九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
日唐交通と新羅神の信仰(二)
鏡山, 猛
https://doi.org/10.15017/2340965
出版情報:史淵. 19, pp.104-129, 1938-12-10. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
﹁111J
『
回仁ご相並んで天台宗川の興隆に力のあったのは押誰大師凹珍であった︒彼は堆澄の直弟でなく︑法
系から云へぱ孫弟子に糊る︒凹仁より少しく後れて出生してゐるから︑叡山にて相知る事数年に過ぎな
かった︒凹仁蹄朝後六年にして剛珍は入暦してゐる︒彼の入店は妓澄︑側仁の場合に於ける如く︑造唐
使に随從したのでなく︑全く獅自に数名の從傭及び通課さ共に︑日唐間を往來する商船に便乘して柱復
したのである・・大師の入唾紀行は﹁行雁抄﹂なる略文が礎ってゐる︒文徳天皇嘉鮮凹年︵仁群元年︶五月
に京より太宰府に下り︑使船なき爲肥前の城山Ⅲ王院に寄住する事ごなった︒城山は天智天皇の川年︑
大野城ざ共に築かれた基雛城の趾で︑蜜蝿五年大野城にⅢ王寺が建立されに事は文献に明かであるが︑
昂塞一馬桁︶基雛城にも同様に川王院があった事が知られる︒翌仁壽二年間八月︑大唐商人欽良脈の船
が筑紫に來るを知り便乗を求め︑仁壽三年七月十六日に乘船︑八側九日値嘉島鳴浦より大海に向って放 日店交通と新羅抑の信仰
三︑円珍と新羅明禰
日唐交通と新羅肺の信仰
NL﹄00︻︵一一︶
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猛
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側珍の締朝に際して次の如き仰読が物語られてゐ・る︒即ち唐より蹄風の船中に一人の老翁が現れ﹁吾
れは新羅剛明祁である︒今汝の教法を識り慈奪川生に至らんα一ざ云って忽ち姿を消し龍・大師入京して
諸來の經癖を大政官に藏する時に︑又先の老翁現はれ﹁日本に一勝祇あり一伽鮭を建て籍を移すべし︒﹂
琶云ひ︑近江の園城寺に導き剛珍はこの寺を讓り受けに︒これより彼の明祁は寺の北野に住んだ爲に︑
凹珍は貞観二年祁祠を建て氏之を祀った芭云ふ︒・
右の傳説は本朝練文粋に戦せられた純花會縁起︑古今特聞集︑元亭樺害を始め幾多の縁起︑傅説︑史
籍に見られる所である︒此の榊は後世三井の新羅明祁さして名高く︑源械義この明祁に詣で︑その加談
に依って安倍貞任等を蹴唾せんこし︑陣中生れ仁子義光を祁前に元服せしめ︑新羅三郎の名が起った︒
叉英明の後三條帝︑関城寺の三嘩耶戒鯉建設の願を却けられしより不豫あ︑リ︑之も新羅明川の崇りさ云
はれに︒かくの如く朝家︑武家に惟大な信仰勢力を持2Lゐに新羅明祁は異剛祁であった︒その鎭座の
巾來については前述の如き傳説を持ってゐる︒然し乍らこの説話は︑史料ざして蚊も古いものは藤原蛮
範朝臣︵後三條︑白川天皇唖の人︶の撰になる関城寺詑花御縁起で︑縁起の末文に康平五年鯉亥八月十八日
記之さあり︑大師の段後面年以上を經︑一山の勢力確立した唖の事であるから︑史蛮さして如何なる程
日店交通と新羅脚の怖仰一○五
出した︒十四日﹃く事を得た︒之︑に歸閏してゐる︒ 十四日風の爲に漂清した所は琉球︵今の蕊滑︶であった︒翌日順風に乘って禰州連江縣の界に蒜だ︒之より天台に入り速く長安に逹し︑在唐六年にして天安二年六月︑台州を發して海路平安1
1
081日
日店交通と新羅抑の倫仰一○六
座信朋が措けるか疑問である︒之に疑問を懐いて︑新羅明紳の奉祀を肌珍より後れた時代に求められて
ゐるものに︑辻善之助博士の﹁新羅明祁老﹂︵日本佛教史の研究所收︶がある︒即ち陣士は右の明祁に開
する説話の片鱗も︑剛珍自身の入店紀行﹁行雁抄﹂︑或は大師の徳記ざして蚊も古く又信擴さるべき三善
清行柵の智證犬師仲に見えない事等により︑貞観年中奉祀の疑ふく曹事を述べ︑天職二年この祁が正川
位上を授けられた事が︑价綱梛任抄出に見えてゐる所より︑この班始めて祀られ︑又説話の内容に山門
ざ寺門Eの抗争を豫言しに所がある爲に︑軋櫟刺しき回融天皇の醜に彼の山側の赤山刺に對抗して︑祀
られたものであるき論ぜちれだ︒左に舵花街縁起以下の明祁の縁起について考へてみゃぅ︒
﹁夫以祀師智誰大師承和年中爲レ受二持佛法一渡海入し唐︵中略﹀入二堂義淳一潟瓶事畢之後途師二本朝一有二
一老翁一現二於船中一目我是新羅國明祁也︑爲二和尚一謹二持佛法一期以一慈隼出生一︑作二是言|畢︑其形不レ兄
突︑和尚蹄朝之日︑公家令三所持佛法門運二納干太政官一︑干し時前日老翁來云此日本脚有二一勝地一堂下
建二立一伽藍一安中置此佛法一︑途到二近江剛滋批郡悶城寺一︑問二寺根元於住僻一也︑無二知新一︑一老比丘二︑
名稲二教待一出來云︑教待年亙ハ士一︑此寺建立以後百八十除年也︑右建立椛越子孫教侍一︑呼二氏人︸川來
云︑先組大友與多鯛二天武天皇一所二建立︸也︑本是大友太政大臣之家地也︑太政大臣奉二天押天皇一勅以一崇 耐寺一建二立此地一︑造顯丈六彌勒像安二世院一︑麦天皇夢中有二示現一︑勅二太政大臣一更亦始二建立一︑今崇肺寺
是也︑因﹄裁與多随二父遺誠建二立此堂舎一也鰯先し是教待常訓︑可レ付二馬此寺一之人逓蹄來也︑而今日洲待入
来也以レ寺永奉レ附二脇和尚一実︑付脇之後︑明祁住二寺北野一︑老比丘敷待詣二明祁在所一︑逢以喜悦︑形應
、
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不し見へ和尚問二明祁一︑此老比丘忽不し兇︑是何人哉︑明紳答日︑是彌勒如來爲レ護二佛法一住二此寺一耶︑予略ご
右の縁起の作薪さほ■同時代の人︑源隆剛に依って筆録されに書に今昔物語がある︒同書の﹁智誰大
