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ジェンダーの視点から考察するAmerican Indianの社会

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ジェンダーの視点から考察するAmerican Indianの社会

石 井 泉 美

はじめに

「インディアン」といえば、誰もが何らかのイメージを即描くことができ る。では、「インディアンの女性」と性別を限定された時、どのような人物 像が浮かぶであろうか。1995年に日本でも公開され、すっかりおなじみとな ったディズニーの長編アニメーション映画『ポカホンタス』の姿であろうか。

それとも、1804年から06年にかけて、ルイス=クラーク探検隊の「案内役」

を務めたといわれるサカガウィアの姿であろうか。1 アメリカ史に精通して いる人や西部開拓史に興味、関心のある人であれば、サカガウィアの名を挙 げるかもしれない。しかし、大半の人、それも日本人ならば、ポカホンタス の名をまず挙げるのではないか。そして、彼女が本当に実在の人物であった のかと半信半疑に思っているかもしれない。ご当地アメリカにおいても、や はり筆頭に挙がるのはポカホンタスであり、それはとりもなおさず「インデ ィアンのお姫様」像なのである。しかし、それと同時に、お姫様的な「良い」

イメージとは全く対極にあるような女性像をも、アメリカ人は思い描くので ある。すなわち、狩りにうつつを抜かし長期間家を留守にし、家庭を顧みる ことのない、そんな夫の帰りを(高貴な女性ならばするはずなどない)畑仕 事をしながら待ち続け、家畜同然に扱われる女性の姿である。さらに言えば、

性的にも堕落した粗暴な女性の姿となるのであろう。欧米人が、大航海時代 の幕開けとともに抱いたインディアン女性に対するイメージが、変わること なくそのまま今日まで続いているのである。2

『言語文化』9-2:323−343ページ 2006.

同志社大学言語文化学会©石井泉美

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1.インディアンの歴史を語るということ

インディアン史の描き方は、どのような視点から考察するかによって、二 つに大別される。一つは、白人側からの視点である。ヨーロッパ系植民者が インディアンと「新大陸」でどのように出会い、その結果どのような関係を 築き上げ今日に至ったのかという、インディアンと白人との関係を歴史的に 探る伝統的な手法である。そこでは、インディアンは欧米文化・文明の「受 け手」としての役割しか与えてもらえなかった。そうした「受け身」の歴史 に警告を発したのが、エスノヒストリーと呼ばれる学際的な手法である。イ ンディアンの文化や社会構造を研究の対象とする人類学者たちの助けを借り て、インディアンたちのとった行動一つ一つに、インディアンの側からの意 味づけをするというこの手法は、インディアンを中心に据えた、インディア ンを主体にした歴史を再構築しようとする試みであった。3 こうした形での インディアンの描き方が歴史家の中にも浸透すると、これまでのステレオタ イプで塗り固められたお決まりの像とはまた違ったインディアンの一面に触 れることができるようになった。その結果、インディアンの全体像が以前に も増して明らかにされてきたのである。しかし、殊インディアン女性のこと となると、その姿を詳細に語ることはこれまで以上に難しい作業とならざる を得ないという事実に、研究者自身気づかされるのである。

インディアン史に携わる者が、まず事実として受け止めなければならない 事柄、それは、現存するインディアン関連史料のほとんどが欧米人、それも 男性によって書き記されたものであるという事実である。インディアン研究 者は、これらの史料を細心の注意を払って批判、分析していかなければなら ない。なぜなら、繰り返しになるが、我々インディアン研究者が一次史料と して目にするものの多く(実際には、多くというよりほとんどすべてといっ た方が適切であるかもしれない)が、インディアン以外の観察者、すなわち

「新大陸」を訪れた探検家、交易商人、入植者、兵士、キリスト教布教を目 指した宣教師、政府高官、またアメリカ合衆国政府からインディアン・コミ ュニティに派遣された政府役人といった、外部の人間によって記されたもの であるからである。さらに、そうした語り手の大半を男性が占めていたとい

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う事実が、インディアン女性の研究をよりいっそう難しいものにしている。4 語り手たちが、それぞれに興味、関心を持ち、または、それぞれの目的を遂 げるために政策を推し進める中でインディアンと出会った時、彼らの多くが 無意識のうちにも自分の考え方に見合った、そしてまた目標達成のために必 要なインディアン像を目で追い、それを書き記したとしても不思議ではない。

彼らの意図するところが交易や交戦、荒野の征服や土地の割譲であるのなら ば特に、その史料の中にインディアン女性の姿が皆無というのも当然であろ う。もし言及されたとしても、そこに記される女性に関する情報は、かなり 限定されたものになってしまう。5 そして、そうした史料を基にインディア ンの歴史の再構築を試みたとしても、それは、インディアンの男性を中心と した欧米人との関係史となり、史料が十分でないこととも相俟って、女性の 活動に関しては十分にわからないまま、これまで「インディアン史」が完結 してきたのである。

歴史家Theda  Perdueが指摘するように、こうした男性中心主義をめぐる問 題は、史料を遺した側だけが非難されるべきものではない。インディアン史 を研究する側にも反省すべき点が多々あるということなのだ。6 今まで、イ ンディアンを一括りにし、部族ごとに分けて考えることすらせずにきた歴史 家たちにとって、インディアンを男性のみならず女性にも焦点をあてて考え る必要があるということなど、考えも及ばなかったであろう。

語り手が欧米社会の男性であったが故に、彼らはヨーロッパの封建社会に おける女性の地位やあるべき姿を頭に浮かべ、男性中心主義の考え方でもっ てインディアン社会を観察していた。しかし、そのことだけに問題があるの ではない。語り手がインディアン男性であったとしても、インディアン社会 の女性の姿がすぐに浮き彫りになるというわけではなかったという実情があ る。インディアン社会のしくみや構造そのものを研究し、分析するのは人類 学者たちであるが、彼らがインディアン男性に、女性についての話を聞きた いともちかけても、色よい返事が聞けることはまずなかった。なぜなら、イ ンディアン男性は、質問のほとんどに憶測で答えるより他ないということを、

