1950年代末に西ヨーロッパで発生した石炭危機は,広く経済・社会にイ ンパクトを与える出来事であった。ヨーロッパでは戦前より石炭が最も重要 なエネルギー資源であったが,とりわけ戦後の復興期には各国ともに国内炭 鉱の開発および近代化を喫緊の課題と見なし,急増する石炭需要に対応する ための増産体制が敷かれた。しかしながら世界的な石油利用の拡大の波は 50年代後半には西ヨーロッパにも押し寄せ,石炭需要を相対的に減少させ た。このため50年代中葉の好況が減退すると,石炭業の構造不況が一挙に 顕在化し,石炭生産国は莫大な在庫を抱えることになった。これが一般に石 炭危機(coal crisis)と称される現象である。その発現の過程,対処方法,社 会的影響については各国で差異が認められるが,フランスの場合,石炭業が 国有事業であったため,政府が大々的に介入することで問題の解決が図られ た点に特徴を持つ。具体的には1960年,産業相ジャヌネ(J.M.Jeanneney)
は石炭市場の需給均衡を眼目とする石炭減産計画,いわゆるジャヌネ・プラ ン(Plan Jeanneney)を発表した。これは戦後以降,常に石炭の増産が目 指されてきたフランスにおいて,エネルギー政策の抜本的な転換を意味する ものであった。
ヨーロッパにおける石炭危機については,すでに複数の先行研究によって 分析の対象となってきた。例えばペロン(R.Perron)はアメリカによる対
<研究ノート>
フランス石炭危機における ザール炭余剰問題
キーワード:石炭危機,ザール,エネルギー政策史,フランス
豆 原 啓 介
133
欧石炭輸出に着目し,アメリカ炭の存在がヨーロッパにおける石炭市場の供 給過剰に拍車をかけ,石炭危機を深刻化させた点を指摘している1)。また,
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を対象としたシュピーレンブルク&ポ ワドゥヴァン(D.Spierenburg et R.Poidevin)による研究は,石炭危機の 対応をめぐり加盟国の内部で亀裂が見られ,ECSCとして迅速かつ効果的な 対応が取られなかった点を明らかにしている2)。一方,小島による研究は,
石炭危機が最も深刻な形で発現したベルギーを対象として,その発現過程 と,ECSCの対応について分析している3)。なお,石炭危機を論じた先行研 究のうち,フランスを単独で分析対象とした研究としては,コヘル・マルブ フ(E.Kocher-Marboeuf)による著作が管見の限り唯一の論考である4)。コ ヘル・マルブフは,ジャヌネのキャリアを網羅的に検討する著作の中で,産 業相としてジャヌネ・プランを作成するに至った経緯とその内容について詳 細に分析している。コヘル・マルブフは,ジャヌネの近代経済学における素 養と,その実践への志向がジャヌネ・プランの作成へと結びついたと指摘す る。つまり,ジャヌネはフランスにおける石炭生産は利潤を考慮せずに行わ れていないと判断し,赤字生産の炭鉱を主な対象として減産計画を立案した と論ずる。一方,コヘル・マルブフがフランスにおける石炭危機の激化要因 として挙げるのが,ザール炭問題である。当時,フランスの保護国であった ザールのドイツ復帰に先立ち,56年10月にフランスと西独間で「ザール問 題解決に関する条約」(Traité sur le règlement de la question sarroise)[以 下,ザール条約と略記]が締結されたが,このときにザールで生産された石 炭の一定量がフランスへ向けて輸出される旨の条項が盛り込まれた。コヘ
1)Régine Perron,Le marché du charbon, un enjeu entre lʼEurope et les États-Unis de 1945 à 1985, Publication de la Sorbonne, Paris, 1996.
2)Dirk Spierenburg et Raymond Poidevin, Histoire de la Haute autorité de la communauté européenne du charbon et de lʼacier, Bruylant, Bruxelles, 1993.
3)小島健『欧州建設とベルギー─統合の社会経済史的研究』,日本経済評論社,
2007年.
4)Eric Kocher-Marboeuf, Le Patricien et le Général : Jean-Marcel Jeanneney et Charles de Gaulle 19581969, Comité pour lʼhistoire économique et financière de la France, Paris, 2003.
134 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
ル・マルブフは,この規定に基づいて実施されたザール炭輸入が,国内炭の 過剰生産とともに石炭危機の深刻化の要因となったものの,ジャヌネが条文 の隙を突いてザール炭輸入の停止に成功したと述べている5)。しかしながら コヘル・マルブフは,そもそもなぜザール条約にフランスのザール炭輸入を 定めた規定が盛り込まれたのかというザール炭問題の根本的な原因について 明らかにしていない。また,ザール炭問題の記述に際して史料上の根拠を明 示していないという手続き上の問題も指摘でき,実証性という点でも疑問が 残されている。
本稿では,石炭危機の深刻化の要因としてはフランス特有のものと言える ザール炭問題がなぜ発生し,収束のために政府がいかなる手段を取ったかに ついて検討を試みる。Ⅰでは,ザール条約において,ザールからフランスへ の石炭輸出規定が盛り込まれた経緯について明らかにする。IIでは石炭危機 に際して,ザール炭問題が発現した背景について分析する。IIIでは,ジャ ヌネおよびフランス政府が,いかにザール炭問題を解決しようと試みたかに ついて把握する。使用する主な史料は,フランス外交文書館(Centre des archives diplomatiques)および労働界国立文書館(Archives nationales du
monde du travail)所蔵の史料である。
Ⅰ ザール条約の締結とザール炭輸出条項
ザール帰属問題の歴史は長く,かつ複雑である。近世からすでにザールの 帰属は独仏間で揺れ動いていたが,近代以降の大まかな流れは以下の通りで ある。すなわち,フランス革命時にフランスに占領されたものの,ナポレオ ンの敗北を受けてドイツの領地となり,第一次世界大戦後には国際連盟委任 統治領として国際管理下に置かれた。35年に実施された住民投票の結果を 受けてドイツに再編入されたものの,第二次大戦後にはフランスの保護国と なった。そして55年に再度実施された住民投票の結果,57年にドイツに復 帰し現在に至っている。
5)Ibid., pp. 122123, 129.
