『精神現象学』序説冒頭の解明
山 口 誠 一
Ⅰ 現象学の由緒と『精神現象学』
今日,現象学の代表は,フッサール以来の現象学になっているが,その由緒からいうならば,当該の 現象学は,傍流である。現象学の本流は,ランベルト以来,カント,フィヒテ,ヘーゲル(1),エドュア ルト・フォン・ハルトマン,ニーチェ,メルロ・ポンティにほかならない。この本流にあっては,現象 学は仮象論として基本的性格が継承されているからである。それに対してマッハに発端を持つフッサー ル現象学は,現実と仮象の区別を無効にし,両者をともに事実とすることから出発していて(2),ランベ ルト以来の本流からは離れている。
このような精確な 19 世紀哲学史が欠落している原因は,エドュアルト・フォン・ハルトマンの現象学 と,それを継承したニーチェの現象学が今日まったく閑却されていることにある。ハルトマンの『道徳意 識の現象学』(1872 年)は,『精神現象学』の基本構想を踏襲している。道徳意識の諸形態を発展という観 点から叙述していることがヘーゲルに由来することが序説で示唆されている。ニーチェは,おそらくハ ルトマンの現象学を批判的に継承しながら,意識が普遍的伝達の仮象であるという立場を現象体制と呼 び,内的現象学と外的現象学を構想したのである(KSA12. S. 294)。そのことによって,この現象体制が,
物自体と現象を対立させるいわゆる現象主義と違うことを明言している(KSA3. S. 593)。
ところで,『精神現象学』が,仮象論としての伝統に連なることは,緒論(Einleitung)で表明されてい る。「学は,それが登場するという点で,学そのものが一つの現象である。つまり,学の登場は,その真 実状態において実現され展開された学ではまだない」(60)とした上で,「しかし学はこの仮象から自己を 解放しなければならない」(ebd.)と宣言している。意識の自己吟味も「自己を貫徹する懐疑主義」(61)も 仮象論としての現象学本流に属する。
その上で,『精神現象学』がヘーゲル哲学の第一部をなすことによる固有の性格を表明したのが,序説
(Vorrede)である。たしかに『精神現象学』序説の根本問題は,ヘーゲル哲学の基本的立場を実体-主体
説として宣揚することにあるとされてきた。筆者は,それに対して,この実体-主体説は,正確には,主 体説であり,『精神現象学』全体の根本的問いの遂行過程とそれへの応答であることを解明してきた。そ して,当該序説も,『精神現象学』の出発点をなしていることも簡単ながら解明した。この出発点におい
て,ヘーゲルは,現象が,仮象を通して解明されるとき,事象(Sache)となることを力説している。こ の事象こそが,『精神現象学』固有の現象概念である。そこで,ここでは序説第1節・第2節の各行と行 間を註解することによって,以上のことを解明する。
Ⅱ 「序説」第1節の解明 A《第1節》訳文
(1)ふつうの序説は説明である。
著作のはじめに序説を付す場合,そこでは,その著作で著者がめざした目的,〔著作するにいたった〕
動機,同じ問題をとりあつかった古今の著述に対する関係をどう考えるのかなどについて説明されるこ とにふつうはなっている。
(2)説明は哲学の著作では有害にさえ思われる。
〔しかし〕こうした説明は,哲学上の著作においてはよけいであるばかりでなく,事象の性質上,不 適当であり,害にさえなると思われる。
(3)その理由は,説明が哲学的真理の叙述にふさわしくないからである。
なぜならば,〔説明ということになれば,〕哲学について序説で語るのに,どんな仕方で何を語るのがふ さわしいかというと,さしずめ,動向や立場,内容の概略や成果などを並べ立てて話すこと
、、、、
,つまり真 理に関する主張や断言としてあれこれと語られることを寄せ集めることになるが,こうした話しや寄せ 集めは,哲学的真理を叙述するとされるための正しい仕方ではありえないからである。
(4)哲学が成立する圏域は事象そのものである。
ところで哲学というものは,本来,特殊的なものを自分のうちにふくむ普遍
、、
という圏域(エレメント)
において成立するものである。
(5)哲学の事象そのものの表現にとって,目的の実現は必要である。
そのため哲学の場合には,目的
、、
や最後の結果
、、
において事象そのものが完全に本質的な形で表現されて おり,それを実現する過程のほうはもともと非本質的なものだ,というようにほかの学問の場合より以 上に見られやすい。
(6)解剖学の事象そのものは,解剖学の普遍的観念と特殊的内容である。
これに反し,つぎのことは人々がよくわきまえているところである。たとえば解剖学の本性は,生命 のない現存の相において観察された身体諸部分の知見であるとかといった普遍的な観念をもっていても,
それだけではまだ事象そのものを,すなわち解剖学という学問の内容を得たことにならないのであって,
むしろ,解剖学の普遍的観念に加えて特殊的なものを知るように努めなければならない,ということで ある。
(7)解剖学は没概念的なので学問の名に値しない。
─しかも,そのさい,つぎのような事情がある。この解剖学におけるような知見の集積は本当は学問
の名に値しないのだが,そこでは,内容そのものについて,すなわちこれこれの神経や筋肉などについ て語られるときと同様,目的その他の普遍的なことについての話が,並べ立てるだけの没概念的な仕方 でなされるのがつねである。
(8)哲学の没概念的語り方は,自己否定となる。
ところが哲学でその真似をすると,くいちがいが生ずるであろう。すなわち,そうした語り方が用い られながら,それが真理をとらえる能力をもたないことが,その語り方自身から指摘を受ける,という ことになろう。
