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筑豊炭鉱発展期における技術者の実像ー鉱業家松田武一郎の経営者的側面 [ PDF

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(1)筑豊炭鉱発展期における技術者の実像 - 鉱業家松田武一郎の経営者的側面 -. 久田 圭太 1.序. 産業においてはマサチューセッツ工科大学卒の団琢磨. 1-1.研究の背景. 7). 石炭産業は主要なエネルギー源として日本経済を支. 以上の研究をふまえると、筑豊炭鉱発展期において. えた重要な産業であった。石炭の利用は筑豊地方にお. 技術者の存在は必要不可欠で、当時の技術者は単に知. いて最初に始まる。石炭産業は筑豊においてどのよう. 識を持って技術を導入する以上の役割を担っていた。. 1). が挙げられる。. に発展したのか、先行研究 によると、西洋技術導入. ここで筆者は筑豊炭鉱発展期における技術者の役割. による排水や運搬過程の機械化=近代化が必要だった. に着目したい。筑豊炭鉱発展期における技術者に焦点. とされている。. を絞った研究は三井の団に関するものがほとんどで、. ここでまず、当時の筑豊石炭産業概略を述べておき. 三菱の技術者に関する研究は行われていない。. たい。筑豊には無数の零細炭坑が存在していたが、明. 1-2.研究の目的. 治15年に炭鉱最低規模が一万坪に定められ、明治22. 三菱が筑豊進出期に抱えていた技術者として長谷川. 年の選定鉱区制定によりさらに炭鉱が大規模化した。. 芳之助、南部球吾、大木義直、松田武一郎がいるが筆. 政府の国策によって大規模化を余儀なくされた筑豊炭. 者は筑豊発展期に筑豊で活動していた松田武一郎(以. 鉱は貝島、麻生等地方資本により試行錯誤的な近代化. 下武一郎)を対象としたい。. が進行していた。一方で、三菱や三井といった中央資. ここに武一郎の手紙8)65通と武一郎が撮影した写真. 本がこの頃進出してきた。三菱は明治14年の高島炭. 9). 113枚がある(写真1)。本研究では、手紙と写真の分. 鉱、三井は明治22年に官営三池炭鉱払い下げをもっ. 写真 1. 資料 ( 左 ) 日本での手紙 ( 中 ) 欧米での手紙 ( 右 ) 欧米での写真. て西洋技術や経営方法をも一挙に獲得した。その後 三菱は明治22年新入鯰田炭鉱買収により筑豊に進出 し、両炭鉱を近代的大炭坑へと発展させる。 このように、三菱、三井が高島、三池炭鉱において 近代的大炭鉱を最初に成功させていた。また、三菱は. 析を通して武一郎の活動を考察し、武一郎の技術者と. 当時筑豊における近代的大炭鉱の建設で主導的地位に. しての実像を具体的に明らかにする。. 2). あり、筑豊地場炭鉱にモデルを提供していた 。. 本稿は以下の構成で進める。2 章で筑豊炭鉱におけ. 次に、近代化には何が必要であったのかあらためて. る近代化の背景を述べるとともに、三菱が日本人の手. 3). 考えてみたい。筑豊炭鉱発展期における先行研究 で. による西洋技術を用いた炭鉱経営を目指したことに着. は、技術導入の際に多くの失敗をしている地場炭鉱業. 目する。3 章で武一郎が日本で書いた手紙をもとに、. 者に対し、三井や三菱は資金の問題とは別に当時技術. 武一郎が炭鉱開発において技術的視点からだけでなく. 者が希少だった時代に技術者を蓄積できていた点にお. 経営的視点からも計画していたことを述べる。4 章で. いて有利だったことは指摘されている。ただし、日本. 武一郎が欧米研修先で書いた手紙や現地で撮影した写. における西洋技術導入に関する先行研究では、「日本. 真をもとに、当時の企業出資による欧米研修の実態を. における技術導入のプロセスは決して西欧技術のスト. 考察し、武一郎の技術者的、経営者的な二つの側面に. レートな適応の過程ではなく、むしろ在来的経済・社. ついて述べる。最後に 5 章で研究のまとめとして武. 4). 会基盤との絶えざる矛盾・葛藤の歴史であった」 と. 一郎の技術者としての実像を述べ、総括とする。. され、また「そうした矛盾を解決する役割を担ったの. 2.筑豊炭鉱近代化の背景. 5). は日本の技術者や職人であった」 とされている。こ. 2-1.筑豊石炭産業史概観. のような役割を果たした技術者の例として、帝国大学. 2-1-1.国策と筑豊炭鉱. 6). 明治6年の日本坑法制定以来多くの零細炭坑により. 工科大学教授兼農商務技師であった野呂景義 、石炭 20-1.

