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江 戸 派 は 覇 気 多 し

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(1)

江 戸 派 は 覇 気 多 し

│ 田 能村 竹 田

﹃山 中 人 饒舌

﹄ が 語る 絵 画 の基 準

太 田 孝 彦

は じ め に 田

能村 竹 田︵ 一 七七 七

〜一 八 三 五

︶は

﹃山 中 人 饒 舌

﹄の な か で

︑中 林 竹 洞

︵一 七 七 六〜 一 八 五 三︶ が﹃ 画 道 金 剛 杵

﹄で 語っ た﹁ ある 人の いは く︑ 浪華 は市 気多 うし てい やし

︑関 東は 覇気 あり て文 雅な し︑ 只京 師は 嫩弱 にし て法 な し とい へり

︒ま こと に然 り︒ され ど品 を論 ずれ ば京 師こ とに まさ れ り

︒上 国 の風 と い ふべ し

! の 言 葉 を 引い て

︑﹁ 竹 洞 は江 戸派 を論 じて 曰く

︑覇 気多 しと

﹂と 評し てい るが

︑そ れは 謂わ れの 無い こと では ない とい い︑ その 理由 を﹁ 武 蔵 の国 は古 の蝦 夷の 国で ある 奥羽 に接 して おり

︑人 馬は 強く たく まし く風 俗は 気骨 を尊 んで いる

﹂か らだ と︑ 江戸 が 将 軍の お膝 元で ある こと によ るか もし れな いし

︑必 ずし も 江戸 が 奥 羽に 接 し てい る か ら だけ と は いわ な い に して も

﹁江 戸 派が 覇 気 多い

﹂理 由 を 奥 羽に 接 し て気 骨 を 尊 ぶ 風 俗 に 求 め て い る"

︒な ぜ︑ 竹 洞 が 指 摘 し た 江 戸 派 の 特 色 を

︑ 竹 田は 画家 たち が生 きて いる 風土 が形 成し た画 家 たち の 人 格に よ る もの だ と し︑

﹁ 江戸 派 は 覇気 多 し﹂ と 語っ た の だ ろ うか

︒そ の意 図す ると ころ に竹 田の 絵画 観を 見よ うと する のが 本稿 の目 的で ある

― 15 ―

(2)

竹田 と﹃ 山中 人饒 舌﹄ につ いて は多 くの こと が語 られ てい るが

︑こ うし た観 点か ら竹 田と

﹃山 中人 饒舌

﹄を 分析 し た 先行 研究 を見 ない

!

︒竹 洞が いっ たよ うに 江戸 派と 摂派 や京 派を 対比 して

︑そ の 特 色 を語 ろ う とす る 論 法は 竹 洞 だ け に見 られ るも ので はな い︒ 竹田 もま た対 比に よっ て多 くの こ と を 語っ て い る"

︒ まず

︑そ の 例 を﹃ 山中 人 饒 舌﹄ の 中 に概 観し

︑竹 田に とっ て対 比と はあ る基 準を 示そ うと する もの であ った こと を明 らか にす る︒ そう して

︑こ うし た 対 比で 語ら れた 絵画 評価 の基 準は 画家 の技 術を 重視 しな がら も︑ 結局 は人 間性 にあ るこ とを 示す

︒そ の評 価に 一貫 す る のは

﹁古 人に なる

﹂と いう 自娯 の精 神に 支え られ た絵 画観 であ った こと を指 摘し

︑さ らに 竹田 が江 戸派 の代 表的 な 画 家と して 北山 寒巌

︵馬 孟$ 一 七六 七〜 一八

〇一

︶を 位置 づけ

︑評 価す る姿 勢に 着目 し︑ 絵画 とは

﹁風 土が 形成 し た 画家 たち の人 格﹂ の表 出で ある と考 え︑

﹁ 江戸 派は 覇気 多し

﹂と 言っ た意 図を 確認 した い︒ 第一

章 竹田 と

﹃ 山中 人 饒 舌﹄ が 対 比で 語 る 絵画 の 基 準 田能

村竹 田に つい て︑ 先学 たち は次 のよ うに 語っ てい る#

︒ 竹田 は安 永 六 年︵ 一 七七 七

︶に 豊 後中 川 侯 岡藩 の 侍 医 田 能村 碩庵 の次 男と して

︑直 入郡 竹田 村に 生ま れた

︒幼 年か ら漢 学を 学び

︑十 代か らは 作詩

︑絵 画に 志し

︑淵 野% 園

︵真 斎︑ 玉麟

一 七六

〇〜 一八 二三

︶︑ 渡辺 蓬島

︵渡 辺寧

︑北 山寒 巌︹ 馬孟

$︺ の門 人︶ らに 絵画 を学 んで いた

︒寛 政 十 年︵ 一七 九八

︶︑ 二 十二 歳の 時︑ 医業 を廃 して 学 問 を専 攻 す るよ う に と 藩命 が 下 った

︒幕 府 か ら﹃ 豊後 国 志

﹄編 纂 の 仕事 が岡 藩に 課せ られ たた めと され てい る︒ 翌 寛政 十 一 年︵ 一七 九 九︶

︑ 二十 三 歳 の 若さ で 由 学館 の 頭 取に 抜 擢 さ れ たこ とに 彼の 学業 の高 さを 見る こと がで きる

︒享 和元 年︵ 一八

〇一

︶︑

﹃ 豊後 国志

﹄稿 本を 幕府 に納 める ため に江 戸 に 向か った

︒そ の途 中︑ 大坂 で 木村 蒹 葭 堂︵ 一七 三 六〜 一 八〇 二

︶に 会 い︑ 江 戸で は 谷 文晁

︵一 七 六 三〜 一 八四 一

江戸派は覇気多し ― 16 ―

(3)

に 画法 を問 うて いる

︒竹 田の 絵画 修業 は本 格的 であ った のだ

︒文 化元 年︵ 一八

〇四

︶︑

﹃ 豊後 国志

﹄が 完成 し︑ 翌年 か ら 三年 間京 都遊 学が 許可 され た︒ この 時︑ 浦上 玉堂

︵一 七四 五〜 一八 二〇

︶と 四十 日間 に渡 って 同宿 した こと もあ っ た よ う だ︒ この 折 り に岡 田 米 山 人︵ 一七 四 四〜 一 八二

︶を 訪 ね

︑頼 山 陽

︵一 七 八 一

〜一 八 三 二︶ と 初 め て 出 会 っ た

︒以 後︑ 彼ら と最 も親 密な 関係 を結 ぶこ と にな っ た︒ 文 化八 年

︵一 八 一一

︶︑ 帰 藩 後 の十 一 月 に百 姓 一 揆が お こ っ た ので

︑竹 田は 建議 書を 記し たが

︑聞 き入 れら れな かっ た︒ また 翌年 にも 再度 建議 書を 書い たが

︑こ れも また 聞き 入 れ ら れ ず︑ 退隠 を 決 意し た

︒翌 文 化 十年

︵一 八 一 三︶ にな っ て 退隠 が 許 可 さ れ た

︒文 政 六 年︵ 一 八 二 三︶ に は 上 京 し

︑頼 山陽 グル ープ の人 たち と交 遊を 楽し んで いる

︒文 政九 年︵ 一八 二六

︶長 崎に 旅行 した

︒大 いに 刺激 され ると こ ろ があ った のか

︑こ の長 崎滞 在以 降の 作品 は格 段と 優れ たも のと なっ たと 評さ れて いる

︒そ の後 は︑ 毎年 のよ うに 上 京 し︑ 山陽 を中 心と する 芸文 家た ちと 交友 を楽 しん だ︒ 竹田 はこ のよ うに 官に 仕え るこ とを 辞し

︑学 問あ る教 養人 と の 交流 の中 に芸 術を 育て た典 型的 な文 人画 家︵ 南画 家︶ と言 うこ とが でき る︒

﹃ 山中 人饒 舌﹄ は︑ 彼の 没後 であ る天 保六 年︵ 一八 三五

︶に 篠崎 小竹

︵一 七八 一〜 一八 五一

︶︑ 角田 九華

︵一 七八 四

〜 一八 五五

︶の 序︑ 後藤 松蔭

︵一 七九 六〜 一八 六四

︶の 跋を 添え て出 版さ れ た!

