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・ 重 岡 薫 五 郎 関 係 資 料

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(1)

内 子 町

・ 重 岡 薫 五 郎 関 係 資 料

小 野 翠 七 戸克 彦 一

資 料の 概 観 二 大 阪法 学 舎・ 東 京大 学法 学 部・ 司 法省 法 学校 三 エ クス 大 学法 学 部 四 そ の他 の 資料 表1 内 子 町蔵

・ 重岡 薫五 郎 関係 資 料目 録 表2 重 岡 薫五 郎 略年 譜・ 資 料目 録 対照

一 資 料 の 概 観

︵ 一

︶ 資 料 の 由来 重 岡 薫 五郎

︵ し げお か

・ く んご ろ う

︹こ う ご ろう

︵ こ ご

ろ う

︶︺

18 64

18 65

19 06

︶は

︑ 明 治 二

〇〜 三

〇 年 代 の 衆 議 院 議員

︵ 立 憲自 由 党

・憲 政 党

・立 憲 政 友会

︶ で

︑第 一 次 大 隈 重信 内 閣

︵隈 板 内 閣︶ の 外 務省 通 商 局長

︑ 第 四次 伊 藤 博 文 内閣 の 文 部省 官 房 長を 務 め たほ か

︑ 法典 調 査 会の 委 員 と し て現 行 民 法典

・ 商 法典 の 起 草に 関 わ った 人 物 であ る が

︵ 後 掲 表 2 略 年 譜 参 照︶

︑平 成 二 七 年 一 一 月

︑ 薫 五 郎 の ご 子孫 よ り 関係 資 料 が郷 里 の 愛媛 県 喜 多郡 内 子 町

寄 贈 さ れ

︑町 で は 翌 二 八 年 四 月 二 二 日 よ り 五 月 一 五 日 ま で

﹁ 明治 の 政 治 家・ 重 岡 薫五 郎 関 係資 料 展

﹂を 開 催 した

本 稿 は︑ 右 展 観に 携 わ った 内 子 町︵ 八 日 町・ 護 国 町並 保

資 料

黒田清輝画「重岡薫五郎肖像」(明治 40年3月) 表1>内子町蔵・重岡薫五郎関係資料目録190

(2)

存セ ン タ ー︶ 学 芸 員の 小 野 と

か ね て より 重 岡 薫五 郎 ほ か 法典 調 査 会の 所 属 メン バ ー に 関す る 調 査・ 研 究 を行 っ て き た 九 州 大 学

︵大 学 院

︹ 法 学 研 究 院

︺︶ 教 授 の 七 戸 が

平 成 二九

︵ 二

〇一 七

︶ 年五 月 に 実 施し た 資 料整 理 の 結果 を ま と めた 共 同 報告 で あ る︒ な お

︑ 右の 資 料 調査 に 際 し ては

︑ 松 山大 学 法 学部

・ 古 屋 壮一 教 授 のご 助 力 を仰 い だ

︒ 記し て 深 甚の 謝 意 を表 す る

︵ 二

︶ 資 料 の 内訳 ご 子 孫 より 内 子 町に 寄 贈 さ れた 資 料 の総 点 数 は︑ 当 初

︑ 硯箱 や 封 筒に 収 め られ た 書 類

・書 簡 等 を一 括 し て一 点 と 数 えた た め

︑前 記 展 観の 際 に は 約一 五

〇 点と 報 告 した が

︑ 今 回の 全 点 精査

・ 確 認の 際 に

︑ 改め て 一 点ご と に 付番 す る 作 業 を 行っ た 結 果

︑ 今 回 作 成 し た 目 録

︵後 掲 表 1

︶掲 載 の資 料 の 総数 は

︑ 計二 四 六 点 とな っ た

︒ そ の 内 訳は

︑ 時 期的 に は

︑ 薫五 郎 が 死去 す る 明治 三 九 年 以前 の 一 八六 点 と

︑死 去 後 の 六〇 点 に 分か れ る

︒ 1 薫 五郎 生 前 の資 料 薫 五 郎 生前 の 資 料の 大 半 は

︑彼 の 修 学時 代

︵ 明治 二 四 年 以前

︶ の

①講 義 ノ ート

② 書 簡・

③ 証 明書

④ 写真 で あ り︑

①講 義 ノ ート

︵ 五

〇冊

︶ は

︑ 大阪 法 学 舎時 代 の ノー ト が 四

︵ 表 1 資料 目 録 1〜 4

︶︑ 東 京大 学 法 学部

・ 別 課法 学 科 時 代 のノ ー ト 二〇 冊

︵ 5〜 24

︶︑ 司 法 省法 学 校・ 速 成科 時 代 と 覚 しき ノ ー ト二 六 冊

︵25

〜 50

︶か ら な る︒ 一 方

︑② 書 簡 は

︑ すべ て フ ラン ス

︵ エク ス 大 学︶ 留 学 時代 に 両 親・ 義 兄 宛 に 書か れ た もの で

︵ 明治 二

〜二 四 年

︶全 一

〇 一通

③ 証 明 書は

︑ 司 法省 法 学 校時 代 二 点︵ 51・ 52︶

・エ ク ス大 学 時 代 三 点︵ 98・ 102・ 113

︶︑

④ 写真 は

︑ 東京 大 学 法学 部・ 司 法 省 法 学 校時 代 四 点︵ 53・ 54・ 55・ 56

︶︑ エ ク ス大 学 時 代二 点

︵ 57・ 87

︶ で ある

︒ そ の 後の 帰 国 から 死 去 まで の 資 料二 四 点 は︑

① 財 産目 録 二 点

︵ 163・ 184

︶︑

② 法 服・ 大 礼 服各 一 式 164︵

〜 166 168︑

〜 173

︶︑

③ 書 簡

⎜西 園 寺 公 望 書 簡 一 点

︵ 167

︶︑ 宮 中 招 待 状 九 点

︵ 174〜 176

︑ 179 183〜

︑ 185

︶︑

④ 印 刷 物 一 点︵ 177

︶︑

⑤ 写 真 一 点

︵ 178︶︑

⑥勲 章 一 点︵ 186

︶ から な る

︒ 2 薫五 郎 没 後の 資 料 一 方

︑没 後 資 料の 内 訳 は︑

① 薫 五郎 の 訃 報を 受 け ての 悔 状 一 通 187︵

︶︑

② 旧 蔵 書寄 贈 に 対す る 礼 状一 通

︵ 188︶︑

③ 黒 田 清 輝 画の 肖 像 画と 遺 族 への 贈 呈 関係 文 書 三点

︵ 189 190・

・ 191

︶︑

④ 財 産 目 録 二 点

︵ 192

・ 193

︶の ほ か

︑ 薫 五 郎 の 三 男

・ 重 岡 忠 三の 資 料

⎜⎜

⑥ 忠 三が 父 の 五十 回 忌 に上 梓 し た﹃ 重 岡 薫 五 郎 小 伝

﹄ 220

の 出 版 関 係 資 料

︵原 稿

・ 礼 状 等︶ 五

資 料

(3)

