九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
杉田玄白とその周圍の人たち
野上, 豊一郎
https://doi.org/10.15017/2557024
出版情報:文學研究. 19, pp.1-19, 1937-05-27. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
こつかつ雄ら今から数へて百六十六年前の明和八年二七七一年︶の三吋四日の日に︑榊時江戸の郊外であった千仲什ヶ腺で︑一
人の死刑川の解剖が行はれた︒その頃は解剖といふ術諦の代りに解髄といふ術語がⅢひられてゐた︒しかし一般には
杉川玄白とその周閲の人たち︵二○六こ 文學研売
杉刑玄白とその周悶にあった騏若たちについて池ぺるのは︑つ主り︑洋躍興隆の雁史彩述ぺることになるが︑
私の此の論述は一つの月的浄一持って鵬る︒それは︑日本溌今側の開明に導いた洋學を︑われわれは今後いかにす
べきか︑といふことについての一つの示唆にしたいのである︒.
杉田玄白とその周園の人たち
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第十九輯︵昭和十二年四月發行︶
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丈畢研究姉十九職二︵二O六一己
ふわけ脈分といふ言葉が使は虹てゐた︒裁ち刑いた屍冊から五臓六川を取川して随分して見せるといふ意味であったと忠は
れる︒メス話執るのは僻者ではなく︑死刑囚の屍冊を取扱ふ特殊部藩乢で︑鰐者は傍に立って見物してゐるに過ぎな
かったやらである︒杉冊玄白の手記に擁ろと︑﹁その円より前までの脈分といへろは︑滅多に任せ︑彼が某所をさし
.それて肺なりと教へ︑これは将なりと切り分け示せり︒夫を行き脱し人曳誘過して肺り︑我上は直に内景を見究めしなど
かきしろいひしまでの事にてありしなり︒閲より雌脈に其名の詳記してあるものならねば︑屠者の指し示すを脱て蕗茄せしこ
とにて︑共幽までのならひなるよしなり︒﹂︵﹁間畢邪始﹄上之巻とあり.主た︑﹁老屠叉日︑只今までの脈分の度女
共鰐師がたに品良をさし示したれども︐誰一人某は何︑此は何女なりと疑はれ候御方もなかりしといへり︒﹂︵﹃剛學
事始﹂上と巻︶とあるから︑窓者は自らメスを執らないだけでなく︑内臓の指示までも二特碓部蒋民に受けるほど
で︑全然解剖學的知識を持つてゐなかったことが知られる︒
その一例として︑岡田養仙とか藤本立泉とかいふ先那の育醤たちはそれまで七八回も解制の涯地に立合ってゐな
がら︑彼等が漢方の解剖害に依って皐智した知識と疵物の棚察の結果と一致しないので解決に苦しみ︑絲局︑人極の
差異によって内臓の椛迭は和逮するものだらうと結論してゐたといふことを杉川玄白は學げて居る︒︵﹃哨畢率始﹂
上之巷︶O
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漢方の解剖説に疑か懐いた蚊初の人は山脇東洋であった︒彼は京都に居住する漢方の大家で︑官醤の一員であった
が︑醤經の記載に對するその疑惑は︑蛮瞬四年︵一七五四毎の解剖槻察に依って確かめられ︑同九年色七五九年︶
﹃臓志﹄寿發表して︑先人の皐説の空言なることを立證し︑五臓六脈説を否定した︒
■ロロワDII︐肌︒︾か〆胤岸
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】一脳志﹄の所説に動かされた一人は杉田玄白であった︒彼は同じ若狹小溌藩の署員で小杉玄邇なる者が豊剛東洋の
門にゐて︑前記の解剖に立合ったこと溌聞いて居り︑また深く﹃臓志﹄に刺戟されて居ったので︑何とかして自分も
解刑の現場を見學したいと熱望してゐた︒そこへ丁度江戸町奉行曲淵甲斐守の家士得能寓兵衛の厚意によって︑千住
骨ケ原の死刑囚解剖に立合へる便宜が即︿へられた︒彼は惟朧して同志を誘ひ合はせた︒その中に前野良澤と中川津庵
があった︒
よ み す ら ん く わ
前野良灘︑名は嘉︑後蘭化と號した︒盟前中津藩の鍔員で︑聿円木文賊︵昆陽︶に就いて蘭學を修め︑一円木文藏の斡