師初二門徒一立一一三井寺一語﹂なる章に左の如き記述がある︒
﹁今昔︒智證犬師比叡ノ山ノ傭ト︑ンテ干光院卜云う所一一ナム信給ヒケル︒而ル|一天台座主トシテ被ノ院
二住給ヒヶル︒天皇ヨリ始メ奉テ世畢テ費ビ合ヘル覗元レ限シ⑤然ル冊我ガ門徒ヲ別二立テムト思う心有
テ︒我ガ門徒ノ佛法ヲ可二傅蛍キ所力有ルト︒所麦一一求メ行キ給スニ・近江ノ國志変ノ昔大作ノ皇子ノ
超タリケル寺有り︒其寺二至テ寺ノ躰ヲ見ルー極テ蛍キ覗元レ限シ︒︵中略︶寺ノ邊二佃房アリ︒寺ノ下
二石筒ヲ立タルーノ井アリ︒一人ノ僻出來しり︒此寺ノ住傭也ト名乗テ︒大師二告テ云ク︒是ノ.井ハ一
也ト云ヘドモ名ハ三井ト云う︒大師共故ヲ問う︒術答テ云ク︒是︿三代ノ天皇生し給ヘル産湯水ヲ此ノ
井一一汲ミタレ︒︿・三井トハ巾ス也ト︒大師カク間テ彼ノ有ツル僻房一一行テ見レ︑︿人氣毛元シ◎佃シ荒タ
ルーノ房有り︒年極テ老ダル僧一人居タリ︒委ク見しゞ︿鱗竹ナドヲ食上散クリ・共呑駿キ郡先レ限シ・是
ヲ見テ傍ノ房一一有ル价二・大師問テ云ク︒此ノ老憾ハ何ナル術ゾト︒价答テ云ク︒此ノ老价ハ年来此ノ
江ノ鮒ヲ取り食フヲ役トセル若也︒共外一一便一一爾ル覗光シト︒大師此ノ郡ヲ間キ給フト云ヘドモ・猶佃
ノ躰ヲ見ルー費ク兄ユル︒定テ様アラムト恩テ老術ヲ呼川テ語上給フ︒老价大師一一語テ云ク︒我レ此ノ
所一一住シテ師二百六十年ヲ經クリ︒此寺︿途テ後︑ⅡU歳二成ヌ︒彌勒ノ川生二至マデ可レ持寺也︒然
ル一此寺可レ持人元カリッル一今日幸一一大師來リ給ヘリ︒然しゞ︿此寺ヲ永ク大師一一譲り奉ル・大師ヨリ
・日恥交通と新羅脚の慌仰一○七
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︑日唯交通と新羅抑の偏仰一○八
外一一可レ持キ人元シ︒我レ年老テ心細ク恩ヲルⅢ心カク博へ奉ツル燕害バシキヵナヤト云テ泣舞タ師ヌ︒
共時一一見し琴︿府車二乗ダル止那元キ人川來しり︒大師ヲ兇テ害デ告テ云ク︒我レハ此寺ノ佛法ヲ守ラム
卜誓ヘル身也︒而ル一今聖人一一此寺ヲ博へ得テ佛法ヲ弘メ可レ給ケレ︾︿・今ヨリハ深ク大師ヲ帆ムト契テ 返ヌ︒此人写唯トヲ不二知ラ|ズ︒然し︐ハ共一一有ル︑ⅡU・犬師是ハ誰人ノ御スルゾト問う︸一・是竺一尾
ノ明川ノ御マス也ト答フ︒然しゞハコゾ只人一只非ズト兇ツル人也︒︵下略︺新訂剛史大系本
﹁物語﹂には︑新羅明祁の名は全く見えず︑三尾明祁が店車に乘つに貴人ざして現はれ大師の佛法を
謎らんざしに事がある許bである︒三尾明刺は古く三井の地主刺ざして尊信せられてゐに所で﹁物語﹂
の説話も﹁縁起﹂に比べてはるかに筋の通ったものである・
三尾明洲は古く園城寺の刺宮寺ざしての地位を持ったものであるから︑凹珍が寺を受け繼ぐに常って
黄人の姿琶なって川現したさ云ふ誌は俄然作らるべきもので︑説話さしては縁起の荒唐な物語りよりは
事変に近い琶云はねばならぬ︒而も一方に於て︑多分に潤色された新羅明祁に係る同様な識法説話が生
れてゐる︒か土る同時代に於ける二つの對立矛盾した話は︑寺傅さして不都合である.從って次の時代
には雨説話を融合して︑新羅明祁さ三尾明祁の雨肺佛法擁謹の話が生れてゐる︒即ち古今著聞集に引く
智證大師御起文の記事は︑大禮龍花禽総起の文を冊子さしてゐるが︑新羅明祁鎭座の後三尾明祁の來訪
を受け飲食を供せられにご云ふ︒此虚に於て三尾明祁は新羅明祁より低い地位に見られてゐる︒次で現
れに元亨樺書に物語られる所もほ型同様である︒ 暦0日l尻
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新羅明祁の出現を老ふるに常って︑一應園城寺の創建及び三尾及び新羅明祁の存在をⅧみておかねば
ならぬ︒宮地直一博士は︑.﹁平安朝に於ける新羅明祁捨協城寺之醗究所收︶に就いて
﹁新羅明祁は︑本來大友村主氏に奉ぜられてその麓住の地に奉祀されたに起り︑その起源は勿論三井
のそれよりも往代にあつ仁が︑後に此の一族を本願さして三井寺の建立された場合には︑・對氏族關係の
根抵を一・にし仁に因り︑相瓦の彊域を連ねて︑例へぱ興祁寺に對する春日証の位世にあったかっこ想像せ
らる上.延いて︑いつしか地︑主さして寺院鎭護の威験笹發抑するに至っにのであらう︒例へぱ高野に於
ける丹生都比寅祁や叡山に於ける日吉祁のやうに︒随って寺院琶祁結んだ年代に至っても︑同様王代の
初期餌にかけて不可ないのである︒﹂
.と説かれてゐる︒関城寺は貞観ハ年五月十四日付の太政官牒によって明かなる如く︑近江滋賀郡の大
領大友村主聖圭が︑凹珍を別當さ・なし︑天台の別院さしたものであつに︒
﹁太政官牒延暦寺以園城寺可爲天蕊別院事
右太政官今日下近江剛符滋役郡擬大領從七位上大友村主夜須艮卿呂解狄僻︑謹稔案内︑太政官貞観Ⅲ
年十月十七日下剛雌彼阿解惟擬大領從ハ位上大友村王聖圭等解雌件寺停講読帥赫輝以十祁師傅
燈大法師位幽珍任別徴令加修濾兼演渉音栽國司覆審︑所陳有蛮︑謹請官裁者︑右大極宣︑奉赦依請
新︑乃至望請︑・氷爲鍾國逆場︑以件凹珍作主持之人︑共別愉者︑先梁川側珍血脈︑若無人者︑及同宗︑
於彼此中智行飛且︿少欲知足堪能菰使令寺家簡定︑加國印篭進官補任︑一任後先犯過者︑・不総諏替︑
日應交通と新羅利の偏仰一○九
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る︒右の書状によって見れば︑彼は大師の爲めに好地を求めて洛北大原の里の奥より江近に越ゆる所謂