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 135
第二次大戦後,フランスはザールの自国への併合を望んだものの他の連合 国から受け入れられず,実現しなかった。しかしながらフランスは占領下に あるザールを47年にはフランスフラン圏に包摂し,更にドイツからの政治 的独立とフランスとの経済的統合,フランスによる外交権と防衛権の行使を 明記した憲法を制定させて民政移管を実施するなど,ザールを実質的に保護 国化した6)。この際にフランスが重視したのはザールにおける石炭権益の確 保である。そもそもザールが歴史を通して独仏の争いの火種となった原因と して,ザールの石炭資源が存在することは周知であるが,特にフランスの場 合,戦間期より石炭需要を自国生産では充足できず大量の輸入を実施してい たため,石炭の確保は一層切実な問題であった。46年5月,フランスは石 炭業を国有化しフランス石炭公社(Charbonnages de France[CDF])を 設立し増産を目指したものの,なお国内需要に応えることができなかった7)。 その上,戦前には伝統的な石炭輸出国であった英独ともに大戦終結後は石炭
6)Jean-Paul Cahn, ≪Il y a soixante ans... La Sarre (re)devenait allemande≫, in Allemagne dʼaujourdʼhui , n˚219, janvier 2017, p. 39;宮崎繁樹,「ザールラント憲 法概説」,『法律論叢』,34(6),1961年3月,57頁。
7)なお,石炭業国有化に先立って,46年4月に電力業およびガス業が国有化され,
ドイツ (うち
ザール)オランダベルギー
ルクセンブルクイギリス アメリカ ポーランド ソ連 その他 総計
(参考)
1938
6851 1583 1945 4699 6477 − 1576 93 459 22100 1946 3503 1407 86 559 723 5157 567 − 38 10633 1947 3096 1182 152 801 5 11915 510 − 131 16610 1948 7047 2376 205 786 719 8950 1848 − 136 19691 1949 11640 3748 236 922 1518 4581 1985 − 155 21057 1950 10470 4899 335 949 1248 48 670 29 20 13769 1951 11194 5175 444 675 593 4491 967 190 203 18757 1952 11102 4591 513 1397 1125 3142 753 199 206 18587 1953 10787 4360 527 2038 448 289 480 250 139 15013 1954 10705 4625 935 2052 994 55 514 404 248 15927 1955 10864 4217 1070 1871 951 802 438 550 162 16710 1956 11151 4377 1065 1807 781 6053 1206 611 155 22841 1957 11619 4165 1162 2402 838 6905 1281 605 170 25061表1 フランスにおける石炭輸入の推移(194657) 単位)1,000トン
(出典)CDF,Statistiques annuelles,1963,pp.2627.
136 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
輸出を著しく削減させ,しかもルール炭田は国際統制下に置かれた(表1参 照)。このため,フランスにおける石炭不足は激化し,戦時に敷かれた石炭 流通統制は維持された8)。このような事情を背景として,フランスは国際統 制下に置かれていたザール炭をフランス単独で管理することを英米に対して 要求し,48年1月および2月に同意の獲得に成功した。こうして,49年4 月以降,ザール炭鉱はフランスのみによって管理されることとなった9)。 ザール炭鉱における生産は質量ともにルール炭鉱に劣り,とりわけフランス が望んだ鉄鋼生産に適合的な石炭は多く産出しなかった。しかしながら,フ ランスフラン圏に包摂されていたザールからの石炭輸入は外貨流出をもたら さず,加えて自国の裁量に基づき流通を管理できるという意味で,ザール炭 はフランスにとって貴重なエネルギー資源であった。
一方,49年とはドイツ連邦共和国(西ドイツ)政府が樹立された年でも あったが,西ドイツ政府にとってザールの現状は容認し難いものであった。
初代西ドイツ首相アデナウアー(K.Adenauer)は52年3月に開催された 仏外相シューマン(R.Schuman)とのパリ会談で,膠着状態にあるザール 問題の解決のため,ザールの「ヨーロッパ的方式(formule européenne)」
での解決を提案した。これはザールをヨーロッパ地域の国際機構の管理下で 独立させるという計画であり,ザールのドイツ復帰を望まない,フランスの 意思を汲んだ妥協案であった。この提案はフランス政府にも受け入れられ,
54年10月にはザールの西欧同盟(Western European Union)管理下での 独立を盛り込んだパリ協定が独仏間で締結された10)。しかしながらその可否 フランス電力公社(Électricité de France[EDF])とフランスガス公社(Gaz de France[GDF])が誕生している。
8)Perron,Le marché du charbon,.., p. 62.
9)Jacques Freymond, Le Conflit Sarrois 19451955, Editions de lʼInstitut de Sociologie Solvay, Bruxelles, 1959, pp. 7273.