彼ら自身よくわかっていたからである。7 インディアン社会に広く浸透する 男女の係り方に関する考え方、そしてそれに基づく日々の生活形態や性別に

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よる役割分業という原則が、ここで大きく関係してくる。

インディアン女性の生きる世界を、そして共に生活するインディアン男性 にもなかなか詳細に語ることのできなかった彼女たちの姿を、人類学者たち の助けを借りて覗いてみることとする。ジェンダーという視点が加わった時、

従来のインディアン観に厚みが増すはずである。これを本稿の目的としたい。

2. 「相互補完性」に支えられた性別役割分業

インディアンの男性は、自分たちの社会の構成員として共に暮らす女性た ちに関して、なぜ詳細に語ることができなかったのであろうか。それは、彼 らが、女性がやっていることは自分たちがやっていることに比べ取るに足ら ないのだという女性蔑視の考えを持っていたからではない。インディアン社 会における男女の在り方を論ずる際に頻繁に登場する「相互補完性」という 考え方に、ヒントが隠されているのである。8

この「相互補完性」という概念は、北アメリカ大陸のインディアン社会に 広く浸透しており、この概念を基に、インディアンたちは性別による役割分 業を明確に規定していた。9 彼らは、男女は生まれながらにして違うものだ という二分法の考えを持っていた。10 だからこそ、それぞれの性がその性に あったジェンダー・ロールを果たすことでお互いを助け合うべきであり、そ れがうまくいった時、よりバランスのとれた、完璧に近い社会が生み出せる のだと考えていた。従って、そうしたインディアン社会では、男女がそれぞ れに、ふさわしいと考えられる「男性像」と「女性像」に見合った役割を与 えられ、そのジェンダー・ロールを果たすために一日の大半を別々に過ごし ていた。男性は、実際のところ女性がどのように一日を過ごしているのかわ からず、よって外部の人間にも説明することができずにいたのである。

インディアン社会の求める「相互補完性」が、男性、そして女性に期待し た「あるべき姿」とはどのようなものであったのだろうか。ここでは、農耕 定住社会と狩猟採集社会、それぞれの社会で期待されるジェンダー・ロール を見ていくこととする。11

インディアンといっても、頭には羽飾り、馬にまたがり銃を片手に雄叫び をあげ、平原をかけまわる姿だけが彼らの姿ではもちろんない。インディア

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ンの中には、バッファローを中心に狩猟採集生活を送る部族もいれば、農耕 生活を営み、 一処ひとところに住まう部族も多数存在した。アメリカ北東部、南東部、

そして南西部はもちろん、バッファローを追いかけ移動生活を送る部族が多 く見られる平原部においても、ミズーリ川沿いを中心に農耕定住生活を営む 部族が存在した。そうした定住生活を営むインディアン社会において、農耕 に従事するのは女性であり、男性が狩猟部門を担当した。一方、バッファロ ー狩りを中心に狩猟採集生活を送る部族においても、やはり男性が狩猟を担 当した。そして、男性が射止めた獲物を加工するのが女性たちに与えられた 仕事であった。

インディアン社会がそれぞれの性にふさわしいと考えた役割は、この他に ももちろんあった。男性は狩りの他に 政まつりごと、戦いくさ、外交、またこれらの行事 が滞りなく遂行されることを願って執り行う儀式といった役割を一手に引き 受けた。一方女性は、トウモロコシ、豆、スクウォッシュ栽培を中心とした 農耕(狩猟採集社会においては皮の加工)に加えて、この世に生を受けたも のを慈しみ育て、家を切り盛りするという役割を担っていた。男性が果たす べき役割は、自分たちの住むコミュニティの外で行われるものがほとんとで あった。例えば、冬、狩りの季節がやってくると、男性は3、4ヶ月家に帰 っては来ず、その間、女性は皆で留守を守った。そうした生活は、彼らにと って、食糧確保のためにも、またインディアン男性にとっては、自身のアイ デンティティ確立のためにも必要な行為であったのだが、それを見たアメリ カ入植者は、この考えを共有してはくれなかった。狩りは上流階級の人間が たしなむスポーツの一種であったからである。だからこそ、彼らの中には、

「男が狩りなどという遊びにうつつを抜かしている間、いつ帰ってくるかわ からない夫の帰りを待たなければならない女たち」という、インディアンに 対するイメージが構築されていったのである。

さて、男女の役割がこれほどまでに明確に規定され、その行為がアイデン ティティ形成にもつながるのであれば、この男女の境界線を越えようと試み ることは、インディアン社会において一切禁止されていたのであろうか。二分 法の考え方に従えば、境界を越えることは、男女という相反するものが保って いるバランスを崩すことにつながり、禍をもたらすとインディアンたちは信

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じていたということになる。しかし、実際には、新しい土地で農業を始める 際に、男性が土地を開墾して女性を手助けする光景はよく見られたし、また 夫と共に狩りに出かけ、見知らぬ土地で冬を過ごす女性も多数存在した。12 また、男性の領域である 政まつりごとに関しても、女性は公の場で意見を表明するよ うなことはしないまでも、自分たちの考えを内々に伝えて影響力を行使し、

また男性の側もそれを尊重するといった土壌が多くのインディアン社会には 出来上がっていたのである。13

こうした形にとどまらず、完全に男女の枠組みを越え、もう一方の役割を 果たす者たちもまた、多くのインディアン社会には存在した。女性でも男性 でもない、第三の性と位置づけられるberdacheバ ダ ッ シ ュとよばれる人たちがそれであ る。14 彼らは生物学上は男性であるのだが、女性の格好をし、女性にふさわ しいとその社会が規定するジェンダー・ロールを務め、日々の生活を女性と 共に過ごした。文献上その存在が確認できる部族は100を超える。その他、

