云︑ 舌覆三千界︒L. 釈迦仏身と具体的に言明しているがゆえに︑三身仏からいえば応身仏とくに劣応身となる︒しかし︑ここでは三. 千界を覆うている釈迦の教えを悟れと教示しているのである︒この僧が釈迦仏身といわずに他の仏身をあげたなら︑ 別の答えがかえってくるはずである︒. ﹁僧問中峰源禅師︑如何是城裏仏︑師云︑裁耳臥街︑云︑如何是村裏仏︑師云︑索牽捜把︑云︑如何是山裏仏︑師 云︑針焦取柴︒﹂. 三身の公案が少からずあるのは︑これが教理の上だげでなく︑禅の仏法体得にとってきわめて肝要であったから. 時処によりて現ずる仏の活躍を活澄灌地に提示することによって仏身の即離を知らせようとする消息である︒. である︒以下にその間答を例示する︒. ﹁僧問大竜禅師︑色身敗壌︑ 如何是堅固法身︑師云︑ 山花開似錦︑潤水湛如藍︒﹂. 889.
(19) 59. 法身は虚空のごとしといえど︑錦の山花︑藍の潤水の風光を示すのである︒それゆえ林渓脱禅師が法身を問われ. て︑﹁四海五湖ノ賓﹂とこたえ︑利山禅師が﹁空華陽炎﹂とこたえるのも同様である︒. だが法身は法身の位にとどまっているだげではない︒法身向上を目ざし︑やがて透法身に至る︒. ﹁僧間雲門優禅師︑如何是透法身句︑師云︑蔵身北斗裏︒﹂︵粉六︑空八九︶. 清浄法身を透遇して自由軽身を得︑活嬢灌地をあらわす位に至るとき︑まさに北斗裏に身を蔵す活用が暗示される︒. 禅においては法身の瞑想における病いにふれる︒これを法身病という︒法身の実在を認得するが︑その法身にこだ. わりすぎて︑法執をもつこと︑また法身を透過しても︑これを放過しては今までの苦労がすべて仇となる︒あまり. に細かに法身を点検してゆくならば︑法身の気を忘れ︑その生命の体を忘れてはこれまた病いとなると戒めている︒. そして禅では法身を中心に置き︑﹁雲門因挙︑■応化非真仏︑亦非説法者︑乃云︑応化身説即是法法身説︑亦喚為観体. 全身︑以法身喫法身︑又云︑飯是非法身︑柱杖是非法身哉︒﹂とのべているごとく︑直々に法身の体得に迫ることに. よって︑他の二仏をも把握するのである︒これを臨済義玄はつぎのごとくこたえている︒. ﹁僧問臨済玄禅師︑如何是三眼国土︒師云︑我共汝入浄妙国土著清浄衣説法身仏︑叉入無差別国土著無差別衣説報 身仏︑叉入解脱国土薯説化身仏﹂. 禅宗において三仏身はさまざまの受取り方があるとおもわれるが︑﹁宗鏡録﹂などによると︑﹁自性身﹂︑﹁受用身﹂︑. 888.
(20) 60. ﹁変化身﹂とにわけている︒. 自性身は法身と同じで︑﹁無辺際︑真常功徳ヲ具へ︑一切法平等実性﹂をあらわす︒受用身は二種あり︑一つは. 自受用身で︑仏が功徳をつみ︑その無量無辺の功徳を大法楽として自ら受用することで︑他は諸仏が十地に住する 諸菩薩のために大神通を現わし︑法楽を受用させることである︒. ﹁変化身﹂は諸仏が浄土稼土にいる諸菩薩や声聞縁覚のものに至るまで不思議の通力により︑﹁無量随類化身﹂を. ﹁金光明経玄義﹂ その他における三身義. 変現し︑各々に諸 種 の 利 楽 を 得 さ せ る こ と を い う ︒. 九. ﹁身﹂とは聚集の意味で︑諸法聚集して法身と呼ぶ︒智法聚集して報身︑功徳聚集して応身と呼ぶ︑法身は理法. あるいは法性の法を聚集して身を成し︑智法聚集して相合して報身をなすが︑智とは能︑法性の智を契合する︒応. 身は法と智一切功徳を聚合する︒用を起し他を化し︑﹁随機応現﹂してこの応身を成す︒. つぎに﹁華厳経随疏演義抄﹂においてはとくに﹁三身偏相﹂を説いている︒. ﹁法身如虚空偏﹂︑法性身の本体は太虚空︑障凝無きが如く︑仏も衆生も平等具足︑なるごときゆえに虚空偏と呼 ぶ︒. ﹁智身如日光偏﹂は始覚の智が無明の闇を破り︑本有の真身を顕発するは日光が幽に燭せざる無きに壁目えていう︒. ﹁色身如日影偏﹂︑色身は応身であり︑始覚の智を究め︑本覚法身の理を契するは︑能く体に従い用を起し︑ひと. えに衆機に応ずるは︑日光の影高下をえらばず随処に映現するが如くに警えられる︒. 法華文句においても﹁三身華梵﹂をつぎのごとく釈している︒. 887.
