著者 長 志珠絵
雑誌名 社会科学
号 76
ページ 113‑138
発行年 2006‑03‑03
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009819
はじめに
本稿は、京都洛外の「村社」に奉納された明治期の絵馬群に焦点をあて、絵馬を通じてみた〈近代〉を考える。 ところでいわゆる「絵馬」をめぐる研究は戦前のアカデミズムにおいては、大型の扁額絵馬を中心に、主に美 術史の枠組みの延長線上で捉えられてきたように思われる。今日、民俗学研究の一分野と見なされる絵馬研究が、庶民信仰としてではなく、図像表現としての優劣によって意味づけられていた点は興味深い (1)。しかし、「民俗学的な立場もしくは文化財保護の延長線上で各地の神社、仏閣をはじめ地域ごとの絵馬研究が盛ん」 (2)な近年の動向は、市町村単位の地域の民俗「文化財」への悉皆調査と指定・保護行政とに密接に結びつき、特に地域の寺社に残された「絵馬」は、体系的な資料集積が進む。成果としての、教育委員会や文化財保護課・地域博物館単位での資料展示や図録、報告書の刊行は膨大な量にのぼるのである。同時にこうした方向性は、たとえば国の有形民俗文化財指定を受けた新潟県白山神社奉納船絵馬群のように、地域の生活資料の痕跡を価値付け「再発見」する
〈近代〉の絵馬奉納と京都洛外の一村社
長 志 珠 絵
はじめに 1 京都の絵馬研究 2 絵画表現としての絵馬 3 奉納先ーホスト三宅八幡の近代 4 京都の近代化と「民俗」 5 神社行政上の三宅八幡 おわりに
契機でもあるだろう。ことに「有形民俗文化財」カテゴリーによる扁額絵馬調査と文化財指定は、いわば、戦前の文化財指定行政の産物─「絵画」=「美術工芸品」としての優劣にではなく (3)、人びとの過去の暮らし・過去の社会の痕跡を示す造形物としてその価値を変容させつつ、地域の多様な「文化財」の再発見を促してきた、と見るべきだろう (4)。 しかし、一九九九年に刊行された講座民俗学・総説において小松和彦は、一九八〇〜九〇年代の調査の進展の一方、これらの情報をふまえた「研究論文の蓄積は少ない」 (5)と評している。六年後の今日、気になる点は論文の多寡に加え、その視点の側だろう。従来の研究は「絵馬」を民間信仰の造形と規定しつつも、その主要な問題関心を主に図像表現の分析や概念化、ことにその起源に向けてきた (6)。例えば同講座中、絵馬研究を扱った唯一の論考、鹿谷勲「民俗図像としての絵馬」での主な論点は、奉納絵馬を取りまく社会や「民俗」には向けられてはいない。鹿谷論文は、明治期の『古事類苑』、『広文庫』から柳田国男・中山太郎に至る近代の絵馬研究史を丁寧におい、一八八〇〜九〇年代の市町村の教育委員会や博物館による絵馬の悉皆調査の動向を辿った労作だが、研究 史総括から導かれた新たな絵馬研究の焦点は、奉納絵馬形式の発生起源への考察に向けられている。そこでは扁額絵馬奉納の起源を馬絵とするかつての柳田の見通しが、7世紀の考古資料発見という近年の情報によって根拠づけられる一方、図像=「造形物」の背後の「民間信仰」は、特定の地域や時間との関係を問われない (7)。 たしかに市町村の教育委員会や博物館・資料館の特別展示や調査報告書・図録もまた、絵馬奉納を前近代の民俗慣行としてイメージしつつ、奉納絵馬の図柄分類、最古のもの、美術史的に価値の高いものへの解説に記述の軸を置くスタイルを共通させる。しかし各地の絵馬資料そのものは、具体的な地域を限定した悉皆調査であるため、その絶対量の飛躍的な広がりは、図像の読み解きと関わってなお、個々の地域に即して絵馬奉納という行為を成り立たせる諸条件や地域のシステムの変容といった歴史分析といったいわば、社会と絵馬との関係に踏み込まざるをえない。 その際、まずは絵馬奉納が想定される時期については意識的に課題設定されるべきだろう。なぜならこれら報告書中、年代刻銘を持つ扁額には明治期の大型絵馬が一定の分量を占めるからである (8)。その背景には地域の保存・