B《第1節》註解
(1)ふつうの序説は説明である。
ヘーゲルは,さまざまな著作に前書きを付している。『論理学』や『エンツュクロペディー』そして
『法哲学』の前書きは,いずれも序説(Vorrede)と緒論(Einleitung)の両者である。『論理学』でも
『エンツュクロペディー』でも序説は,版を改めるごとに書いているが,緒論(Einleitung)は版を改め ても新たに書いていない。こうして序説は,緒論(Einleitung)ではない。つまり,本文の体系叙述への 導入なのではない。しかも,ふつうの説明なのでもない。当該文は,まさにそのことをいうために語り 出されている。
しかし,結果としては,『精神現象学』の序説は,『論理学』や『エンツュクロペディー』の序説とも違っ ている。なぜならば,ヘーゲルは,『精神現象学』第2版を出す際に,第2版のための序説を書かないで,
初版の序説を改訂しようとしたからである。しかも,この改訂は,表現の改善にとどまった。というこ とは,序説は,緒論とは違った意味で本文と連続していることを暗示している。その理由は,序説第4 節で示されることになる。
さて,ヘーゲルは,ここで,普通の序説でなされている言明形式は,説明(Erklärung)であるとのべ ている。これは,後に明らかになるように,叙述(Darstellung)と対比されている。そして,説明の内 容は,著作の目的,著述の動機,同一問題を扱った古今の著作に対する関係である。これらの内容は,
特殊的な内容を自分のうちに含まない普遍的内容である。特殊的な内容は,序説ではなくて本文の内容 なのである。著作の序説とは,著作本文の特殊的内容についての普遍的説明なのである。説明について は,ヘーゲルは,『精神現象学』本文の意識経験の途次で論じている。説明は,現象を法則でとらえる悟 性の働きである。「言葉のなかにしかない必然性とは,必然性の円をなす諸契機をあれこれのべたてるこ とである。つまり,諸契機はなるほど区別されるが,同時にその区別がなんら事象そのものの区別では ないことが表現されて,区別はそれ自身すぐにまた撤廃される。この運動が説明することである。この ようにして法則が語られ,この法則から,法則の自体的普遍・根拠が力として区別される。しかし,こ の区別についていわれているのは,この区別がなんら区別ではなくて,むしろ,根拠が法則とまったく 同じ性状だということなのである」(109)。ただし,ここでいわれている説明とは,科学的説明であるか ら,序説の説明とはまったく同じではない。その上で,科学的説明とは,なるほど現象の内容を法則と
いう形式に普遍化する。つまり,現象の根拠を力として示す。しかし,その普遍も,現象の区別された 内容つまり「事象そのものの区別」を含んではいない。
(2)説明は哲学の著作では有害にさえ思われる。
『精神現象学』の「序説」の説明と本文の叙述との関係は従来,考え抜かれたことはほとんどなかっ たといってよい。そして,そのことによって,この書物の「序説」から,根本洞察を示す章句が引用さ れながらも,「序説」全体の不可欠性について考えられた試しはないといってよいであろう。なぜならば,
ここで序説の説明は哲学の著作では有害にさえ思われる,とのべられているからである。この言明は,
概念把握(begreifen)をもって哲学の真理を体系的に叙述する学的立場から見て,「哲学上の著作」は体 系的であるから,体系性を欠いた「序説」の説明に関して,当然ヘーゲルが抱く考えとも思えよう。と するならば,「哲学上の著作」には「序説」は有害であることが「学の体系 第1部」たる『現象学』の
「序説」で語られている,というまことに不可解な事態が惹起されていることになる。
しかし,この事態はヘーゲルの言明それ自体に由来するものではなく,言明の誤読に由来するもので ある。換言するならば,本来必要のない「序説」を慣習に従って付加したと考えてはならない。ヘーゲ ルはそもそも「緒論」(Einleitung)を最初に執筆し,さらに本文脱稿後,きわめて限られた時間で「序 説」をわざわざ執筆している。それは,「緒論」とは別の意味を持つ前書きが学の体系に先立って必須で ある,という確信に支えられていたはずである。なぜならば,ヘーゲルはその一文を「思われる」
(scheinen)という言葉で結んでおり,それは学の叙述を理解している人々にとってそのように「思われ
る」が,実はそうではない,ということを意味するからである。要するにヘーゲルはここで専一的に己 れの立場のみを正面に出すのではなくて,哲学の真理を叙述する形式として学的体系を採用する人々と 歩みをともにすることを考えている。このことを「哲学が知に向かう愛という名称を脱ぎ捨てることが できて,現実的な知になるようにという目標に,すなわち,学の形式に近づくようにすることに協力す ることが,私が企てたことである」(6)という章句から読み取ることができる。ヘーゲルはこの文で
「この仕事に寄与しよう」といっているように,その仕事が己れ一人の仕事ではないことを明言している。
その上で,そのような仕事に従事する人々一般にとっては「序説」が「哲学上の著作」には害にさえな ると思われてくる根拠を,ここでは,「事象の本性」(Natur der Sache)と表現している。
事象とは,ここでは哲学上の著作の内容である。事象は,真理であるが,体系による特殊区分を含ん だ普遍であるから,特殊区分を含んでいない普遍とは区別している。そして,そのような事象の具体的 普遍の根拠が「事象の本性」であり,それは「事象そのもの」(Sache selbst)と同義である。たとえば,
