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安南史上の一政權としての士燮

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

安南史上の一政權としての士燮

山内, 晋卿

https://doi.org/10.15017/2344404

出版情報:史淵. 11, pp.1-14, 1935-06-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

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権利関係:

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筆著は最近牢子研究の途上︑はしなくも本題士氏のことに噛れた︒即ち彼れの事跡に就いて﹁三國

志災志﹂の彼れの本体を要約し彼れを沈末呉初の一交趾太守として牟子との間に開係附けをして﹁文

學研究﹂の﹁牟子問題の清猟﹂中に發表して世いた︒・狂は牟子研究としてはそれで澤山である︒しか

し今度は少しく槻靴を替えて彼れが果して安南史上︑古今を通じて凋立の一政椛であ.りうるや或はそ

の一先駆者でありうるや否やとの鮎に附して川かこkに卑見を述ぺて見たい︒

先づ手元に在る張戦の﹁慨亜紀元介表﹂を楡架して兄る︒その巽市棚は岐初の方は一断一縦して居

る︒今それらを一所に集めて順恭を附け︑また各向條下に西紀年代の起止を描けて一〃つの表にして見

ると左の通りになる︒

一甑瀦鋤安陽王西紀前二五七二○八

安南史上の一政椛宮こしての士墜

安南史上の一政椛さしての士凝

山内晋

I

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安南史上の・政椛さしての朱塗二

二南越趙氏西紀前二○七二○

三交趾徴氏西紀三九四三

四交趾士氏西紀一八七一三六

五関春李氏西紀五四四六○二︲

六安南呉椛西紀九三九九四四

呉昌文西紀九五一九六五 七大稚越丁氏西紀九六八九八○・

黎氏西紀九八○一○○九. 八大越李氏西浬○一○二三四/ 九安南陳氏西紀二三五一四一三 十大越黎氏西紀一四二八一七八七 土大南院氏西魍八○二一八八五

果然︑表中第四に士氏を發見する︒

さて﹁紀元合表﹂の著者はその巻首に﹁引用書目﹂を載せて居る︒その安南關係の書目を學ぐれぱ

左表の通りである︒

一大南國史演歌

b

■ロ

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辨すべし︒故に越南の欽定越史迩鑑綱目及び大南前綿列徳︑正細列徳等の書︑吉たほ堂一二を参すろ

を得﹄と云って居る︒しかし﹁紀元合表﹂が川来てからでも今日まで既に三十餘年を経過して居るか

ら狸ち奇書異冊と云ふ程の事でもあるまい︒それに拘はらす誰宥の座右には節五の︒﹁越史略﹂と﹁安

南志略﹂との二書あるのみであるのは進だ迩雌である︒それであるから水面士氏を安南史上の一政椛

となすことも韮謝り﹁合表﹂著考の言を信じ︑それにヒントを得て考察の歩を進めることLするoこ

の鮎豫め談者の諒解を願って世く︒ この他に書中に佛人卿克聡氏の﹁越南鎚幣老﹂等を引いて居る︒而して本題士氏の條下にはこの表

中の節一難二を参照して居ることが断りて有る︒

.なほ泰首自序に﹃然るに時︑今日に至り海禁大いに附け︑中外一統︑海外の奇書異柵たばちに代講代

六五四三二

安越大大越 南史南南史 來略正前迩

安 続編鑑

職 列ダリ 綱

略 傳傳目

安南史上の一政椛さしての士盤

一一一

1

(5)