(2) 乱掘されている資源を効率よく採掘するため、明治. は、筑豊に進出する際、上記のような三菱的な近代的. 15年に「石炭坑ノ借区坪数ヲ一万坪以上ト被相定」. 大炭鉱経営をそのまま移入するために大木良直や武一. という項目が日本坑法の中に追加される。またさらな. 郎のような技術者を派遣した。彼らの手によって新入. る経営基盤拡大のために明治22年には選定坑区が策. 鯰田炭鉱は近代的大炭鉱として発展した22)。. 定される10)。以上の国策により筑豊の炭鉱は一気に大. 3.武一郎の日本での活動. 11). 2-2で述べたように、炭鉱経営の主導権を握るため. 規模化 したが、大鉱区を経営するためには排水過程 12). の機械化 が必要不可欠となり、地方資本による経営. に三菱が日本人の手による西洋技術を使った経営を目. は難しくなる。ただし貝島、麻生、安川等有力地方資. 指していた中で、武一郎は高島の技術や経営スタイル. 本は中央資本と結びつくことで資金を調達し、排水や. を筑豊に移入する役割を担っていた。. 運搬過程を請負業者に委託するか機械を購入しなんと. 表 1. 武一郎経歴. 2-1-2.市場と筑豊炭鉱. 文久2年 明治6年 明治11年 明治13年 明治16年 3月 4月 明治20年 3月 明治23年 3月 9月. 明治20年頃まで筑豊炭鉱の主な市場は瀬戸内海で. 表1に武一郎の略歴を表す。武一郎は当時最新技術. 行われる製塩業であった。開国後には軍備のための船. であった工法を高島炭鉱で学び23)東京大学の卒業論文. 艦に向けた燃料としての市場が生まれ、さらに明治. として書いており、その後明治32年には博士号も取. 12,13年頃、汽車や汽船が増加するに伴い石炭の需要. 得している24)。さらに明治43年の『石炭鉱業論集25)』. が増加し、これが筑豊石炭業発展の契機となった14)。. にも論文が掲載されており、筑豊地場炭鉱業者の指導. しかし、季節的採炭による零細炭坑の集合であった筑. も行なっていた26)。これらは武一郎が鉱業に関する深. 豊炭鉱はたくさんの石炭を通年で安定して供給するこ. い知識を持った技術者であったことを裏付けている。. とができなかったため、結びつけずにいた。そこで、. 筆者は手紙40通より日本での武一郎の活動を考察. このような市場と結びつくために大きく排水問題と港. した。40通の手紙のうち書かれた日付が不明な14通. までの運搬問題の二つを解決する必要があった。. に関しては、筆者が内容から書かれた時期を考察し、. 13). か経営を続けていた 。また、この時選定鉱区の借区 人として三菱、三井等、中央資本が進出してきた。. 三河の岡崎に生まれる 東京大学区第一番中学入学 東京大学予備門に転校 東京大学理学部冶金学科入学 東京大学卒業、理学士取得 高島炭坑事務として三菱入社 松島試掘所転任 直方勘定就任 新入炭坑長就任. 明治25年 明治29年 明治32年 明治34年12月 明治35年 9月 明治40年 明治41年 明治43年10月 明治44年. 明治15年に鉱区の最低規模を定めて以降、ひとつ. 時系列順に手紙を並べた。(表2). ひとつの炭鉱が大規模化した筑豊は地方資本によって. 表 2. 国内の手紙時系列順. 新入炭坑支配人に改称 鯰田炭坑支配人就任 鯰田炭坑長に改称、工学博士号取得 欧米研修へ出発 欧米研修から帰国 満鉄にレンタル 本社技師就任後休職 三菱解雇 死去. 試行錯誤的15)に喞筒が導入されるようになり16)、彼ら 指導のもと、排水問題に対応し始めた。また喞筒と同 時に捲揚機も初めて導入され17)、坑道の延長に伴い明 治20年初頭には一部の大炭鉱で例外的に設置され、. 第一期 筑豊炭鉱時代. 明治30年には主要炭鉱にほとんど設置されるように なった18)。