物体の落下法則であるs= gt2では,sが,落下距離という空間を表現し,tが落下に要する時間を表現 している。そして,gで表現されている重力がある個別的物の落下という出来事を普遍たらしめる根拠に なるべきである。ところが,重力は事象そのものたりえないので,この個別的落下現象は,事象にはな らない。その理由は,重力は,「区別一般を自己のうちに含んでいない」(108)からである。そうなると,
時間と空間との間にも,またこの両者と重力との間にも必然的関係がなくなる。
そもそも,物と事象の違いについては,ヘーゲル自身は,つぎのように説明している。「かくて,いま
2 1
や感性的確信と知覚の物が自己意識に対して意義を持つにいたるが,意義を持つのは,ただ自己意識を 介してのことであり,この点に物と事象の区別はもとづいている」(271)。この引用文では,事象と物の 区別は,自己意識を介するかいなかということにある。この論脈においては,自己意識を介するとは,
意識の対象が自己意識の行為の結果としての所業(Werk)であることである。この意味では,著作の内 容は,まさしく著者の所業そのものにほかならない。しかし,当該の文における物と事象の区別とは,
もっと基本的なのである。物とは,基体-性質体制でとらえられた対象である。ヘーゲルによれば,物の 知覚にあっては,物の基体が「もまた」という普遍的媒体としてとらえるか,あるいは「一物」という 個別としてとらえられるかのどちらかになる。つまり,物においては普遍は個別を含んでいない。とこ ろが,事象においては,個別がまた普遍である。つまり,事象の普遍は個別を含んでいる。その構造が
「内的区別」ないし「事象そのものの区別」(109)なのである。したがって,序説で語られている普遍が 本文の特殊的区別を含んでいないのであれば,その区別は,「事象の本性」である「事象そのもの」の展 開にとって有害となる。なぜならば,「事象そのもの」の展開とは,基体としての実体が自己を否定する ことでもあるからである。
(3)その理由は,説明が哲学的真理の叙述にふさわしくないからである。
まず,「哲学的真理を叙述するとされるための正しい仕方」とは,非体系的叙述に対立する体系的叙述 ではない。なぜならば,『精神現象学』においては,叙述とはつねに体系的だからである。叙述とは,哲 学体系の表現形態であり,もともと哲学上の著作の本文そのものにほかならない。たしかに,この叙述 には,説明としての序説が対立する。ここでは,説明とは,「真理に関する主張や断言としてあれこれと 語られることを寄せ集めること」[Ⅱ-A(3)]なのである。
だが,「哲学的真理を叙述するとされるための正しい仕方」とは,精神の形成陶冶(Bildung)なので ある。形成陶冶に合致する序説の表現形態は通常の説明ではないと,ヘーゲルはいっている。むろん,
『精神現象学』には,序説(Vorrede)と緒論(Einleitung)という2つの前書きがある。序説は,学の 体系の前書きであり,緒論は,学の体系第1部としての『精神現象学』の前書きである。このようにし て,学の体系の前書きにふさわしい序説をヘーゲルは明らかにしようとする。そのために,通常の序説 としての説明が学の体系の前書きにふさわしくないことをつぎのようにして明らかにする。まず,序説 の中で語られている著作の目的や最後の結果こそ普遍的なものなのだから,普遍的なものが含んでいる 特殊なものを実現してゆく過程は非本質的なものである,という見方は,謬論として提示されてゆく
[Ⅱ-A(5)~(8)]。つぎにある哲学的著作が同じ対象についての他の諸研究に対してどのような関係を持 つか,といった通常の序説の話題にもつぎのような不適切な関心がはいり込んでいる。それは哲学の諸 説の間のたんなる相違を,矛盾としてだけとらえ,それらに対して賛成か反対かのいずれかの態度をと ることである。このことによって実のところ,諸説の間の相違を,真理が展開してゆく過程としてとら え,実現の過程が事象にとって本質的であることが隠蔽されることになる。
(4)哲学が成立する圏域は事象そのものである。
「特殊的なものを自分のうちにふくむ普遍
、、
」とは,事象そのもののことである。そして,普遍のうち
に含まれた特殊的なものとは事象である。魚が水という圏域で生きるように,哲学は事象そのものの圏 域で成立する。そして哲学の表現はすべて事象なのである。しかし,普遍が自分のうちに特殊的なもの をふくむ(schliessen)という事柄は自明ではない。むしろ,普遍は特殊的ではないというのが常識であ る。そのような常識に反した圏域は,『精神現象学』では「第2の超感性的世界」(111)ないし「逆さま の世界」(ebd.)として語られている。しかしまた,ここでは,そのような常識に対する批判をヘーゲル は意図しているのではない。むしろ,推理(Schluss)ということをめぐる常識を批判しようとしている。
普遍が自分のうちに特殊的なものをふくむ(schliessen)ということは,大前提から,特殊的なものを中 項にして結論を推理することによって普遍を閉じて完成させることである。
ここで推理の常識に従えば,結論において中項は姿を消しているが,結論となる命題のうちに含まれ ているということになる。これは,結論の命題が普遍を表現しているという常識に立脚している。その 常識を批判する意味でも,つぎに哲学における普遍の常識を批判する。
それに対して,ヘーゲルのいう普遍とは,推理つまり体系的叙述が表現する。たとえば,『精神現象学』