龍花路をさり︑湖畔を南下して滋没郡の大領大友黒主の虎に至り︑山科の方面より師京した事を物語つ この書状は年號及び宛名を欠いで一のるけれざも︑文中の左中弁は前掲大政官牒に兇ゆる左中弁飛皇太后亮藤原朝臣琶同一人ご思はれ︑彼の牒文芒收めに寺門傅記柿鋒の註記によれば﹁藤原朝臣家宗也﹂さあ 猶ほ大師が園城寺さ關係を結哀に至った那怖について︑僅かな手がかりざなるものがある︒即ち北白川宮家に所赦される左の諜簡一通である︒今その全文を引川すれば︑︵前略︶咋聞左中弁從大原詑花路︑縛寛好地︑自滋災令黒主虎︑潜廻於京︑然川物興起子往年︑計非聖人︑至本懐乎︑逝俗無力奉遇満︑鰯朝廷猶胎患耳︑貞上人求移地︑適定故醤券上人室︑北艮坊蹄阿北小坊︑充暫褐虚︑如有疾可亦在廻師︑爲胆非常望小口耳︑禿凶法脈猫弱︑思之不止︑院下爲□□□口英護細誠蜜朋藥粥於法無妨︑日已□口能巾︑不宣︑謹白︑
日店交通と新羅榊の信仰二○
然則莫問諸院︑元妨本願︑談論官裁新垂右大臣宣︑奉赦依講若︑國宜承知︑依宣行之者︑寺蹴承知︑牒
到準状︑故牒
貞観八年五月十四日
正六位上行左大史庚階宿禰八鈎未
從凹位下行左中辨兼皇太后宮亮膝原朝臣
八月十一日
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山禿凹珍欣
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右の如くして大師が三井寺ご關係を結んだにしても︑新雑祗の建立については未だ何等の振るべきも
のを學げなかった︒こ上に叉寺門傳記袖錐に引剛せる貞槻十年三川十七日付の文書を参照する必要があ
る︒この文書の大意は貞観初年の寺領凹至が旗大に過ぎ↑Lる爲め︑土地の念手間為起る故に︑川至を狭
めて立券し國郡の判を諸ふざいふのである︒その凹至を記す内に北限新雑現在谷山越迩云盈の句があり︑
これが新羅祗の位澄である事は疑ひな︑からう︒ただ問題は石文書の現物が無く︑後枇の記録に收得され
てゐる故を以て︑吟味の要を感ずる所である︒
筆者は今外槻及内容に就いて︑茜だし言異例を兄ないゞごいふ兇界に止ってゐる︒果して右文書の内需
が確認さるれば︑少くさも新雑祗の存在が貞観十年迄は上される那さなる︒今左に批判に便する爲め原
文を引用しやう︒〆
三井寺請國郡判︑徐本叫至︑可近約堺川至事
・束限海神立南限南下路金塚南逢下路
︒つ︒Qっ西限界堺峯北限新雑現在谷山越迩並下賄
日唐交通と新羅脚の慌仰二一
ふに止ってゐる︒他貴重な餐料である︒ てゞゐる︒聖圭の虚に於ては︑勿迩一奔寺の候袖地たる事を沢し迄であらう︒只裁に至っても新雑明祁との關係については何等語られてゐない︒大師が.左中辨の誰力によって三井寺の別砕災トる位世を得たざいふに止ってゐる︒然しこの事寅のみを以てしても︑傅奇的な縁起類見られない事情を識示してゐる鮎で・PFL■PL
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日店交通と新羅脚の慌仰二二
右寺家所領地之凹至︑一兀是建立椛越大友與多之先組大友太政大臣執行天下之時︑此虚偏彼家之地堺︑
北︿川至雀庚博也︑今筋寺領之間︑此寺號定額寺︑誰帥嚇領執行寺務之程︑人意詔曲︑寺家公駒自悲取榔替
去任之隙︑不返納寺庫︑愛知此山輩︑愉請國判之陛︑不祭寺恢之山︑階被與判也︑価稲私領地︑或輩無券
文︑號阻財有祁諭然而遂依逝理和避之庭不逃避久進施入文.随則寺諸剛判︑今思惰新︑件本川至炭
之所致也︑捨本叫至︑近約堺凹以其外山野令爲人氏依服価鯛巾成官符︑遡別閲判︑亜請巾陛分︑
椛越擬大領大友村主夜須良肺呂
貞槻十年三月十七日︵以下連需閲郡押判名略す︶
三井寺の創建については︑龍花街縁起以下の書に︑天智天皇の御願で太政大臣大女王子︵後の弘丈天里︶
が︑己が宅地に勅を奉じて建てられにもので︑未だ完成を見ずして世をさられたの↓で其の子與多肺呂が︑
天武天皇即位の後︑勅許を得て造蒼を綾行して工を竣へ枢ものざ云ふ︒時に教待なる老价現はれ﹁此の
寺建立以後百八十餘年なり︒﹂琶云へば恰も天武天皇の末年にあにり年代は合致する︒大友王子の子肌︿多
肺呂芭云ふのは︑正史に見當らぬ人物である︒
前掲の太格官牒に依る亡三井寺は大友村主の氏寺ご恩はれるから︑その祀先を氏の名ざ同じ大友王子
に附命帆しにのではあるまいか︒蛮際は大友村主は新撰姓氏錘及び洞武紀︵承和四年十二月の條︶に依れ
ば︑後漢献帝の後さ云ひ締化人の子孫さ咽へてゐるのである︒事蛮洲邊に在住する歸化族は︑日本書紀
其の他に散見する所である︒大友村主は︑倭名抄にある滋焚郡大友郷に貧住を有する師化族の︑有力な
1
﹁祗司秦河勝之胤有二臣閏若一︑始任二常祗祁職︸︑自レ脈以來秦氏連綿相繼﹂
さあり︑この牡も同じく師化族である秦氏に依って奉祀されてゐた卵を知る︒
三井寺を三尾明抑さの關係を右の如く老ふれば︑宮地博士の新羅明祁の曲來に就いて推察せられる所
は︑三尾明刺に就いても云はれる事である︒既に述べに如く︑茄花稗縁起E今昔物語の雨祁に開する對
立的な物語の在在で︑未だ二つの説話が古い發生を持ったものでない事が證せられる︒次の時代に於け
る新羅明祁を主こし︑三尾明帥を従こする説話は︑現蛮に於ける剛祁の信仰の輕亜を反映するものでな
ければならぬ︒三尾︑新羅剛祁は三井の寺を中心に︑・南ざ北に分座する状態にあったが︑新羅の方は平
安末︑武家の信仰を得てゐに事睦既に例を源頼義に於て見て來仁︒新羅明祁の銀座に閥しては︑天職
日岻交迦と新羅利の碓仰一・二一
あった︒その鋲座の年代は︑あったらしい︒寺内博記に 氏であつに琶思はれる︒此の氏の氏寺さしての御井寺の創建年代は︑前述の傳読に示された頃に大差ない様である︒その證振に︑境内より發見される古瓦に白鳳様式のものが多い︒︵剛城寺之研究所收石川茂作氏三井寺發兄の古瓦に就いて﹂︶猫寺の古瓦によって老ふれば奈良︑平安初期のも山が見常らぬ事は︑創立以降寺運の衰微を物語る一つの材料ごなるであらう︒更に白鳳期の平瓦孵先願部に紋様を有するものがあり︑之は既述の如く新羅様式のもので︑寺院建築の・一部に異國風が認められる鮎は︑大友氏の蹄化族である事を對照して興味ある現象母﹂云はねばならぬ︒この寺の旗守祁の關係に立つものが三尾の明祁であった︒その鋲座の年代は︑﹁入その始を知るなし﹂琶云はれる程で︑もさノ︑長等山一帯の地主利で四h砕耐
