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義理論と東アジア : perspectives about giri and East Asia

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(1)

著者 李 知蓮

出版者 法政大学大学院 国際日本学インスティテュート専

攻委員会

雑誌名 国際日本学論叢 = Journal of international Japanese‑studies

巻 11

ページ 一‑二六

発行年 2014‑03

URL http://hdl.handle.net/10114/8916

(2)

義 理 論 と 東 ア ジ ア

平成 二十 五年 度  国際 日本 学論 叢第 十一 号  二〇 一四 年三 月十 八日 発行  抜 社 刷

会学 専攻 博士 後期 課程 三年

李     知   蓮

(3)

は じ め に

義理 は東 アジ アが 共有 する 価値 観念 であ る。 その 言葉 自体 は前 近代 の遠 い昔 に中 国か ら発 信さ れた 学問 的思 想か ら のも のだ が、 現在 東ア ジア 社会 に生 きる 人々 の意 識の 中の それ は、 知的 論理 とし て習 得し てい るよ りは

、日 々の 生活 を含 む生 涯の 生き 方に 密接 した

、慣 習的 な倫 理感 覚と して 浸透 して いる

。そ れは 言葉 で教 えて 頭で 理解 する 注意 事項 とい うよ り、 生に おけ るあ らゆ る状 況に おい てど のよ うに 行動 すれ ばい いか を、 社会 的文 化的 体験 を通 じて 内在 化す るも ので ある

。た とえ ば線 路に 落ち た人 を見 て助 ける べき と考 える か否 かは

、実 際に そう 行動 でき る能 力を 持っ てい

義 理 論 と 東 ア ジ ア

社会 学専 攻博 士後 期課 程三 年

李  

   

知  

(4)

る人 もそ うで ない 人も いる が、 助け る行 動を 選ぶ べき だと 判断 する よう な場 合の こと であ る。 困っ てい る人 を助 ける とい う意 味で は、 東ア ジア だけ でな く世 界中 の人 々が 共有 する 価値 観念 であ るが

、そ れを 東 アジ アで は義 とい う文 字で あら わし てき た学 問的 な流 れが ある

。今 日で は義 をめ ぐる 学問 的思 想が 活発 に教 育さ れな くな った にも かか わら ず、 人々 の行 動を 制す る価 値観 念と して 深く 根を 下ろ して いる

。義 理と いう 言葉 は義 の思 想に 根幹 をお いて おり

、日 本で は「 ぎり

」、 韓国 では

「う ぃり

」と 発音 する

。が

、発 音は 違っ ても 中身 は共 通の 地盤 に立 って いる

。 ただ

、そ の思 想が 発信 され たの は昔 の中 国に 間違 いな いが

、か とい って それ を中 国人 が「 発明

」し たと いう わけ で はな い。 思想 が先 にあ って 人間 があ るの では なく

、人 間の 生き 方か ら思 想が 生ま れる のが 自然 だと すれ ば、 義の 思想 とい うの もす でに 形成 され てい た人 間社 会へ の観 察か ら言 説化 した と見 なす べき だか らで ある

。先 ほど あげ た「 助け る」 に関 わる 行動 意識 のよ うに

、広 く海 を渡 って まで 他の 社会 にも 広が った のは

、人 間的 に普 遍的 な共 感が あっ たか らこ そ可 能だ った と考 えら れる

⼀方 で日 本で は、 その よう な義 理の こと を日 本に しか 存在 しな い固 有で 独特 な文 化だ と錯 覚す る現 象が 見ら れる

。 隣国 と共 有し てい るこ とす ら常 識と して 広が って いな い。

「義 理は 日本 人な らで はの もの

」と いう ナシ ョナ リス ティ ック な感 覚は

、ア ジア 諸国 と日 本を 差別 する 意識 にも つな がる

。そ うい う意 識は とり わけ 近代 以降 に複 雑な 社会 現象 を経 る中 で形 成さ れた もの だが

、本 稿が 注目 する 問題 の素 材は

、そ のよ うな 差別 意識 に対 する 疑問 とと もに ある

。 たと えば 次の よう な考 えか ら義 理と 日本 人に つい て考 えて みよ う。

(5)

日本 人は かな り強 い内 部指 向性 を持 ちな がら

、共 同体 の円 滑な 機能 のた めに

、他 人指 向的 に振 る舞 う努 力を し てい るの では ない だろ うか

(中 略) 日本 人は 一般 にお とな しく

、礼 儀正 しく

、順 応性 に富 み、 従順

、と 他国 の人 々か ら思 われ

、自 らも そう 思っ て いる よう であ るが

、そ の内 側に は、 相当 に強 固な 自我 と自 立心 を抱 いて いる ので はな いだ ろう か。 そし て、 共同 体の 調和 のた めに

、内 部指 向性 と他 人指 向性 との バラ ンス を取 るこ とに 懸命 に努 力し てい るの では ない だろ うか

。 その 努力 は、 日本 人が 多用 する

、〝 我慢

〟と いう 言葉 に象 徴さ れて いる よう に思 われ る。

(長 野、 20 00:

p.

72) これ

は「 義理 は日 本固 有の もの か」 とい う問 題提 起で ある

。ア メリ カ、 フラ ンス

、ド イツ との 比較 を通 じて

、義 理 の「 通文 化性

」に つい て説 明し よう と試 みた 研究 であ る。 共同 作業

、助 け合 い、 ご近 所づ きあ いの 様相 を比 較し

、共 同体 の円 満な 維持 のた めに 行わ れる 人々 の活 動に は、 国別 の大 差は なか った とい う結 論が 出て いる

。そ して 義理 とそ れに まつ わる 不本 意性 のイ メー ジに つい ては

、日 本の 共同 体の 成員 が本 来強 い「 自我

」を 持っ てい るか らこ そ必 要な のだ と主 張す る。 確か にこ の考 えに は説 得力 があ るが

、前 述の よう にそ もそ も義 理と いう のは 日本 にば かり 存在 する 固有 のも ので はな いの で、 当然 通文 化性 を孕 む。 ただ し、 長野 の研 究が 日本 と比 較す る対 象と して

、す べて 西洋 の国 々だ けを 対象 とし て選 んで いる

。何 故義 理の こ とを 扱い なが ら東 アジ アの 国々 との 比較 はし なか った か、 正確 な理 由は わか らな い。 タイ トル にあ らわ れて いる よう 三

(6)

に義 理を 日本 だけ の事 柄に 決め 付け る視 点に 疑問 を抱 いた のは 妥当 だが

、前 提は

「日 本人 も西 洋人 と同 じで ある

」と いう こと で、 つま り「 西洋 社会 にも 義理 があ る」 こと を証 明し たい よう に見 えて しま う。 東ア ジア を視 野に 入れ てし まえ ば、 疑問 の余 地な く義 理は 日本 固有 のも ので ない こと がわ かっ てい たは ずで ある

