﹁人間﹂概念の解体と消滅
1 フッサール・ハイデッガー・サルトル・フーコー・デリク ー
足 立 和 浩
この試論の目的は︑﹁人間﹂概念を手がかりとして︑現代西欧の︑あるいは主として現代フランスの︑諸思潮︑すな
わち現象学︑実存主義︑構造主義︑構造主義以後︑といったさまざまな思想形態あるいは思惟方法を貫いている或る
種の持続的連続性をみきわめることである︒このことは一見すると無謀な試みのようにみえるかもしれない︒なぜな
ら︑現象学から実存主義への移行には或る連続の系譜がたどれるにしても︑たとえばとりわけ実存主義 ︵サルトル︶
と構造主義とのあいだにほ埋めがたい断絶があるように思われるからである︒
しかしながら︑思想史というものにひとわたりざっと目を通しただけでも︑それぞれの思想相互のあいだには必ず
断絶性とともに連続性が存在するということがわかる︒たとえばカントのいわゆる﹁コペルニクス的転回﹂といえど
も︑それ以前の思想史の動向を無視してほ絶対に理解することほできない︒ヘーゲル弁証法の﹁唯物論的転倒﹂の場
合も︑それがまさしく転倒であるがゆえに︑転倒づれるものの論理性と無縁でほあり得ない︒このようなことほむし
ろ常識である︒このような常識をあえてむしかえすのほ︑とくにサルトルにおける実存主義的思惟とレゲィ=ストロ
ース︑フーコーなどの構造主義的思惟とを把握しょうとする際に︑それら相互わ相違や断絶のみがもっぱらこれまで
強調されてきたように思われるからである︒
とはいうものの︑断絶や差異を指摘するのがいけないというのでは毛頭ない︒新しい傾向の思想 ︵たとえば構造主
﹁人間﹂概念の解体と消滅一
二
義︶が登場した場合︑それをその独自性において ︵他の思想との差異︑区別において︑つまりその弁別的特徴におい
て︶ とらえようとすることは︑理解する側における当然の心理であり︑また論理でさえあるかもしれない︒新しいも
のの﹁新しさ﹂ほ︑古いものの﹁古さ﹂との対比によって︑つまり両者の差異を測定することによって︑このうえな
く明確になるだろうからである︒たとえば︑ごく大雑把に言ってしまえば︑サルトルの実存主義の側にほ﹁人間中心
主義﹂ と ﹁歴史﹂ の尊重があり︑構造主義の側にほ﹁反=人間中心主義﹂︵ないしは人間の不在︶と﹁構造﹂ の尊重が
あるということになるであろう︒このことほ勿論︑或る意味でほ間違ってほいないし︑両者の比較的把握という観点
に立つかぎりにおいては︑或る種の正当性をもつ︒
しかしながら︑構造主義についての全般的な理解がすでに定着したかのようにみえ︑さらには構造主義か実存主義
かというような観点そのものをも越えるような場を模索する思想があらわれはじめている現在︵ここでほとくにジャ
ック・デリダの一連の仕事の意義について考えている︶︑もう少し大きなパースベタティヴで思想の動向を把挺するこ
とが試みられてよいのではあるまいか︒断絶のかわりに連続が測定されてよいのでほなかろうか︒以下の小論は︑こ
のような試みのささやかな一粗描である︒
そのための手がかりとして︑われわれほとくに﹁人間Lの概念をとりあげてみようと思う︒この概念ほ勿論︑それぞ
れの思想においてさまざまな異なった用語によって定式化されている︒たとえばフッサールにおいてほ ﹁意識﹂B?
Wu哲sのin︑﹁生﹂Leben︑ハイデッガーにおいてほ﹁現存在﹂Dase訂︑サルトルにおいてほ﹁人間存在﹂鼠首−itか︸岩・
maぎe︑﹁対自存在﹂pOur・SOi︑フーコーにおいては﹁語る主体﹂Suj叉paユaロt︑など︒概念化の用語ほさまざまであ
るが︑問題性そのものの側面から言えば︑いずれにおいても﹁人間﹂の問題は大きな課題として課せられているので
あって︑このことは﹁人間﹂概念の死を予言するフーコーにも妥当すると言ってよいだろう︒われわれの目的は︑フッ
サールから始まり︑ハイデッガー︑サルトルへと至り︑さらに構造主義的と言われる諸思想︵レヴィーーストロース︑フ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
−コー︶を経てジャック・デリダにまでいたる一連の思想の流れの中に︑﹁人間﹂概念の漸次的解体と消滅の過程をた
どることである︒﹁人間Lほなにも構造主義によって突如として死に至らしめられたわけでほなく︑その死は徐々に︑
しかしまた確実に一歩一歩準備され︑おし進められていたということを示すことである︒
一 フッサールの場合
まずわれわれほフッサールからはじめることにしよう︒フッサールの根本的意図は︑とくに ﹃イデーソⅠ﹄ にお
ける場合にほ︑徹底的に内在の立場に立つことによってあらゆる超越を還元し︑もっぱら絶対的に確実な内在的分野
︵意識の分野︶を本質直観によって記述することである︒
フッサールによれば︑われわれは日常生活においてさまざまな具体的現実にかかわっており︑無邪気に世界の存在
を定立しているが︑そのような経験的意識の︵手前に︶言rhande︻存在している諸々の事象の理念的統一としての世
界にほ︑つねに﹁無規定性という空虚な霧L︵︻D−のNづがまつわりついている︒まず︑世界は現に私の眼前にあるも
のの総体にほけっして還元され得ず︑無限の定在の連鎖をもって私から逃れ去るのみならず︑時間の継起においても
二つの方向︵過去︑未来︶の無限の申に︑総体としてはとらえられることなく眠っている︒
全体としての世界そのものが確定的に把握されぬばかりでなく︑経験的現実界に属する個々の事物さえ絶対確実に
は把捉できない︒なぜなら︑事物ほその存在の本性上︑私にほ諸々の射映Abschattung昌を通してしか与えられ
ず︵1︶︑射映そのものが原理的に無限である以上︑事物の経験的認識はつねに蓋然性に汚されているからである︒
だが︑たとえ世界そのもの︑事物そのものを絶対的に把捉できなくとも︑少くともそれが存在するということだけ
ほ確実でほないか︑と素朴の人は抗弁するかもしれない︒しかし︑射映によって与えられる世界の本質には︑その存
在そのものが脅かされているということが含まれている︒たとえば私ほ沈みゆく太陽の薄明の中︑遥か彼方に一人の
木陰に憩う人を認めたとしよう︒歩みゆく私にたいして︑その憩える人ほさまざまな射映を通して与えられる︒だが
一近づいてみるとそれが人ではなく︑実ほ古ぼけた一つの椅子であることがわかる︒いままでの︑人としての射映の統
一ほ一挙に崩壊し︑人ほ人としてほその存在を失う︒それは端的に無の中にくずれおちる︒それゆえ︑射映を通して
与えられる存在ほ︑その諸々の射映の統一が或る日突然分解し無に帰してしまうという絶えざる可能性によって存在
