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1  旧地形 と平 城 宮造 営 前 の遺 跡

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(1)

 

紀 池

水 上 池

第 V章 考

1  旧地形 と平 城 宮造 営 前 の遺 跡

平城宮造営前 の地形 につ いては

,各

発掘調査時 におけ る地 山層 の観 察結果 と宮域 内主要地点 の ボー リング調査 に よって復原資料 を蓄積 して きたが

,す

でに これ らの資料を も とに して地形 復 原 の研究 もあ り

,お

お よそ の輪郭 が把握 されている。 ここではそ の後 の資料 も加 え

,宮

造営 前 の旧地形 を復原 し

,旧

地形 区分 と遺跡 の立地 について検討す る。

A  平城官造営前 の地形 と表層地質

平城官は奈良盆地の北端

,京

都府 との境界付近にひろが る奈良山丘陵が東南に延びる小支丘 の南麓に位置 し

,下

ツ道 の北端を中心 として東西

,南

lkm四

方100 haとその東の張 り出 し 部20 haを 占めている。 官域内には三つの支丘が南に延び

,支

丘 と支丘の間は浅 い谷 とな り, その南は平野 となっている。(Fig.37)。

平城宮の造営に際 して

,旧

地形を変えた大 きな地業 として水処理 と整地がある。

水処 理

官の西北に位置する佐紀池の北方の谷筋には御前池・下吉田池・上吉田池が連な っているが, 佐紀池底の第 101次 発掘調査に よって, 谷水を集めて市流す る古墳時代の 自然流路SD8520が 確認された。

SD3520は

谷の開 口部に位置 し

,流

水を調整するための小規模な堰を伴なってい

る。平城宮の造営に伴ないこの谷が閉塞 されて園池

SG3500に

整え られた。

SG8500は

汀線に 攀大の礫を敷 きつめてお り

,園

池の規模 と形は現在の佐紀池 とさほ ど大 きな差異はなか った よ うであるが

,谷

水の調整池を も兼ねた らしく

,池

尻には堰 SX8192・

8193(第

92次調査

)を

設 け

,さ

らに宮西半部の基幹排水路である南】ヒ溝

SD3825(第

23次調査

)へ

導水 している。

佐紀池 と同 じく官の東北に位置す る水上池 も谷筋にあ り

,南

の堤が東西方向に直線的に延び てお り

,こ

の位置が北面大垣にあた ることか ら

,水

上池は宮の造営時に水処理 の一環 として, この谷を閉塞 した ことに よつてできた と考え られ る。昭和3・

7年

に岸熊吉氏が一条通 り北側

4)

で検 出 した玉石積 の南北溝 は】ヒで池尻 につ らな り

,南

で内裏東側 の玉 石積 の南北溝 SD2700に つ らな る (第21次 調査)。

 

さ らに官 の西南部を西北か ら東南 に向けて流れ ていた 旧秋篠川 を東 につけかえ

,旧

河道

SX1579を

埋 めた てて い る。宮 の廃絶後摩たたび

,こ

の旧河道 に沿 って氾

八賀晋「 平城宮造営以前の地形について」『大 和文化研究』第 13巻 2号, 1968, pp.25‑30。

『 平城宮報告 Ⅶ』1976。『 平城宮報告 Ⅸ』

1978。『  4FttR1970』『 勺  FttR1979』

3)立

命館大学地理学同好会 F生 駒山脈』1944。

4)岸

熊吉「 平城宮遺溝及遺物 の調査報告」『 奈 良県史蹟名勝天然記念物調査報告第十二冊』

1984。

(2)

旧地形 と平城宮造営前の遺跡

Fig。

37 

平城宮の現地形図

濫がおきてお り

,現

在幅20〜

25m,深

1.lm前

後の南北につ らなる窪み とな ってのこってい る (第18。25次調査)。

 

整 地

内裏 。第二次大極殿地区

 

官東半を占める内裏地区は一辺

200m四

方の平坦面をな して いる。 この平坦面は支丘頂部および神甥野古墳

SX0249の

墳丘を削平 し

,周

濠 を埋めたてて形 成 されたものである (第 6・ 9・ 12・ 36・ 73・ 78・ 103次調査)。 本地域の旧地表面は内裏東回 廊

SC156の

西雨落溝 と

SX02栂

の後 円部第 1段 の円筒埴輪の残存状況か らみて

,遺

構検出面 よ りやや高 く

標高

72m程

と考え られ る。

 

また内裏北方で内膳職のある北方官衝地区も平坦 面を塁 しているが

,こ

こでは丘陵頂部および市庭古墳

SX500(平

城天皇陵

)の

前方部を肖」平 し

,周

濠を埋めたてている (第10・ H・ 13・20・ 82‑4。

956次

調査)。

 

肖J平と整地にあたって 市庭古墳後円部第1段テラスの西側では地山を削 りだ しているが

,墳

丘裾をめ ぐる埴輪円筒列 の据付痕跡 (第

95‑H次

調査

)か

らみて

旧地表面はこの面 よ り15〜

20Cm高

標高

76m

程 と考えられ る。内裏 。大極殿地区か ら朝堂院に至 る官の南北の高低差を示す とFig,37の うになる。内裏東外郭は中央支丘の東縁辺に位置 しているため

,地

山の下 る東南部に数度にわ た り盛土 している (26。 70次調査)。 この地区の地山は

,内

裏地区 と内裏東外郭 (第 70次調査)

では

2.5m, 

第二次大極殿 と内裏東外郭東南隅 (第35次調査

)で

3.5mほ

どの比高差があ り, 支丘が東縁で急勾配に下 っている。 また

,内

裏西外郭では地山が西南に下 っている (第

H次

調 査)。 内裏北外郭においても東に地山が下 ってお り

,東

端部では盛土の厚 さが

0.5mに

も達 し ている。

吉 平 野 削 明 の 神 墳

市庭古墳の 前方部削平

郭 土 外 盛 東 の

(3)

第一次大極 殿院の造成

第V章 考

=.==.Iイ

=●==…I

現地表面      東朝集殿      壬生門

│…

■!!!■!Ⅲ市庭古墳 T=峯

第一次大極殿院地区

 

内裏地区 とおな じ台地上にある第一次大極殿院は南半 とゴヒ半 で大 きな段差があ り

それぞれ緩 い傾斜面を塁 しているが

北半部では 支丘頂部が 削平 されてお り

,床

上の下がす ぐ地山である。平城官造営当初には大極殿前面の丘陵先端を斜めに掘 削 し, 擁壁を造 り出 し

南限を設定 していたが

のちにさらに南に拡張 している。

 

この段 の残存高 ヤよ

1.5mほ

どぁ り

現地形の等高線71・

72mは

この部分で 北に突出 している(第69・ 72・ 86 次調査)。

 

この擁壁 よ り南

75mで

下 ツ道東側溝の北端を検出 している(第 75次調査)。

 

また下 ツ道の北端 よ り南の地山は粘質土で

,北

の地 山は黄褐色の上である(第72次調査

)こ

とか ら, 擁壁か ら南

75m位

の ところか ら丘陵は高 まっていた もの と考え られる。

 

