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サミュエル・ベケット『ゴド-を待ちながら』の 対話構築に見られる「修正法」

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サミュエル・ベケット『ゴド‑を待ちながら』の

対話構築に見られる「修正法」

‑小説『モロイ』との比較を通して‑

鈴 木 菅 平

1.ベケット的「修正法」

1953年のパリ初演以来、 『ゴド‑を待ちながら』 (1953、

以下『ゴド‑』と表記)は周知のとおり、世界各地で大 成功を収めてきた。作者も意図しなかったこの成功のお かげで(1)、この作品は、今日にいたるまで、多くの人々 にとってサミュエル・ベケット1906‑1989)の代名詞 であり続けている。しかしわれわれが注目するのは、 『ゴ ド‑』執筆当時、ベケットはすでに数冊の長編小説や短 編小説を書いていたが、戯曲は実質的に二作目にすぎな かったという事実である。この後生涯にわたって散文・

演劇の両ジャンルにまたがって書き続けることになるベ ケットの創作人生において、 『ゴド‑』は、その執筆ス タイルのごく初期に位置する。したがって『ゴド‑』に は、ベケットが劇作への関心を示したその動機と、それ を続けるに足りると確信するような手ごたえの痕跡が残 されていると想像することができる。

小説作品とこの劇作品との関係について、小説三部作 (『モロイ』 (1951)、 『マローヌは死ぬ』 (1951)、 『名づけ えぬもの』 (1953))執筆の合間(2)に書いたこの作品をそ の苦しい執筆作業からの「息抜き」とする作家自身の言 葉はよく知られている(3)。この言葉がどれほどの真実を 含んでいるかは定かではないが、もしそれが「息抜き」

であったならば、 「息抜き」とは、いったいどういう意 味であったのだろうか。 「息抜き」は、小説と全く異なっ た演劇への逃避という形も可能であるはずだが、実際の 作品においては、無関係どころか、二つのジャンル間の 類似点は多く見出されるのである。

われわれは、ベケットの小説から、一つの表現の特 徴を取り上げ、それを『ゴド‑』の対話を検討するのに 用いることにしようと考える。それがレトリックの‑

技法として知られる「修正法」 (仏:epanorthose、英:

epanorthosis)である。 「強調するために、和らげるため に、あるいは完全に撤回するために、既に言ったことに 立ち戻ること」(4)を意味するこの言い回しが、 『モロイ』

以降のベケット小説の語りにはしばしば見られる。以下 は『モロイ』の一節である。

(‑)いや、私の欠点は別のところにあるのだ。その 長いリストを今すぐ作らなければ、今後決して作りは しないだろう、そして事実、作らないのだ、いや、そ んなことはあるまい。 (‑)終蔦を迎えるのが怖くて、

私が作ろうとしない、その、欠点のリスト、恐らくい つか作るだろう、私の財産や所有物の目録作成の話に

なったときに(5)。

語り手は、母親探しの物語を中断し、彼の欠点のリスト 作成について話す。それを話題に載せつつ、彼はその作 成を否定するが、すぐに翻って肯定する。しばらく後に、

また、この話題に戻り、再び、この否定と肯定を繰り返 すのだ。肯定でこの話題が終わっているのを見ると、彼 は肯定しているように見えるが、一方で、このリストは この小説中では書かれないことに注目すれば、結局は否 定しているとも考えられる。

「修正法」は、修正されるパッセージと修正するパッ セージとの二つの部分から成り立っており、通常の「修 正法」は、二つの部分のうち、二番目のパッセージを結 論として前半部よりも重視する。しかし『モロイ』の上 記の例では、リストの作成は、否定され、肯定され、ま た否定され肯定されるというように、決して後半部分が 結論だと言うことはできない。むしろ相矛盾する二つの 可能性の併存が、その効果として認められるであろう。

そして、これを言うかあれを言うか、それはほんとう にどうでもよいのだ。言うということはでっち上げる ことだからだ。むろんこれは間違いだ。何もでっち上 げたりしか、、でっち上げたと思うのだ、  ,(6)