先づ前段に列記した養科に就て老察する︒その時代から見ると鋪一表鋪十一の院氏朝を杵通の東洋

史教科番などはその剛號を哩附として居る︒しかし﹁合表﹂に從ふと﹃西紀一八一二年に國號を改め

大南と日ふ﹄となりて居る︒されば大南の剛號を冠した﹁大南前細列体﹂と﹁大南正細列傳﹂とが院

氏朝に細纂せられたものだと云ふととは明白である︒恐らくは紀仰慨に苫かれ正細は院氏朝に脇し前

細は前代に赤りて記述したものであらう︒次に﹁大市剛史淡歌﹂は恐らくは押祇の歌艘を以て書かれ

た︑例へぱ﹁安市志略﹂巻末に職せて右る﹁剛志歌﹂の如きものかと恩ふ︒また﹁越史通鑑綱目﹂も

恐らく儲時別に古今を通して細年綱目僻に書き替えたものらしい︒いかめしく欽定の二字を冠せて

あるが︑それが院氏朝廷よりの欽定であらう︒﹁合表﹂著者が士氏の條下に﹁淡歌﹂と﹁綱目﹂との

二書を参照して居る鮎から見ても︑その内容の随分古昔に派りて居ることが鏡はれる︒

さて如上書類細纂の目的は那遥に在ったか︒恐らく院氏朝がその政治的凋立を表示する爲に︑支那

中央朝廷の行って來たあらゆる文化的制度を小仕掛けながら椣倣した妓後のものであらう︒元來地方

政椛の凋立する場合にその柵立の意志表示の形式とも云ふぺきものは雄一尊號である︒自ら帝を稲し

王を孵す︑この名乗りを場けることが鋪一であらねばならぬ︒節二年號である︒定鼎改元と云ふが食

都の位瞳は或は前朝を踏襲することもある︒年號に至りては必ず改めるものとなりて居る︒所謂他の

正朔を奉ずろと否とは柵立か蹄服かの外れ目と云って穴からう︒それから剛號と君主のその前枇を追

認する廟號及び陵號と云ふやうなものがあり︑乃至それから歴史の細纂と云ふやうな事が行はれる︒

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形式であるといへやう︒そこで川来るだけ古代に派り.出來ろだけ多敷にその地域に於て稠立の披揚

げをした先駆薪までをも蚤収り眼で捜出す必要がある︒前代に柵立の朝代の存する場合は尚更の事で

ある︒よし易姓革命の剛家であっても自朝以前にそれらの朝代が多迦あればある程︑またその朝代と

朝代の間に年代の切目が少ければ少い程︑自家凋立の亜味は鋤大して来る課である︒俄然院氏朝とな

ってから上記歴史害類の族出したのも偶然でない︒要するに安南史はこの鋤に開して朝鮮史と雁行す

蹴りて筆考の座右に術ふる﹁安南志略﹂と﹁越史略﹂に就て考察して見る︒前宥は明治十七年我邦

岸川吟香氏出版の活字本であり︑後宥は﹁守山開錠書﹂史部中に牧められたものである︒いづれも凹

即全書に收入せられ︑また﹁細目提要﹂史部戦記獅中に解迩が附いて居る︒

前者﹁安南志略﹂現在十九巻の著者は安南人黎副と云ふ︒この人は元の枇川の安南征伐に際し安南

の大將陳錐の幕叩に仕へ主從ともに逸早く元躯に降毒一した○所が安南川では衞時鋪一表鋪九陳氏朝に

鋪二仙聖宗︲鋪三仙仁宗父子は数度の戦敗にも拘はらず絡始州せず元軍かこの地域特狄の風土に慨ま

安南父上の一政椛さしての士鎚五

るものであらう︒ どの歴史の細捨と云ふととは︑中央朝廷の直前朝代の正史を細纂するのを殆ど一睡の道徳的義務と心得てゐるのとは少しく意味が述ふ︒地方政椛としては主として對中央的に自家猫立の意志表示の一

I

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なほとれら二書の前後に就ては筆者の見る所では﹁安南志略﹂第十三巻﹁陳氏泄家﹂に元の順帝を