という体系的叙述全体が推理であることについてはこういわれている。「意識が,普遍的精神と意識の個 別態(感性的意識)との間で中項とするのは,意識の諸形態化の体系であり,それは,精神の,全体へ と己れを秩序づける生としてなのである」(199)。こうして,中項となる意識の諸形態は事象(Sache)で あって物(Ding)ではない。そして,まさしく,『精神現象学』全体を推理として基礎づけているのが,
事象そのものである。
(5)哲学の事象そのものの表現にとって,目的の実現は必要である。
ここで,序説と本文の関係を,哲学が成立する圏域としての「特殊的なものを自分のうちにふくむ普
、
遍
、
」の見地から説明しようとする。ただし,注意すべきは,目的と最後の結果を同等に見ているのは,
『精神現象学』の序説が,結論部たる絶対知の章の後に,哲学体系全体への前書きとして書かれたという 経緯と連動している。推理の常識からすれば,哲学の目的を扱っている序説や,最後の結果を扱ってい る結論部の命題が本質的であり,「特殊的なものを自分のうちにふくむ普遍
、、
」つまり事象そのものが推理 の結果として完全に本質的に表現されていることになる。たとえば,(A)現実的なものは普遍的なもの である。(B)ところで,現実的なものの本質は普遍的なものである。(C)したがって,普遍的なものは 現実的なものの本質である。この推理では,(C)が結論の命題であり,当該命題の主語である普遍的な ものが,特殊的なものを自己のうちに含む普遍つまり事象そのものなのである。しかし,ヘーゲルによ れば,事象そのものは,この推理全体において完全に表現されるのであって,結論の命題だけでは表現 されないのである。ちなみに,『論理学』では,必然性の推理において,媒介するものは,事象の客観的 本性つまり事象そのものである(W6, S. 354)。もっといえば,事象そのものは最初は述語あるいはカテ ゴリーなのであって,主語なのではない。最初の主語は,事象である。となると,序説は,推理の大前 提として本文の小前提,結論とともに推理の一部となるのかどうかが問題となる。
そこでまず,『精神現象学』でいうカテゴリーという語の意味をひとまずのべる。第1に,カテゴリー は,端的に「理性」と呼ばれる。第2に,カテゴリーはさしあたっては,たんに自己意識の確信にすぎ
ず,語で表現される思想的想念であるような「普遍の抽象態」であるが,次第に客観化されて,「理性」
の章のCにおいては,「事象そのもの」としてとらえられるのである。さらに,第3に,「精神」の章では,
「世界」としての「事象そのもの」の論理構造がカテゴリーと呼ばれるのである。
ヘーゲルは,「理性」の章前文において「理性は一切のものの実在態であるという確信である」(160)
とのべ,さらにまた「一切のものの実在態であるという確信は,最初は純粋カテゴリーである」(162)と のべている。したがって,「理性」は,さしあたって「純粋カテゴリー」である。しかも,「一切のものの 実在態である」という句は「一切が自らのものである」(162)とも言い換えられ,それは「〔本質的存在 としての意識の〕最初の言表作用」であり,「抽象的で空虚な言葉」(160)といわれている。したがって,
ここでのカテゴリーは,言表されるかぎりでの存在の普遍態であって,その現実的内容が顕在化してい ないのである。
しかし,ヘーゲルにとって存在するものと,確信の中で,概念語の内容として言表される普遍態との 間に溝は存在しない。自己意識の語る言葉は,存在するものどもを取り集め,それらの本質を開示する。
ヘーゲルは,このように考えたからこそ「抽象的で空虚な言葉」としての「純粋カテゴリー」が「理性」
の章のCで言葉の意味を存在するものにおいて表現するという手立てをとったのである。ということは,
存在が本質を表現する,その有り様が探究されているということである。たとえば,ヘーゲルが「掟」
の存在性格を「実体」(310)あるいは「現実態」(285)と規定し,かつ「普遍的自我」(235)と規定して いるのは主観によってとらえられた本質としての「思想的想念」である「掟」は本来的に存在として現 実化されていることを含意している。そして,ヘーゲルのいう「世界」というものも,そのような場面 で成り立っている。
以上が,カテゴリーという語が『精神現象学』で示している根本的事態である。しかし,ここで当然 問題にされるべきことは,ではいまのべた根本事態をなぜカテゴリーというアリストテレス以来の伝統 用語で,ヘーゲルは表現しようとしたのかということである。この点について検討するに際して,ぜひ 注目しておくべきことは,ヘーゲルは,意識の経験という場面で,存在の成り立ちを解明するに当たっ て,類─種─個という,カテゴリーに係わる語が依然として有効であると考えていたことである。もち ろん,それは,これらの語の再検討と,従来,これらの語が主として物的事象について考えられていた のを,行為や自己そのものについても使ってゆこうという企図を伴っている。それゆえにこそ,ヘーゲ ルは「理性」の章のAの「観察する理性」やBの「行為的理性」についての叙述そしてCにおいて,カ テゴリー概念の探究を,個体概念の探究と相即的に論述しているのである。
してみれば,「理性」の章と「精神」の章との関係を考える際にも,論理的には類─種─個の論理がき わめて重要な役割を果たすことになる。そして,「事象そのもの」をカテゴリー概念から規定しようとす るCの第 14 節でも類─種─個の論理を念頭に置いていることは,疑いを容れない。事実,ヘーゲルは,