第一次大極殿院北半 部 と佐紀池の池尻 (第92次調査

)と

の地山面 の比高差は

3mは

どぁ り

,地

山は西南に急勾配で 下 っている。 また大膳職の中央 (第

5〜 3次

調査

)お

よびその北方 (第62・ 79・ 84次調査

)は

丘陵頂部が削平 されてお り

,床

上の下がす ぐ地 山である。東側の地山は東にわずかに下が り, 自然路流 SD337・

338は

東南方向に向いている(第 3・

H次

調査)。 大膳職西側の地山は佐紀 池に向って急勾配に下 ってお り

,大

膳職 の中央 と佐紀池の底 との地山の比高差は

6m位

ある。

この傾斜は一様でな く

,佐

紀池東側 よ り東約

53mに

0。

9mほ

どの段があ り

この段 の下 は有 機質を含む灰色上で

,池

状の湿地を呈 している。 この傾斜池に

3期

にわた って広範かつ分厚い 盛上がみ とめられ

,厚

いところで

1.5mに

も達する。 また大膳職の西北部 も地山が佐紀池に向

vノ

部 地 酬 削 宮 の

な 高

rf//;'/1,)

o       200B ノ   /   1

Fig。

39 

平城宮造営前の旧地形復原図

(4)

旧地形と平城宮造営前の遺跡 って急勾配に下 ってお り

,こ

の傾斜池に も盛土 している (第 107次調査)。 佐紀池西岸の南側は 床上 の下がす ぐ地山であ り(第

98‑3次

調査

),こ

の位置 まで支丘が半島状に突出 していた と思 われ る。 この地区の標高は

72mで , 

第一次大極殿院の北半部 の地山面 とはば同 じである。 第 一次大極殿院の南側は

,中

央支丘の西側の谷につ らなる浅 い谷で

,旧

地表面は谷筋に堆積 した 軟弱な腐植物を含む黒色粘土に覆われてお り

,低

湿地 であ った と考え られ る (第41・ 77・ 97・

102・

lH次

調査)。

 

この低湿地は第一次大極殿 の擁壁 よ り南

130m付

近 よ り南に広が っている (第 77次調査)。 この低湿地 の埋めたては数回にお よんでお り

,第

一次大極殿廃東南隅では盛土 の厚 さが

lmに

も達す る。地山の標高は

68.3mで

ぁる (第 41次調査)。 さらに東朝集殿付近で は

40 Cmほ

ど盛土に よつて整地 されている。地山の標高は

63.9mで

ぁる (第48次調査)。

東院地区

 

東院の西側は中央支丘 の東側の谷につ らなる浅い谷で

,谷

筋に低湿地があ り, この低湿地を数回にわた つて埋めたててお り

,盛

上の厚 さは30〜

40 Cmほ

どである(第22・ 43

・104次調査)。 また東院東南部分の低地 も数回にわた って埋めたて ら注てお り

,盛

上 の厚 さは 40〜

50 Cmほ

どである(第HO・ 120次 調査)。

 

以上の ように官の造成に当って全体を平坦にす るのではな く

,旧

地形を利用 しなが ら削平・盛上に よ り

,平

坦面を階段状に形成 していた。中 央支丘は削平の著 しい ところであつたが

,地

山を削 りだ した古墳の墳丘第 1段 の埴輪据付痕跡 か らみて

,旧

地形は大幅に変え られてお らず

,盛

土 された個所が多か ったため

,官

造営以前の 旧地形の輪郭を具体的に把握することができた。官造営前の旧地形図は

,1967年

に奈良国立文 化財研究所が作製 した平城官跡2000分の 1の 地形図を参考にして地山面の標高・傾斜等を調べ,

さらに未発掘区については

,そ

のまわ りの宮造営前の地表面を考慮 し

, lm間

隔の等高線で描 ぃた (Fig。 39)。

十  ̲

谷 の 埋 立

東 院 地 区 地 立 湿 埋 低 の

祈小池 移霧1/礫況赤l「土‖Ⅲ‖シルト  ==椰 T:上

平城天どtl楊棚 技

北祈大池 舞報 秒

o       200m

地 山面の傾斜

Fig。

40 

平城宮の表層地質図

69

(5)

表 層 地 質

地 質 構 造

第V章 考

 

表 層地質

 

つ ぎに発掘調査 で明 らかにな ってい る地 山の表 層地質 をみ る と

,北

の支丘 の 頂 部 は赤裾 色系 の砂礫土 であ り

,裾

部 は黄褐 色系 の上 であ る。 この支丘 の南側 お よび谷筋 は灰 色系 の粘質上 の堆積が優勢 であ る。第一次大極殿院 の立地す る支丘 の西 。南 は低湿地を呈 し, 腐 植物 を含む黒色粘土 が広 が って い る (第41・ 77・ 91・ 97・ 102・

Hl次

調査)。

 

ところが朝堂 院南 門付近 は砂質 粘上 で黒色粘上 が 認 め られず (第

H9次

調査

),低

湿地 はやや北側 の ところで 終 ってい る。 また大膳職 の西側 (第 2・ 81次 調査

), 

東院 の西側 (第22・ 104次 調査

)と

東狽1

(第 80次 調査

)に

も低湿地 が認め られ る。 東院 の西南隅東側 の地 山は高 く

,バ

ラス混 じ りの暗 裾 色上 で

,西

側 の地 山は低 く黒 色粘上 であ り

,こ

の付近 まで東 の支丘南端が延 び ていることを 示 してい る。 この他に宮 の西南部 (第14・ 15。 18・ 25次 調査

),お

よび東南部 (第32・ 39・ 44・

48・ 99・ 122次 調査

)に

は砂 の堆積 が優勢 であ り

第 一次朝堂院南 門 お よび南面 東 門付近 は粘 質上 が優勢 であ る (Fig.40)。

地質構造

 

昭和46・ 47年 度 に平城宮跡環境整備 の基礎調査 として行な った官域内の地質

1)

調査のデータをもとに

,官

域の地質構造について見てみたい。 この地質調査はボー リングに よ る地表下

5mま

での地 。水質調査 で

宮内30箇所で行なっている。

 

この結果に よると

支丘

No.1〜

3・ 10。 H・ 27地点では表土下に後期洪積層がみ られ

砂礫・ シル ト・ 砂が互層をな している。洪積層 (段丘相当層

)の

粘性上の

N値

(検尺の標準貫入試験回

/30 Cm)│ま

10〜20

2)

,砂

質上の

N値

は30〜 50回であ る。平野

No.4〜

9。 13〜17・24〜26・ 28〜 30地点お よび宮 西南隅の旧秋篠川に沿 った No。 18〜23地点では沖積層がみ られ る。沖積層は粘土・砂質粘土

。粘土混 り砂で構成 され

,全

体的に不均質である。

,霧

jjk 高 ―

粘土  El砂

厖コ キL土混り 匡コ 砂〉とり

dll llンルト  2fウ 匝コl1/際混りE/1h植物淀り

川崎地質株式会社大阪支店『 平城宮跡環境整 備昭和46年度第二期工事 (ボー リングエ事)