。そ こか らそ れぞ れの 国に おけ る社 会構 造別 の特 徴が ある にし ても

、義 理と いう 感覚 その もの には 本来 より 通文 化性 があ ると 認め られ たは ずな ので ある も 。 うひ とつ は、

「我 慢」 とい う要 素を 日本 人を 象徴 する もの とし て決 めつ けて もい いの だろ うか

。ど こか らど こま でが 日本 人の 我慢 なの だろ う。 その 時の 日本 人は 誰で あっ て、 何を 何故 我慢 する 人た ちな のだ ろう か。 それ は、 果た して それ ほど 美し いも のだ ろう か。 だと すれ ばそ れは 何故 か。 これ に対 する 説明 が具 体的 には され てい ない

。ま るで 日本 人と いう 存在 に与 えら れた 宿命 のよ うに 日本 人と 我慢 を関 連付 けて 考え るこ とに も違 和感 を覚 える

。世 界に は 様々 な基 準で 我慢 強い 民族 も我 慢強 くな い民 族も いく らで も存 在す るは ずで ある

。 また

、日 本人 を「 おと なし く、 礼儀 正し く、 順応 性に 富み

、従 順」 な人 たち だと 考え る「 他国

」の 人た ちと いう の は、

⼀体 誰の こと を指 すの だろ う。 また

、そ れを 認め る「

⼀般

」と は何 か。 どこ の誰 と比 べて おと なし く、 礼儀 正し く、 順応 性に 富み

、従 順な のだ ろう か。 まる で自 我や 自立 心と いう のが 日本 人の 裏側 に隠 れた もの であ るか のよ うに 表現 する とこ ろに

、西 洋中 心史 観ま では 言わ なく ても

、西 洋か ら見 られ る日 本人 イメ ージ のス テレ オタ イプ があ る。 本来 人間 とい うの は民 族い かん に関 わら ず⼀ 面だ けを 持っ てい るわ けで はな く、 多様 な性 質を 持っ てい るも ので

、自 我や 自立 心が 強い 人が 礼儀 正し くて 従順 なこ とは

、い くら でも 存在 し得 る。 それ に、 東ア ジア が共 有す る義 理の 価値 観念 は、 確か に共 同性 を大 切に する 意識 とし て仲 間意 識を 支え るも のだ が、 かと いっ て単 なる 盲目 的な 集団 主義 では

(7)

ない

。む しろ 義賊 や義 兵な どの よう に、 確実 な意 思と 方向 性を 有す るも ので あっ て、 集団 のた めに 個の むや みな 犠牲 を容 認す る規 範の よう に見 るの は誤 解で ある

。 何故 日本 でそ のよ うな 誤解 が生 じて きた か。 その 原因 は様 々に ある が、 それ が民 族の モラ リテ ィー を代 表す るも の とさ れた 背景 には

、や はり 近代 化と 国家 主義 から 設定 され た「 国民 性」 とい うの があ る。 民族 の誇 るべ き精 神な るも のと して 武士 道が 置か れ、

「侍 の国

」と して のア イデ ンテ ィテ ィー が自 己同

⼀性 を支 える よう にな った

。本 来は

⼀宿

⼀飯 の義 理と いう よう に、 恩義 を受 けた 側の 感謝 の気 持ち から 生じ る倫 理意 識の こと で、 前近 代社 会に おけ るあ らゆ る関 係を 支え る心 情で あっ た。 それ が近 代以 降に 何故 か日 本民 族し か有 しな い崇 高な 倫理 観念 とし て認 識さ れて 行っ た。 今日 の社 会で その よう な認 識が 常識 とな って きた 原因 も⼀ つで はな いと 思う が、 よく 知ら れ、 たく さん 読ま れ続 け る先 行の 義理 論が 広め た論 理も

、大 きく そう いう 誤解 を助 けた

。と りわ け戦 後の それ らは

、経 済大 国へ 成長 した 日本 の力 がど こに ある かを 探る ため

、そ の「 成功

」の 要因 を国 民性 なる もの から 見つ けよ うと して いた

。⼀ 時そ れは 世界 的傾 向に もな り、 そこ から たく さん の日 本人 論や 日本 文化 論が うま れ、 様々 なス テレ オタ イプ をつ くっ た。 義理 論も それ を根 幹に わか れた 枝の

⼀つ であ る。 その 中で も議 論の 発端 とな って 大き く影 響を 与え たの は、 やは りル ース

・ベ ネデ ィク ト( 18 87

〜1 94 8) の

『菊 と刀

』で ある

。こ れは 刊行 され た戦 後間 もな い時 期か ら今 日ま で読 まれ 続け るス テデ ィー セラ ーで ある が、 彼女 が説 いた

「風 変わ り」 な日 本を 現す 要素 とし て義 理の こと が扱 われ て以 来、 何と なく 義理 は日 本に しか 存在 しな い希 少な もの のよ うに 認識 され てき た。 が、 その 視線 を覆 うも のは

、ア メリ カ人 が考 える プラ イベ ート の自 由を 絶対 正し 五

(8)

いも のと する 見解 であ る。 アメ リカ を軸 にお いて 相対 化さ れる 日本 文化 論で ある その 視点 から

、義 理は 債務 者の 負い 目の よう な感 覚と して

、現 代の

「自 由な 社会

」で はも う振 り返 って も意 味を もた ない

、夢 の道 徳の よう に捉 えら れて いる ので ある

。そ の論 は今 でも 日本 の文 化を 知り たい と願 う人 々に たく さん 読ま れ、 日本 の経 済成 長を 支え た独 特の 精神 のよ うな イメ ージ にな って いる

。 ベネ ディ クト の論 が出 てか ら、 様々 な論 者た ちが 義理 につ いて 見解 を述 べて きた

。そ の時

、今 日で も東 アジ アの 近 現代 史が 西洋 中心 史観 から 解放 でき てい ない だけ に、 多く の場 合に 日本 と比 較さ れる 対象 は西 洋で ある

。ア ジア の 国々 を比 較対 象に して 文学 作品 の中 の義 理を 比較 した 論が ごく たま には ある が、 それ が日 本人 の論 者に よっ て行 われ た例 はほ とん ど存 在し ない

。韓 国で も日 本と の比 較で もっ て行 われ た義 理論 は皆 無で

、逆 に韓 国で は『 菊と 刀』 の影 響か ら日 本人 の義 理は 特殊 なも の、 極端 的な 集団 優先 主義 とし て認 識さ れる 傾向 があ る。 そし て日 本で は日 本人 の論 者が 日本 人の 義理 を色 々と 論じ てき た。 それ らの 視点 は多 く政 治経 済外 交の 影響 から 逃れ てい ず、 本当 は同 じ人 間同 士が 生き る東 アジ アの 共生 意識 とし て こそ 注目 すべ きな のに