現存の事情はもちろん、そもそも神仏習合世界にあった伝統社会での社寺のあり様や、明治以後の神社の持つ歴史性・断続的なあり方─社会の側の変化との関係が検討される必要がある。個々の図柄に即しても、風俗資料としての性格は同時に、地域の近代化・「国民化」過程の反映を物語り、祈りの主題そのものに変化をもたらす。日清戦争を中心に、近世の武者絵とは異なる、「戦争絵馬」がカテゴライズされる例も散見される。あるいは、メディア機能を帯びる点も指摘されている (9)。阿曽政昭は、一九九〇年、板橋区立郷土資料館で行われた「絵馬と農具にみる近代」展の館長「あいさつ文」において、有形文化財としての絵馬の分析視点として、「過程としての近代」「特定の社会的状況や技術段階のなかで時代的産物としてそれらが産み落とされ特定の地域に定着してゆく過程」を読み解く必要性を提起している )((
(。いずれにせよ、絵馬が描く風俗を、〈民俗〉に込められた、反近代・前近代の符号として自明視してきた枠組みは、大きく揺らいでいる、といっていいだろう。 後述するように、本稿が対象とする大量の奉納扁額絵馬群は、京都市の民俗文化財指定を受けた絵馬群であり、奉納年代からは、明治期に集中する、いわば「近代」の 絵馬群である。本稿の具体的な課題はしたがって、近世中期以降の奉納絵馬隆盛の最後尾に位置づけられるに過ぎなかった幕末〜明治期の絵馬を、地域の近代化と関わらせて捉える一方、幕末維新期の宗教政策の変化や明治以後の村の神社/寺の位置関係の変化等、近代の神社政策の枠組みから再考する。さらに絵馬研究が想定してきた「民俗信仰」に踏み込み、奉納扁額絵馬という祈りの形式が成立するための歴史的条件についても言及する予定である。
1 京都の絵馬研究
以下ではまず、京都市域における絵馬研究について概観しておきたい。 京都市域の戦後の絵馬調査研究は、京都市文化観光資源調査会による専門部会のうち、建造物・美術工芸品部会による。その成果は初の報告集『京都の絵馬』(
1975
)以後、京都市文化観光局文化財保護課による調査報告書『京都の絵馬』(1979
)や府域に対象を広げた翌年の展示会「京都の絵馬〜祈りの芸術」として知られる。また参加した研究者は、戦後の美術史を代表する人々が並ぶなど、美術史主導の絵馬調査スタイルは顕著である。そして五〇〇点近い絵馬が収録された報告集『京都の絵馬』は、清水寺や北野天満宮、祇園八坂社等、近世洛中の有名寺社を、「当時の一流絵師たちによる参加」「絵画史的価値」を持つ「大絵馬の宝庫」という側面から再定義してみせた )((
(。同時に、絵馬舎の設置が注目され、ギャラリー空間として意味づけられることで、美術史的価値を持つ絵馬と観覧者との関係も導出される )((
(。奉納扁額絵馬が、大型である必要性も論点となり、著名絵師が描く華やかな「作品」鑑賞が理由とされた。卓越した美術表現としての絵馬をどのように見せるべきか。啓蒙展示の工夫の産物として絵馬堂が意味づけられることで、大型絵馬作品を通じた有名社寺と社会との接点が論じられたのである。もっとも「近代以後の作例などはあえて収録しなかった」 )((
(とする調査方針は、洛中近世・大絵馬の美術史的価値の再発見と保護を主眼とする。ここからは、戦後の絵馬調査研究のスタイルとして、大型絵馬の持つ芸術性への関心や近世中心の目録作り、画題意匠によって、調査者の側が個々の絵馬に作品名を名付けてきた、といった特徴を確認すべきだろう。 しかしこうした観点は主に見せる側の意図が中心で あって、絵馬という造形物を通じて社会を模索しようとする観点は方法的には弱い。例えば報告書『京都の絵馬』巻末の調査一覧項目には、個々の作品名と奉納年次、大きさ等の情報はあっても、奉納者名等、奉納者側についての個々の情報への関心はそれほど高くはない )((
(。他方、二〇〇一年、京都市によって、一三三点が有形民俗文化財の第一九回指定を受けた「三宅八幡神社奉納育児・成人儀礼関連絵馬」は、「本絵馬群は、時代性や地域性が窺える好資料であるとともに、育児・成人習俗というひとつのテーマに沿った絵馬としては,質量とも類をみないもの」 )((
(と評価される、「民俗資料」である。では、「近代」・「洛外」をキーワードとする絵馬群の持つ特徴からは、どのような課題が浮上するだろうか。以下では筆者も加わった調査報告書『洛北上高野 八幡さんの絵馬』(絵馬保存会、
2005
)をふまえ、「近代絵馬」研究の新たな論点を抽出してみたい。2 絵画表現としての絵馬