つ・フ仁し旗で長崎に留學し︑吉雄・楢林等の通詞に就いて更に剛學を修業し︑また澗學勉勵して︑ほぼ蘭文の榊成を含得する
までに達してゐた︒常時四十九歳で圭円木文藏死段︵明和六年︺の後は江戸在住者中随一の西洋學の新知識であった︒
中川淳庵は名を鱗といひ︑玄白と同藩の同恢で︑玄白より六歳の年少者︵微時玄白三十九歳︑淳唯三十三歳︶であり︑
物産學の研究者であった︒
良澤︒玄白︒搾庵等の解剖見學は︑十八笠肌の﹁眺志﹂の著者の解制見學の時より有利な條件の下にあった︒とい
ふのは︑當時日本に於いてはそれ以上に椛威のあ↓勾額批皿は求められなかったオランダの解釧川譜欝料噴煙︑﹄へ韓辱ミミ
を︑しかも二冊も携帯して居ったからである︒一冊は玄白が︑他の一冊は良灘が持ってゐた︒玄白はその書を偶然に
カピクン
もその春︑淳庵の紹介で︑江戸参蜆の甲必丹ヤン・カランス︺P巨屍冒扇の手から︑藩侯の厚意によって手に入れγ
秘赦珍正してゐたのを︑當日置物と對照して見ようと思って持って行くと︑圭峰外にも同じ書を良澤も懐中して居っ
て︑これは先年長崎表で手に入れて秘碓して居るのだといって出したのぞ見て︑剛人は見較べてみると︑全く同一の
杉田玄白とその周函の人たち一二︵二○六三︶
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その日︑蘭學者たちの刈帆的見壌の黄料となったのは︑迩名を苛茶婆と呼ばれた京都生れの女の屍罷であった︒執
刀群は虎松と呼ばれるその逆の器川春の艀であったが︑虎松が病菰のため︑九十歳になる老仙父が解荊した︒
解剖された屍鴨の内臓を一つ一つ豊号や●ごミミミへ﹃の岡版と對照して調べて見ると︐位牌一も形状も岡版の通りで
あって︑まづその砿硴さに峨倒された︒同時に︑わが閏の畔皐が長い川瀧方の傅統を錐意味に信奉して︑肺の六葉胴
耳とか︑肝の左三葉右川葉とかいったやらな晦説を雌批判的に受入れてゐたことの患かさが顧みられた︒とはいふも
のの︑その二一時間前まで︑彼等はまだ園胃︑砦ミペ︑ミ胃を信川してはゐなかったのであった︒良深が解剖の始ま
ロワーグハルトマーグミルト
る前にその書を開いて︑これが肺臓である︑これが心脇である︑これが刊職である︑これが脾臓であると剛課しながら指し示しても︑彼等の見倣れた瀧方の川説とはあ室hにも逃しい相迷なので︑玄白も淳庵も︑艮深自身も︑俄かに
それ浄信じることはできなかったのである︒ところが観臓の結果︑オランダ書の砿確がわかったので︑以前に疑って
ゐただけ︑それだけ却って価倒の度合も強くなった︒
その上︑更に彼等は刑場に散らかつてゐる仔節の類を拾って︑それ等をも仔細にその害と對照して見ると︑ますま
丈學軒究第十九綱四︵二○六四︶
書を期せずして携帯したことぞ知って︐瓦ひに手を打って喜んだのであった︒
さらして︑その書は︑共虚で彼等に僻翠の研究は西洋の科駆的方法に依る外に絶對に方法のないことを確信せし
め︑延いてはそれが洋學興隆の模擬L﹂なったことに於いて︑亜たな役削をしたのであった︒
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す園腎届きミミミ愚の尊敬すべき眞価を痛感せすにはゐら奴なかった︒
尊敬は忽ち異常な熱怖にま重尚まった︒彼等はもはやその証?罐読まないではゐられなかった︒一つには︑彼等自ら
の知識慾のため︑受た一つには︑それを剛詳すれば學界のため貢職するところが少くないだらうと思はれた︒しか
カビ紀ジンし︑彼等にはオランダ語が十分に読めなかった︒玄白と淳庵は︑しばしば毒齪の甲必丹を訪問して新知識の吸收に努
めてはゐたけれども︑それは随員の通詞を介してのことであって︑彼等自らオランゲ語〃話すのではなかった︒もち
ろん徳等とても多少の卵平語は知ってゐたであらうけれども︑文章の榊成については殆んど理解を持つてゐなかったや
弓である︒良澤は彼等に一日の長を誇ってゐたし︑先年玄白に乞はれてオランダ語の訓法を教へたといはれて居るけ
れども︑それとても果してどの程度の知識であっただらうか︒あとで驚き廷Lミミミ急の難諏を始めた時の記録を
見てもわかるやうに︑どうも五十歩百歩の差逹に過ぎなかったやうである︒すぺて甲必丹と話す時は通詞の麺諜を通