﹁人間﹂概念の解体と消威三
四
そのものを脅かされているのである︒
もし私が絶対的に確実なるものに到達したいと望むならば︑このように原理的に曖昧で不安に満ちた現実世界をエ
ポケーによってカツコ入れし︑その排填のあとにもなお残り続けるものを問題にせねばならない︒この排去の操作が
現象学的還元と言われるものであり︑そしてこの還元のあとにも頑として排除されずに残って自己の絶対性を主張す
るもの︑これこそ純粋意識 rein 認 Bewu 哲 sein あるいは超越論的意識 trans 籍 nd 苫邑 esBewu 哲 sein ︵ 2 ︶と言わ
れるものである︒
これが絶対に確実なのは︑外的世界の諸事物が諸々の射映を通して与えられるのに反し︑これは射映なしに︑一挙
にその直接性のうちに与えられるからである︒この純粋意識をその本質の相のもとに把握することが必要である︒し
かしながら︑これはたんなる思弁の操作によってであってはならない︒現象学は絶対確実で厳密なる学たるべきもの
でほあるが︑その権利の根拠ほ演繹的推理の絶対性に求められるべきではなく︑本質直観に明証的に与えられた原的
所与の忠実なる記述ということに求められねばならない︒そしてフッサールは﹁あらゆる原理の原理 L Pr5 .乳 pa −− er
Prin 巴 p 訂 n として次のように述べている︒﹁根源的に所与を与えるそれぞれの直観が認識の権利蘇泉である︒直覚に
おいてわれわれに根源的に︑言うならばその骨肉をそなえた現実性において現われるものは︑それがみずからを与え
るがままに素朴に受けとられるべきである︒だが同時にまた︑それがそこにみずからを与える範囲内においてのみ︑
そうせねばならない﹂︵ 3 ︶︵ ID ∽ Ne ︒
さて︑このようにあらゆる世界的超越を排除したあとに︑純粋に内在的な超越論的意識が獲得された︒しかし︑こ
の意識はフッサールにおいては﹁体験の流れ﹂との関連から︑すこしずつ或る超越へと接近してゆく︒そのさい問題
になるのは﹁純粋我﹂︻ e 呂. e ∽ IcF である︒
フッサールは次のように考える︒われわれの意識体験が一つの意識体験の流れとして同一性を保ち得るためには︑
一つの帰趨中心をもたねばならない︒﹁世界と世界に属する経験的な主観を現象学的に排去したあとの残余として︑
われわれにたいして純粋我が存在する﹂︵ lD −肋笥︶︒つまり︑すべての私の意識作用を貫いている ﹁まなざし﹂ B − ick
としての︑また一人称で資格づけられた体験の流れの同一性の保証としての︑超越的な我が︑還元を受け超越論的に
純化されたその地平に姿を現わす︒﹁体験ほ︵それの体験︶として純粋我に︵属する︶︒体験は純粋我の意識背景厨?
W 亡哲 sein00hi ロ tergrund である ︵∽空︶︒﹁注意光線は純粋我から発出して対象的なものに達して終る︒⁝⁝この光線
ほ我から離れるのでほなく︑それ自身自我光線 Ich 洛 ra 己であり続ける﹂︵∽¢ N ︶︒こうして︑各々の体験の背後に同
一のままに留まり︑自我光線をたえず発射している︑それ自体としてほ不透明な何やら正体不明な一種の超越的なる
ものが出現する︒そしてこの超越をフッサールは﹁内在における超越﹂ Tra ロ SNendenN ind 巧︻ mmanenN と名付け
るのである︒
しかしながら︑現象学的還元によってあらゆる世界的現実的超越を排除して絶対的に確実な内在性の領域の記述を
めざすフッサールの最初の意図は︑ここにおいて︑たとえ﹁内在における超越﹂という微妙な形においてであれ或る
種の超越が出現してきた以上︑完全に貫徹されたとは言い得ないだろう︒このことは︑フッサールにおいても﹁内在﹂
という生の原理がすでに﹁超越﹂という死の原理によって脅かされていたということだと言ってもよい︒なぜなら︑
いっさいの超越の排除ということに現象学の本質的生命が存するとすれば︑そのようにして切り開かれた内在の分野
の中にふたたび侵入してくる﹁超越﹂とは死の別名に他ならないであろうからである︒フッサールにおいても︑すで
に人間的意識ほ死の危険に脅かされていたのである︒︵ 1 ︶︵さらに﹁指向性﹂というとらえ方ほ︑意識の外部への︑意識
の超越であって︑この点からもフッサール的意識ほ死を内包していたということができる︒︶
二 ハイデッガーの場合
次にハイデッガーの場合を考察することにしよう︒周知のようにハイデブガーはフッサールの現象学を方法論的に
受け入れはする︵ 5 ︶ものの︑フッサール流の人間意識の本質記述という方向をたどるわけでほない︒むしろハイデッガ
ーほ︑根源的に明証的な所与としての﹁私の意識﹂という孤立的領野に原理的に疑いを向け︑むしろわれわれに与え
られるのほ一つの共同性の場であって︑そこにおいては︑まず他人たちと私との﹁共同存在﹂ Mitse ぎ︑﹁共同現存在﹂
﹁人間﹂概念の解体と消滅五
六
Mitda 籍訂というようなものがあらわになると考えている︒︵ 6 ︶ がとにかく︑意識の領野あるいは孤立した意識の領
野をハイデッガーは慎重に避けてほいるものの︑彼は人間の問題を回避しているわけではない︒人間は﹁現存在﹂ Da ・ Sein という形で定式化されている︒︵ 7 ︶
ハイデッガーは現存在をすぐれて超越的なものとしてとらえる︒それはりねに自身の可能性に向って︑脱自的に存
在している︒﹁現存在はおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくことが問題である存在者である︒・:⁝
ヽ ヽ
現存在はいつもすでに︵自己を越え出て︶いるのだが︑これは現存在がそれであるのでほない他の存在者へととる態
度としてではなく︑現存在自身がそれである存在し得ることへとかかわる存在としてなのである﹂︵ SN ︸ S .−讐⊥¢ N ︶︒
この超越の構造そのものがまず内在的生の死滅である︒純粋に内在的なフッサールの意識は︑もっぱら外へと向う現
存在の超越へと姿を変える︒生が内在においてとらえられるかぎり︑これほ端的に死そのものである︒
それではハイデッガーは︑フッサールの内在性をただたんに超越しただけなのであろうか︒フッサールの﹁純粋意
識﹂の外面化が︑ハイデッガーの﹁現存在﹂なのであろうか︒勿論︑問題ほそんなに単純ではない︒
まず第一に︑ハイデッガーのそもそもの出発点が内在性の立場であったことに注意しよう︒それはすでに﹃ドゥン
ス・スコトゥスの範疇・意義論﹄︵一九一六年︶ においても明らかにされていた︒それはとくに新カント派の ﹁超越論