港までの運搬問題に関しては、運搬量増加 に伴う遠賀川の船運の力19)に対抗する手段として、安 川その他有力地方資本による鉄道建設が行われた。明. 第二期 欧米研修期. 治24年に直方-若松間に敷かれた鉄道によって、それ までは十分な送炭量を供給できなかったためそのほと んどが若松から国内市場へ運ばれていた筑豊炭は、あ. 第三期 撫順炭鉱時代. る程度まとまった量の運搬が可能となったため若松か ら長崎を経由し国外市場へも運べるようになった。 2-2.三菱の炭鉱経営. 年代がある程度確定できた手紙 (8 通 )A. 人事的な内容を含む手紙 順序はある程度予想できた手紙 (2 通 )B. プライベートな内容を含む手紙 C. 鉱区買収に関わる手紙 順序も確定しない手紙 (4 通 ). 三菱は明治14年に外国人技師指導のもとで経営さ. D. 炭坑坑外の取り決めに関わる手紙 E. 他の技術者と意見交換が見られる手紙. 表2のAから武一郎 は時期に関わらず人事的な仕事. れていた官営高島炭鉱 を買収し、炭鉱業へ本格的に. 27). 進出する。これによって最先端の技術を人材とともに. 治31年から南部球吾や岩崎久弥とプライベートなや. 21). りとり28)が窺えた。Cより坑長就任後しばらくは新入. 三菱は、日本人の手による西洋技術を用いた炭鉱経営. 炭鉱発展のために鉱区買収を優先していたとわかる。. を目指す。高島で技術や日本人技術者を蓄積した三菱. 鉱区買収に関する手紙からは、「該坑モ不完全ナカラ. 20). 獲得したが、坑主としての主導権を確実に握るため. 20-2. を担っていたといえる。次にBに示した手紙より明.

(3) 立坑汽罐等備リ居リ汽車積場モ設置シアリ速ニ採炭シ. 研修を通して三菱の炭鉱に最新の技術を導入する役割. 得ル便利之価値モ不少」「十分ニ該坑ヲ改良スルニハ. を担っていた。. 坑内予防費ニ三千円立坑枠修繕櫓改築器械改良地所買. 筆者は手紙25通(letter.a〜letter.u)と写真を通して、. 入等ニ三万円ハ相掛リ可申ト存候ヘ共石炭ハ速ニ産出. 武一郎の欧米研修の実態を考察した。. スルヲ得且ツ四日市之市場ニ新入炭ヲ輸出スルノ見込. まずこの研修から読み取れた武一郎の技術者的な側. モ有之多量之出炭ヲ促サレ居候際ニテハ(中略)買取リ. 面について述べる。武一郎はイギリスでポンプを中心. 候方利益ト存候」とあり、現在の機械化の状況、今後. に購入している。( 表 3, 写真 2) 方城炭鉱は開発の際、. の設備改良、将来的な販売先の見込みを考慮して鉱区. 表 3. 発注物 発注物 新入鯰田用車輪 捲揚機 喞筒 喞筒 蓄電器 針金鋼 喞筒 蓄電器 捲揚機 新入用針金鋼一巻 特別なウインチ 喞筒. を判断している。ここには鉱区の将来像を合理的な計 算に基づいて描きだし、長期的な視点をもって鉱区を 買収する様子が窺えた。さらにDを見ると、鉱区買収 が落ち着き、坑外に関する取り決めに関わることが多 くなっている。積極的に鉄道を利用するために自ら鉄 29). 道会社社長と相談を行い 、炭鉱建設に関しては鉄道. 写真 2. 蒸気捲揚機 ( 英国ウォーカーブラザー製 ). 発注先 サルビーザル ウォーカーブロザー エバンズ エバンズ エバンズ ウォーレングトン フレザーシャルマース フレザーシャルマース フレザーシャルマース ブレバンド 不明 不明. 根拠となる手紙 letter.e letter.h letter.h 同上 同上 letter.i letter.i 同上 letter.i letter.j letter.n letter.o . 湧き水が多く困 難が続いた. 33). とあるので、お そらくそれに対 する大型ポンプ の購入が一つの. 目的だったと考えられる。そこで武一郎はそれまでの. 30). 