女性が男性と共に戦闘に加わり、男性の役割をする「女性の戦士」も数少な いながら存在した。15 このような行為は、いずれも「女々しい」とか

「男女おとこおんな」といった言葉で非難される類のものではなかった。男女の間にある

境界線を越え、生物学上の役割として期待されたジェンダー・ロールを果た さずとも許されているのは、彼らberdacheバ ダ ッ シ ュには、他の人にない能力、特に物 事を予見する能力が備わっていると考えられていたからである。16 彼らの行 為は尊敬に値するものであっても、決して嘲笑の的になるようなものではな かった。17 インディアンの男女の間に引かれた境界線は、明確でありながら も決して絶対的でも固定的でもなかった。「男女の果たすべき役割とは何な のか」という社会通念が広く浸透していながらも、ごく限られた者たちには その境界線を越えることが許されている、そういった大らかさがインディア ン社会を包んでいたといえよう。

このように、ごく限られた者たちを除けば、男女共にそれぞれのジェンダ ー・ロールをこなしながら日々暮らしていたわけであるが、その根底に流れ る「相互補完」という考え方は、男女がそれぞれに役割を果たした結果手に 入れる収穫物の中にも見られた。農耕定住社会においては、男性が狩りをす ることで動物性タンパク質を供給し、女性が畑で植物性タンパク質を栽培す

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ることで、バランスのとれた食事が食卓に並んだ。また、狩猟採集社会にお いては、男性が獲物をいくら大量に仕留めたとしてもそれを加工する技は持 ち合わせておらず、女性が準備してくれなければ空腹を満たすことはできな かった。さらに興味深いことに、アメリカ北東部、南東部、南西部の女性が 栽培するトウモロコシ、豆、スクウォッシュの間にも、この「相互補完性」

が見られた。北東部に住むイロクォイ族が「三姉妹」と呼ぶこれらの植物は、

まずその生育過程において、互いが互いを必要としながら成長する。植物の 生育には窒素が欠かせない。豆類は大気中の窒素を吸収しやすいよう、窒素 化合物を作ってくれる根粒菌を根に寄生させることで、肥料が十分でなくと も成長した。根粒から放出される窒素はまた、トウモロコシの成長をも促し、

天高く伸びるトウモロコシの茎が、豆類を栽培する際に必要なツタを絡ませ るポールの役割を果たした。また、つる性の植物であるスクウォッシュは、

地面をはうように成長することで適度に土壌を覆い、それが土の中の水分蒸 発を防ぐだけでなく、雑草が生い茂るのを抑えることも可能にした。さらに 付け加えると、この「三姉妹」における「相互補完性」は、生育過程に限ら れたものではなく、植物性たんぱく質だけでは摂取するのが難しい必須アミ ノ酸の一つ、リシンが豆類には多く含まれており、男性の供給する動物性た んぱく質が不足した場合でも、畑からの収穫が安定していさえすれば、バラ ンスの取れた食生活が送れたのである。18

このように農耕定住社会、狩猟採集社会、いずれの社会においても、男女 が果たすべき役割は、「相互補完」の原則にのっとり明確に規定されていた。

またその役割は、どちらも自分たちが生活していく上で必要不可欠なものだ と考えられていた。その社会の中で「男らしい」、「女らしい」と規定された ことが男女それぞれに与えられた役割となってもその間に優劣はなく、よっ て、男女の間にも、一方の性が他方の性よりもより優れているといった比較 概念は発達しなかった。そうした社会が規定するジェンダー・ロールを果た すことで、インディアンの男女が自分が「男」であること、「女」であるこ とを自覚するのは当然の成り行きであったであろう。実際、性別によって規 定される役割分担は、インディアンの人々のアイデンティティ形成において 欠かせないものとなったし、またその役割を立派に果たすことでまわりの人

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からも一人前と認められ、自分自身も自己の存在意義を再確認することがで きたのである。生活をしていく上で、男女共に働かなければならなかったの はもちろんだが、この分業体制は、インディアン社会において大変大きな意 味を持っていたといえよう。

3.母系社会

「相互補完性」に基づき男女の在り方を規定する、こうしたインディアン 社会を、アメリカ入植者たちは必ずしも好意的に受け止めてはいなかった。

彼らの印象をさらに悪くしたのが、母系社会の存在である。インディアンに は、部族それぞれに特有の、天地創造に関する言い伝えが数多く残っている が、そこで中心的な役割を担っているのは、たいてい女性である。19 女性が 生命の根源として描かれるそうした神話を、幼いころから子守唄のように聞 かされ、またそれを自分の子や孫に伝えることで、彼らは女性の強さや大切 さを感じてきたのであろう。そして、その自分たちの祖先を生み出したとさ れる女性を中心に出自をたどり、家族を作り上げる部族が多数存在した。い わゆる母系社会である。

母系社会とは、出自を母方の血縁に求める社会のことをいう。北東部、南 東部、南西部の諸部族、また平原に暮らすクロウ、ヒダッツァ、マンダン族 なども母系社会を形成していたことで知られる。こうした母系制をとるイン ディアン社会において、生まれてくる子供は母方の血だけをひいているとさ れた。そして、その子供と血のつながりがあると考えられるblood relative は、

図1で黒く塗りつぶされた者たち、つまり、「自分(女)」からみた母、その 母親である母方の祖母、母親の兄弟姉妹(母方のオジ・オバ)、兄弟姉妹、

自分の子供、姉妹の子供である甥と姪であり、さらには、自分の娘に子が生 まれた時、その性別に関係なくその子供たちがblood  relative に加わった。ま た、部族によりその数に違いはあるが、遠い昔、動物や自然現象に象徴され る祖先が複数存在したと彼らは信じており、部族構成員はそのいずれかに母 系的血のつながりでもって帰属すると考えていた。そうした祖先を同じくす る集団は氏族とよばれ、blood relative はみな同じ氏族に属していた。