主義﹂ T 岩 nSNendenta ︼紆 mu ∽にたいしてのことであったと言ってもよいが︑そのさいの彼の内在の原理を重んじる 立場は︑すでに現象学的方法への接近を十分に予告している︵且
第二に︑﹃存在と時間﹄は︑すでにみたようにはっきりと現象学的方法を受入れていた︒ということは︑すでにハイ
デッガーが﹁事象そのものへ﹂と直進せんとするフッサールの内在の立場を或る意味で意識的に引受けていたという
ことである︒つまり︑現象学も解釈学も︑事象をそれがあらわれるがままに見るという点では相違はなかった︒この
意味で︑ハイデッガーほ方法論としての現象学を受け入れることによって︑とくに論理要請的な超越論的立場︵たとえ
ば新カント派︶にたいしては内在の立場を選んだのだと言ってもよいだろう︒すると︑彼が現存在を超越の柏のもとに
とらえたということは︑一種の内在における超越と考えることができる︒フッサールとの相違ほ︑フッサールが絶対
確実な内在の分野を得ようとして執拗に還元を続けていったにもかかわらず或る種の超越︵内在における超越︑純粋
ヽ ヽ ヽ ヽ
我︶を不覚にも残してしまったのにたいし︑ハイデッガーは内在における超越の構造をそのものとして意識的に措定す
るということである︒これはフッサールよりもさらに l 歩進んだ死の引受けだと言ってもよい︒︵ 9 ︶
さてここで︑先ほど引用したハイデッガー自身の文章に即しっつ︑さらに現存在の自己超出的構造に目を向けてみ
よう︒まず現存在ほ ﹁いつもすでに︵自己を越え出て︶いる﹂ようなあり方で存在する︒自己を越え出ているという
ことは︑端的に言えば自己ではないということである︒﹁現存在は実存するかぎりほ存在し得るということにとどま
り︑そのつどいまだ何ものかであるのでほないはずである﹂ ︵ SN ︑ S . N ∽∽︶︒つまり︑現存在ほいつも自己自身である
のではないというあり方で存在している︒現存在は自己否定的な仕方でしか存在し得ない︒現存在は或る種の否定︑
ないしほ欠如によってその自己同一性が根本的に揺さぶられているような存在である︒しかしながら︑現存在がそれ
へと向って自己を超え出てゆくところのものほ︑﹁現存在がそれであるのではない他の存在者﹂ではなく︑﹁現存在自
身﹂である︒これによって現存在は辛うじて自己崩壊におちいらずにすんでいるのである︵空︒
端的に言ってしまえば︑ハイデッガーにおいては現存在の存在︑つまり現存在の存在仕方は ﹁慮﹂ SOrge として
明らかにされ︑現存在の存在の意味は ﹁時間性﹂ Neitlichkeit として規定される︒そして現存在はこの時間性との関
係から一つの全体存在し得るものとしてとらえられている︒﹁現存在が時間性として規定されているかぎりにおいて
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
のみ︑現存在はおのれ自身に︑すでに特色づけられたような先駆的決意性という本来的な全体存在し得ることを可能
J′ルゲ
化する︒時間性は本来的な慮の意味として露呈するのである﹂︵ SN − S .∽ N の︶︒
しかしながら︑﹃存在と時間﹄においては︑いたるところにこの現存在の全体性を脅かす諸契機を読み取ることが できる︒それが最も端的にあらわになるのは︑現存在の﹁死﹂ の問題が立ちあらわれてくるときである︒
現存在はつねに自身の諸可能へと自身を投げかけつつ︑そのようなものとして自己了解している実存であるが︑そ の現存在の可能性の中でも最も現存在に固有なもの︑それが死の︑あるいは死という︑可能性である︒﹁死はそのつ
ど現存在が引受けねばならない一つの存在可能性である︒死とともに︑現存在自身ほおのれの最も固有な存在可能に
﹁人間﹂概念の解体と消滅七
†・\ノ
おいて︑おのれに切迫している﹂︵ SN − S . N ∽○︶︒しかしながら︑現存在はこの可能性を実現することができない︒な
ぜなら︑現存在が現存在であるかぎり︑現存在は死ぬことほできないし︑現存在が死んで死の可能性をわがものとし
たかに思われるときにはすでに現存在ほ存在せず︑したがって現存在がこの可能性を実現したとほ言い得ないからで
ある︒ということは︑現存在はこの死の可能性に追いつくことはできないということである︒﹁存在可能としての現
存在は︑死の可能性を追い越すことはできない︒死は現存在であることの絶対的な不可能という可能性である﹂ ︵ SN ﹀
S.Nひー︶︒
ここにおいて︑現存在の中に或る種の非全体性が忍びこむのがわかる︒死が追いつき得ない現存在の最も固有な可
能性であるかぎり︑現存在ほついに自己に到達し得ないのである︒だから︑ハイデッガーも次のように書かざるを得
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ないのだ︒﹁現存在の根本機構の本質のうちにほ︑不断の未完結性がひそんでいる︒非全体性とは︑存在可能に付着
している未済を意味するのである﹂︵ SN − S . N ∽の︶︒﹁死とともに終りをつげる不断の︵非全体性︶ UnganzFeit という
ものは現存在からは消去することができない﹂︵ S . N 畠︶︒このように︑現存在の﹁死﹂の分析において﹁現存在﹂概念
の非全体性が︑すなわち﹁人間﹂概念の内部的動揺と解体のきざしが︑このうえなく鮮明に露呈されるということは︑
われわれの立場からすると大変暗示的である︒次に検討するサルトルにおいても︑われわれは︑その﹁対自﹂の﹁死﹂
の分析において︑ハイデッガーよりもさらに一歩進んた﹁人間﹂の死が準備されていることを目撃することになるで
あろろノ︒
以上のことを整理してみよう︒フッサールの純粋内在性=生の探究は︑フッサール自身の意図に反して彼自身のう
ちでもすでに﹁内在における超越﹂という或る意味での死の契機を内包していた︒ハイデッガーはさらにこの﹁内在
における超越﹂を意識的に引受け︑超越を脱自的実存︑現存在の可能性への存在ととらえかえすことにより︑現存在
をその内的分裂の様相において把捉した︒そして︑それをさらに時間性という再統一の相のもとにとらえ直そうとほ
しているものの︑現存在はその再統一の核心においても︑自己の未完結性︑自己の非全体性によって自己白身の崩壊
と解体の危機に瀕していることがわかった︒フッサールからハイデッガーへという系譜において︑﹁人間﹂概念は確
実によりいっそう死の方向にむかっているのである︒
三 サルトルの場合
大雑把に言うなら︑サルトルは現存在の超越的脱自構造の側面をハイデッガーから引継ぎ︑意識の本質記述の側面