(は、け群馬絵蔵所幡八宅三た受を定指てしと料資俗民
1
)図1・1 〈指定絵馬67,一八九三(明治二十六)年十月奉納,844×1488㎜,付箋有,大人54名(男30,女24),子ども156名〉 但し現存の保護状態が悪いため,図版は『京都の絵馬』(1980)に収録された「児童おかげ詣図」を用いた。
近代の絵馬・大型絵馬・主に庶民の姿を描く─といった特徴を有する。 まず絵馬の絵画表現という点に注目した際、絵馬の画題の多くは人々の参詣の様子を描く。比較的少人数の「参拝図」のほか、多数の子ども行列の姿が印象的な、「参詣図」と称される画題が特徴である。先の近世京都の大絵馬と対照させると、大型の絵馬である必然性は、描かれる画題がもたらしたスタイルであったことが分かる。調査報告書作成段階で分析された絵画表現を用いた絵馬は一二〇点余であるが、参拝参詣行列を描いた奉納絵馬(安政二〜明治三七)は子どもや女性・男性を精緻に描きわけ、額サイズ縦
1055mm
×横1977mm
、七三九名を数える行列絵馬から、一〇〇〜二〇〇人規模の集団の参詣行列、少人数の参詣、子ども・子どもの遊び等、育児と信仰に関わった画を供している。絵馬の大きさと人物の関係からは、一八八五(明治一八)年から一八九四(明治二七)年に奉納された参詣行列図一〇点が絵馬の大型時代とされる )(((が、図1・1のように、左上から左下に蛇行する行列や神社境内の精緻な風景描写、さらには、多人数の参詣主体を風景や群像としてではなく、外見的特徴を持つ個体として描き分け、奉納先の一小社の情報を
図1・2
〈指定絵馬 64,部分,一八九一(明治二十四)年十月奉納,1140 × 1942 ㎜〉
盛り込む画面構成が、広い画面スペースを必要とし、絵馬の大型化をもたらしている。 同時に、多数のいわば「無名」の人々が、単なる背景や群衆像として描かれているのではない点は重要だろう。美術史という観点から本絵馬群を解析した松村葉子は、参詣図・行列図としての特徴として、画題の構成や社寺・参詣道・参詣者といった社寺参詣曼陀羅図の基本要素をふまえつつも、「絵師の主眼はあくまで参詣道を歩む参詣者」に注がれていること、図1・2のように、付箋や刻銘等によって、書き込まれた参詣者が「絵馬の奉納者及び関係者」であることから極めて特殊な行列図、とみる。あるいはその書き手の多くが「画壇に君臨するような絵師、著名な絵師ではな」いうえ、伝承すらされてこなかった無名の町絵師であり、風俗画の延長線上に位置づけるべき、とする )((
(。多数の子どもを描く多くの参詣図絵馬は、付箋や刻銘、下絵も含め、個々の子どもたちの名前をも画面に記そうとする工夫を施した痕跡が随所に残る。つまり描かれる題材に制約された明治の大型絵馬の存在は松村が指摘しているように、そもそも描かれる側、奉納する側が主体的なクライアントとして存在し、書き手との間に事前にコミュニケーションを 必要としていた可能性が高い。奉納絵馬についての探究の関心の多くは従来、奉納先の神社と作者という二つの要素に限定して向けられてきたが、ここでは、書き手の画題や画面構成を奉納者たちが大きく決定づけていた点を強調したい。「無名の町絵師」による絵馬の存在は逆説的に、絵馬と奉納神社とを交通する奉納者の存在の意義を浮上させるのである。例えば図〈2〉は奉納の様子を描いたと思われる絵馬の部分である(指定100、一九〇八
年九月奉納、1060×1520 )。縁下には「鴨東親友会」名が記される。俵を載せ牡丹の妻飾りのついた屋根をあしらった山車様の車を曳いて絵馬を奉納する行列の図様で、図中の車には本絵馬が描かれている。絵馬を奉納した人々は、自らが絵馬を奉納する際の表象を、絵馬の画題として要請していたのである。 他方、奉納者がクライアントしての主体性を持つ、と見るならば、書き手についても、読み替えが必要だろう。描き手の画壇上での無名性は、選択された可能性もある。たとえば一八九七(明治三〇)年九月奉納の「押し絵」の絵馬(指定80、950×705 )の場合、裏面に同姓の奉納者五名が列挙され、うち四人は年齢表記があり、名前等から、一七才男性のほか、一四・七・五才の女子の名が見
