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大阪の四条派画家、西山完瑛の「養蚕図」

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大阪の四条派画家、西山完瑛の「養蚕図」

著者 中谷 伸生

雑誌名 阡陵 : 関西大学博物館彙報

巻 29

ページ 8‑9

発行年 1994‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00024193

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大阪の四条派画家、西山完瑛の 「 養蚕図 J

中 谷 伸 生

幕末明治の時代に、京都の四条派の画風を、

こくのある作風にして大坂(阪)に広めた西山 完瑛については、これまで詳しい伝記や作品研 究がまとめられておらず、わずかに、大阪市立 美術館で開催された『芳瀬並完瑛展」(昭和17年

4月)目録及び木村重圭氏の解説(細野正信監 修、 「日本の花鳥画1」、京都書院、昭和55年) などの文献が見られるのみである。

西山完瑛は、四条派の画家西山芳園 (1804‑

1867)の子として、天保5年 (1834)に大坂に 生まれ、明治38年 (1905)に64歳で亡くなった。

名を謙、通称謙一郎、字を子愛号を完瑛とい う。父芳園は、京都に出て、四条派の松村景文 (1779‑1843)に師事し、その後に大坂に戻っ て四条派を広めた画家で、完瑛は幼少の頃から 父芳園に就いて、絵画の修業を始めたと推測さ れる。芳園は、人物、花鳥、山水のいずれの分 野をも縦横にこなした幅のある大坂の画家であ り、完瑛もそうした作風を正統に引き継いでい る。明治19年 (1886)11月に刊行された 「完瑛 画譜』 (1巻1冊・彫刻は武藤稲載、摺工は能祁 榮吉)の奥付には、「筆者西山謙一郎東甚北 濱三丁目二十五番地」と記されている。 木村重 圭氏の指摘によれば、完瑛は、幕末期の二十歳 代後半の一時期に、明石藩に仕えて絵画を制作 したと推測されるが、おそらく、本格的に絵画 制作に入ったのは、三十歳代半ば以後、つまり 明治になってからであろう。父芳園は、江戸時 代の終焉の年、慶応3年 (1867)に亡くなった。

この年に完瑛は三十三歳で、明治の新時代と共 に、この新進の画家は、師でもあった父を失い、

独立した画家としての生涯を歩むことになる。

完瑛は、当時の大坂(阪)の画家たちがそうで あったように、学問を好んで、儒学を後藤松陰 に学び、酒を愛した人物であったという。芳薗、

完瑛父子を中心とする制作活動を指して、く西 い派>と呼ぶことがあるが、実際には父子二人 の活動であって、大きな流派を形成するには至

らなかった。幕末生まれの完瑛と同世代の円山 四 条 派 の 画 家 と い え ば 、 熊 谷 直 彦 (1828‑

1913)、国井応文 (1833‑1887)らで、竹内栖鳳 (1864  1942)や菊池芳文 (1862 1918)らは、

次世代の画家である。

一般に、完瑛といえば、花烏画が本領と解説 されるが、その花鳥画は、鑑賞者にとって、

間把握のまずさから、つねに若干の物足りなさ

空 ・

を感じさせる。このことは、花烏画の絵手本で ある『完瑛画譜」にまとめられた25点の花鳥図 を見ても同様である。それら写生を基本にして、

線描表現を中心に構成された平明で爽やかな作 風は、典型的に四条派の特質を露にする。しか し、こうした花鳥画が完瑛の作品群の頂点に位 置する、と考える従来の見解は、条件付きでし か認められない。 『完瑛画譜』に序文を載せた男 爵津守國美は、当時の評価に従って、「西山完瑛 ぬしの種々の花鳥のいとへ/うるはしき画」と 称賛した。確かに、数多くの花鳥画の制作とい う事実に基づいて、完瑛を花島両家と呼ぶこと には、何らの異存もないが、質の観点からすれ ば、人物画や山水画もなかなか捨て難い魅力を 示している。

さて、本学図書館所蔵の完瑛作「養蚕図」は、

中国の風俗を扱った作品で、絹本著色、寸法は 縦109.5、横42.0センチメートル、画面右下に「完 瑛」の落款と「謙印」の白文方印及び「完瑛

J

の朱文方印が認められる。絹糸を紡ぐ風俗を描 いたこの人物画は、これまで知られている完瑛 の花鳥画と比較すれば、画面構成の巧みさにお いて、絵画としての完成度は決して低くはない。

この画面で用いられた形態モティーフには、中 国や日本の絵手本を下敷にしたと推測される若 干の類型化が見られるにしろ、画面全体の構想 から細部に至る描写まで、完瑛の作品では、一 定の水準を示す作品だといえるであろう。

「養蚕図」の画面中、温めた繭から細い絹糸 を引き出して、糸車に巻き付ける作業に精を出

. 

‑ 8 

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す女性は、顔の表情や毛髭など、きわめて繊細 な線描を駆使して描かれている。女性の指先に 狐まれた細い絹糸は、高い位置に設けられた竿 に絡まりながら、左手下方に設置された糸車に 巻き付けられる。その絹糸の線描表現は、白い 顔料によってなされているが、よほど画面に近 づいて確認しない限り、ほとんど見えないほど に繊細である。こうした

T

寧な描写は、火吹き 竹で火を起こす少年の着物の背中に、金泥で描 かれた模様の繊細な描写にも確認される。色彩 について触れておくと、糸車のすぐ後方に配置 された草木に、最も明るい黄緑が施され、画面 の手前の川岸に生える草花には、それより少し 濃い黄緑が、そして女性の周辺に生える野草や、

人物の背後に姿える樹木には、さらに濃い緑が 施され、それらと調和させつつ、少年の着物に は青緑が、青い被物をした女性の着物には薄紫 が施されるというように、黄緑から青に至る緑 色系統の色彩が、微妙な変化と調和の効果を示 しつつ配置される。要するに、単なる写生では なく、版本を想起させる「養蚕図」においては、

形態モティーフの類型化という難点もなくはな いが、全体的に眺めると、構図と空間の処理が うまくなされており、完瑛の多くの花鳥画に見 られる<何か物足りない>という弱点が克服さ れているのである。制作年は、幸野楳嶺 (1844

‑1895)らの唐美人図などと共通する零囲気か ら推定して、明治初期から中期頃であろう。

ところで、完瑛の人物画には、「養蚕図」とも 少々性格の異なる、写生に基づいた人物画も多

くある。たとえば本学固書館所蔵の「納涼美人 図」(絹本著色、縦94.4、横35.2センチメートル)

がそれにあたるが、この作品などは、近代美人 画の出発点に位置する一点であろう。ただし、

この写生に基づく美人図では、多くの花烏画と 同様に、やはりモティーフの配置についての欠 点が認められる。加えて、完瑛は、しばしば山 水画をも描いているが、完瑛の山水画には、四 条派風の平明な写生の要素と、同時代の南画の 描法とが入り交じったような作品があり、四条 派の画家完瑛の研鑽の跡と作風の振幅とが見て

とれる。

かつて、大阪を中心に、一般庶民の家庭で愛 好された完瑛の作品を、既刊の日本美術史の書 籍中に見つけるのは難しい。 完瑛のみならず、

明治維新を挟む幕末明治期に活動した画家たち の足跡は、近世と近代の、あまりにも決然とし た時代区分に引き裂かれて、しばしば美術史学 者の研究対象から外されることが多かったよう である。

匹山完瑛「養蚕国」明治初期ー中期頃

ぅ ー

「養蚕図」 の落款• 印章

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