をフッサールから引継いだと言うことができる︒この二つの側面が﹃存在と無﹄においてどのように継承され発展さ
せられているかをみてゆくことにしよう︒
ハイデッガーの Dasein はフランスではコルパンによって r か a − it か humai ロ e ︵人間的現実︑人間存在︶と訳された
︵デリダによればこれほ﹁恐るべき翻訳﹂である︶が︑サルトルもこのコルパンの訳語をそのまま採用し︑対自存在の
超越構造もその大筋をハイデッガーの分析から借り受けている︒つまり︑人間存在ほつねに自己の外へと向い︑自己
からの離脱によってのみ存在し得るような一存在である︒そしてサルトルの場合にも︑けっきょくは時間性の観点か
ら人間存在の或る種の統一性が要請されているが︑その記述ほハイデッガーの場合よりもいっそう非休性の︑ないし
は分離と分裂の︑用語によってなされているということがわかる︒
まず︑意識は徹底した自己否定性の相のもとにとらえられる︒﹁意識とは︑それにとってほその存在のうちにその
無の意識があるような一つの存在である﹂ ︵ EN ︐ p .∞∽︶︒意識はつねに一つの﹁あらぬ L つまり﹁無﹂によってその
核心を脅かされている存在である︒ということほ︑意識の存在は完全な自己同一性︑自己同等性によって自己白身と
一致することほないということであり︑これが意識の脱自的構造として把えかえされる︒これほ外部への拡散的分散
すなわち自己喪失の構造であるが︑サルトルによればこの構造にほ次のような側面がある︒﹁︵存在への現前︶として
の対自の出現のうちには︑一つの根源的な分散がある︒すなわち対自は外に︑即日のかたわらに︑三つの時間的脱自
のなかに︑自己を失う︒対白は自己自身の外にある︒そしてこの対白は自己の内奥においてすら脱自的.である﹂︵ EN ︶ p .−双 Y ︶︒
サルトルのこの記述ほ︑便宜的にわけるならば対自の三つの側面における脱自的構造を指摘していると考えること
﹁人間﹂概念の解体と消滅九
一〇
ができよう︒すなわち︑一︑外へ︑つまり即白のかたわらに自己を失う脱自的構造︑二︑時間性における脱白的構造︑
三︑対自の内奥における︑つまり﹁反射=反射するもの﹂話込 et ・コ粗茶 tant における脱自的構造︒
一︑外へ︑即白のかたわらへと自己を失う脱自的構造は︑言うまでもなく意識の指向性についてのフッサールの理
論をふまえている︒しかし︑フッサールにおいてほ意識が何ものかについての意識であるということの静的な太質記
述であったものが︑サルトルにおいてほむしろ意識がその指向的構造によって自己の外に出て自己を喪失するのだと
いう動的な側面が強調されている︒すでに﹃フッサール現象学の根本理念﹄においてサルトルは︑意識の指向性につ
いて説明しながら次のように述べている︒﹁もほや意識のうちにほ自己を逃れる運動︑自己の外への滑り行き以外に
は何もない︒⁝⁚・なぜなら︑意識には︵内部︶というようなものほないからだ︒蕃識はそれ自身の外部以外の何もの
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽでもなく︑意識を一つの意識として構成するのはこの絶対的遁走だからであり︑実体であることのこの拒絶だからで
ある﹂ ︵ST.Ⅰ−p一∽∽︶︒この立場はそのまま﹃存在と無﹄にひきつがれてゆく︒フッサールと同じく意識の指向性の
ヽ ヽ ヽ
概念に依拠しながら︑サルトルにおいてほ自己からの脱出︵すなわち自己であらぬという運動︶という傾向がいっそう 顕著だということがわかる︵ハイデッガーからの影響︶︒
二︑時間性における脱自的構造︒サルトルによれば︑対自存在はとりわけ一つの欠如である︒この場合︑欠如とは
対自の可能性であり︑諸可能である︒それゆゝえ︑時間性における脱自的構造とは対自存在の自己自身の奪還の運動図
式だと言ってもよい︒この欠如としての人間存在を考える場合︑サルトルは欠如という概念が次の三つのものを前提
すると考える︒ A ︑欠けている分︑すなわち欠如分︑ B ︑欠如分を欠いている者︑すなわち現実存在者︑ C ︑欠如によ
って風化されているが欠如分と現実存在者との総合によって回復されるであろうような一つの全体性 tOta − it か︑すな
わち欠如を蒙るもの︒たとえば弦月を例にとってみれば︑弦月そのものが現実存在者︑弦月の欠けている暗い部分が
欠如分︑満月が回復されるであろうーつの全体性である︵以上は EN − pp .− N づ︒
しかしながら︑サルトルによれば︑人間がそれであるところの対自存在はけっしてこの全体性を実現することがで きない︒ 1 人間存在ほ自己との一致へ向っての絶えざるのりこえであるが︑このような一致ほ永久に与えられない﹂
︵ EN ﹀ p .− uu ︶︒対自とほこの一致をめざすべく運命づけられており︑それ以外のあり方では存在し得ないにもかかわ
らず︑このような一致ほ実現不可能である︒したがって︑人間存在は本来的に不幸な意識である︒﹁人間存在ほその
存在において苦悩する者である︒なぜなら︑人間存在ほ対日としての自己を失うことなしには即白に達することがで
きないので︑自分がそれでありながらそれであることができない一つの全体性によってたえずつきまとわれているも
のとして︑存在に出現するからである﹂︵ EN −℃﹂蟹︶︒そしてけっきょくのところ︑﹁人間とほ一つの無益な受難﹂︵ p . ¶竜︶だということになるであろう︒
ハイデッガーにおいては現存在の追い越し得ない可能性であった﹁死﹂は︑サルトルにおいてほもほや対自の可能
性ですらない︒それは可能性のそとにある不条理な偶然事である︒﹁私の企てのふところにおける偶然︹死︺のこの不
︑︑ ヽヽヽヽ
断の出現ほ︑私の可能性としてはとらえられない︒むしろ反対にそれほ私のすべての可能性の無化として︑それ自身
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
もはや私の諸可能性の一部をなさないところの無化としてとらえられる︒それゆえ死は︑世界のなかにおける現前を
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
もはや実現しないという私の可能性であるのではなく︑むしろ私の諸可能事にたいするつねに可能な一つの無化であ
り︑このような無化は私の諸可能性のそとにあるのだ﹂︵ EN − p ・毘−︶︒ハイデッガーの場合︑死は﹁現存在の追い越
し得ぬ可能性﹂として︑その両義的な相の下に現存在の全体性と非全体性との微妙な相互連関を暗示していた︒それ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