一 点︵ 194

〜 242︶︑

⑦ 忠 三 が 書 写 し た と 覚 し き 西 園 寺 公 望 書 簡 の 写 し 三 通 243︵

・ 244

・ 245

︶︑

⑧ 薫 五 郎 遺 品 の 愛 媛 県 郷 土 芸 術 館 へ の 出 陳 に 対 す る 愛 媛 県 知 事 か ら の 感 謝 状 一 通

︵ 246

︶ であ る

⎜ 以 上の 内 訳 から 知 ら れ るよ う に

︑今 回 ご 子孫 か ら 寄 贈い た だ いた 資 料 の眼 目 は

︑ 全体 の 三 分の 二 を 占め て い る 薫五 郎 の 修学 時 代 の資 料

︵ 計 一六 二 点

︶で あ り

︑中 で も と りわ け 大 阪法 学 舎

・東 京 大 学 法学 部

・ 司法 省 法 学校 時 代 の 講義 ノ ー トと

︑ エ クス 大 学 留 学時 代 の 書簡 は

︑ きわ め て 資 料︵ 史 料

︶的 な 価 値が 高 い

︒ そこ で

︑ 以下 で は

︑と く に 右 の二 つ の 資料 に 焦 点を 当 て て

︑そ の 内 容に 立 ち 入っ て 紹 介 する こ と にし た い

二 大 阪 法 学 舎 ・ 東 京 大 学 法 学 部 ・ 司 法 省 法 学 校

重 岡 薫 五郎 が 満 六歳 と な っ た明 治 五 年は 学 制 頒布 の 年 で あり

︑ 翌 六年 に は 旧・ 内 ノ 子 村︵ 現

・ 内子 町

︶ にも 桜 丘 小 学校 が 開 校し て い るが

︑ 彼 の 受け た 初 等教 育 に つい て の 資 料は 発 見 され て い ない

ま た

︑ 明治 九 年 一二 歳 の 頃 には

︑ 修 学の た め 松山 に 出 た とさ れ る が︑ 彼 が 通っ た の が 当時 県 下 で唯 一 の 中学 校 だ っ

た 愛 媛 県変 則 中 学︵ 後 の 松山 中 学 校・ 現 在 の松 山 東 高等 学 校

︶ か も不 明

︵ した が っ てま た 同 校を 卒 業 した か 中 退し た か も 不 明︶ で あ る

︵ 一

︶ 大 阪 法学 舎 薫 五 郎が 法 律 学の 道 に 進む の は

︑長 男

・ 淳一 が 誕 生し た 明 治 一 六年 頃

︑ 重岡 家 に 起き た 訴 訟事 件 で 宇和 島 の 裁判 所 に 出 向 い た こ と が きっ か け で

︑ こ の 訴 訟 の 後

︑し ば ら く 宇 和 島 にと ゞ ま って 法 律 を勉 強 し

︑そ れ か ら松 山 に 出で

︑ 更 に 大 阪に そ し て後

︑ 東 京に 向 っ た﹂ と さ れて い る が

こ の う ち 大阪 で の 修学 先 は 大阪 法 学 舎で あ る

︒ 大 阪 法学 舎 に 関し て は

︑奥 平 昌 洪﹃ 日 本 弁護 士 史

﹄に 左 記 の よ うな 説 明 があ る が10

薫 五 郎 は︑ お そ らく 松 山 始審 裁 判 所 の 宇和 島 支 庁お よ び 本庁 の 司 法官 か ら 個人 的 に 法律 学 を 学 ん だ後

︑ そ の者 の 紹 介で

︑ 河 津祐 之

・ 渋川 忠 二 郎ら 大 阪 在 勤 の司 法 官 が教 鞭 を 執る 大 阪 法学 舎 に 転じ た の であ ろ う

︹ 渋 川︺ 忠 二 郎 同 庁︹ 大 阪 上 等 裁 判 所︺ に 在 り て 訴 訟 事 件 を 査閲 し 裁 判 事 務 を 輔 佐 した る が 同 年

︹ 明 治 一 四 年

︺同 庁 検 事 長 河津 祐 之

・ 判 事 小 村 寿 太郎

・ 同 近 藤 巨 摩

・ 同 藤井 三 郎

・ 同 斉 藤 金作 と 謀 り 大 阪 法 学 舎 とい ふ を 東 区 平 野 町 二 丁目 に 設 け 後 進 を

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(4)

誘 掖 す 後 西区 江 戸 堀 上 通 一 丁 目に 徒 れ り 生 徒 に は 奥 繁 三 郎

・ 前 田 藤 吉 郎

・重 岡 薫 五 郎

・ 竹 上 正之 助

・ 尾 崎 保

・ 左 近 司 六 蔵

・ 山 口 房 五 郎

・佐 伯 明 道

・ 角 谷 格 次郎

・ 住 田 脩 吉

・ 片 寄 伴 之 助 等 あ り き 大 阪 法 学舎 の 講 義内 容 に 関 して は

︑ これ ま で まっ た く 知 られ て こ なか っ た が︑ 薫 五 郎 筆記 の 渋 川忠 二 郎

・井 上 操

・ 河津 祐 之

・三 和 親 本の 講 義 ノ ート

︵ 資 料目 録 1

〜2

・ 3

・ 4︒ 講 義 時期 に 関 して は

︑ 明 治一 六 年 九月 一 七 日か ら

︑ 翌 一七 年 五 月二 五 日 まで の 記 載 があ る

︶ によ り

︑ その 一 端 は 明ら か に なっ た

︒ 後 年

︑ 薫五 郎 が

︑明 治 二 六 年八 月 よ り関 西 法 律学 校

︵ 井 上操 ら 大 阪在 勤 の 司法 官 が 中 心と な っ て明 治 一 九年 に 開 校 した 法 律 学校

︒ 現 在の 関 西 大 学︶ 教 授 に就 任 し たの も

︑ 大 阪法 学 舎 以来 の 縁 故が 関 係 し てい る も のと 推 測 され る

︵ 二

︶ 東 京 大 学法 学 部 別 課法 学 科 薫 五 郎 が法 律 学 の学 習 を 開 始し た 明 治一 六 年 には

︑ 東 京 大学 法 学 部に 別 課 法学 科 が 新 設さ れ た

︒ 同 科 設 置の 発 端 は︑ 同 年 五 月一 五 日 に法 学 部 七教 官

︵ 井 原師 義

・ 穂積 陳 重

・栗 塚 省 吾

・木 下 広 次・ 菊 池 武夫

・ 宮 崎 道三 郎・ 土 方 寧

︶か ら 文 部卿 に 提 出さ れ た 建議 書

︵ 東 京 大

学 法 学 部 内 ニ 別 課 設 立 ノ 儀 ニ 付 建 議﹂

︶ に 始 ま り

︑ 翌 六 月 二 三 日 には 加 藤 弘之 東 京 大学 総 理 から も 重 ねて 文 部 省に 上 申 が 行 われ た 結 果︑ 七 月 五日 文 部 省は 設 置 を許 可

︑ 九月 に 第 一 回 生三 一 名 の入 学 に 至っ た も ので あ る11

一 方

︑ 同 科 設 置 の 趣 旨 に つ き

︑﹃ 東 京 大 学 法 理 文 三 学 部 一 覧

﹄ は︑ 次 の よう に 述 べて い る12

シ 法 学 本 科 ハ 其 業 高 尚ナ ル ヲ 以 テ 多 士 ヲ 得 ルニ 難 シ 因 テ 即 今 世ノ 急 需 ニ 慮 セ ン カ 為 メ較 々 簡 易ノ 教 則 ニ 拠 リ テ 法 学 者 ヲ 育 成 スル ヲ 本 旨 ト シ 乃 チ 其 課程 ヲ 三 周 年 ト 定 メ 尚 卒業 ノ 上 在 学 シ テ 研究 セ ン ト ス ル 者 ハ 之 ヲ特 等 科 ト ナ シ 更 ニ 一 年間 其 高 等 ノ 業 ヲ 修メ シム ル モノ ト ス 裁 判 所の 全 国 的な 拡 充 によ る 司 法官 の 急 激な 需 要 増加 に 応 え る ため

︑ 仏 法系 の 司 法省 法 学 校で は

︑ すで に 明 治一

〇 年 よ り

︑修 学 期 間八 年 の 正則 科 と は別 に

︑ 修学 期 間 二年 の 速 成 科 を開 設 し てい た13

英法 派 の 牙城 で あ る東 京 大 学法 学 部 も

︑ 右に 対 抗 する 格 好 で︑ 司 法 官の 短 期 養成 コ ー スを 新 設 し た ので あ る

︒そ の カ リキ ュ ラ ムは 以 下 の通 り14

第一 年⁝

⁝ 法学 通 論︵ 通 年・ 毎 週 四 時 間

︶︑ 民 法

︵ 通 年・ 毎 週 三 時 間

︶︑ 契 約 法︵ 通 年

・ 毎 週 四 時 間

︶︑ 私 犯 法

︵ 二 学 期・ 毎 週三 時 間︶

資 料

(5)