﹃今上﹄と稲して居る︒﹁越史略﹂の方ではその巻末﹁陳朝紀年﹂に陳氏朝第十枇暖帝を﹃今王﹄と

孵して居る︒而してその應帝即位の昌符元年は明の太祗洪武十年に常る︒されば後者の時代は前者よ

りも少し後れて居ると見るべく前者は元人であり後者は明初人と謂ふくし︒この邊の所﹁提要﹂の云

ふ伽は切角或る鮎に蝿れながら著考の時代の朱後に於ける推定は頗る明瞭を峡いて居るや弓に見受け なあらう︒ 後者﹁越史略﹂三巻の群者は名氏不詳となって居る︒﹁提要﹂の著者は﹁需南志略﹂雛十五巻﹁名人﹂の末文に擦り恐らく陳杵か黎休か執れかの手に成りたものであらうと推定して居る︒執れも聖宗の時の安南人である︒それは鬼もあれ安南側では恐らくは自剛の柵立を全ふしたので前代に派り殊に直前の朝代︑第一表第八李氏期の歴史を編年罷に詳述し自家傳統の正しさを表示したものであらう︒その書名の示す通り簡単ながらも一価の安南史である︒その川意の鮎が恰も安南志略と正反對の立場に立つものである︒提要の菩考か同一﹁戦記﹂の中でも殊にこれを﹁附録﹂に斥けたのはその霜でが

姿南史上の一政椛さしての士樫六

されて退却するに乗じ途にその凋立を全ふした︒そこでかの陳錐は板挟みとなり自國軍に攻殺され著

者黎氏はその後に元朔に仕へた︒常時親しく秤めさせられた主從の苦衷を告白せん篤に普いたのがこ

の書である︒然かり書題の示す通り徹頭徹尾︑中央側に迎合し︑安南を以て支那内地の一行政厩でも

あるかの如く方志隈に課卸した︒

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られる︒﹁安南志略﹂や﹁越史略﹂が如何に取扱って居るか︑三群を對照して見ると各自立場の祁述と時代の

相述とが一目瞭然に宥取せらる上︒即ち左表の通りになる︒

合表標列越史略子目安南志略小目 一頤諮安陽王図初沿革 二南越趙氏趙紀趙氏世家 三交趾徴氏雁代守任條下叛逆前城征討條下塞照 四交趾士氏同上三國刺守條下 五寓春李氏同上叛逆前朝征討條下参照 六安南奥氏呉紀五代併潮同上 安南史上の一曲棚さしての士盤七

元來地方政椛側から云は図古今を通じて假令短日月の期冊にもせよその地域に於て何等他に製肘せられず資際に自家の主椛を行使し而して自ら帝と稲し或は王と號して自家澗立の意志表示を爲したものは︑それを中央政椛側から承認すると否とに拘はらず自家の先駆者として取扱ってなからう︒恐らく﹁合表﹂の安南欄に一断一縦して掲げられてあるものは右の標準に韮いたものであらう︒さて之を