報告書』 1972,『 平城官跡環境整備昭和47年 度第二期工事 (ボー リングエ事

)報

告 書』

1973。

大矢暁氏に よるとN値→ 標準貫入試験は,内 径

35 mm,外

51mm,長

さ810 mmのスプ

微 高地

リッ トスプーンサ ンプラーをボー リング孔 の 孔底におろし, 63.5 kgの ハ ンマーで

75Cm

の落差か ら打撃 し

,サ

ンプラーが地盤中に30

Cm貫

入するに要す る打撃回数を記録 し

N値

とす る。N値が低ければ土質はやわ らか く,

高ければ土質は緻 密 で あ る。『 地学事典』

1971, p.916。

一 語 硼 一 霧 垂

飾一一一嫉黎韓騨攀一醒

一一十一一一ヽ

一斃効塞垂票盤

一 蕨 緒 襲 垂 垂 一

60

一 璽 憂 萎 嚢 工 呼 韓 画 一 一 一 一 綿 嚢 一 上 一中斐 茅森= 一¨學 華華 嘉峯 一 上 璽

一十一一十一一 一一一一一一一一 一一

≧ 菫 剛

≧ Ⅷ 熙 上 一華墓

≡﹂ 華M 坊姿 一華一言 一燕 工 一十一華 一一華 華%

緒ワ 殊処 一一一華 華 工  一一一一一一一一 工 一韻 一華 一一車 峯曇 鞠﹀

靱か 僻察

=一 工 一華≡

華華 華一一彰 刻蘇 織鰯 螂 ユ 峯華 華瘍 象鴇 骸劾 纂

=峯 一 工 剛 一 葉 幽 軒 繭 一 垂 垂 誌 韓 朗 螂 繭 剛 工 縮

NO.1   3  10  11  27  26  28  29  4   6   8   9   14  16  30  18  20  21  23削企地中

Fig.41 

平城官の地質柱状図

70

(6)

旧地形 と平城宮造営前の遺跡

Fig。

42 

平城宮の旧地形図

沖積 層 の粘性上 の

N値

3〜

10回 であ る。

No.4〜

9。 13〜17・ 24・

25地

点 の表 層は粘上 の 堆 積 が優勢 で

,No.26・

28。

29地

点 の表 層は ンル ト・ 砂が互層をな してい る。 また No。 18〜

23地 点 の表 層は砂が優勢 であ り

,こ

の砂 層中に腐植物 を含み

,地

盤が軟 弱であ ることか ら

,自

然堤 防 と考 え られ る。

No.9地

点 では表土下

2mに

厚 く砂礫 層が堆積 してお り

,中

央支丘 は東 南 にゆ るやかに傾斜 してい る こ とを示 してい る。宮域 では全体 を沖積上 が被 覆 してお り

,沖

積 土 は北 では きわめて薄 く

,南

の厚 い ところでは

3.5mも

あ る (Fig.41)。

つ ぎに地下水位 と地形 との関係 につ いて調べてみ る と

,丘

陵 は 自然水位 が低 く

,揚

水量 が き わ めて少ない。 これに対 して平 野 は 自然水位が高 く

,揚

水量が多 い。 また秋篠 川 沿 いは 自然水 位 が やや低 く

,揚

水量 が少 ない傾 向がみ られ る。

旧地形 の概観

 

この よ うに して明 らかにな った宮造営前 の旧地形 の景観 を概観す ると, 奈 良山洪積丘陵 の支脈 が枝状 に南 に延 び

,支

丘 と支丘 の間は浅 い谷 で

,支

丘 南麓 か ら南 には沖 積平 野が広 が ってお り

,一

部 は湿 地 であ る。宮 の西南 には旧秋篠 川 に沿 った鉄 高地 がみ られ, また官 の西南隅には砂層が広 が ってい る。現在 の菰川 の西側が谷状 をな して い るので

,旧

河川 が この付近を流れ

,そ

の流域に氾濫 原を形成 した もの と考 え られ る。宮 の】ヒと南 の地 山面 の高 低 差 は

13m近

くあ り

,全

体 と して南 に傾斜 してい る。 以上 の点 を ま とめ る と

Fig.42に

示 した

よ うに丘陵

(A〜 C),微

高地

(D),平

(E),氾

濫 原

(F)の

区分 で示 す ことが で き よ う。

形 観 地 概 旧 の

71

(7)

第V章 考

B 平城宮造営前 の遺跡

代 構

射 遺

弥 の

平 城宮跡 の各発 掘調査地 か らは

,宮

造 営前 の弥生時代

,古

墳時代 に属す る遺構 を検 出 して い

(Fig。 43)。 さ らに遡 るもの としては

,遺

構 を伴 なわ ないが今回報告 した縄 文式上器 が 出土 し

てい る。以下

,地

形区分 に したが って官造 営 前の遺構を と り上げ る。

弥 生時代 の遺構 が検 出 された地点 は奈 良盆地 の北 を限 る奈 良山丘陵 の南縁 にあた る微 高 地 と 丘 陵縁辺

,そ

れに平野 である。 旧秋篠川東岸 の微高地

Dで

は弥生前期 の上羨

SK6122,弥

生 後 期 の上羨

SK3675が

あ る (第25。 59次 調査)。 同 じく旧秋篠川西岸 の微高地 において は弥 生後

1)

期 の竪穴住居跡

9棟

・方形周溝墓

H基

・土羨墓

2基

。溝

2条

があ り(第 14次調査

), 

これ らの 遺構はかな り重複 していた(Fig,44)。 竪穴住居跡には平面円形のもの

2棟

と方形のもの

7棟

が あ り

,住

居中央には炉跡がある。方形竪穴住居 SB1505は 焼失 し

,そ

のまま廃棄 されていた。

方形周溝墓は一辺が

6m前

後のものが多いが

,な

かには大型のものもあ り

,も

っと も 大 き い

SX1575は

一辺が

12.3mで

ぁる。

 

いずれ も主体部は削平 されていた。

 

土羨墓

SX1476に

は大 型の壷棺を埋納 している。西南方向の斜行溝 SD1572。 1577は

,旧

秋篠川に直交 して人為的に 掘 られた もので

,居

住区 と墓域を画す境界溝 とみ られ る。土羨 SK1431か らは 1斗 にお よぶ炭 化米が出土 した。弥生時代の遺構はさらに調査区外に広が っているもの と考え られ る。 また二 つの谷が合流す る付近の平野には弥生時代後期の上羨が

2基

ある(第 122次)。 この他に弥生式 竪穴住居跡

方形周溝墓

 

 

聾 : E

彗轟 華 彗 霊 覇

漏騨 砂礫淀 り赤th上 側Ⅲ シル ト  ==4fr質   再‖ 

Fig。

43 

平城官 の表層地質 と造営前の遺跡立地 1) 『年朝臓1965』 pp.30‑32。

72

14i

lII■

,

愁鯉靱

:

(8)