第 二年

⁝⁝ 民 法︑ 刑 法︑ 治罪 法

︑証 拠 法︑ 商 法 第 三年

⁝⁝ 民 法︑ 商 法︑ 海上 法

︑証 拠 法︑ 訴 訟演 習 第 四年

︵ 特 等 科︶

⁝⁝ 国 法 学

︑行 政 法

︑国 際 法

︵公 法

・ 私法

︶︑ 古 代法 律

︑法 理学 そ の 後︑ 同 年 末

︵ 一 二 月 二 八 日

︶ に は﹁ 別 課 法 学 科 規 則﹂ が 制 定さ れ る15

1 明 治一 七 年 重 岡 薫 五郎 が 別 課法 学 科 に 入学 す る のは 翌 明 治一 七 年 七 月五 日

︑ 同期

︵ 第 二回 生

︶ の 入学 者 総 数は 五 四 名で あ る

︒ 上記

﹁ 別 課法 学 科 規則

﹂ に よ れば

︑ 入 学資 格 要 件は 次 の よ うな も の であ っ た から

︑ 当 時 二〇 歳 の 薫五 郎 は

︑す で に 入 学段 階 で 語学

︵ 英 語か 仏 語 と 思わ れ る

︶の 素 養 をあ る 程 度 身に つ け てい た と 考え ら れ る

︹別 課 法学 科規 則

︺ 第 三条

当 科 ニ入 ル ヘキ 者ハ 年 齢十 八 年以 上 トス 第 四 条 当 科 ニ 入 ルヘ キ 者 ハ 天 然 痘 又 ハ 種痘 ヲ 了 ヘ 身 体 壮 健 ニ シテ 且ツ 左 ノ試 業 ニ合 格ス ル 者ニ 限 ル 但シ 洋 語 ヲ 缺 カ サ ル 高 等中 学 科 卒 業 ノ 者 ハ 試業 ヲ 要 セ ス 其 洋 語ヲ 缺 キ タ ル 者 及 初 頭 中学 科 卒 業 ノ 者 ハ 洋 文ノ ミ ノ 試 業 ヲ ナ ス 一 漢 文 史 記白 文 訓点

論 語 弁書

一 洋文

英仏 独 語ノ 内 一語 ノ訳 読 一 算術

分数 比 例 一 方

︑別 課 法 学科 の 講 義内 容 に 関し て は

︑こ れ ま でま っ た く 知 られ て こ なか っ た が︑ 薫 五 郎関 係 資 料に は

︑ 彼の 一 年 次 の 履修 科 目 であ る 法 学通 論・ 民 法・ 契 約 法・ 私 犯 法︵ 不 法 行 為 法︶ の 四 科目 す べ ての 講 義 ノー ト が 残っ て い る︵ 穂 積 陳 重 の法 学 通 論講 義 に つき 資 料 目録 5

・ 6︑ 富 井 政章 の 民 法 講 義に つ き 7︑ 土 方 寧の 契 約 法講 義 に つき 8

・ 9︑ 同 じ く 土 方寧 の 私 犯法 講 義 につ き 10

︶︒ な お

︑同 年 一 一月 二 四 日に は

︑ 加藤 弘 之 総理 よ り

︑別 課 法 学 科 の卒 業 生 につ い て も︑ 本 科 の卒 業 生 と同 様

︑ 無試 験 で 代 言 人資 格 を 授与 せ ら れた き 旨 が文 部 卿 に上 申 さ れて い る が16

しか し

︑ 後述 す る よう に

︑ 明治 一 九 年︑ 別 課 法学 科 第 一 回 生・ 第 二 回生 は

︑ 三年 次

・ 二年 次 在 学中 に 司 法省 法 学 校 の 速成 科 に 移管

・ 編 入さ れ て しま う

︒ 2 明治 一 八 年 別 課 法学 科 の 処遇 に 変 化が 生 ず るの は 明 治一 八 年 のこ と で

︑ 同 年 四 月 六 日

︑加 藤 弘 之 総 理 は︑ 大 学 本 然 ノ 事 業 ヲ 拡 充 整 備﹂ す る ため

︑ 別 課法 学 科 を︑ 別 課 医学 科

・ 製薬 学 科

・ 古 典講 習 科 とと も に 廃止 し た き旨 を 文 部卿 に 上 申し

︑ そ の 結 果︑ 第 三 回生 以 降 の新 規 生 徒募 集 は 停止 さ れ る17

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(6)

︵ 1

︶ 東 京 大 学法 学 部 系

︵英 法 系

︶講 義 一 方

︑ 在学 生

︵ 第一 回 生

・ 第二 回 生

︶に 関 し ても

︑ 同 年 六月 二 九 日︑ そ れ まで 三 年

+特 等 科 一年

︶ と され て い た 修業 年 限 を︑ 四 年 に変 更 し た き旨 が 加 藤総 理 よ り文 部 卿 に 上申 さ れ

︑七 月 六 日裁 可 を 得 る︒ 変 更 後の カ リ キュ ラ ム は 次の ご と くで あ る18

第 一年

⁝⁝ 従 前之 通 第 二年

⁝⁝ 民 法︑ 商 法

︑刑 法

︑治 罪 法

︑羅 馬 法 律︑ 理 財 学

︑擬 律 及擬 判 第 三年

⁝⁝ 民 法︑ 商 法

︑海 上 法

︑ 証 拠 法

︑ 行 政 法︑ 訴 訟 法

︑擬 律 及擬 判 第 四年

⁝⁝ 民 法

︑商 法

︑訴 訟 演 習

︑憲 法

︑国 際 法

︵ 公 法・ 私 法

︶︑ 法 理学 だ が

︑ 薫五 郎 の ノー ト は

︑ 右の カ リ キュ ラ ム に対 応 し て おら ず

︑ 一年 次 の 二学 期

︵ 明 治一 八 年 一月 八 日

〜三 月 三 一 日︶ に は

︑二 年 次 の配 当 科 目 であ る は ずの 治 罪 法を 受 講 し て い る︵ 資 料 目 録 14

︶︒ 初 回 講 義 日 に つ き 一 月 二

〇 日 の 記 載が あ る 刑法

︵ 資 料目 録 11

︶ も︑ 同 様 に︑ 明 治 一八 年 の 一 年次 二 学 期の 開 講 であ ろ う

︒ ま た

︑ 明治 一 八 年九 月

︑ 二 年次 に 進 級し た 彼 は︑ 翌 一 九 年四 月 別 課法 学 科 が司 法 省 法 学校 に 移 管・ 編 入 され る ま で

の 間 に

︑上 記 カ リ キュ ラ ム の 二 年 次 配 当 科 目 で あ る 商 法

︵ 土方 寧

・ 岡 村輝 彦

︒ 資料 目 録 15・ 16

︶︑ 羅 馬法 律

︵ 江木 衷

︒ 資 料 目 録 17

︶︑ 理 財 学

︵ 和 田 垣 謙 三︒ 資 料 目 録 18

・ 19︶ の ほ か

︑ 三年 次 配 当科 目 の 行政 法

︵ 担当 者 不 明︒ 資 料 目録 20

〜 23

︶ や︑ 四 年 次 配 当 科 目 の 憲 法

︵ 穂 積 八 束

︒ 資 料 目 録 24

︶ を 受講 し て いる

︒ 上 記カ リ キ ュラ ム は

︑別 課 法 学科 の 移 管 が 決ま っ た 段階 で

︑ 前倒 し で 実施 さ れ たよ う に も見 え る

︒ あ るい は 法 学部 本 科 の講 義 の 聴講 が 認 めら れ た もの か

︵ 2

︶ 司 法 省法 学 校 系︵ 仏 法 系︶ 講 義 そ の 一方 で

︑ 薫五 郎 は

︑別 課 法 学科 が 司 法省 法 学 校に 移 管

・ 編 入さ れ る 以前 よ り

︑井 上 正 一の 仏 国 商法

︵ 手 形法

︶ 講 義 を 受 講 し て い る︵ 資 料 目 録 27︶

︒ こ の 講 義 ノー ト は

︑ 明 治 一 九年 二 月 二三 日 の 第三 八 回 講義 か ら 始ま っ て いる か ら

︑ 講 義は

︑ 前 年︵ 明 治 一八 年

︶ より 開 始 され て い たと 考 え ら れ る︒ と こ ろで

︑ 司 法省 法 学 校︵ 正 則 科・ 速 成 科︶ の う ち正 則 科 は

︑ 明治 一 七 年一 二 月 一二 日 に 文部 省 に 移管 さ れ

︑名 称 も

﹁ 東 京法 学 校

﹂に 改 め られ た 後

︑明 治 一 八年 九 月 二八 日 に 東 京 大学 法 学 部に 吸 収 合併 さ れ た19

そ の 際︑ ア ペ ール ら 正 則 科 の担 当 教 員も

︑ 司 法省 か ら 文部 省

︵ 東京 大 学

︶に 配 置 換 え とな り

︑ 東京 大 学 の従 来 の 法学 部 は 第一 科

︑ 旧東 京

資 料

(7)