第 14 節第2文以下で第 13 節以前の議論を個別と普遍の関係に即して,とらえなおした後,当該の節をつ ぎのように結んでいる。「事象そのもの自身は,まだ主語ではなく,主語として妥当するのは,かの〔個 人の目的,手段,行為そのもの,そして現実態という〕契機である。というのは,かの諸契機は,個別
態一般の側に属し,事象そのものは,やっと単純に普遍的なものでしかないからである」。
(6)解剖学の事象そのものは,解剖学の普遍的観念と特殊的内容である。
この文で,ヘーゲルは,「特殊的なものを自分のうちにふくむ普遍
、、
」の例として解剖学の事象そのもの を挙げている。解剖学の事象そのものは,解剖学の普遍的観念と特殊的内容である。したがって,哲学 における「最後の結果」にあたるのが,解剖学にあっては「解剖学の本性は,生命のない現存の相にお いて観察された身体諸部分の知見であるとかといった普遍的な観念」である。ヘーゲルが,ここで明ら かにしたいことは,解剖学においても,哲学においても,「最後の結果」ないし結論の命題は,学問の内 容である事象そのものを表現していないことなのである。解剖学の事象そのものを表現するには,神経 や筋肉といった身体諸部分の知見を必要とする。これは,たしかに一般的に認められることではある。
しかし,哲学の学問性と解剖学の学問性とは同じではない。その違いがつぎに明言されるのである。こ の過程は,事象そのものという表現を日常的次元から哲学的次元へと限定してゆく過程なのである。
(7)解剖学は没概念的なので学問の名に値しない。
この文で,ヘーゲルは,前の文で「生命のない現存の相において観察された身体諸部分の知見」といわ れた解剖学の知見を「知見の集積」と性格づけている。それをさらに「並べ立てるだけの」(historisch) そして「没概念的」(begrifflos)と性格づけている。「知見」とは,観察によって得られた事実ないしデ ータを一般化してできあがるのであり,それを並べ立てて集積してゆくことが記述するということなの である。「並べ立てるだけの」(historisch)という表現は,『精神現象学』全体で7箇所で用いられてい る。すでに第1節で「動向や立場,内容の概略や成果などをただ並べ立てて話す
、、、、、、、、、
こと(historische
Angabe)」という表現で登場している。また,序説第 48 節では「会話だとか,知識の並べ立てるだけの
授受においてであり,こうしたものは認識のためよりも,好奇心のためのものにほかならない。書物の 序説などもほぼ似たようなものである」(36)といわれている。第 41 節では,個々の現存相互の関係に必 然性がないことが,「純粋に並べ立てるだけのこと」(31)の特徴になっている。ヘーゲルは,それをさら に「没概念的」という独自の用語で形容している。概念的であるということは,知見がさらに普遍化さ れ,並べ立てられるのではなくて体系的に関連づけられていることである。その方法が弁証法である。
したがって,この文でいわれている学問とは,弁証法にしたがった学知の体系をとりわけて意味してい る。それは,「概念の自己運動」(51)なのである。
してみれば,「動向や立場,内容の概略や成果などをただ並べ立てて話す
、、、、、、、、、
こと(historische Angabe)」 は,没概念的な説明となり,体系的叙述には余計となる。しかし,ヘーゲルは,『哲学的諸学の百科全書』
(1830 年)では『論理学』に先立つ『精神現象学』という導入のかわりに,「予備概念」(Vorbegriff)を 置いた。この「予備概念」について,ヘーゲルは,「本書〔『哲学的諸学の百科全書』〕で論理学に与えて いるような意味および立場を,解明し導いてくるために,客観性に対して思惟がとるさまざまな態度
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
を,
多少詳細な緒論のかたちで考察すべきである」(Enzy.§25)とのべている。さらに「本書でこれから行 おうとする考察は,たんに並べ立てるだけで弁じたてるだけの態度しかとりえないという不便を一層多 く持っている」(ebd.)と認めてもいる。つまり,体系的叙述の混乱を認めた上で,並べ立てるだけの前
書きを優先することへと変化した。
(8)哲学の没概念的語り方は,自己否定となる。
ヘーゲルによれば,「真なるものは全体である」(15)ことになり,その全体は,概念の自己運動によっ て体系として実現される。この体系は思弁的叙述という表現であるから,この表現単位は,哲学命題で ある。したがって,命題そのものでは真理は実現されない。ところが,並べ立てるだけの没概念的語り 方に従えば,命題に真理が実現されるから,「知見の集積」は,真理の集積となる。たとえば,「蘭の花は 高価である」とか「蘭の花は白い」といった語り方で蘭の花という基体についての真理が,つぎつぎと 並べ立てられてゆく。要するに,解剖学の語り方というのは,基体主語に偶有性として述語が外から付 加されてゆくことなのである。それに対して,哲学命題においては,純粋概念としての主語にその主語 の本質が「概念の絶対的で根源的な分割」(W6, S. 301)によって主語の内部から述語として展開する。
したがって,通常の命題理解によって,哲学の真理を語ろうとすれば,その命題形式と命題内容との間 に「くいちがい」が生ずることになる。このようにして,ただ並べ立てるだけの語り方をするとその語 り方自身から真理をとらえることができないことを指摘される。したがって,読者が通常の命題理解か ら哲学命題へ転換するためにも序説はあってよいわけである。たとえば,B・ブルジョアは,「体系的な 学問哲学,自己自身を知る哲学は,序説で語ることによって実際自己自身に矛盾する」(Cf. B.