さねばならず︑直接に外人と話すといふととはできなかった︒その通詞でさへも︑オランダ人と話すことは職業的に
許されてあっても︑オランダ書を讃むことは許されてなかつ一作︒元測犀︵一六一六年︶の切支丹蕊制が同時に西洋文
書の舳赦をも染じてあったからである︒今から老へると︑殆んど偏じられないことのやうであるが︑彼等はオランダ
語を乖叫き即︑めるにも片假名を以ってしなければならなかった︒外因文字の使川も禁じられてあったからである︒一例
ならんだほなし浄畢げると︑明迦一年︿一七六五年︶に後藤梨非が﹁紅毛談﹄を上梓すると︑その中に三一あ横文字が挿入してあった
といふ理山で幕府は絶版を命じたといふやうな事件があった︒
幕府の解樺によれば︑外國文字に親炎することは恩惣的・宗鍛的に危瞼だと思はれたものであらう︒その結果とし
杉田玄円とその周園の人たち五︹二○六五︶
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丈圏研究第十九栂六︵二○六六︶ ︑︑
︑て︑外國語は耳と︑で用を辨すべきもりで︑目で辨じてはならないといふととになってゐた︒lその戦︑耳と口よりも目を先にしがちな今日のわが剛の外聞語學修の方法よりも本格的の如くであったが︑しかし︑文字使川の禁止は
通詞等にとっては雀しく不便なものであった︒遂に彼等は延享二年二七四五年︺青木女藏を介して幕府に陳怖し︑
その紡果︑迦制三家l西善三郎・吉雄幸右術川・本木仁太夫の三家lに限りオランダ文字の使川とオランダ文書
の閲読が許された︒そのほかにも︑青木文赦・野呂元丈の剛人は將軍の内旨に依りオ|フンダ票の研究を命じられてゐ
たので別格であった︒此の雨人は通詞等の助力を得て︑オランダの事物に開する多くの述作をした︒青木文藏は晩年
書物奉行を命じられた︒
上述の如く︑オランダ語の使川は川限され︑オランダ文字の使川は雌蕊されてあったとはいっても︑時數か風潮は
いかんともすることができず︑熱附ある若い學徒たちはひそかに阿禁を犯して西洋科學の研究のためにオランダ語の
障壁を越えようと勇敢に突き進んだ︒その尖端を行ったのが︑前野良澤・杉田玄白︒中川淳庵の徒であった︒
此の三人は骨ヶ原の解剤を見ての蹄途︑罵胃︑きミごミ胃輪読のことを︐玄白から提案し︑善は急げといふ諺によ
って︐早速その翌日から前野良搾の家で始めることになった︒良澤の家は繊砲洲の中津燕侯の下屋敷の中にあった︒
今の京橘随新築町七丁目三十七恭地から四十一恭地へかけての価城内であった︒
良澤が輪誹の指導者に推された︒玄白の手記に擦ると︑﹁良澤はかねてより此事を心にかけ︑長崎までも行き︑蘭
語裁ぴに章句語脈の間の事も少しは聞き兇え︑聞き否ひし人といひ︑齢も翁︵玄白︶などよりは十年の長たりし先輩
友れば︑これ諾盟主と定め︑先生とも仰ぐ事となしぬ・﹂︵﹁閥駆事始﹄上之巻︶とある︒ 二
われわれはロゼヅタ石から象形文字を判読したり︑諸種の板牒からヒッタイト語やバピロ一ア語を判諭したりした言 語學考のこと海老へると︑殆んど超人的ともいふぺきその直感の鈍さと想像の叫黒︑︑に雌倒されるが︑それにも似た異 常な哩感と想像をわれわれの二一人の蘭學考は持ってゐたのではないかと思は奴る︒
三人の剛學群は二冊の豊罫一等ミごミ胃か前にして坐ったが︑初めはまるで談めなかった︒玄白と搾庵はアルファ
ペヅトさへ正式に習ってゐなかった︒鰐學・物雌學に必要な若干の鮠語をいきなりに鵜呑に昂えたに過ぎなかった︒
良澤は長崎に剖學して多少の素養は菰んでゐたけれども︑皿︿へられた任意のオランダ文彰自山に談みこなすなどは忠
らかぢひも寄らぬことであった︒三人は途方に馨れて顔を見合せた︒﹁まことに繩舵なき船の大海に乗り出だせしが如く︑
荘洋として寄るべきなく︑ただあきれにあきれゐたるまでなり﹂と玄白は告白してゐる︒
しかし︑決心した以上は推し進まねばならなかった︒礎された川題は︑いかにして進むぺきかの方法のみであっ
たoそれにはまづ岡版についてオランダ語の名榊とn本語の名孵の合致を求めることから試みねばならなかったが︑
それも内臓・冊節などは涯物に開する知識が不十分であったので︑妓も見易い外形的のものから始めようといふこ︐亡