法学 校 は 第二 科 と 称し て

︑ そ れぞ れ 別 個の 授 業 を行 っ た の であ る が

︑薫 五 郎 ら別 課 法 学 科の 生 徒 たち は

︑ 合併 に よ り 法学 部 第 二科 の 教 員と な っ た 旧正 則 科

・東 京 法 学校 の 講 師 の講 義 を 受講 し た 可能 性 が あ る︵ 後 述

︶︒ な お

︑ 明治 一 八 年一 二 月

︑ 文学 部 に 配置 さ れ てい た 政 治 学科 が 法 学部 に 移 置さ れ

︑ こ れに 伴 い

﹁法 学 部

﹂の 名 称 も

﹁ 法 政 学 部

﹂ に 変 更 さ れ た の で

︑以 後

︑ 翌 明 治 一 九 年 司 法 省 法 学 校 に 移 管 さ れ る ま で の 薫 五 郎 の 所 属 は

︑ 東 京 大 学

﹁ 法 政 学部

﹂ 別 課法 学 科 であ っ た20

︵ 三

︶ 司 法 省 法学 校 速 成 科 明 治 一 七年 に 司 法省 法 学 校 の正 則 科 が文 部 省 に移 管 し た 結果

︑ 司 法省 法 学 校は 速 成 科 のみ と な った

︒ こ のと き 在 籍 し て い た 速 成 科 の 生 徒 は︑ 明 治 一 六 年 入 学 の 第 三 期 生 で あっ た が

︑明 治 一 八年 中 頃 か ら第 三 期 生を 最 後 に速 成 科 を 廃止 す る 話が 浮 上 する よ う に なり

︑ 実 際︑ 彼 ら の卒 業 を 最 後に

︑ 司 法省 法 学 校は

︑ そ の 歴史 に 幕 を下 ろ す こと と な る︒ 1 明 治一 九 年 東 京 大 学法 学 部 にお け る 別 課法 学 科 廃止 の 方 針も

︑ 司 法 省法 学 校 にお け る 速成 科 廃 止 の方 針 と 連動 し て いた よ う で あり

︑ 明 治一 九 年 三月 二 日 勅 令第 三 号

﹁帝 国 大 学令

﹂ の 施

︵ 四 月一 日

︶ を機 に

︑ 別課 法 学 科生 徒 は

︑司 法 省 法学 校 速 成 科 に移 管

・ 編入 さ れ た21

な お

︑同 年 四 月一 日 現 在の 別 課 法 学 科 の 生 徒 数 は︑ 明 治 一 六 年 入 学 の 第 一 期 生

︵ 三 年 生

︶ 二 四 名

︑ 薫 五 郎 ら 明 治 一 七 年 入 学 の 第 二 期 生

︵ 二 年 生

︶ 三 六 名 の 総 数 六

〇 名 で あっ た が

︑﹃ 司 法 沿 革 誌

﹄ に よ れ ば

︑ 司法 省 法 学校 速 成 科に 移 管 され た 生 徒数 は 四 七名 と さ れ て いる か ら

︑こ の と き一 三 名 が移 管 を 選ば ず 退 学し た と 考 え られ て い る22

な お

︑同 年 五 月四 日 に は︑ 速 成 科生 徒 の うち 二 級 以上 の 者 お よ び旧 別 課 法学 科 生 徒の う ち 三年 生

︵ 第一 期 生

︶に つ い て は

︑同 年 一 一月 に 実 施さ れ る 第二 回 判 事登 用 試 験の 受 験 が 許 可 さ れ た が23

旧 別 課 法 学 科 二 年 生︵ 第 二 期 生︶ で あ っ た 薫五 郎 の 受験 は

︑ 翌明 治 二

〇年 の こ とと な る

︒ 一 方

︑薫 五 郎 が司 法 省 法学 校 時 代に 受 講 した 課 目 で目 を 惹 く の は︑ 旧 民 法の 草 案 に関 す る 講義 で あ る︵ 資 料 目録 33

〜 43

︶︒ 財 産 編 の 講 義 担 当 者 は は っ き り し な い が24

財 産 取 得 編

・ 売買 の 講 義を 担 当 した の は

︑正 則 科 の移 管 に 伴い 文 部 省

・ 東京 大 学

︵明 治 一 九年 四 月 一日 よ り 帝国 大 学

︶に 配 置 換 え とな っ て いた ア ペ ール

︑ 一 方︑ 翌 明 治二

〇 年 一月 よ り

︑ ボ ア ソ ナー ド

︵ 本 稿 で は 薫 五 郎 の 用 い る 表 記 に 従 い

﹁ ボ ア ソ ナ ード

﹂ と 記 載 す る

︶が 証 拠 編 の 講 義 を 行 っ て い

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(8)

るこ と に は驚 く

︒ 旧民 法 の 草 案の う ち

︑明 治 一 九年 三 月 三 一日 に 民 法編 纂 局 が内 閣 に 提 出し た 草 案は

︑ 財 産編 と

︑ 財 産取 得 編 のう ち 第 一部 の み で あり

︑ ボ アソ ナ ー ドが 証 拠 編 の草 案 を 起草 す る のは

︑ 司 法 省法 律 取 調委 員 会 時代 の 明 治 二一 年 九 月二

〇 日 以降 と さ れ てい た か らで あ る25

以 上 の ごと く

︑ 司法 省 法 学 校時 代 は もと よ り

︑大 阪 法 学 舎時 代

・ 東京 大 学 法学 部

︵ 法 政学 部

︶ 別課 法 学 科時 代 を 含 めて

︑ 薫 五郎 の 講 義ノ ー ト は

︑現 在 発 見さ れ て いる 同 種 の 資料 の 中 で︑ 質

・ 量と も に 圧 倒的 で あ るう え

︑ 保存 状 態 の 良さ に 関 して も

︑ 他に 類 を 見 ない

︒ 2 明 治二

〇 年 第 三 回 判事 登 用 試験 は

︑ 明 治二

〇 年 一〇 月 に 実施 さ れ た が︑ こ れ に先 立 ち

︑司 法 省 は

︑同 年 一 月と 六 月 に臨 時 の 判 事登 用 試 験を 行 っ た︒ こ の う ちの 一 月 の臨 時 試 験は

︑ す で に司 法 省 法学 校 速 成科 を 卒 業 して 判 事 補・ 検 事 補・ 書 記 等 に任 官 し てい た 者 が対 象 で あ る︒ こ れ に対 し て

︑六 月 の 臨 時判 事 登 用試 験 は

︑薫 五 郎 ら 現在 在 学 中の 速 成 生徒 を 対 象 とす る も ので

︑ 六 月一 日

〜 四 日の 筆 記 試験 の 合 格者 に 対 し て︑ 七 月 一日

〜 一 一日 に 口 述 試験 が 行 われ

︑ 翌 一二 日

︑ 七 七名 の 者 に対 し て 判事 登 用 試 験及 第 証 書が 授 与 され た26

こ の臨 時 試 験に 落 第 した 者 も

︑ 一〇 月 実 施の 第 三 回判 事 登 用

試 験 を 受験 す る 機会 が あ った が

︑ 薫五 郎 は 首尾 よ く 六〜 七 月 の 臨 時試 験 に 及第 し て いる

︵ 資 料目 録 51

︶︒ そ の 後︑ 同 年 九月 に 速 成生 徒 の 授業 は す べて 終 了 して 試 験 が 実 施さ れ

︑ 翌一

〇 月 六日

︑ 薫 五郎 ら 一 五一 名 の 生徒 に 卒 業 証 書が 授 与 され た

︵ 資料 目 録 5227

︒ な お

︑同 年 一 二月 一 三 日︑ 司 法 省法 学 校 の速 成 科 の卒 業 生 に 対 して も

︑ 東京 大 学 法学 部

・ 帝国 大 学 法科 大 学 の卒 業 生

︵ す な わ ち 法 学 士

︶ と 同 じ く

︑ 無 試 験 で 代 言 人

︵ 弁 護 士

︶ 免 許を 授 与 する 旨 が 認め ら れ た28

後 に

︑薫 五 郎 が︑ 明 治 二 六 年八 月 に 大阪 で 弁 護士 事 務 を開 始 す るの も

︑ この 資 格 に 基 づく も の であ る

︒ しか し

︑ 当時 の 薫 五郎 は

︑ 司法 官 に も 代 言人 に も 関心 は な かっ た

︒ この 時 期 の彼 の 野 心は

︑ 法 学 博 士に な る こと に 向 けら れ て いた の で ある

三 エ ク ス 大 学 法 学 部

博 士 の肩 書 に 対す る 薫 五郎 の 強 い思 い 入 れへ は

︑ かな り 早 い 段 階か ら 存 在し て お り︑ す で に大 阪 法 学舎 時 代 の井 上 操 の 講 義 ノ ート

︵ 資 料 目 録 3

︶ の 表 紙 に も

︑ 将 来 博 士 重 岡 薫 五 郎

﹂ と あ る

︒ 将 来 博 士

﹂ の 文 字 は︑ 別 課 法 学 科 時 代 の 土方 寧 の 講義 ノ ー ト︵ 資 料 目録 15

︶ にも 認 め られ る

資 料

(9)