もう一つ例を挙げてみよう。語り手はまず、 「言う」と いう行為は、ありもしないものを「でっち上げる」こと だとする。これは語り手の別の一節、 「私は常に言い過

ぎるか言わな過ぎるのだ、それほど私は真実にとりつか れているのだ」(7)と響き合い、発話行為というものが、

言語では言い表し難い「真実」を言語という別の存在へ と移し、変質させるという性質を持つのだと述べる。し たがって、語り手が言葉を「でっち上げ」たと考えてい ると言っても誤りにならないだろう。しかし、これはす ぐに「何もでっち上げたりしない」とすぐに否定される。

この場合も、語り手は、 「修正法」の前半部分を否定し て後半を強調しているというよりは、二つの仮説を併置

していると言うべきであろう。

こうした語りは、 『モロイ』第一部に散見され、この 小説をそれ以前の小説作品から分かつ大きな特徴となっ ている。確かに、 『モロイ』に先立つ小説の中でも、語

り手はしばしば、ある一つの事態に対する複数の可能な 現実を挙げている。

このことについて、十二の可能性がワットの頭に浮

(2)

かんだ。

1 ノット氏はこの(食事の)準備の責任を負ってお り、彼が準備の責任を負っているということを 知っており、これらの準備があることを知ってお

り、満足していた。

2 ノット氏はこの準備の責任を負ってはいないが、

誰が準備の責任を負っているかは知っており、これ らの準備があることを知っており、満足していた。

3 ノット氏はこの準備の責任を負っており、彼が準 備の責任を負っているということを知っている が、これらの準備が存在しているということは知

らず、満足していた(8)。

これは『ワット』に見られる仮説列挙の語りである。こ の調子で語り手は「準備の責任」 「責任の認識」 「準備の 存在の認識」 「満足」に関わる十二の可能性を数えつづ けるのである。これら十二の可能性は、確かにどの二つ をとっても互いに両立不可能であり、その点においては われわれが『モロイ』で見た仮説の併置と相通じるもの がある。しかし、以下の二点において『モロイ』は『ワッ ト』の仮説網羅と一線を画す。すなわち、まず『モロイ』

の語りに見られる仮説の多くは二つの可能性から成って いるのに対し、 『ワット』における可能性はここで見ら れるように、必ずしも二つではないことである。さらに 二つ目として、 『ワット』では一つの事態に対する多数 の可能性が瞬間的に併置されるのに対し、 『モロイ』で は、一つの仮説に一度落ち着くように見えてそれが覆さ れる、という一定の運動として捉えられるという点であ る。この二点は、 『モロイ』の語りを『ゴド‑』の対話 と比較する際に、重要な点となる。というのも、 『ゴド‑』

の対話内に見られる構造、あるいは二人の人物によって なされる対話は、相反する二極間の往復運動を示してい るからである。

われわれが『モロイ』を『ゴド‑』の比較対象に選ん だのは、このような不確定的修正法が、ベケット小説の 語りにおける主要な特徴となっていくのが『モロイ』か らであり、 『マローヌは死ぬ』 『名づけえぬもの』と続く 小説三部作のモチーフである、つまりこの『ゴド‑』執 筆と同時期に成立した重要な表現方法であるからなので

j‑> 'サ‑>

2.対話における「ずれ」

『ゴド‑』という作品の骨組みをなすのは、ヴラジー ミルとエストラゴンという二人の男がゴド‑という人物 を待つ、という状況設定である。なんのために彼らは待 つのか、彼らが待つゴド‑とはいかなる人物なのか、そ

ういったことについては、彼らの対話は、われわれには ほとんど何も教えてくれはしない。ベケット自身も言う

とおり(9)、彼らの対話や、作品がわれわれに与える手が かりを寄せ集めて、ゴド‑が何者であるのかを探ること は、有効な方法ではないだろう。

「興奮しないで話そう、私たちは黙ったままでいられ ないのだから」(10)とェストラゴンは言う。 『ゴド‑』と 同時期に書かれた小説『マローヌは死ぬ』では、語り手

‑主人公マローヌが、やがて訪れるであろう自らの死ま でのあいだ、暇つぶしのためによしなしごとをノートに 書き付けるという設定になっている。この小説において 語り手は、自らの現況と「退屈な」(ll)物語を交互に語る ことから始める。しだいにその物語の主人公が変貌し、