敷設を前提とした開坑を計画しており 、武一郎は炭. 蒸気圧ポンプではなく電動機駆動ポンプであるリード. 坑内だけでなく炭坑外も含めた合理的な考え方をする. ラー喞筒 34) に興味を持つ。炭山視察で武一郎はリー. 経営者的側面を備えていたと言える。. ドラー喞筒の使われ方や坑内運搬方法に注目していた. このような側面を持ちながらも、当時炭坑長は全て. 35). を自分一人で決めていた訳ではなく、Eに示したよう. の炭山では、捲揚機やポンプといった生産過程におけ. 31). 。イギリスの後、武一郎はドイツに向かう。ドイツ. に、他の技術者 と意見交換を度々行なっていた。手. る機械の電化に注目していた 36)。ここで、新入坑に. 紙には、「各坑ノ坑木其他用品ハ若松支店ニ於テ買入. おいては「立坑運搬に我が国で初めて大型電気捲揚機. シ炭坑ニ分送供給スルノ組織ニ御坐候ヘハ同支店用度. を使用 37)」されており、「明治 41 年第三坑付近に発. 方之*事ハ責任多ク炭坑ノ事業ニ大ナル関係有之候処. 電所を設置、坑内ポンプの電化とイルグナー式電気. (中略)高田支配人ニ於テモ実ニ苦心之末同氏ヨリ新入. 捲揚機の設備による巻上げの電化を進め 38)」ている。. 在勤ノ小西寿太郎ヲ支店ニ操合セアリ度旨再三請求有. また、方城坑で初めてリードラー喞筒が導入されてい. 之。炭坑全体ニ取リテモ小西ヲ若松ヘ転スルコトハ誠. る 39)。坑内の電力利用は古河下山田炭鉱と明治赤池. ニ利益ニ可有之ト被存候ヘハ御操合セ相試ミ候」とあ. 炭鉱が明治 31 年に取り組んでおり 40)、電気動ポンプ. り、武一郎が炭鉱で使う資材供給に関する情報を正確. 自体は明治 34 年に既に下山田炭鉱と三池炭鉱によっ. に共有できており、高田支配人と相談し、その中で、. て導入されている 41) ので、新入や方城での取り組み. 新入炭鉱の人材を若松支店に異動させる決定を下して. を全て武一郎が先進的に導入したとは言えないが、機. いることがわかる。ここから、社長岩崎久弥の下に、. 械の電化が研修で得たもののひとつであった可能性は. 武一郎は本社鉱山部主任の南部球吾や若松支店支配人. 高い。ドイツの後、アメリカに渡った武一郎は採掘技. 兼門司支店支配人の高田政久、高島炭坑支配人の大木. 術というよりも、むしろ工業自体に関心があり、特に. 義直と共に技術陣ネットワークを形成しており、ここ. 電動貨車の効果的な使われ方に注目していた 42)。し. で採炭から販売、人事に至るまで三菱における石炭産. かし電動貨車の使用は炭層が水平で横坑によって採炭. 業に関する全てを決定していたと考えられる。彼らの. でき、坑内運搬から坑外運搬までをシームレスに行な. 社内での地位は役職以上に高く、技術者同士はもちろ. える場合に効果的で、斜坑や立坑で採掘を行っている. ん社長との公私にわたる親密な関係も窺えた。このよ. 筑豊炭鉱にすぐに採用できるものではなかったと思わ. うなネットワークの中で、技術や経営スタイルが高島. れる。また、帰国した武一郎は『石炭鉱業論集』に論. から筑豊に移入していたと考えられる。. 考を寄せており、そこに研修の成果がみられる。43). 4.武一郎の欧米研修. 次に、このように技術者的な視点から炭山視察を. 武一郎は明治34年12月から明治35年9月まで研修. 行った武一郎だが、三章でも述べた石炭産業の総体を. を行い、その目的は方城坑開発に新知識を導入するた. 合理的に考える経営者的側面もこの研修から読み取れ. 32). めであったとされている 。西洋技術を移植する地盤. た。それは坑外での石炭運搬方法を舟と鉄道を比較し. が整っていなかった筑豊において、武一郎は欧米での. て考えている点 44) や石炭積出方法を各国の港やドッ 20-3.