それではこのような母系社会において、父親とはどんな存在であったので

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あろうか。図1にも明らかなように、実の父親はblood  relative とはみなされ ない。もちろん生物学上の血のつながりはあるのだが、出自に関しては母が 誰であるのかだけが意味を持つため、この母系制の原則の下では、実子の blood  relative とはならないのである。加えて、結婚は同じ氏族同士ではでき ないため、ここでも父と子の親族関係は否定される。母方の血のつながりに 重きが置かれるということは、財産や社会的地位なども、母系的血のつなが りで相続、継承されるということである。また、結婚すると、夫が妻の家に 入るかすぐ近くに居を構えて、blood  relative が拡大家族を形成した。最年長 の女性を中心に、女性が結婚すればその夫が家族の一員として加わり、

blood  relative の男性が結婚すればその家を離れることとなり、その規模の拡 大縮小が繰り返されたのである。

こうした母系制をとるインディアン社会においては、例えば、長男のとこ ろに孫が生まれたとしても、それは跡継ぎができてうれしいとかほっとした ということにはならない。なぜなら、「私」の息子の子供はblood  relative で はないからである。また、子育ては女性のblood  relative 全員で行なうため、

男  女 

 

図1

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離婚をしても、「シングルマザー」として孤軍奮闘する必要はなかった。婚 姻関係を解消しても、子供を生み育てるというジェンダー・ロールは引き続 き遂行しているので、心無い言葉に悩まされたり批判されることもなかった。

別れた夫が親元へと戻っていくことで離婚は成立し、母と子は今まで通り、

自分のblood  relative と共に生活を続けていけばよかったのである。一方、子 を慈しみ育てるという女性に課された役割は、自分のお腹を痛めて子を産ま なければ果たせないというわけではなかった。女性は、社会的な意味で「母 親」となればよいので、自分のblood  relative である姉妹の子供の世話をする か、または氏族を同じくする子供で親を失った子を引き取っても構わなかった。

もし氏族が違う子供の面倒を見たいのであれば、養子縁組をしてblood  relative にすればそれですんだ。こうして女性は「女」としての役割を果たすことが でき、一方、行き場を失って路頭に迷うような孤児も存在せずにすんだので ある。

では、母系社会において蚊帳の外へと追いやられてしまったようにみえる 男性は、どのようにして生活していたのか。先ほど述べたように、「私」の 生物学上の父親は、「私」にとってblood  relative ではない。母系制をとるイ ンディアン部族の場合、父と子の間に「親子関係」は成立しないのである。

父親が自分の子供の男親として義務を果たすことができないのであれば、一 体誰が子供たちの面倒を見、監督をするのであろうか。ここで、彼の妻の兄 弟、つまり彼の実子から見た母方のオジが登場する。母系社会に暮らすイン ディアンの子供たちにとって、母方のオジは、いわゆる「親戚のやさしいお じちゃん」というものではなかった。その存在は、インディアン以外の社会 の子供たちが父親に抱く像、すなわち、どこか近寄り難い、ある種煙たい、

それでいて頼りになる、敬意を払うべき存在であったといえよう。一方、生 物学上の父には、我々が通常父親に期待するような威厳や温かみといったも のは、期待してはならなかった。

母方のオジは、自分の姉妹の子供である甥や姪の躾を担当した。そして、

甥には「男」になるための性別役割分業を徹底的に教え込んだ。冬の間は狩 りへと連れ出し、戦いくさで功績をあげれば監督者として賛辞の言葉を惜しまなか った。姪はその間、自分の母親やその姉妹(オバ)と共に畑に出て働き、女

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性に期待される役割を学んでいった。適齢期の甥や姪に結婚相手を見つけ、

また甥や姪が自ら相手を選んできた時に一家言あるのもこのオジであった。

我々が男親に期待する役割を一手に引き受け、甥や姪の将来を見据えて教育 するのが母方のオジの務めであった。20

このように考えてくると、生物学上の父親は何とも寂しい限りであるが、

少し見方を変えれば、実の子に対する養育義務や責任は義兄弟に一切を任せ ているので、実際のところ放任主義を貫いたとしても、思いきり甘やかして 猫かわいがりをしても、一向に構わなかった。「父親」としての役割は、実 子に対してではなく、自分と母系的血のつながりのある姉妹の子供たちに対 して果たしていたのである。つまり、彼もまた、自分の甥や姪の養育に対し て責任を負っていたのだ。

4. 「文明化」政策とジェンダー・ロール

アメリカ入植者たちにとって、男親が父親として、また家長としての存在 を認められていない社会は、なんとも不可解な、文化的に後れた野蛮な社会 でしかなかった。また、家長であるべき男性が、欧米社会では娯楽の一種で しかない狩りにうつつを抜かし、長期間家を空け、勝手気ままに暮らしてい ることに我慢がならなかった。母系社会においては、男性が「オジ」の立場 から姉妹の子供たちを養育し、「父親」としての役割を果たしていたこと、

またインディアン男性にとって、狩りや戦いくさへと遠出することは、「男」とし てのアイデンティティを形成する上で必要不可欠であったことなど、彼らに は理解できなかった。ましてや、インディアン女性が、畑を耕すことで「女」

としての自覚を持ち、また周囲からも「一人前の人間」と認められていくと いった、インディアン社会の男女の役割分業に込められた意味など、最初か ら理解する気もなかった。女性は、高貴な人であればなおさらのこと、むや みやたらと人前に姿をさらしたり、家事労働に日々振り回されるべきではな いと考えていた人々が、そうしたヨーロッパ社会での価値基準でインディア ンの文化・社会を判断した時、インディアンにとっての意味など、どうでも よかったのである。