語り手白身の現況と溶け合う中で、テクスト自体が途切 れることで語り手の死が暗示される。

このように考えれば、ヴラジーミルとエストラゴンの 二人の対話が、いつ訪れるかわからないゴド‑到来まで の暇つぶしだとして、さしあたり納得することはできる だろう。ただし、構造的には類似を示す『ゴド‑』と『マ ローヌは死ぬ』だが、人物たちがそれぞれの作品の中で 待つもの‑ゴド‑という人物と死‑の違いは、本質的な ものである。マローヌが死を前に自らの現況を記す、あ るいは(恐らくは作家である)彼が死の直前までその仕 事を続けようとすることは、彼が待つ自らの死と、緊密 に結びついている。それに対して、 『ゴド‑』の対話の 中身は、ゴド‑を待つという行為を必ずしも説明しない。

では、彼らが展開する一見無意味な会話、そうした 個々の話は、ほんとうに単なる暇つぶLであり、いわば、

ほかの任意の会話と置き換え可能であるといえるのだろ うか。他のベケットの演劇作品と比べても『エレウテリ ア』に次いでセリフの多い作品になっている。われわれ は、彼らがゴド‑を待っているということをしばしば忘 れつつ、眼前で繰り広げられる会話を聞くことになるの である。

ヴラジーミル 救い主さ。そして二人の泥棒。泥棒 の一人は救われて、もう一人は・・・ (彼 は「救われた」の反対語を探す) ‑ 地獄に落ちた。

エストラゴン 何から救われたんだ?

ヴラジーミル 地獄からだよ。

(・・・)

ヴラジーミル 福音書の著書四人のうち、一人だけ がこんなふうに出来事を報告してい るのはなぜなんだ?四人全員がそこ にいたのにだよ、遠くないところに。

なのに一人だけが救われた泥棒につ いて語っている。 (間。)なあ、ゴゴ、

たまには何か言えよ。

エストラゴン ヴラジーミル

エストラゴン ヴラジーミル エストラゴン

聞いてるよ。

四人のうち一人。あとの三人のうち、

二人はそのことについて何にも言っ ていない。三番目は二人が彼を罵っ たと言っている。

誰を?

え?

わからないな‑ (間。)誰を罵ったんだ?

(3)

ヴラジーミル 救い主さ。

エストラゴン  なんで?

ヴラジーミル 彼らを救おうとしてくれなかったか らさ。

エストラゴン  地獄から?

ヴラジーミル ちがうよl 死からだよ。

エストラゴン  それから?

ヴラジーミル 二人は地獄に墜ちたんじゃないかな。

エストラゴン  それで?

ヴラジーミル  ところが一人だけは言っているんだ、

一人は救われたと。

エストラゴン  じゃあ、両方の意見が違う、それだ けのことじゃないか。

ヴラジーミル 四人とも一緒にいたんだぜ、一人だ けが泥棒一人が救われたという。一 人だけを信じなきゃならんのはなぜだ。

エストラゴン 信じるって誰が信じてるんだ?

ヴラジーミル みんなだ。その筋書きしか伝わって ないんだもの。

エストラゴン 世の中のやつは皆バカさ(12)。

例えば、しばしば引き合いに出されるこの一節を、 「ゴ ドー」Godotという名前が暗示する神Godと結びつけて、

この作品の主題を「救済の希望の不確実性と恩寵授与の 偶然性」(13)と考えるのは、対話と、作品の骨組をなす「ゴ

ドーを待つ」という状況を結びつける解釈行為であると 考えることができるだろう。確かにこの解釈は可能であ る。しかし「不条理の演劇」を提唱したマーティン・

エスリンも、この神学的解釈の妥当性を認めつつ、 『ゴ ドー』のような作品のもたらす「多様なパースペクテイ ヴへの展望へ開かれている」(14)ことを強調し、むしろベ ケットが心を砕いているのは「思想のかたち」であると 言う。その部分を見てみよう。