(4) クで観察している点から窺える 45)。( 写真 3). 注 5)参考文献[6] 注 6)参考文献[7]p104 では「 (八幡製鉄所が 1901 年 2 月の(洋式)高炉操業後ま もなく一時中止を余儀なくされた)根本的原因は日本の原料条件に合わない(洋 式)高炉設計上の欠陥にあった。技術的欠陥を究明し、製鉄所の技術的確立を 導くうえで野呂景義が指導的役割を果たした。」とある。 注 7)参考文献[8]の中では団が自ら何度も欧米へ赴き、輸入する外国製機械の選 択をし、積極的に機械化を行った事や機械の内部制作を押し進めたことが述べ られている。また、団は技術的視野だけでなく経済的視野も持ち合わせており、 石炭海外輸出を目的とした三池港を開港させる等スケールの大きなプロジェク トをも成功させていたと分析している。 注 8)手紙はどれも武一郎から三菱本社に宛てられたもので 65 通中 40 通が日本での 手紙で 25 通は欧米からの手紙である。日本での手紙はは武一郎の親族が所有さ れておりご好意により貸して頂いたものである。写真はくずし字で書かれた原 本を写したもので、そのくずし字の読み下し文が添えられていた。筆者はこの 読み下し文が正しいとして 40 通の手紙すべてを解読した。欧米からの手紙は三 菱資料館にマイクロフィルムとして保存されており、今回それを複写させて頂 いた。それはくずし字で書かれており、九州大学大学院人文科学府歴史空間論 専攻の学生の協力により読み下し、それを筆者が解読した。 注 9)写真は武一郎の孫にあたる松田順吉氏によって長崎市に寄付されており、今回 それを複写させて頂いた。 注 10)筑豊においては、小鉱区が錯雑しており自発的な統合は期待できなかったため、 政府がすべての鉱区を三十四鉱区に再分割し、これを選定鉱区とした。 注 11)参考文献[1]p.236 によれば選定鉱区選定前は 170 万坪だった全筑豊借区は 選定後 1500 万坪になる。 注 12)参考文献[2]p.28 によると、排水機械化には、季節的採炭から通年採炭への 切り替えの意味でも重要だった。 注 13)参考文献[2]p.27 注 14)参考文献[1]p.216-217 注 15)参考文献[2]p19-25 には麻生を例に試行錯誤的な機械導入や多くの失敗につ いて詳しく書かれている。 注 16)参考文献[1]p.215 では明治 14 年に筑豊ではじめて蒸気ポンプによる排水 の実現をみたとある。 注 17)参考文献[2]p.26 注 18)参考文献[1]p.310 注 19)参考文献[1]p.226 によれば、力をもった船運は積み荷の代金を奪うなど狡 猾に立ち回る者達がいた。 注 20)参考文献[9]p.10 によれば「( 官営鉱山は ) 外国人技師を招いて実施された 先進技術の導入によって、鉱山開発の最先端に立っていた。」とある。 注 21)参考文献[10]p.39 三菱の前の所有者であった後藤象二郎は、ジャーディン・ マジスンに高島炭鉱の利権を抵当に融資を受けており、技術指南と同時に経営 までも外国人に握られていたため、炭鉱のポテンシャルを生かしきれず十分な 利益をあげられなかった。 注 22)参考文献[11]p.472 三菱は新入において土地買収を繰り返し鉱区を広げ、 22 年の買収時に 123 万坪だった鉱区は明治末期には 490 万坪になる。参考文 献[10]p.76 鯰田炭鉱は麻生太吉から譲渡された小炭鉱であったが、買収後 は大木良直鯰田炭坑長により最新技術が次々導入されていく。参考文献[12] p.275、参考文献[10]p.158 特に長壁式採炭法やエンドレス・ロープは鯰田 において日本で最初に採用された。また最新の技術による採炭が進むにつれ鉱 区も広がっていった。 