は﹁現存在の可能性﹂ であるかぎり或る統一を要請し︑﹁追い越し得ぬ可能性 L であるかぎり或る非統一を要請して
ヽ ヽ ヽ ヽ
いたからである︒ところがサルトルの場合︑死は人間存在の可能性ではない︒ここにおいて︑人間存在の概念の中に
より徹底した非全体性が浸透するということがわかるだろう︒
三︑﹁反射=反射するもの﹂の脱自的構造︒すでに述べたように︑サルトルはハイデッガーから現存在の超越構造
を︑フッサールからほ意識の本質記述を︑それぞれ引継いだ︒いまわれわれは︑超越構造の側面においてサルトル的 対自の構造がハイデッガー的現存在の構造よりもいっそう深く自己の非全体性︑自己の喪失の要素に浸透されている
ことを確認した︒次に︑意識の内奥の構造︵いわばフッサール的側面︶ においても︑同じようにサルトル的対白が分 裂と不安に満ち満ちていることを見てゆくことにしよう︒
﹁人間﹂概念の解体と消滅一一
一二
意識の︵反射=反射されるもの︶の構造は次のように述べられる︒﹁われわれがこの存在︹︵反射=反射するもの︶
としての意識︺をとらえようとするやいなや︑この存在はわれわれの指のあいだから滑りぬけ︑われわれは二元性の
きざし︑反射の戯れに直面する︒なぜなら意識は反射であるからである︒けれども︑まさに反射としてのかぎりにお
いて意識は反射するものであるが︑もしわれわれが反射するものとして意識をとらえようとするならば意識ほ消失し︑
われわれはふたたび反射のうえに戻ってくる﹂︵ EN − p 一−− 00 ︶︒意識の構造は本質的に︵反射するもの=反射されるも
シャツセ●タロワゼ
の︶という戯れであり︑﹁交鎗ダンス L である︒そして︑後の構造主義的思惟との関連からみてきわめて興味深いこ
とであるが︑サルトルはこのような対自の微妙な自己反射ないしは自己分裂を︑言語表現を手がかりにして導きだし
てくる︒﹁たとえば ﹃彼は退屈している﹄︹彼は自己を退屈させている︺ i −ひ√ロ nuie の︵自己︶ se を考えてみると︑
この︵自己︶ se ほなかば自分を開いて自分の背後に主語︹主観︑主体︺ s 且 et そのものを現われさせているというこ
とがわかる︒この︵自己︶ 00e はけっして主語︹主体︺であるのではない︒というのも︑自己への関係をもたないよ
うな主語︹主体︺ほ即白の同一性のうちに凝縮してしまうからである︒この ︵自己︶ s のは現実的なものの安定した
分節でもない︒というのも︑この︵自己︶は自分の背後に主語︹主体︺を現われさせているからである︒事実︑自己
ヽ ヽ ヽ
SOi は現実的な存在者としてはとらえられ得ない︒主体︹主語︺は自己 sOi であることができない︒なぜなら︑自己
との l 致はすでに述べたように自己を消失させるからである︒しかしそうかといって︑主体︹主語︺は自己であらぬ
こともできない︒というのも︑自己は主休︹主語︺そのものを指示するからである﹂︵ EN ︑ p 一己り︶︒このように対自
の存在不安定︑自己との不一致を導きだしてきたのち︑サルトルは次のように結論する︒﹁自己とはそれ自身との一
致であらぬ一つのあり方であり︑︵同︶を︵ことして立てることによって︵同︶から逃れ出る一つのあり方であり︑
要するに︑すこしの差異もない絶対的凝集としての︵同︶と︑多様の総合としての︵一︶とのあいだの︑つねに安定
することのない均衡のうちにある一つのあり方である﹂︵ EN . p .巳 5 ︶︒
したがって︑対自はその根底において存在不安定であり︑自己との距離︑自己との分裂を内包した存在である︒そ してこの構造をけっきょくは ﹁自己への現前﹂ pr か sence ㌢ sOi という風に定式化して︑サルトルは対自存在の統一
性を辛うじて維持するのであるが︑しかし対自が深刻な分裂を内包していることほはっきり看取することができるで
あろう︒そして﹃存在と無﹄における根本的立場は︑後期の﹃弁証法的理性批判﹄においても原理的に変更されるこ
とはない︒このようにしてわれわれは︑構造主義陣営に立つ人々からとくにその﹁人間中心主義﹂を批判されるサル
トルにおいて︑すでに﹁人間﹂の概念が内的な幾重もの分裂︑自己との不一致によって︑いわば崩壊寸前︑解体寸前
にまで追いつめられていたことを知るのである︒︵ 11 ︶
四 フーコーの場合
以上によって確認されることほ︑﹁人間﹂ の概念がフッサール︑ハイデッガー︑サルトルという道程をたどって一
歩一歩︑だが確実に解体と崩壊の様相を深めつつ︑おのれの﹁死﹂の方向にむかって歩みはじめていたということで
ある︒このようにして﹁人間﹂の死はそれと意識されることなく準備された︒あとは意識的に﹁人間﹂に死を宣告し︑
それを死に至らしめればよい︒この運動がフーコーからデリダにかけて成就されるということをわれわれほ見ること
にしよちノ︒
いわゆる構造主義的思惟の基礎的な方法は︑目にみえる個別的︑意図的な諸現象の背後にあって通常はわれわれの
意識から逃れているような或る﹁構造﹂︵もちろんこれほ単純に静的なものだというわけでほない︶をとりだし︑その
﹁構造﹂ によってわれわれの意識的諸行為がどのように規定されているかを探究することにある︑と一応おおまかに
言ってよいのではないかと思う︒力点が個々人の意識をこえた﹁構造﹂におかれるかぎり︑﹁人間﹂という概念は一
歩背景に退くことになり︑問題そのものとしてほあるいほかすんでしまうか︑あるいほ消滅することになる︒たとえ
ば︑構造主義の元祖と目されているレゲィーーストロースの問題意識の中にほ︑ほっきりとそのような傾向が認められ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
る︒﹁人間の科学の最終日的は︑人間を構成するのではなくて人間を解体すること︑⁝⁝生をその物理=化学的諸条件
の全体のうちに再統合することにある﹂︵ PS − p ・∽ N ?∽ N づ︒人間を解体して人間的生を物理 n 化学的諸条件の総体とし
てとらえ直すということ︑このことは端的に人間の死でなくして何であろうか︒もちろんこの場合︑レゲィⅥストロ
﹁人間﹂概念の解体と消滅t三
一四
−スは﹁科学﹂の名において語っているということを見落してはなるまい︒彼の意識によれば︑構造主義とは何より
もまず一つの科学的方法である︒それはいわゆる構造主義﹁哲学﹂ではない︒しかしながら事態はすでに明らかなよ
トに︑レゲィ‖ストロース個人の﹁意識﹂をはるかに越えてしまっている︒皮肉な言い方をすれば︑レヴィ=ストロー