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日肝交迦と新羅沖の備仰一三川
二年叙位の記録より以前何膣迄上るか︑既述文書一例の外我料を欠いで一?︒︒然し乍ら以上順次に眺め
て来た様に︑妓澄入府に際し新維祁である芥春祁に祇り︑回仁亦新維に縁り多い赤山祁を奉祀し泥︒回
珍も亦︑新羅祁さ何等かの關係を求むる事が川來ないであらうか︒呑春祁は妓澄渡航加誰を願ひ︑赤山
帥は航海中の難を救ひ︑後に求法逹成の蟻嶮祁さ老へられに︒新羅明祁に至っては︑回珍の佛法擁謹の
川ざして老へられてゐる︒其虎には時代の降下ご共に特殊的な加謹より︑一般的な佛法守謹抑さしての
新羅川の信仰發展の系列が眺められるであらう︒何れも入府航海に開して特に新羅川が現はれる理曲は︑
何陛に求められるであらうか︒此庭に稗じてその一つの源曲さ推察きれる日庶航迩に於ける新羅人の活
動を眺めてみやうさ思ふ︒
初期の日店交通に於て︑我が國人が牛島人の援助を得る事の紗くなかつに事は︑嘗ってさ比やかな老
察を試みた事がある︒︵史淵嬢士一藤拙稿﹁日帷関係靴孜﹂︶特にその航路が朝鮮半島に沿って北上する所謂北 方航路をさる場合に於て杵しかっに︒齊明朝以前の航路が殆んざ凡てこの航路に依った爲唱新羅人の
航海技術に狐って︑新羅の迭船により或は新羅船に便乘して師朝する制學生も少くなかつに︒後期の入
店航路が南方に移り︑肥前方面より支那海を横断し揚子江ロ以南に論岸する場合に於ても︑海難によっ
て新羅の海邊に漂蒲する虞があった爲に︑歴糞使を新羅に誰し漂蒲の有無を尋ね︑叉遥唐使船には新羅
四︑晩唐の日支交逼と新羅人
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諜語を乘船せしめる規定が延喜式に見える︒然しそれは単なる漂着の場合の用意のみではなかった︒支
那沿海に於ける新羅人の在住状態︑海上交通に於ける彼等の活動を見れば︑如何に我が國使一行が新羅
人の援助を得たか恩半ばに過ぎるであらう︒在唐新羅人の動靜に就いては︑側仁の入唐紀行に散見する
事は︑既に左の如き諸先學に依って指摘されてゐる所であるが猫洩れたるを柿ひ秤説しやう︒・
岡田正之氏﹁慈兇大師の入店紀行に就いて﹂︒︵束洋學柵姉士一悪所栽︶
今西龍氏﹃.慈兇大師入店求法巡腱行紀を誼みて﹂︵新雑史研究所收︶
先︒つ回仁の随行した遥唐使船第一舶には︑朴正長なる新維諜語が乘り︑第二舳には金正南なる君が︑
同じく新羅諜語一こして乘ってゐる︒他の船に就いては︑凹仁さ殆んざ交渉がなかったので記赦を峡いで
ゐる・第一伽の朴正長も︑金正南に書を送りし頭を記すのみであるが︑・何れも朴︑或は傘追姓を稲する
に依ってみれば新雑人たる事疑ひなからう︒而も彼等が鮠なる迩諜でなく︑唐國に於ける水路に明かに
在唐新羅人並びに唐人ざ接衝し︑一行の進止に少からざる便を典へた難が覗はれる︒大師ざ交渉の蚊も
深かつに金正南の活動が︑詳しく見え︑彼は上京する遥使の一行ご揚州に於て別れ︑彼等の肺幽の船を
新に求むる爲に楚州に至り︑丸隻の船を買怖しに︒この船は凡て新羅船ご呼ばれてゐるが︑金正甫の請
に依ってそれ等を修理する爲に都匠︑恭匠︑船工︑鍛工等三十六人が楚州に送られた︒そしてそれ等の
船には日本の水主等己共に︑海路を暗んする新羅の水主六十餘人が怖はれて分配された︒回仁が楚州よ
り密州に向ふ途中に︑天台に向はんさし從价二人ご共に朝貢船より降り山裏に隠れ︑故意に乘船を連上
目府交通と新羅抑の信仰二五
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日店交通と新羅抑の信仰二六
にのも︑この金正南ご共謀しての仕業であつ龍︒この時密州より楚州に向って炭を運んでゐる新羅船に
命ひ︑同船の新羅人十餘人は密州に便船無暮を語り︑その内の一人をして案内せしめ︑桁城村なる里の
新羅人の宅に入って︑糟らく休息した山を語2Lゐる︒凶仁等は新羅僻ご偏り止宿を乞ふたが村老王良
なる者に︑その煮詔が新維語に非す︑叉店語にも非ざる故︑n本朝貢船より逃れ來れる者ならんざ宏破
せられた︒王良も新羅語を解した新らしや楚︑.特剛州間に新羅人の來往があった事を示してゐる︒猫密
州より楚州に向って炭を運ぶ舟が絶へなかったらしく︑愈昌七年Ⅲ三川凹仁が蹄倒せんざして文談縣よ
り南下するに際しても︑密州の諦城縣界大朱山駮馬澗なる所で︑新羅人陳忠の蓮炭船に絹五匹の船賃で
便乘し︑楚州に到った事がある︒次に楚州より川船の後は︑凹仁の乗った船に新羅識語道玄の名が現は
れてゐる︒開成川年四川︑船は蚕州牟平縣店陽陶村より︑西南印村浦に向って走った時に︑什日早朝新
羅人小舟に乘って來り︑張喪商が新羅王子を按けて王位に印かしめに事を知らせた︒荒天にして溜る事
数凡・騎馬の人北岸に現はれにので道玄を上陸きせ迎へしめたが︑件の人は夜に入・り師り去り新羅人を
岸上に止め來泊の曲を聞かしめたので︑縣押術の店人であった事を知った︒Ⅲ川廿六日船は進んで乳山
西洲に着いた時︑新羅人川餘人が隅や噸に乗って來り︑押衙の官人來蒲せんざして︑先づ來り迎へたの
であった︒而も暫らくして押衙は新羅船に乘ってやって來だ︒こ上でも逝玄が遥遮きれて事曲を通じて
ゐる・・この港で先導の新羅人這云ひ︑︑押衙新羅船に縄す琶云ひ︑山東の諸港浦に多数新羅人の居住して
ゐに事質を示す賓料である︒押衙に新羅人が伴ってゐる例は︑この方面の渡航船が多く半島より来るも
!