旧地形と平城宮造営前の遺跡 土器 が 出上 した遺構 として

,東

の氾

濫 原

Fの

南北溝 SD3923・

3985(第  

自 然 流 路

32次 調査

), 

同 じくこの 支丘

Bの

西 縁辺 に接 す る平地 の東南溝

SD3840

(第 28次 調査

),支

丘 A・

B間

の谷 の 南北溝

SD8520(第

101次調査

)が

あ る。 いずれ も蛇 行 してお り

,自

然 の流路 であ る。弥生式土器 の出土点 数 は少 な く

,そ

のほ とん どが弥生後 期 の ものであ る。 さ らに遺構 は とも なわ ないが

,朱

雀 関付近 (第 16次 調 査

)で

弥 生式土器片

,支

Bの

東 縁 辺 に接 す る平地 (第22次 北 調査

)で

太形 蛤刃石斧 が1点出土 してい る。

現在 の ところ秀生時代 の集落 と して 確 認 された のは旧秋篠川西岸 の微高

市 庭 古 墳 代 構

船 遺

古 の 地だけである。 しか し

,東

岸の 自然流路か らも弥生式土器が出上 してお り

,こ

の微高地にも弥 生後期の集落跡があった可能性が高い。水 田跡や木製農具は発見 されていないが

,集

落の立地 す る微高地の後背低地で稲作が行なわれた ことは

,多

量に出上 した炭化米が如実に示 している。

古墳時代の遺構が検出されるのは

,各

支丘頂部

,支

丘縁辺

,微

高地であるが

,支

B上

には 佐紀盾列古墳群のなかでは南端に位置す る市庭古墳 と神明野古墳が築造 された。

市庭古墳

SX500は

南向きの前方後円墳であるが

,官

の造営に際 して前方部は削平 され

,周

濠 は埋めたて られた。 この古墳の前方部東南隅

,外

堤西南隅

,南

面外堤

,東

面外堤

,後

円西裾 部をそれぞれ部分的に調査 し

,あ

わせて周濠 の底を一部検出 している (第10・ H。 13・ 20。 95

‑H次

調査)。 復原全長

250m, 

後円部復原径

130m, 

前方部幅

160m,周

囲に幅

40m前

, 深 さ

1.5mの

周濠をめ ぐらしている。墳丘は段築成であった らしく

,墳

丘第 1段 は地山を掘 り

こんで形成 され

,幅 2.5mの

平坦面 (テラス

)に

据え られた円筒埴輪が後円部西側で検出され た。前方部東南隅近 くの墳丘第1段の東斜面 と南斜面は地山を急傾斜に削 り出 したのち

,盛

土 に よつて25° 前後の緩傾斜に している。葺石は墳丘基底線にそ つて人頭大の石(径40〜50 Cm) を裾石 として並べたのち

,斜

面に小 さめの石 (径 10〜

20 Cm)を

葺 くが

,前

方部東南隅の東斜 面お よびその対岸の東外晃内斜面では

あ らか じめ墳丘の稜線お よび斜面に2〜

2.5m間

隔で 人頭大の石を下か ら上へ と I列 に並べて区画線を設けて

,各

区画 ごとに石を敷 きつめている。

外堤内斜面は 墳丘第 1段 斜面 と同様の傾斜 (25° 前後

)を

もち

外堤南辺西端か ら東

50m 1)お

もな古墳には神功皇后陵・成務天皇陵,日

葉酢媛陵・マエ塚古墳・丸塚古墳・瓢筆山古 墳 。猫塚古墳・塩塚古墳・神明野古墳・磐之 媛命陵・ゲンオ塚古墳・ コナベ古墳・ ウワナ ベ古墳・不退寺裏山古墳のほか多 くの古墳が 築造 された。

2)『平城宮報告 Ⅶ』1976, pp.53巧4。 なお,

第126次調査 では後 円部西北部 で,内濠

,外

堤,外濠 が検 出 され,一部 に外濠 が存在 して い ることが確 認 された。『年報1981』 pp.22‑

24。

Fig。

44 

第14次調査弥生時代の遺構

73

(9)

神明野古墳

掘立柱建移 方

  

土 竣 墓

掘立柱建物 方

  

整地土中の 埴

  

第V章 考

 

の位置か らは じまって西南に流れ る溝

SD503は

古墳築成時の溝で, 外堤が完成 した段階では この溝を埋め戻 し

その上に石を葺 いている。

 

溝底の高 さは周濠底 とほぼ等 しく

周濠掘削 とその後の墳丘築成時の湧水を処理す るための溝 と考え られ る。造 り出 しの有無 は遺構上か ら は確認 していないが

,佐

紀盾列の同規模古墳か ら推定す ると造 り出 しをそなえていた とも考え られ る。

神明野古墳

SX0249は

市庭古墳 の南に位置す る前方後円墳で

,官

の造営に際 して墳丘は削平 され

濠は埋めたてられている。

 

この古墳の前方部西南隅, 東側の くびれ郡

後 円西北部を

1〉

部分的に調査 し

,あ

わせて周濠 の底を一部検出 している (第 6。 9。 12・ 73・

H3次

調査)。 復 原全長

105m,後

円部復原径

64m, 

前方部幅

68m,周

囲に幅

18m前

,深

1.5mの

周濠を め ぐらしている。墳丘は段築成であ った らしく

,墳

丘第 1段 は地山を掘 りこんで形成 され

,後

円部墳丘裾部 と外堤部で埴輪列が確認 された。後円部では墳丘の基底線にそ って人頭大の石を 一列に並べたのち斜面に攀大の石を葺 いている。

神明野古墳前方部西南隅か ら西へ約

120mの

支丘

B西

斜面で円筒埴輪を

2個 ,南

北約

3mの

間隔で据えつけ られた状態で検 出 した。 この円筒埴輪列

(SX8415)の

性格は発掘面積が狭い ため不明である。 このほか支丘

Bに

立地す る古墳時代の遺構 としては

,西

南縁辺部に

,北

で西 にかれ る掘立柱建物

SB3773(4間

×

3間 ), SB3774(2間

×2間

),一

辺 ll mで 断面

V字

形 の 周濤を持つ方墳

SX7800,西

南方向に蛇行す る幅

0,95m,深

o.2mの

SD3772,土

SK3782・ 3798・ 3799がある(第72・ 75次調査)。

SX7800の

墳丘は削平 され

,基

底部のみを残 している。周濤か らは埴輪や布留式土器が出土 した。 また

SD3772か

らは布留式土器の破片が 数点 出土 した。南縁辺部 には今 回報告 した土羨墓 SX6035,

東 南方 向に蛇行す る濤

SD6030が

あ る (第 48次 調査)。

支丘

Cの

南縁辺 の奈 良時代 の遺 構 の下層においては

,北

で東にかれ る掘立柱建物

SB5755(3間

×

3間 ),断

V字

形 の周溝 を持つ 一辺

10mの

方墳

SX5700, 

西北か ら南方 向に「 く」 の字形 に屈 曲す る幅

3〜 4m,深

0.6mの

SD4992,小

土羨SK4969・ 5681カ ミあ る (第39。 43次 調査)

(Fig.45)。 SX5700の墳丘 は削平 され

,基

底部 のみを残す。

周濤上層か ら埴輪や須恵器が 出上 した。 なお,SD44992カ らは

5世

紀初頭 の上 師器 や木製 品が 多数 出上 した。 また支 丘

Cの

東・ 西縁辺 (第39・ 43・ 105・ 120次調査

)の

整地上 中に も埴輪が含 まれてお り

,支

丘 上 に古墳があ った もの と 考 え られ る。一方

,支

Aと

支 丘

Bの

間の谷 には

,南

北方 向に蛇 行す る幅

3m,深

0.6mの

溝SD8520カあ る (第 101次 調査)。 溝 中か ら古墳時代前期 の土師器

,本

製 品が 出 土 した。土器 のほ とん どが布留式 であ る。

旧秋篠川東岸 の微高地 にお い て は 溝 SD3570。 3620・

1)『平城宮報告 Ⅲ』1963,『年報1979』 p■。 74

臣 コi洋

匡 コ Vtttと を跡 方猿

̲̲型 ̲̲J‖

Fig。 45 第39・ 43次 調査 古墳 時 代 の遺構

(10)