スの構造主義についての﹁意識﹂は︑別の意識されざる﹁構造﹂︵思想の或る連続的流れの構造︶の中にとらえられて
いるのだと言ってもよい︒問題なのは︑構造主義を一つの科学的方法論の枠内におしこめてしまうことではなく︑む
しろまずその発端においてことさらに科学方法論という形態で登場せねばならなかった或る思想傾向の意味を探るこ
とであろちノ︒ところで︑サルトル以後︑構造主義とだいたい並行して展開されていった文学的潮流にいわゆるヌーボー・ロマン︑
アンチ・ロマン ︵これがサルトルの命名になることは暗示的である︶ の流れがある︒この流れも或る意味で人間の不
在にまでゆきつくということほ興味深い︒たとえば︑レイモン・ジャンは次のように語っている︒﹁いまやすべての
今日の文学ほ︑新しい言語の要求を受入れるために︑散文の使用につきまとう因習を拒否している︒この言語はおそ
らく︑詩の言語と同様に︑美しく濃密であり︑中性的で無名で錨づなもなく︑日常卑近のコミュニケーショソの世界
ヽ ヽ ヽ
からは断絶した一種の孤島性 insu − a ユーか︑即自的現実性を有しており︑またこの文学はまさにそのために不在性 ab ・
SenCe の文学なのだ ︵たとえばオルガ・ベルナールはロブ=グリエの作品をまさしく ︵不在性の小説︶ として示して
いる︶﹂ ︵ AR − p ●農−澄︶︒この不在性は︑もちろんかならずしも端的な人間の不在に結びつくわけでほないが︑少く
ともそれを暗示してほいるだろう︒︵望 そしてこのような文学的潮流と構造主義との接点をなすように思われるもの︑
これが次にとりあげるミシェル・フーコーの﹃外部の思考﹄である︒
フーコーのこの論文はモーリス・プランショ特集のために寄せられたもので︑当然ブランショ論がその中心を占め
ているが︑さらにもっと広く今日のフランスの文学的状況をも的確にとらえており︑さらに構造主義的な思想風土を
鋭敏に反映していて大変興味深いものである︒この論文をここでその全体にわたってたどることはできないが︑とり
あえずわれわれの問題意識にしたがって主体の消失という観点からその主張をたどってみることにしたい︒
フーコーはまず︑﹁私は語る﹂ je pa ユ e という言語表現を換討することによって議論を開始する︒まず形式的な面
から考察してみよう︒﹁私ほ語る﹂という命題ほ︑それ自身のうちに ﹁私ほ語る﹂と﹁私は語ると私ほ言う﹂ j の d 訂
queje par 訂という二つの命題がある︒ただたんに﹁私は語る﹂と発話するとき︑﹁私ほ語る﹂と﹁私は語ると私は
言う L ・とのあいだにはなんらの障害物もなく︑誤謬の危険もない︒私ほたんに私が語っているという事実を言ってい
るにすぎないのだから︑私ほ語ると私が言うとき︑私が語るということは真実である︒形式的には︑﹁私ほ語る﹂の
真理性はこのようにして保障されているわけである︒だが︑今度ほ意味の側面から考察を進めてゆくと︑事態ほそれ
ヽ ヽ ヽ
ほど単純ではないということがわかる︒﹁私は語る L ほ︑意味作用的に言えば︑つねに ﹁私は何かを語る﹂のでなけ
デイスクール
ればならない︒﹁私ほ語る﹂には︑自分自身の対象となり︑自分自身を支えてくれるような一つの言説が必要である︒
しかし ﹁私ほ語る﹂にほこのような言説は不在である︒ということは︑﹁私は語る L は他の言語の不在によってしか
自身の形式的真理性を保持し得ないということである︒逆に言えば︑そのような言説との関連で考えるとき︑﹁私は
語る L のあらゆる確実性は砂漠の中に消え去るということである︒﹁私がそれについて語るところの言説は︑﹃私は語
る﹄と私が言うときに陳述されたむきだしの姿に先立って存在するのではない︒またその言説ほ︑私が沈黙する瞬間
に消えて失せてしまう︒この場合︑言語のあらゆる可能性は︑言語を実現させる他動詞性︹他=指向性︺ t ぺ anSiti5 . t か
によって扱いとられてしまう︒砂漠が言語をとりかこむのだ﹂︵ PS − p .∽ N 革︒﹁私は語る﹂はこのようにしてすべてを
曖昧にし︑㌦あやふやにし︑不確実に L てしまう︒というのも︑﹁﹃私は語る﹄は﹃われ思う﹄とは逆向きに機能するから
である︒じつさい︑﹃われ思う﹄は︵私︶と︵私︶の存在との疑い得ぬ確実性へと導いていた︒反対に﹃私は語る﹄ほ︑
後退し拡散してこの︵私︶存在を抹消してしまい︑ただそれの空虚な遺跡をあらわれさせるだけなのである﹂︵ p .結び︶︒
7 −コ一によれば︑﹁文学﹂とは内面化の秩序に属するものでほなく︑﹁外部﹂ への移行がもっぱら問題であるよう
な一領域である︒そこにおいて言語は陳述というあり方 1 −つまり表象︑代理の体系というあり方 − をやめるので あり︑自己自身から最も遠いところに身を置くようになるのである︒そして﹁自己の外﹂ へと赴く言語のこの構造は︑ 記号の記号自身への還帰というよりほむしろ一つの拡散を明らかにする︒その結果︑文学における主体︑すなわち文
﹁人間﹂概念の解体と消滅一五
一六
学の中で語り︑文学がそれについて語るところの主体は︑むしろ一つの空白であり︑﹁そこにおいて言語は︑言語が
﹃私は語る﹄のむきだしの姿の中に自己を表明するとき︑白身の空間を見出す﹂︵ p ・ひ N ∽︶のである︒
しかし︑フーコーの関心はたんに文学だけにとどまってほいない︒﹁言語 − そこからほ主体は排除される ー へ
の射程︑および︵言語のそれ自身の存在における出現︶と︵同一性における自己についての意識︶とのあいだのおそ
らくほ手のうちようのない非両立性の登場は︑今日文化の実にさまざまな地点において現われている一つの経験であ
る﹂︵ ibid ︶︒そして︑このような経験がそのものとして現われている具体的な諸領域として︑文学のほかに神話研究︑
精神分析学︑言語学などが挙げられている︒けっきょくフーコーが言いたいのは次のことである︒﹁いまやわれわれ
は︑これまで長いあいだわれわれには見えないままであった一つの深淵 b か ance の前にたたずんでいる︒その深淵と
は︑言語そのものにとって言語の存在があらわれるのは︑ただ主体の消滅によってのみだということである﹂︵ ibid ︶︒
しかしながら︑人間の主体の消滅による言語間題の定立ということほ︑端的な人間の死をかならずしも意味しない
のではあるまいか︒なぜなら︑言語間題の出現はたんに人間問題をカツコ入れしただけだとも考えられるからである︒
つまり︑人間の問題はたんに一時的にうしろに退いていて︑或る局面でそのカツコがはずされるという可能性もある
からである︒しかしながらフーコーは︑﹃言葉と事物﹄においてこのような可能性を断固として斥けてしまう︒彼によ