Bourgeois, G. W. F. Hegel, Préface et introduction de la phènomenologie de l’esprit.Librairie philosophique J. Vrin, Paris, 1997, p. 220)と理解している。
Ⅲ 「序説」第2節の解明 A《第2節》訳文
(1)同一問題を扱った哲学著作の関連づけが真理の発展を見えなくする。
他方,また,ある哲学的著作が,同じ問題に関する他の諸研究に対してどのように関係するか,とい うことを明確にしようとする場合にも,そこに異種の関心がはいってきて,真理を認識する際に肝要と なる事態をくもらすものである。
(2)真偽の対立を固定して哲学の学説を考えがちである。
というのは,真と偽との対立が固定したものと思いこまれているのに応じて,この思いこみは,目前 の哲学体系に対して賛成なのか反対なのかを期待しもするのが常だからである。それで,一つの哲学体 系について説明される場合でも,それは賛否のどちらなのかというようにしか受けとらないのが常だか らである。
(3)真理は発展する。
思いこみは,哲学体系のあいだに差異
、、
があるのを,真理が前進してゆく発展としてとらえるというよ りは,差異のなかに矛盾しか見ない。
(4)花は蕾を反駁する。
─花が咲けば蕾
つぼみ
が消えるから,蕾は花によって反駁されるということができよう。
(5)果実が真理ならば花は偽になる。
同様に,果実により,花は植物の生存としては偽であったことが宣告され,植物の真理として花にか わって果実が現われる。
(6)花と果実は矛盾しあっている。
植物のこれらの諸形態は,それぞれ区別しあっているばかりでなく,たがいに両立しないものとして も相互に押しのけあっている。
(7)花と果実は植物の有機的統一に必要である。
しかし同時に,植物の諸形態は,諸形態の流動するという本性によって,有機的統一の諸契機となっ ており,この統一のゆえに,諸形態はたがいに反駁しあわないばかりでなく,どの一つも他と同じく必 然的なのである。
(8)植物は全体としての生命である。
そして,〈同じく必然的なのである〉というこのことが,全体としての生命を成り立たせているのであ る。
(9)通常は,哲学体系へは一面的にしか反対しない。
─ところが,一方で一つの哲学体系に反対する場合,反対する人の常として,自己のことを,このよ うな仕方では包括的に理解しない。
(10)この〔反対論を〕受けとる人々の意識も一面的である。
また,他方で,この〔反対論を〕受けとる人々の意識も,一般に,反対論をその一面性から解放して 自由な態度で受容することができず,対立し争いあっているかにみえる形態が,相互に必然的な諸契機 であることを認めえないでいる。
B《第2節》註解
(1)同一問題を扱った哲学著作の関連づけが真理の発展を見えなくする。
同一問題を扱った哲学著作の関連づけは,《第1節》(1)にあるように,通常の序説で取り扱われる。
「真理を認識する際に肝要となる事態」とは,同一問題を取り扱った著作で表明される立場を,単純に真 と偽という枠にはめることなく,どちらをも真理認識の発展の契機として位置づけるということである。
たしかに,それぞれの立場を,外部から比較し位置づけることは序説で説明できる。しかし,ヘーゲル は,一つの立場が自己を否定して別の立場に発展することを念頭に置いている。この点は,『差異書』の 哲学史観から大きく変化している。『差異書』によれば,哲学の内的本質たる理性は,同一であるがゆえ に,そこでは先行者も後行者もいない。たしかに,哲学者固有の見解が,それぞれの哲学体系という形 態をとる。しかし,思弁とは,一にして普遍的な理性の自己自身を目指す働きである。したがって,思 弁は,さまざまな時代や,その時代の哲学者の頭脳から生み出された哲学体系のうちに,たんにさまざ
まな様式や純粋に固有の見解を見ることではない。むしろ,思弁とは,それらの見解を通して,自己を 絶対的同一性として認識することにほかならない(GW 4, S. 10)。ここでは,哲学体系と哲学の内的本質 とが厳格に区別されていて,後者が優位に置かれている。それに対して,『精神現象学』では,真理は哲 学体系において実現され,体系から体系への発展に真理を見ている。
(2)哲学の学説を真偽の対立を固定して考えがちである。
前の文で,「異種の関心」といわれていたことは,当該文に従えば,一つの哲学体系を真と判断し,賛 成するのか,あるいは偽と判断して反対するのかということになる。したがって,一つの哲学体系の説 明を受ける際にも,その説明が,その哲学体系に賛成しているのか,あるいは反対しているのかに関心 が集まる。ここでは,このような関心を抱く当事者,結局は,真と偽の対立を固定する当事者を,「思い
こみ」(Meinung)と呼んでいる。これは,いうまでもなくギリシア語のドクサのドイツ語訳である。し
かるに,ドクサは,臆見,独断そして思いなしとも訳され,命題の形式をとる。したがって,真と偽と の対立を固定するとは,真理を命題形式で,偽を排除して表現することである。しかるに,Ⅱ-B(6)で 明らかにしたように,通常,学問の普遍的内容は,結論の命題に表現されているとされる。したがって,
真と偽を固定する思いこみと,結論の命題に普遍が表現されているとする通説とは,命題中心という点 で軌を一にする。後者の帰結が前者なのである。なぜならば,大前提と小前提から分離された推理の結 論は,独断となるからである。
(3)真理は発展する。
この文には,「真理が前進してゆく発展」という見地が,「哲学体系のあいだにある差異」から説明され たりしているので,差異,対立,矛盾という反省規定からとらえがちである。しかし,とりわけて「哲 学体系のあいだにある差異」をより詳密に解明しておく必要がある。このことについては,『差異書』が 参考になる。この書では,フィヒテ哲学体系とシェリング哲学体系の差異を解明している。前者は,自 我の体系であり,後者は,絶対的同一性の体系である。したがって,両体系の差異とは,自我と絶対的 同一性の差異ということになる。ここで,ヘーゲルは,哲学の体系と区別して哲学の本質を導入し,そ れは,絶対者であるとする。そうなると,両体系の差異とは,それぞれの体系が,絶対者をどれだけ表 現しているのかということになる。フィヒテの自我は,主観-客観である絶対者を主観的にしか表現でき ないのに対して,絶対的同一性は,主観と客観の絶対的な同一なのであるから絶対者を完全に表現して いると判定したわけである。ここに,絶対者の不完全な表現から完全な表現への真理の発展が見られる。