旧地形と平城宮造営前の遺跡 6060。

7023,小

土羨 SK3580・ 3585が ある (第25・ 50・ 51・ 59次調査)。

 

溝はいずれ も旧秋篠 川に平行 してお り

,自

然の流路 と考えられ る。

 

また西岸は幅

1.lm, 

深 さ

0,7mの

南北溝

SD

1760が あ り(第15。 18・ 25・ 50・ 51・ 59次調査

), 

この溝は 直線的で

人工の溝 と考え られ る。 さらに2つの谷が合流す るやや平坦な平野

Eに

おいては北で西にかれ る斜行溝があ り

,こ

の溝の埋土 よ り

5世

紀末の上師器・ 須恵器が多量に出上 した (第 122次調査)。

これ ら

4, 5世

紀の遺構の立地をみ ると

,大

型古墳は支丘上に

,掘

立柱建物や小型の墓は谷 の入 口に面す る支丘縁辺 と微高地

,そ

れに低地に散在 している。特に支丘

Bの

西南縁辺および 支丘

Cの

西南縁辺では掘立柱建物・小型の方墳 。土羨 。溝等が一つのまとま りをもって小規模 に分散 している。 このような小規模のまとま りは掘立柱建物数棟か らなることか ら

,一

つの世 帯 ともみることができる。支丘

Bの

南縁辺では発掘面積が狭 く溝

SD6030や

土羨墓

SX6035し

か検出 していないが

,近

くに掘立柱建物が存在 しているのであろ う。宮内では潅観・ 排水施設 や水 日遺構は検出されていないが

,支

丘 と微高地 との低地で稲作がおこなわれた ことは豊富な 木製農具が これを物語 っている。 このような古墳時代前半の遺構のあ りかたは水 田開発の一形 態を示 していると考え られ る。以上の

5世

紀頃までの遺構に対 して

6, 7世

紀の遺構はきわめ

1)

て少 ない。 しか し

,左

京三条二坊十 。十五坪 で東南方 向に蛇 行 してい る溝SD881か らは

5,6

2)

世紀初頭

,SD880か

らは

5〜 7世

紀前半の上器 。木製品が出上 してお り

,ま

た右京六条一坊で 北西か ら南東方向に蛇行 している幅

3〜 4m,深

lmの

溝の底 よ り

4世

紀後半か ら

5世

紀に かけて

,上

層 よ り

5世

紀頃か ら

6世

紀初めの土器が出土 しているので

,奈

良盆地北部の沖積地 への進出は

5世

紀以降に積極的に行なわれた ことを示 している。それ も集落の面的な拡大では な く点的な拡大によっていることは

,水

田の開発 と経営のあ りかた と関連 して注 目され るとこ ろである。奈良山丘陵における大型古墳の築造は

,こ

れ ら低地における生産基盤に支え られて いた ものであろ うと考えられ る。

7世

紀末か ら

8世

紀になると

,下

ツ道が奈良山丘陵の裾部 まで達 していた。

 

この西側溝

SD

1900‑A下層か ら

8世

紀初頭の多量の土器 と木簡が出土 した (第16・ 17次調査)。 木簡の中に平 城京造営に ともなって消滅 した と考え られ る「大野里」の里名を記 した ものがあ り

,ま

た墨書 土器の中に「 五十戸家」,「五十家」な どの里家の存在を示す ものがあることよ り3)

,官

造営以前 にはこの付近に集落が存在 していた と推定 され る。 また東側溝

SD7321の

東側で検出 した掘立 柱建物

SB7816(2間

×

2間

)・

SB7817(3間

×

2間 )は

この時期のもの と考え られている(第

4)

77次 調査)。

奈 良国立文 化財研究所『 平城京左京三条二坊 』 1975, p.8,pp.3342, PL.4・ 19■24。

奈 良市『 平城京朱雀大路発 掘調査報告 』1974,

p.10・ 21, PL.14,15。

3)『平城宮報告 Ⅸ』1978,p.60,PL.35。 45。

4)『年報1973』 p.20。

人 工 の 溝

4,5tL紀の 遺構の立地

6,世

紀の 遺構の立地

 

 

(11)

  

層 器 種 構 成

第V章 考

2

A 土器 の 出上分布 と器種構成

S D6030は

,奈

良時代の遺構である東朝集殿の基壇下を

,北

西か ら南東に向けて蛇行 しつつ 流れている。濤の うち

,基

壇外 となる北の部分 と南の部分は全掘 したが

,基

壇下では

,部

分的 に トレンチを設けて流路を確認 したに とどまる。土器の出土点数は

,口

縁部で個体識別 した限 りにおいて

,濤

下層472点

,上

層456点であった。北区 と南区 との出土量を比較す ると

,下

層 では北区230点

,南

区242点とほば同数であるのに対 し

,上

層では北区54点

,南

区402点と著 しく片寄 っている。南区での出上分布を詳細にみ ると

,と

くに調査区南端

6mの

範囲に集中し ていることがわかる (Tab.2・ 15,Fig.46〜48)。 この集中状態は調査区の南の未掘部分に続い ているものと推測 される。

下層か ら出上 した器種には小型丸底壷

,器

,椀 ,高

,壷 ,甕

などがある。土器の用途を 供膳

,貯

,煮

炊の三つに大別すれば

,小

型丸底重

A,器

台A・

B,椀 A,高

杯は供膳に使用 された土器 とみなす ことができる。小型丸底壷

A,器

台A・

B,椀 Aは

いずれ も胎土のキ メが 細か く

,器

表面に細い ミガキ調整の施 される精製品であ り

,高

杯の大半を占める高杯

Aも

同様 の精製品である。この他

,壷 Ab(43)や

壷C(45)などにも器表面に緻密な ミガキ調整が施 され ているが

ミガキの幅は広 く

,胎

土はやや粗い。下層出土土器群の中にあって供膳用上器に限

,そ

のほ とんどが精製品であることは

,き

わだった特色の一つである。

,甕

の分類について

,本

報告では明確な基準を設定す ることな く

,慣

用的に使用 されてい BR

O

P

0

M

L K

BR

O N M

L

I

H G F E D C B

BA Au

T S

I

H G F E D C B

BA Au

T S

17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5 Fig。

46 SD6030下

層土器出土分布図

17  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5 Fig。

47 SD6030上

層土器出上分布図 76

(12)

2  こと る区分をそのまま踏襲 した。重 と甕は

,弥

生式

上器にあっては

,前

者が貯蔵用

,後

者が煮炊用 の上器 として理解 されてお り

,器

体の形態は比 較的甥瞭に分化 している。 S D6030出 土の壷あ るいは甕 とした土器の うち

,甕

については器形 か らも

,外

器表面に付着 したススの状態か らも, ほ とんど例外な く煮炊に使用された と判断する ことができる。しかし

,壷

には若千の問題が残 される。形態上

,芝

とした土器の中でも最 も量 の多い壷

Aや

Bに

,外

器表面にススの付着 しているものが少な くない。それ とともに

,同

様の法量

,形

態を示す土器であっても

,器

表面 にススの付着す るものとそ うでないものとがあ り(壼

Aaの

41と42など

),壷

形態を とる土器の 一部は

,恒

常的に煮炊に使用されたのであるか 否かは判断しかねるものの

,形

態か ら直ちに用 途を推定す ることが困難な場合のあることを指 摘 しておかなければならない。また

,壷

と甕 と を区別す る形態上の指標の一つである口縁部の 法量を基準にして両者を切確に分けることも困 難である。一般的な傾向としては

,口

:口

BR Q

P O N

M

L K

1

H G

F

D C e

BA Au

T S R

  16  15  14  13  12  11  10  9  8  7  6  5

Fig.48 SD6030上

層高杯B・ C出 上分布図

壺 と 甕 の 分

  