︒巻 頭 に記 す 竹 田が 三 十 七歳 の 時 で あ る文 化十 年︵ 一八 一三

︶の 年紀 を持 つ﹁ 引﹂

︵ 小序

︶は よ れ ば︑ この 書 は 十年 前 の 彼 が二 十 歳 代の 頃 に 書い た も の と いう

︒百 則に わた って 絵画 への 思い がま とめ られ てい る︒ そう した

﹃山 中人 饒舌

﹄に は若 い頃 から 田能 村竹 田が 生 涯 を通 じて 考え 続け た絵 画へ の思 いを 窺う こと がで きる

"

︒そ して

︑こ の書 は江 戸 時 代 の南 画 家 たち の 絵 画観 を 知 る も っと も重 要な 書と いう 評価 を獲 得し たの であ る#

︒ この

﹃山 中人 饒舌

﹄の 中で

︑竹 田は 画風 のち がい や絵 画の 評価 を説 明す るの に二 つの 事柄 を対 比し なが ら述 べる 事 が 多 い︒ ま ず︑ そう し た 例を 紹 介 し なが ら

︑ど の よう に 竹 田は 絵 画 を 考え て い たか を 明 らか に す る こ と か ら 始 め た

― 17 ― 江戸派は覇気多し

(4)

!

竹 ︒ 田 は﹃ 山中 人饒 舌﹄ の百 則を

︑﹁ 日 本に 伝 えら れ て いる の は 南 宋の 院 体 画で あ っ て︑ 元末 の 四 大 家︵

#公 望﹇ 一 二 六九

〜一 三五 四?

﹈・ 呉 鎭﹇ 一二 八〇

〜一 三五 四﹈

・倪

$﹇ 一三

〇一

〜七 四﹈

・ 王蒙

﹇一 三〇 八?

〜八 五﹈

︶や 明代 の 沈 周︵ 一四 二七

〜一 五〇 九

︶・ 文 徴明

︵一 四 七

〇〜 一五 五 九︶ な ど が手 が け た絵 画

︑い わ ゆる 趙 孟&

︵一 二 五 四〜 一 三 二二

︶が

︿士 夫の 画﹀ とい う絵 画は 伝え られ てこ なか った

︒わ が国 に伝 えら れて いる のは

︑董 其昌

︵一 五五 五〜 一 六 三六

︶が 私た ちの 仲間 が学 ぶべ きで な い 画家 と い って い る 馬 遠︵ 十二 世 紀 末〜 十三 世 紀 初︶

・夏 珪

︵十 二 世 紀末

〜 十 三世 紀初

︶の 絵 画で あり

︑唐 代の 李将 軍︵ 李思 訓﹇ 六 五三

〜七 一八

﹈・ その 子李 昭道

﹇ 八世 紀前 半﹈

︶の 派 の絵 画│

│ 北 宗画

││ であ る﹂

︵ 一則

︶と 指摘 する こと か ら 始め る

︒ま ず︑ 董 其昌 が

﹃画 禅 室 随筆

﹄で 語 る 南宗 画 と 北宗 画 の 対 比 を引 用し

︑自 分が 拠っ て立 つの が南 宗画 の立 場で ある こと を宣 言す るの であ る︒ その 南宗 画は

︿士 夫の 画﹀ とも 呼 ば れる 学問 教養 を備 えた 人が 描く 絵画

︑専 門画 家で ない 素人 であ る文 人が 描い た絵 画│

│文 人画

││ であ るこ とを 宣 言 した もの であ った

︒董 其昌 は﹃ 画禅 室 随筆

﹄の 中 で︑

﹁ 禅に 南 宗・ 北 宗が あ る よ うに

︑絵 画 に も南 宗 画 と北 宗 画 が あ り︑ 北宗 画は 唐代 の李 思 訓・ 昭道 の 着 色山 水 図︵ 青 緑山 水

︶か ら 始 まっ て

︑宋 の 趙幹

・趙 伯 駒・ 趙 伯"

と 伝わ り

︵南 宋画 院の

︶馬 遠・ 夏珪 へ及 んで い るも の で ある

︒一 方

︑南 宗 画 とい う の は王 維 か ら始 ま っ て︑ 張#

・荊 浩

・関 同

・ 郭忠 恕・ 董源

・巨 然や さら に米

%・ 米 友仁 父 子 とな り

︑元 末 の四 大 家 に 及ぶ も の であ る

﹂と い う︒ ま た︑

﹁文 人 の 画 は王 維か ら始 まる

︒董 源・ 巨然

・李 成・ 范寛 が正 統な 後継 者と なり

︑李 公麟

・王

!・ 米%

・米 友仁 へ︑ さら に元 末 四 大家

・文 徴明

・沈 周ら が衣 鉢を 継い だ︒ 馬遠

・夏 珪・ 李唐

・劉 松年 など は李 思訓 の一 派で ある ので

︑我 らの 仲間 が 学 ぶの は難 しい

﹂と いっ てい る"

︒ 新 しい 絵 画 であ る 南 宗画 は 長 崎 を通 じ て 江戸 時 代 中 期に 伝 来 し た︒

﹁ 山 口 雪 渓︵ 享 保﹇ 一 七 一 六〜 三 六﹈ 中 の 人

江戸派は覇気多し ― 18 ―

(5)

と 小原 慶山

︵元 禄﹇ 一六 八八

〜一 七〇 四﹈ 中の 人︶ がこ の中 国新 渡来 の絵 画を 学ん だ先 駆者 であ るが

︑未 だ本 格的 な 学 習 に は 至 ら な か っ た﹂

︵二 則

︶と い う︒ し か し︑

﹁そ の 後

︑京 都 で は 望 月 玉 蟾

︵一 六 七 三

〜一 七 五 五

︶・ 彭 城 百 川

︵一 六九 七〜 一七 五二

︶・ 池大 雅︵ 一七 二三

〜七 六︶

・ 与謝 蕪村

︵一 七一 六〜 八三

︶ら が︑ 江戸 では

︵一 七二

〇〜 六七

・ 北 山晋 陽

︵馬 道 良︶

・諸 葛 監

・宋 紫 石

︵一 七 一 二

〜八 六

︶ら が

︑諸 国 で は 柳 沢 淇 園︵ 一 七

〇 四〜 五 八︶

・ 建 部 凌 岱

︵一 七一 九〜 七四

︶・ 中 山高 陽

︵一 七 一七

〜八

︶・ 熊 斐︵ 一六 九 四

〜一 七 七三

︶ら が

︑儒 者 では 祇 園 南海

︵一 六 七 七

〜 一七 五一

︶・ 宮 崎"

圃︵ 一七 一七

〜七 四︶

︑僧 では 心越

・百 拙ら が︑ そし て女 史で は池 玉蘭

︵一 七二 八〜 八四

︶ら が そ の古 法を 学び

︑今 日の 隆盛 を 迎 える こ と にな っ た﹂

︵ 三 則︶ とい う

︒こ こ には

︑沈 南 蘋︵ 生 没年 不 詳 一 七 三一

〜 三 三来 日︶ によ って 伝え られ た北 宗画 の画 風を 明ら かに 持つ 画家 たち

︵渡 辺! 水・ 諸葛 監・ 宋紫 石や 建部 凌岱

・熊 斐 ら

︶と

︑伊 孚九

︵生 没年 不詳

一 七二

〇以 来し ばし ば来 日︶ によ って 伝え られ た南 宗画 を継 承し てい る画 家︵ 彭城 百 川

・池 大雅

・与 謝蕪 村・ 祇園 南海 ら︶ とが 混在 して いる が︑ 室町 時代 に雪 舟や 狩野 派に よっ て学 ばれ た南 宋の 馬遠

・ 夏 珪の 画風 とは 異な る新 来の 画風 を学 ぶ画 家た ちの 活動 が隆 盛を 迎え た様 子が 語ら れて いる

︒し かし

︑そ うし た現 状 を

︑﹁ 昔 の人 たち と現 在の 画家 たち とを 比較 した とき

︑画 理 の 研究 は 進 み︑ 技術 は 巧 み にな っ た けれ ど も 俗っ ぽ く な っ た︒ それ は︑ 昔の 人は 自分 のた めに 画 いて い た のに

︑今 の 人 は人 の た め に画 く か らで あ る﹂

︵ 五則

︶と 歎 く

︒そ れ は

︑﹁ 董 其昌 の言 う︿ 万巻 の書 を読 み︑ 万里 の路 を行 く﹀! よう な人 がこ の頃 少 な く なっ て い るか ら で あっ て

︑こ う し た こと にな るこ とは 不思 議で も何 でも ない

﹂︵ 十 一則

︶と 憤慨 する

︒ 彼ら の立 場は

﹁画 家は 最も 形似 を嫌 う﹂

︵ 八十 四 則︶ と いう よ う に︑ 形を 上 手 く 描き 出 す こと で は なか っ た

︒大 坂 で

︑今 もて はや され てい る沈 南蘋 の画 風を 学ぶ 森祖 仙︵ 一七 四七

〜一 八二 一︶ は﹁ あら ゆる 姿を 描き

︑そ の素 晴ら し さ を極 めて いる が︑ 無学 で本 が読 めな いの で古 人 に一 歩 譲 らな く て はな ら な い のだ

﹂︵ 五 十 則︶ と学 問 が ない か ら 古

― 19 ― 江戸派は覇気多し

(6)