える。裏面に記された作者「尾瀧勝子」は奉納者の家族の一員、「尾瀧勝子一四才」と想定される。あるいは指定絵馬
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の落款「玉鳳」を奉納者の「西陣」と結びつけると、近代西陣織の図案家として顕彰される稲田玉鳳(1830-1890
)の可能性は高い )(((。玉鳳は同時期、『京都の絵馬』に掲載された、西陣から今宮神社に奉納された「高機」(65×175 )と名付けられた絵馬の作者でもある )((
(。 以上ここまで述べてきたように、洛中近世の大型絵馬との大きな違いは、絵馬をめぐる三者─絵師、神社、奉納者のうち、奉納者の関わりの比重の高さであろう。三宅八幡奉納絵馬の場合、奉納者と絵馬の読者は一致する、と見るべきではないだろうか。なぜなら前者が、著名な絵師による芸術性の高い「作品」を、洛中の「名所」遊山に訪れる匿名の人々に向けた「啓蒙」として発信されたものであるとするならば、個々の子ども名の付箋が貼付され、奉納者名が列挙された、「無名の人々」を描く参詣図・参拝図絵馬の読者とは、描かれた画題としての奉納者であった、と考えられるからである。 他方、図像としての絵馬はさらに、ある特定の時期に同じ様な題材を描写したことから、人々の暮らし方の「変化」が細部に見え隠れし、人々の生活の様子をイメージ
図2
する手掛かりとすることが可能な貴重な風俗資料でもある。また神社の境内整備という点でも文献史料と対応する「変化」の確認が報告書ではなされている )((
(。以下では風俗資料としての絵馬について考えておきたい。(2) 個々の絵馬から伺える風俗描写の子細については、報告書本文に詳しいが、いくつか列挙しておくと、例えば幕末維新期での参詣絵馬等では、男女子どもの芥子頭・女性の丸髷に流行した半襟刺繍や帯刀者の姿が、開化期にあたる絵馬ではこうもり傘の携行や散切り頭の男性が目をひき、明治中期に登場する男性は羽織・股引と散切り頭に山高帽スタイルが書き込まれる。成人女性についても先笄髷、桃割れ、唐人髷、と年齢や既婚・未婚の別がかき分けられ、洋装は男児の方が早い、と指摘される。集団の先頭者や引率者が持つ扇子は次第に幟や旗となっていった。学制以後では、個々の行列の先頭の旗名には学区名を冠した学区旗を掲げた複数の集団が登場している。子どもの服装の配色には赤も目立ち、コレラ等悪疫除けを連想させる。唐人髷ではない、乳母とおぼしき成人女性のはだけた胸から乳をもらう乳児の姿は、明治後期、居留地から広まり舶来品の代名詞でもあった乳母車 の中に描かれている。子どもの遊びについての描き方も、嘉永期の芥子頭の将棋崩しから、日清戦後の絵馬には、独楽回し、凧揚げ、追いバネといった子どもの遊びの同じ画面に、男児の戦争ごっこやラッパ吹き、水兵服が、日露戦後の絵馬には学生帽を被った男児が旭日旗を持ち、女学生は束髪・袴姿にかき分けられている。 ところで絵馬が描く情景については、行列の規模等、写実性が議論されることが多かった。他方、絵画表現の巧拙とは別の次元で、男女を洋装和装でかき分けたり、奇抜にさえ思える人物表現も多く存在する。こうした情景のリアルさを証明することは容易ではない。むしろ描いた側やそのクライアントの側が、先端の風俗、近代化された世相を描き出そうとしていた、と捉えるべきだろう。参詣行列の装束の細部とその変化から明らかな風俗資料としての絵馬群とは、伝統社会に暮らす人々の姿、様々な新しい風俗と距離を置く層の人々の姿ではなく逆に、明治期の「近代化」のかけらを細部で「受容」する人々とその人々がどのように描かれたいか、人々を媒介とした世相の表現として読み解く視点が必要ではないだろうか。 では奉納者はどのように描かれたいのか、という側面
からは奉納者集団の多様性もみえてくる。例えば学制期の子供を大量に描く行列参詣絵馬では、洛中の学区名を冠した「子供中」集団であることが、行列の先頭の旗によって明示されている。小幡等、比較的遠隔からの行列絵馬は、旅装束が目立つ。また一八九四(明治二七)年、先斗町から奉納された参詣行列絵馬について、報告書では半襟、帯、長襦袢等に赤が際だつ華やかな衣装等から、舞妓の舞の奉納を兼ねた参詣風景の可能性を指摘している。 絵馬奉納者はどのような人々だったのか。個々の絵馬の多くは、数名から数百名の刻銘がなされており、「墨書読み取り作業」が継続してなされた。これらを辿る作業は今後の課題だが、奉納者の名前を読み解く作業は調査過程において、奉納者の側に重点をおく、という、従来の悉皆調査レベルでの報告書にはない特徴も帯びる )((