類 器

 

 

名 SD6030下 層 SD6030上層

小 型 丸 底 壷

Aa Ab Ac B C

% 輪 ol o︐ 11 1サ

   

A

B

i:}(♂

!%

00

A B X 椀

把 手 付 枕

η

0

4 (0,9%

14(3.1%

蓋 小型器台形土器

A Ba Bb Bc Ca Cb X 杯

(0.2%

η Щ

0

1 (0,2身r)

9︲

63

3 ⁚ ︲

⁝ ⁝ ︲ 靴 割

15 15

61

(12.9%

4 8 2 15 0 0 0 2

Ba Bb Ia Ib

47

ν

︲4 9

︲2 0 0 5 1 0 2 1 須 恵 器 進 0 2  (0.4ラ)

4 7 2

456

(100フ)

Tab.15 SD6030出土土器個体数

77

(13)

壷 と 甕 の

,ヒ      ヨF

第V章 考

 

部高の比率

3:1〜 4:1を

境にして壷 と甕を区分す ることができる(Fig。 49。 50)。

 

しかし

,そ

れは幅をもった境界線であ り

,少

なか らぬ例外を生ずることにな りかねず

,適

切な方法 とはみ なしがたい。従 って

,S D6030出

土土器に限っていえば

,重

と甕 とを単純に形態の上か ら分類 す ることはできず

,各

土器の用途を考える際には

,体

部 と日縁部の大 きさの関係や外器表面の 器面状態などを もとに

,個

々の上器について個別に判断す るほかはない。

もとより

,体

部を欠 く製品も多 く

,個

体数のデータも口縁部でのデータに限 られているな ど,

不確定要素が少な くない。そのことを前提 とした上で

,下

層出上の壷

,甕

の数量をみ ると

,甕

は222点

(47,0%)あ

,こ

れに

,壺

とした ものの うち煮炊に使用された ものを含めると

,50

%以

上の上器が煮炊用であった と考え ら注る。それに対 して

,重

は61点あるが

,そ

の中で煮炊 に用い られた もの

,お

よび供膳の器 として使用された と推定 される壷

Fな

どの小型品を除 くと,

おそ らく

10%以

下の比率になるものとみ られる。以上を まとめると

,下

層出土土器群では

,器

台を除外す ると

,供

膳に使用した もの約

40%,貯

蔵に使用した もの

10%た

らず

,煮

炊に使用し たもの

50%あ

ま りとい う比率になろ う。

上層か ら出上 した土器には小型丸底壷

BoCoD,椀 ,高

,深

,甑 ,壷 ,甕 ,須

恵器の建 などがある。その うち高杯が著 しく多 く, 291点あ り

63.8%を

占める。高杯の

98%は

同質の胎 上

  

器 種 構 成

口縁部高

5

・ 壺 A甕

C

B

1:4

k  lR敬

∬ 狙

︲﹂

lo       15

Fig。

49 SD6030下

層壼・甕類 口縁部法量

口 径

口縁都高  EE

▲甕

G B

/

il´I」

a   甘

軍士∵五 五

SD6030上層壷・甕類日縁部法量

(14)

 

器 土

,同

じ製作技法にな る高杯

BoCで ,そ

6〜 7割

は南区南端付近 に集中 していた。壷 と奏 の区分については下層 と同様 の問題をは らんでい るが

,壷

の数量 は甕を 100と した場 合26.8あ

,下

層 ではそれが27.5の 比率 を示す ので

,ほ

ぼ一致 した傾 向をみせてい ることにな る。

須 恵器 は小型甦 の 口縁部 の破片が

2個

体分 出上 したに とどまる。いずれ も初期須恵器 の範 疇 に属す る製 品であ る。

土 A 用 甕 膳 と 供 器 l oc m

体部径︵b︶5

5       10       1 5cm 口径(a)

Fig.51 SD6030下

層小型丸底壷

Aa法

‑1

Fig。

53 SD6030下

層小型丸底壷法量

‑3

きわめて類似 した形状を呈 し,また個体差の あ り方 も同様の傾向を示 している(Fi3 54)。

文化庁監修『 重要文化財23‑考古I』 毎 日新 聞率上千1 1976, p.127。

域 器 地 上 他 の

B  下層土器群 と上層土器群 の比較分析

S D6030下 層土器群は, 精製の供膳用上器 (小型九 底重

A,椀 A,器

A・

B,

高杯

A)と ,薄

手九底の甕

Aの

存在を著 しい特徴 とす る。小型九底壷はその

96%

Aaで

あ り

,胎

,作

り 方に斉一性がみ とめ られる。

また 口縁部の外傾角度はい ずれ も55〜65° の範囲内に あ り

,ほ

60° 前後に集中 しているが

,そ

の反面

,日

1)奈

良県天理市所在の東大寺山古墳の副葬品に は13点の石製小型壷が含まれる。これ らは形 態

,石

質によ り数群に分別 しうるが

,そ

の う ちの一群はS D6C130出上の小型丸底壼

Aaに

縁部 と体部の法量の比率には個体差が小さ くな く

,口

径に比 して体部最大径の小さなものほど, 口縁部の高さに対す る体部の高さの比率が小さい とい う傾向を看取す ることができる1) (Fig。 51

53)。

下層出上の壷

,甕

の中には

,明

らかに大和地方以外の諸地域に由来す ると判定 しうる製品が 少なか らず存在す る。壼E55は瀬戸内海東部沿岸地方の弥生時代終末期に普遍的にみ られる,

独特な形状を呈す る復合 口縁壷である。甕

Gの

うち57〜 59は

,山

陰地方に濃密に分布す る

,古

Fig.52 SD6030下

層小型丸底重法量

=2

(15)

在地産の甕

下層 と上層 の

 

比 較

他遺跡との 比

  

第V章 考

 

墳時代初頭 前後 に属す る山陰系 の複合 口縁甕 と判断 され る。甕F85は河 内地 方に生産地 が想定 され るいわゆ る庄内式甕 であ り

甕H79・80は吉備地方 で弥生時代後期に位置付け られ る鬼

1)