10)Sylvie Lefèvre, Les relations économiques franco-allemandes de 1945 à 1955 : De lʼoccupation à la coopération, Comité pour lʼhistoire économique et financière de la France, Paris, 1998, pp. 300301 ; Cahn, « Il y a soixante ans..., p. 45. 西欧 同盟とは,1954年10月に調印されたパリ条約によってフランス,イタリア,西 ドイツ,ベルギー,オランダ,ルクセンブルクを加盟国として設立された集団安 全保障機構である。
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 137
を問う住民投票において,ザール住民の大半は西欧同盟管理下での独立への 反対票を投じた。このため,フランスはザールのドイツ復帰を認めざるを得 ず11),55年12月に独仏両国はザールのドイツ復帰に伴い発生する諸問題の 解決のための外交交渉の開始が同意される運びとなった12)。
ザールのドイツ復帰に伴う独仏間での交渉事項は多岐にわたったが,とり わけフランス政府が執着を見せたのが,ザール地方における石炭権益の維持 である。その問題とは要約すれば,①ザール炭鉱経営へのフランス参画をめ ぐる問題 ②ヴァルント地区(Wardnt)における炭鉱採掘権に関する問題,
の二点に分けられる。まず前者に言及すると,当時,ザール炭鉱の経営は仏 政府とザール政府の共同出資により設立されたザールベルクヴェルケ
(Saarbergwerke)によって担われていた。56年3月のボン会談において外 相ピノー(C.Pineau)はザールのドイツ復帰後も引き続きフランスが炭鉱 経営に参画することを要求したものの,西ドイツ側はドイツのみによりザー ル炭鉱は担われるべきであると主張し,対立した。そこで西ドイツはフラン スに対案としてフランスが撤退した場合の補償として,ザール炭の長期輸出 契約の締結を提示したところ,フランスは5月16日にパリ会談にて同意し た13)。具体的には,ザールで生産された石炭のうち販売に充てられる石炭ト ン数の33% が30年間,毎年ザールからフランスに輸出されることが取り決
11)住民投票の結果は法的な拘束力は持たなかったにもかかわらずフランスが従来の ザール政策を放棄したのはザール住民の意思を無視した政策を続けた場合,フラ ンスの友好国を敵に回しかねないとの配慮が働いたためである。Centre des Archives Diplomatique à la Courneuve(以下CADと略記),Série du Cabinet du Ministre Pineau 19561958, Volume 16, Note sur la Sarre, Commission des affaires étrangères, le 16 février 1955.
12)CAD, Série du Cabinet du Ministre Pineau 19561958, Volume 16, Note sur la Sarre, Direction générale politique au Ministère des Affaires étrangères, le 28 janvier 1956.
13)CAD, Série du Cabinet du Ministre Pineau 19561958, Volume 16, Compte- Rendu des conversation franco-allemandes du 3 mars 1956 ; CAD, Série de lʼEurope 19441960, Sous-série 19561960, Volume 446, Télégramme départ du Ministère des affaires étrangères, Christian de Margerie, le 17 mai 1956. 本会談 にてザールのドイツ復帰が57年1月1日に決定された。
138 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
められた14)。
しかし,なぜフランス政府はこのようにザール炭鉱経営におけるフランス の参画に強い執着を見せたのだろうか。勿論,先述したように,フランスは 戦間期から石炭需要を充足させるため常に大量の石炭輸入を実施していた点 には着目する必要があるだろう。復興期にフランスは石炭増産を実現し,石 炭流通統制は50年春には解除されたもののなお石炭は不足し,輸入を継続 していた。特に独仏間で外交交渉が行われた56年とは好況を背景として ヨーロッパ規模で石炭市場が大幅に逼迫し,その安定的な確保が課題とされ た時期でもあった。フランスは当時において唯一,石炭生産に余力のあった アメリカからの石炭輸入を急増させた(表1参照)。しかしながら通貨交換 性がいまだ回復されず,かつ貿易赤字が解決すべき問題と見なされていた時 期にあって,外貨の流出をもたらす輸入の増加は本来的に抑制すべき事態と して認識されていた15)。他方,当時のアメリカ炭は船賃も含めると高額であ り,アメリカ炭の輸入は貴重なドルの流出要因となった。こうした事情の 下,ザール炭鉱経営に参画することで,炭鉱の経営を自国の利害に沿う形で 行い,そしてザール炭の安定的確保を目指したフランス政府の意図は指摘で きるだろう16)。
他方,1953年に開設された石炭共同市場(marché commun du charbon)
が石炭をめぐる状況を一変させた点も見落とすことはできない。51年に締 結されたパリ条約に基づきフランス,イタリア,西ドイツ,オランダ,ベル ギー,ルクセンブルクを加盟国としてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)
14)Ibid. 33% とは当時ザールベルクヴェルケのザール州政府石炭販売総量の3割強 が対フランス向け輸出であったことから決定された。
15)Commissariat général du plan, Rapport général de la Commission de lʼÉnergie, Imprimerie nationale, Paris, 1953, pp. 56.
16)ザールはドイツ返還に伴いフラン圏からマルク圏への復帰が確定していた。一 方,仏・西独を含む西欧諸国は交換性が回復しない状況下での域内貿易円滑化を 目的として,50年にヨーロッパ決済同盟(EPU)を設立し,一定の成功を収め ていた。なお,フランスでは1958年末に通貨交換性が回復された。須藤功「戦 後アメリカの対外通貨金融政策と欧州決済同盟の創設」,廣田功・森建資編『戦後再 建期のヨーロッパ経済復興から統合へ』日本経済評論社,1998年,313353頁.