一時傾蓋恩如レ醤︑趾敢惰論二白髪新一︑口撤知し雌拾レ玉早︑海賊迷レ路阻二玄津一︑詑宮入若雌二多客一︑
猫得二噸珠喪髻珍︑若遇ニロ根︽分付了︑台山有し室待□□﹂
鎭西老樺道玄ご記名がある︒これ或は彼の新羅諜語ではなかったであらうか︒柑時在唐の天台佃を知
己をせるもので︑その來歴を老ふるに︑太宰府に在刊してゐだ新羅の蹄化价ではなかったかさ思はれる・
時は仁師の入唐より十数年を隔て公ゐるが︑老樺さ冠する所以も首肯せられるであらう︒
以上朴正長︑金正南︑逝玄の三人を畢げたが︑猫新維諜語として巡耀紀行に現はれるものに︑劉愼言
なる新がある︒これは遥府使一行に随從する新でなく︑︒専ら楚州に在って趣糞我が使僻等の便立を計っ
てゐ仁若であった︒初の朝貢使の一行が︑楚州に到りし時より交渉があった琶思はれ︑楚州を發するに
倣って砂金二剛︑腰帯一を劉愼言に贈ったが︑彼よりは返概さして細茶十斤︑松肺等を蛾って來に︒︵開
成川年三川廿二n冊三︑の條︶恨言は楚州にあって入店諦倫の衣銭財物を菰かり︑彼等の肺剛に際して
乘船を與ふる等︑斡旋する所が極めて多かった︒・御昌二年五月に側仁の受けさった愼言の諜状に依れば
日庶交通と新羅脚の慌仰.二七
のであり︑新羅人を使傭するが蛾も便利である故琶思ばれる︒從って我が閏の船舶も︑.新羅語に通する讓語で大抵は間に念つだ︒逝玄は叉逝玄開梨琶も記され︑佃侶にして迩諜たりし薪であった︒園城寺に左の如き︑幽珍蹄朝の際の送別の詩が所減されてゐる︒謹呈二珍内供奉上人一︑從レ秦肺レ東送別詩
’ 1
鎭西老樺逝玄上
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11
日店交通と新羅抑の帳仰二八
悪運和尚の五台山を巡職し︑供料を木悩に求むる篤に師阿せんざする舟を周旋してゐる︒その文中に
﹁悪蓮和尚銭物衣服井弟子悉在楚州﹂
ごあり︑猫同文中に︑
﹁价玄濟將金廿Ⅲ小雨兼有人糞書状等付於附十二郎蹄店此物見在劉愼言宅﹂
をある︒回仁さ前後して入店した天台伶回戦の爲にも︑︑弟子術二人を川本に遜しに際に船ご人を典へ︑
禽昌三年九月に發せしめたさ云ふ︒︵脅凶一罪十二月の條︶この那蛮は我剛の記録にもみられ︑即ち新羅人
張公端等二十六人が︑長門剛に來論しに事が綾日本後紀にある︒側赦は弟子仁好等二人を︑衣締の妾を
諸ばんが爲に蹄間せしめたのであった︒こ上に新羅人の船主をして︑Ⅲ本俄徒を送らしめた事が明かで
ある︒回珍等の往復の書状もこ上より集配されたらしく︑回仁が唐都にありし時︑或は人に托して書を
送り︑或は從粁在發して各方面よりの書狄を取らしめてゐる︒會呂五年七凡︑凹仁長安より楚州に來り
これより肺閥せんざした際︑劉氏は極力奔走して志を遂げしめ糠ごしたが縣司許さず︑止むなく登州よ
り發すべく︑北上の途中新羅人に安迭すべきを所呪する書状を與ヘに︒登州にあって側仁は八劉氏に菰
けたる經諭︑什物を從新をして楚州まで取りに迷はしたが︑鼎脈美作正Ⅱ九日一月五日の條︶佛具の多く
は時の法難に遡って焼却されてゐに︒愼言は後楚州惣管官ご云はれる地位にあった︒側仁は彼を劉大使
さ呼んだ︒
抑も楚州は河に沼ひ︑大運河通濟渠によb北黄河に通じ長安に到るべく︑南も蓮河或は海に依って場
’
﹄
一町
子江岸の揚州抗州湾頭の明州に逹すべく我國の南北剛路よりする使船の寄港する所であった︒この要衝
に新雑坊ご稲するものあり︑新羅人の有力新が︑我が使价の往来に便宜を典へてゐた事怖が物語られて
bゐる︒楚州より北登州に到る新羅船の往復絶へす︑諾津に在刊する新雑人亦少くなかった事は︑既に之
を述べた︒楚州が南方明州方面重cも連絡のあった事は︑彼の悪諺が日本に蹄國せんざする時︑明州より
發しに李隣徳の船は劉愼言ご交渉を持ち︑叉同じく李隣徳の船が御R五年︵承和十三年︶u仁の弟子性
海を乘せて蹄り︑本閲の書信傅物を徹らし︑廻航して楚州にその便りを傅へ︑劉愼言は更に之を︑噛時
登州に居住する凹仁の所に報じに事を以ても解する事が川來やう︒楚州には新羅坊あり︑居刊民閣附鴎
の坊舍ども云ふぺ巷もので︑之に厩する船主あり︑王可昌の如きはそれで回仁の州より南下する際にこ
れを乘せて南北に往来してゐる︵御出七年五月十八日汁七日の作︶︒共の他︑徐州漣水縣にも新雑坊あり︑向
呂五年七川九日︑Ⅲ仁は牟倣縣の新雑坊に於て︑嘗て登州の赤山院に於て念つに槌蛾に御し︑種だの便
通を與へられた︒槌雅へ樅飛十二郎或は椎土師と地神けり︶はも.と浦海鋲兵馬使であり︑張喪商の部下で赤
山にめる大師求法して肺閏の際ば︑共に送らん︒己約しに程であったが︑彼は壷州より肺閲したるも張大
使の死後一蹴没落し︑逃れて連水に到り樋居してゐ仁のであった︒此庭に於て大師の鰯に︑力を鍋して
停住の事を誰力し仁が許されず︑稚氏は大師の爲に船笹怖ひ路根を訓へて去らしめた︒蓑州丈登縣の東
界には勾横新雑所があり︑又赤山には新羅院があった事・ほ先に一言述べて世いた︒斯くして海路の要津
に新雑の客舍あり︑叉官人あって我閏使の往来に便宜を典へてゐに事哲知る︒右のうち劉恨言は︑店の
日麻交迦と新羅洲の偏仰二九
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〔=