れば︑言語の問題と人間の問題とを同時に考えることほ不可能である︒﹁おそらくほ︑言語の存在と人間の存在とを
同時に思惟する権利ほ永久に排除されているだろう︒おそらくそこには︑消し去り難い一つの深淵 b 貯 rnce のごとき
ものが存在するであろう︒そしてまさしくこの深淵の中にわれわれは存在しているのであり︑またその中で語ってい
るのだ︒⁚⁚⁚さしあたって絶対確実にわれわれの知ってい右唯一の事柄は︑西欧文化においてほ︑人間の存在と言語
の存在とはけっして共存し得たためしはなかったし︑また相互連関的に分節されることもあり得なかったということ
である︒両者の両立不可能性ほ︑われわれの思惟の基本的諸特徴の一つだったのである﹂︵ MC ﹀ p .∽∽○︶︒このように
してフーコーほ︑言語の問題と人間の問題とをきびしい二者択一の相のもとにおく︒そして言語問題を迭択するフー コⅠにとって︑﹁人間﹂の死は必然的でさえあるだろう︒﹃言葉と事物﹄においてフーコーほ︑﹁人間﹂概念がごく最近
の時期 ︵十九世紀初頭︶ に生まれたことを指摘し︑それが生まれたものであるからにはいつの日にか死滅するであろ
うと予言するのである︒次の一句は﹃言葉と事物﹄の文字通り最後の言葉である︒﹁人間は消滅するであろう︒ちょう
ど海辺の砂浜が波うちぎわで消え去るように﹂︵ MC − p .∽諾︶︒
五 デリダの場合
さてつぎにほ︑構造主義的な風土から生まれたことほたしかだが︑とても﹁構造主義者﹂という概念で片付けるこ
とのできない ︵これほおそらくフーコーの場合でもそうで︑彼の思想を﹁構造なき構造主義﹂などという苦しまぎれ
の言い方で呼ぶピアジェもこのことを感じていただろうと思う︶ ジャック・デリダの場合を検討してみることにした
い︒デリダ哲学︵あるいはこれを哲学と呼ぶことさえもはや適当ではないかもしれないが︶ の眼目は︑これまでの西
欧のあらゆる科学と哲学 ︵構造主義をも含む︶ を形而上学と規定し︑この形而上学の閉域をのりこえようとすること
であるが︑ここでもまたわれわれの当初の意図にしたがって︑﹁人間﹂の概念︑人間の﹁自己﹂概念がどのように処理
されているかという側面から接近してゆくことにする︒そのためには﹃声と現象﹄に着目するのが便利であろう︒
この﹃声と現象﹄は︑﹁フッサール現象学における記号の問題への序論﹂という副題からもうかがえるように︑記号
の概念を手引きとして︑フッサール現象学がその理論のささいな枝葉においてではなく︑その根本的核心においてな
お現前の形而上学の閉域の中にとらわれているということを示そうとする試みである︒がとにかく︑われわれはわれ
われ自身の問題に直進することにしよう︒デリダはまずフッサールにおけるイデア性の概念に注目する︒フッサール
によれば︑言表の構造ほただイデア性としてしか記述され得ない︒このイデア性ほ︑一︑︵意味するもの︶ ︵たとえば
語の感性的形式性︶ としてのイデア性︑二︑︵意味されるもの︶あるいほ思惟されている意味のイデア性︑三︑対象そ のもののイデア性︵精密諸科学の場合︶︑である︒イデア性とは同じものの恒常性であり︑同じものの反復の可能性で
あって︑したがって世界の中に現実に存在するものでほない︒イデア性ほ反復作用の可能性に全面的に依存しており︑
この可能性によって構成されている︒その﹁存在 L は反復の力に比例する︒絶対的イデア性とは無限の反復可能性の
﹁人間﹂概念の解体と消滅一七
一八
相関者である︒したがって︑存在はフッサールによってはイデア性として︑つまり反復として規定されていると言っ
てよいとデリダほ考える︒そしてデリダによれば︑存在をイデア性として規定することが︑一見逆説的ではあるが存
在を現前と規定することと合体していることになる︒それほ二つの理由からである︒すなわち︑一︑表象︵前へ立てる
こと︶は現前の一般的形式であるがゆえに純粋なイデア性とは反復作用の前にあってそこに現前する︵前にある︶イデ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ア的対象のイデア性であるということ︑二︑時間性の源泉としての生きた現在から出発して規定されるような時間性
だけがイデア性の純粋性を︑つまり同じものの無限の反復作用を保証し得るということ︑である︒フッサール現象学
における絶対的明証性である直観への根源的現前という価値は︑あらゆる体験や生の普遍的形式はつねに現在︵現前︶
であったし︑またつねにそうであるだろうという確信を意味している︒﹁存在とは現前もしくほ現前の変容である︒存 在とイデア性との究極的形式としての︑現在の現前性への関係は︑経験的現実存在︑事実性︑偶然性︑世界性などを
私がふみこえるときの運動である︒しかもまず第一に︑私自身のそのようなものをふみこえるときの︒﹂︵弓 Y 勺.若︶︒
したがってまた次のように結論されてよいとデリダほ考える︒﹁現前を超越論的生の普遍的形式と考えることは︑︵私
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
の不在なところに︑私の経験的現実存在のかなたに︑私の出生以前に︑そして私の死後に︑現在が存在する︶という
知へと私を誘うことである︒=ニ:それゆえ︑私の死︵私の消滅 l 般︶ への関係こそが︑存在を現前︑イデア性︑絶対
的反復可能性として規定することのうちに隠されているのである L ︵ p .書︶︒
デリダほこのような具合にフッサール批判を通じて﹁私の死﹂を導きだすのであるが︑彼ほまたこのことを﹁私ほ
ある﹂ jes 亡⁝ s という言語表現を手がかりとして次のように語っている︒﹁︒私ほある﹄ほ一つの﹃私ほ現前してある﹄
甘 sui の p 鼠 sent としてしか体験されないのだから︑それほそれ自体のうちに佃望別一般への︑現前としての存在への︑
関係を予想している︒したがって﹃私はある﹄において私が自分自身に現われることほ︑根源的に私自身の可能的消
滅への関係で為る︒それゆえ﹃私ほある﹄ほ﹃私は死ぬものである﹄ Jesu 訂 mQ 是川︼を意味するのだ︒:・⁝﹃私ほあ
る﹄から私の存在を考エルモノとして︵したがって不死性として︶規定することへと進む動きほ︑現前とイデア性と の根源が︑この根源そのものが可能ならしめている現前とイデア性とのうちに身を隠す動きである L ︵ p .筈ふ︼︶︒
ここで特に注目しておきたいのは︑サルトル︑フーコ1︑デリダという系譜を﹁人間﹂概念の解体と消滅という観点
ヽ ヽ ヽ ヽ