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■■■■■■■■

安南史上の一政椛さしての士饗八 十二使君 七大雅越丁氏丁紀丁氏慨家 黎氏黎紀黎氏仙家 八大越李氏院紀李氏仙家

九安南陳氏陳朝紀年陳氏枇家

との表中節八の下の﹁院紀﹂は李紀とすべきものであるのに然らざるは﹁提要﹂に注意してあるや

ろに陳氏朝に李氏の姓を冒すものを一切改姓さしたからである︒なほ﹁提要﹂の文中﹃日はく剛初沿

革﹄の直下に﹁日はく越紀﹄の三字が脱して居ることを指抽して世く︒

さてこの表を一見すると鋪二と第七己下は三神の態度は完全に一致して居る︒第三より第六までが

問題である0節二の趙氏朝の存在がいかに後代繼起の潤立新の大望を唆つたかは想像に難くない︒

﹁安南志略﹂がなるべく先駆肴の頭数を減らすべく奴逆とか併緬とか別佃の名孵を附して仙家の名を

與へざるのはその著者の立場から見てなほ恕すべき所がないでもない︒﹁越史路﹂が安南本位の立場

から書きながら第三第五殊に第五は自ら帝を稲するばかりか︑始めて年號を建てAその獅立の意志表

示老なすものに對して事疫を没却し紀の名を與へ歩差別待遇を敢てしたのは如何︒畢党取稀の標準が

暖味であった爲めであらう︒

しかし﹁合表﹂の群者と雌も第三と鋪凹とは切伽安南側に州けながら一方巻首の﹁越南枇系﹂には

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愈溌本題士氏に就て群察する︒先づ﹁合表﹂安南棚に﹃士墜は交州刺史となり一郡を保有し兄弟並

びに列郡の太守となる︑洩は封じて龍度亭侯となす︑後に子を泄して災に庇たらしめ歳黛方物を致

す︑災は封じて瀧細侯となす︑剛人これを愛し尊んで士王といふ︑川入城俄一に王者の如し︒按ずろ

に越史通鑑綱目は士鍵を以て王となさずた凹惟に削りて交州刺史となすのみ︑今列して王となすこと

は大南剛史油歌の碗に從ふなり﹄と云ひ﹃士王﹄と標して﹃陳時加封して善感嘉應雛武大王となす﹄

安南史上の一政雛こしての士墜九

を敢てしたとも云へやう︒

鋪三微氏に至りては後洩の橘將馬按の伏波標柱と云へぱ誰れも知る所なれども︑その對手が巾咽の

女英雄であることは多分に赤過され易い︒彼女は土將の娘であって郡守が彼女の夫を成敗したのに砿

卜岳キン慨して︑一鋸して柵外六十餘城を攻略し自立して王を孵した︒ラクウペリー氏が彼女を呼んで﹃東京

シ子のジヤンダーク﹂と云ったのも中而白い︒たった凹年の三日天下に過ぎなかった︒しかし病將

馬援の赫觜たる武軸の裏而に﹁後漢書﹂彼れの本体に﹁耶吏の旅疫を經て死するもの十に川五﹂と云

ふ惨惟たる犠牲を桃はれて居る︒この前轍即ち懸軍繭里鐡煙弥霧の川を川入さすことが如何に後仙逵

略を好む調主に取りて一大開心事であったであらうか︒ 之を符いた︒何も三日天下︑一代天下でも弧いて特くほどの事もなからう︒この邊は彼れも莱別待遇

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筆者の見る所では﹁合表﹂の著者が侯王の名義に汲共たるのも一往尤もだと思ふ︒それが士氏ぞ安