に意見が一致して︑巻頭にある﹁形僻名目流︲一の向背二州からかかった︒
ところが︐〃祁孵の對照と同時にその解説の文章を誠まうとすると︑すぐさま第一の例難に術突した︒まだ細繊的に
オラング文法を學んだことのない彼等であったから︑文壷椛成法はもとより︑品詞の概念さへも箙碓には持つてゐな
杉田玄白とその周幽の人たち七︵二○六七︶
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ぼど交珠の智慧辛絞っても捉めなかった︒さういった字には疑問符淀附けて世いて後日の︑籍を期することにした︒
その疑問符は丸の中に十文字今姪書くことにしたので︑櫛十文字と名づけ︑解樺のつかな里言葉が出て來ると︑これも
轡十文字︑これも轡十文字︑と取りのけて低き︑毎年赤に左れぱ長崎から塞齪の叩必丹に附いて通詞たちが来るか
ら︑それに就いて語意を確かめようとか︑或ひは屍慨解剖の機愈を待って湾物と對照して見ようとか︑或ひは家畜の
屍鰡を解剖して参考にして見ようとか︑さういった方法溌誹じろより外に解決の道はなかった︒
まことに惨慨たる苦心の池絨であった︒輪誹は賊月六七同も行はれ︑一年ほどたつと︑すでに百四近くも同が重な
って︑おぼろげながらオランダ文の榊成の原則が感知されるやうになり︑詔難の貯蓄も幾らか喫宙になったので︑平
易な文章なら一日に十行ぐらゐは談めるや弓になった︒さうなると興味鴫椛加して行き︑輪講の前夜は子供が祭の日
を待つやらな職菩で落ちついて眠られず︑夜の明けるのが待ち遠しくてならなかったといふことである︒
さらいづた熱術は誰よりも玄白が鈍一で︑彼は毎個の輪誰を家に剛ねと必ずその夜のうちに︵漢文に︶郷課して世
くことを怠らなかったo柑塒玄白はまだ棚身一で︑家那の噸もなく︐脚ら多病虚弱と稲してゐたが︑心身を畢げてすべ
ての粘力を豊島﹃㈱寺へミミ胃の研究に打ち込めてゐた︒その柵諜についてもⅣ﹁或険耐課し︑或は對詳し︑或は直
課︐義諜と︑さまざまに工夫し︑彼に換へ︑此に改め.笠夜自ら打掛かり﹂︵﹃剛思索始﹄下之巷︶といったやうに︑
稲を改めること前後十一回で︑四年の歳月を我して漸く完成︑﹃解慨新諜﹄と題して川版されたのが︑安永三年︵一
七七四年︶八月であった︒︵その前年彼は川十一歳で初めて結僻した︒︶
玄白の﹃解冊新書﹄川版の意向はどこまでも牌蒙的で︑西洋の科學︑紺心から川發した此の韮礎學の綱要淀わが畢界
杉田玄白とその周囲の人たち九へ二○六九︶
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一
丈畢研究鋪十九帆一○︵二○七○︶
に紹介して︑在來の杜撰な畔術の方法に根本的な改革ぞ庇現させようといふのが目的であった︒その目的のために彼
は功を念いだ価があって︑彼脚身も認めて居るが如く︑・公平にいへぱ疎派誤諜の排は苑かれないものであったが︑そ
の鮎は詔はゆる自レ我作v古の仕事をした蒜として寛大に赤過すべきであると忠ふ・玄白自身も老後の遮想として﹁其頃
は彼剛裕の粘特微妙の所は明了すべき邪にはあらず︑今の如く恩ひよらす開けしより見る人はさぞ謡解のみといふく
し︒首めて唱ふる時にあ・たりては︑なかなか後の誰0を恐るる様なる除碓たる了簡にて企事は出来ぬものなりcくれ
ぐれも彼犬慨に本づきて合黙の行きし所を課せし主でなり︒﹂︵﹃蘭畢豹始﹄下之巷︶ルー涛明して居る︒その癖明は文
化十二年二八一五年︶玄白八十三歳の時のことで︑それより十七年前︵笂政八年︶に﹁解僻新書﹂は玄白の高弟大槻
玄澤︵碆水︶の手に依って改謹され︑﹃亜訂解僻新書﹄と題して川版された︒玄白の初版を距る二十五年の後であっ
た︒その雨澤書を原書のドイツ語樺と對比した人の説に擦れば︑一方の粗錐と他方の糀磯と悲しき祁逮であるといふ
ととであった︒
しかし︑私には今玄白先生の仕事の粗雑を蛍める氣持などは微塵もない︒却って私は彼が﹁轆舵なき船﹂で﹁大海
に乗り出し﹂た大勇猛心孝髄讃したいのである︒彼は仕事を始めるに前って︑﹁爲すべき事は間より人に在り︑成る
べきは天にあり﹂の諺を引いて︑悲壯な決心を示したが︑仕事孝経って後︑﹁今を以て老ふれば︑これまで二百年