、そ のよ うに は捉 えて いな い。 西洋 文化 にお ける 道徳 律に 対抗 する ため の倫 理観 念と して 見よ うと して いて

、具 体的 な事 例よ りは 論者 の経 験に 従っ た方 法が 多か った

。義 理と いう のが

、⼀ 般の 人々 が生 活す る社 会に おい て本 当は どの よう に機 能す るも のか を把 握す るた めに は、 実際 の庶 民に とっ ての それ が表 現さ れた 文化 的産 物を 対象 に捉 えて いく 必要 があ る。 何故 なら

、義 理は 東ア ジア の人 々の 生活 の中 に内 在化 し、 その 言葉 が用 いら れる 場合 より は、 むし ろ用 いら れな い 場合 にこ そあ らわ れる 感覚 的な 倫理 意識 だか らで ある

。そ して それ が主 に現 れる 時は

、後 から 追認 され る何 らか の行

(9)

動を 通じ ての 時な ので ある

。祝 儀や 香典 返し のよ うな 儀礼 と関 わる 場合 もあ れば

、困 って いる 人を 見捨 てな いと いう よう な本 能的 な行 動に も当 ては まる ので ある

。そ のよ うな 人間 同士 の生 の営 み方 と連 動し て形 成さ れ、 無意 識で 機能 し続 ける 義理 の感 覚は

、言 葉で 理解 させ る教 育で 身に つく もの では ない

。共 同体 の中 にお ける 慣習 的行 動を 感じ なが ら見 習い

、い つの 間に か人 間と して 生き る際 の然 るべ き行 動を 認識 し、 そう なる こと によ って 人々 がと もに 生き る社 会を 潤滑 にま わる よう にす る役 割を 果た すの であ る。 それ は日 本社 会で も韓 国社 会で も同 じく 発見 され る働 きで ある

。だ から こそ 義理 のこ とは これ から

、東 アジ アに 内 在化 した 慣習 的倫 理意 識と して 改め て捉 えな おさ なけ れば なら ない

。本 稿は その 第⼀ 歩と して

、ま ずは 日本 にお ける 先行 の論 者た ちが 説い てき た義 理論 がど のよ うに 表現 され てい るか を見 てみ る。 もち ろん ここ にす べて の先 行研 究を 列挙 する こと はで きな いが

、い くつ かの 代表 的な 視点 を捉 え、 それ ぞれ の主 張の 特徴 を見 るこ とな らで きる

。そ れら の主 張を ひと つず つ吟 味し

、こ れま で注 目さ れて きた 内容 とこ れか ら注 目す べき 内容 を考 察し

、今 後東 アジ アの 人々 が活 用で きる 情報 とし て提 案し たい

⼀、 義理 は「 不愉 快」 なも のか 日本

社会 で義 理は

、あ る時 代ま で日 本人 の倫 理感 覚を 論ず る際 に欠 かせ ない 主題 であ った

。前 述の よう にそ の傾 向 は、

『菊 と刀

』の ブー ムを 契機 とし て現 れた

。そ の中 に記 され たル ース

・ベ ネデ ィク トの 義理 論に 関し ては

、既 に数 多あ る「 日本 人論

」に よっ て論 駁が なさ れて きた ので

、こ こで 改め て触 れる こと はし ない

。た だし

、彼 女が 義理 とい 七

(10)

うも のの 歴史 につ いて

、日 本の 現実 社会 を直 接に 長期 間の 体験 をせ ず、 定義 する こと の難 しい 情緒 的慣 習で ある 義理 のこ とを

、限 られ た情 報を 土台 にた だ「 契約 上の 借金 返済

」に 置き 換え て「 めず らし い」 とあ らわ した のは 偏っ た視 点だ とい わざ るを 得な い

(ベ ネデ ィク ト、 19 48

/2 00 5: p.

16 5)

。彼 女に よれ ば、 義理 には

「親 切に 対 する 返礼

」か ら「 復讐 の義 務」 まで

「種 々雑 多な 義務

」が 含ま れて いて

、西 欧人 には もち ろん

、日 本人 自身 にも 定義 しづ らい 言葉 だそ うで ある

。と くに

「不 本意

」と いう 言葉 をあ げて

、義 理を 返す こと の「 不愉 快さ

」を 強調 する

。ま るで 借り を負 った 時の 罪悪 感の よう に捉 えて いる ので ある

。 この よう なベ ネデ ィク トの 説は

、今 聞い ても ある 程度 の説 得力 を持 って いる

。東 アジ アの 人々 が義 理を 果た すた め の何 らか の行 為を する 時、 確か にあ る種 の我 慢が 必要 では ある

。が

、そ れを 単な る自 己へ の抑 圧に 過ぎ ない と解 釈さ れて は困 る。 そう いう 解釈 は人 間の 心情 なる もの をた だ快 楽を 感じ るか 感じ ない かで 分け てい るよ うな もの で、 単純 すぎ るの であ る。 義理 は外 圧に よっ て無 理や り動 かさ れる 時に は確 かに 心地 よい もの では ない かも 知れ ない

。し かし それ さえ も、 い かに して 外圧 を定 義し 得る だろ うか

。人 によ って は外 圧が ある から こそ 解放 を大 切に する とい うよ うな 感覚 もあ る。 たと えば 寺田 寅彦 の話 に現 れて いる よう な、 外圧 に対 する 受け 止め 方次 第で 人間 の心 情は 変わ るこ とが でき るの では ない か。 彼は 言う

。「

⼀日 汗水 たら して 働い た後 にの み浴 後の 涼味 の真 諦が 味わ われ

、義 理人 情で 苦し んだ 人に のみ 自由 の涼 風が 訪れ るの であ る」 と。 さて 果た して 義理 とい うの はベ ネデ ィク トの 語る よう な、 不本 意で つら いも ので ある か。 それ は義 理を どう 捉え るか とい うよ り自 由を どう 捉え るか にも かか って いる

。 ベネ ディ クト の理 解に は、 異空 間と して の「 日本

」は ある が、 東ア ジア とい うリ アリ ティ ーが ない

。リ アリ ティ ー

(11)

とは つま り、 その 土地 を生 活の 基盤 にし て生 きて いる 人た ちの 心情 にあ るも ので ある

。巨 大な 空間 が築 いて きた 土着 的な 視点 が抜 けて いる 点、 東ア ジア の人 々が 共通 して 納得 でき る説 明と は言 えな い。 そこ に『 菊と 刀』 の限 界が ある と思 う。 義理 が社 会の 役に 立つ もの とで ある と考 える 社会 的環 境で 生ま れ育 った 人に とっ ては