南棚に禍上すべきや否やを決定する最後の標準として老へられないことはない︒しかしながら名義以

外に先決問題として士氏は果してその地域に於て何等他に埋肘せられず迩際に自家の主椛を行使せし なから弓か︒

安南史上の一政椛さしての士鍵一○・

と云って居る︒一読して如何に﹁合表﹂の群考が侯王の名義に汲糞たるか■知れる︒最後に陳時加封

云盈と云ふのは恐らく南北朝の陳代のことではない︒その擁ろ所は不詳なれども之は士氏の興後︑呉

主孫椛がその臣の陳時と云ふ人を彼れの後任として交趾太守とした︒此所に陳時と云ふのはとの人を

指したものであらう︒﹃加封﹄と云へば士氏既に生前に王となったやうに見える︒それは兎に角にそ

の孵號を一見すると何だか祁號らしく見えて獅名らしく見えない︒また僻名ならば呉主が封ずべきで

あって太守の手加減に委するのも可笑しい︒恐らくは之は士氏の昭後︑央主のその一門に對する鹿分

が不信であってその地方民心に盤き足らざる所があった爲に︑太守が民心鎭撫の一策として士氏の祠

廟を立て祁號を附けたと云ふやうな小刀細工ではなかったらうか︒

更に﹁越史略﹂の士氏條下を一読する︒彼れが生前に王となったことに就ては何等叙述する所なく

薮から棒に﹃魏の黄初七年王蕊ず﹄と記し下文に王を辿呼して居る︒さきの﹁淡歌﹂の説なるものも

何に根擁したか不詳である︒兎に角に﹁越史略﹂の著者餅時に先だち士氏を王に祭り上ければならぬ

一般の心持が遂に体読を産み︲その傳説に引きづられてかくの如き前後支離の記述を敢てしたのでは

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や否や即ちその庇力如何を考察する必要はなから弓か︒先づ正史に就て見る︒﹁三剛志﹂は彼れの本