人 に及 ばな いこ とを 言い

︑心 を写 すこ と︑ その ため には 書物 を読 む必 要が ある こと を次 のよ うに 言っ てい る︒

﹁︵ 絵 画 は

︶形 似で はな く伝 神で ある

︒そ のた めに は読 書が 大事 であ る︒ それ は四 愛図 が誰 なの かを 表す ため に使 われ てい た モ チー フの 意味 を知 らな いと 誰で ある か が分 か ら ない の は 学問 が な い から で あ る﹂

︵八 十 一 則︶ と︒ さら に

﹁こ の 頃 の 絵は 形を 描く こと だけ で風 韻を 描い てい ない

︒宋 の欧 陽修

︵一

〇〇 一〜 七二

︶は 昔の 画は 思い を描 いて 形を 描い た り して いな し︑ 梅堯 臣︵ 一〇

〇二

〜六

〇︶ の詠 物詩 はそ の心 を隠 した りし ては いな いと いっ てい る﹂

︵ 八十 二則

︶と

︑ 形 似で はな く風 韻を 描く こと を主 張す るの であ る︒ そし て︑ 正徳 以前 と享 保以 後︵ 一七 一六 年改 元︶ とで は大 きな ち が いが ある こと を指 摘す る︒ その 変化 は︑

﹁ 内面 的な 情趣 や 実 質が 豊 か なも の だ っ たの が

︑外 面 的な 表 現 や装 飾 は 豊 か だが

︑内 面的 なも のが 乏し くな った

﹂︵ 七 十四 則

︶こ と であ り

︑そ れ は﹁ 描き 方 が 軽 率で 思 い が筆 で 表 現さ れ て い な いか らだ

﹂︵ 九 十則

︶と いう ので ある

︒そ れ故

︑﹁ いま の人 たち はい ろん な理 由を こじ つけ て古 人に 学ぶ こと を避 け て いる が︑ 古人 を学 ばな けれ ばな らな い﹂

︵ 九十 一則

︶と 古人 を学 ぶ必 要性 を語 る︒ こう した 状況 だか らこ そか

︑池 大雅

︵一 七二 三〜 七六

︶の 作画 が与 謝蕪 村︵ 一七 一六

〜八 三︶ に比 べら れ︑ 大雅 の 姿 勢が 評価 され るこ とに なる

︒﹁ 大 雅も 蕪村 もと もに 古人 に学 び︑ 大雅 は逸 筆︑ 蕪村 は戦 筆を 用い てい る﹂

︵十 六則

︶︒ し かし

︑﹁ 大 雅の 筆力 に胆 力を 見る こと がで きる

﹂︵ 十四 則︶ が︑ 蕪村 が始 めた とい う﹁ 人物 画の 減筆 法は 新し いも の で 古法 とは ちが って おり

﹂︵ 十 九則

︶︑ 彼 らは 一 代 の好 敵 手 だが

﹁大 雅 は 正 統で

︑蕪 村 は 変則 で あ る﹂

︵十 七 則

︶と 評 価 し な けれ ば な らな い と い うの で あ る︒ ある い は︑ 山 辺雲 居

︵文 化 文 政 頃

﹇一 八

〇 四〜 一 八 一 八〜 一 八 三

〇﹈ の 画 家

︶が し ば しば 指 摘 する よ う に﹁ 不 類に 属 す﹂

︵ 二十 則

︶も の かも し れ な いと し て︑ 一 方 的 に 大 雅 を 高 く 評 価 す る

︒ と いっ ても

︑竹 田自 身は 大雅 の作 品を 収集 して い ない

︒そ の 理 由を 次 の よう に い っ てい る

︒﹁ 世 間の 人 は 大雅 の 作 品 を 宝 と して 重 ん じ︑ それ を 持 っ てい な い こと を 恥 とし て い る︒ 私 も︑ 大雅 を 崇 拝し て い るこ と は こ の 上 も な い の だ

江戸派は覇気多し ― 20 ―

(7)

︑大 雅の 作品 は一 尺の 紙︑ 一寸 の絹 の一 片す らも 持っ てい ない

︒と いう のは

︑彼 の人 品や 風格 は望 んで も及 びが た い ほ ど だけ ど 敬 い慕 っ て い るの で

︑わ ざ わざ 単 な る筆 跡 の 端 くれ で も って

︑大 雅 の 真面 目 と し よう と 思 わ な い か ら だ

︒私 の家 が貧 しく て財 布が 空だ から 買い 求 める こ と がで き な いと い う だ けで は な いの だ

﹂︵ 二 十一 則

︶と

︒作 品 は 作 者の 人格 であ り︑ 作者 その もの だと 語っ てい るの であ る︒ つま り︑ 大雅 の作 品に は﹁ 学ぶ こと がで きず

︑生 まれ な が らに 備わ って いる 気韻 があ り︑ それ を知 って いる から こそ 世の 中の 人た ちは 彼が 描い た半 箋・ 隻紙 です らも 争い 求 め るの だ﹂

︵ 二十 七則

︶と いう

︒作 品の 価値 は技 術で は な く︑ 気韻 に あ るこ と

︑作 者 の 人格 に あ るこ と を 指摘 し て い る

︒そ れ 故︑ 素 人の 描 い た作 品 で も 高く 評 価 し︑ 当代 の 画 家た ち へ 警 鐘 と す る︒

﹁ 宮 本 武 蔵︵ 一 五 八 四〜 一 六 四 五

︶ の 絵画 は俗 習が ない し︑ 古式 をよ く調 べて 描い てお り︑ 大石 良雄

︵一 六五 九〜 一七

〇三

︶も また 絵を 能く した

︒彼 ら を 取り 上げ たの は当 代の 画家 に対 する 憤懣 の吐 露で ある

﹂︵ 六 十八 則︶ とい う︒ また

︑﹁ 世間 では 山水 画が 一番 で︑ 花 鳥 画 な どは 画 工 が描 く も の と考 え ら れて い る が︑ 人品 が 高 い と茄 子 の 絵だ っ て 深い 境 地 を 表現 す る こと が で き る の だ

︒た だ画 の見 た目 だけ で判 断し ては いけ な い﹂

︵九 十 四 則︶ とい い

︑絵 画 は題 材 で は なく 人 品 を見 る も のだ と 指 摘 し てい る︒

﹁ 絵画 とは 精神 をの びや かに す るも の

﹂︵ 七 十六 則

︶で あ り︑

﹁詩 を 読 む とそ の 人 の画 が 分 かり

︑そ の 画 を 見 ると その 人の 詩が 分か り︑ さら にそ の人 物ま でも わか ると いう

﹂︵ 八 十三 則︶ とい うも のな のだ

︒﹁ 絵画 も禅 と同 じ よ うに 修行 もな く悟 りも ない もの であ って

︑初 めか ら備 わっ てい る天 分が ある のだ

︒絵 画も また 風流 人の 精神 から 生 ま れる もの なの だ﹂

︵ 九十 八則

︶と いう

︒ こ のよ う に︑ 竹 田に と っ て絵 画 は 南 宗画 で あ り︑ 文人 の 画 と して 画 家 個人 が 備 えて い る 気 韻を 表 出 す る こ と で あ り

︑人 格の 表現 であ った

︒そ して

︑そ れは 古法 をも って 実現 され るべ きも のと 考え てい たの であ る︒

― 21 ― 江戸派は覇気多し

(8)

第二 章 技術 と 人 間性 竹田

が対 比で 語っ てい た絵 画評 価の 基準 は技 術よ りも 画家 の人 間性 にあ ると 理解 でき るが

︑そ れで も︑ そう した 絵 画 は技 術に よっ て実 現さ れる もの であ り︑ 古人 の技 術を 学ぶ こと によ って 獲得 され た﹁ 古人 にな る﹂ とい う自 娯の 精 神 に支 えら れた もの であ るこ とを 次に 指摘 して みた い︒