、そ れは 必ず しも

「不 愉快 な 負い 目」 に過 ぎな いも ので はな い。 むし ろそ の逆 の、 自分 では ない 他者 との 関係 性の ため にわ ざわ ざ自 発的 な行 動を とる から こそ 喜び を感 じる のも 不思 議な こと では ない

。た とえ ば今 日東 アジ アの 人々 がボ ラン ティ ア活 動と 称す る行 動を 起こ す心 情に は、 西洋 から 輸入 され た博 愛の 思想 だけ では 語り きれ ない 伝統 が溶 け込 んで いる では ない か。 本稿 では その 伝統 に義 理が 含ま れて いて

、今 日の 東ア ジア 社会 でも 人々 を動 かす 動力 とな って いる と考 えて いる

。す ると やは りベ ネデ ィク トの 説か らは み出 た感 覚を 発見 でき るの であ る。

二 、 義 理 研 究 の 代 表 者

、 源 了 圓

社会 の変 化と 義理 の変 容を 学問 的理 論に 展開 した 二十 世紀 の代 表的 な義 理研 究者 であ る源 了圓

(1 92 0〜

)は

、 自身 の主 著の 中で 義理 の研 究方 法に おけ る困 難さ につ いて 次の よう に説 いて いる

。 我々

が徳 川時 代の 義理 につ いて の文 献と して 利用 でき るの は文 学作 品だ けで あっ て、 この 文学 作品 にあ らわ れ た義 理は

、一 方で は習 俗と して 社会 に生 きて いる 義理 の反 映で ある かも しれ ない が、 他方 では そこ に示 され た義 九

(12)

理は その 作家 によ って 理想 化さ れた 虚構 の義 理で あっ て、 私が 義理 観念 の変 化と いっ たも のは

、ひ とえ に作 家の 個性 の差 にも とづ くも ので ある かも しれ ない ので ある

。( 源、 19 69:

p.

54) 源は

義理 を、 封建 社会 から 現代 まで 受け 継が れて きた 統⼀ され た観 念と して 捉え るだ けで は足 りな いと 指摘 し、 そ れを

「生 きも の」 のよ うに 社会 の変 化に よっ て変 容す る敏 感な もの とし て体 系的 に捉 えよ うと した

。そ の過 程で 用い るべ き文 献や 史料 の大 部分 がフ ィク ショ ンで ある とい った 弱点 を、 予め 注意 すべ き事 項と して 説明 して いる ので あ る。 そし て源 は以 下の よう に述 べる

。 西鶴

の当 時、 それ まで の義 理的 社会 事実 が義 理と いう 観念 と結 合し て、 儒教 的義 理と は異 なる

、わ れわ れが 今 日も 経験 して いる 義理 が成 立し てい たに ちが いな い。 そこ には それ 以前 の時 代と の連 続性 が存 する

。し かし

、彼 や近 松が 意識 的に 主題 とし てと りあ げた 観念 のす べて を、 現実 とな んの 関係 もな い恣 意的 な虚 構と 断定 する わけ には いか ない

。虚 構化 され たも の、 理想 化さ れた もの は現 実を 超越 した もの であ るが

、そ れは 現実 とな んの 関係 もな いの では なく て、 現実 を超 越す るそ の超 越の しか たに おい て現 実を 表現 する ので ある

。そ のこ とを われ われ は彼 らの 作品 にお いて 実証 する こと がで きる

。( 同右

) 簡単

にい えば

、如 何な るフ ィク ショ ンで あっ ても

、必 ずそ れは 現実 の反 映と いう 域か ら大 きく ずれ た恣 意的 なも の では ない はず だ、 とい うこ とで ある

。こ こで の源 の研 究方 法の 前提 が必 ずし も妥 当で ある かど うか は議 論の 余地 があ

⼀○

(13)

るが

、江 戸時 代に おけ る義 理の 姿を 見る ため に採 らざ るを 得な い方 法だ った と考 えら れる

。 この よう な方 法的 前提 の上

、源 は西 鶴、 近松

、近 松以 後の 浄瑠 璃、 人情 本、 読本

、そ して 泉鏡 花( 18 73

〜1 9 39

)と 尾崎 士郎

(1 89 8〜 19 64

)へ と、 作品 の引 用を 次々 と羅 列し なが ら義 理と は何 かに つい て辿 って いっ た。 その 業績 は華 やか で、 社会 制度 の変 化と とも に変 容し てい った 個々 の作 家│ とり わけ 西鶴 や近 松│ の内 的変 化を も詳 細に 理論 化す る成 果を あげ た。 彼は 義理 の原 初的 形態 を三 つに 分け てい る。 第⼀ は相 手の 好意 に対 する 返し とし ての 義理 であ る。 農村 には かな り 古い 時代 から 習俗 とし て義 理が 存在 した とい うこ とで

、そ れが 後の 近世 封建 社会 の成 立と とも に観 念化 して いっ たと 見る

。第 二は 信頼 にた いす る呼 応と して の義 理で ある

。好 意に 対す る返 しを 種に して 生ま れた もの だと いう

。好 意の 交換 から 信頼 が生 まれ ると

、そ れを 守ろ うと する 気持 ちが あら われ ると いう 意味 で、 契約 に対 する 忠実 とし ての 義理 もこ れに 当て はま ると して いる

。そ して 第三 は、 上記 の二 つの 義理 が共 同体 のル ール とし て効 力を 持つ 際に

、つ ま り、 その 中で の好 意と 信頼 を配 慮し なか った 場合 の辱 めや

、そ の共 同体 から 排除 され たく なく て守 るよ うに なる 義理 のこ とで ある

。こ こに はベ ネデ ィク トの 唱え る「 不本 意」 が確 かに 発見 され るか も知 れな い。 その よう な彼 の見 解は 大変 明快 に義 理が 発生 した 仕組 みを 説い てい る。 ただ

、東 アジ ア社 会に おけ る「 共同 体」 と は、 必ず しも 個人 を圧 迫す るだ けの 存在 では なか った

。む しろ 適度 の拘 束で 個人 に帰 属意 識を 与え る存 在で もあ っ た。 その 時に 個人 が共 同体 につ いて 抱く 感情 は、 とて も複 雑で 合理 的に 説明 し切 れる もの では ない

。い うな れば

、嫌 いで も好 きで

、好 きで も嫌 い、 とい うよ うな もの でも あっ た。 この よう な矛 盾し たも のを

、単 に「 あた たか い」 と

「つ めた い」 に二 分す るこ とに は、 大変 注意 が要 され る。 負い 目に も近 い感 情で はあ るが

、単 なる 借り の返 済と 同じ

⼀⼀

(14)