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 139
が設立された。石炭および鉄鋼の共同市場が開設され,域内自由貿易が実現 される運びとなった。
パリ条約は,石炭・鉄鋼の「自由な循環」(libre circulation)を理念とし,
関税や数量制限,また生産者が特定の買い手を優遇的に取り扱うような差別 的措置・慣行,生産の割当などの行為を禁止した(第4条)。同時に,共同 体の諸機関は,「比肩しうる状況に置かれた,共同市場のあらゆる消費者に 対し,生産の源(ここでは石炭・鉄鋼を指す─筆者注)への平等なアクセス を保障する」(assurer à tous les utilisateurs du marché commun placés dans des conditions comparables un égal accès aux sources de production)
義務を負うと規定していた(第3条)。つまり仮にザール炭鉱の運営からフ ランスが撤退しようとも,ザール炭へのアクセスにおける平等性は理念上は 保証されていたはずである。にもかかわらず,フランス政府がザール炭鉱経 営にフランスの参画を求め,そしてザールからの恒常的な石炭輸入を法的に 保証することで交渉が決着を見たという事実は,パリ条約の理念とは裏腹 に,生産者は,特にそれが公企業の場合,資源を自国に有利に分配するとい う,ナショナルな意識から加盟国の政府自身が脱却できていない段階にある ことを示唆するように思われる。
ところで,ザール炭をめぐる独仏交渉においてフランスが要求したのは,
ザール炭鉱経営への参画のみではなかった。フランス国境に近接したヴァル ント(Wardnt)地区はザールに存在しながらも地形上の都合から採炭は戦前 よりフランス領域内に設置された坑口から行われており,戦後はフランス石 炭公社の傘下にあるロレーヌ炭鉱公社(Houillères du bassin de Lorraine)
によって採炭が行われていた。ヴァルント地区の石炭生産は年間約350万ト ンとロレーヌ炭鉱公社の総生産量の3割弱を占めていた。その喪失は痛手と 捉えられたため,フランス政府はザールのドイツ復帰後も引き続きロレーヌ 炭鉱公社が採炭できる権利を求めた17)。特にヴァルント地区の中でも豊富な
17)CAD, Série du Cabinet du Ministre Pineau 19561958, Volume 16, Compte- Rendu des conversations franco-allemandes du 3 mars. 1956. CAD, Série du
140 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
石炭埋蔵量を有したヴィルマン(Vuillemin)区域での採掘継続を望むフラ ンスと,早期の返還を求める西ドイツで大きな対立が見られ,膠着状態が続 いた18)。最終的には6月5日にルクセンブルクで開催された独仏首脳会談の 結果,ヴァルント炭鉱問題に関して以下の合意に達した。第一に,ザールの ドイツ復帰から25年間,フランスはヴァルント炭鉱において総計6,600万 トンを上限として石炭を採掘できる。ただしヴィルマン区域の操業は西ドイ ツの希望通り61年末日をもって操業が停止されるが,その補償として西ド イツはフランスに対して62年以降81年まで年間120万トンのザール炭を輸 出する19)。なおこのトン数はフランスがヴィルマン区域においては最低年間 120万トンの石炭生産を見込んでいたことから設定された20)。
56年10月27日に調印されたザール条約においてはザールにおける石炭 生産の33% をフランスに輸出する条項(83条1項),62年から81年まで,
年間120万トンのザール炭がフランスに輸出される条項(81条1項)が盛 り込まれ,ここにおいてザール炭をめぐる問題は決着をみた(本稿では以 降,前者を33% 条項,後者を120万トン条項と呼ぶ)。またフランス政府 は,57年12月31日付のデクレにより,ザール条約に基づき輸入された ザール炭販売機関としてコヴサール(COVESAR[Comptoir de ventes du charbon sarrois])を設置した21)。なお,当時のフランスでは石炭輸入は石 炭輸入技術連合(Association technique des importations de charbon)の
Cabinet du Ministre Pineau 19561958, Volume 16, Note sur la négociation franco-allemande déstinée à Pineau, Paul Ramadier, le 2 mars 1956.
18)Jean-Paul Cahn, Le second retour : le rattachement de la Sarre à lʼAllemagne, Peter Lang, Genève, 1985, p. 219. ; ≪Les négociations franco-allemandes sur la Sarre et la canalisation de la Moselle≫,Agence économique et financière, le 18 mai 1956.
19)≪Accord Guy Mollet-Adenauer sur le problème sarrois≫, Le Monde, le 6 juin 1956. Archives nationales du monde du travail(以下ANMTと略記), 2002/056 /4250, Note sur le Warndt, le 28 mai 1956.