來︑彼外科法は徳はりしなれども︑直に彼鍔書辛課するといふ事は絶えてなかりしが︑此時の創業︑不可思議にも凡
そ祷道の大經大本たる身柵内景の書︑其新澤の起始となりしは不川意を以て得る所にして︑筏に天意とやいふぺ
し︒﹂と感謝して居る︒また同志に良澤の如き好學山士を得た︸︶とをも天意に蹄して︑﹁批に良澤といふ人なくぱ此
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道附くぺからか﹂といひ︑﹁且つ翁︵玄向自身︶が如き素意大略の人なくぱ此道かく速かに開くぺからす︑是も亦天助 もU︑︑︑E
なるべし﹂といって居る︒そこには道を拓く人には許さるべき疎大に對する自負さへも灰見して居る︒その疎大上性
紙がなかったならば︑彼の仕事は成功しなかったかも知れなかった︒彼の性急は︑決心すると同時にその向見ずの仕
事を彼に始めさせたが︑また始めると同時に完成を急がせた︒その理由として︑彼は多病である事と齢すでに不惑に
逹したことぞ祭げて居る︒﹁人の生死は預め定めがたし︒始めて發するものは人を制し︑後れて發するものは人に佃
せらるといへり︒此故に翁は急ぎ巾すなり︒諸君大成の日は翁は地下の人となりて︑章葉の蔭に居て見侍るぺしと答
へければ︑桂川︵甫周︶詞などは大いに笑ひ︑後食は翁を海名して並葉の蔭と呼び給へり︒﹂︵﹁關學耶始﹄下之巻︶そ んな逸話も彼の性急を語る一つである︒
﹃解冊新聿日﹄の榊鐸は︑・初めは艮澤・玄白・心が唯の三人に依って縦けられてゐたが︑次第に同志が馳せ参じて︑一 つの剛騏通勤の如き機僻と溶奉邪ができ﹃oや弓になった︒附學といふ一三両葉もその頃から誰いふとなくⅢひられろやぅに
なった︒オランダ以外の西洋との岡交は許されず︑オランダ語が唯一の里ぴ得る西洋語であったから︑附皐といふ言
葉は同時に西洋科學の同義語でもあった︒從って卿學者といへぱ西洋科鰹訴究の學徒として解されてゐた︒
﹃解柵新圭園﹄赫課の同人としてのⅢ瑛粁の中には︑山祇糯泰︵商峪非泄跨︶・鳥山松閏︑庄刑群醤︶・桐山派祈︵弘前識伽鴇︶.
石川玄常などがあった︒その外に桂川市川があった︒市川は雑府の外科鰐柞川甫筑の息子で︑常時︵空水元年︶一千
杉田玄白とその周幽の人たち一一︵二○七一︶
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二歳の弱冠でありながら父の後を繼いで宵鍔となり︑才乗に常み︑附學の評得にも鋭さを見せてゐた︒市川の参加は
﹃解艘新書﹄の川版にとって荘だ右利であった︒といふのは︑柑畔西洋に對する好奇心はすでに価間一般に行き亙って
はゐたけれど・も︑少くとも表面は閏禁の胱態であったし︑先好﹃紅毛談﹄でさへ流布を禁止されたといふ先例があるの
で︑呪んや﹃解側新詳宕如き直接の剛課蒋のことだから.或ひは幕府の忌諦に燗れはしないかといふ疑惟があった︒
それで玄内は市川の斡旋でまづ將耶家流に内献し︑・王た老中川淵意次にも賄った︒川沼はオランダ趣味浄伽好してゐ
たので却ってそれを椎孵した︒その識はまた京都の川脇東川へ東洋の子︶の手溌維て近衛公・九條公等にも附られた︒
さういった川意周到の工作で︑意外にも無事に流布を見ることが出來た︒一つには玄白の勇敢な決心にも因るが︑要
するに時勢がそれを要求するほどに鍵化してゐたのである︒
﹃解鰐新害﹂の課者としては︑杉岡玄白の外に︑常然前野良澤の布をも迎いべきであったが︑どうしてか良澤はそれ
ぞ好まなかったので︑玄白一人の箔で發表された︒しかし︐良澤の功紘の大きかったことは顯著な事薩で︑のみなら
ず︑良澤は棚澤完成の前年︵安丞一年・一七七三年︶郷ぴ長崎に遊んで︑西菩三郎の遺薪一.マーリン僻害﹂の未定稲本を
持ち師つたので︑それが郷課の完成にどのくらゐ助けとなったであらうかは容易に想像される︒
今一人﹁解罷新書﹄繊諜の従刷新・激勵者として記憶すべき人があった︒陸中一ノ關の藩瞥建部清庵であった︒彼は
玄白が蘭學に糖逃すろを体剛し︑しばしば書溌裁して疑義を質し︑また昔店土で佛典の統諜が敢行された故事ぞ引い
て蘭方和解の急務を説いたりして鞭維を僻まなかったか︑遂に﹃解僻新書﹄刊行の四年後︵安永七年︒一七七八年︶その
子亮策︵十六歳︶を同藩の同係大槻玄梁の子玄洋︵二十二厳︶と共に江戸に遊學させ︑雨人とも玄白の門に入ったが︑