(21) 61. のo ﹁法身砒慮遮那如来﹂は諸仏は法に範とり仏となるを得﹁以法為身﹂ゆえに法身梵語の職盧遮那︵ヴィルシャナ︶. ぼ偏一切処の意である︹如来ハ金剛経ニイフ︑従リ来ル所ナリ︑去ル所ナキユヱニ如来ト名付ク︺︒. ﹁報身盧舎那如来﹂報に自他あり︑盧舎那は浄満をいう︑内智光を以て真法界を照らし︑外は身光を以て犬機に 照応する前者は自執身︑後者は他報身である︒. ﹁応身釈迦牟尼如来﹂︑智と体一つに合して大用を起し︑機に随って普く現じて法を説く︒しかも生死に住せずと 解している︒以上は今までの三身論にまつわる論註疎である︒. 十﹁仏三身讃﹂について. 無験難思普遍智. 湛然安住大牟尼. 哀懸化度菩薩衆. 充満法界無塁藤. 処会如日而普照 三砥積集諸功徳 始能円満寂静道. 湛然寂静無等等 非有非無性真実 亦非多少離数量. ﹁仏三身讃﹂は法賢が詔勅を奉じて訳したものといわれる︵大正新修大蔵経第三十二巻︶︒. 我今稽首法身 仏. 福利自他亦如是. 法身. 平等無相若虚空. 我今稽首報身 仏. 普令獲得平等果. 報身. 以大音声談妙法. 886.
(22) 62. 我今稽首化身仏 三界無比大牟尼. 菩提樹下成正覚. 化身. 三塗苦報悉能除. 或起変現或寂静. 或復往化於十方. 或軽法輸於鹿苑. 或現大光如火聚. 法身は法の遍在︑真の実在性をいうのにたいし︑この三身讃では報身仏は妙法を説き寂静の道を歩む釈迦として. はっきりいわれており︑化身仏に至っては菩提樹下に正覚し︑鹿野苑で法輸を転じ︑三塗の苦を除く仏陀として帰. 依する︒法と一致した仏陀は法身仏であるが︑なおその知恵の現われとして報身仏となって働き︑応身仏となって. 一心垂感諸群生. 以今類讃三身仏. 所獲無漏功徳種. 世の衆生の苦を救う︒この法賢の﹁三身讃﹂は法身以外はみな釈迦仏として讃歎している点が︑他の三身仏と異っ. 我常信解浄三業. 以無量慧大福行. ている︒これにつづいて廼向の讃がある︒. 如是仏身無漏智. 尽引衆生帰正遣. 廻向. 願我速証仏菩提. ﹁仏三身﹂の無漏の功徳をもって︑仏の菩提を証し︑あわせて衆生をひとLく正導に帰せしめようと誓うのである︒. 仏は三身の形をとって仏のすべてを円満に成就する︒とくに理法の法身体が︑報身体をとり︑化身体をとって一切. 衆生の済度がおこたわれるところに人格性は主として釈迦牟尼仏が中心をたしている︒このように報身︑化身が釈 迦仏をはなれず信ぜられている讃はめずらしいともいえよう︒. 885.
(23) 63. 十一 ﹁教行信証﹂. における仏身問題. 浄土真宗開祖である親鷲が仏身をどのように見ていたかを知ることは︑われわれの当面している人格性非人格性. の間題にとって興味ある事柄であるので︑しぱらくここで彼の主著﹁教行信証﹂を中心に考察してみることにする︒. この﹁教行信一証﹂は彼の開教の基礎となる思想であるから多くの内容を含んでいることはいうまでもないが︑浄土. 系の釈疎︑論註を精細に検証し︑自家の独特の立論の場としている点︑ここに論点が集中するのは当然といえるか. もしれない︒親鷺の論集は︑﹁われかく思えり﹂︑﹁かく論断す﹂という表現はなく︑先行の浄土思想の経典論註を. 引用するその引用の方法によって秘かに自己の構想を伝えているといった特質をもっていることを忘れてはならな. ﹁言本願力者示大菩薩於法身中常在三昧而現種種神道種種説法皆以本願力﹂︵顕浄土真実行. い︒そのような意味でまず浄土からの他力をつぎのように規定している︒. 言他力老如来本願力也︒. そのあとに論をひき︑ 文類二︶. 他力は仏如来の本願力であるという規定こそ浄土真宗の中心的核になるものであるが︑この本願力は法身の中に. あって三昧にあるものが種々の働きを示し︑説法をなす︒すなわち︑法身ぽ法身のままであるのではなく︑慈悲と して働きかげ種々のすがたをとるのである︒. 884.
(24) 64. しかも諸菩薩は釈迦如来を讃嘆してつぎのごとくいう︒. ﹁我従噴劫巳来得蒙世尊長養我等法身知身大慈悲身︒禅定知慧無量行願由仏得成﹂︵同︶. 法身が禅定︑智慧が知身︑無量行願が夫慈悲身に相応するのであろう︒世尊が菩薩にも法身︑知身︑夫慈悲身を. も与え長く養い育てていること︑それによってまた菩薩も仏となることができると考えるのである︒それにたいす る報恩のために﹁仏二近カムコトヲ願フ﹂これが報恩感謝の念仏となる︒. 親鷲が規定している三身仏は︑各個所に見られるが︑つぎの場合もその一例である︒. ﹁元上浬築即是元為法身︑元為法身即是実相︑実相即是法性︑法性即是真如︑真如即是一如︑然者弥陀如来従如来 生示現報応化種種身也﹂︵同四︶. 法身仏は報応化身仏の種々の身相を示現すという︒三身の報応化身をまとめていっているところに︑法身の非人. 格性にたいし︑他の仏身の人格性の展開を予想する︒しかも﹁如ヨリ来生シテ﹂とその展開を具さに語っている︒ これは如来なるがゆえに慈悲の報応化が生ずることを強調する︒. ﹁愚禿抄﹂は﹁備忘録﹂あるいは﹁教行信証﹂などの体系化のための手控えとおもわれるが︑これには︑﹁就仏有 四種﹂として︑. ﹁一︑法身︑二︑報身︑三︑応身︑四︑化身﹂をあげているのを見れぱ明かなように三身仏ではなく︑四身仏とな. 883.