(。うち一例だが、絵馬奉納の様子について、『報告書』中の「子孫追跡調査」(福本萬生)から、奉納「発起人」子孫からの聞書例を引用しておきたい。「当時住んでおりました現在の東山区松原大和大路から上高野まで、乗り物なしの往復二〇キロの道程は大変だったことでしょう。父が聞いています奉納の日の 模様は、十一月のある日、一緒に願をかけて下さった近所、親類、出入りの職人さん達、四、五十人程が大和大路のえびす神社に集合して、旗を立て絵馬を担いでの出発だったようです・・祖父が残しているその日の記録によりますと、奉納をすませた後、お赤飯のお弁当にお酒を添えて昼食にお出ししたようで・・」 )((
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奉納された指定88の絵馬は、一八九九(明治三二)年一一月の記名をもつ。図柄は鳩絵で、(860×1110 )、絵馬群の中での大きさからいえば、中程度にあたり、画面の下1/5は「世話係」七名の氏名が刻まれている。発起人は大工棟梁で一歳児の息子の病気回復のお礼参りに大工仲間と奉納を行ったという。 洛外神社への遠距離への参拝に加え、行楽と民間信仰との重なり合いや、一口に地域の人々─とはいえ、職住未分離の社会にあって、家族も含めた日々の人々の人間関係が浮かび上がる。一小社の「民俗」はしばしば村社が存する地域の枠内に閉じこめられがちだが、奉納者への着目という視点からは例えば、絵馬を含む多様な奉納物を通じ、すでに近世の段階で洛中や伏見、小幡をはじめ、大津、大坂に及び、灯籠奉納・絵馬奉納者は広範囲にわたる。他方、三宅八幡の絵馬等の奉納者の多様性や
広域化の一方、旧村内からの奉納例は希少である点も『報告書』では指摘されている。絵馬をはじめ、多くの奉納物からはホストとゲストという区分が必要であることがわかる。以下ではホスト
―
奉納先である三宅八幡の神社としての「近代」を検討する。3 奉納先ーホスト三宅八幡の近代
(1)三宅八幡資料群に見る政治文化 三宅八幡社は近世を通じて禁裏御料であった京都洛外の上高野村に存し、天明年間にはすでに絵馬堂や「御膳所」等を持つ場として成立していた )((
(。明治以後、廃藩置県によって京都府愛宕郡編入となり、一八八一(明治一四)年以後は、村の氏神社である祟道神社の現・御旅所(「里 さとんど内」)に戸長役場も開設されていたが、一八八九(明治二二)年町村合併で高野村は修学院村に含まれ、一九三一(昭和六)年の第二次京都市拡張によって京都市左京区に編入、現在に至っている。また後述するように、明治以後の国家神道体制下にあっては「村社」格だが、その知名度は高く、鳩の子ども信仰「疳の虫封じ」の神社として年間を通じ多くの参拝客で賑わった。
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表1 年別奉納点数表
※『報告書』中、松村論文表1に追加指定分を補足したもの。
しかし、歴史資料として三宅八幡奉納絵馬群を捉える場合、本稿が注目する点は、奉納のピークが幕末維新期をはさんで明治前期に集中する点である(表1)。二〇〇一年の指定一三三点、二〇〇四年八月の調査で蔵から新たに見つかった八点(追加指定)、さらに二〇〇五年二月の総点検調査によって確認した句会関係の扁額一六点も含め、その奉納年代は一八四九(天保四)年以後、一九三二(昭和七)におよぶ。 もっとも三宅八幡に奉納された金石資料は絵馬に限定されない。三宅八幡への奉納物はすでに、天保年間での灯籠に始まる )((
(。大型絵馬の奉納とは、多様な奉納行為の系譜上に存在するのであり、天保期以後、明治前期をピークとした奉納のかたちであった、と捉える必要があるだろう。ここでは、絵馬奉納という形式に注目することで、ピークを迎える明治期を軸に、その歴史的理由、絵馬奉納という形式を成り立たせる歴史性を考察したい。一般に一九世紀〜二〇世紀とは周知のように、地域の神社や社寺は政治的・財政的にその基盤を変動させ、ことに幕末維新期の京都は、いわゆる神仏分離政策が吹き荒れ、洛中の有名寺社が被った打撃については多くの言及がある )((