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亮策は更に四年の後玄白の養子となり︑名ぞ白元と改め︑玄澤は前野良群にも就いて蘭語を學脅し︐玄白の門下の俊 鼈として夙く頭角をあらはし︑天明三年︵一七八三年︶には年二十七歳で﹃蘭學柑梯﹄二巻を箸はし︑剛學興隆の機迩
を頓に促進せしめた︒玄白も﹁此書川でし後︑仙の志あるもの︑これを見て新たに恢俳し︑志発興せしも亦少から
ず︒此人を通じ︑此等の書の川づる事となりしも︑翁が本志を天の助け給ふの一つにやと恩ひし事なり﹂と云って居
る︒率蟹︑玄白等の開拓した地磐を岐も飛間なものにした蛎一の功鍔考は大槻玄澤であったことを何ぴとといへども
否むことはできない︒洋學の研究は玄澤以後に於いて初めて本格的の進みを取るやうになったのであるから︹︾
﹁蘭學措梯﹄と﹃解僻新書房間には催かに十年の歳月があったに過ぎないが︑その十年間に蘭學の研究がいかに長足
の進歩をしたかといふととは︑﹃藺騏槽梯﹄そのものが妓も雄糯に語って居るc﹁剛學樒梯﹄の著考はいふ︑﹁サテ吾輩
今一一在テコソ難カラザル||似タレドモ︑十年以前老師︵玄白︶等ノ事ヲ刺スル時︿︑異邦一一漂泊︑ごァ東西ヲ辨ゼズ︑暗
夜ヲ柵行スルガ如クナリシ事ナレゞハ・法ダ入り雌カリシトゾ︒支那ノ輿術我邦一一博ハリシ其古ヘモ定メテ斯クゾアリ
ッラン︒一切ノ道︑草創ノ人ノ比眼羊捺苦思ヒャルペキコトナリ︒胤叫稚作畦古診ノ業︿右ノ如ク雌キ事ナル故︑今マ
デニ百年來事ヲ超サザルモ北ナリ・然ルー我老帥等年来怠拠スルコトナカリシヵバ鋤メタリトィフゞへシ・吾輩今努ヲ以
テ逸一一カヘー剛諜ヲ収テ大凡了解セザルコト無キャウ|スナレリ︒サテ雀ヲ披イテ共端ヲ誠ムニ︑始メ耀然トシテ難
キガ如クナレドモ︑何レノ書︑一章一條︑短文ノ間一一於ケルモ︑心ヲ満メ|アコレヲ解シ得ルトキハ︑世一一物二就キ事
二臨テ狂嶮スルガ如ク明白ナル事ドモナリ︒即チ︑批法ヲ収テ此一一試ムル一︑言ノ如クナラザルモノナ︑ン・﹂へ﹁燗學
階梯﹄巷上︶o・
杉田玄白とその周脳の人たち一三︵二○七三︶ Paf
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しかし︑さういった風潮を誘致した妓初のものは︐幕府そのものであった︒否︑將軍そのものであった︒
八代將軍吉宗︵潜役一七三︿年四五年︶は少乍︲の頃から天文・暦法に興味を持って居り︑享保元年︵一七二︽年︶三
十三歳で將軍職に就くと間もなく︑天下の暦法學者・天文學者を召して研究を進めようとした︒しかし︑吉宗自身が れたのである︒ 更に愉快なのは﹃蘭學階梯﹄には多くのオランダ文字が振假名附で挿入されてあることである︒﹃紅以來いま迄千年にも足らずして︑外閏文字を挿入して外國語研究の急務を呼號した本が︑大手を振つやうになったのである︒祉代の推移とはいひながら︑幕府の禁令は取消されないままで︑事賛に於いて シ頃︿右ノ仕方一一テアリシトナリ︒今二於イテハ共稜架ノ功ニョリテ何ニョラズ一通リハ川来テアルウヘナレ・︿︑至テ修シ易キコトナリ﹂︵﹃閲學階梯﹄巷下︺と述べた︒それは取りも直さず︑時勢の推移と學界の進歩を語ったものである︒良澤・玄白等の研究時代は一巻の僻書さへ手に入らなかったが︑玄灘の時はすでに﹃マーリン僻書﹄もヌルマ僻書﹄も川ひられてゐた︒︵爾學階梯﹄巻r・その他︑﹃蘭學階梯﹄巻下の巻末に記載してある参考審目を見ても︑當時すでに研學に便利な書物がいかに多く舶戦されてゐたかを想像することができる︒ 先韮の低迷抑伽して行き燗んだ通を今や樂樂と淵歩してゐた︒彼は先乖の苦心を語った後で︑﹁既二先誰此業ヲ企テ これは決して年少氣鈍の一蘭畢生の放言ではなく︑最も信執すべき青年剛學者の自信から川た言葉であった︒彼は
丈學研究第十九輯一四︵二○七四︶
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︑0Jも︑︑︑︑︑︑︑︑b︑
毛談﹄の禁止
て公刊される
完全に無覗さ
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すでに相常の知識を持ってゐたので︑なまなかの専門家では彼を洲足させ朴なかった︒例へぱ︑幕府の天文方澁川春