が︑ 日 本 にお い て 博士 の 制 度 が整 え ら れる の は

︑薫 五 郎 が 司法 省 法 学校 を 卒 業す る 年 で ある 明 治 二〇 年 五 月二

〇 日 勅 令第 一 三 号﹁ 学 位 令﹂ に よ っ てで あ り

︑わ が 国 初の 博 士 号 の授 与 は

︑翌 二 一 年五 月 七 日 のこ と で ある か ら

︑薫 五 郎 が 一〇 代 の 頃か ら 憧 れて い た 博 士と い う のは

︑ 欧 米の 大 学 に 在籍 し て 博士 論 文 を書 き 上 げ た者 を 意 味し た

︒ どの よ う な きっ か け で︑ 彼 が この よ う な 夢を 抱 く よう に な った の か

︑ その 背 景 事情 に つ いて は 調 べ きれ て い ない

︵ 一

︶ 留 学 の 算段 こ れ に 対 し て︑

﹃重 岡 薫 五 郎 小 伝

﹄は

︑ 薫 五 郎 に フ ラ ン ス留 学 の 意志 が 発 生し た の は

︑別 課 法 学科 が 司 法省 法 学 校 に 移 管 さ れ る 前 後 の こ と と す る29

ま た︑ 同 書 は 続 け て

︑ 重 岡 さ ん の え ら い と こ ろ は

︑ こ の フ ラ ン ス 行 の 決 意 を

︑ 官費 留 学 なら い ざ 知ら ず

⁝実 行 に まで う つ した

﹂ と こ ろに あ る とす る が

︑驚 嘆 す べ きは む し ろ︑ 息 子 の四 年 も の 長き に 及 ぶ私 費 留 学を 支 え る こと が で きた 実 家

⎜⎜ 内 子 の 呉服 商 兼 雑貨 商

⎜の 経 済 力 であ る

︒ も っ と も︑ 留 学 期間 四 年 で 博士 号 を 取得 す る のは

︑ 驚 異 的な ス ピ ード で あ り︑ 薫 五 郎 の司 法 省 法学 校 時 代の 師

・ 井 上正 一 は 学位 取 得 まで 六 年 の 歳月 を 費 やし

︵ 明 治八 年 官 費

留 学

︑ 一二 年 パ リ大 学 で 法学 士 取 得の 後

︑ ディ ジ ョ ン大 学 に 転 じ

︑明 治 一 四年 日 本 人と し て 初め て フ ラン ス で 法学 博 士 を 取 得︶

︑ 別課 法 学 科時 代 の 師・ 富井 政 章 も同 じ く 六年 の 月 日 を 費や し て いる

︵ 明 治一

〇 年 フラ ン ス の実 業 家 エミ ー ル

・ ギ メの 援 助 を受 け て リヨ ン 大 学に 私 費 留学

︑ 明 治一 六 年 学 位 取 得

︶︒ 四 年 で 学 位 を 取 得 し た の は︑ 不 世 出 の 大 天 才

・ 梅 謙次 郎

︵ 明治 一 八 年官 費 で リヨ ン 大 学に 留 学

︑明 治 二 二 年 に博 士 号 取得

︶ く らい の も ので あ る

︒ た だ し︑ 薫 五 郎の 短 期 での 学 位 取得 に は

︑一 つ の 作戦 が 存 在 し てい た

︒ それ は 留 学先 と し て名 門 パ リ大 学 や リヨ ン 大 学 を 選ば ず

︑ 南仏 プ ロ ヴァ ン ス の小 規 模 校エ ク ス 大学 を 選 択 し たこ と で ある

︒ な お

︑エ ク ス は︑ 画 家 セザ ン ヌ の生 ま れ 故郷 で

︵ その た め

︑ エ ク ス 大 学 の 名 称 は

︑ そ の 後 ポ ー ル

・セ ザ ン ヌ 大 学

︵ エク ス

・ マ ルセ イ ユ 第三 大 学

︶に な っ た︶

︑薫 五 郎 が留 学 し た 頃

︑画 家 は パリ か ら 郷里 に 戻 って 制 作 を続 け て いた か ら

︵ 名 作

﹁ カ ード 遊 び を す る 人々

﹂ は

︑こ の 頃 に 描 か れ た

︶︑ 薫 五 郎 と 画 家 は 同 時 期 に 同 じ 町 の 空 気 を 吸 っ て い た こ と に なる が

︵ 薫五 郎 二 三〜 二 七 歳に 対 し て︑ 画 家 は四 八

〜 五 二 歳

︶︑ 当 時 ま だ 無 名 で あ っ た 画 家 に つ い て

︑ 薫 五 郎 の 手 紙 は何 も 伝 えて は い ない

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(10)

︵ 二

︶ フ ラ ン ス留 学 時 代 の手 紙 以 下

︑ 薫五 郎 が 両親

︵ 父

・ 嘉平

︑ 母

・エ イ

︶ と義 兄

︵ 加 藤孫 三 郎

︶に 宛 て た手 紙 か ら

︑留 学 時 代の 彼 の 足跡 を た ど るこ と に しよ う

︒ 1 明 治二

〇 年 司 法 省 法学 校 卒 業の 五 日 前 であ る 明 治二

〇 年 一〇 月 一 日 に判 事 試 補の 辞 令 が下 り

︑ 松 山始 審 裁 判所 詰 を 命ぜ ら れ た 薫 五 郎 は︑ 卒 業 の 翌 日 で あ る 同 月 七 日 に 職 を 辞 し て い る

︵ 資 料 目録 59

︶︒

﹃ 重 岡 薫 五 郎 小 伝

﹄で は

︑ 卒 業 の 翌 日

︑ 帰 郷 し た 際 に よ うや く 両 親か ら 洋 行の 許 可 が 下り た ス トー リ ー にな っ て い るが30

内 子へ の 帰 省は 卒 業 以 前の こ と であ っ た よう で あ る︒ 旅券 の 手 配や 船 の 確保

︑ 受 入 大学 と の 交渉 等 を 考え た 場 合︑ 留学 中 の 仕送 り に 関し て も

︑ 相当 程 度 以前 か ら 両親 と の 間 で話 が ま とま っ て いた と 考 え るの が 自 然で あ る

︒ 薫 五 郎 が留 学 先 から 両 親 と 家督 相 続 人で あ る 義兄 に 宛 て て非 常 に 頻繁 に 手 紙を 送 っ て いる の も

︑私 費 留 学の 資 金 援 助を 受 け てい る こ とか ら す れ ば当 然 の 対応 で あ ろう

︵ 1

︶ 洋 行 薫 五 郎 が留 学 の 途に つ く の は明 治 二

〇年 一

〇 月一 二 日

乗 船 し たの は 横 浜出 航 の フラ ン ス 船ア ナ ジ ール 号 で

︑同 船 者 に は

︑薫 五 郎 と同 じ く エク ス 大 学で 法 学 を学 ぶ 元 老院 議 長

・ 大 木喬 任 の 長男

・ 逸 太郎 も お り︑ そ の ため

︑ 薫 五郎 は 洋 行 直 前︑ 東 京 で︑ 大 木 喬任 宅 に 招待 さ れ てい る

︒ この ほ か

︑ 薫 五郎 は

︑ 同じ く 東 京に て

︑ 大洲 藩 最 後の 藩 主

︵第 一 三 代

︶ 加藤 泰 秋

︵子 爵

︶ 邸に も 招 かれ

︑ 金 一封 を 授 けら れ て い る

︵資 料 目 録60

︶︒

︵ 2

︶ デ ュ リー 出 航 後は 香 港

︑サ イ ゴ ンを 経 て 一一 月 二 日に ア デ ン港 に 至 り

︑ 一一 月 二

〇日 マ ル セイ ユ 港 に到 着 し た薫 五 郎 は︑ 同 船 者 の 大 木 逸 太 郎 と と も に︑ 同 地 に 居 を 構 え て い た レ オ ン