問題は,この不完全な表現と完全な表現を偽と真との対立というように固定しないことである。つまり,
前者は後者にとって必要なことである。つまり,前者の自己否定によって後者へと発展する。ところで,
発展とは自発的に展開してゆくことであり,しかもそれが全体真理への前進となる。そのような自発的 展開とは全体を表現することであり,それをヘーゲルは具体的と呼ぶ。原語のkonkretの語源は,ラテ ン語のcon-crescereであり,集まりながら生長すること(zusammen-wachsen)を意味する。なるほど,
わたしたちは,概念は抽象的であり,具体的な個物を普遍化していると考える。しかし,ヘーゲルによ れば,そのような普遍概念も,体系的叙述によって,個別を含むことができる。ヘーゲルは,「概念は絶
対に具体的なものである」(Enzy.§164)として,「普遍は,同時に特殊と個別とを自己のうちに含んで いるという意味をはっきりもつ自己同一者である」(ebd.)と明言している。
(4)花は蕾を反駁する。
ここで,ヘーゲルは,一つの哲学体系ともう一つの哲学体系の関係を,花と蕾の関係に喩えている。
明らかに,真理の前進する発展が,植物の生長に喩えられている。花が咲いて蕾が消えることと,もう 一つの哲学体系が一つの哲学体系を反駁することが重なるのである。哲学が,体系とその本質たる真理 からできあがっているように,植物は,花や蕾という形態と,その本質たる生命からできあがっている。
なるほど弁証法のうえでは,植物の生命が自己の形態たる蕾を否定し揚棄して,花へと前進発展する。
しかし,植物の形態のあいだの差異という点では,花が蕾を反駁している。こうして,「真なるものは全 体である」とか「真理の前進発展」といった見地は,有機体論に似ている。しかし,ヘーゲルは「蕾は 花によって反駁される」という有機体論そのものを,「ひとはいうことができよう」という間接表現にし ていることからもわかるように,有機体論と弁証法をここで同一視しているのではない。
(5)果実が真理ならば花は偽になる。
形式論理学では,真と偽は,命題の値である。それに対して,ヘーゲルにあっては,概念自体が存在 であり,判断ないし命題は,概念の根源分割によって生ずるので,存在における分裂状態なのである。
こうして,果実という存在が真理ともなる。ただし,ここでは,ヘーゲルと違って,真と偽の対立が固 定されている。
(6)花と果実は矛盾しあっている。
ここでは,植物の諸形態が相互に矛盾しあうことを明言している。たとえば,花と果実は,相互に区 別しあうだけではなく,相互に両立しないものとしても排斥しあうからである。植物の諸形式自体が反 省規定として,区別しあい,矛盾しあうという運動をするのである。けっして,外部から反省して矛盾 と規定されているわけではない。なお,これまでに,区別,差異,対立,矛盾という反省規定が登場し ているが,同一,区別そして矛盾が大別されて,区別が,さらに差異,対立に細分されるという『論理 学』の本質論の叙述にここでも即応している。矛盾も,対立が非両立性まで展開した規定として理解さ れている。
(7)花と果実は植物の有機的統一に必要である。
ここでは,前の文から一転して,花や果実という諸形態の本性が流動するということにあることを論 拠に,花や果実が有機的統一をなしていてたがいに反駁しあわないことになる。だが,流動するという ことと有機的統一ということのつながりはまったく明らかではない。さらには,「固定した思想」を流動 化するということもいわれている(27)。そして,それは,感性的現存を流動化することよりもずっと困 難であるとされている。流動するということは,ある規定態が全体の契機になることを喩えている。規 定態が自己を否定して運動することを意味している。してみれば,「真理の前進発展」とは,有機体論か らいえば,真理が一面的なものから,対立項をとりこみながら全面的なものになってゆくことである。
問題は,それが存在論的になされることなのである。真理が一面的であることは,《Ⅱ-A》(2)では「真
と偽との対立が固定したものと思いこまれている」と表現されていた。
(8)植物は全体としての生命である。
前の(7)で,植物の生命は,諸形態の本性としては,流動し,その流動は,生命を全体化するとのべた。
このかぎりでは,生命が全体化したとき,生命の流動は停止するようにも見える。一本の植物が,種子 から幹,枝葉へと生長し,さらに,蕾を付けて,花を咲かせ,果実を実らせて全体となる。しかし,こ の果実は,また最初へ還帰して種子となって新たな流動へ向かうのである。
(9)通常は,哲学体系へは一面的にしか反対しない。
前の(8)でのべられたように植物の生命が自己否定を経ながら全体化してゆくことを,ヘーゲルは概念
(Begriff)と呼んでいる。通常は,概念とは,概括的・包括的理解を表現する普通名詞である。したがっ
て,概念的に理解する(begreifen)とは,一面的に理解しないで包括的に理解することを意味している。
しかも,ヘーゲルの場合は,一つの哲学体系に反対して否定することも概念的に理解することなのであ る。つまり,一つの哲学体系が自己を否定する働きを具有していて,その働きの結果,別の哲学体系を 生み出し,哲学の真理という全体へと生長してゆくことを,あるがままにとらえることが概念的に理解 することなのである。こうして,ここで「自己を包括的に理解する」(sich begreifen)とは,「一つの哲 学体系に反駁すること」そのものが,その反駁によって自己を否定し,別の哲学体系となることであり,
さらには,否定以前の哲学体系が,新しい哲学体系の契機となって包括され全体化することである。こ うなると,植物の生命が全体化することも,哲学体系への反駁が全体化することも,sich begreifenであ るから,日本語でも,begreifenは「理解する」と訳すよりは,「包括する」と訳した方が本来より適切 である。
(10)この〔反対論を〕受けとる人々の意識も一面的である。
ここで,注意すべきは,一つの哲学体系に対する反対論を自由に保持することと,対立したかにみえ る哲学体系の両者を相互に必然的であると認識することとが同じ事態であることである。全体的認識の 自由は,認識対象である哲学体系相互の必然的関係に由来する。なぜならば,認識対象の全体性は,哲 学体系相互の必然的関係を根拠としているからである。さらに注意すべきは,ヘーゲルは,哲学の知は,
直接知であってはならず,媒介知であるがゆえに,体系となることを,ここでは前提している。そして,
そもそも,哲学の歴史自体が,一つの体系なのである。