(25) 65. っている︒さらに法身については︑﹁法性法身﹂︑﹁方便法身﹂をあげている︒こ丸は﹁理法身﹂﹁智法身﹂に相当す. るものである︒報身仏には﹁一︑弥陀∵二︑釈迦︑三︑十方﹂をあげ︑応化身仏に叱三種あり︑二︑弥陀︑二︑. 釈迦︑三︑十方﹂をあげ︑報身仏と全く同じである︒十方はいうまでもなく﹁十方諾仏﹂を指している︒. 土についても四種をあげている︒﹁一︑法身土︑二︑報身土︑三︑応身土︑四︑化身土﹂︒報土に三種ありとして. ﹁一︑弥陀︑二︑釈迦︑三︑十方﹂をあげ︑興味深いことに応身土をあげていないことである︒前述の仏身論から. みれば︑あげないのは︑応身土が報身土と同一であるか︑あるいはつぎにのべる化身土と同じと見傲しているから. である︒応化は親鷲の場合︑しぱしば同一のことが多い︒そして﹁弥陀化土二就イテニ種有リ﹂として﹁一︑疑城 胎宮︑二︑解慢辺地﹂をあげている︒. 以上においてふれた間題を和語文章のもので再確認してみるならば︑﹁唯信抄文意﹂につぎのようなところがあ る︒. ﹁法身といふ︑法性といふ︑真如といふ︑一如といふ︑法性といふ︑法性すなはち如来なり︒この如来微塵世界. にみちくたまへり︑すなはち一切群生海の心なり︒この心に誓願を信楽するがゆゑに︑この信心すたはち仏性. なり︑仏性すなはち法性なり︑法性すなはち法身なり︒法身はいろもなし︑かたちもましまさず︒しかればこ∫. ろもおよばれずことばもたへたり︒この一如よりかたちをあらはして︑方便法身とまふす御すがたをしめして︑. 法蔵比丘となのりたまひて︑不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば︑世親菩薩は尽十方先尋. 光如来となづけたてまつりたまへり︒この如釆を報身とまふす︒誓願の業因にむくひたまへるゆゑに報身如来と. まふすなり︒報とまふすはたねにむくひたるなり︒この報身より応化等の元量元数の身をあらはして︑徴塵世界. 882.
(26) 66. に元尋の智慧光をはなたしめたまふゆゑに尽十方先号光仏とまふすひかりにて︑かたちもましまさず︑いろもま. ■.■. しまさず︑先明のやみをはらひ悪業にさへられず︑このゆゑに先尋光とまふすなり︒先尋はさはりなしとまふす︑ しかれば阿弥陀仏は光明なり︑光明は智慧のかたちなりとしるべし﹂︵専修寺本︶. これによって親鷲の法報応化の考えは充分につくされている︒ただこの和語文章によっても感ぜられるごとく︑. 一たび親鷺の文章となると誇々として泌み入るごとき叙述は独特の精神世界のあることを予想させるものであるこ とを付け加えたい︒. 法身︑智法身と同じように用いられており︑仏の慈悲の発動をあらわしている︒ところが真宗では﹁誓願の完成. の報いとして得られた一切の徳を具備した仏身﹂と註解している︒むろん誓願は慈報の発動より起るものであるに. しても︑阿弥陀仏と法蔵菩薩の四十八願の大誓願によって成就したその仏の功徳によってその報いとして衆生に賜. わるものという考えに基いている︒Lたがって﹁末燈抄﹂でつぎのごとくのべているように仏の方より慈悲として 働きかけ︑誓願となる︒. ﹁三身といふは︑一には法身︑ 二には報身︑三には応身なり︒ いまこの弥陀如来は報身如来なり﹂. 阿弥陀如来を報身如来と確定していることである︒このことはすでに﹁唯信抄文意﹂でもふれたことでもあるの. で再説はしないが︑この報身は﹁じづは生身の土︑二には報身の土︑三には応身の土︑四には化土なり﹂︵同︶との. べられているように︑この仏身のはたらきに応じた仏の世界をあらわしている︒. 881.