もの とし て片 付け るこ とは でき ない

。 そし て源 は、 好意 と信 頼に 対す る返 しと して の義 理が 成立 した 当初 から

、い わゆ る名 誉を 守ろ うと する 価値 観念 が 同時 に存 在し てい たと は考 えて いな い。 それ は近 世社 会に 入っ てか ら、 政治 価値 優先 の観 念と とも に生 じた のだ と言 う。 その あと 町人 社会 が台 頭し

、経 済価 値の 向上 と商 業組 織の 発達 につ れて 義理 観念 も変 化し てい った と言 う。 その よう な背 景か ら町 人社 会に 上下 間の 支配 原理 や年 功序 列の 秩序 観が 成立 した と指 摘し てい るの であ る。 この よう な源 の説 明は

、支 配階 層の 指導 によ って 広が った もの

、あ るい は支 配階 層が 有し てい た道 徳観 念を 被支 配 階層 が真 似し ただ けだ と捉 えら れが ちな 義理 のこ とを

、前 近代 の人 々の 生活 共同 体か ら発 生し てい ると 見る とこ ろに 斬新 さが ある

。た だし

、用 いた 具体 例が すべ て文 学作 品の 域を 出な かっ た点 を含 め、 主に 西洋 のヒ ュー マニ ズム と対 照し てい る点

、乗 り越 える べき 問題 は残 って いる と思 う。 また

、彼 は「 日本

」の 連続 性を 無条 件的 に肯 定す る視 点か ら論 を展 開し てい るが

、実 際に 日本 と呼 ばれ る地 域に 住ん でい る生 身の 人間 たち や、 現実 社会 で発 見さ れる 具体 例に は触 れて いな い点

、現 在で は多 様な 視点 で再 考さ れて いる ナシ ョナ リズ ムの 問題 と合 わせ

、進 化さ せる 必要 があ る。

三 、 土 居 健 郎

│ 甘 え と 義 理

源の 主著 が出 てか ら二 年後

、土 居健 郎( 19 20

〜2 00 9) の『

「甘 え」 の構 造』 が出 版さ れる こと にな る。 土 居は

「甘 え」 とい うの を日 本社 会の 人間 関係 にお ける 特有 の感 情で ある と説 いて いて

、そ のこ とが 可能 な最 小単 位と して 親子 関係 を挙 げて いる

。土 居に よれ ば、 義理 は人 情を 入れ る「 器」 のよ うな もの であ り、

「甘 えと いう 言葉 を依

⼀二

(15)

存性 とい うよ り抽 象的 な言 葉に おき かえ ると

、人 情は 依存 症を 歓迎 し、 義理 は人 々を 依存 的な 関係 に縛 る」

(土 居、 19 71

/2 00 7: p.

56) と言 う。 この 言葉 につ いて 本稿 は、 人情 と「 依存 症」 を同 じも のと は見 なさ ない が、 人間 同士 が本 性的 に支 えあ うこ とを 現す 程度 の意 味と して 理解 でき ると 考え る。 そこ で興 味深 いの は土 居の 語る

、い わば

「他 人」 に関 わる 見解 であ る。 土居 は構 造的 には 最も 親密 な親 子関 係を 人 情の 世界 とし

、元 々は 関係 を持 って いな かっ た人 同士 が、 関係 を結 ぶこ とに よっ て人 情の 世界 に限 りな く近 づこ うと する 傾向 のこ とを 義理 とい う言 葉で あら わし た。 そし てそ れら の人 情や 義理 で表 せな い「 無縁

」の 域に 存す る人 たち のこ とを

「他 人」 と称 して いて

、い わゆ る「 遠慮

」の 量と

「他 人」 とい う定 義が 成立 する 度合 いは

、比 例す るも のと して いる

。遠 慮が 大き けれ ば大 きい ほど

、他 人同 士の 関係 に近 づく とい うこ とで

、以 下の よう に説 明し てい る。 親子

の間 には 遠慮 がな いが

、そ れは 親子 が他 人で はな く、 その 関係 が甘 えに 浸さ れて いる から であ る。 この 場 合子 供が 親に 対し て遠 慮が ない ばか りで なく

、親 も子 供に 対し て遠 慮は しな い。 親子 以外 の人 間関 係は

、そ れが 親し みを 増す につ れ遠 慮が 減じ

、疎 遠で ある ほど 遠慮 は増 す。 友人 同士 など

、親 子以 外の 関係 でも

、随 分遠 慮の ない 関係 も存 する が、 日本 人が ふつ う親 友と いう 場合 は、 この よう な友 人関 係を 指す ので ある

。要 する に人 々は 遠慮 とい うこ とを 内心 あま り好 んで はい ない

。で きれ ば遠 慮し ない に越 した こと はな いと いう 気持 ちを 誰し も持 って いる

。そ れは 日本 人が もと もと 親子 の間 に典 型的 に具 現す る⼀ 体関 係を 最も 望ま しい もの とし て理 想化 する とい う事 実を 反映 して いる ので ある

。( 土居

、2 00 7: p.

60)

⼀三

(16)

遠慮 があ れば ある ほど 他人 同士 で、 なけ れば ない ほど 親子 関係 に近 づく とい う時

、そ の間 の領 域は どう なる のだ ろ う。 とに かく 上記 のよ うな 土居 の説 明に よれ ば、 親子 関係 とい う最 も親 密な 関係 を、 他人 同士 でも 目指 そう とす るの を義 理の 関係 と思 って も良 さそ うで ある

。 土居 は、 自分 の唱 える

「甘 え」 とい う言 葉、 すな わち 親子 関係

、友 人関 係、 夫婦 関係 のよ うな 二者 関係 を対 象に

、 相手 が自 分に 好意 を持 って いる こと が知 的認 識無 しで もわ かっ てい る場 合に

、そ れら の関 係に ふさ わし く振 舞う こと と義 理を 関連 付け てい る。 彼は

「甘 え」 が成 り立 つ関 係を

、「 もと もと 自然 発生 的に 人情 が存 する 間柄

」と もし てい て、 義理 はそ うい った 性格 の関 係を

「人 為的

」に 結ん だ場 合に 生ま れる 何も のか であ ると 言う

。ま た、

「義 理は いわ ば器 で、 その 中身 は人 情で ある

」と も書 いた 上で

、親 子関 係で も「 関係

」そ のも のの 方が 重ん じら れる 場合 には

、義 理と して 意識 され るの だと 説い てい る。 つま り、 人と 人と の最 も親 密な 関係

、つ まり 親子 関係 でさ えも 義理 の関 係と して 認識 し得 ると いう 解釈 も可 能で

、 その よう な観 点か ら考 える と、 いわ ゆる

「義 理人 情の 板挟 み」 とい うの は、

「義 理と 義理 の板 挟み

」に 置き 換え るこ とが でき るわ けで ある

。そ して 土居 は「 人情 を強 調す るこ とは

、甘 えに よっ て結 ばれ た人 間関 係の 維持 を賞 揚す るこ と」 であ ると いう 指摘 も加 えて いる

。つ まり

、関 係の 形成 より はそ の維 持の 方が 大事 であ ると いう ので ある

。 土居 の主 張は

、あ くま でも 常識 的な 範囲 内で 理解 され るも ので

、す べて の主 張を 具体 的な 現象 で裏 付け ては いな い。 その 文章 はど こか やは り「 日本

」と いう 共通 理解 を前 提に して いて

、義 理と いう もの が社 会で どう いう 役割 を果 たし てい て、 どう いう 機能 をす るべ きも ので ある かに 関し ての 議論 はな い。 それ は問 題だ が、 それ でも 彼の 見解 が 人々 の日 々の 生活 にお ける 現実 から 完全 にず れて いる わけ でも ない と感 じら れる 点、 共感 する 読者 の感 覚に よっ て評