『ゴド‑』のテーマを問われると、ベケットはしば しば聖アウグステイヌスの書物に言及する。 「アウグ ステイヌスには、すぼらしい文章がある。ラテン語で 覚えていたら、と思う。英語よりラテン語のほうがよ いだろう。 「絶望してはならない、盗人の一人は救わ れたのだ。増長してはならない、盗人の一人は地獄に 落ちたのだ」。そしてベケットはときにこうつけ加え た、 「私は思想のかたちに興味がある、それを信じて いない場合でも(‑)この文章の形はすぼらしい。大 切なのはかたちなのだ」(15)。

救世主と一緒に傑刑になった泥棒二人のうち、一人は救 われ、もう一人は地獄落ちになった。さらに、福音書の 著者四人のうち、一人はそう言っているが、二人は何も 言わず、あと一人は泥棒二人とも地獄に落ちたと言って いるという。このヴラジーミルの話は、 「救われた」と

「地獄落ち」、あるいは「一人が救われもう一人が地獄に 落ちた」と「二人とも地獄に落ちた」という対立的概念

が併置されていて、ベケットがここで言う「思考のかた ち」とは、相反する概念の「併存」というものであると いうことがわかる。

ところで、ベケットには『残り火』 (1959)というラ ジオ・ドラマがある。海岸に一人件む主人公ヘンリー は、孤独を癒そうと、死んだ妻であるエイダを呼ぶ。す るとエイダが、自らの声によってヘンリーの呼びかけに 応じるのである。ベケットはラジオ・ドラマのメディア

としての特性を十分に生かそうとしたらしく、 「(『残り 火』を)舞台上漬してしまったら、 『暖昧さ』が壊され てしまうだろう」と言っている(16)。ここでベケットの言 う「暖昧さ」とは何であろうか。本作の舞台上演版を想 像してみよう。もしこれを舞台で上演するのならば、エ イダが、ただヘンリーに聞こえる姿なき声として登場す るのか、あるいは姿を伴った亡霊として登場するのか、

どちらか一方を選ばなければならない。しかしこれがラ ジオ・ドラマである場合、ヘンリーの前にエイダの姿が あるのか否かは、暖味にすることができる。無論われわ れはどちらか一方だけの解釈しか採用できないという事 情は同様である。しかし送り手は、両立し得ない二つの

ヴァージョンを同時に提示できるということになる。

この場合「暖昧さ」とは、一つの現実しかあり得ない 場合に対する、相矛盾する二つの可能な解釈ということ ができる。 『残り火』は、ラジオ・ドラマという独特の 方法からこの「暖昧さ」を導き出した作品なのである。

例えば私の母の死について。私がここに着いたとき、

もう死んでいたのか。あるいはもっと後になってか らか。埋葬すべき状態で、という意味だ。わからな い。きっとまだ埋葬されてないのだろう。いずれに しても、彼女の部屋を使っているのは私だ(17)。

『モロイ』の語り手は、自らが母親の部屋に着いたのが、

母親の死より後であったか前であったか、二つの可能性 を順々に吟味する。これらの可能性は、どちらかを採用 すればどちらかが不可能になる、両立不可能なものであ る。そして結局結論は出ないまま彼はこの問いを放棄し てしまう。この例も、二つの両立しえない仮説を併置し たまま、結論を放棄するという語りの特徴を示している。

『モロイ』に見られるこうした語りと、 『ゴド‑』でヴ ラジーミルが提出しようとする二人の泥棒の話というの は、それが「暖昧」であるという点において共通点があ ると言える。したがって、ベケットが愛好した「かたち」

というのは、 『モロイ』と『ゴド‑』に共通に見える特 徴だと言うことができるだろう。そして、このかたちが、

われわれが前もって準備した「修正法」に基づいている ことも指摘しておきたい。すなわち、本来一つであるべ き現実に対する相矛盾する二つの可能な事態は、 「ベケッ

ト的修正法」によってよく表現されうるからである。

しかし、劇作晶をこの暖味な「かたち」という視点か ら考えるならば、むしろその対話そのものに注目する必 要があるだろう。 『ゴド‑』においては、小説の語りと

(4)