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・日庶交迦と新維抑の院仰言一○
官吏電こして活躍し泥新維人ご恩はれるが︑唐に入って官吏ざなり我大師ざ交渉を持つに新も少くない︒
故も著名なのは張喪商で︑彼の行動に就いても既に之を述べに︒大師は未だ一面識もなかったけれざも
剛を發する時筑前剛守より涜商に宛てに普偏を得て︑店幽の往来に便船を典へられんさしたが︑その警
信を失ひ登州赤山の張鰍に托して︑次の如き普儒逮附ってゐる︒
生年未祗奉︑久永商風︑伏琳欽仰︑仲非乙喧︑伏惟大使奪髄動止禽研︑即此凹仁遥蒙仁徳︑先任勒
仰︑回仁爲果奮惰︑流滞勝境︑微身多幸︑鼎遊大使本願之地︑感度之外難以嚥言︑側仁僻郷之時︑伏
蒙口前大守寄書一封︑韓献大使︑忽遇船沈浅海︑漂其読物︑所付書札︑随波沈落︑恨恨之怖︑雛間不
祇︑伏翼莫賜惟責︑祗奉末期︑価増馳締不情︑謹奉状起居︑不宣謹壯
開成五年二月十七N
日本岡求法价傳燈法師位凹仁状上
浦海鋲張大使塵r漢斗
張賓高は︑早くより筑前閏司さ交批を結んでゐたらしく︑綾日本後紀にも左の記事がある︒
﹁水和九年正月乙巳新羅人李少貞等冊人︑到浩筑紫大津︑大宰府遼使問來曲︑頭首少貞巾云︑張賓
高死︑共副將李昌珍等欲叛乱︑武珍州別縄閻丈興兵討平︑今已無虞︑但恐賊徒漏網︑忽到蛍邦︑擾飢
黎庶︑若有舟船到彼不執文符若︑並請切命所在︑推勘收捉︑叉去年廻易使李忠︑揚回等所賓獲物︑・乃
是部下官吏︑及故張喪商子弟所迩︑講速發遥︑価賓間丈上筑前岡牒状参來肴︵中略︺是︑︑筑前圃守
11
ー
丈室朝臣宮田麻呂︑取李忠等匝費雑物︑北︿詞一言窒尚存日︑矯貿唐剛貨物︑以純付附︑可報獲物︑共
數不紗︑正今蛮尚死︑無田得物蜜︑因取窒尚駈置物新︑縦境外之人︑爲愛土毛︑到来我境︑須欣彼惰
令得共所︑而奪廻易之使︑絶商震之椛︑府司不加勘發︑離令井兼︑非失而蛙客之餐︑深表征圭悲之制
価命府吏︑所取雑物︑細砕勘鋒︑且給且言粂又支給根食︑放肺本郷﹂
唐都長安に在って雌も大師の歸悩に識力しイ臭れにのは︑左祁漿軍事抑衙李元佐であつに︒一に左軍
中尉親事押衙銀青光職大夫稔校閏子祭消殿中監祭侍御史上柱固を呼ばれてゐる︒彼も一元糞新雑人で佛法
を敬信し道心篤さ官人であつに︒聯Ⅷ時幽都に帝の弧苔弾嘩に苦しみ蹄閏を求むろ縁により︑二年來蚊も
親交を重ね在京中の峡げにるを袖給し︑飲食衣布に至る迄枇識をなしに︒以上に依っても如何ばかり大
師の在店往来に︑新雑人の力が亜覗せらる︽べきかご肯かれるであらう︒猫記述に洩れた︑大師ざ交渉を
持2卜在店新維人の一三を補記すれば︑次の如きものが畢げられる︒
開成四年正Ⅱ新羅人王請なる若が大師に而調し龍︒彼は弘仁十年川羽に漂流し仁店人張兇濟兄弟の舟
に乘ってゐたのである︒張兄弗二人は發舳の時逃げて出羽に止つに↓己云ふ︒他は好風を僻て十五日で長
刊の國に着いた色云ふ經歴を持ってゐて︑剛る我悩語を解した︒こ云ふ︒金山昌六年二川什七日には新羅人
の王宗なる者が︑揚州より大師の弟子性海法師の答を謝して登州に來仁︒命皿昌七年川三川肺剛に苦しみ
丈登縣より再び南下する時は︑新雑人鄭容なる若の乎憧慨って海に浴ひ密州に向つに︒・命H郷五年九Ⅱ再
び登州に到った時は︑新雑還俗術李信悪なる薇か︑本圃研ぎ解するを以て︑犬師在坤畑中の一切を委ねて
日附交迦と新羅脚の胴仰言二
I
1
一L 以上に依って凹仁の巡職記に現はれてゐる在唐新羅人の動靜を︑大師︑この交渉を中心に救述して來
だ︒大師の入店より後れる事二十除年︑側珍の入店常時も︑恐らく新雑人︑この交渉が少くなかつにご恩
はれるが︑回仁の如く纏った紀行無く︑行歴抄なる断簡や断片的な交番記録が存する許りである︒けれ
ざも乏しき賓料の中にあっても︑大師の往来も矢張り新雑人の船に依って行はれに事を︑宏取する事が
出来るのである︒行雁抄及び延喜二年三蕃清行の撰になる智誰大師仲に依れば︑嘉昨四年五H廿川日入
店の志を以て回珍は太宰府に達しに︒此唯で使船なき矯城山川王院に止宿して船を待ったが︑その翌年
間八川に府剛商人欽良脈の交關船が來り︑更に翌年即ち仁寿三年七川十六日初めて乘船したさ云ふい出
發に先淀2L仁毒三年二剛十一日付及び七月一旧付の太宰府公瞼を得てゐる︒
日附交迦と新羅刺の倫仰三三
行はしめた︒彼は弘仁六年我が太宰府に至り居る事八年︑天長元年張味Ⅱ本悶に到りし時その廻船に作
はれて此虚に到ったものど云ふ︒赤山院にあって大師に五台山巡職の志を堅くせしめに新雑价聖林な.る
者は︑五台及長安に遊ぶ事什年でこの地に來6住したものであった︒共の他紀行には新雑价宗礎︑粥喫
玄測等の名が見えてゐる︒
﹁日本閏太宰府
二毛QLl望
延暦寺僻凹珍耐伽一
階身物經書衣鉢剃刀等 從者捌人
’
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一
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得凶珍壯云︑將準
︵以力︶公験へ口爲逓擴︑
將 遊
江州延暦寺術凹珍
爲巡瀧共大唐商客王超︑李延孝等入彼岡壯︑井從考随身經普衣物等︑術凹珍︑字逮塵獅州ゴー
芽
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Ⅷ 1 0