註
本文の引用文の後の括弧内の算用数字は,G. W. F. Hegel, Phänomenologie des Geistes (1807). Hrsg. v.
H.-F. Wessels u. H. Clairmont, Felix Meiner Verlag, Hamburg, 1988. の頁数である。〔 〕内は,筆者の補足で あり,原文の隔字体は,本論稿では,圏点を付けて示した。〈 〉は,一まとまりの表現であることを示す補足 である。
(1)Vgl. N. Bolz, Eine Kurze Geschichte des Scheins. Wilhelm Fink Verlag, München, 1991, S. 43ff.
(2)Vgl. E. Mach, Die Analyse der Empfindungen und das Verhältnis des Physischen zum Psychischen. Verlag von G. Fischer, Jena, 1903, S. 8f.
文献略号
GW: Georg Wilhelm Hegel, Gesammelte Werke in Verbindung mit der Deutschen Forscungsgemeinschaft. Hrsg. v. der Rheinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaften. Felix Meiner Verlag, Hamburg, 1968ff.(GWの後に巻数と頁数を記してある)
W: Georg Wilhelm Friedrich Hegel: Werke in zwanzig Bänden. Auf der Grundlage der Werke von 1832-1845 neu editierte Ausgabe. Redaktion E. Moldenhauer, und K. M. Michel, Frankfurt am Main, Suhrkamp Verlag, 1969-1979.(Wの後に巻数と頁数を記してある)
KSA: Friedrich. Nietzsche: Sämtliche Werke. Studienausgabe in 15Bänden. Bd. 3, Hrsg. v. G. Colli u.
M. Montinari, Deutscher Taschenbuch Verlag/de Gruyter, Berlin/New York, Neuausgabe 1999, S. 590ff.
(KSAの後に巻数と頁数を記してある)
《Summary》
Er ö rterung der Er ö ffnungsparagraphen der Vorrede der Ph ä nomenologie des Geistes.
YAMAGUCHI Seiichi
Der Gedanke ist nicht nur die Bedeutung, sondern auch die Sache, den der Hegel-Leser anhand des Hegel-Texts begreifen müssen. Die Sache unterscheidet sich nicht nur vom bloss objektiven Ding, sondern auch von der bloss subjektiven Bedeutung. Die Sache ist deshalb die Objektivität, die die Subjektivität der Bedeutung durchdringt. Es heisst bestimmt in der Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften(1830) §464, dass der Gedanke keine Bedeutung mehr hat. Man kann zwar ohne das Verständnis der Bedeutung der Sprache keinen Gedanke begreifen, die diesen Gedanke ausdrückt, aber ,der Gedanke ist die Sache.‘(Enzy. §465) Nur diese Sache ist ,die wahre Objektivität‘(Enzy. §464). Deshalb heisst das Verständnis des Gedankens Hegels das Verständnis der Sache als ’der wahren Objektivität‘. Also sind natürlich die Bewusstseinsgegenstände der Phänomenologie des Geistes und die Denkbestimmungen der Wissenschaft der Logik die Sachen. Nur die Sache ist das Hauptthema der Eröffnungspara- graphen der Vorrede der Phänomenologie des Geistes. Es heisst in der Vorrede der Phänomenologie des Geistes: ,,Solche Bemühungen mit dem Zwecke oder den Resultaten, so wie mit den Verschiedenheiten und Beurteilungen des einen und des andern, sind daher eine leichtere Arbeit, als sie vielleicht scheinen. Denn statt mit der Sache sich zu befassen, ist solches Tun immer über sie hinaus; statt in ihr zu verweilen und sich in ihr zu vergessen, greift solches Wissen immer nach einem Andern, und bleibt vielmehr bei sich selbst, als dass es bei der Sache ist und sich ihr hingibt.“(§3)