﹁ この 頃の 画家 が描 く人 物画 の衣 の襞 は古 法 に合 わ な いも の だ﹂

︵ 八十 八 則

︶と 嘆 き︑

﹁近 代 の 画家 は 点 苔の 法 を 知 ら ない

﹂︵ 八 十九 則︶ と技 法の 無知 を謗 り︑

﹁今 の人 は描 き方 が軽 率だ から 思い が筆 で表 現さ れて いな い︒ だか ら古 人 に 劣る のだ

﹂︵ 九 十則

︶と 技術 への 無関 心が 絵画 の十 全な 働 き をも た ら して い な い こと を 言 う︒ こう し た 現状 に つ い て

︑﹁ 細 かく 勤勉 に描 くこ とは 努力 によ って 到達 する こと が で きる が

︑飄 逸 な破 墨 は 学 んで 会 得 でき る よ うな も の で は ない

︒そ れな のに

︑凡 庸な 画家 はこ の事 情を 理解 せず

︑後 者の 画法 を作 りや すい と考 えて いる

︒あ るも のは これ を 軽 蔑し てあ ざけ り笑 うく らい であ る︒ 謹細 な描 き方 もで きず

︑結 局ま ずい 筆を 枯淡 に見 せか け︑ ある いは 風狂 脱俗 の よ うに よそ おっ て︑ それ を高 妙だ と思 って い る︒ こう い う 類の 人 は 少な く な い のだ

﹂︵ 九 十 三則

︶と 現 状 の技 術 軽 視 と 見せ かけ の枯 淡狂 逸を 歎き

︑青 木夙 夜︵

?〜 一八

〇二

︶の 姿勢 を高 く評 価す る︒ 大雅 の真 価は 筆力 に胆 力を みる こ と であ った

︒大 雅の

︿風 竹図 屏風

﹀は

﹁竿 の大 きさ 一尺 あま り︑ 葉も それ に相 応し いも ので ある

︒筆 跡は 自由 に変 化 し

︑狂 雲が 逆さ に走 って いき

︑怒 濤が 横向 きに むか っ て巻 き 上 がっ て い くよ う で

︑観 る 者は 心 身 さわ や か に なっ て

︑ 我 を忘 れし まう

﹂︵ 十 四則

︶の が特 色で ある が︑

﹁夙 夜は 大雅 の細 やか な技 法を 受け 継ぎ

︑生 活の ため にい い加 減な 制 作 をし てい ない

︒彼 の画 風継 承が 正脈 であ り︑ 大 雅の 逸 筆 を取 り 入 れた の は 異 端で あ る﹂

︵ 三十 六 則︶ と いう の で あ

江戸派は覇気多し ― 22 ―

(9)

︒細 やか な技 法を 修得 する こと が︑ 先人 の画 法を 正統 に受 け継 ぐこ とで あっ て︑ 自由 な精 神の 象徴 とも 考え られ る 自 由奔 放な 筆使 いで ある 逸筆 を取 り入 れる のは 表面 的な 学習 であ って 異端 であ ると 主張 する

︒そ こに は︑ 本当 に絵 画 を 学ぶ こと とは 技法 を正 確に 習熟 する こと であ るこ とを 竹田 が重 視し てい るこ とが 読み 取れ る︒ しか も︑ かれ らは 作 品 に表 現す べき

﹁気 韻は 学ぶ こと がで きず

︑生 ま れな が ら に持 っ て いる も の で ある

﹂︵ 二 十 七則

︶こ と を 知っ て い な が らも

︑こ うし た技 術の 習得 を重 視し てい たの であ る︒ そう した 技術 の習 得は

︑古 画の 模写 によ って 行 われ た

︒山 辺 雲居 は

﹁原 本 と全 く 同 じ であ る よ うに 模 写 し てい た

︒ だ から 自分 の胸 中に は描 くべ きも のを 持っ てい ない と悪 口を 言わ れた が︑ 彼は 伝模 移写 も画 の六 法の 一つ であ ると 主 張 した

﹂︵ 三 十五 則︶ こと を紹 介し

︑ま た︑ 森春 嶽︵ 一七 六六

〜一 八一 一︶ の次 のよ うな エピ ソー ド︑

﹁春 嶽は 熱心 に 古 画を 学習 し︑ 収集 家の 秘冊 真本 を探 し訪 ねて は家 に引 きこ もっ て古 画の 敷き 写し に︑ 精魂 を傾 け︑ 飽き るこ とは な か った

︒つ いに その ため に疲 れ病 んで 死ん で しま っ た︒ 本 当に 古 を 信ず る こ と の篤 い 人 であ っ た﹂

︵ 二十 六 則

︶こ と を 語っ てい る︒ なぜ

︑昔 の作 品を 学ば なけ れば なら ない のか

︒そ れに つい て︑ 竹田 は﹁ 書道 を学 ぶ人 は︑ 古く から 伝え られ た書 を 拠 り 所 とし て い るの に

︑今 の 画 家 た ち は 自 分 勝 手 な 考 え で 描 き

︑古 人 の 法 則 を 知 ら な す ぎ る︒ 反 省 す べ き で あ る

︵九 十二 則︶ とい い︑

﹁今 の画 家た ちは 現在 の風 俗 を喜 ん で 受け 入 れ︑ 古 人の 精 神 を 学ぼ う と 思っ て い な い︒

︵中 国 と 日 本で は︶ 地が 遠く 離れ てお り︑ 時代 も後 なの だか ら︑ 昔の もの を作 ろう と思 って もで きな いと いっ たり

︑昔 には 昔 の 法則 があ り︑ 今に は今 の法 則が ある のだ から

︑ど うし て昔 の法 則に 拘泥 しな けれ ばな らな いの か︑ なぜ 今の 法則 の 背 いて も良 いの か理 解で きな いと いっ たり して いる

︒こ れが 世の 中の 風潮 であ る︒ しか し︑ これ は残 念な こと だと 惜 し まれ る︒ 画が 古人 の域 に達 しな いの は︑ 古人 を思 うこ とが 足り ない から なの だ︒

︵ それ 故︑

︶画 を学 ぶ者 は古 い画 法

― 23 ― 江戸派は覇気多し

(10)

を 学ぶ こと に勉 めな けれ ばな らな い﹂

︵ 九十 一則

︶と

︑古 画 を より ど こ ろと し て

︑絵 画 のあ る べ き姿 を 探 らな け れ ば な らな いこ とを 主張 して いる

︒ この 時︑ 竹田 が技 法で 重 視し た の は筆 法 で ある

︒村 瀬 栲 亭︵ 一 七四 六

〜一 八 一八

︶の

︿墨 竹

﹀を 取 り 上げ

︑﹁ 書 法 が 画に 通じ て一 体と なっ てい るの は栲 亭の 墨竹 だけ であ る︒ 筆使 いは 円熟 し墨 法は 青み を帯 びて 潤い があ り︑ 枝や 葉 は よく 切れ る刀 で玉 を刻 んだ よう で ある

﹂︵ 五 十 一則

︶と 語 り︑ 筆 の鋭 さ

︑筆 勢 を 評価 す る︒ そ れは 儒 者 たち の 描 い た もの を評 価す る姿 勢で もあ った

︒﹁ 皆 川淇 園

︵一 七 三四

〜一 八

〇 七︶ は官 に は 就 かず

︑家 で 弟 子た ち を 教え て い た が

︑家 から は講 読の 声に 混じ って 三味 線の 音が 聞 こ え︑ 鴨川 の ほ とり で 気 ま まに 酒 を 飲ん だ り して い た

︒︵ し かし

︑︶ 山 水や 蘭竹 を自 由奔 放な 筆で 描い たも のに は︑ 学問 の気 が現 れて いた

︒も とよ り法 則に 合う よう なこ とを 求め なか っ た が︑ 世間 の人 たち はそ の人 とな りを 尊ん でい た︒ 細川 平洲

︵一 七二 八〜 一八

〇一

︶も また 偉大 な儒 学者 で詩 を能 く し てい た︒ 画は まだ 見た こと ない が︑ 淇 園と 同 じ よう な も のと 思 う

﹂︵ 五 十四 則

︶と 語 って い る︒ と はい え

︑筆 ば か り を見 てい たわ けで はな い︒ 広瀬 台山

︵一 七五 一〜 一八 一三

︶の

︿古 柏竹 石図

﹀を 見た とき に︑ 淵野

!園

︵一 七六

〜 一八 二三

︶が

﹁生 で拙 いが

︑墨 気に 厚み があ り︵ 無骨 な味 があ り︶

︑ 子︵ 竹田

︶と よく 似て いる

﹂︵ 五十 九則

︶と 墨 へ の評 価を 語っ たこ とも 見逃 すこ とは でき ない

︒ この よう に︑ 技術 を尊 重し なが らも

︑浦 上玉 堂︵ 一七 四五

〜一 八二

〇︶ は﹁ 酔中 に人 為で ない 天趣 を求 めて

︑心 を 楽 しみ なが ら興 に乗 って 制 作し て い た﹂

︵三 十 七 則︶ こと を 語 り︑ ま た︑ 岡田 米 山 人︵ 一七 四 四〜 一 八二

︶の 作 画 に つい て﹁ 書画 が巧 みと いう 訳で はな いが

︑に わか に 起こ っ た 天然 の 趣 致を 心 の 中 から 吐 き 出し て い る のだ

﹂︵ 六 十 五 則︶ とい って

︑そ うし た技 術に よっ て発 揮さ れる のは

﹁天 趣﹂ であ り﹁ 天然 の趣 致﹂ であ ると して

︑人 為︑ 人工 を 斥 けて いる

江戸派は覇気多し ― 24 ―

(11)