20)Ibid. 先述したようにザール炭鉱における生産のうち販売向けの石炭の33% がフ ランスに輸出される旨が規定されたが,ヴァルント炭鉱での石炭生産はこの算定 の対象外となることが,ザール条約に明記された(83条1項)。
21)Journal Officiel de la République française, lois et décrets, le 1
er
janvier 1958, p. 113.フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 141
独占業務であったことから,ザール炭の輸入は石炭輸入技術連合がコヴサー ルの委託を受けて行うというスキームが採用された。
ザール炭鉱の採掘権益をめぐる問題の解決方法に関して特徴的なのは,基 本的にフランスのザール炭鉱における経営権・採掘権の放棄と西ドイツによ るザール炭輸出という現物補償を基本方針とした点である。これは独仏双方 の歩み寄りの結果と評することができるが,この解決策は石炭市場が逼迫し ていた当時のフランスにとってザール炭の確保という大きな意味を持ってい たものの,石炭危機の発現後には深刻な問題をもたらしたのである。
Ⅱ 石炭危機の発現とザール炭余剰問題の発生
57年1月1日,ザールはドイツに復帰した。そして一年後の58年1月に,
フランスはザール条約に則りザール炭輸入を開始した22)。ところが,58年と は石炭市場がヨーロッパレベルで緩和を見た年でもあった。石油の使用拡大 は50年代前半にはすでに進展していたが,50年代中葉の好況終了は石炭業 の構造不況を莫大な石炭在庫として一挙に顕在化させ,「石炭危機」として 認識された。フランスでは60年に産業大臣ジャヌネが石炭減産計画(ジャ ヌネ・プラン)を発表して石炭生産の抑制政策を打ち出した。ジャヌネ・プ ランは50年代末には5,800万トン台で推移していたフランス石炭公社の年 間石炭生産を65年には5,300万トンへと削減することを目標としたが,こ れは戦後以降フランス政府によって採られてきた石炭増産政策の根本的転換 を意味した23)。このようにコヴサール設立後の石炭市況はザール返還をめぐ る独仏交渉が行われた56年とは完全に逆転していたが,この事実はフラン
22)ザール条約は,ザール炭の対フランス輸出は最も遅くて58年1月1日より実施 すると規定していた(83条)。なお33% 条項に基づくザール炭輸出がずれ込ん だ理由としては,ザール炭販売機関の設立の検討に時間を要し,コヴサールの設 置が遅れたことが挙げられる。Archives Nationales du Monde du Travail(以 下ANMTと略記), 2002/056/4362, Lettre désitinée à A. Compte écrite par J.
Picard, A. Verret, et O. Lecarpentier, le 18 juillet 1957 ; ANMT, 2002/056/4362, Vente des charbons sarrois en France, Charbonnages de France, le 18 novembre 1957.
23)Kocher-Marbeouf,Le patricien et le Général ..., pp. 126127.
142 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
スにおけるザール炭輸入の意味を大きく変質させるものであった。56年に はヨーロッパの石炭市場は著しく逼迫しており,石炭条項の実施がザール炭 の飽和を招く事態をフランスは想定していなかった。しかしながら石炭需要 の低下のためコヴサールは発足以降,恒常的に在庫を抱え,60年末におけ る在庫残高は300万トン近くにも上った。これは58年以降33% 条項に則り 輸入されたザール炭の22% に相当した24)。なお同時点で,フランスで石炭 事業を独占していたフランス石炭公社の販売向け石炭在庫残高が620万トン 程度であることを踏まえれば,ザール炭在庫が決して看過できない水準に あったことが理解できるだろう(表2参照)。
58年以降,フランスでザール炭購入を著しく減少させたのはフランス国 鉄(SNCF),およびフランス電力公社(EDF)の二社である(図1参照)。
フランス国鉄およびフランス電力公社の発注減少は,長期石炭取引契約の解 除が主たる要因であった。ザール炭鉱はドイツに返還される以前より,フラ ンス国鉄およびフランス電力公社と複数年にわたる長期石炭購入契約を締結 した上で石炭取引を実施していた。しかしながら,ザールのドイツ復帰時に ザール州政府が設立し,ザール炭鉱経営を担っていたザールベルクヴェルケ A.G.(Saarbergwerke A.G.)は,いまだ石炭需要が堅調さを示していた 57年に「多様なセクターからの石炭需要に柔軟に対応したい」として,フ ランス国鉄およびフランス電力公社との長期石炭購入契約の更新を中止し た25)。しかも58年以降,石炭市場が緩和するとフランス国鉄およびフラン ス電力公社は石炭需要をすべて国内炭で賄うことができたため,ザール炭を 始めとする外国炭の輸入を停止した26)。このため,両社からコヴサールへの 発注は59年以降,途絶えていた。他方で鉄鋼業,一般産業,家庭部門は ザール炭の発注水準を維持し,特に鉄鋼業は原料炭を中心にザール炭を大量 24)CDF, Rapport de Gestion : Année 1958, p. 27 : CDF, Rapport de Gestion :
Année 1959, p. 31 ; CDF, Rapport de Gestion : Année 1960, p. 31.
25)ANMT, 2002/056/4251, Note sur lʼécoulement des charbons sarrois, le 16 juin 1961.
26)CDF, Annuelles statistiques, 1963, p. 28 ; ANMT, 2002/056/4251, Note sur lʼécoulement des charbons sarrois, le 16 juin 1961.
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 143
に購入して安定的な販路を成していたが,上述の二社による発注低下を補う には至らなかった27)。膨れ上がる在庫を前にしてコヴサールはザール炭鉱の 減産を望み,61年春には減産を求めてザールベルクヴェルケA.G.に対して 交渉開始を提案したが拒否された28)。
ザール条約締結時には予期されなかった販売不振と在庫膨張はコヴサール に莫大な負債を生じさせた。ザール条約では,33% 条項に基づくザール炭 受領をフランスが拒否する権利を明記しなかった。このため,フランスは国 内石炭市場の飽和にも拘らずザール炭を発注し続けなくてはならなかった。
先にも述べたようにザール条約に基づく石炭輸入の実施はコヴサールが石炭
27)ANMT, 2002/056/4287, Rapport de Gestion : Année 1960, COVESAR, juin 1961, p. 6.