(。他方、村の小社についてみると、宗教政策を通じて 明治期には民俗的なものへの改変・容喙が際だつ一方、整理統合された村社であっても、日露戦後の合祀・廃止等、厳しい統制が明らかにされてきた。では三宅八幡という洛外区の村の小社の隆盛に対して、行政側による容喙は存在しなかったのだろうか。 結論から述べると、小社としての三宅八幡はむしろ、神道システムに位置づくことで、近代以後の「発展」を可能としていくように思われる。また「民間信仰」に対する府行政の批判的言辞は、通常イメージされるような、神仏分離政策によるあからさまな介入や、「淫祠邪教」批判として行われたものではなかった。一小社への統制は、別の角度からなされていた。 まず、幕末段階での三宅八幡でも、残された造形資料からは神仏習合的な性格が顕著である。その最たるものは、一八六五(慶應元)年一二月、『大般若経』六〇〇巻(木版刊本・折本)と『理趣本経』一巻が、さらに「神社」認定された一八六九(明治二)年、経典の守護神『一六善神曼陀羅』が寄進され、現存する、という事実である )((
(。『理趣本経』等二つの経典は、一般的には転読儀礼の際に用いられる。 ところで『大般若経』六〇〇巻の寄進行為そのものは、
近世中期以降、刊本の広がりによって村落レベルでも寄進行為が一般化するが、村の寺の寺宝は維新期以後、秘匿された事例は多く、また刊本か写本か、その形態について議論の余地は多く、本格的な地域の悉皆調査が進行中である )((
(。三宅八幡の場合、六〇〇巻もの大般若経は頑丈な木箱一二箱毎に五帙一〇巻が収まる。寄進先が書かれる場合は「三宅様」とあることや、一九〇〇(明治三三)年ころに書かれたと思われる『古記録』にも記載があることから、三宅八幡に直接奉納された経典であることが判断できる。また木箱の表裏には主に、村内の世話人の名が記録されている。他方、大般若経そのものは折本・版本だが、図3のようにほぼ各巻ごと奥書に寄進者が名を記す。そこには寄進者の住所や氏名のほか、子ども名と年齢等の情報が記されている。いくつか例示してみると、例えば「奉寄付御経壱巻 施主 俵屋治三郎 敬白」、「井筒屋為七 娘みね 倅政治郎 家内安全為」、「松屋平四郎 娘たね十二才 同やす八才 倅政治郎5才」、「中山村 油屋利三郎 倅岩治郎7才男」、「森半七娘なお たま」等とある。子どもについては男女比にそれほど大差ない一方、「妻」の登場は希少である。この点は、行列絵馬の画像読みときを通じ、「成人女性の姿
図3
が意外に少ない」と結論づけた菅原の指摘と一致する。他、「施主」のほか、「取次人・・三枝講」といった施主のとりまとめ人の存在が浮かびあがる。奥書に表記される人々は、夫婦や家族単位で願主となり、男女の子ども名前が記載され、さらにこれらの人々が「取次人」を介して集団としてまとめられている。また高野村内と思われる人々は主に、「世話人」として箱書きされるなど、村内「世話人」のホストとしての位置も確認できる )((
(。主に男性家長中心に子どもが列挙された寄進者─取次人─村内世話人といった三段階のとりまとめの様子がうかがえるのである。 もう一例あげてみよう。人々は三宅八幡参拝にどのような祈願を行ったのだろうか。子どもとの関係は随所に確認できる。すでに灯籠奉納・絵馬奉納が残る一八五三(嘉永六)年九月、『明治天皇記』には、祐宮(後の明治天皇)「大患」の際、三宅八幡に平癒祈願の女官代参とある。ところでより詳細に見ていくと、『明治天皇紀』の同日条文は北野社・御霊社・船岡稲荷への祈願・代参を列挙している。さらにこれらの条文の典拠となった記録のうち、『青山御納戸日記』『祐宮御側日記』の記載をみると、三宅八幡への祈願の記述は前者にしかない )((
(。こ こからは、病気直しの霊験を求めた三宅八幡への代参は、准后(後の英照皇太后)派遣であったことが分かる。その一方、現実に祐宮が臥せる中山忠能邸では、生母中山慶子の母・綱子が北野天満宮の僧侶に加持祈祷を依頼し、治癒後もこうした行為が続けられていた )((