僧松 丘の

︿六 祖図

﹀は

﹁格 に合 って いた が俗 では なか った

﹂︵ 四 十二 則︶

︒し かし

︑玉

!︵ 一七 五一

〜一 八一 四︶ の

︿墨 竹﹀ は﹁ 筆墨 に精 熟し てい るが

︑格 法に 拘泥 して おり

︑さ っぱ りし た趣 に乏 しい

﹂︵ 四十 七則

︶と いう

︒そ の趣 に つ いて

︑玉

!の 先生 であ る玉 翁︵ 一七 四〇

〜一 八二 二︶ の墨 竹に 題さ れた 詩を 取り 上げ て﹁ 葉上 の露 は玉 を置 いた よ う で︑ 少し の塵 もな く清 らか であ る﹂

︵ 四十 七則

︶と 指摘 して いる

︒そ して

︑大 鵬︵ 一六 九一

〜一 七二 四︶ の︿ 墨竹

﹀ や

︿蟹 図﹀ をみ て︑

﹁ 彼の 絵に は自 由で とら われ ない 筆 使 いが あ る が︑ 残念 な が ら 気が 清 ら かで な い︒ 弟 子の 来 鳳 は 師 法 を 守っ て い るが 筆 使 い の自 由 さ では 及 ば ない

﹂︵ 四 十 四 則︶ とい っ て おり

︑そ こ に は自 由 さ を 強 調 し な が ら も

︑ 自 由さ にも 気品 を要 求す る竹 田の 姿勢 をみ るこ とが でき る︒ そう した 気品 とも 言う べき もの は技 術の 鍛錬 によ って 発 揮 され るも ので はあ るが 天分 のも ので あ るこ と を 月仙

︵一 七 四 一〜 一八

〇 九

︶の 作 品に 見 て いる

︒﹁ 月 仙 の人 物 画 は 簡 単で ゆっ たり と明 るく

︑詰 まっ たと ころ がな い︒ 多作 によ って 成熟 した ので あろ うが

︑こ れは 天分 によ る趣 で︑ こ れ を今 の人 に比 べる と遙 かに 異色 で ある

﹂︵ 四 十 五則

︶と い っ てい る

︒と い っ ても

︑こ の 月 仙で あ っ ても 恢 応

︵文 政 頃

﹇一 八一 八〜 一八 三〇

﹈の 人︶ には 及ば ない こと を﹁ 恢応 の︿ 蘇門 鸞嘯 図﹀ の作 品は 古怪 絶俗 で火 食し ない 人︵ 現 代 人の 俗臭 を持 たな い人

︶の 作っ たも の のよ う だ︒ 月 仙で は 比 較に な ら な いの だ

﹂︵ 四 十六 則

︶と 判 断し て い る︒ こ こ に︑ 竹田 が作 品に はそ の人 の超 俗の 気品 が現 れて いる こと を求 めて いる こと が確 認で きる

︒そ して

︑大 原呑 響︵ 文 化 七年

﹇一 八一

〇﹈ 没︶ は﹁ 張瑞 図︵ 一五 七

〇〜 一六 四 一︶ の 奥義 を 学 んだ が

︑諸 侯 に 仕え 画 業 に純 粋 で な かっ た

︵三 十九 則︶ こと が惜 しま れる とい い︑ 黄檗 山 万 福寺 第 七 世の 悦 山 禅 師︵ 宝暦 六 年﹇ 一 七五 六

﹈没

︶が 張 瑞図 と 仲 が 良 く︑ かれ が中 国か ら日 本に 持っ てき た張 瑞図 の墨 竹の 筆を 森川 竹窓

︵一 七六 三〜 一八 三〇

︶は 愛し たが

︑そ れは 心 に 感ず ると ころ があ った から だい い︑

﹁ 枝は 隷書

︑葉 は草 書︑ 石は 飛白 であ り︑

︵そ の姿 は︶ 野水 の傍 で月 に嘯 き︑ 風 に 吟じ てい る︒ どう して あか ざの 杖を つい た 老人 が 前 漢の 博 学 の劉 向

︵紀 元 前 七九

〜紀 元 前 八︶ を見 出 し た よう に

― 25 ― 江戸派は覇気多し

(12)

こ の張 瑞図 を見 出さ ない のだ ろう か﹂

︵ 四十 則︶ と語 り︑ 張瑞 図 が 書法 の 筆 法に よ っ て 描い た 作 品に 彼 の 人柄 の 高 潔 さ を見 出し てい る︒ 張瑞 図は 明末 の宦 官魏 忠賢

︵十 七世 紀前 半︶ の愛 顧を 受け てい たが

︑彼 が誅 され ると 職を 免ぜ ら れ て野 に下 った

︒こ うし た政 治的 な関 係で 中国 では その 人物 も尊 ばれ ず︑ 作品 も珍 重さ れな かっ たが

︑わ が国 では 多 く 舶載 され 賞美 され た︒ 竹田 もそ の作 品を たた え てい る こ とは 上 述 の通 り で あ る︒ また

︑﹁ 僧 侶 の大 麟 は 悟る と こ ろ が あっ て衣 鉢の 他は 何も かも 捨て 去っ てし ま い︑ 友人 の 栄 誉を 笑 っ て見 て い た﹂

︵ 四十 一 則︶ と いう エ ピ ソー ド を 語 っ てい る︒ この よう に︑ 絵画 制作 とは 純粋 に脱 世間 の心 を投 射す るこ とで あっ た︒ そう して 描か れた 絵画 は︑

﹁ 柳公 権︵ 七七 八

│八 六 五︶ がい う 心 が正 し け れ ば︑ すな わ ち 筆も 正 し であ る か ら︑ 筆 が 正 し けれ ば

︑す な わち 人 を し て正 し か らし む の であ る

︒そ れ 故︑ 作 るも の は よろ し く 法を も っ て 作 る べ き で あ る し

︑観 るも のは よろ しく 法を もっ て観 るべ きで ある

﹂︵ 七 十七 則︶ とい うの であ る︒ こう した 絵画 を描 くに は︑

﹁ 細心 と大 胆の 両 方を も つ こと

﹂︵ 九 十 六則

︶が 必 要 で あり

︑﹁ 日 本 人は 中 国 人に 比 べ る と 軽 率 であ る か ら︑ 心を 静 か に 落ち 着 か せな け れ ばな ら な い﹂

︵ 九十 七 則

︶し

︑﹁ 精 神 を 集 中 し て 描 く

﹂︵ 九 十 九 則

︶ こ とが 重要 なの であ る︒ 古人 に学 び︑ 古法 を習 得す るこ とに よっ て︑ 自己 に備 わっ てい る気 韻が 現れ ると いう ので あ る

︒﹁ 心 と目 が通 じ合 い︑ 目と 筆と が一 体と なる こと

︑こ れが 筆を 下ろ す前 に思 い︵ 構想

︶が 出来 上が って いる

︵﹁ 意 在 筆先

﹂︶ と いう こと であ る︒ 今の 人た ちは 点を 打っ た り︑ 払 った り す るこ と が 軽 くて 早 く て︑ 忙し く て ゆと り が な い

︒だ か ら︑ 心 と目 が 離 れば な れ に なっ て

︑目 と 手が 逆 ら って い る の であ る

︒こ れ もま た 古 人に 及 ば な い 一 点 で あ る

﹂︵ 九 十則

︶と いっ てい る︒ そし て︑ 今の 人た ちが 学ば なけ れば なら ない こと は︑

﹁昔 の人

︵画 を学 ぶ人

︶た ちは 己 の ため にし た︵ 自娯

︶の に︑ 今の 人た ちは 人の ため にし てい る﹂

︵ 五則

︶こ とで あり

︑﹁ 今の 人た ちが 昔の 人の よう に 描 けな いの は市 気

︵評 価 を気 に す るこ と

︶が あ る から だ

﹂︵ 四 則︶ とい い

︑鄭 板 橋︵ 鄭! 一 六 九三

〜一 七 六 五︶ の

江戸派は覇気多し ― 26 ―

(13)

﹁時 の人

︵の 好み

︶に 合わ ない ので

︑東 風ば かり に売 るだ けの こと だ︵ 人に は迎 合し て売 って はい ない

︶﹂

︵ 五十 九則

︶ と いう 題詩 を紹 介し

︑ま た︑ 木村 蒹葭 堂︵ 一七 三六

〜一 八〇 二︶ の作 画に つい て︑

﹁ 描法 は近 世の 人に 倣っ てい たが

︑ 自 娯の ため であ り︑ 古人 と競 うよ うな こと は なく

︑昔 の こ とに 浸 り 楽し む こ と を願 っ て いた

﹂︵ 六 十 二則

︶と 語 っ て い るこ と︑ さら に﹁ 気に 入っ たも のは 大事 に しま っ て おき た い もの だ

﹂︵ 八 十 九則

︶と い う 言葉 に

︑竹 田 が求 め て い た 絵画 制作 の態 度を 確認 する こと がで きる

︒ 第三

章 北山 寒 巌

︵馬 孟

!