アメリカ合衆国政府が誕生してまもなく、この新興国がインディアンに対

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してとった政策は、「文明化」政策とよばれる。初代大統領ジョージ・ワシ ントンと陸軍省長官であったヘンリー・ノックスは、「名誉かつ敬意ある拡 張( Expansion  with  Honor )」を目標に掲げ、インディアンの独立自営農民 化を図った。やっとの思いで勝ち取った独立を、インディアンが住む広大な 土地が欲しいからといって武力に訴えて奪うことで汚してしまうことは、そ の時の合衆国政府には許されていなかった。戦争で疲れきった市民たちをま た戦闘へと駆り出すことは好ましくなく、力ずくでインディアンから土地を 奪い取るのも国策上望ましくなかった。新興国としての名誉にかけても、広 大な土地の主であるインディアンに敬意を払いながら、平和裡に土地を頂戴 するにはどうしたらよいのか、その答えがインディアンを「文明化」すると いうことだったのである。ここで、合衆国政府の政策立案者の意味するとこ ろの「文明」とは、英語を話し、生活様式をアメリカ式に変え、男は畑を耕 し、その間女が機を織って農家の嫁としての務めを果たし、キリスト教信者 として慎ましやかに暮らすということであった。さらに、男は狩りなどとい う「遊び」にうつつをぬかさず、畑を耕して堅実に生きること、そしてその 畑で栽培するものは、トウモロコシではなく「文明人」が食する小麦である こととした。男性が弓矢を捨て鋤を手にした時、インディアンは定住生活を 送るようになり、男性家長を中心とする核家族が自ずと出来上がり、そこに、

アメリカ合衆国政府が目指すところの「文明化」したインディアンが誕生す ると政策立案者たちは考えたのである。そして最終的に、インディアンが定 住することでいらなくなった「余分な」土地を、合衆国政府は譲り受けるこ とができると期待したのであった。政策立案者たちはまた、この改革は一世 代、つまり30年にして成し遂げられるものだとも論じた。インディアンが

「文明的」でない野蛮な生活をしているのは、彼らが置かれている環境が悪 いからで、その環境を変えてやりさえすれば、インディアンはいとも容易く

「文明人」になれるだろうし、そうなったらアメリカ市民として自分たちの 社会に受け入れてやろうと考えていたのである。21

このような「文明化」を推進した政策立案者たちは、インディアンの伝統 的な社会に根付く、あの性別による役割分業のからくりを、全くといってよ いほど理解していなかった。インディアンの男女は、それぞれが社会的に

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「好ましい」と判断された役割を果たすことで社会の均衡が保たれてきたの だと信じていたが、そのやるべきことを放棄し、境界線をまたいで男性が女 性の役割を担った時、それがインディアンたちにとって何を意味し、また彼 らの社会にどのような影響を与えるのかなど、合衆国側は理解するべくもな かったのである。つまり、この「文明化」政策は、「相互補完性」や性別に よる役割分業に基礎を置くインディアン社会を根底から覆す、危険極まりな い政策であったのだ。しかし、インディアンを「文明化」し、自分たちと同 じレベルにまで引き上げた上で自分たちの社会に受け入れてやることでし か、平和裡に彼らの土地を頂戴することはできないと、合衆国政府は考えて いたのである。建国期のアメリカには「文明化」政策がどうしても必要であ ったのだ。22

5. 「文明化」政策のもたらしたもの

合衆国政府の「文明化」政策は、実際のところ、母系社会を成すアメリカ 南東部の部族を中心に展開された。この政策に対する受け止め方は部族によ って様々であり、儀式や伝統的な信仰を復活させることで心の拠り所を見出 そうとする者たちもいれば、「文明化」に武力で抵抗した者たちもいた。23また、

「文明化」政策を積極的に受け入れ、その中で自分たちの進むべき道を探し 当てようとする者たちも現れた。24 そのようなインディアン社会の変化に関 しては、今まで歴史家たちが様々な方面から検討を重ねてきた。しかし、

「文明化」政策の歴史は、時代に翻弄される無力なインディアンだけでなく、

彼らの順応性や柔軟性、また社会変革の中でも変わらずに息づくインディア ンの伝統文化をも明らかにできるはずであり、ジェンダーの視点が加わった 時、そこには、また新たな歴史の1ページが見えてくるのである。25 最後に、

「アメリカのどこを探してもこんなに『文明化』した部族はいない」とのお 墨付きを合衆国政府からもらったアメリカ南東部のチェロキー族を例に、彼 らの子供の教育に対する姿勢を通して、文化の変容と不変について考えてみ たい。26

1817年以降、ミッション・スクールの設立をチェロキーに許され、彼らの

「文明化」に邁進したアメリカン・ボードの宣教師たちが遺した記録には、

(14)

チェロキー社会の変革に伴う様々な苦労が記されている。27 母系制をとり女 性を中心に据えたチェロキー社会を、男性を戸主とし、男性にすべての権限 を移行させる社会へと変革させることは、彼らの期待とは裏腹に、キリスト 教の教えをもってしてもそう簡単なことではなかった。子供の教育一つをと ってみても、母親やその兄弟の意向が、父親の意向よりも俄然力を持ってい たようである。チェロキー女性とヨーロッパ系入植者の婚姻は「文明化」政 策が施行される以前から行なわれており、また合衆国政府高官は、インディ アン女性と白人男性の結婚を「文明化」を推進する一方策として奨励しても いた。しかし、母系制をとるチェロキー社会において、子に対する父親の権 限は無いに等しく、また母親がチェロキーである以上、子供たちの帰属意識 もなかなか変わることはなかった。