川市 Ⅱ〜 Ⅲ式に属す る製品 と考え られる。また

,甕

186〜92は

,伊

勢湾沿岸地方を中心に

,関

東地方か ら近畿地方にかけて広汎な分布圏を示す

S字

状 口縁のつ く台付甕である。 この甕 Iは 29点あ り

,下

層出上の甕の13.1%を占めている。下層の甕の主体をなす甕

Aは ,外

器表面のほ ぼ全面にススが付着 しているが

,甕

Iは 台部お よび体部下端付近にススが付着す ることがほ と んどな く

,煮

炊の方法が両者の間では異なるものであった ことを引示 している。以上に示 した ものに限っても

,他

地域の製品は合わせて39点あ り

下層出土土器の

8.3%,奏

だけでみれば 17.6%を占めていることになる。

煮炊の容器 としての甕では

,同

じ製作技術に よると考え られ る甕A・

Bが

下層出土甕の60.4

%を

占める。 この甕A・

Bは ,い

ずれ も丸底で

,口

縁端部を厚 くつ くり

,外

器表面にハケメ調 整を施す もので

,大

和地方をは じめ として畿内地方各地で普遍的に

,多

量に出土す る。前述 し た外来の製品に尉 して在地で生産 された土器 と考えることができる。

上層土器群は

,高

B・

Cが

多いこと

,小

型丸底壺は

Cが

ほ とんどであること

,甕

では甕

B

が最 も多い こと

,甑

があ り

,わ

ずかではあるが須恵器を伴 うことなどが特徴 としてあげ られ る。

その他に も

,と

くに下層土器群 と比較す ると

,い

くつかの相異点がみ とめ られ る。以下にその 要点を列挙 しよう。

 

下層にだけあ り

,上

層か ら出上 していないものには

,二

重 口縁を もつ壷

D,タ

タキ調整

を施 した甕E・ Fなどがある。また下層に多い供膳用精製土器が上層には全 くみ られない。

 

下層にはな く

,上

層だけにまとまった数量をみせるものには

,小

型丸底壷

C,高

B・

C,痛

球形の体部を もつ壼

Ac,大

型の鉢などがあ り

,量

は少ないが小型丸底重

B,外

傾す る口 縁部の外面に低い稜 のめ ぐる壷

H,そ

れに須恵器の小型進がある。

 

同 じ製作技法に よると考え られる甕

Aと

Bの

数量比が

,上

層では

8:1で

あるのに対 し

,下

層では

1:3と

逆転す る。

 

上層では甕

Cの

比率が減少 し

,甕 Dが

増加す る(甕

C:下

層甕の15,7%→上層

9.0%,

D:下

1,8%→

上層13.0%)。

 

下層では他地域か らもた らされた と考え られる土器が少な くないのに対 し

,上

層では明 らかに大和以外の地域か ら搬入された と判定 しうる製品はきわめて少なヤ1。

このように

,各

器種 ごとの様相や器種構成のあ り方か らみると

,一

部に共通す る要素がみ と め られ るものの

,下

層上器群 と上層土器群 との間には明瞭な違いがあ り

,両

者は土器群 として の総体的な存在形態を異にす るものといえる。

平城官東朝集殿下層濤 S D6030の 発掘調査 と

,そ

の出土資料の一部の紹介がなされて以来3) ,

古式土師器に関 しては

,大

和地方に限 っても

,い

くつかの遺跡か ら出上 したある程度 まとまっ

岡山県教育委員会F川入・上東』岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告16,1977。

甕H(169)は

,吉

備地方で弥生時代後期末葉 に位置付け られている鬼川市 Ⅲ式に属す ると

考え られ る。

3)『年報1969』 pp.3844。 安達厚三「 平城宮址 遺跡出上の上器」『土師式 上器集成』 本編 ユ,

1971。

(16)

 

器 た資料が公に されてい る。 ここでは

,そ

れ らとの時間的併行関係 あるいは先後関係を示 してお

くことに したい。S D6030下層土器群 は

,薄

手・ 丸底 の奏

Aの

盛行 と

,供

膳用精製土器 の存在

 

下層上器群

1)

を特徴 とす るもので

,奈

良盆地の南端に位置す る高市郡切日香村坂田寺下層遺跡出土資料や, 奈良盆地東南部の桜井市纏向遺跡辻土羨

4上

層出土資料にみ られ る各土器型式 と共通 した内容 をみせてお り

,時

間的にはぼ並行す る段階のものと考え られ る。また

,器

種構成において基本 的に共通す るものの

,各

器種にわた り形態や製作技法に若千の変化のみ られる橿原市藤原官跡 下層濤S D912・

S D914,桜

井市上 ノ井手遺跡濤

SD031お

よび纏向遺跡辻土羨14出土資料な

どにやや先行す る時期の所産であろ う。

一方, S D6030上層土器群は

,小

型九底壷

C,壷 Fが

あ り

,厚

手長胴の甕

Bが

盛行 し

,初

 

上層土器群

5)

須恵器が共伴す ることなどか ら

,上

ノ井手遺跡井戸

S E030上

層土器群にほぼ並行 し

,奈

良市

6)

平城京左京三条二坊遺跡下層濤 S D381出土土器群にやや先行す る様相を示 している。なお, 桜井市上 ノ井手遺跡では井戸 S E 030上 層土器群 よりも時間的に先行す る井戸

S E030下

層土 器群があ り

,さ

らに これは濤

S D031土

器群 より新 しい段階に位置づけ られ るこ とが明 らかにされている。従 って

, SD

6030下層土器群 と上層土器群は

,時

間的 に連続す るものではな く

,一

定の間隔を

もった もの と考えることができる。

下層土器群は

,当

遺跡の所在す る大和 地方にあっては

,大

規模な前方後円墳が 築造 され るようになる時期に作 られ

,使

用されたものであ り

,従

来「 布 留 式 土 器」 と称 されている土器様式の中でも古 い様相を示す ものである。上層土器群に は須恵器が含 まれ

,新

たに甑が加わ るな ど

,土

器様式の変化に大きな影響を与え ると思われ る要困が顕在化 している状況 を うかが うことができる。

Fig.54 

東大寺山古墳出上の石製小型丸底壷

(1:2)

▼ v

安達厚三 。木下正史「 飛鳥地域出上の古式上 師器」『考古学雑誌』 第60巻第 2号,1969。

桜井市教育委員会『 纏向』1976,pp.53巧4・

174・ 246。

奈良目立文化財研究所『 飛鳥・藤原官発掘調 査報告 Ⅲ』 奈良国立文化財研究所学報 第37

冊,1980。 お よび安達・木下前掲書。

安達・木下前掲書。

ただ し須恵器は共伴 していない。

奈良国立文化財研究所前掲書『平城京左京三 条二坊』1975,pp.38弓6,PL.19翌ユ。

81

(17)

縦斧と横斧

縦 斧 柄

第V章 考

3

A

木製 品

SD6030出 上の木製 品の検討

 

斧 柄 につ い て

SD6030カ

斉ら

5点

の斧柄が出土 している。いずれ も柔軟性に とむサカキの枝別れを利用 した 膝柄である。台部の形態か ら縦斧柄

(PL.30‑1・

2・

3)と ,横

斧柄

(PL,30‑4・ 5)と

にわけることはすでにのべた。 ここでは

,そ

うした斧柄に挿入す る鉄斧頭の形状などについて 若千の推測を試みてみ よう。

まず

,朝

集殿縦斧柄 (1・

2)に

装着すべ き袋のある鉄斧の大 きさを推定 してみ よう。台部 の先につ くりだす着装部は

,袋

状鉄斧の袋部に挿入され るのであるか ら

,そ

れに対応す る鉄斧 をさがせば よい。朝集殿縦斧柄 1は

,着

装部の長 さが

3.3Cm,幅 2.2Cm,厚

l。7Cm。

2は

長 さ

3.9Cm,幅 2.8Cm,厚

さ1.8Cmと な り

,い

ずれ も着装基部での計測値である。 さて

,古

墳 出上の袋状鉄斧では袋部の長径 と短径 とを数値で示す報告がな く

,実

測図にた よらざるをえな い。 また

,サ

ビのため原形をそ こなってお り

,計

測値がはた して原形のものか否かの問題 もあ る。 さらに

,古

墳に副葬す る鉄器は送葬用の仮器であ り

,実

用品でないとす るかんがえかた も ある。 このようなことを承知の うえ

,手

近にある報告書 の うち図面の揃 っている奈良県 メス リ

1)