︶の 画 風 竹

田が 江 戸 派の 代 表 的な 画 家 と して 北 山 寒巌

︵馬 孟!

一七 六 七

〜一 八

〇一

︶を 位 置 づ け

︑評 価 す る 姿 勢 に 着 目 し

︑絵 画と は﹁ 風土 が形 成し た画 家た ちの 人 格﹂ の表 出 で ある と 考 え︑

﹁江 戸 派 は 覇気 多 し﹂ と 言っ た 意 味を 確 認 す る こと を試 みる

︒ 竹田 は︑

﹁ 漢画 には 数派 があ る︒ 京派

︑摂 派︑ 江戸 派︑ 長崎 派で あり

︑一 長一 短が ある

﹂︵ 八則

︶と いう

︒京 派は 円 山 応挙

・呉 春ら や大 雅・ 蕪村 らの 後継 者た ちを いい

︑摂 派は 木村 蒹葭 堂・ 岡田 米山 人・ 半江 らを

︑江 戸派 とは この 時 代 に江 戸で 活躍 した 渡辺

!水

・諸 葛監

・宋 紫石

・建 部凌 岱ら の南 蘋派 や谷 文晁

・渡 辺崋 山ら と考 えら れる

︒ その 江戸 派を 代表 する のが 谷文 晁と 北山 寒 巌で あ る︒ 竹 田は か れ らに つ い て︑

﹁ 文晁 は 用 筆が 強 く︑ 彩 色は 濃 厚 で 復 古を 目指 し︑ 馬遠 や夏 珪を 学ん で山 水画 を描 き︑ 倪# や"

公望 の画 風を 喜ば なか った

︒そ れに 対し て︑ 北山 寒巌 も 院 体画 を慕 った とは いえ

︑渡 辺蓬 島に 与え た手 紙で 山水 画は 明代 の浙 派の 画家 であ る朱 端︵ 生没 年不 詳︶ を︑ 人物 画 は 呉偉

︵一 四五 九〜 一五

〇八

︶を

︑花 鳥画 は林 良︵ 弘治 年間

﹇一 四八 八〜 一五

〇五

﹈画 院の 画家

︶を 先生 とし てい る

― 27 ― 江戸派は覇気多し

(14)

︑そ の一 方︑ 戴 文進

︵一 三 八 八〜 一四 六 二︶

・ 呉廷 振

・車 楚 雲・ 鐘 欽礼

︵弘 治 年 間﹇ 一四 八 八〜 一 五〇 五

﹈画 院 の 画 家︶

・ 張平 山︵ 張路

一 四六 四〜 一五 三八

︶・ 張阮 竹 など の 描 き方 の 良 いと こ ろ を とっ て 描 いて い る と いい

︑ま た

︑ 絵 を学 ぶに は当 然一 人の 画家 を徹 底的 に研 究し 尽く して

︑筆 法に は拠 り所 とす るも のが ある のだ から

︑心 を込 めて 深 く 入り 込む こと によ って 会得 すべ きで ある とも いっ てい る︒ その 堂々 とし た古 法を 学ぶ 姿勢 を見 るに つけ ても

︑も し 長 生き して いた なら

︑そ の後 の技 芸は 必ず 深ま り︑ 谷文 晁︵ 一七 六三

〜一 八四 一︶ だけ に関 東の 名声 を独 占さ せる こ と はな かっ たろ う﹂

︵ 三十 三則

︶と 語り

︑北 山寒 巌を 高く 評価 して いる

︒ 北山 寒巌 の姓 は馬

︑名 は孟

#︑ 字を 文奎 とい う︒ 明末 に亡 命し た馬 栄宇 の孫 であ り︑ 父の 馬道 良に 絵を 学び

︑漢 画 を 描く 一方 で︑ 蘭学 者と 交流 する こと によ って 洋風 画︽ ヘイ ステ ル像

︾︵ 神 戸市 立博 物館

︶も 描い た!

︒ 北山 寒巌 と谷 文晁 の差 は彼 らの 古法 への 関 わり 方 で あっ た

︒前 述 のよ う に

︑﹁ 用 筆が 強 く︑ 彩 色は 濃 厚 で復 古 を 目 指 し︑ 馬遠 や夏 珪を 学ん で山 水画 を 描き

︑倪

%や

$公 望 の 画風 を 喜 ばな か っ た﹂

︵ 三十 三 則︶ と いう 谷 文 晁は さ ま ざ ま な 画 風を 学 び︑ さ まざ ま な 作 品を 残 し てい る"

︒か れ の作 品 の 中 でも

︽金 碧 山 水図

︾︵ 図 1︶ は﹁ 彩 色 は 濃 厚 で 復 古 を目 指し た﹂ 作例 であ り︑

︽ 山水 図屏 風︾

︵静 嘉堂 文庫 美術 館 図2

︶は

﹁馬 遠や 夏珪 を学 んで 山水 画を 描い た﹂ も の と い うこ と が でき る

︒ま た︽ 寒 林 晩帰 図

︾︵ 東 京 国 立 博 物 館 図 3︶ に は﹁ 倪% や$ 公 望 の 画 風 を 喜 ば な か っ た

﹂ と いう 画風 をう かが うこ とが でき る︒ 一 方︑ 北山 寒 巌︽ 渓 山友 遊 図︾

︵ 寛 政 元 年 一 七 八 九 図4

︶に は 張 路 筆︽ 道 院 馴 鶴 図︾

︵ 橋 本 コ レ ク シ ョ ン 図 5

︶に みら れる 構図 と筆 法 を 確認 す る こと が で き る︒ また

︽鷹 山 水 図︾

︵寛 政 三 年 一七 九 一 図6

︶と 林 良

︽鳳 凰 図

︾︵ 相 国寺

図 7︶ や王 諤︽ 山水 図︾

︵図 8︶ を 比較 す れ ば︑

︽鷹 山 水 図︾ がか れ ら の 作品 の 部 分を 学 習 した 結 果 が も た ら した も の であ る こ と が了 解 さ れる こ と だろ う

︒︽ 秋 水 捕 魚 図

︾︵ 佐 野 美 術 館 図 9︶ に は 呉 偉 の︽ 許 由・ 巣 父

江戸派は覇気多し ― 28 ―

(15)

︾︵ 図 10︶ に似 通 う 人物 や 樹 木を 見 る こ とが で き る︒ そ し て︑ と り わ け 目 を ひ く の は

︽芙 蓉 白 鷺 図︾

︵図 11︶ で あ る

︒そ こに は沈 南蘋 派の 画風 によ って 描 か れた 江 戸 派の 画 家 渡 辺玄 対

︽柳 に 翡翠 図

︾︵ 板 橋区 立 美 術 館 12図

︶に 類 似 する 明確 に対 象を 描き 上げ よう とす る姿 勢を 認め るこ とが でき る︒ そし て︑ なに より も︑ 寒巌 の作 品に 共通 して 見 出 され るも のは

︑﹁ 絵 を学 ぶに は当 然一 人の 画家 を 徹底 的 に 研究 し 尽 く して

﹂︵ 三 十 三則

︶︑ 学 ぶ こと を 主 張し て い る の も関 わら ず︑ 一人 の画 家の 作風 をコ ピー する よう な作 品は 見あ たら ない こと であ る︒