28)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 28
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Charbons Sarrois, COVESAR, le 20 mars 1961.フランス石炭公社 石炭生産高
33% 条項に基づく ザール炭輸入
フランス石炭公社石炭在庫 コヴサール石炭 商品用石炭 非商品用石炭(*1) 在庫
1957 57919 − 1332 3528 −
1958 58897 4685 3257 4590 662
1959 58723 4415 5500 5971 1993
1960 57025 4267 6228 7534 2962
1961 57463 4048 5000 7270 3993
1962 53721 3936 2971 6212 4447
1963 49243 3895 1624 5062 1473
1964 54593 3661 2167 4106 1129
1965 52988 3568 3021 4792 1125
1966 51895 3547 5419 5562 1525
1967 49298 3121 6244 5844 1620
1968 43536 2871 4808 5920 1217
1969 42189 2746 3363 4761 446
表2 フランス石炭公社の石炭生産高,33% 条項に基づくザール炭輸入,フランス石炭 公社およびコヴサールの石炭在庫(年末時点)の推移(195769) 単位)1,000トン
(*1)非商品用石炭とは,採掘された石炭を精製する工程で発生する低品質石炭を指す。
基本的に市場には出回らず,炭鉱内に敷設された自家発電所で利用された。
(出典)ANMT,2002/056/4287,Rapport de Gestion:Année 19601969,COVESAR.
CDF,Rapport de Gestion,19581969.
144 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
単位)
10
,000
トン 出典)ANMT,20 02 /0 56 /4 28 7
,RapportdeGestion:Année19 60
196 9
,COVESAR.図
1
コヴサールの販路別販売トン数の推移(19 58
69
)フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 145
輸入技術連合に委託する形式が採られた。そして石炭輸入技術連合からザー ルベルクヴェルケA.G.に対して支払われた代金はコヴサールに対して請求 され,コヴサールはザール炭販売によって得られた現金によって支払う計画 であった。しかしながら実際には販路の縮小から売れ残りが発生したため に,在庫に回された石炭の支払いに関しては現金不足から約束手形が振出さ れ,その累積残高は60年末には2.5億フランに達した29)。61年度中にコヴ サールは石炭輸入技術連合に対する債務を複数回にわたる銀行からの借入に よって完済したが,この借入の返済期日は二年後に設定されていたためコヴ サールが多額の債務を抱える事態に変わりはなかった30)。この問題への対処 に迫られた政府は61年12月に開催された国会で特別会計にコヴサールの貸 出勘定を開設する法案を成立させ,在庫に起因するコヴサールの支払債務に 対して国庫から融資することが可能となった31)。また62年冬に財務省はコ ヴサールの在庫に伴う債務は国庫が負担することを原則として認め,銀行債 務は63年度中にはすべて国庫からの貸付により借り換えられた32)。国庫に よる貸付には返済期日が設けられていたものの,実際には問題なく更新され たために事実上無期限の融資であった。こうして33% 条項に端を発するコ ヴサールの債務は,国家によって負担されることになったのである。
Ⅲ ザール炭余剰問題の帰結
60年代に入ると,フランス政府はザール炭剰余問題の抜本的解決に向け て本格的な取り組みを開始した。産業相ジャヌネにとって懸案事項であった 29)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 28
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Charbons Sarrois, COVESAR, le 20 mars 1961.30)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 38
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Charbons Sarrois, COVESAR, le 12 janvier 1962.31)Journal Officiel de la République française, lois et décrets, le 21 décembre 1961, p. 11700.
32)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 53
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Charbons Sarrois, COVESAR, le 12 juillet 1963.146 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
のが,ザール条約に規定された120万トン条項に基づく輸入である。ザール 条約締結時にヴィルマン区域における採掘権の放棄に対する補償措置として ザール条約に盛り込まれた120万トンのザール炭輸入は62年度から開始さ れると明記されていたが,ジャヌネはこれを回避するための外交交渉に着手 した。フランス政府は120万トン条項で定める輸入を実施する意思はないと の西ドイツ政府に伝達し33),交渉の結果,120万トン条項の施行の有無はフ ランスの意志に委ねられているとの回答を西ドイツから引き出すことに成功 した34)。こうして120万トン条項は実質的に廃止された。
また同時期にはザール炭の販路を確保するための政府介入も行われた。61 年3月,独占国有企業であるフランス電力公社の堅調な石炭需要に着目した コヴサールは,フランス石炭公社に対し電力公社からの石炭発注の一部を自 社に割り当てるよう要請した35)。コヴサールがこのような要請を行った背景 としては当時のフランスにおいては電力業が唯一多様な石炭を消費し,かつ 安定した需要を示すセクターであった事実を指摘できる36)。フランスでは戦 間期から戦後復興期の間に建設された火力発電所の大半は石炭専焼型であ り,石油・天然ガスの使用が徐々に普及し始めた50年代においてなお石炭 専焼型火力発電所は新規に建設され続けていた37)。このため火力発電におけ る発電効率の改善にもかかわらず,フランス電力公社の石炭消費はなお増加 33)Journal Officiel de la République française, débats parlementaires de lʼassemblée
nationale, le 29 octobre 1961, p. 3349.