からたどってゆくとき︑﹁人間﹂ の問題がいずれも或る言語表現を手がかりにして展開されているということである︒
つまり︑サルトルにおいては﹁彼ほ退屈している﹂ i − s √ nnuie によって︑フーコーにおいては﹁私は語る﹂ jepa ユ e
によって︑デリダにおいてほ ﹁私はある L je suis によって︒このことは仮にフーコー的観点に立って言語問題と人
間問題との両立不可能性ということを認めるとすれば︑言語表現そのものから人間へといたろうとする実現不可能な
運動がすでにサルトルにおいても開始されていたのであり︑したがってこの運動ほ必然的に人間の解体と死をもたら すのだということかもしれない︒
さらにデリダは︑フッサールの時間論への批判を通じて﹁自己﹂概念の消滅を確認する︒まずデリダは︑フッサー
ル自身がいかなる︵いま︶も瞬間として︑また純粋な点性として遊離し得ないと主張しており︑フッサールの意図が
点の連続としての時間概念の構成にあるのでほないということをほっきり認める︒しかし︑フッサールの隠喩で語っ
ている﹁生きた眼﹂﹁彗星の尾のひろがり﹂は︑やはりなお︵源泉=点︶としての︵いま︶ の自己同一性から考えられ
ているとデリダは指摘する︒つまり︑なお﹁生きた現在﹂の或る特権が考えられており︑その︵いま︶ の形式の或る
同一性から出発して時間が考えられているのであるが︑このことはなおフッサールが現在の︑現前の︑形而上学にと
らわれていることを示しているだろう︒フッサールが時間を構成する際に立てる過去把持と第 l 一次記憶との区別を問
題にしてみよう︒﹁あらゆる原理の原理﹂からすれば︑ただ現在的な知覚のみがあらゆる真理の価値源泉たらねばな
らないが︑フッサールは時間の連続的構成を可能とするために過去把持に︑つまり厳密に言えば或る非=現在︑非=
現前に依拠せざるを得ない︒彼は第一次記憶︵過去把持︶を知覚として取り扱うことを望んでいるが︑デリダによれ
ばそれはすでに或る過去を指し示し︑それゆえすでに知覚ではない︒第一次記憶と第二次記憶との差異は知覚と非‖
知覚との差異ではなく︑すでに非=知覚であるものの二つの様態間の差異であるにすぎない︒それゆえフッサールの
時間論の試みは︑そもそものはじめから非=知覚によって︑つまり非 n 現在によって浸蝕されているのであり︑時間
の現象学は根底から崩壊せざるを得ないであろう︒瞬間における非=現前と非㍑明証性との浸入ほ︑端的に自己同一
﹁人間﹂概念の解体と消滅一九
二〇
であることの一切の可能性を根こそぎにしてしまうからである︒
このようなフッサールの矛盾を︑デリダほたんに告発するのではない︒逆にデリダほ︑︵いま︶におけるこの︵非 H
いま︶ の浸入という事態を本質的なものとしてとらえ返す︒そしてここから︑彼ほ彼独自の見解を展開してゆく︒根
源的と言われる現前すなわち現在が︑このような︵自己との非同一性︶を本質的にそなえているのでないとしたら︑反
省と再現前の可能性がすべての体験の本質に属するとほ認められないだろう︒時間化の運動の出発点はすでに自己と
の非同一を含み︑つまりつねに自己との非同 l の産出である自己触発でしかなく︑この自己触発ほ自己との差異にお
ける︵自己への関係︶としての同じものを︑非同一的なものとしての同じものを︑生みだす︒現前ほ︑或る根源的な
︵自己への非現前︶をあとから補足する︵∽ upp 蒜 e ユのでなければならない︒ところがデリダによれば︑﹁根源的代補
性︹補足性︺﹂仏 upp ︼恥 menta 且諒というこの概念ほ︑ただたんに現前の非=充溢を含んでいるだけではない︒この概念
ほ︑代替的補足作用 s 竜 p −㌻ nce 呂 bstit 象詔というみの機能︑すなわち︑すべての記号一般に属する︒の代りに﹄
という構造を指しているのである L ︵弓︑ p .富︶︒ということほ︑根源にほ自己があるのでほなく︑自己の代りがある
にすぎないということになる︒﹁⁝⁚・伝統的にほその与格的次元において反省的あるいほ前=反省的な現象学的自己能
与と規定されている︑あの︒自己への現前﹄の対白は︑根源的代替作用としての代補性の運動のなかに︑︒の代りに﹄
ヽ ヽという形であらわれる︒⁝:・対白pO亡ワSOiとは一つの﹃自己の代りに﹄︹代白︺㌣︼a・p−ac?de であるということに
なるであろう︒ここに代補の奇妙な構造が出現する︒すなわち一つの可能性が︑それがそこに追加されるといわれる
その当のものを︑あとから生じさせるのである︵崇︹これが差延作用di染野anceとしてとらえかえされるものである︺﹂
︵くP.p.州道︶︒
根源にほすでに自己は存在せず︑ただその身代りが存在するにすぎない︒ついに自己ほ消滅してしまったのである︒
或る意味では︑フーコーによる人間の死の予告がデリダにおいて実現したのだと言ってもよい︒﹁対白﹂から﹁代白 L
への移行によって﹁人間﹂ の自己ほ完全に死んでしまったのである︒
以上のことを振返って簡単に要約してみよう︒フッサールにおいては︑その純粋内在性の立場は﹁純粋我﹂という
或る﹁内在における超越﹂を残すことによって脅かされていた︒内在性の原理を生と考えるかぎり︑これほすでに死
への前奏曲であった︒ハイデッガーにおいては︑内在における﹁超越﹂そのものが人間の根源的構造として把握され
ていた︒しかし︑それは自身の追い越し得ぬ可能性としての死によって︑或る不断の︑かつまた最も自己に固有な︑
非全体性につきまとわれているものであった︒サルトルにおいては︑この非全体性=崩壊への傾斜ほさらに鋭いもの
となっていった︒人間存在ほ即白のかたわらに自己を失い︑時間的脱白の中に自己を失い︑そして﹁反射=反射する
もの﹂というその内奥における存在構造において二元性の分裂的崩壊を内包していた︒﹁人間﹂ 存在は自己の死へあ
と一歩と迫った︒フーコーほ︑言語問題と人間問題との両立不可能性を立てることによって言語間題の場からの人間
の消滅を要請し︑﹁人間 L 概念が消滅するであろうことを予言した︒そしてついにデリダにおいて︑人間の自己は根
源的に﹁代自﹂であることが明らかにされ︑ここに﹁人間﹂の死ほ成就されたのである︒︵空
社
葬R.芥ant−内ヽ恥説かh訂ヽヽ乱莞3雪顎き旦.
HD.Husser︼.︼転向ね貞一.
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TE.Sartre−ゴ・§叫記3計宍句計︑︸辟○−七イiロー濃↓.
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﹁人間﹂概念の解体と消滅二l