体を次第して呉志妓初三巻に呉主歴代を本紀鵠に叙して居る︒本紀とは題しないけれどもその書振り

は然かりである︒而して直下に士氏等三人を傳して然る後に呉主歴代の妃峨宗室に及んで居る︒され

ば正史の著者は明かに士氏の位地を外様大名︑御客分扱にして居る︒我邦江戸時代開陳戦争前後の外

様大名に似通って鵬る︒なる程士氏は自分の子供を人髄として呉廷に透りて居る︑しかし決してn分

は鞠躬如として災延に入蜆して居ない︒若し彼れが参観交特まで行ったら御仕舞である︒また典主は

彼れを封じて龍細侯とした︒後仙皇帝を名乗る中央朝廷ならば差餅り王に封ずる所であらう︒しかし

奥主孫椛白身すら柑時尊號を出したり引込めたりして居る位のものであるのに︑士氏を王に封ぜょと

云ふのは注文が維だ無理である︒この錘の所は後枇と一律に杓子定規を振り廻はすことの出来ない所

であらう︒

元来封僻なるものは此の如き場合に在りては此方に於て依然敵意を持紬しながら祁手の従″を認め

て一時手心を緩めて跡廻しにした待機の一形式ではあるまいか︒士氏の置力はさほどの武略を持合せ

なかったけれども士人の既望や外商︑土茄民の蹄測の年一年雅祇せられて容易に抜くべからざるもの

が打った︒そこで災主は之を見て取り︑彼ら兄弟を供に封じた︒しかし人礎や方物の波面位で洲足し

たのではない︒機内を狙って交州の僻右する鷺易向きの天然耐伽や貿易市場の利椛を汗手に牧めて自

分の御姦所とすべく一日も忘れなかった︒そのことは士氏の製後その一門に對する不信の庭分に曲り

安南史上の一政椛さしての士鎚二

I

l

l

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﹁I

喪南史上の一政撚さしての士挫一二

ても明陳に察知せらる塊川である︒さればその典へられた名義が侯であるか王であるかは服に皮机に

過ぎない却って疵力如何こそ注亜すべきである︒

されば正史が流石に立体の次第に注窓して士氏を立派な外様大名格に見立てたのはその従力を老脳

した紬果であらう︒﹁越班略﹂や﹁安南志略﹂が恰も一汁の號令に川りて交迭を弧ひられる許迩の刺

史郡守と同脱したのは︑外様大名はさて世き天伽の奉行代竹栴と見縊った皮扣の見に過ぎない︒介表

と雌も招義に汲燕たる軸は魔力を万過した嫌がある︒正史に從へぱ士氏は一生涯交趾の太守であって

交州の刺史でもない︒介表が刺史としたのは何に擁つたのであるか祥かでない︒それは兎に角に本体

に衰微の書簡を引川して﹁尉佗も崎ゆろに足らざるなり﹂と云った︑倣時目繋者が士氏の庇力を弟二

趙氏刺と同一位地に見立てたる一句こそ非常に喫緊であらう︒それから該背術中に士氏の川入する逝

路に﹁胡人の磯を火みて香を焚焼するもの術に欺十あり﹂と云ふのから見るに傳読の﹁國人これを愛

して尊んで士王といふ﹂のは或は胡商が外剛の主椛に對する王様呼ぱ上りから雛鵬したのではあるま

いかと恩ふ︑氣岬に﹁士王﹄と連呼した語無がさうらしいから︒今はそれが胡商からにもせよ叫人か

らにもせよ王と呼ばれただけの事であって︑支那在来の典職に本づく王侯の僻名を以て一律に徹すべ

きものではないと恩ふ︒主た﹁越史略﹂が該蒋術中の﹃術に歎十あり﹂の一句を下旬に連けて士氏が

常に数十の妻妾を布したとしたのは確かに誤読であろう︒下文の二句が﹃妻妾は輔斬に乘り︑子弟は

兵騎を從へ﹄と對偶的に響かれて居ると読むべきである︒何も弧いて士氏を一牡百牝の脇納勝に見立

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居る︑間より不忠の臣ではない︒しかし炎迩まさに識きんとして居るのに︑漢室の興復を以て向ら任

じ窃かに孤忠を通ぶと云ふ程の誰忠の人でもなかったら弓︒之を注文するのはまた無理の話である︒

許坊劉巴二人が一旦士氏の傘下に集りながら途に蜀瀧に投じてその名匝となったことを忠介せて見る

と︑佃中の淌息が窺破せらる上︒なほ士氏は椛闇を誘導して災に内附せしめ南中四郡を捌飢さした︒

之も孫椛の湫心を貿ふくく脊に腹は巷へられないので苦しい手段を取ったのであらう︒この蜀淡に對

する後方撹乱の露に諾葛の祁山出師の時期を後らしたのは︑餅時の大脳に大影響を典へたことでもあ

らう︒要するに士氏は自家の地雑を維持する鰯に一生懸命であった︒而してn分が一脈の僻粁である

爲に儒者風を加味した一種文治的民主的政論を行ったらしい︒土地柄の殖民地的なるのと州待ちて彼

れを特殊附けるに充分である︒

般後に彼れの後仙安南史に對する影裡は彼れが安附に州糊する南交一帯の地に踏冊つたこと︑その

治所たる龍細が安市雁朝の首都になっただけ形勝の地を占めたことなどは︑既に牢子研究に於て言及

して世いた通りである︒ てるにも及ぶまいと恩ふ︒

さて士氏は漢室に對し勿論一交趾太守として貢職を唆せず彼れの役目に相徴するだけの邪は行って

安南史上の一政柵さしての士謹 ︷ハ

I

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安南史上の一政樅さしての士愛一四

簸後に﹁安南志略﹂の川版に就て一言する︒川版粁岸田吟呑氏は締価水眼樂の藥怖以外に樂稗雌幾

房を經愁し傍ら慈善辮業にも理はり︑日支川を従復した明治疵業界の一紳士であった︒彼れが雄大脈

の手校本を發見して出版したのは明治十七年即ち院氏朝の末路鋪二何の佛越戦争に引絨を清佛椛榊の

あった年である︒彼れの序文に﹃因りて念ふ方今法越那あり︑必ず經濟に冊心する士の得て先づ槻る

を快とせんと欲すろものあらん﹄と云ふ︒筆春なども術時新川記事を誠んで︑やれ黒旗兵だ劉︑水脈だ

と机を扣いて唯いだ−人である︒この書の出版せられたことは淵時知らなかったけれども︑朱飲山の

﹁詩法纂論﹂が該書房から川版せられたのを記憶して届る︒それから明治十九年筆者の東京に冊熟し

て以後︑銀座店頭に幅糞しい老紳士の風姿を杵兇したことをも記憶して居る︒今昔の感︑・巻を掩ふて

撫然たるものがないでもない︒兎もあれこの﹁安南志略﹂は百代から元初までの安南に開する文献ま

でをも相當に收録した︑古代の安南を知る爲の好饗料であらうことを附言して温く・

昭十・一・一○

参照