︽ 花鳥 図︾

︵板 橋区 立美 術館 図 13︶ にみ るよ うに 寒巌 独自 の解 釈を 取り 入れ

︑彼 自身 の 作品 と し て提 出 し てい る こ と に特 色 を 見る こ と が でき る

︒ そ れは

﹁古 法を 守ろ うと する 姿勢 であ った

﹂︵ 三 十二 則︶ とい わ れ てい る 谷 文晁 の 作 品 と比 較 し たと き に より よ く 理 解 する こと がで きる だろ う︒ かれ らに 通底 する 特色 は泥 臭さ とも 言う べき 強さ であ り︑ 南宗 画を 本領 とす る画 家た ちが 学ぶ こと のな かっ た北 宗 画 の画 家た ちの 画法 を学 んで いる こと であ る︒ この 特色 をよ り明 確に する ため に︑ 京派 ある いは 摂派 の画 家た ちの 作 品 と比 較し てみ よう

︒ ま ず︑ 竹田 は 京 派に つ い て︑

﹁京 派 の 花 鳥画 は 力 を集 中 し て写 生 に 努 めて い る︒ 筆 使い は 最 も 柔 軟 で 見 目 麗 し く

︑ 彩 色も 鮮や かで 目新 しさ を極 めて いた

︒花 や虫 の さま ざ ま な姿 で 四 季や 朝 暮

︑風 雨・ 晴 天な ど の 時で の 思 い や態 度

︑ 感 情や 性質 のあ りさ まを 真に 迫っ て描 き︑ 描き 尽く さな いも のは なか った

︒そ の描 法は 古法 では なか った が︑ 鑑賞 に 値 する もの であ った

︒応 挙︵ 一七 三三

〜九 五︶ や呉 春︵ 一七 五二

〜一 八一 一︶ が最 も良 い︒ 山水 画や 人物 画に 至っ て は

︑も ちろ ん鑑 賞す るほ ど のも の は ない

﹂︵ 二 十 三則

︶と 語 っ て いる

︒ま た

︑応 挙 の︿ 晩秋 野 草 図﹀ は﹁ 出来 上 が っ た 後に

︑再 び銀 泥で ばら ばら と点 を打 って

︑露 にう る おう 花 の かた ま っ た状 態 を 表 した

︒奇 想 天 外の も の で あっ た

︵二 十四 則︶ とい い︑ かれ が形 象の 美し さよ りも

︑そ れが 生み 出す 雰囲 気︑ 叙情 性を 重視 して いた こと を語 って いる

― 29 ― 江戸派は覇気多し

(16)

1 谷文晁《金碧山水図》

2 谷文晁《山水図屏風》右隻

4 北山寒巌《渓山友遊図》

3 谷文晁《寒林晩帰図》

(東京国立博物館)

5 張路《道院馴鶴図》

(橋本コレクション)

江戸派は覇気多し ― 30 ―

(17)

6 北山寒巌《鷹山水図》

8 王諤《山水図》

10 呉偉《許由巣父図》

7 林良《鳳凰図》(相国寺)

9 北山寒巌《秋水捕魚図》

(佐野美術館)

11 北山寒巌《芙蓉白鷺図》

― 31 ― 江戸派は覇気多し

(18)

ま た︑ 呉春 の︿ 秋江 双鳧 図﹀ につ いて

︑画 中に 添え られ た芙 蓉の 一枝 は 軽 く 胡粉 を 点 じた も の であ る が

︑﹁ 艶 めか し さ が四 方 に 溢れ

︑ま る で 未 亡 人が 頭を たれ て今 にも 泣き ださ んと する 姿の よう であ り︑ 二羽 の鴨 は 花 の外 側か らつ なが って 飛び 立っ てい る︒ 荒れ て寒 々し く物 寂し く︑ あ た かも 川の ほと りの 秋の 暮れ に急 に風 が吹 き︑ 細や かな 雨が まさ に降 ろ う とし てい る時 なの だ︒ まさ にこ れこ そ︵ 呉春 が︶ 平生 得意 とし てい る 描 き 方 だ﹂

︵二 十 五 則︶ とい い

︑応 挙 や 呉春 た ち が求 め て いた も の は 花 や 鳥の 美し い形 や色 を描 き出 すこ とで はな く︑ 花や 鳥た ちを 描く こと に よ って

︑画 面に それ らが 生み 出す 雰囲 気︑ 風情 を漂 わせ るこ と︑ 叙情 の 表 出で あっ たと 竹田 は理 解し てい るこ とが 知ら れる

︒応 挙の

︽四 季草 花 図 屏風

︾︵ 天 明七 年 一七 八七

図 14︶ や呉 春の

︽柳 鷺群 禽図 屏風

︾︵ 個 人 蔵 15図

︶は

︑そ うし た例 であ る︒ とこ ろで

︑中 林竹 洞に

﹁浪 華は 市気 多く して いや し﹂ と評 され た浪 華 の 画家 たち はど のよ うな 絵を 描い てい たの だろ うか

︒試 みに

︑竹 田が 大 坂 で交 流 して い た 木村 蒹 葭 堂︑ 岡田 米 山 人 の作 品 を 見る こ と に した い

︒ 木 村 蒹葭 堂 と は︑ 彼は 早 い 時期 に 出 会 って い る こと が

︑﹁ 元 服し て 江 戸 に 留学 する 折に

︑大 坂に 立ち 寄っ て蒹 葭堂 にあ った

︒翌 年︑ 帰る とき に 訪 れ た が︑ 既に 逝 去 され て い た﹂

︵ 六十 一 則︶ と 記さ れ

︑彼 の 制 作 態 度

12 渡辺玄対《柳に翡翠図》

(板橋区立美術館)

13 北山寒巌《花鳥図》

江戸派は覇気多し ― 32 ―

(19)

14 円山応挙《四季花鳥図屏風》部分

(山村御流)

15 呉春《柳鷺群禽図屏風》左隻(個人蔵)

17 岡田米山人《蘭亭曲水図》

18 池大雅《流泉古松図》

(静嘉堂文庫美術館)

16 木村兼葭堂《秋山訪友図》

― 33 ― 江戸派は覇気多し

(20)

が自 娯に あっ たこ とを

﹁描 法は 近世 の人 に倣 って いた が︑ 自娯 のた めで あ り︑ 古人 と競 うよ うな こと はな く︑ 昔の こと に浸 り楽 しむ こと を願 って い た﹂

︵ 六 十 二 則

︶と し て 前 述 し た と こ ろ で あ る

︒岡 田 米 山 人 に は 竹 田 が

﹁ 書画 がと もに 巧み であ ると いう わけ では ない が︑ 天趣 を吐 き出 して いる

︵ 六十 四則

︶と 語っ たこ とが ある

︒木 村蒹 葭堂 が描 く︽ 秋山 訪友 図︾

︵田 辺 市立 美術 館 16図

︶︑ あ るい は岡 田米 山人 の︽ 蘭亭 曲水 図︾

︵文 化十 三年 一 八一 六 図 17︶ を見 る と︑ そ こに は 池 大 雅が 描 く︽ 流 泉 古 松 図

︾︵ 静 嘉 堂 文 庫 美術 館 図 18︶ とは 異 な った 趣 を 見 るこ と が でき よ う︒ そ う した 差 異 を︑ 竹洞 は 指 摘し て い る の か も し れ な い

︒蒹 葭堂 や米 山人 に共 通す るも のは わか りや すさ とと もに 人目 を引 くよ うな 不思 議な 形で ある

︒自 分自 身が 絵を 楽 し ん で いる そ の 気分 を 何 か 他人 に も 分か ら せ よう と す る 工夫 を 見 る思 い が する

︒高 尚 に 取 り澄 ま し てい る の で は な く

︑﹁ お ちょ ける

﹂と か﹁ いち びる

﹂と いっ た本 人自 身の 喜び を見 せよ うと して いる のが 特色 かも しれ ない

︒ 竹 田は

﹁江 戸 派 は覇 気 多 し﹂ とい う 竹 洞 の評 を 受 け入 れ

︑そ れ は 謂わ れ の 無い こ と では な い と い い︑ そ の 理 由 を

﹁武 蔵の 国は 古の 蝦夷 の国 であ る奥 羽に 接し てお り︑ 人馬 は強 くた くま しく 風俗 は気 骨を 尊ん でい る﹂

︵三 十四 則︶ か ら だと いう

︒上 述の 通り

︑京 派に は見 出さ れる のは 叙情 的に 画面 を作 り上 げる こと であ り︑ 摂派 に見 出さ れる のは 自 分 自身 が絵 を楽 しん でい るこ とを 他人 に見 せよ うと する サー ビス 精神 に満 ちた 画面 を作 り上 げる こと であ った