注 23)参考文献[13]p.8、軍平の手記より 注 24)参考文献[13]p.12 注 25)参考文献[17] 注 26)参考文献[13]p.11 に明治 36 年筑豊炭鉱組合総長補佐役となり、筑豊地場 炭鉱業者の指導にあたっていたことが述べられている。 注 27)手紙には人事異動や労働者の家族に対するお香料の手配等の仕事がみられた。 注 28)No.3 の手紙には「上京中ハ都ニ御無礼相働キ候ニモ拘ラス特ニ御懇命ニ預リ 且ツ不計疾病ニ罹候節ハ殊ニ医師御差遣シ被下候等非常ノ御配慮ニ預リ万謝之 至ニ奉存候。又出発ノ際高貴ノ毛皮御恵投ニ預リ早速外蓑ニ仕立可申実ニ色々 ノ御思令ニ接シ感泣ノ外無之候」とある。 注 29)No.30 の手紙には「九鉄運炭ハ今ニ増進不仕且ツ廿五日ヨリ列車発着時刻改 正致候為メ日々出来事多ク今ニ送炭半減仕居候。不日仙石氏ニ面会仕リ貨車配 置割合之改正ニ付相談可仕考ニ御坐候。安川氏モ頃日出京致候事ト存候ヘハ九 鉄ノ現況御尋ネ被下該社ノ改善ニ付テハ一層御配慮被成下度奉専望候」とあり、 この後「貨車配置割合之改正」に成功している。 注 30)参考文献[14] 注 31)南部球吾、高田政久、大木義直 注 32)参考文献[10]p.150 注 33)参考文献[10]p.151 注 34)参考文献[15]p5-19 注 35)letter.g には「同坑々底ノリードラー喞筒ハ究テ良好ト認」「坑内エンドレツス 原動器械ヲ発電気ニ変更セシハ好シ」とある 注 36)letter.k には「電気ノ役用其極ニ達候巻揚器械ヲ立坑中心ノ上ニ置キダイナモ ニテ運動シ其他凡キカイ*坑内巻キカイ*ケ電気ニテ運動致し巻揚器械ニ電気 ノ役用果シテ利益アリヤ之レハ多少疑ヒ有之候リードラー喞筒ハ誠ニ良好ト認 候」とある。 注 37)注 38)参考文献[10]p.160-161 注 39)参考文献[12] 注 40)参考文献[16]p.246 注 41)参考文献[15]p.16 注 42)letter.s には「炭層水平皆山ノ中腹ヨリ横坑ヲ開テ採収スルカ故ニ喞筒ノ必要 ナシ単ニ電気ロコモチーブノ如キ送炭機ヲ使用セハ少数ノ坑夫ヲ用ヒ多量ノ出 炭ヲ*ルヲ得*リ平素ノ営業ニハ技術必要ヲ見ス下層炭ニハ手ヲ付ケス多ク一 層ヲ採掘ス」とある。 注 43)「鉱業家の徳義」「炭層に就て研究すべき事項」「試錐」「鉱山発破用爆裂薬及び 火薬庫に就て」「鉄管の寸法に就て」「針金鋼に就て」「竪坑のスラセ」「車道、 単車及び車輪に就て」の論考が掲載されており、letter.h,i で針金鋼についてか なりの記述があり、letter.e では車輪を発注している。 注 44)letter.d には「皆舟ニテ此運河ヲ用ヒ運搬致候様ニ被存候運河ノ巾ハ凡六間深 ハ五尺内外ト被 ( 中略 ) 鉄道ニ比シ運賃安価ト被存候」とある。 注 45)イギリス研修でのドック見学の感想として「カーデツフ始メ各地ドツクニ於ル 石炭積込ミハ甚面白ク相感候各山トモ多数ノ炭車ヲ有シ若し炭車ナキ時ハ採炭 ヲ休止スルハ聊カ異様ニ感し候此等ニ付テハ猶深ク問合ス考ニ御座候当時坑夫 ノ平均請取金ハ壱週間ニ三ポンド位ニテ上等坑夫ハ**ト共ニ一週間ニ拾三ポ ンド稼キタルモノ有之候由之ニ反しドツク積込人員ハ二ポンド以下ナル事ニ御 座候」と従業員の賃金まで詳細に調べている。写真 3 のホウトンに関して記 述はないが写真は明らかに石炭積込の様子を撮影している。 注 46)手紙の中で機械発注の際は必ずホーム氏かストックトン氏を仲介している。. 写真 3. ホウトン石炭揚機. 以上のような側面を持つ武一郎は、現地での機械購 入決定権を社内で与えられていた可能性が高い。武一 郎が機械購入に至る過程をリードラー喞筒に関して述 べる。まず、ホーム氏やストックトン氏 46) を通じて 最新の機械の概要を知る。手紙に「技師長ハン氏ニ面 会シリードラー喞筒ニ係ル意見ヲ質シ」「ボーハム製 鉄会社ヘ使用セルリードリー喞筒ヲ見物致候」とある ように、リードラー喞筒が使われている炭鉱や工場を 訪ね、そこで喞筒の実際の使われ方や効果を見聞きす る。