34)西ドイツ政府は交渉が決裂した場合,フランスは33% 条項に基づくザール炭輸 入すら拒否するのではないかと恐れ,120万トン条項の実質的廃止に合意した。
CAD, 23 QO/4, Note sur le charbon sarrois, Direction économique du Ministère des Affaires étrangères, le 23 septembre 1960.
35)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 29
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Charbons Sarrois, COVESAR, le 11 mars 1961.36)鉄鋼業における石炭需要も安定していたが,求められる石炭種は基本的にコーク ス炭に限られていた。一方,電力業と同様に国有部門であった鉄道業において は,ディーゼル車の導入により石炭需要は不可逆的に低下しており,フランス電 力公社への発注も51年には503万トンであったのが,61年には292万トンまで 減少していた。CDF,Statistiques annuelles, pp. 2425, 1963.
37)ANMT, 2002/056/4706, Projet dʼapprovisionnement des centrales EDF pour une production totale de 18,5 TWH en 19601961, EDF, le 23 mais 1955.
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 147
基調であった。つまりコヴサールは在庫削減のための販路開拓先としてはフ ランス電力公社が最適であると考えたが,このためには当時フランス電力公 社からの発注を事実上独占していたフランス石炭公社からの同意と協力が不 可欠であった。
コヴサールからの要請を受けてフランス石炭公社はこれを受諾する方向で 両社は折衝を繰り返したが,ここに強く介入したのが産業相ジャヌネであ る。ジャヌネは61年10月にフランス石炭公社社長バゼイラク(P.Baseilac)
に対してザール炭在庫が国家財政の負担となっていること,そしてザール炭 在庫を軽減するための協力をフランス電力公社に対し自ら求めて同意を得た 旨を伝えた。具体的には石炭公社に対して,①66年から67年にはコヴサー ルの石炭在庫が解消するよう協力すること ②石炭納入に関してフランス電 力公社との間で締結されていた社間協定へコヴサールを参画させること,な どを求めた38)。なおここで言及されている「社間協定」とは,59年にフラン ス石炭公社とフランス電力公社の間で締結された石炭発注に関する社間協定 を指す。この社間協定は,両社間の石炭取引を,毎年度作成される石炭納入 計画に基づいて行うことを定めたものである。また石炭取引においてフラン ス電力公社はフランス石炭公社に優先的に発注する一方,フランス石炭公社 はフランス電力公社に対し,すべての取引相手の中で最も有利な価格で石炭 を販売するとの互恵的な規定を盛り込んだ点を特徴とする39)。両社は毎年 度,この社間協定に則り向こう五年間の石炭納入計画を作成し,これに従い 石炭取引を行っていた。つまりジャヌネはフランス電力公社によるコヴサー
38)ANMT, 2002/056/4362, Procès-verbal de la 36
ème
réunion du Conseil dʼAdministration du Comptoir de Vente des Chrabons Sarrois, COVESAR, le 10 novembre 1961 : ANMT, 2002/056/4707, Lettre de J. M. Jeanneney au Directeur général de Charbonnages de France, le 9 octobre, 1961.39)豆原啓介「フランス電力公社における石炭供給問題(195164)─フランス石炭 公社との社間協定の分析を中心に─」『ヨーロッパ研究』第11号,2012年,29
46頁。ECSCの設立を定めたパリ条約では,石炭生産者が特定の取引相手に優遇 的な措置を講ずることを禁じていた(第4条b)。にもかかわらずフランス電 力公社とフランス石炭公社の間でこのような社間協定が結ばれていた事実は,パ リ条約の当該規定が実際には有名無実化していた証左と言える。
148 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
ルへの安定的な発注を目的として,フランス石炭公社とフランス電力公社の 間で締結されていた社間協定にコヴサールが参画することを求めたのであ る。バゼイラクはジャヌネの要請に対して指定年度までの在庫解消はフラン ス電力公社の石炭需要に依存すると具申しながらも,ジャヌネの要求に応ず る姿勢を示した40)。最終的にフランス石炭公社はジャヌネの要望通り,フラ ンス電力公社からの石炭発注総トン数の3.5% をコヴサールに対して割り当 てることを決定した41)。62年には電力公社からコヴサールへの発注が再開さ れ,続く63年にはフランス石炭公社,フランス電力公社,コヴサールの三 社間で,石炭発注に関する社間協定が締結された。そしてこれ以降は,社間 協定に則り毎年度作成された石炭納入計画に基づいてフランス電力公社から コヴサールへ石炭が発注される運びとなった。こうして,コヴサールは一度 は失った販路を回復することに成功した。フランス電力公社からの発注トン 数は即座にコヴサールの在庫を減少させるほどには大きくなかったものの,
電力セクターに対する政府介入の成功事例を作ったという点では,単に量的 な側面には還元できない意味を持っていた。
さて,政府にとって大きな課題と見なされたコヴサールおよびフランス石 炭公社の石炭在庫は,63年には著しく減少した(図1参照)。これは同年に 起きた炭鉱ストに伴う石炭生産の中断という突発的な要因に起因する。ま た,フランスではジャヌネ・プランに基づく減産が進行する一方,西ドイツ においても石炭減産が進みコヴサールが輸入するザール炭は減少したため,
続く64年もフランス石炭公社およびコヴサールの石炭在庫水準は相対的に 低位で推移した。しかしながら,60年代の原油価格の低下や電力の普及は 石炭需要を予想以上のスピードで低下させた。このため,65年にはフラン
40)ANMT, 2002/056/4712, Lettre de P. Baseilac à J. M. Jenneney ; ANMT, 2002/
056/4712, Modifications à apporter au protocole avec EDF pour y introduire des livraisons de Covesar, M. Hecquet (Diercteur des services commerciaux), le 17 octobre 1961.