(27) ﹁法身土は字宙の真理そのものを仏体とあらわしたもの﹂︑﹁報身土﹂はさきにのべたごとき仏身の住するところ. であり︑﹁応身土﹂は﹁衆生救済のために必要なすがたを現わした仏身﹂国土であり︑﹁化土﹂は﹁仏が一切のものの. 機根に応じての変現した国土﹂であると註している︒これによって見れば︑仏身に法身︑報身︑応身の三身をあげ. ておきながら︑仏国土は法身土︑報身土︑応身土︑化身土と四つを想定しているのは不相応のごとく見える︒事実︑. 親鷺は時によっては応身︑化身を﹁応化身﹂とも呼んで一つの仏身に見立てているようにもおもわれる︒﹁教行信. ﹁﹃浄土論﹄日出第五門老以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身回入生死薗煩悩林中遊戯神通至教化地以本願力回向. 故是名出第五門︒﹂︵正信偶中の得至蓮華蔵世界即証真如法性身遊煩悩林現神通入生死薗示応化はこれにもとづく︶︒. この応化に関して︑﹁教行信証﹂では応身土は語られず︑化身土のみ語られている︒これは応化を一つにしたも. のであるのか︑あるいは応身土を化身土の中に含めたものであるのか︒こうしたことについて仏身論も︑仏国土論. もかならずしも確定的な教理として規定したい︒少くともヘブライズムにおけるよヶな鏡角的には論を展開してい. 応化身の意義に接近することにする︒つぎにいわゆる弥陀の四十八願の中から︑重要なものの一︑二. ないようにおもわれる︒この主題を明かにするためにわたしはまず﹁仏説無量寿経﹂の中に見られる誓願について 一考を加え. を抜きその特色を示す︒. ﹁設我得仏︑十方世界無量諾仏︑ 不悉盗瑳称我名者︑不取正覚︒L︵第七願︶. 880. 証﹂の中の﹁顕浄土真実証文類四﹂でつぎのごとくのべている︒. 研.
(28) 68. ﹁設我得仏︑十方衆生︑至心信楽︑欲生我国︑乃至十念︑若不生者︑不取正覚︒唯除五逆誹議正法︒﹂︵第十六願︶. ﹁設我得仏︑十方衆生︑発菩提心︑修諾功徳︑至心発願︑欲生我国︑臨寿終時︑仮令不与大衆囲饒︑現芙人前者︑ 不取正覚︒﹂︵第十九願︶. ﹁設我得仏︑十方衆生︑聞我名号︑係念我国︑植諸徳本︑至心廻向︑欲生我国︑不果遂老︑不取正覚︒﹂︵第二十願︶. ﹁設我得仏︑他方仏土諸菩薩衆︑来生我国︑究寛必至一生補処︒除其本願︑自在所化︑為衆生故︑被弘誓鎧︑積累. 徳本︑度脱一切︑遊諸仏国︑修菩薩行︑供養十方諸仏如来︑開化短沙無量衆生︑使立無上正真之遣︑超出常倫︑ 諸地之行現前︑修習普賢之徳︒若不爾着︑不敢正覚︒﹂︵第二十二願︶. ﹁設我得仏︑国土清浄︑皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界︑猶如明鏡親其面像︒若不爾者︑不敢正覚︒﹂ ︵第三十一願︶. ﹁設我得仏︑十方無量不可思議諸仏世界諸天人民︑聞我名字︑五体投地︑稽首作礼︑歓喜信楽︑修菩薩行︑諸天世 人︑莫不致敬︒若不爾者︑不取正覚︒﹂︵第三十七願︶. ﹁設我得仏︑国中人天︑欲得衣服︑随念即至︑如仏所讃応法妙服︑自然在身︒若有裁縫穣染涜濯者︑不取正覚︒﹂. 879.
(29) 69. ︵第三十八願︶. ﹁設我得仏︑他方国土諸菩薩衆︑聞我名字︑皆悉逮得清浄解脱三昧︑住是三昧︑ 世尊︑而不失定意︒若不爾者︑不取正覚︒﹂︵第四十二願︶. 一発意頃︑供養無量不可思議諸仏. 不取正覚︒﹂︵第四十六願︶. ﹁設我得仏︑他方国土諾菩薩衆︑聞我名字︑皆悉逮得普等三昧︑住是三昧︑ 至干成仏︑常見無量不可思議一切諸仏︒ 若不爾者︑不取 正 覚 ︒ ﹂ ︵ 第 四 十 五 願 ︶. ﹁設我得仏︑国中菩薩︑ 随其志願︑所欲聞法︑ 自然得聞︒若不爾者︑. ﹁教行信証﹂の中で︑弥陀浄土は報身土たりや化土なりやと問われたとき︑﹁是報非化云何得知如﹃大乗同性経﹄. 説西方安楽阿弥陀仏是報仏報土﹂︵顕浄土真仏土文類五︶と答えている︒報身は化身とはまったく異っている︒これ. は阿弥陀如来の住む仏土であるからである︒しかしすでにふれたように法蔵比丘が菩薩道を行じ四十八願を立て. ﹁一一頭言若我得仏十方衆生称我名号願生我国下至十念若不生者不取正覚今既成仏却是酬因之身也﹂︵同︶とのべて いるごとくである︒. ところが︑報身と応身についてつぎのごとく考えている︒. ﹁然報応二身者眼目之異名前翻報作応︑後翻応作報匹言報老因行不虚定招来果以果応因︑故名為報叉三大僧砥所修. 878.