⼀四

(17)

価さ れ得 てき たと 思う

。そ して この 方法 は、 義理 とは 何か を科 学的 に証 明で きて はい なく ても

、そ のよ うな 感覚 的共 感に よっ て世 界中 の人 々に 読ま れて いる ので あっ て、 その 方法 を本 稿は 肯定 する

。 そし て土 居は 19 71 年に

『「 甘え

」の 構造

』を 出し てか らも

、何 度も それ を補 強す るも のを 書き 重ね た。 今回 私 が参 照し たの は2 00 7年 に出 たそ の増 補普 及版 であ るが

、そ の中 で彼 は『 続「 甘え

」の 構造

』を 出版 して

「甘 え」 に対 する 総括 的考 察を 試み た2 00 1年 頃か ら、 自分 の論 につ いて の表 立っ た異 論が 出な くな った と振 り返 って い る。 義理 研究 の領 域に おい ても 類似 した 現象 が認 めら れる

。そ れは すな わち 人間 関係 に関 わる テー マが

、そ の頃 から 社会 的注 目を 浴び なく なっ たこ とを あら わす と思 う。 が、 言う まで もな く人 間関 係の 問題 その もの は、 今日 もあ いか わら ず社 会問 題と して 人々 を悩 ませ てい る。 そこ で本 稿は 土居 の問 題意 識に 共感 し、 その 方法 がも つ長 所を 踏ま えな がら も、 それ をさ らに 乗り 越え るた めに 視点 の多 様化 と具 体的 な事 例分 析の 必要 性を 主張 する ので ある

四 、 共 同 的 な も の へ の 幻 想   │ 渡 辺 京 二

そこ で、 渡辺 京二

(1 93 0〜

)の 以下 のよ うな 考え にも 耳を 傾け てみ る。 いわ

ゆる 義理 人情 はど うい う意 味で わが 国の 民衆 の伝 統的 倫理 感覚 であ りえ たの だろ うか

。そ れは 習俗 とし て、 ある いは 社会 的な 規制 力を もっ た規 範と して わが 国の 民衆 を支 配し てき たと いう 事実 にも とづ いて

、彼 らの 意識 の中 枢を 占拠 して いる のだ ろう か。 おそ らく そう では ある まい

。た しか に義 理人 情的 な習 俗は 事実 とし て存

⼀五

(18)

在し

、そ の規 制力 は強 力で あっ た。 だが そう いう 習俗 とし ての 義理 人情 なら

、そ れは 死滅 の方 向を たど りつ つあ る社 会的 遺制 にす ぎな い。 今日 の大 衆た ちは すで に義 理人 情な どと いう 習俗 から 解き 放た れた 世界 に生 きて い て、 たと え小 説や 映画 の中 でそ うい う因 習的 な情 念の 世界 をた のし むこ とが あっ ても

、現 実の 日常 的世 界で 義理 人情 など とい うあ から さま な言 葉を 耳に すれ ば、 嫌悪 の表 情を かく そう とせ ぬは ずで ある

。な ぜな ら、 義理 人情 とい う習 俗が 日常 の世 界で 主張 され ると き、 それ はか なら ず彼 らの 生活 に実 害を あた えず にお かな いこ とを

、か れら は経 験上 知っ てい るか らで ある

。( 渡辺

、2 00 0: p.

47) そし

て渡 辺は

、山 本周 五郎 の作 品『 かあ ちゃ ん』 に描 かれ た「 善意

」を その 例と して 挙げ てい る。 同時 に次 のよ う なそ の内 容に も目 を通 す。 段落 始め の「 彼ら

」と は、 前の 引用 で触 れて いる

「今 日の 大衆 たち

」を 指す

。 彼ら

は「 かあ ちゃ ん」 の中 に、 到達 すべ き倫 理的 規範 を見 るの では ない

。規 範と して それ はそ もそ も到 達し よ うの ない もの であ るば かり でな く、 彼ら がこ の「 かあ ちゃ ん」

⼀家 にた めい きを つか ずに おれ ない のは

、そ れが 指示 する もの が規 範化 を拒 む⼀ 種の 反現 実で あれ ばこ そな のだ

。彼 らは ここのこ 世こにこ あこるこ べこくこ もこなこ いこ幻こ とこしこ てここ の物 語を 読む

。彼 らは この 物語 が反 現実 でし かな いこ とを 熟知 しな がら

、同 時に

、い わゆ る人 情と は究 極的 には この よう な形 相を とる にい たる もの であ るこ とを 感じ とっ てい るの だ。 すな わち

、義 理人 情と は彼 らに とっ て社 会的 習俗 とし てで はな く、 この よう な彼 岸的 な幻 とし て彼 らの 魂の 深部 に伝 えら れて きた のだ

。( 同右: p.

50、 傍 点│ 筆者

⼀六

(19)

⼀七

渡辺 はこ こで

、義 理の こと を「 この 世に ある べく もな い幻

」と して

、ま た「 民衆 が抱 き続 けて きた 義理 とい う夢

」 であ ると 述べ る。 この よう な主 張の 背景 には

、今 日の 社会 に対 する 諦観 の念 が現 れて いる よう に感 じる

。絶 望、 厭世 のに おい がす る。 義理 のこ とを 日常 的で

⼀般 的な 習俗 とし て機 能す るも のと 認め るこ とへ の虚 しさ

、現 実に おい て実 際に 作用 する こと の可 能な 倫理 規範 とみ なす こと への 儚さ とい った

、⼀ 種の 諦め が色 濃く 語ら れて いる ので ある

。 既に 記し たよ うに 今日 の日 本社 会で 義理 とい う言 葉を 聞く こと は昔 より 難し くな って きた し、 今の 時代 の人 たち の 道徳 観念 を改 めて 向上 させ よう とす る試 みが 成功 しそ うも ない