(。つまりこうした例からは幕末維新期、子どもの病気直しが期待された三宅八幡は、願主の側から見れば、洛中のランドマークであった北野天満宮も含めた、洛中・禁裏の神仏習合・現世利益の広がりの中に位置していたことがわかる。三宅八幡は、北野天満宮や船岡山稲荷と列挙される、洛中の神仏習合世界の選択肢の一つだった、といえるだろう。 ではこうしたいわば、神仏習合的な寄進物を得ていた三宅八幡は、「弾圧」を被ったのだろうか。残念ながら、この点については不明だが、『大般若経』六〇〇巻が転読等、使用された形跡のない美本のまま残されていること、何よりも、この点について神社側の記憶として継承されず、現物も二〇〇三年夏の調査の過程で、村内の氏子社・祟道神社の里内から発見されたこと、したがって、『大般若経』の存在によって、三宅八幡に残された『理趣本経』等、二つの経典の意味がはじめて「再発見」しえたこと、など近代以後の神社観からは不釣り合いな『大
般若経』という重要な奉納物が秘匿されてきたことなどに維新期の混乱を指摘することが可能かも知れない。しかし行政による参拝行為の介入はもっと直接的な形で残されている。以下見ておきたい。
4 京都の近代化と「民俗」
絵馬奉納年代をおった表1に明らかなように、奉納年の分かる一三〇余点は慶應元年ー明治三八(一九〇五)年まで連続するが、ここでは、奉納絵馬が欠落している年のうち、前後に奉納のピークとなっている一八七六(明治一〇)年及び一八九五(明治二八)年に注目してみたい。奉納絵馬が急に〇点になる直接的な理由としては京都府の「近代化」行政が大きく関わっているからである。 まず一八七六年の欠落については、三宅八幡を名指して参詣行為を戒める府令が存在する。「開明知事」槇村時代の一八七六年三月八日、府は第八四号府令で以下のように三宅八幡参詣を戒めた。 「小児疾病アレハ洛北三宅八幡ヘ祈念トシテ発熱痙攣等アル児ヲ前抱後負シシ風雨寒暑ヲ厭ハス遠路ヲ 往返シ為メニ軽症モ重病トナリ又眼病ヲシテ寒暑ヲ避ケス柳谷ニ参籠シ神仏ヲ祈ルノミニテ嘗テ医薬ヲ用ヒス幸ニ死ニ至ラサルモ生涯廃疾トナル等実ニ愚ノ所為ニテ憫然之次第ニ付区戸長克ク其意ヲ了解シ病アレハ良医ニ就テ治ヲ受クルノ他為スヘキナキ旨ヲ人民一般ニ告諭スヘシ 右之通管内無漏相達者也」 )((
(
府は、発熱痙攣等の小児を前抱後負して三宅八幡に詣る行為や現長岡京市・柳谷観音への病気直し参詣を戒め、病あれば医薬・良医を求めよと「啓蒙」する。区戸長を通じての実質的な参拝禁止の意味を持っただろう。この府令の原案は先に、同年三月、医務掛から出され、明石博高の印がある。そこでは三宅八幡参詣批判が特化され、開明の言説による批判は露骨であり、「陋習之愚民、動モスレハ疾病ニ係ルト雖モ医薬ヲ需メス徒ラニ神仏ニ委託スルノ弊未タ全ク難説、就中三宅八幡様 44444ト申ノ如キハ信徒最モ多ク往々不幸ヲ蒙候者有之候之趣ニ付」 )((
((傍点筆者)として布告を要請している。 これら二つの文言からは、参詣絵馬の奉納件数の多い明治前期のピーク時、三宅八幡は、「三宅八幡様」と称
され、子どもの病気直しを軸に、「信徒最多」い民間信仰の場として知られていたこと、しかし、行政の側は「信徒」の病気直しという願掛けを、宗教行政の見地からではなく、治癒能力の有無として読み替え、衛生医療行政の側から否定的な見解を提していたことがわかる。「三宅様」への人々の参拝行為は、近代医療に対立する、開化期の「陋習之愚民」の一例として戒められる対象だったのである。 他方、一八九五年での奉納絵馬の欠落はどのように解析可能だろうか。この点についての行政側の対応は不明だが、この時期の府の衛生行政との関連が予想される。日清戦争前後の三宅八幡の、特に新暦九月の例大祭時期の祭礼の賑わいは、しばしば新聞紙面で報道された。もっとも単独で三宅八幡の記事が掲載される例は一点で、九月の放生会記事の主眼は、神仏分離以後、新たに創成された石清水八幡宮の放生会復活(一八八三年)の様子を伝える文脈の中で紹介されるトピックである。新暦九月の「放生会」への人の賑わいは、明治の新たな風俗といえるだろう。そのなか、一八九二(明治二五)年九月一八日付の『日出新聞』は「三宅八幡の参詣人」と題して、以下のようにその盛況ぶりを伝えている。 「一昨日の放生会に愛宕郡修学院村字高野の三宅八幡は早朝より参詣人夥しく、街道及社内は雑踏を極めしも生憎雨天となりし故、折角の相撲も四時半比に打ち上げしが却って其れが為同所並びに途中の飲食店杯は繁昌したり。又た参詣人中松ヶ崎より岩倉村を越て花園橋の西へ出し人々多かりしより之れを当て込みて右の通路へ鞘豆並びに菓子を出せし者は大黒天の甲子よりは却って売り捌け方宜しく一儲けをなしたりと。尚ほ当日は大津の各講社よりも相応に出かけたるよし」 )((