(30) 70. 万行必定︑応得菩提︑今既道成︑即是応身斯乃過現諸仏弁立三身除斯已外更元別鎧︑ 縦使元窮八相名号慶沙剋盤 而論衆帰化摂今彼弥陀現是報也﹂︵顕浄土真仏土文類五︶. 親鷺にとっては報身と応身は因と果であり︑さらにそれ以上の必然的で密接な関係にある︒これは人椿的活動の. 二つの面であって︑報身として発動し︑報身の徳によって存在する弥陀は︑応身の働きを機根によって示すのであ. る︒歴史的に見れば報応は実際はきわめて近似の概念であって註釈家や経奥研究者が相互に取りちがえていること. もあるほどである︒それゆえ︑法身︑報身︑応身の三身以外には別体はあり得ないのである︒ところが親鷲は応身 土について語らず︑化身土について語っているのはなぜであろうか︒. 仏教的思弁からいえば︑法報応の三身論でつきるといえる︒親鷲はこのようた思弁からさらにすすんで煩悩︑苦. 悩に苦しむ衆生の実存的た間題にはいってゆく︒親鷲にとってもし図式的に示すならば︑法身︑報応身︑化身の形. をとると見るのが妥当であるとおたしはおもう︒鈴木宗忠氏は報応はほとんど同義であるとのべているのは︑首育. できる見解であるが︑しかし親鷺は報身と応身を別々に考えてもいることはさきに挙げた文章でも明かである︒報. 身が応身に解消同化するのではなく︑双方が一体でありながら︑それぞれの働きを示していることである︒. しからぱ報応となって︑応化とたぜならないのであるか︒応化の観念もじつはきわめて近似的た内容をもってお. り︑両老は区別できないほどである︒歴史的に経論を見てゆけば︑化身を応身の意味に用いている場合は枚挙にい. とまたいほどである︒ここではさうした宗教語としての三身の用法の変遷史にはふれない︒親鷲にとって思想とな. った仏身観について考察するとすれば︑応化の用法を摂りながらじつは化身に最大の重点を置いているのである︒. 親鷲は応身にたいして応身土を立てていない︒それは必要ないからではなくて︑報応はともに相応して一つに見. 8フ?.
(31) あり︑成就できる世界である︒焦点は五濁悪世の末法の衆生の救済である︒罪業深重の下品下生をいかに済度する. かにある︒すでにのべたように︑化身土は﹁一︑疑城胎値︑二︑解慢辺地﹂の境涯であって︑信乏しくて疑い深. く︑謡ったり︑醐ったり︑闘争し︑憎悪の止むときのない世界︑怠惰にはしりやすく︑騎りたかぶって身を減す世 界である︒. ﹁往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにてもさふらはず︑.めでたき智著もはからふべきことにもさ. ふらはず︑大小の聖人だにも︑ともかくもはからはで︑た父願力にまかせてこそおはしますことにてさふらへ﹂ ︵末燈抄一九︶. すでに﹁無量寿経﹂でのべたごとく︑四十八の誓願︑とくに第十八の念仏往生の願は阿弥陀如来と法蔵菩薩のは. ︑.. からいにより下品下生の衆生にも浄土に生れる道がひらかれた︒これらはまったく仏のはからいであって︑人間の 善行ではない︒つぎもその問の消息を伝えている︒. ﹁これみな法身とまふす仏のさとりをひらくぺき正因に︑弥陀仏の御ちかひを︑法蔵菩薩われらに廻向したまへ. るを︑往相の廼向とまふすなり︒この廻向せさせたまへる願を︑念仏往生の願とはまふすなり︒この念仏往生の. 願を︑一向に信じてふたごころなきを︑一向専修とはまふすなり︒如来二種の廻向とまふすことは︑この二種の. 廻向の願を信じ︑ふたごころなきを︑真実の信心とまふす︒この真実の信心のおこることは︑釈迦︑弥陀二尊の. 876. 敬しているからである︒仏が仏になることは︑非常な宗教的間題であるかもしれないけれど︑すでに成就した境で. 71.
(32) 御はからひよりおこりたりとしらせたまふべL﹂︵同二一︶. 親鷲ば﹁教行信証﹂の中で︑﹁真仏土﹂と﹁方便化身土﹂の二つの国土に分げている︒﹁謹按真仏土者仏者則是不. 可思議光如来︑土老亦是元量光明土也︑然則酬報大悲誓願故目真報仏土︒﹂︵顕浄土真仏土文類五︶. 親鷲にとって真仏土とは︑弥陀の大悲の誓願による報身仏土にほかならない︒法身も応身もすべてここにこもっ. ている︒これにたいし﹁方便化身土﹂は﹁仮之仏土﹂と呼び︑真仏土に対置されるこの人間のすむ世界である︒こ. の衆生の世界において仏がどのようなかたちをとり︑どんな働きを示すかが肝要な主題となる︒. ﹁真仮皆是酬報大悲願海︑故知報仏土也︑艮仮仏土業因千差土復応千差是名方便化身土﹂︵同五︶. まず真仏身土が何であるかを知らしめ顕すことが﹁真宗の正意﹂であった︒﹁化身﹂をあらためて立てて︑﹁仏土﹂. とは異る﹁化身土﹂を親鷲が想定するに至ったのは︑仏の慈悲の人格性の極点が罪業深重の人間の実存の奥にまで. 湊透せねばやまぬ至心信楽の誓願にもとづくものであることは︑重ねてここに強調していささかも揮るものではな い︒. 一見して親鷺は三身仏ではなく︑法報応化の四身仏を説いたかのごとくに見える︒Lかし四身仏と解しても事態. はいささかも変らない︒仏身仏土だげにとどまらず︑五濁悪世の未来の衆生のために化身土に化身となって済度を. 希求している純粋無雑な信において真の仏土の完成をみるに至るものであると思惟し︑生きようとするところに. 875.