また、機械発注に関する手紙の中では「リードラー 喞筒ノ取扱ヲ研究スル目的ニテ注文致候 」とあるよ うにリードラー喞筒の日本での取り扱い方を研究する 為に似た喞筒を購入している。これは西洋技術移植の ためには必要不可欠な過程であると考える。さらにパ リ博覧会を見た感想の中に「電気ノ訳用*加セルト坑 内用喞筒ハ構造一般ニリードラー式ニ類スル」とある ように、博覧会で喞筒の社会的評判の裏付けを取って いる。このようにして武一郎は機械を見定め、購入を 決定していた。また、このような過程を踏まえること で西洋技術は筑豊において適切に導入されていた。 5.総括 以上のように本稿では、武一郎が鉱業に関する深い 知識を持った技術者の側面を持ち、一方で石炭産業に おける採炭から販売まで包括的かつ合理的に考えるこ とのできる経営者の側面も持っていたことが明らかに なった。武一郎が担っていた役割を通してみると、こ れこそが三菱において求められていた武一郎ら技術者 の実像であり、人的資源が不足していた明治期におい てこのような人材を確保できたことが三菱や三井が近 代的大炭鉱建設を成功させた大きな理由の一つであっ た。そしてこれは三菱や三井の炭鉱をモデルとしてこ の後発展していく筑豊地場炭鉱業者との決定的な違い であった。三菱の近代的大炭鉱が筑豊炭鉱全体に与え た具体的な影響については今後の課題としたい。 【注釈】 注 1)参考文献[1]では石炭産業における労働過程を厳密に分析し、運搬は生産の基 礎過程、排水は補助過程であると明確に分け、運搬の機械化である捲揚機の導 入が石炭産業発展の契機であるとしている。その後参考文献[2]や参考文献[3] [4]は、排水は生産の基礎過程ではないが、石炭産業発展のために特に筑豊に おいては軽視できる過程ではないとした上で、排水ポンプの導入は石炭産業を 大規模化する契機となったとしている。 注 2)参考文献[3][4] 注 3)参考文献[2][3][4] 注 4)参考文献[5]. 【参考文献】 [1]隅谷三喜男:日本石炭産業分析、岩波書店、1968 [2]東定宣昌:筑豊石炭鉱業における近代化過程 - 麻生鯰田炭坑の機械化を中心として -、( 啓文社『戦 前期筑豊炭鉱業の経営と労働』 、)、1990 [3]畠山秀樹:近代化始期九州石炭礦業に関する一考察 (1)、(『追手門経営論集』Vol.3 No.2)、 1997 [4]畠山秀樹:近代化始期九州石炭礦業に関する一考察 (2)、(『追手門経営論集』Vol.4 No.1)、 1998 [5]菅山真次:「就社」社会の誕生 - ホワイトカラーからブルーカラーへ -、名古屋大学出版会、 2011 [6]中岡哲郎:日本近代技術の形成 -「伝統」と「近代」のダイナミクス -、朝日新聞社、2006 [7]経営史学会:日本経営史の基礎知識、有斐閣、2004 [8]畠山秀樹:団琢磨 - 三池炭礦の技術革新 [9]武田晴人:日本産銅業史、東京大学出版会、1987 [10]三菱鉱業セメント株式会社:三菱鉱業社史、1976 [11]畠山秀樹:三菱合資会社成立後の新入炭礦、(『追手門経済論集』Vol.26 No.1)、1992 [12]高野江基太郎:日本炭礦誌、高野江基太郎、1908 [13]松田順吉:松田武一郎小伝、(九州大学石炭研究資料センター『石炭研究資料叢書 』Vol.18)、1997 [14]畠山秀樹:三菱合資会社成立後の鯰田炭坑、(三菱経済研究所『三菱資料館論集』Vol.9)、 2008 [15]児玉清臣:石炭の技術史 摘録 下巻、児玉清臣、2002 [16]児玉清臣:石炭の技術史 摘録 上巻、児玉清臣、2002 [17]高野江基太郎:石炭鉱業論集、積善館支店、1910. 20-4.

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