宣教師がやって来て、教育の場はオジの膝元からミッション・スクールへ と移ったかもしれないが、そこでの教育が子供にとって必要なのか、またふ さわしいものなのかを判断するのは、その子供の父親ではなく、多くの場合、

その母親やオジであり続けた。アメリカン・ボードの宣教師たちは、チェロ キーの母親が持つ絶大なる権限に驚きを隠せなかった。チェロキーの女性は、

男性家長を形の上では容認し、結婚を機に夫の名字を名乗ることに同意はし たかもしれない。それでも、自分の子供に白人の教育が必要だと考え、子供 も望むのであれば、たとえ父親が反対しても、夫の言うことに反して子供を 学校へと連れて行った。また、アメリカ式の教育やキリスト教は我が子には 必要ないと判断すれば、いくらそれを父親が切望し子供を入学させたとして も、チェロキーの母親はその子を引き取りに学校へと向かった。さらに宣教 師たちの頭を悩ませたのは、母方のオジの存在であった。そうした「招かれ ざる客」であった保護者を迎え入れ、毅然とした態度で対応しなければなら なかった彼らの苦慮する様子が、宣教師たちの遺した日誌からは覗えるので ある。28

結び

そうでなくとも一般化され、一括りで語られることの多いインディアン史 であるのだから、その中から女性の姿、視点が抜け落ちてしまうのにはきっ

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と何の不思議もないのであろう。しかし、インディアン社会における男女の 在り方、「男らしさ」や「女らしさ」、そして両者の関係性を探ることで、イ ンディアン社会内部のダイナミズムを見る目にも大きな違いがでてくるので はないだろうか。インディアン社会の決まり事、価値観、物の見方、ジェン ダー・ロールを理解した時、外部の人間の手による史料を通してでさえも、

等身大のインディアンがそこには見えてくるはずである。

大航海時代以来、インディアンのことを色眼鏡で見、そしてそれを記録に 残してきた欧米人たちに対して、インディアンの本来の姿を描いていない、

正反対のことばかりを記述していると、彼らを非難することが本稿の目的で はない。また、「アメリカ入植者=文明人、インディアン=野蛮人」という 図式を、「インディアン=善人、アメリカ入植者=悪人」という図式に変え ようとしているのでもない。こうした、物事を二項対立的に捉え単純化して しまう傾向にこそ、インディアン研究が抱えている、そして解決しなければ ならない問題が潜んでいるのではないだろうか。人間は皆、人種、性別、階 級にかかわらず、笑い、喜び、怒り、泣き、悲しむのである。インディアン の歴史にジェンダーの視点が加わった時、血に飢えたインディアンの像だけ でなく、子供を甘やかして目を細める父親、威厳を持ってどことなく近寄り がたいオジの顔、畑を耕し子供たちの面倒を見ながらコミュニティ全体の成 育を見守る女性たちの像が見えてはこないだろうか。インディアン社会の内 部構造を理解することで、必ずや、血の通った表情豊かなインディアンの姿 が見えてくるはずである。

1 文献によって、Sacagawea、Sacajawea、Sakakaweaと表記が一様ではない。ここ では「サカガウィア」と表記する。Donna  Barbie, “Sacagawea: The Making of a Myth,” in Sifters: Native American Women’s Lives,  ed.  Theda  Perdue  (Oxford  and  New York: Oxford University Press, 2001), 60.なお、William ClarkとMeriwether Lewisを団 長とするこの探検は、ミシシッピ川から太平洋に至る大陸横断を成し遂げ帰還す るまでに2年半を要した。この間、ルイス=クラーク探検隊が出会ったインディ

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アン部族や彼らとの交流に関しては、James P. Ronda, Lewis and Clark among the Indians (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1984)に詳しい。

2 アメリカ入植者がインディアン女性に対して抱いていたイメージはこの二つに 大別される。いずれも、封建制度下のヨーロッパ社会における価値基準でインデ ィアン社会を見ることで生まれた像である。インディアン社会においても、北西 海岸地域は階層社会を形成するインディアン部族が存在したことで知られている が、それはいわゆるヨーロッパ社会で発展した封建制の下での階級社会とは全く 異なるものであった。また、北アメリカ大陸のインディアン社会においては、物 事を執り行う人間はどの部族にも複数存在し、従って、いわゆる「王」とよばれ るような、権力を独り占めする人物は存在しなかった。当然ながら、その娘とし て一人特別扱いを受け、かしずかれるような「姫」もインディアン社会には存在 しなかったのである。もう一方の「家長不在の家を守り毎日あくせく働く」とい うインディアン女性に対するイメージに関しては、本稿の「2.『相互補完性』

に支えられた性別役割分業」を参照のこと。欧米人のインディアン観形成過程に 関しては、Robert F. Berkhofer, Jr., The White Man’s Indian: Images of the American Indian from Columbus to the Present ([New York]: Alfred A. Knopf, Inc., 1978; reprint, New York: Vintage Books, 1979)に、インディアン女性に対するイメージに関して は、Rayna Green, “The Pocahontas Perplex: The Image of Indian Women in American Culture,” Massachusetts Review 16 (1975): 698-714; Theda Perdue, “Columbus Meets Pocahontas in the American South,” Southern Cultures 3 (1997): 4-21; Helen C.