(33) 73. ﹁教行信証﹂の窮極の目的があったといえる︒報応を一つに見て︑化に報応の極点をみるのが親鷲の至った境地で. キリスト教・仏教における問題点. あり︑他の仏身論がここに凝結したのである︒. 十ニ. キリスト教と仏教の比較研究は︑両老が接触︑交流しはじめた頃から︑すでに大きな関心をよせてきたことであ. り︑とくに今世紀にはいって多くの宗教学者︑宗教哲学老︑比較思想研究家たちによっていく度も試みられてきた. 問題である︒ところが﹁当時は両者の側から︑多数の︑多かれ少かれ護教的な︑或いは論争的な論文が書かれたが︑. それぞれ相手方から憤激を交えて拒絶され︑宗教学の文献として永続的危地位を得たものは^つもなかった﹂︵﹁仏. 教とキリスト教の比較研究の諸間題﹂ハイソリヅヒニアユモリソ︑ソプィァ︑一九五八年︑七巻第二号︶という位. になかなか比較をおこなうことは困難であった︒その理由も複雑で一︑二にとどまらないが︑例示すれば︑キリス. ト教自体︑仏教自体が長い歴史とその展開をもっており︑全体的にどこをどのように比較すぺきかがむっかしい︒. よくあるように︑仏教学者がある特定の﹁キリスト教入門﹂や﹁キリスト教概説﹂などから︑これこそキリスト教の. 本質であるときめて︑それと仏教とを比較するようなことが奇抜な結論へ導く場合が多いのである︒あるいはキリ. スト教の﹁啓示﹂と仏教の﹁内証﹂とを比較してその両者の特質のちがいを明かにする方法もあるが︑この場合も. ﹁啓示﹂と﹁内証﹂の意味を規定する前提が明瞭になりきっているかどうかがたえず問題になろう︒そこで反対に. 雨者に共通のテーマとして愛と慈悲︑罪悪︑誠と戎など︒の比較検討をおこなう試みもなされている︒ただ面倒な壬〜. とは︑一方が神秘体験を主張すれば︑それは共通のものでないと他方が否定L︑啓示概念を両者にあてはめようと. すると他方が拒否するといったことが多い︒双方を理解しなけれぱならないにもかかわらず︑これが過不足なくお. 874.
(34) 74. キリスト教とくにヨーロッバにおいては︑仏教が無や空を語るという理由で虚無主義といい︑無神論であ. こなわれている場合がきわめて少ないということもある︒. 従来. るという早まった判断を下してきた︒他方︑仏教の場合︑キリスト教の教義をあまり冷静に理解しないことが多い︒ 比較にあげるものが部分的な特徴であることが多い︒. 宗教においてはある宗教現象や経典にたいする解釈や註解も︑つぎにこれを文献として用いる後世の人々にとっ. ては解釈や註解にとどまらず︑新しい見解︑場合によっては宗教思想ともなる︒このように解釈の上に解釈をつみ. 重ねてゆく場合が多いということは宗教的なものの理解を一層困難にするのである︒. このようにキリスト教と仏教の比較研究は一見現実において相互に比較される機会をもちながらも︑なかなか厳. 密性を欠くことが多い︒多くの非難︑失敗︑不充分た論証などのために︑このような研究は中絶Lた方がよいとさ. え思われる︒どちらか一方にのみ専念した方がはるかに批判されることもたく︑実りも豊富であるようにおもわれ. る︒しかし︑われわれはキリスト教と仏教が生活においても︑文化の面においてもふれ合い出合っているとい3事. 実に目をつむるわけにはゆかないのである︒この双方への理解に目を向げることは︑人類の現在の歴史の現実にと. 双方の対話の可能性. って避けることができない問題であるという事実をわれわれははっきりと見極めなけれぼならない︒. 十三. キリスト教と仏教の比較研究とともに双方瓜対話の場につくことができるかどうかは︑長い間論議されてきたこ. とであり︑対話の場につくように見えて結局は見解の相異によって物分れとなりその場を去ることが多かった︒と. くに双方のいずれかが相手にたいLて感情を昂ぶらせる傾向が見えた︒しかし第ニヴァチカソ公会議においてキリ. 8フ3.