山古墳の鉄斧 と比較す ることに した。 この古墳か らは14本の鉄斧が出土 してお り

,さ

いわいそ のすべてが図示 されているので

,図

に よって袋部の長径 と短径を測 ってみる(Tab。 16)。 朝集 殿縦斧柄1・ 2に即応す る鉄斧はないが

近いものはある。

 

すなわちメス リ12・

13が

朝集殿 綻斧柄 1に 近 く

メス リ4・ H・

14な

どが朝集殿縦斧柄2に近い大 きさを とる。

 

うち メス リ

4が

もっ とも大 き く

,そ

のほか

はおおむね長 さ

HCm内

,刃

番号 (長)(刃)(備)(刃部形状) (袋部径) 7.2 有肩式

  

7.3   

     

6。7   

     

5.5  

   

5,3  

     

5.7  

   

5.5  

  

やや弧

4.5  

   

5.ユ

  

   

弧 4,3   

     

4.5 無肩式

  

4.2  

  

 

4.0  

   

4.0  

     

cm 

ってみると

梯子 (44),  板材 (60),杭 (76)な どでは

,縦

,

袋部径は実測図か ら求めた数値

Tab.16 

メス リ山古墳出上の斧頭計測表 (報告書 より)

ス リ山古墳』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第35冊,1977,pp.

1)奈

良県立橿原考古学研究所編『 メ 132‑135。

82

5Cm内

外におさまる。 ただ

    

】 し朝集殿縦斧柄 1に 対応す るメ

    3

ス リ13はもっとも小さく

,長

    :

9,7Cm,刃

幅4.O Cmと な り

,    6

大型の斧柄に汁 して小型の斧柄

    ̀

であることを示 し

,斧

柄の長短

   9

にも前 していることがわかる。

習 今回報告 した木器の うち

,刃

   12

を とどめるものか ら刃幅をた ど

   │:

14.5 13.8 13.4 12.9 12.8 11.6 11.9 11.4 11.4 11.0 10.9 9.8 9.7 9.5

3.6   2.0 3.3   1.3 3.4   1.5 2.7   1.7 2.8   2.8 2.8   1.2 3.3   2.7 2.6   1,6 2.9   1,7 2.3   1.8 2.8   1。 7

2,1   1,0 2.1   1.3 2,7   (2.0)

(18)

3

綻 斧模式 図

3木

製 品 横斧 を とわず

4Cm以

上 の刃幅が推測で き

これ らの斧柄 も建築・ 土木用 の ものであ った こ とが類 推 で きる。鉄斧用 の縦 斧柄 の類例 は乏 しく

,弥

1)

時代後期 の福 岡県鶴町遺 跡

,古

墳 時代 中期

(5世

2)         3)

紀)の和歌 山県 鳴神 Ⅱ遺跡や平城宮

6AAG地

区の ものが知 られ る程度 であ る。それ らはいずれ も朝 集殿縦斧柄 1・ 2とほぼ 同 じ大 きさであ り

,建

築・

土木関係の工具 とみ て よか ろ う。(Fig.55‑1・ 2)

つ ぎに朝集殿 横斧柄

4に

は まる鉄斧 をみ てみ よ

 

横 斧 柄 う。 この斧柄 では着 装部 の長 さ

4.5Cm, 

幅 2.4

Cm,厚

1.8Cmを

計 る。 や は リメス リ山古墳 の 鉄斧 でみてみ る と, メス リ

8程

度 の鉄斧 を装着す るこ とが可能 であ り,その長 さ11。

4Cm,刃

幅4.5

Cmと

な り

ほぼ縦斧 と同 じ大 きさの鉄斧 を想定 できる。横斧については

,斧

頭 と柄を ともづ くりにする鉄製品が若干 しられている。それ らの 刃幅には大小の別があ るが

,朝

集殿横斧柄

4で

想定 した鉄斧に近 い刃幅を もつ もの として

,大

4)        5)

阪府七観古墳や奈良県上殿古墳の鉄製横斧があげ られる(Fig。564)。 一方

,朝

集殿横斧4の柄 の全長は36.2Cmであ り

,縦

斧柄の約半分の長 さである(Fig。 56‑3)。 それは上殿古墳例 ときわ めて よく似た長 さであ り

,古

墳出上の鉄製横斧がた とえ実用に耐えない仮器であった としても, 実物を忠実に写 しとっていることがわか る。中世の絵巻物にあ らわれ る片手持 ちの横斧は

,こ

うした横斧の具体的な使用法を連想 さす。一方

,弥

生時代以来の扁平鉄斧の着装が想定 され る

6)

横斧 が あ る。 それ は湖西線 関係遺 跡 か ら発見 され て い るもので

,斧

台 の前面 に鉄斧 を お く切 り 欠 きを いれ,そ の後面 を一段 低 くして組 な どで緊縛す る よ うに配慮 した ものであ る(Fig.562)。

い ままで

,鉄

斧 の長 さ と刃 幅 しか 問題 に しなか ったが

,鉄

斧 の形態 につ いて も看過 してはな らな い。数少 い鋳造製 品を別 にすれ ば

,一

般 には有肩

,無

肩 に大別 され てい るが

,や

リメス リ山古墳 の例でみ ると 有肩 の ものは刃幅が全長 の1/

2.5以内に お さまる狭 刃 の も の と

,全

長 に近 いか それ を越 え る広刃 の もの とにわかれ る 福岡市教育委員会『 鶴町遺跡』福岡市埋蔵文

化財調査報告第37集,1976,p.48。

和歌山県教育委員会『 昭和45年度阪和高速道 路 (近畿高速 自動車道和歌山線

)遺

跡発掘調 査概報』1971,p.12。

町田章「 平城宮跡出上の古墳時代木器」『 大 和文化研究』第12巻9号,1967,p.18。

樋 口隆康・岡崎敬 。官川徒「 和泉国七観古墳 調査報告」『 古代学研究』27号,1961,p.16。

伊達宗泰「 和繭上殿古墳」奈良県史跡名勝天 然記念物調査報告第23冊,奈良県教育委員会 1966, p.53。

滋賀県教育委員会『 湖西線関係遺跡調査報告 書』1973, p.186, PL.77。

の 態 斧 形 鉄 三 Fig.55

Fig。

56 

横斧模式図

表 層 地 質 地 質 構 造 第 V章 考   察d 表 層地質   つ ぎに発掘調査 で明 らかにな ってい る地 山の表 層地質 をみ る と ,北 の支丘 の頂 部 は赤裾 色系 の砂礫土 であ り,裾部 は黄褐 色系 の上 であ る。 この支丘 の南側 お よび谷筋 は灰色系 の粘質上 の堆積が優勢 であ る。第一次大極殿院 の立地す る支丘 の西 。南 は低湿地を呈 し,腐 植物 を含む黒色粘土 が広 が って い る (第41・ 77・ 91・ 97・ 102・Hl次調査)。 ところが朝堂院南

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