︒こ の こ とを 竹洞 は﹁ 市気 多く して いや し﹂ と評 した のだ ろう

︒こ れら の画 風に 較べ れば

︑竹 田が 江戸 派を 代表 する 画家 と し た北 山寒 巌の 画風 の特 色は

︑南 宗画 を本 領と する 画家 たち が学 ぶこ との なか った 北宗 画の 画家 たち の画 法を も学 ぶ こ とに よっ て︑ 画面 に対 象を 明確 に描 き出 すこ とに よっ て生 み出 され る泥 臭さ とも 言う べき 強さ であ る︒

19 北山寒巌《山水図》

江戸派は覇気多し ― 34 ―

(21)

﹁ 覇気

﹂と は︑

﹃広 辞苑

﹄に よれ ば︑

﹁! 覇 者に な ろ うと す る 気性

︒積 極 的 に 立ち 向 か おう と す る意 気

︒か ち き︒

"

や まき

︒野 心﹂ とあ る︒ たし かに

︑北 山寒 巌の 作品 には

︑強 さが ある

︒し かし

︑︽ 山 水図

︾︵ 19図

︶に 見る のは 池大 雅 が 描く

︽流 泉古 松図

︾︵ 静 嘉堂 文庫 美術 館 18図

︶が 持 っ てお り

︑上 述 した と こ ろ であ る が﹁ 細 心と 大 胆 の両 方 を も つ こと

﹂︵ 九 十六 則︶ によ って 描か れた 大雅 の

︿風 竹 図屏 風

﹀に 見 るよ う な

﹁観 る 者は 心 身 さわ や か にな っ て

︑我 を 忘 れし まう

﹂︵ 十 四則

︶特 色︑

﹁大 雅の 筆力 に 胆力 を 見 るこ と が でき る

﹂︵ 十 四 則︶ と評 さ れ てい る 強 さ︑ ある い は 大 胆 さと は異 なる くそ まじ めな 荒々 しさ

︑た くま しさ とい う他 はな い︒ 竹 田は 絵 画 を人 格 の 表れ だ と 言 い︑ 生き 方 の 表出 だ と 語 って い た こと は 前 述し た と こ ろで あ る︒ 大 雅 の 作 品 に は

﹁学 ぶこ とが でき ず︑ 生ま れな がら に備 わっ てい る気 韻が あ り︑ そ れを 知 っ てい る か ら こそ 世 の 中の 人 た ちは 彼 が 描 い た半 箋・ 隻紙 です らも 争い 求め るの だ﹂

︵ 二十 七 則︶ と いう の で ある

︒そ れ 故

︑江 戸 の画 家 で ある 北 山 寒巌 が 描 い た 作 品 には

﹁武 蔵 の 国は 古 の 蝦 夷の 国 で あ る 奥 羽 に 接 し て お り

︑人 馬 は 強 く た く ま し く 風 俗 は 気 骨 を 尊 ん で い る

︵三 十四 則︶ から

︑﹁ 覇気 が多 い﹂ と認 めた ので ある

︒そ の作 品の 強さ は﹁ 風土 が形 成し た画 家た ちの 人格

﹂の 表出 で あ ると 考え たの であ る︒ しか しな がら

︑前 述し たと おり

︑竹 田は そう した 人格 の表 れで ある 絵画 は正 確な 技術 に基 づ い て い るこ と が 必要 で あ る と 主 張 し て い た

︒現 代 の 画 家 た ち は

﹁古 人 の 法 則 を 知 ら な す ぎ る︒ 反 省 す べ き で あ る

︵九 十二 則︶ とい い︑

﹁作 るも のは よろ し く法 を も って 作 る べき で あ る﹂

︵ 七十 七 則︶ と いう の で ある

︒と は い え︑ 玉

#は

﹁ 筆墨 に精 熟し てい るが

︑格 法に 拘泥 し てお り

︑さ っ ぱり し た 趣に 乏 し い﹂

︵ 四十 七 則︶ と いう 評 語 を残 す よ う に

︑浦 上玉 堂︵ 一七 四五

〜一 八二

〇︶ が﹁ 酔中 に人 為で ない 天趣 を求 めて

︑心 を楽 しみ なが ら興 に乗 って 制作 して い た

﹂︵ 三 十七 則︶ こと を語 り︑ また

︑岡 田米 山 人︵ 一 七四 四

〜一 八 二〇

︶の 作 画 に つい て

﹁書 画 が巧 み と いう 訳 で は な いが

︑に わか に起 こっ た天 然の 趣致 を 心の 中 か ら吐 き 出 して い る の だ﹂

︵六 十 五 則︶ とい う よ うに

︑人 為

︑人 工 を

― 35 ― 江戸派は覇気多し

(22)

斥 けて 胸中 に起 こる

﹁天 趣﹂

︑﹁ 天 然の 趣致

﹂を 吐露 する こと を絵 画に 求め てい たの であ る︒ 僧松 丘の 作品 は﹁ 格に 合 っ てい たが 俗で はな かっ た﹂

︵ 四十 二則

︶と いっ て︑ 古法 を 守 りな が ら︑ 自 己の 脱 俗 の 精神 が 吐 露さ れ て いる こ と を 高 く評 価し てい るこ とに 注目 して おき たい

︒ こう した 竹田 は谷 文晁 と北 山寒 巌を 比較 して

︑同 じ く院 体 画 を学 ん だ 画家 で あ る が︑

﹁古 法 を 守ろ う と する 姿 勢 で あ っ た﹂

︵ 三十 二 則︶ 谷 文晁 に 対 し て︑ 北山 寒 巌 は明 代 の 浙派 た ち の 描き 方 の 良い と こ ろを と っ て 描 く 画 家 で あ り

﹁筆 法に は拠 り所 とす るも のが ある のだ から

︑心 を込 め て深 く 入 り込 む こ と によ っ て 会得 す べ きで あ る﹂

︵ 三 十三 則

︶ と いっ て︑ 古法 を守 るこ とが 技術 の習 得で はな く︑ 自己 の精 神を 吐露 する に相 応し い手 段を 発見 する こと であ ると 述 べ てい るこ とは 前述 した とこ ろで ある

︒そ う した

﹁そ の 堂 々と し た 古法 を 学 ぶ 姿勢

﹂︵ 三 十 三則

︶に 谷 文 晁を 超 え る 技 芸の 深ま りを 期待 して いた ので ある

︒北 山寒 巌と いう 画家 の生 き方 の︑ ある いは 人格 の表 出で ある 作品 に見 られ る

﹁江 戸派 は覇 気多 し﹂ とい う評 語は

︑彼 の描 き方

︑絵 画の 学び 方︑ 絵画 観を 語る もの であ った

︒ お

わ り に 江戸

派を 代表 する 北山 寒巌 の作 品は 京派 や摂 派の 画家 たち の作 品と は異 なる 特色 をも って いた

︒田 能村 竹田 の﹃ 山 中 人饒 舌﹄ によ れば

︑か れら が描 いて いた のは 熟 練さ れ た 技術 に よ って

︑﹁ 古 人 に なる

﹂と い う 自娯 の 精 神に 支 え ら れ た絵 画で あり

︑そ こに は画 家の 気韻

︑精 神︑ 人格 が表 され てい た︒ その 人格 は画 家た ちが 生き てい る風 土が 形成 し た もの と竹 田は 語る

︒そ の是 非を 今問 うこ と はし な い︒ し かし

︑﹁ 江 戸 派は 覇 気 多 し﹂ と語 る 竹 田の 言 葉 には 絵 画 は 画 家の 人格 の投 射で ある とい う彼 の主 張を 見る こと がで きる し︑ また

︑そ の﹁ 覇気 多し

﹂と いう 評語 には 北山 寒巌 の

江戸派は覇気多し ― 36 ―

図 1 谷文晁《金碧山水図》 図 2 谷文晁《山水図屏風》右隻 図 4 北山寒巌《渓山友遊図》図3谷文晁《寒林晩帰図》(東京国立博物館)図5張路《道院馴鶴図》 (橋本コレクション) 江戸派は覇気多し ― 30 ―
図 6 北山寒巌《鷹山水図》 図 8 王諤《山水図》 図 10 呉偉《許由巣父図》図7林良《鳳凰図》(相国寺)図9北山寒巌《秋水捕魚図》(佐野美術館)図11北山寒巌《芙蓉白鷺図》― 31 ―江戸派は覇気多し
図 14 円山応挙《四季花鳥図屏風》部分 (山村御流) 図 15 呉春《柳鷺群禽図屏風》左隻(個人蔵) 図 17 岡田米山人《蘭亭曲水図》図18池大雅《流泉古松図》 (静嘉堂文庫美術館)図16 木村兼葭堂《秋山訪友図》― 33 ―江戸派は覇気多し

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