・ デ ュリ ー の 許に 身 を 寄せ て い る︵ 資 料 目録 61

︶︒ レ オ ン

・フ ラ ン ソ ワ

・パ ン ク ラ ス

・ デュ リ ー

URY

F ra n ço is  P a n cr a ce  D : 18 22 18 91  

L eo n

︶ は

︑一 八 二 二年 五 月 一 二 日ブ ー シ ュ・ デ ュ

・ロ ー ヌ 県ラ ン ベ スク に 生 まれ た31

ラ ン ベ スク は

︑ エク ス か ら二

〇 キ ロ︑ マ ル セイ ユ か ら四

〇 キ ロ ほ ど離 れ た

︑人 口 三 五〇

〇 人 ほど の 小 さな 村 で ある

︒ 地 元 の 学校 か ら マル セ イ ユの 大 学 で医 学 を 学ん だ 彼 は︑ 一 八 六 一

︵文 久 元

︶年 徳 川 幕府 が 函 館に 計 画 した 病 院 の医 師 と し て 日本 に 派 遣さ れ る が︑ 病 院 建設 の 計 画が 頓 挫 した た め

︑ フ ラン ス 副 領事 の 職 を与 え ら れて 長 崎 のフ ラ ン ス副 領

資 料

(11)

事館 に 着 任︑ 副 領 事の か た わ ら仏 語 教 育に も 従 事︒ 維 新 後 の一 八 七 二︵ 明 治 五︶ 年 京 都 府の 仏 学 校教 師 に 招聘 さ れ

︑ 富井 政 章

・高 木 豊 三ら を 指 導

︑一 八 七 五︵ 明 治 八︶ 年 東 京 開成 学 校 教授

︑ 一 八七 六

︵ 明 治九

︶ 年 東京 外 国 語学 校 教 授 に転 じ た 後︑ 一 八 七七

︵ 明 治 一〇

︶ 年 京都 府 派 遣留 学 生 八 名を 引 率 して フ ラ ンス に 帰 国 した

︒ そ の後 も 彼 は︑ 日 本 か らの 留 学 生を 熱 心 に世 話 し

︑ 日本 政 府 はそ の 功 を讃 え て 一 八八 五

︵ 明治 一 八

︶年 勲 四 等 旭日 小 綬 章を 贈 っ てい た

︒ な お

︑ 薫五 郎 の 来着 し た 一 八八 七

︵ 明治 二

︶年 以 降 に つい て も 触れ て お くと

︑ 翌 一 八八 八

︵ 明治 二 一

︶年 日 本 政 府は デ ュ リー を マ ルセ イ ユ の 日本 領 事 館の 名 誉 領事 に 任 命 して い る が︵ 任 命 の祝 宴 に は 薫五 郎 ら も参 集 し てい る

︒ 資 料 目 録 74

︶︑ こ の 名 誉 職 も ま た

︑親 日 家 の 彼 に

︑ フ ラ ン ス の玄 関 港 マル セ イ ユに お け る 日本 人 の 世話 役 を 期待 し て の こと で あ ろう

︒ 薫 五郎 の 日 本 帰国 直 後 の一 八 九 一︵ 明 治 二 四︶ 年 一

〇月 二 四 日に 死 去

︒ 行年 六 九 歳︒ 死 去 の三 日 前 に は︑ 職 場 で死 に た いと 言 っ て 聞か ず

︑ 家族 は つ いに 折 れ て 日本 領 事 館ま で 彼 を連 れ て 行 った と い う︒

︵ 3

︶ エ ク ス 大学 入 学 さ て

︑ エク ス 大 学の 学 長 に 面会 し た 薫五 郎 は

︑無 試 験 で 直ち に 大 学入 学 を 許可 さ れ る

︒梅 謙 次 郎で も リ ヨン 大 学 へ

の 正 式 入学 に は 半年 を 要 して お り

︑エ ク ス 大学 に あ って も 外 国 人 留学 生 を 直ち に 正 規入 学 さ せる こ と はし て い なか っ た か ら

︑ こ の 処 遇 は 実 に 異 例 で あ る

︒﹃ 重 岡 薫 五 郎 小 伝

﹄ に よ れ ば

︑ 無 試 験 だ っ た の は 判 事 登 用 試 験 に 合 格 し て ゐ た ゝ め だっ た と 云う

﹂ が32

こ の ほ かに も

︑ ボア ソ ナ ード の 書 い た エ ク ス 大 学 学 長 宛 の 推 薦 状 を 持 参 し て い た こ と が

︵ 資 料 目 録 60

︶大 き か っ た の だ ろ う︒ ボ ア ソ ナ ード と い う 人 は

︑ なか な か に頑 迷 で 偏屈 な 老 人な の で ある が

︑ なぜ か 薫 五 郎 に対 し て は︑ 後 に も博 士 号 取得 を 強 く勧 め

︑ 学資 援 助 を 申 し 出 る な ど︵ 資 料 目 録 132

︶︑ デ ュリ ー に 負 け ず 劣 ら ず 非 常 に親 切 で ある

︒ 一 方

︑宿 舎 は

︑カ ト リ ック 系 の 神学 校 の 寄宿 舎 で あっ た が

︑ こ の寄 宿 舎 もま た

︑ 本来 な ら 外国 人 の 入舎 が 容 易に 認 め ら れ ない 場 所 であ る

︒ だが

︑ こ ちら に つ いて も

︑ 薫五 郎 は

︑ 日 本出 立 時 にフ ラ ン ス人 の 神 父に 紹 介 状を も ら って い た の で 入舎 が 許 され た と いう

︵ 資 料目 録 62

︶︒ こ のよ う に

︑ 薫 五 郎 のフ ラ ン ス留 学 は

︑周 到 綿 密な 手 は ずを 整 え たう え で 実 行 に移 さ れ たの で あ る︒ こ の ほか

︑ 薫 五郎 の 手 紙は

︑ 当 時エ ク ス に二 名 の 日本 人 が 留 学 して い た こと を 伝 えて い る

︒一 人 は 元老 院 議 官・ 鶴 田 晧

︵な お

︑薫 五 郎 は

﹁ 靏 田 明

﹂と 表 記 し て い る

︶の 長

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(12)

男・ 乙 丑33

も う 一 人は 薫 五 郎 と旧 知 の 司法 省 法 学校 正 則 科 第 三 期 生

・ 生 原 盛 之34

あ る

︵資 料 目 録 61︶

︒鶴 田 が フ ラ ン スに 渡 っ たの は 二 年前 の 一 八 八五

︵ 明 治一 八

︶ 年三 月

︑ 生 原の 渡 航 も同 年 中 のこ と だ っ たよ う だ が︑ お そ らく 薫 五 郎 は︑ 少 な く と も 旧 知 の 間 柄 で あ る 生 原 と は 事 前 に 連 絡 を 取っ て

︑ 情報 を 収 集し て い た であ ろ う

︒ な お

︑ 右の 二 人 のほ か

︑ 当 時エ ク ス 大学 に 留 学し て い た 日本 人 に は︑ 神 藤 才一

︵ し ん どう

・ さ いい ち

18 57 19 34

︶ がい た

︵ 資料 目 録 72︒ 薫 五 郎 より 一 年 前の 一 八 八六

︵ 明 治 一九

︶ 年 に渡 仏

︒ 後述

︶︒ 2 明 治二 一 年 フ ラ ン スに 渡 っ てか ら の 薫 五郎 の 書 簡は

︑ 異 国の 文 化 に 触れ た 驚 きや 喜 び に満 ち 満 ち てい る

︒ 現地 の 料 理も 非 常 に 好み に あ った よ う で︑ 渡 仏 後 の健 康 状 態が 非 常 に良 好 で あ り︑ 日 本 での 修 学 中に は 月 四