は異なって、われわれの目の前に展開されるのは、ヴラ ジーミルとエストラゴンという二人の人物によって交わ される対話なのである。もし『ゴド‑』の言葉に、思考 のかたちを見ようとするならば、彼ら二人の対話にこ そ、形を見出すべきなのではないだろうか。エスリンは、

エストラゴンについては、 「一貫した懐疑的態度」(18)と、

付足し程度に触れているだけである。

ヴラジーミルは、一貫して「泥棒のうち一人が救われ てもう一人が地獄に落ちた」 「二人とも地獄に落ちた」

という二つの報告が存在する「暖昧」な事態をエストラ ゴンに理解させ、その疑問を共有しようとする。それに 対しエストラゴンは、ヴラジーミルの提出する疑問にた どり着く前に、ヴラジーミルの予期しないような「誰 を?」 「なんで?」 「地獄から?」 「誰が信じてるんだ?」

といった質問を次々にぶつける。ヴラジーミルにとって は言うまでもないと思われる含意を、エストラゴンは確 認しないではいられない。このように、二人の間には発 話に関する前提について「ずれ」があるのである。観客 はヴラジーミルの発話の含意を理解できるので、この対 話においてはエストラゴンの道化的役割と対話の喜劇的 効果を見出すわけであるが、この構造を『モロイ』の語

りと引き比べることは無駄でないだろう。

過ち?人々が使ってきたのはこの言葉だ。だがどん な過ちなのだ(19)

語り手は「過ち」という言葉を使うや否や、その語が何 を意味するのか自問する。語り手の関心は、自らの行為 から言葉そのものへと移行するO この話題の「ずれ」は、

ヴラジーミルが「救い」の話を提示しようとするのに対 し、エストラゴンが相手の発言の含意について問い質す のに終始するということに対応している。そしてこの

「ずれ」は、交わることのない二つの立場の併存という 点において、 「ベケット的修正法」に基づいている。第 一幕に置かれた以下の対話を見てみよう。

エストラゴン ヴラジーミル エストラゴン ヴラジーミル エストラゴン ヴラジーミル

おれたちは昨日もここに来た。

いやいや、お前は勘違いしている。

じゃあ昨日は何をした?

昨日したこと?

ああ。

もちろん‑ (怒って)お前は疑いを 撒き散らしたら敵なしだな(20) I

ヴラジーミルとェストラゴンは、ここで全く相矛盾する 意見を持っている。その二つの意見が交互に並べられ、

結局は彼らがきのうそこにいたのか否か、観客にははっ きりとはわからないままこの会話は終えられている。い わば「暖昧」の例だと言えるだろう。この例は、われわ れが最初に見た、 『モロイ』の「欠点のリスト」の語りと、

同じ構造だと言えないだろうか。

ここに挙げた二つの対話の例から、ヴラジーミルとェ

ストラゴンの対話も、ベケット的修正法を対話に置き換 えた「ずれ」や「暖昧さ」によって成り立っていると言 うことができるだろう。

3.ト書きが生み出す対話の「嘩昧さ」

ここまでは、われわれは、 『モロイ』に特徴的な一つ の技法、 「ベケット的修正法」に着冒して、 『ゴド‑』に おける対話の分析の手がかりとしてきた。 『ゴド‑』の 対話においては、この技法が対話へと変形構築されるこ とによって、その特徴的な対話が形づくられてきていた。

しかし、明らかに、二作品の形式上の違い、ジャンル の違いが、 『ゴド‑』の対話構造に、固有の性質を与え ていることは想像がつく。われわれが次に問題にするの は、つまり、 「ベケット的修正法」応用の、 『ゴド‑』に おける特殊事情のほうである。ここでは、ト書きがもた らす対話の「暖昧さ」について考えてみよう。

すでに、エストラゴンが道化的な色合いを帯びた場面 を一例としてあげた。ヴラジーミルとエストラゴンは、

第二幕において以下のような対話を繰り広げる。

ヴラジーミル (‑・)昨日から見ると、ここには変化 があるんだ。

エストラゴン すべてが染み出す。

ヴラジミール その木を見てよ。

エストラゴン 同じ膿には二度と触らない。

ヴラジーミル 木だって言ってるんだよ。見てみな。

(エストラゴン、木を眺める。) エストラゴン  きのうはなかったか?