。そ れは そう であ る。 本稿 の主 張も

、そ のよ うな

「復 古」 には ない

。た だ、 義理 を指 向す る心 情そ のも のが 歴史 の彼 方へ 消え てし まっ たわ けで もな く、 人々 がむ しろ 意識 しな いで とっ てし まう 慣習 的行 動に こそ 義理 は生 き残 って 機能 する

。 物語 がい つも 現実 をそ のま ま描 くと は、 前述 の源 了圓 の研 究を とり あげ た際 に述 べた よう に、 言い 切れ ない もの で ある

。山 本周 五郎 の作 品世 界を 含め

、「 幻」 とし ての 義理 人情 を極 めて 美し く情 緒的 に描 く作 品は 今で も大 変多 いわ けで

、そ のよ うな 構造 の作 品が

、義 理と いう 言葉 をあ まり 聞か なく なっ た今 日の 時代 でも 人気 を博 する とこ ろに こそ 考察 に値 する テー マが ある

。 つま り、 そこ で重 要な のは

、社 会的 習俗 とし ての 義理 とい うの をも はや 意識 しな いで

、と いう より 何と なく 嫌悪 し て生 きる 今日 の日 本の 人々 が、 にも かか わら ず山 本周 五郎 の作 品を 読ん で泣 き笑 いす ると ころ にあ るの では ない かと いう 話で ある

。義 理を 描い た作 品に 必ず しも 義理 とい う言 葉が 続出 しな い現 実を 考慮 すれ ば、 それ に当 ては まる ケー スは 夥し い数 にな ろう

。 もう 少し 渡辺 の主 張を 聞く

。源 了圓 の「 すな わち 義理 は、 普遍 主義 の立 場に 立つ 倫理 では なく

、個 別主 義の 立場 に

(20)

立つ 倫理 であ る」 とい う声 や日 本人 にと って の「 公と は西 欧的 な意 味で の公 共と は異 る。 それ は個 人に たい して は、 集団 をさ し示 すの であ るが

、そ の集 団の 長に 該当 する 人を も公 とい う。 した がっ て、 その 公は 上位 集団 にた いし ては 私と なる

。こ のよ うな 関係 が階 層的 につ らな って いる ので ある から

、日 本で の公 は普 遍的 な性 格で はな く、 個別 的性 格し かも たな いこ とに なる

」( 源、 19 69 年: p.

53) とい った 論に つい て、 渡辺 は以 下の よう な異 見を 語っ てい る。

なる ほど 義理 が人 と人 との あい だを つな ぐ個 別主 義的 な倫 理で ある こと には

、⼀ 見異 議を いれ る余 地は なさ そ うに 見え る。 義理 人情 とは

⼀般 にあ る特 定の 人間 に対 する 共感 であ り献 身で はあ って も、 なん らか の抽 象的 な観 念へ のロ イヤ ルテ ィで はな いか らで ある

。し かし それ は、 日本 人の 普遍 的な もの へい たる プロ セス には 特定 の人 間が 媒介 とし て介 在し てい るの がふ つう であ ると いう こと を意 味し ては いて も、 義理 なり 人情 なり が普 遍的 なも のを 指向 して いな いと いう こと では ない

。わ が国 の民 衆の あい だで 普遍 的な もの がこ のよ うに 人間 的な 形姿 をと って 現れ るこ との 理由 こそ

、ま さに われ われ の問 題な ので ある

。( 同右: p.

54) 日本

社会 の「 他人 ごと に徹 底的 にか かわ り、 自と 他と の障 壁を とり のぞ いて しま うよ うな 人情

」や

、「 相互 のあ い だに 無垢 な信 頼関 係が 存在 する もの と仮 定す る義 理」 には

、西 洋諸 国の 共同 体意 識や

、韓 国の それ と│ 恐ら く中 国の それ とも

│違 う側 面、 すな わち 固有 性が ある とい う。 渡辺 は、

「わ れわ れに とっ て倫 理感 覚が 神と 人と の関 係で はな く、 人と 人と の関 係に おい て育 って きた こと はひ とつ の事 実で あっ て、 評価 以前 の問 題で ある

。同 様に

、わ れわ れに

⼀八

(21)

とっ て究 極的 普遍 的な もの が、 正義 でも なく 神で もな く理 性で もな く、 はた また 人間 の自 然で もな く、 日常 のつ きあ い的 なレ ベル にお ける 自他 の共 同性 であ った こと も、 嫌悪 し嘆 くこ とは でき ても 変更 はで きぬ ひと つの 運命 であ る」

(同 上p.

54) と言 う。 様々 な抽 象的 観念 に真 理の 意匠 をか ぶせ て信 仰す るわ けで はな く、 まし てや 人の 形を した 創造 主た る存 在が 与え た 道徳 的戒 律に 従っ て生 きる わけ でも ない

。か とい って 人そ のも のを 信じ るわ けで もな く、 つま りは 自分 と他 人と の間 に存 する 共同 性を 共有 し、 それ を倫 理感 覚と して 生き る。 渡辺 はこ れが 日本 人で ある と説 くの であ る。 そし てそ れ は、 ただ 認め るべ き事 実で あっ て評 価以 前の 問題 であ ると も加 える

。そ のよ うに 義理 の内 在化 は共 同性 への 信仰 とも 表現 でき る。 渡辺 の論 も範 囲は 日本 に限 られ てい るが

、人 と人 が互 いの 境界 を限 りな く欲 する とい うよ うな

、共 同性 への 強烈 な 指向 とい う点 では やは り日 本だ けの 話に は聞 こえ ない

。韓 国人 とし て共 感で きる とこ ろも ある

。そ れは 単に 感情 的な 部分 だけ でな く、 地域 コミ ュニ ティ ーに おけ る共 同体 意識 を支 える 価値 観念 とし ても そう であ る。 この よう な理 解を 日本 と韓 国が 共有 する こと は、 これ まで の義 理論 では 積極 的に 取り 上げ られ て来 なか った

。個 人主 義や 集団 主義 とい う極 に挟 まれ た議 論よ りは

、義 理と いう 要素 が社 会を

、ま たは 社会 が義 理と いう 要素 をど のよ うに 位置 づけ てき てい るか を考 える こと で、 これ まで の歴 史や これ から の歴 史を 眺め る視 線も 変化 し得 ると 思え る。 そし て渡 辺の 指摘 にお ける

「個 別的

」や

「普 遍的

」と いう 言葉 が示 唆す るよ うに

、こ れか らの 社会 にお ける 価値 観念 を改 めて 考え る重 要性 を突 いて いる

。本 稿も そこ に注 目し てい る。 いず れか に正 解が ある とは 思え ず、 むし ろそ の両 極を 融合 する 新し い考 え方 を探 ると ころ にこ そ、 義理 とい うテ ーマ を取 り上 げる 意義 があ る。

⼀九

(22)