41)54年から58年において,フランス石炭公社とザール炭鉱がフランス電力公社に 対して販売した総トン数のうちザール炭鉱の割合は3.5% であったため,この数 値が設定された。
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 149
ス石炭公社の在庫水準は再び危機的な水準に達した(表2参照)。この事態 を重く見た政府は,フランス電力公社に対して,フランス石炭公社およびコ ヴサールが毎年度提示する石炭トン数をすべて受領する規定を盛り込んだ新 たな社間協定を締結するように強く求め,受諾させた42)。つまり,石炭セク ターにおける在庫問題解消のために政府がフランス電力公社の経営に介入す るという,ザール炭の在庫問題が初めて発生した際に採用された手法が繰り 返されたのである。こうして,フランス石炭公社およびコヴサールの電力セ クターに対する依存はますます強化され,一方で,ザール炭の在庫水準は 60年代末には看過できる程度の水準にまで低下した。しかしながら,この ように電力セクターが余剰石炭の捌け口として機能するようになった結果,
フランスにおける石炭火力から石油火力への転換は遅滞し,経済性の面で深 刻な問題を提起する事態をもたらしたのである43)。
結語
戦間期から50年代中葉に至るまで,石炭不足は常にフランス経済のアキ レス腱であった。フランスは国内需要の充足のために毎年多量の海外炭の輸 入を実施したが,それは国際収支の悪化と外貨の流出を招いた。第二次大戦 後に石炭業は国有化され,政府主導のもとで一定の増産に成功する一方,ダ イナミックな経済成長は更なる石炭需要の増加をもたらし,石炭不足は持続 することが見込まれた。このためフランス政府は国内炭の更なる増産を目指 すとともに,ザールのドイツ復帰時には石炭権益の確保に尽力した。しかし ながら,石油の急速な普及に伴い50年代末には石炭需要が冷え込み,石炭 供給の過剰から発現したのが「石炭危機」である。本稿では,先行研究にお いて,フランスにおける石炭危機の激化要因として指摘されながらも,その
42)Keisuke MAMEHARA, ≪État et secteur énergétique : intervention de lʼÉtat dans les relations entre EDF et les Charbonnages de France≫, in Philippe Verheyde et Danièle Fraboulet (dir.), Pour une histoire sociale et politique de lʼéconomie, Édition de la Sorbonne, Paris, 2021 p. 318.
43)Ibid., pp. 319320.
150 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第2号
原因および帰結について精査されていなかったザール炭問題について検討を 試みた。そして問題の発端が,ザールのドイツ復帰時にフランスがザール炭 鉱への経営参画を要求したがドイツに受け入れられず,その補償措置とし て,ザール炭の一部が毎年フランスへ輸出されるとの規定がザール条約に盛 り込まれたことにあることを突き止めた。そして,フランスが経営参画を要 求した直接的な要因として,当時フランスでは石炭市場が逼迫する一方で交 換性が回復されておらず,多額のドル流出を招かない形での石炭の安定的確 保が喫緊の課題とされていた点について指摘した。他方,パリ条約が石炭・
鉄鋼の域内における「自由な循環」を理念とし,アクセスの平等性を保障し たにもかかわらず,フランスがザール炭鉱の経営参画を求めた背景として,
生産者は,特にそれが公企業の場合には,資源を自国に有利に分配するもの という,ナショナルな意識が存在していた可能性を示唆した。そして,ザー ル炭余剰問題は,政府の介入の結果,フランス電力公社が一定のザール炭を 受領することで解決が図られたことを明らかにした。
なお,60年代中葉にフランス石炭公社の生産余剰が再び危機的な水準に 達するに至り,政府は国内炭をできうる限り購入するようフランス電力公社 に要請した点は,すでに拙稿で提示した44)。一方,ここで指摘したいのは,
電力セクターへの政府による直接介入という手法が,ザール炭余剰問題時に 使用され,先行事例を成していたという点である。フランス石炭公社の生産 過剰に対しては政府は当初,減産という供給サイドからのアプローチによっ て問題解決を試みた。しかし再び在庫が膨張したため最終的に電力セクター への介入という需要サイドに対するアプローチが取られた。他方,ザール炭 余剰問題の発生の際には,自国の意思に基づく生産調整は不可能であったた め,当初より販路の開拓によって問題の解決が図られた。
石炭危機への対応は国ごとに違いが見られるが,そこには各国の産業政策 の特色が強く反映されている。フランスでは石炭業,電力業がともに国有部 門であったという固有の事情もあり,石炭減産計画の実施と並行して政府が 44)Ibid., pp. 318319.
フランス石炭危機におけるザール炭余剰問題 151
両者の商関係に直接介入することで問題の解決が図られた。それは広範な国 有化と政府の強力な権限という戦後フランス経済の特色に対応した解決方法 と評することができる。そして,60年代半ばに国内炭の過剰生産が危機的 な水準に達するに至り大々的に利用された手法は,ザール炭余剰問題の発現 の際に,すでに先鞭が付けられていた。フランスのエネルギー産業にやがて 看過できない結果をもたらすことになる政府介入の最初の契機を提供し,後 に続く道を準備したという意味で,ザール炭余剰問題はフランスエネルギー 政策史において無視できない一部を構成していると言えよう。
(まめはら・けいすけ/経済学部講師/2021年7月6日受理)
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