ヴラジーミル いや、あったOお前覚えていないんだな。

.  .  .

ヴラジーミル ポッツオとラッキーは?お前これも 忘れたのか?

エストラゴン  ポッツオとラッキー?

ヴラジーミル こいつ全部忘れてる!

エストラゴン おれにキックを食らわせた狂人は覚 えてる。で、ばかなことをしてた。

ヴラジーミル それがラッキーだよO

エストラゴン それは覚えてる。しかし、あれはい

‑")f:',〔■

ヴラジーミル もう一人、そいつを連れていた奴は?

エストラゴン そいつがおれに骨をくれた。

ヴラジーミル あれがポッツオだ!

エストラゴン それが全部昨日だったっていうのか?

ヴラジーミル そうだよ。

エストラゴン  この場所で?

ヴラジーミル そうだよ!わからか、か(21)

このくだりも、 「修正法」を応用した方法で、ヴラジー ミルの発言に対してエストラゴンが疑問を示していくと いう形式になっている。ただしここでは、われわれがこ れまでに検討したものとは異なり、 「二つの立場どちら が正しいのか不明」なのではなく、ト書きに「翌日」(22)

(5)

とあるがゆえに、ヴラジーミルは前日の出来事をしっか り覚えていて、エストラゴンは忘れている、つまりヴラ ジーミルが正しくてエストラゴンが間違っていると素直 に考えられるように見える。そう考えることで、以下の 部分も同様に理解しうる。

ヴラジーミル でも、お前は確かにル・ヴオクリュ ーズにいたんだろ?

エストラゴン いないよ!ル.ヴオクリユーズにな んて(23)

実際、エストラゴンは「すぐ忘れるか、決して忘れない かだ」(24)と、自らの記憶力の悪さを認めるような発言を している。こうした「忘れやすい」エストラゴンが、道 化的役割を果たして、観客の笑いを誘うという事実は、

確かに否定できない。しかしこの場合、事態はそれほど 単純ではない。

例えば、芝居の二幕の相互関係を理解しようとした場 合、時間的関係のような単純なものでさえ、それを はっきりさせるための絶対に信用できる方法がないよ うに思われる。ト書きによれば、第二幕の設定は「翌 日、同じ時刻、同じ場所」だが、この記述はいくつか の細部、例えば、前日裸だった木に葉っぱがついてい ることや、ポッツオとラッキーに肉体的苦痛が降りか かったと矛盾する。というのも、これらはより長い時 間経過を暗示するはずだからである(25)。

第一幕で裸だった木に、葉がついているということは、

われわれの感覚からすれば、一日よりももっと長い時間 が経ったことを感じさせる。この二つの例は、ト書きに おいて、すでに、矛盾するような情報が盛り込まれてい

るということなのである。

ここでわれわれは、すでに提起した「暖昧さ」につい て考えねばならない。われわれは、 「暖昧さ」を一つの 現実しかあり得ない場合に対する、相矛盾する二つの可 能な解釈と定義した。これは、 『ゴド‑』と『モロイ』

に共通して見出せるベケット的修正法を土台とした構造 であり、また、ベケット自身が魅了されると自認してい

る「かたち」なのである。

ト書きにおける矛盾した書き方が、二つの幕の関係を、

連続した二日か否か、という「暖味な」関係に保つ。そ の結果、ヴラジーミルの発言とエストラゴンの発言のど ちらが正しいのか決定できなくなる。つまりヴラジーミ ルとエストラゴンの対話が「暖昧」になるというわけで ある。こうして、 『ゴド‑』は、ト書きという、対話部 分とレベルの異なるテクストが、小説の語りでは不可能

な「暖昧」の構造を生み出している。

二つの幕の相互関係に関して言えば、 『モロイ』にお いても、類似の事象を指摘することができる。二部構成 から成る『モロイ』では、第一部で主人公‑語り手モロ イの母親探しが、第一部で主人公‑語り手モランによる