ま と め

以上 で取 り上 げた 五つ の義 理論 がす べて では ない こと は、 すで に断 った 通り であ る。 が、 それ らの 論か ら汲 み取 れ る問 題意 識は

、今 日義 理の 問題 を考 える 上で 抑え てお くべ き十 分な 幅を もっ てい る。 ベネ ディ クト の義 理論 は日 本社 会の 義理 を、 他の 社会 では 類例 をみ ない 固有 のも のだ と言 った

。基 本的 には 借金 を 返済 しな けれ ばな らな い時 の気 持ち のよ うな

、不 本意 で嫌 なこ とで はあ るが

、何 故か それ を日 本人 は大 切に して 生き るの だと 説明 して いる

。彼 女の 論を 覆う のは

、そ のよ うな 不自 由な もの の良 さが わか らな いと いう 見解 であ る。 だか ら「 風変 わり

」と いう 言葉 を選 んで いる ので ある

。 源の 義理 論は 義理 のこ とを 学術 理論 の世 界へ 連れ 込ん でき たと ころ にま ず意 義が ある

。前 近代 に存 在し た物 語を 用 い、 その 時代 的な 変遷 をま とめ た。 ただ しそ こに は現 代と の接 点が 具体 的に はな く、 あく まで 日本 人と いう 存在 が時 代を 超え て同

⼀で ある かの よう な前 提に 立っ てい る。 だか ら義 理の こと が人 間の 共同 生活 とと もに あら われ た原 始性 のあ るも のだ と認 めつ つ、 その こと が物 語の 外側 の人 間社 会で はど のよ うに 作用 して いる かに まで は触 れて いな い。 土居 健郎 の主 張は

、日 本社 会の 根幹 をな す人 間的 心情 なる 部分 を親 子関 係で ある とし

、そ の関 係性 だか らこ そ本 能 的に 存在 する 親密 な感 情を

「甘 え」 と定 義し た上 で、 そう やっ て結 ばれ てい る関 係を 成り 立た せる 感覚 とし て義 理の こと を説 明し てい る。 だか らそ れは 関係 だけ を視 野に 入れ るべ きも ので はな く、 関係 を維 持し よう と願 い努 める 行動 さえ も含 む概 念で ある と言 う。

二○

(23)

渡辺 京二 は、 日本 社会 で実 際に は見 られ ない 幻想 とし て義 理の こと を捉 えて いる

。そ れは 理想 的で 美化 しき った よ うな 物語 世界 の幻 であ ると 言う

。だ けれ ども

、そ こに 現れ てい るの は人 々の 夢見 るよ うな 自と 他の 間を つな ぐ共 同性 に対 する 憧れ であ って

、そ れが 実際 の今 の世 の中 には 存在 して いな いと わか って いつ つも

、そ れを 指向 して しま う人 間観 にこ そ注 目す べき 問題 があ ると 言う

。そ れは 抽象 的な 道徳 的観 念と いう より は人 間同 士の 共同 性へ の夢 に近 い感 覚だ そう であ る。 これ らの 義理 論を 貫い てい るの は何 か。 それ は、 義理 の問 題が すな わち 日本 人の 問題 とな って いる こと であ る。 義 理と は何 かを 考え るこ とが

、日 本人 とは 何か を考 える こと にな って いる

。そ の「 自分 探し

」に 火を つけ たの がベ ネデ ィク トの 論で ある とも 言え る。 共同 性と 義理 が関 わっ てい るの なら

、そ れは 共同 体生 活に おけ る生 き方 の中 心概 念で あっ て、 人々 がと もに 生き る上 で望 まし いと され る行 動様 式を 生ん だ価 値観 念を 生ん だ。 その 時の 義理 とは

、な んら かの 崇高 な理 想を 言葉 で定 義し た観 念と いう より は、 生活 で必 要な 行動 様式 であ る。 人間 関係 を円 滑に する 機能 を果 たす 慣習 だと も言 える

。 義理 とい うの が人 間の 共同 生活 とと もに 出現 した 価値 観念 なら

、源 了圓 も述 べて いる よう にそ こに は原 始性 があ る。 それ は人 間が 本性 的に 求め る価 値を 成り 立た せる 部分 でも ある

。他 者を 認識 し、 他者 とと もに 生き るた めに 必要 な要 素と して 受け 継が れた 中に 義理 も存 在す る。 学問 的思 想と して 広が った 義理 の観 念は

、か とい って そも そも 人間 以前 に成 り立 って いた わけ では ない ので ある

。 学者 の観 察か ら思 想が 生ま れ、 その 思想 への 共感 と広 まり によ って 人間 社会 にお ける 内面 化が 進ん だ。 そし てそ の プロ セス が繰 り返 され て今 日に 至っ た。 人々 が義 理は 必要 なも ので ある と思 って いた 社会 は歴 史の 中に 存在 して い 二⼀

(24)

38 63

55

74

12

た。 その 時の 義理 は、 近代 国家 の台 頭と とも に引 かれ た境 界に よっ て分 けら れた

「民 族性

」で はな く、 生活 文化 の⼀ 部で あっ た。 今日 の社 会で 義理 の生 命力 が弱 まっ てい ると すれ ば、 それ は今 日の 社会 がこ れま での 歴史 を経 る中 で、 義理 本来 の機 能を 果た しづ らい 社会 にな った から であ る。 それ でも 人々 が今 日の 社会 で起 こす 行動 には

、他 者を 煩わ しい 存在 だと 考え てい なが らも

、考 えを 越え て欲 する 共 同性 への 肯定 があ る。 その 肯定 を軸 にし て行 動を 選択 する 意識 は、 形式 は地 域に よっ て異 なっ ても

、人 間社 会に 共通 して 現れ るも ので ある

。東 アジ アで はそ れを 義理 とい う名 で呼 び、 他の 地域 では 違う 名で 呼ぶ はず であ る。 それ はあ らゆ る「 関係

」を めぐ って 人間 が求 める 真の 価値 とし て普 遍性 を持 つ。 した がっ て義 理を 特定 の民 族の アイ デン ティ ティ ーや 誇り を証 明す る材 料と する こと は無 意味 であ る。 人間 が生 にお いて 求め る本 質的 な価 値で ある 以上

、義 理は あら ゆる ボー ダー を越 えて 普遍 的な 価値 観念 なの であ る。 以上 のよ うに 本稿 は、 これ まで の義 理論 に東 アジ アと いう 視点 や人 間が 求め る普 遍的 価値 観念 とい う二 つの 要素 が 欠け てい た点 を、 改善 すべ き問 題と して 明ら かに した

。こ れか らの 義理 論は その 欠点 を補 完し

、よ り広 がっ た範 囲で 多様 な具 体例 から 述べ る必 要が ある

。今 後こ の研 究は その よう な方 向性 で、 より 様々 な角 度か らこ の問 題を 明ら かに して 行く

二二

参照

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