〜五 回 病 気休 養 し てい た が

︑ 留学 後 は 一度 も な いと 書 き 送 って い る

︵資 料 目 録63

︶︒

︵ 1

︶ パ リ 大 学・ リ ヨ ン 大学 へ の 転学 計 画 滞 在 費 用に つ い ては

︑ エ ク スは フ ラ ンス 国 内 でも 物 価 の 安い 場 所 であ り

︑ 滞在 し て い る宿 舎 も 安価 で あ るこ と を 強 調し て い るが

︑ し かし

︑ 大 学 入学 料

︑ 試験 料

︑ 月謝 に 加 え︑ さら に フ ラン ス 語 教師

︑ 法 律 学の 教 師 を雇 う と 月五

〇 円 余

か か る こ と を 伝 え る︵ 資 料 目 録 67

︶︒ そ の 一 方 で

︑ 薫 五 郎 は

︑ パ リや リ ヨ ンに 移 っ て勉 学 す る場 合 に は別 途 費 用が 必 要 と な る 旨 も 記 し て お り︵ 資 料 目 録 69

︶︑ ど う や ら こ の 時 期

︑ 薫 五郎 は

︑ 名門 パ リ 大学 か リ ヨン 大 学 への 移 籍 を考 え て い た らし い

︵ 2

︶ 実 家 の家 業

・ 郷里 の 製 蝋業 へ の 言及 な お

︑内 子 の 重岡 家 か ら薫 五 郎 に宛 て た 手紙 は 発 見さ れ て い な いが

︑ 実 家か ら は 家業 の こ とに つ い て再 三 問 い合 わ せ が あ った よ う で︑ 薫 五 郎は

﹁ む やみ に 新 規事 業 に 手出 し す る こ とな く 堅 実な 商 売 を続 け る よう に

﹂ と繰 り 返 し説 い て い る

︵資 料 目 録70

・ 116 117・

・ 127

︶︒ こ の ほ か

︑薫 五 郎 は

︑ 同 郷 の 商 人 た ち と も 連 絡 を 取 り 合 っ て いた よ う であ り

︑ 当時 の 内 子の 特 産 品で あ っ た和 紙 や 木 蝋 につ い て

︑フ ラ ン ス人 の 生 活様 式 や 需要 な ど を伝 え

︑ 海 外 輸 出に 関 す る助 言 を して い た こと が

︑ 両親 宛 の 手紙 か ら も 窺 わ れ る

︵ 資 料 目 録 69

・ 80

︶︒ な お︑ 内 子 の 木 蝋 は

︑ こ の 時 期に 海 外 需要 が 増 加し て 町 の繁 栄 に 繋が る の であ る が

︑ 薫 五郎 が 伝 える 欧 州 の情 報 も また

︑ 内 子の 製 蝋 業の 飛 躍 を も たら し た 一つ の 要 因だ っ た のか も し れな い

︒ 3 明治 二 二 年 一 八 八九

︵ 明 治二 二

︶ 年は

︑ 二 月一 一 日 に大 日 本 帝国 憲

資 料

(13)

法が 公 布 され た 年 であ る

︵ 1

︶ 衆 議 院 議員 へ の 関 心 薫 五 郎 の関 心 は

︑翌 明 治 二 三年 に 行 われ る 第 一回 衆 議 院 議員 総 選 挙へ の 出 馬に 向 け ら れて い る

︒だ が

︑ 問題 は

︑ 被 選挙 権 の 年齢 が 二 五歳 以 上 に なる か

︑ 三〇 歳 以 上に な る か であ っ た

︒薫 五 郎 は︑ 二 五 歳 以上 に な ると 踏 ん で︑ す で に 明治 二 一 年一 二 月 末の 書 簡

︵ 資料 目 録 83︶ で

︑ 戸籍 記 載 の 生年 月 日 の訂 正

︵ あり て い に 言え ば 改 竄︶ を 模 索し て い る が︑ こ の 行動 は

︑ 薫五 郎 の 生 年月 日 を 確定 す る うえ で 重 要 な情 報 と なる

︒ す なわ ち

︑ 彼 の行 動 は

︑明 治 二 三︵ 一 八 九

〇︶ 年 の 総選 挙 の 段階 で 二 五 歳に 届 か ない こ と を意 味 す る から

︑ 各 種資 料 の 中で 正 し い のは

︑ 薫 五郎 自 身 がエ ク ス 大 学に 申 告 した 一 八 六五 年 一

〇 月二 日 と いう こ と にな る

︒ そ の 後

︑薫 五 郎 は︑ 帝 国 憲 法公 布 後 の明 治 二 二年 三 月 九 日付 書 簡

︵資 料 目 録88

︶ で も

︑留 学 中 に戸 籍 の 年齢 訂 正 を 終え

︑ 年 内に 大 学 を卒 業 し て 帰国 す る 心づ も り を伝 え て い る︒ し か し︑ こ れ は︑ 海 外 在 住の 身 の 情報 不 足 がも た ら し た皮 算 用 にす ぎ な かっ た

︒ 帝 国憲 法 と 同日 公 布 の衆 議 院 議 員選 挙 法 八条 は

︑ 被選 挙 権 年 齢を 三

〇 歳と 規 定 して い た か ら で あ る

︵資 料 目 録 89

・ 90

︶︒ と も あ れ

︑ 薫 五 郎 の 国 政 へ の関 心

︵ と明 治 二 五年 第 二 回 総選 挙 で 用い た 年 齢詐 称 の 発

︶ は

︑す で に この 段 階 から 芽 生 えて い た こと が 知 られ る

︵ 2

︶ 学 業 明 治 二二 年 一 月二 四 日 の書 簡

︵ 資料 目 録 84︶ に よ れば

︑ エ ク ス 在住 の 日 本人 留 学 生の う ち

︑神 藤 才 一は

︑ 陸 軍学 校 入 学 を 希望 す る も許 可 が 下り ず

︵ その た め 彼は リ ヨ ン大 学 法 学 部 に 転 じ て 明 治 二 八 年 に 法 学 博 士 を 取 得 し た35

︑ 鶴 田 皓 の 長 男・ 乙 丑 は︑ 大 学 入学 に 三 年半 を 費 やし た も のの

︑ 学 業 が 進 ま ず 帰 国 を 思 案 中︵ 結 局 明 治 二 五 年 帰 国36

︑ 薫 五 郎 と 旧 知の 生 原 盛之 も

︑ 卒業 の 目 途が 立 た ない ま ま 三年 分 の 留 学 費が 底 を つき

︑ 官 費留 学 生 採用 を 嘆 願す る デ ュリ ー の 外 務 大臣

︵ 大 隈重 信

︶ 宛書 簡

︵ 一八 八 八

︵明 治 二 一︶ 年 一

〇 月 五日 付37

も効 な く

︑明 治 二 一年 末 に 帰国

︑ 薫 五郎 と 同 船 で 渡仏 し た 大木 喬 任 の長 男

・ 逸太 郎 も

︑語 学 が 上達 せ ず 勉 強 が進 ま な い中

︑ 病 を得 て

︑ 明治 二 一 年一

〇 月 に帰 国 の 途 に つい た

︵ その 後

︑ 大木 は

︑ 翌明 治 二 二年 六 月 四日 結 核 の た め死 去 し た38

︒ 以 上 に対 し て

︑ひ と り 薫五 郎 は 学業 順 調 で︑ 学 生 設立 の 研 究 会 で二 回 に わた っ て 日本 の 婚 姻や 習 俗

︑文 化 等 の事 情 に つ い ての 演 説 を行 い

︑ 非常 に 好 評だ っ た こと

︑ こ の演 説 内 容 が パリ の 雑 誌に 掲 載 され た こ とを 書 き 送っ て い る︵ 資 料 目 録 89・ 91・ 94

︶︒ さ ら に

︑七 月 に はバ シ ュ リエ

・ア ン・

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

(14)