モロイ探しが、ともに語られる。この二つのパートの関 係が暖昧なのである。モランがモロイを探すのであるか ら、二人は全くの独立した別人で、それぞれが別々に行 われた探索の旅だと考えることができる。しかし一方で、

あまりに似通った点があるが故に、一度だけ行われた旅 の、二つの位相からの記述であると考えることも可能な のである(26)。したがって、 『モロイ』の二つのパートは、

別個の二つの旅を記述したものだと言うこともできる し、また一つの旅の、二つの記述のヴァージョンだと言 うこともできる。

『ゴド‑』の場合は、ト書きに記された状況設定の相 互矛盾によって、二幕同士の時間的関係が暖味になって いるのである。それによって、一見明らかに見えた対話 の部分にも、暖味な関係が生じることになる。ヴラジー ミルの記憶力が優れていて、エストラゴンの記憶力があ てにならないという、一見明快に見える対話が、暖味に なっていく。はたして、自信満々のヴラジーミルの言っ ていることが、本当なのだろうかと間わざるをえないの である。

次の例は、対話とト書きとにまたがってしっらえられ た「暖味」構造であるO

エストラゴン それじゃ、行こうか。

ヴラジーミル 行こう。

(彼らは動かない。 (27)

周知のとおり、 『ゴド‑』の二幕は、いずれもこのよう な場面で終わっている。ゴド‑を待っていた二人が、そ の時点までにゴド一に会うことはできなかったと考え、

その場を立ち去ろうという意見で一致するのである。彼 らは、発話(台詞)のレベルでは立ち去ることで一致し ているが、行為(ト書き)のレベルにおいては、 「動か ない」。ここで幕が下りてしまうために、彼らが「立ち 去った」のか、その場にいつづけたのかは、判然としな い。ここに見られる構造は、いわば、台詞とト書きの間 で、 「暖味な」関係が成り立っているというわけなので wm

言うまでもなく戯曲は台詞とト書きという二つのレベ ルのテクストによって成立している。 『ゴド‑』では、

ト書き部分にも「暖味な」関係がしっらえられていて、

それらが、対話やそれを含む劇構造における新たを「唆 昧さ」を生じさせるということになるのである。

4.結論にかえて

小説『ワット』完成以後、第二次大戦直後から1940 年代末にかけて、ベケットの小説は多くの新しい表現技 法を獲得していくことになる。重大な変化としては、一 人称使用の徹底、フランス語による執筆などが挙げられ るが、われわれが本論で取り上げた、 『モロイ』におい て本格的に用いられるようになる「ベケット的修正法」

も、その一つであると言えるだろう。

われわれは、この修正法的形式が生み出しうる構造と

(6)

して、 「暖味」構造と「ずれ」構造を指摘した。前者は、

二つの相矛盾する可能な仮説の提示であり、後者は、前 提を異にした二つの立場の平行的関係である。これらの 構造が、 『ゴド‑』の対話の骨組みを成しているのであ り、それは、 『モロイ』で用いられた語りの方法を、対 話として変形利用するものだと言うことができる。

加えて、 『ゴド‑』の対話と『モロイ』の語りの類似 点を指摘しつつ、 『ゴド‑』のト書きが、小説にはない 効果を、戯曲の対話に与えているということを指摘し た。 「修正法」というかたちを、対話のレベルだけでな く、ト書きのレベルへも適用することで、もう一つの「暖 昧さ」を生み出すことに成功しているというわけである。

ただし、対話の演劇作品全体における位置付けについて は、ここでは論旨に従って二つのケースを取り上げたに すぎず、このリストを拡充していく余地は十分にあると 言わねばなるまい。

このような形式上の分析が、 『ゴド‑』と『モロイ』

を通底する、いわばジャンルを超越した作家ベケットの エクリチュールの進展、さらに、一方で、こうしたジャ ンルに応じて生じたそれぞれの特徴を捉えることにつな がると考えている。

論の混乱を恐れ、ここまで故意に指摘を控えてきたが、

『ゴド‑』と『モロイ』を考える上で、さらにそこから 40年代におけるベケットのエクリチュールの展開を検討 する上で重要である『メルシ工とカミュ』という作品が ある。