(35) 75. スト教が他の世界宗教にたいして対話を積極的にすすめようとしており︑相互の理解が深められてきた感がある︒. デュモリソ︵甲U目昌◎豪︶氏が﹁キリスト教と仏教との対話﹂の中で神学的アプローチとして︑﹁霊的体験と否. 定神学﹂︑﹁実存体験苦聖諦﹂をとおして両者の類似点をとりあげ︑人問性に訴える実存体験からみてゆこうとして. いる︒さらに︑﹁回心と無我﹂﹁他者と超越老﹂を考察したのちに︑つぎのようにのべている点に注目したい︒﹁われ. われはさらに一歩をすすめて︑仏教におげゐ超越体験をペルソナ的なものと解釈することができるでしょうか︒キ. リスト教と仏教との対話は︑ここに至ってその頂点に達するのであって︑十分に慎重を要します︒ベルソナという. 概念は︑現代の哲学によって更に詳細に説明される必要があります︒ペルソナ的な信仰の態度は︑仏教では比較的. 容易に指摘できる点であって︑現代の仏教系の新興宗教においては特にはっきり現われています︒それ故に仏教の. 一神教的傾向ということも語られたのです︒仏教の中でみられるペルソナ的態度の研究はまだ不十分ではあります. が︑神学的には極めて重要な課題であるといえるでしょう﹂︵同一五一頁︶︒この論文はヴユルツブルグ犬学神学部. におげる講演要旨であるから︑詳細な論証を期待できないにしても︑現代の仏教系の新興宗教に一神教的傾向が現. われていることはいうまでもないが︑すでに日本の鎌倉仏教にこの特色はでており︑この点では仏教内部におげる. 暮言におげる法身. 一神教的展開は︑わたしは大きく取り上げるべきこととおもわれる︒. 十四. 即身成仏を主眼とする基言密教においては︑法身大日如来は胎蔵界曼茶羅に智拳印を結んで坐している︒これを. 智法身と呼ぶ︒さらに金剛界曼茶羅にあっては大目如来は理拳印を結んでいる︒この大目如来を理法身と呼んでい. る︒この真言密教は三世常住の法身であり︑唯一絶対老たる大目如来と同じ印を結び︑その瞑想の中で修行者は大. 8η.
(36) 76. 日如来の法身となることを目ざす︒. 金剛薩壌は三摩地の境にはいるとき︑三界法王の十方三世の諸仏から五智法水の灌頂を授げられる︒金剛薩垂は. いわば墓言行者の集約規範化された姿で︑金剛三昧にて身口意を清浄ならLめ究寛智法身を現成し仏セな渇︒たと. えば理法身は涯しなく広がっている大海原の静まっている姿であり︑智法身は動くことによって海の海たることを. 示す姿であろう︒この二つは法身の二つの面があることを知ることから出たもので︑二様の法身が別に存在してい. るものではない︒法身が動くとは︑智慧が発動し︑済度の本領があらわれることでもある︒三世の諸仏もともに加 U 持護念し︑金剛薩錘に無上正等覚に上らせようとする︒. この金剛薩蛭の存在をチベット密教では︑﹁報身には時・空の制約を受けない世界の法身の徳と︑時・空の制約. を受けている世界の応身の徳との︑二元的な徳があると考えられ﹂︑﹁菩薩は因位にあり︑報身は果位にあると考え. られる﹂︵﹁金剛薩錘に於ける菩薩と報身﹂加藤高済︑印度学仏教学︑三四八号︶とのべている点︑時間︑空間の制. 約の有無で法身︑応身を捉え︑報身︵智法身︶は恰もその中間的存在とみる考え方は︑一つの新しい見解をもたら. すものである︒いわぼ超越者と人間の内面を結びつける伸保者︵媒介者︶的存在となることである︒. 菩薩は不動三味にはいってゆく様相を方広大荘厳経苦行品第十七﹁我今住不動三味︑身口意業︑皆得正受︑入第. 四禅︑遠離喜楽︑遺於分別︑無有瓢動︑猶如虚空︑遍於一切︑無能変異︑此定名為阿娑婆那﹂とのべているのも︑. ﹁不起千座三摩地現前﹂︵菩提心論七︶︑﹁当知得成般舟三昧︑三昧成故得見諸仏﹂︵十住毘婆沙論十二︑助念仏三味品. 第二十五︶も同じ 三 味 の 境 を 説 く も の で あ る ︒. ﹁金剛頂裁伽金剛薩錘五秘密修行念謂儀軌﹂においては仏の法身より生ずるものをつぎのように表わしている︒. ご鋤.
(37) 77. ﹁若依毘盧遮那仏自受用身所説内証自覚聖智法︑及大普賢金剛薩埋他受用身智︑則於現生︑遇逢曼茶羅︒阿閨梨得. 入曼茶羅為具足鵜磨以普賢三摩地引入金剛薩埋入共身中由加持威神力故於須曼頃︑当証無量三味耶︑無量陀羅尼. 門︑以不思議法能変易弟子倶生我執法執種子︒応時集得身中一大僧砥劫所集福徳智慧︑則為生在仏家︒共人従一 切如来心生︑従仏口生︑従仏法生︑従法化生︑得仏法財︒﹂. 定印を結び︑菩提心基言をとなえる︒この栽伽を行う行老は﹁我応サニ金剛薩埋ノ夫勇猛心ヲ発スベシ﹂︒さら. に二切有情ハ如来蔵性ヲ具スLと思惟し︑金剛薩垂の位を証得するのである︒. 禅定の諸段階. かくて捻伽行者は現世に三摩地を証得し︑本尊の身を成し︑一切如来現前するを得︑ついには毘盧遮那清浄三身 果位を証するのである︒. 十五. ﹁六祖法宝壇経﹂の ﹁坐禅第五﹂につぎのごとくのべている︒. ﹁師示衆云︑此門坐禅︑元不著心︑亦不著浄︑亦不是不動︒若言著心︑心元是妄︑知心如幻︑故︑無所著也︒若者. 浄人性木浄︑由妄念︑故蓋覆真如︑但無妄想性自清浄起心︑著浄御生浄妄︑妄無衆所薯者是妄浄無形相︑御立浄. 担言︑是工夫︑作此見老障自本性︑郷被浄縛︑善知識︑若修不動者但見一切人︑時不見人之是非善悪過患︒即是. 自性不動善知識逃人身難不動︑開口便説他人是非長短好悪与道違背︑若著心︑著浄却障道也︒﹂. 870.