号 令
︐ 脾 6 0
●毎今UいI︐從者愉迦韮智獅型一沙彌閑靜僻州源諜語丁滿獅洲物忠宗ゴー經生的良麺Ⅱ伯阿古猟獅刑大
右凹珍爲巡職聖迩︑一 以爲態擁︑伏雅唯分︑
〃牒件壯如前︑談牒︑
仁壽三年七月言 日
右の公駒に依ってみれば庶脳の商人王超︑
日店交通と新雑祁の怖仰 仁壽参年武月拾壷日曠身物ゞ蝿蹄秘稲郷蒜確鋸﹄恋叩称畔︑珍爲巡慨聖迩︑訪問師友︑與件商人等向大府剛︑ 全吉弐Ⅲ 行西國︑
’
漉聖求法︑口附大店商人王超等廻郷之舳︑恐到虚所︑不詳來曲︑伏乞判附
。
JI1 佃回珍牒
︵北向川桝御所瓶︑大日木史料一流ノー所栽丈に依る︺
李延孝の船に便乗したさある︒これ等の船主の國について
b 一 一 一 一 一 一
恐到彼図︑所在鋲鋤︑不練行巾︑伏乞判付公瞼
’
大監藤原□口函韮砺辣幟荊 大典越﹁貞原﹂’
日店交通と新羅利の慌仰言一四
は︑智證大師略譜に次の如く考證してゐる︒
﹁怖月始遇二唐商欽良邸者︑蛮錐竝慈解與二今説︸同佃仁蚕二年入店奏狄日︑江州延暦寺術側珍︑
鰯一巡澱一共一大唐商容王超李延孝等入二彼剛一愁味鋤一未群︑商客姓名典し今異也︑案是欽良脈及王超李
延孝等雌︑﹂・
以上三人は何れも店の商客こ云ひ︑其の他多数の公馳記録に大店商客︑唐商人等をあり︑唐人らしく
見えるが︑黄は欽良脈及び王超は共に新羅人であり︑李延孝は渤海人であった︒先づ欽良叩に就ては入
唐巡愁行紀に左の記事がある︒
00○00.貢宵凹七壁︿凡︺九日得蘇州船上唐人江長新羅人金子白欽良味金珍竿菩一
此虚に於て唐人E新羅人が書き分たれ︑金珍はⅢ仁の肺國の船の船主であって新羅人たる事疑ひなく
鉄良暉も亦此庭に於ては︑明かに新羅人さして取扱はれてゐる︒この貿易商人は既に回仁に知遇を得て
ゐた事を知る︒次に王超及び季延孝の出自に就ては︑参考すべき喪料さして大中士一年閏二月︑入唐自
己の經歴を述べ台州の公職を諸ひし牒女が園城寺に礎ってゐる︒この牒欣は長文にしてこAに全文の引
用を避けるが︑一部必要の部分を引くざ︑
0.○○00○○﹁至︿仁芭三年七月六日随新羅商人王超等船過海︲一黒叩昌年中曾經沙汰院舎随例巳去回珍途遇越州商00000O人艦景全劉仕献勃海商主李延孝英晃等﹂
王超が新羅商人であり︑李延孝が渤海商主である事は右の文書で明かであらう︒︒
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智證大師略譜に︑一
﹁師肺朝上表云七月十六日始随新羅船發大唐﹂
さある丈を引きて﹁其山來レ老﹂ごあるが︑右の船主の新羅人にるを以てすれば︑その船の叉新羅船にり
し事は容易に解する事が出來る︒李延孝は再び大師の肺國を途りし船主であった︒猫彼は後同じく入唐
天台价凹載を途らんざしたが︑途中で漂淡し共に溺死してしまった︒
回珍師の在唐行歴は天台山より長安に到ってゐるが︑閲仁師の如き途上中の記事は雀だ簡略であるか
ら︑東支那沿岸に於ける新羅人の動靜は詳に知り得な児只店都長安に到った時日本留畢价側兇なる者
の世話に依って︑新雑俄坊に止宿する事が川來に黙は︑特記す・べき事柄である︒行雁抄には次の如くの
台を巡職し︑長安に來てゐ涯本側の術であった︒柑時凹兇は龍興寺に在り︑
院主さなってゐた︒此虚に凹珍の宿所を求めたのである︒●■︒▽
日庶交通と新羅利の慌仰
べてゐる0
﹁至二︵大中九年六月︶八日旦一︑雁し雛推し総入し城︑略到二赦虎一︑縦入二店中一﹁川口側兇祁和︑從二街西
瀧典寺一︑到二崇仁坊一︑祁二看郷人一︑喜漱難し説︑糊日師レ寺︑史三五H後︑多荊二飯食一來供養︑其後載
珍到二街西瀧興寺一︑相二宏雲居院主一︑此新羅和上︑心行浦直︑逆心堅刷︑七月一Ⅲ|︑寄二住右街崇化
坊瀧典寺︑淨土院新羅閏祁術雲居房一︑惣是回晃開梨熟力不し可レ読也︑﹂︑
凹兇は俗姓川口亡云ひ入店求法総目録塁没院丈稗大中士示飛月十五日Oに依れば︑開成五年入店し五
1口
I
その寺内雲居院は新羅術が
二二
コZ1
IIIIIⅡ咽凶■■ロ■6Ⅱ■
凸
=
日唐交通と新羅脚の信仰二一六
以上に依って︑回珍の入店時に於ける新雑人さの關係は経るのであるが︑彼等船主が新雑人︑或は渤
海人であり乍ら︑表面は唐人の如き記載ある鮎に就いては一應老察を要する︒大唐商容の柵は必ずしも
店人たる事を示すものではあるまい︒對店商客の意味に用ひられる場合もあり得る事である︒例へぱ明
かに唐人亡思はれる李英蝿︑陳大信等が彼の入府求法細目鋒に於て本剛商人さ呼ばれ︑或は渤海商主李
延孝が同様に本剛商人亡記されてゐる︵大日本史料節一鮒ノー所栽大中士一年四月一日付川城寺丈沸︺のも︑同
様な呼孵法で對日貿易家の意味である︒然し乍ら猫新雑人を明かに唐人電と誤認し︑或は誤記した例も無
いではない︒例冴畢ぐれぱ新羅人李少貞である︒彼は弘仁十一年に我が出羽の國に漂着し仁のてあった
が︑日本紀略には︑
﹁弘仁十一年四月戊戌唐人李少貞等二十人漂芳出羽國﹂
ごあり唐人ざなしてゐる︒この船は弘仁十二年出羽に漂着した船さ︑一年の逹ひはあるが同一のもの
ではないかさ恩はれる︒然らば同船には︑唐人張攝濟等も同乘してゐ仁筈である︒叉王誌なる新羅人も
同船し︵新雑人ご唐人が共に一船に乘ってゐに事を知る︒軍に船主一人の名を以って書ける愉時のH唐