ドロ ワ

︵ 法学 士

︶ の学 位 を 取 得︵ 資 料 目録 99

︒ なお

︑ 学 位 証 書 の 交 付 日 は 九 月 二 二 日

︒資 料 目 録 102︶︑

大 学 で 年 一 回 行わ れ る 学術 コ ン クー ル に 提 出し た 論 文が 二 等 にな り

︑ 現 地 の 新 聞 に 掲 載 さ れ る な ど

︵資 料 目 録 99︶

︑フ ラ ン ス 人 学 生を も 凌 駕す る 実 力を 発 揮 し てい る

︵ 3

︶ ボ ア ソ ナー ド 明 治 二 二 年 は ま た

︑ 一 月 に 元 老 院 に 下 付 さ れ た ボ ア ソ ナー ド 起 草の 旧 民 法に 対 し て

︵翌 明 治 二三 年 四 月二 一 日 公 布︶

︑ 英法 派 の 本丸 で あ る学 士 会

︵旧 東 京 大学

・帝 国 大 学 出 身者 の 団 体︶ が 五 月の 春 季 総 会で

﹁ 法 典編 纂 ニ 関ス ル 法 学 士 会 ノ 意 見

﹂を 決 議 し

︑ 法 典 論 争 の 口 火 を 切 っ た 年 で も あっ た が

︑一 方

︑ ボア ソ ナ ー ドは

︑ 民 法草 案 の 条文

・ 注 釈 の起 草 を 終え て

︑ 四月 フ ラ ン ス一 時 帰 国の 途 に つい て い た︒ ボ ア ソ ナー ド が マル セ イ ユ に到 着 し たの は 六 月九 日 で

︑ 薫 五 郎 は

︑恩 師 の 出 迎 え に 参 じ て い る

︵ 資 料 目 録 95︶

︒ ボ アソ ナ ー ドの 一 時 帰国 の 目 的 の一 つ は

︑長 ら く アグ レ ジ ェ

︵ 教 授 資 格 者

︶ の 職 位 を 維 持 し た ま ま に な って い た パ リ 大 学法 学 部 との 関 係 の清 算 に あ り︑ 辞 表 を提 出 し た彼 に 対 し て︑ パ リ 大学 側 は 八月 一 四 日 付で 名 誉 教授 の 称 号を 授 与 し た の で あ る が39

薫 五 郎 の 書 簡 に よ れ ば

︑こ の と き ボ ア ソ ナー ド は

︑ド イ ツ

・フ ラ ン ス への 留 学 生や

︑ 視 察目 的 の 日

本 人 商 人ら 総 勢 一五 名 を 同伴 し て いた と い う︒ な お

︑薫 五 郎 は︑ 一

〇 月に も

︑ 再び 日 本 に戻 る 恩 師と 面 会 の 予 定を 組 ん でい る

︵ 資料 目 録 105︶︒

︵ 4

︶ パ リ 万博 一 八 八九

︵ 明 治二 二

︶ 年は ま た

︑フ ラ ン ス革 命 一

〇〇 周 年 を 記 念し て

︑ パリ で 第 四回 万 国 博覧 会 が 開催 さ れ た年 で も あ る

︒こ の 時 建設 さ れ たエ ッ フ ェル 塔 に

︑梅 謙 次 郎︵ こ の 年 法 学博 士 号 を取 得

︶ が階 段 を 徒歩 で 登 った の は 有名 な 話 で あ るが

︑ 薫 五郎 も 九 月に 万 博 見物 で 一

〇日 ほ ど パリ に 滞 在 し てい る

︵ 資料 目 録 102︶︒ 4 明治 二 三 年 翌 一 八九

︵ 明治 二 三

︶一 月 二 二日

︑ 薫 五郎 は

︑ リサ ン シ エ

・ アン

・ ド ロワ

︵ 法 学修 士

︶ の学 位 を 取得 し た

︵資 料 目 録 114

︶︒

︵ 1

︶ 博 士 試験 受 験 のた め の 留学 期 間 延長 薫 五 郎は

︑ 前 年の 七 月 に学 部 を 修了 し た ばか り で ある か ら

︑ 修 士課 程 を 冬学 期 一 学期 だ け で修 了 し たこ と に なる

︒ こ れ は 異例 の 早 さで あ り

︑し か も 優秀 な 成 績で 及 第 して い る こ と から

︑ 大 学の 教 師 や日 本 公 使・ 領 事 等の 要 人 は︑ 薫 五 郎 に 博士 試 験 の受 験 を 強く 勧 め

︑薫 五 郎 自身 も

︑ 郷里 の 両 親 宛 に

︑ 法 学 博 士 と な る の は 国 の 名 誉 で も あ る

︒ 将 来

資 料

(15)

は一 身 一 家一 国 の 幸福 を 計 ら んと 希 望 して お り

︑留 学 期 間 の延 長 を 認め て 欲 しい

﹂ と の 手紙 を 何 通も 書 き 送っ て い る

︵ 資 料 目録 123

・ 124・ 125

・ 131︶︒ な お

︑ 留学 期 間 延長 に 伴 う 費用 に つ いて は

︑ 司法 省 の ほ か︑ ボ ア ソ ナ ード も 援 助 の 申 出 を 行 って お り

︵ 資 料 目 録 133︶︑

周 囲 が 薫 五 郎 に 寄 せ る 期 待 が

︑非 常 に 大 き な も の で あっ た こ とが 知 ら れる

︒ ま た

︑ この 年 の 六月

︑ 薫 五 郎は

︑ モ ンペ リ エ 大学 の 六

〇年 祭 に エク ス 大 学の 総 代 と して 参 加 して 大 観 衆を 前 に 演 説を 行 い

︑翌 日 に はフ ラ ン ス 大統 領

・ カル ノ ー に謁 見

︑ 握 手の 栄 誉 に浴 し た ばか り か

︑ 夕食 に 招 かれ る と いう 厚 遇 を 受け て い る︵ 資 料 目録 126

︶︒

︵ 2

︶ 衆 議 院 議員 へ の 関 心 そ の 一 方で

︑ 薫 五郎 は

︑ こ の年 の 七 月に 行 わ れる 日 本 の 第一 回 衆 議院 議 員 選挙 に も 強 い関 心 を 寄せ て お り︑ 地 元

・ 喜多 郡 選 出議 員 の 様子 を 尋 ね ると と も に︑ 選 挙 期間 中 の 新 聞 を 送っ て く れ る よ う 依 頼 し て い る

︵資 料 目 録 124

︶︒ こ の ほか

︑ フ ラン ス や 日本 の 政 治 や社 会 情 勢に 関 し ては

︑ 留 学 当初 と 変 わら ず 非 常に 詳 細 な 記述 を 行 って お り

︑博 士 号 を 取得 し て 日本 に 帰 国し た 後

︑ 衆議 院 議 員と し て 国政 に 打 っ て出 る 心 づも り は

︑こ の 頃 に は完 全 に 固ま っ て いた も の と

思 わ れ る︒ 5 明治 二 四 年 フ ラ ンス 渡 航 から 五 年 目を 迎 え た一 八 九 一︵ 明 治 二四

︶ 年 は

︑ 薫五 郎 帰 国の 年 で ある

︵ 1

︶ 博 士 試験 の 受 験 薫 五 郎は

︑ 前 年五 月 に 博士 の 第 一回 試 験 を受 験 し てい た

︵ 資料 目 録 123

︶︒ 当初 の 予 定で は

︑ 第一 回 試 験を 早 々 に受 験 し

︑ 最 難関 で あ る第 二 回 試験 を 一 一月 に 受 ける 予 定 だっ た が

︑ 第 二回 試 験 の受 験 は 年明 け の 一月 二 一 日ま で ず れ込 ん だ

︵ 手 紙に は 優 等の 成 績 で合 格 し た旨 が 記 され て い る︒ 資 料 目 録 146

︶︒ そ の 後

︑ 五 月 二 二 日 の 第 三 回 試 験 も 最 優 等 の 成 績 で 合格 し

︵ 資料 目 録 153︶︑﹃

重 岡薫 五 郎 小伝

﹄ の 伝え る と こ ろ に よ れ ば

︑ 八 月 二 日︑ 民 法 と ロ ー マ 法 と

︑ 各 一 編 の 論 文 を提 出 し

︑大 学 か らド ク ト ール

・ ア ン・ ド ロ ア︵ 法 学 博 士

︶の 称 号 を与 え ら れた40

と され る

︒ だ が

︑こ の 記 述に は

︑ いさ さ か 疑問 を 覚 える

︒ ま ず︑ 論 文 の 数 であ る が

︑当 時 の 法律 学 の 博士 論 文 は︑ ロ ー マ法

・ 古 法 と

︑フ ラ ン ス現 行 法 の二 編 構 成で あ っ たか ら

︑ 提出 さ れ た 学 位論 文 は 一本 と 勘 定す べ き であ る

︒ しか し

︑ この 点 は 本 質 的な 問 題 では な い

︒問 題 は

︑論 文 を 提出 し た だけ で は 博 士 号 は 授 与 さ れ ず

︑ 口 頭 試 問︵

so u te n a n ce

︶ に 合 格

内子町・重岡薫五郎関係資料(小野・七戸)

参照

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