(38) 78. まず坐禅をなすものの全般的な心構え︑態度についてここでは説いている︒﹁心ヲ薯セズ﹂︑. ﹁浄二著セズ﹂︒しか. も︑他の人々にたいしても﹁是非善悪遇患ヲ見ザルコト﹂を強調して止まない︒これは元来︑ 仏教は悟りを求めて︑ 救いを神に求めるのではないからである︒. ﹁師示衆云善知識何名坐禅此法門中無障無凝外於一切善悪境界心念不起名為坐内見自性不動名為禅善知識何名禅. 一. 定外離相為禅内不乱為定外若著相内心即乱外若若離相心即不乱本性自浄自定只為見境思境即乱著見諸境心不乱者 是真定也﹂. 坐禅するにあたり︑外に善悪境界に心念を起さず︑内に自性を見る︒禅定は︑﹁相ヲ離ル﹂こと︑ついには諸境. を見て︑﹁心乱レザル﹂ところに至って真の禅定であると説いている︒坐禅は﹁一行三昧︑一切処二於イテ行住坐. 臥常二一ノ直心ヲ行ズル﹂ことであり︑見聞覚知万境に染まざる不動の第一義に至ることである︒. ﹁善知識外離相即禅内不乱即定外禅内定是為禅定菩薩戒経云我本元自性清浄善知識於念念中自見本性清浄自修自 行自成仏道﹂. しかるに︑﹁念念ノ中二自ラ本性清浄ヲ見ル﹂ ところに︑空が清浄と結びついていることが明かになる︒ この清. 浄は他を籍りずに︑自修自行による︒. 869.
(39) η. ﹁師陞座告大衆日総浄心念摩詞般若波羅蜜多﹂︵六祖法宝壇経般若第二︶. ﹁摩詞是大心量広大猶如虚空無有辺畔亦無方円大大小非青黄赤白亦無上下長短亦無瞑無喜無是無非無善無悪︑無同. 有頭尾︑諸仏刹土尽虚空︑世人妙性本空無有一法︒⁝⁝用自真如性︑以知慧観照於一切法不取不捨︑即是見性成 仏道︑善知識︑若欲入甚深法界及般若三味考須修般若行持誘金剛般若経﹂︵同︶. 六祖の時代には︑さきにあげた﹁般若心経﹂﹁金剛般若経﹂にもとづいて︑禅を修行し︑開悟しようとすることが︑. まだ濃厚にのこっていたがゆえに︑至る処で﹁般若﹂が説かれている︒﹁事実︑般若三昧ノ行﹂が禅定三味であっ. たといってよい︒﹁空﹂はまさに虚空の広大︑﹁一法有ルコト無ク﹂︑差別相対的価値がすべて取り除かれた状況を. いう︒禅の修行者はまず﹁無念︑無憶︑無著︑証妄ヲ起サザルコト﹂︑したがって︑感覚的たもの︑感情を動かさ. れるようなもの︑感情そのもの︑対象的なもの︑対象として認識する意識︑■観念︑一切の思考すべてを放棄しなけ. ればならない︒いわゆる﹁非思量﹂であることが坐禅の中心となる︒この﹁空﹂は絶対性として行老の存在そのも. のに迫る︒﹁一念愚ナレバ即チ般若絶シ︑一念智ナレバ即チ般若生﹂ずる呈のものである︒自修自行によるとはい え︑般若の智はそれだけではたい︒. しかしながら︑道元が﹁学道用心集﹂︑﹁可向道修行事﹂の中で︑﹁夫学道者︑求被道擬也︑被道擬者︑亡悟跡也︑. 修行仏道者︑先須信仏道︑信仏道者︑須信自已本在道中︑不迷惑︑不妄想︑不顯倒︑無増減︑無俣謬也︒生如是信︑ 明如是道︑依而行之﹂とのべているように︑﹁信﹂の問題が生じてくるのである︒. ﹁普勧坐禅儀﹂において︑道元は坐禅の一義を示し︑その重要性を結跡鉄坐の一行三味へ集中せしめるのである︒. ε68.
関連したドキュメント
ハ中等學校出身者ノ方大デアルが統計二上ノ有 意1生ハ8年以外二認メラレナイ.(恐ラク大数
実を、
據說是做為收貯壁爐灰燼的容器。 44 這樣看來,考古 發掘既證實熱蘭遮城遺址出土有泰國中部 Singburi 窯
第一章 ブッダの涅槃と葬儀 第二章 舎利八分伝説の検証 第三章 仏塔の原語 第四章 仏塔の起源 第五章 仏塔の構造と供養法 第六章 仏舎利塔以前の仏塔 第二部
61歳一一70St,71歳一80歳,81歳一90歳ノ年齢別 ノ8組二分チ,更二男女別二分類シ限局性緻密
血滴ノ凝集慣,血球ノ被凝集慣ハ前述ノ如ク年齢,男女性別ニヨツテ蟹動アル外二季節的
[r]
ただし、このBGHの基準には、たとえば、 「[判例がいう : 筆者補足]事実的