間を往来した商船は︑假令船主が唐人であっても新雑人︑或は李延孝の如き渤海人も交ってゐに事が明
かである︒李少貞が新羅人である事は︑前に掲げた綾日本後記に︑
﹁承和九年正月乙已新羅人李少貞竿冊人到着筑紫大津﹂云盈
さ見えた記事で疑ひない所である︒彼等が唐人苣群せらる上に至った原因に就いては︑単に府人さの
’
混在に依って誤認した事もあら毒・つし︑又彼等の風俗なり教養が唐人の帳面を我國人に依って識別し得な
い程度であったらう事も老へられる︒然し猫︑新維人にして故意に唐人E孵した原因に就いては︑俄時
の新羅に對する我が図の苛酷な外交方針に依る所も︑多分にあるざ老へればならぬ︒新雑に對する我國
の態度は︑古︑より燦然たる所なく︑奈良時代では聖武朝より著しく新羅下代に於ては海賊的行爲に出
る牛島人の爲︑我が邊海に防衞策が試みられてゐる︒その例を梁ぐれぱ枚畢に暇がない・
一︑新羅海賊船二十餘斐對馬を戎ふ︵日本後紀弘仁三年一Ⅱ甲子︶
一︑壷岐島に弩師一員を世琶我商人の來往に術ふ︵獅衆三代桁永利五年︶・
一︑大宰太式藤原術上奏して胴今新羅人の入境を一切禁断せん蕪を諸ふ︵縦日本後浬水和九年へ月面だ
一︑大宰府及日本沿岸諾國の關兵に令して新羅賊兵Ⅲ隙を覗ふを以って弊を厳にす昌代礎錐八年Ⅲ月
十七日︑同年十一Ⅲ十七日︶
一︑肥前基雛郡の者等新維に渡り兵機を鐙る術を教へ對馬を罐取らんざして辮露はる昌代焚錐典楓八
・年七月十七日︶
一一一
、 、 、
叛楽三代桁︶
山陰諸國司に命じて寺祠を建立し新羅の冠賊を法伏せしむ呈代庇錐只楓九年五月#一
隠岐園に弩師芦貝を世曹新維の賊馨に術ふ︵知衆三代桁︺
新羅賊船二隻博多津に至り豊前年貢を掠し去る呈代跣錐典拠士年六月十五且.
日店交通と折雛柳の偏仰一二七
。11ノrに函
F
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日晒交通と新羅川の除仰言一八
以上の諸例の如く︑新維人の商人に於ても猫海添をなす腱あり︑我國は之に對して充分の弊戒を餘俵
なくせしめられた︒就中蚊も大きな事件は︑弘仁川年肥前近へ仙謀︶鵬に於て新羅人面十人が我幽人さ
和闘った事琶︑貞槻十一年博多の津に於て︑磯前脚より太宰府に運んで来た年貢綿綿を盗んだ事であっ
た︒後者は新雑船二隻であり︑三代疵鋒に依れば︑大勝︑新羅諸船の常に往来する我剛の西端仙嘉鮎に
商船を装って出没してゐに︒刷励に就いて左の如き記録がある︒
﹁大唐新維人來新︒本朝入店使等︒英レ不し經二歴此雌・府頭人民巾云︒去貞槻十一年︒新維人掠二奪貢
船紺細等一日︒︑其賊同経二件鴫一來︒︵中略︺叉去年或人災等叩云︒.歴人等必先到二件嶋一・多採二呑藥一・
以加一一貨物一︒不し令下二此Ⅲ人災一観収共物口上︒叉共海渡多二奇石︒或鍛錬得し銀︒或琢解似レ玉︒店人等
好取二共石一︒不し暁二土人一・﹂三代変錐貞糎十八年三月九日︶
以て柑時の我が邊腸に往來する外客の状態を覗ふ事が出来やう︒叉Mじく三代蛮鋒に依って.︑貞槻十
一年の海盗事件に關連して筑紫方面に肺寓してゐに新羅の交開新が虎分され︑糊時少なからぬ新羅人が
我が國の西海にあって︑海外武易ににづさはってゐる事が明示されてゐる︒
﹁勅二太宰府一・令乙下新雑人潤清宣堅等川人及元來居二止管内↓之荒上︒水陸雨道給二食鳩︸入京叩︒︵中略︶
潤清等久事二交關一・僑二寄此地一︒能候二物色二s一代変錐只柧士一年二月汁日︶
彼等のうちには傳僧︑巻才の如き新雑借も交ってゐ堤︵三代疵錐只籾十五年九月八日の條参照︶
我國に到る新雑の商船は︑︲筑紫に往来するもの鼓も多人彼等は新羅の公の貿易が容易に許されない
’
’
二
彼の日本後紀弘仁二年八月叩戌の峰に見える新羅人金巴兄等穀を蓮ぴし時︑海中賊に愈って筑紫に逃
れ來つた時は︑何れの剛の海賊であったか明かでないが︑冊封元継︵巻一○七帝王部來迩︶に依れば︑長慶
元年︵我が弘仁士娠︶三〃︑年來暦の海賊新羅人を掠爽する祈多巷を以って︑平臓軍節度朧平の奏に從
ひ一切之を禁断せんざした事変︑或は大和二年︵我天遥五年︶張喪商が清海鋲大使さなりし時︑新維王に
告げて唐人往凌我が逢此産掠して奴艸となすに依って︑浦海に鋲して賑掠せらるるを防がんざした事
等が︑それ等の覗怖を物語る史料ざして梁げられる︒
以上本頃に於ては︑仁珍叩師の渡府中に於て新雑人が如何ばかり航海其他について誰力したかを覗め
余て常時日店間にあって通商交易に從事しに新羅人の壯態を二三の史料によって指摘し仁のである︒ 注意すべき事象である︒ 情勢にあったので︑より利益の多い日唐の交易にまで從事するに至った︒新維人自らの船に依って筑紫より南支に往來する者もあり︑又唐船に乘り込んでゐる若もあった︒殊に北支那の沿海方面は︑山東半島を始め地理的に接近してゐに爲に︑唐土に寄住する新羅人が多数あった事を述べて來だ︒殊に半島の政治的素飢︑經濟の窮辿に依って支那及び我剛に流寄する民も多き在加へ仁︒奮店書新羅鱒には︑
﹁︵元和十一年︺是歳新羅飢共衆一百七十人求食於湘東﹂
.ごある︒加之唐末の弛政は海賊の發生を促し︑唐の海賊の爲に牛賜より拉致された者もあった事も︑
日店交通と新羅刺の偏仰
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