少なくとも形式上は小説で、その大部分が対話から成 るこの作品は、いわば戯曲的小説であり、 『ゴド‑』と

『モロイ』の両要素を兼ね備えた存在であると言える。

時期的にも、 『モロイ』と『ゴド‑』の少し前に書かれ た作品である。そこには、われわれがここで論じたよ うな、 「修正法」を土台とした対話が見られる。しかし、

それは『ゴド‑』のような異なるレベルに存在するよう なダイナミックなものではない。また、 『モロイ』と同 様の一人称の語り手が時折登場するが、こちらは「修正 法」らしき形式を認めることはできない。いずれにせよ、

『メルシエとカミュ』という作品をあわせて考えること によって、今回われわれの提示した「ベケット的修正法」

という視点から、さらに広い視野でこの時期のベケット のエクリチュールを見通すことができるようになるだろ う。機会を改めてぜひこの問題を取り上げたいと考えて

い サ‑>‑

注(1)ベケットから演出家アラン・シュナイダーへ宛てた 書簡中に以下の言葉が見える。 「『ゴド‑』の成功は 大部分が一つの誤解、あるいはさまざまな誤解の結 果であって、 ‑・」 Maurice Harmon (ed). No author better served: the correspondence of Samuel Beckett and Alain Schneider,. Cambridge, Harvard University

Press, 1998. p. 8.

(2 ) Ciaran Ross. 《Jeux d'absence ou vers une lecture de Pautre: La place dEn attendant Godot dans la trilogie

beckettienne》. Evelyne Grossman (ed.). Samuel Beckett L'ecriture et la scene. Paris, SEDES, 1998. p. 13.

(3)プレイタ‑によれば、小説三部作の合間に『ゴド‑』

を書いた目的について、ベケットは、 「息抜き (relaxation)」 「一休み(respite)」といった言葉を用 いて答えている。 Enoch Brater. The Essential Samuel Beckett. London, Thames and Hudson, 2003. p. 55.

( 4 ) Bernard Dupriez. Gradus: Les procedes litteraires.

Paris, U.G.E., 1984. p. 189.

(5 ) Samuel Beckett. Molloy. Paris, Editions de Minuit,

1951. pp. 123‑124.

(6) MoHov.p.46.

(7) Molloy.p.50.

( 8 ) Samuel Beckett. Watt. Paris, Edition de Minuit. 1968.

p.90.

(9)ゴド‑という人物が誰なのかとアラン・シュナイ ダーに問われたとき、ベケットは「それを知ってい たら、作品の中でそれを書いていたでしょう」と 言ったといわれる。 Martin Esslin. The TheaterofAb‑

surd. London, Fyre and Spottiswoode, 1961. (Revised and enlarged edition 1968) p. 43.

(10) Samuel Beckett. En attendant Godot. Paris, Editions de Minuit, 1952. p. 87.

(ll) Samuel Beckett. Malone Meurt. Paris, Editions de Minuit, 1951. p. 69.

(12) En attendant Godot, p. 14‑16.

(13) Esslin.砂. tit, p. 53.

(14) Ibid., p. 60.

(15) Ibid., p. 52.

(16) Rosemary Pounteny.ォEmbers: An interpretationョ,

Samuel Beckett Today/Aujourd'hui. 2, Amsterdam, Rodopi, 1993. p. 270.

(17) Molloy. pp. 7‑8.

(18) Esslin. op. cit., p. 53.

(19) Molloy. p. 9.

(20) En attendant Godot, p. 17‑18.

(21) En attendant Godot, p. 84‑85.

(22) En attendant Godot, p. 79.

(23) En attendant Godot, p. 86.

(24) En attendant Godot, p. 85.

(25) Thomas Cousineau. Waiting for Godot: form in move‑

ment. Boston, Twayne Publishers, 1990. p. 34.

(26)内田耕治『無の表現 表現の無』東京 駿河台出版 社1990年p.40.

(27) En attendant Godot, p. 75. (Cf. p. 134.)

参考文献

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内田耕治『無の表現 表現の無』東京 駿河台出版社1990

野内良三『レトリック辞典』東京 国書刊行会1998年

参照

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