Rountree, “Pocahontas: The Hostage Who Became Famous,” in Sifters, ed. Perdue, 14-28 に詳しい。なお、Vine  Deloria,  Jr.は自著Custer Died For Your Sins: An Indian Manifesto (New York: Macmillan, 1969; reprint, Norman: University of Oklahoma Press, 1988), 2-4 (page references are to reprint edition)において、「インディアンのお姫様」

像がアメリカ人にとって必要となった経緯に関して、独自の論を展開している。

3 エスノヒストリーに関しては、James Axtell, “Ethnohistory: An Historian’s Viewpoint,” Ethnohistory 26 (1979): 1-13を参照のこと。

4 ただし、インディアン以外の人物による記述が、すべて男性によってなされた のではもちろんない。欧米人女性の手によるインディアン社会の記述、特にイン ディアン女性の生活が詳細に描かれたものとして、インディアン捕虜体験物語が 挙げられる。その中でも代表的な二作品の全訳が、白井洋子訳『インディアンに 囚われた白人女性の物語―Ⅰ.メアリー・ローランソン夫人の捕囚と救済の物語

Ⅱ.メアリー・ジェミソン夫人の生涯の物語―』(刀水書房、1996年)に収めら れている。

5 しかし実際には、書き手がインディアンになったからといって、より公平な視 点から史料が提供されるとは限らない。例えば、元来文字を持たずにいたインデ ィアンの中で、いち早く自国語の文字化に成功したのは、アメリカ南東部に住む

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チェロキー族であり、彼らは1828年、英語とチェロキー語の二ヶ国語による週刊 新聞『チェロキー・フィニックス』の刊行を開始した。Theda  Perdueは、強制移 住(1838−39年)前のチェロキー・ネイションにおいて、この部族新聞は、政府 機関紙としての機能を果たしていたと指摘する。チェロキー議会で制定された法 律をはじめとするチェロキー政府文書、チェロキーの「文明化」の成果、チェロ キー・ネイションその他で起こったニュース関連記事など、その記事内容は多岐 に渡るが、実際は英語でのみ書かれたものがほとんどであったため、二ヶ国語で 記された記事の内容はかなり限定されたものであった。結局、『チェロキー・フ ィニックス』は、チェロキー市民に情報を提供するというよりは、チェロキーの

「文明化」を世に知らしめるための宣伝機関としての性質を、より強く帯びたも のであったのだ。Theda Perdue, “Rising From the Ashes: The Cherokee Phoenix as an Ethnohistorical Source,” Ethnohistory 24 (1977): 207-18.

6 Theda Perdue, Cherokee Women: Gender and Culture Change, 1700-1835 (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1998), 3-6.現在、ジェンダーの視点からインデ ィアン史を検証する試みが、研究者の間で盛んに行なわれている。例えば、

Theda  Perdueが編纂するSifters: Native American Women’s Lives (Oxford and New York: Oxford University Press, 2001)は、歴史に名を残すインディアン女性14人を取 り上げ、インディアン社会における女性の役割の変遷を歴史的に考察している。

一人の女性の人生をたどることで、その時代のインディアン社会における女性の 政治、経済、文化、社会的役割がどのようなものであったのか、また、その女性 をとりまく様々な出来事が、彼女だけでなく、他のインディアン女性の人生をも どのように形作っていったのかについて学ぶことのできる、インディアン女性の 歴史を描く際のモデルが提示されているといえよう。

7 Perdue, Cherokee Women, 3-5.

8 インディアン研究者が、この考え方を基にインディアン社会を考察するように なるまでの紆余曲折については、拙稿“Surviving Colonization: Native American Women and Their Lives”『言語文化』第7巻第4号(2005年)、597-611頁に詳しい。

なお、本稿「2.『相互補完性』に支えられた性別役割分業」と「3.母系社会」

にて扱うインディアン社会とは、主にヨーロッパ社会の影響を受ける以前の、伝 統的なインディアン社会のことを指す。

9 Perdue, Cherokee Women, 3-4.

10 Charles Hudson, The Southeastern Indians (Knoxville: University of Tennessee Press, 1976), 234-39.

11 北アメリカ大陸に暮らすインディアン部族の、それぞれの生活様式に関する詳 細については、Handbook of North American Indians, ed. William C. Sturtevant, vol. 5, Arctic, ed. David Damas (Washington: Smithsonian Institution, 1984); vol. 6, Subarctic, ed. June Helm (Washington: Smithsonian Institution, 1981); vol. 7, Northwest Coast, ed.

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Wayne Suttles (Washington: Smithsonian Institution, 1990); vol. 8, California, ed. Robert F. Heizer (Washington: Smithsonian Institution, 1978); vol. 9, Southwest, ed. Alfonso Ortiz (Washington: Smithsonian Institution, 1979); vol. 10, Southwest, ed. Alfonso Ortiz (Washington: Smithsonian Institution, 1983); vol. 11, Great Basin, ed. Warren L.

d’Azevedo (Washington: Smithsonian Institution, 1986); vol. 12, Plateau, ed. Deward E.

Walker, Jr. (Washington: Smithsonian Institution, 1998); vol. 13, pt. 1 and 2, Plains, ed.

Raymond J. DeMallie (Washington: Smithsonian Institution, 2001); vol. 14, Southeast, ed. Raymond D. Fogelson (Washington: Smithsonian Institution, 2004); vol. 15, Northeast, ed. Bruce G. Trigger (Washington: Smithsonian Institution, 1978)を参照のこ と。

12 Hudson, The Southeastern Indians, 267-68.

13 公の場での発言だけでなく、日常生活の様々な場面においても絶大な力を女性 が行使することを許していた部族として、例えばイロクォイ族が挙げられる。イ ロクォイ族における男女の在り方、またそれぞれに与えられた役割については、

James Taylor Carson, “Molly Brant: From Clan Mother to Loyalist Chief,” in Sifters, ed.