海はすでに死段してゐたので︑その門弟猪飼盟次郎が先づ召されたが將軍の衝間に答へることができなかった︒また
長崎から西川如見と臓草拙か召されたが︑雨人とも鉦養格矛暴鰐した︒惟かに建部彦次即︵賢弘︶︑中根丈右術Ⅲ
︵元圭︶等が諮問に應じ得た︲と一云はれてある︒中根丈右術凹は西洋雁法・邪數の良垂﹃はあるけれども寛永の稚茎周令の ために輸入のできないことの不便を訴へたので︑享保五年林蕊目令は︵宗門坐叫を除いて︶解かれることになった︒ただ し︑丈方術門の意味した專門圭口は砦洩課であって︑軍氷七年︵一六三○年︶の禁害令といふのも.漢謡西洋科學書︵天
文︒歎學︒測埜等︶を意味したもので︑西洋文字の原韮口のことは↓初めから問題外の厳謎茎凰であった︒また舶載されて
も読み得る者はなかった︒前にも述べた如く︑日本で唯一の西洋語︵オランダ語︶を解する長崎の通詞たちでも西洋
文字を使川することは延享二年までは許されなかったのであるJ
將軍吉宗は自ら測午隣の作製を指揮して吹上苑内に術へ付け︑近侍の者をして槻測せしめたり︑また天文蕊を祁田佐
久間町に建てて自製の簡天隣を術へ付け︑天文方澁川六減・西川忠次郎をして槻測の任に常らしめたり︲或ひは尺度の
標準︵享保尺︶を規定せしめたり︑また小石川白山に藥倒を設けて西洋・南泙の柿物を栽培せしめたり︑西洋産の馬五
頭を駁者︵ケイズル︶と共に取寄せて積御殿で調馬させたり︑また青木文賊︵川比陽︶・野呂一九丈︵連山︶にオランダ文書課
解法の研究彩命じたり︑すぺてさういったやうなことが將軍自らの意川に發したので︑幕府も諸侯も酉秤文化に對す
る態庇が急激に一愛するやらになり︑雛に︑より自川な立場にある學者︵︑王として鰐學君︶↑仁ちは︑從來もその技術だ
けは剛方の名に於いて長崎方面から移入されてあったものを︑更に騏的に窮めたいといふ封蒲を持つや弓になった︒
杉田玄脚とその周囲の人たち一五︵二○七五︶
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丈學研究第十九幟ニハへ二○七六︶
もちろん西洋の#そ臘蘭くからl天幕年︹五四一年︶諾トガルの商船が大変一砺胤土に漂着して
以来l知られて居り︑嬰撒揃溌といへども.卿には知ら嘗ろ文化鳥#あるやぅに︑侭れて.一方で
は宗教一脚葎に名を籍りての使略︑圭義〃恐れながらも︑他の一方ではその文化に接近したいあこがれが一部知識慾に燃 える人士の川に行き一口ろてゐた一︶とは郡礎であった︒殊に︑圭画宗川現の匝前にはイタリアの宣敏師ヨワン・シロチ go自冒﹈一国昌胃Pの昼○三を江戸小石川の切支丹屋敷に幽閉して︑新井白石は彼についての聞耆︵﹃釆蠅異言弓西洋
紀聞﹂︶を作り︑その爲本も公然でなく流布して西洋に棚する知識の目を附かせることに役立ってゐた︒
だから吉宗治仙下の西洋學開心考は非常に多数であるが︑その代表的の薪を暴け|わと︑新井白石・細井砿澤・西川
如見︒臆草拙︒栗崎道有︒阿部將翁・建部贋弘・中採沁圭・今村市垂︿術︒松宮俊仏・西川忠次郎・澁川六減・酉査二
郎︒吉雄幸右術門︒本木仁太夫・桂川市筑・後藤梨春・青木文藏・野呂一兀丈等があった︒
さうして青木文藏は組織的に西洋學諾研究するやうになった先駅者であり︑それに縦いて前野良澤︵剛化︶・杉田
玄白︒中川沖庵︒石川玄常・敬末泰・桐山正打︒烏山松刷・桂川市川・朽木龍橘︵耐知山侯︶・森島中良・小石一沁俊・
大槻玄澤・宇田川玄随・平批源内・司賜江淡︒肺聞剛立等の時代か来て.洲はゆる附鯉興隆の枇となったことは︐
すでに見た通りである︺これ等の人人は豪傑心士と呼ばれてゐた︒一兀池・天正の昔にあっては︑豪傑の士は枕を提け
て天下を横行したが︑享保以後の新しい豪傑の士は︑長崎に下って通詞の家から﹃ウなIルデン轡ブック﹄を手に入
れて︑それと首つ引で蘭學葬習得し︑目に見えぬ前人未到の科學の仙界瀞征服することを目的とした︒犬槻玄耀はそ
の著﹁耐蕊階梯﹄に於いて先誰を呼ぶに豪傑山士を以ってしたが︑天愚孔干︵荻野鴻谷︶はまた﹃附學階梯﹄に序し ト
﹄
て︑﹁奥人子煥豪傑之士也︑雌未航海遙能熟於其學﹂と推孵して居る︒子煥は玄澤の謀で︑名は茂質︑繩は磐水︑玄