Perdue, 48-59に詳しい。

14 フランス語に由来する語であるため、日本人研究者は一般に「ベルダーシュ」

と表記しているようであるが、ここでは英語読みに近い「バダッシュ」でルビを 振ることとする。

15 歴史上よく知られた人物としては、例えばアパッチ族の女性Lozenロ ー ゼ ンが挙げられる。

Laura Jane Moore, “Lozen: An Apache Woman Warrior,” in Sifters, ed. Perdue, 92-107を 参照のこと。

16 そうした物事を予見する能力は、生まれながらに備わっているものではなく、

夢の中に現れたお告げや、そうしたお告げを得るために断食をし、自ら精霊のも とへと赴くvision  questにおいて得ることができると考えられていた。啓示を得る 過程で、病気の治癒や戦いくさの勝敗の行方を占う能力など、それぞれに異なる役割を 彼らは与えられ、その役割を果たすために必要な儀式に関する知識も啓示を通し て得ていた。vision  questは男女共に行うことが許されていたため、男性の戦闘行 為に必要と考えられる能力を、啓示を通して身につける女性も現れたのである。

前述した「女性の戦士」Lozenロ ー ゼ ンがどのようにして啓示を得たのかは明らかになっ ていないが、彼女は、戦場で儀式を行うことにより、敵の居場所を即座に言い当 てることができたといわれている。Moore, “Lozen,” in Sifters, ed. Perdue, 92-107.

17 阿部珠理『アメリカ先住民―民族再生にむけて―』角川書店、2005年、179−

183頁。

18 Hudson, The Southeastern Indians, 293-94, 297.

19 Rayna Green, Women in American Indian Society(New York and Philadelphia: Chelsea House Publishers, 1992), 21.

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20 Hudson, The Southeastern Indians, 185-202.

21 アメリカ合衆国政府の「文明化」政策については、まずFrancis  Paul  Prucha, The Great Father: The United States Government and the American Indians, 2 vols. (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1984), 135-77; Bernard W. Sheehan, Seeds of Extinction: Jeffersonian Philanthropy and the American Indian(Chapel  Hill:  University of North Carolina Press, 1973; reprint, New York: W. W. Norton & Company, Inc., 1974) を参照のこと。個々の部族における「文明化」に関しては、本稿の注23、24を参 照されたい。

22 しかし、それから30年ほど経った1820年代後半までには、インディアンの「文 明化」に対する能力を否定する差別的発言が、一般市民の中だけでなく合衆国議 会でも見られるようになった。結局一世代で「文明化」することなどできないと 見なされたインディアンに対して出された答えは、1830年の強制移住法であった。

この法の制定により、アメリカ東部に住む全インディアン部族のミシシッピ川以 西への移住が決定的となった。インディアン強制移住法の制定過程については、

Ronald  N.  Satz, American Indian Policy in the Jacksonian Era(Norman:  University  of Oklahoma Press, 1975)に詳しい。

23 Gregory Evans Dowd, A Spirited Resistance: The North American Indian Struggle for Unity, 1745-1815 (Baltimore and London: Johns Hopkins University Press, 1992);

Michael D. Green, The Politics of Indian Removal: Creek Government and Society in Crisis (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1982); R. David Edmunds, The Shawnee Prophet (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1983); R.

David Edmunds, Tecumseh and the Quest for Indian Leadership ([New York]: Harper Collins Publishers, 1984)を参照のこと。

24 まずはWilliam G. McLoughlin, Cherokee Renascence in the New Republic (Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1986); William G. McLoughlin, Cherokees and Missionaries, 1789-1839 (New Haven and London: Yale University Press, 1984)を参照 のこと。

25 その代表作として、チェロキー社会における文化の「変容」ではなく「不変」

に着目したTheda PerdueのCherokee Women: Gender and Culture Change, 1700-1835 (Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1998)が挙げられるであろう。

26 U.S. House, Removal of Indians, 21st Cong., 1st sess., 1830, H. Rept. 227, serial 200, 21.

27 米 ハ ー バ ー ド 大 学 図 書 館 が 所 蔵 す る Papers  of  the  American  Board  of Commissioners  for  Foreign  Missions. Cherokee  Mission (ABC18.3.1)とCherokee Mission. Miscellaneous (ABC18.3.3)に詳しい。また、アメリカン・ボードの機関誌 Missionary Heraldにも、チェロキー・ネイション内での活動の報告が多数見られ る。

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28 チェロキー・ネイションにおけるアメリカン・ボード宣教師とチェロキーの保 護者のやりとりに関しては、Perdue, Cherokee Women, 173-74に詳しい。Alexander Spoehr, Changing Kinship Systems: A Study in the Acculturation of the Creeks, Cherokee, and Choctaw, Field Museum of Natural History Anthropological Series, vol. 33 no. 4 (Chicago: Field Museum of Natural History, 1947), 203も参照のこと。

Exploring Native American Society from the Natives’ Perspectives:

American Indian Men and Women and Their Lives

Izumi I

SHII

Key words:Native American men and women, complementarity and reciprocity, sexual division of labor, matrilineal kinship system, culture change and continuity

In traditional Native American communities, the idea of complementarity and reciprocity defined gender relations. Men hunted while women farmed, and they balanced each other. Many Native societies were also matrilineal.

Promoting Indian “civilization” at the turn of the nineteenth century, the United States government attempted to turn American Indians into yeoman farmers and to obtain the cession of their “surplus” hunting grounds. In order to accomplish this, the policymakers expected the Indians to speak English and to accept American ways of life and Christianity. They also sought to reorganize Indian society by placing women in their proper place––one of subjugation.

The ability of the Cherokee Indians, who lived in the Southeast, to pull

themselves together after a half century of war, invasion, and defeat and

construct a society that became the model that missionaries and United

(21)

States officials hoped other Indian societies would follow is well-known.

By shifting his/her focus to internal gender relations in Native society, however, one will find even in the documentary record generated by non- Natives much evidence that Indian culture and tradition survived the

“civilization” program. The concept of complementarity and reciprocity,

along with traditional family values including matrilineality, is a key to

understanding the complexity of the Indian historical past, and it will help

resolve riddles of culture change and persistence in the Native American

societies.

参照

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