澤はその邇孵であった︒
大槻玄澤を中心とする蘭學全盛の時代は︑寛政︑一七八九隼i一八○○年/から享祁︵一八○星i一八○三年︶を經て︑
文化︵一八○四年i一八一七年︶︒文政︵一八一八年一八二九年主で綾いた︒玄澤の死は文政十年︵一八二七年︶であつ
た︒
その間に西洋の科學珊︑初めは技術的底も;畠耆され︑時學I殊に外科が學習されてゐ砿.内科も學習さ
れることとなり︑鰐療◇藥方の外に︑天文・屏法・川曲取・航海・造船・砲術等の技法・理諭も學押されることとなり︑
地理︒岬物・歴史等の興味も庇まり︑同時に語學そり物の學習か次第に組織的に基礎づけられると共に︑文化の糖祁
的方面の研究にも着眼する傾向が現はれだした︒・
幕府時代の最後の四十年開には︑もはや日本人の評慨に於いてオランダ華ぞ西洋文化の代表國とするやうな誤認は清
算され︑從って附學は後退して︑その代りに︑英學・佛學・獅壌なるものが進川し︑途に明治維新の政愛と共に︑學
問上の革新が行はれることになったのは拷人の知るところである︒その革新の端締辛開いた功労者として︑われわれ
は青木文瓶を先駆背として︑前野良澤・杉田玄白︒中川搾唯の三人の塙を水遠に記憶すべきである︒
杉田玄白は晩年に及んで︵文化土一年︒八士一霞︶剛學創始の薪ぞ追想し︑二巻の阿想鋒を綴った︒私が此虚にしば
しば引川した一通蘭皐事始﹂がそれである︒淵時︑芝附堂︵寛政元年劇もの熟頭として︑また附學の正統の上で玄白の
後繼考として︑雷名を一価に馳せてゐた大槻玄深を目安にして禅かれたものであった︒その謀は一而から見れば.日
杉田玄白とその周幽の人たち一七︵二○七七︺
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最後に私は一つの蛇足を附け足すことを許してもらひたい︒
剛翠通勤を日本文化史の發展の上から見ると︑それは二つの大きな外来刺戟の筵おものに馬する︒第一の外來刺
戟は︑今から千三百年ほど以前にZ芋大陸からI初めは朝鮮牛脆を維てlわれわれの遠い肌先に與へられた佛
鍛と燃識を中心とする東洋文化であった︒それはわれわれ自身の文化の韮礎となるものを成長させる役荊を波じた︒
鈍二の外來刺戟は三百年前から始まって︑初めはキリスト教思愁で眠ってゐたわれわれの測先の宗識心を揺り動かし︑
次は科學思想でいまだ夢想だもしなかった未知の価界をわれわれの肌先の前に展開させた︒その文化的影響は今なほ
繼絞中で︑われわれ自身の新しい節二の文化はその影響によって刺戟せられ︑今や漸くその形を岡定させようとしつ
つある︒此の西洋文化吸收の状態かいつまで紋くかは何びとにもわからない︒しかし︑確蛮に言ひ得ることは︑吸収
された文化がわれわれ自身の文化の中に十分に飽和されるまでは綾くであらう︒
価の中には避見の小さい見方の偏狭な人間があって︑あまりに外國のものを吸收すると︑日本本来のものを無くし
丈學研究蕊十九職一八︵二○七八︺
本に於ける西洋鍔學の發逹史であるが︑しかし︑鰐學は剛禦の一部であったから︑また一面から見れば︑その書は日
本に於ける洋學發逹躯でもある︒明治二年になってその杏は初めて刊行され︑明治二十三年抑列の時︑初めから刊行
に關與した耐洋諭吉は︑その序文の中で︑﹁内外の士人この書ぞ談んで単に祷學上の一小紀事とする勿れ﹂と咽破し
た︒まことに至言といふべきである︒
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はしないかと恐怖する︒さういった恐怖は千三百年の昔にもあった︒三百年前にもあった︒明治になってからもあっ
たっ今日に於いても見受けられる︒しかし︑われわれの民族はさういった恐怖病粁の恐怖を無覗してもよいほどの弧
他な冊袋を持つ︒われわれの民族は相常ないかものぐひで︑昔から手のとどく限りのものは何でもかまはず口に入れ
た︒さうして適度にそれ等をこなして自己成長の管養として来た︒だから︑われわれほ︑もつともつとわれわれ自身
の消化力に信頼し延よいと思ふ︒
杉田玄白とその周凹の人たち
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一九︵二○九七︶