(
翌年、一八九三(明治二六)年九月でも『日出新聞』紙面は「早朝より参詣人夥しく街道及社内は雑踏を極め」と、沿道の物売りが繁昌する放生会の様子を伝えた。さらに翌年、一八九四(明治二七)年は、大型の参詣行列を描いた絵馬三点、小型の参詣図絵馬三点を含む六点が奉納された年でもある。各地の「八幡祭」を伝える新聞は、市中の賑わいについて紙数を割き「市中にては五条若宮八幡、御池八幡、鞍馬口御所八幡、洛北山端の三宅八幡等の祭りにて乳呑子を懐きたる乳母の参詣例に依て
多く各所とも相応の賑わひを見たり」 )((
(と記している。 しかし続く一八九五(明治二八)年の夏とは、多くの指摘があるように、コレラ猖獗の年として京都では様々な生活統制がなされ、祇園祭りも延期となった。特に夏から秋、人々の集まりは京都府の衛生行政の統制対象となり、男山八幡祭も「悪疫」延期、一ヶ月後が予定されたことを九月の新聞紙面は伝えている )((
(。三宅八幡においても、祭礼中止や集団参詣回避の可能性は高い。少なくとも岩清水八幡の例大祭に連なる形での九月の放生会が行われなかったことは確実だろう。 前掲
<
表1>
にみられるように、明治の前期は集団による行列参詣絵馬の奉納点数が集中する。この時期の参拝のあり方が、集団で遠路を歩く形式であったとするならば、そうした洛外の村社への>祈り
<は京都府の政 策側からは、前者は近代医療への抵触がはっきりと意識され、後者は祭礼への取り締まりがなされた可能性が高い。神道政策が展開するなか、例えば多くの民衆宗教に向けられた視線のような「淫祠邪教」として排斥された痕跡は見いだせない )((
(ながらも、行政の「文明化」路線に抵触するものとして表象されていたのである。では神道行政が展開する過程で、三宅八幡はどのような扱いを受 け、「近代化」政策の中でその位置を獲得していったのだろうか。最後にこの点を検討しておきたい。
5 神社行政上の三宅八幡
明治以後、三宅八幡の府の宗教行政上の扱いは、境内末社、無格社そして一八七九(明治一二)年、村社へと変化し、一九四五(昭和二〇)年一二月の「宗教法人令」を迎える。以下、明治期中心に辿っておきたい。 まず京都府宗教課に提出された行政資料を見ると、一八六八(明治元)年一一月の『社寺録』 )((
(、翌年の『愛宕郡神社一覧』に三宅八幡についての記載がある )((
(。前者は高野村の氏子社、祟導神社の記録中に含まれ、所属社や専任の宗教者、社領、末社についていずれも「御座無候」、無税の除地として「境内五石七七分五畝」とある。祟導神社の境内末社の扱いは、同じく高野村村内にあって一九〇九(明治四二)年、神社統合によって合祀・廃絶された伊多太大明神と同じである。また『社寺録』に添付された絵図も崇導神社史料と一緒に残されているが、三宅八幡にはこの時点ですでに、絵馬堂があったことが確認できる。次いで翌年の『愛宕郡神社一覧』では、崇導
神社の「境外神社(伊多田 ママ大明神社、三宅八幡宮社)」とされ、崇導神社を軸とした三宅八幡の位置づけが分かる。二年後、寺領に上知令が出された一八七一(明治四)年、京都府は「社地画面」を提出させている。ここでは三宅八幡は愛宕郡村持之部の「無格社」となっている )((
(。このように、宗教行政の記録からは、大型の絵馬奉納が多く、あるいは府令が「参詣者盛ん」と危惧を抱くような隆盛ぶりは伺えない。しかし、「村社」昇格への認可がなされた一八七九(明治一二)年七月以降の宗教課の記録を見ていくと、建築物の整備等の上申が相次ぎ、その隆盛の様子がはっきりと確認できる。 三宅八幡の施設整備について府庁文書からまとめると、町村制前の拝殿や本社の立て替え・屋根の葺き替え・改造等、神社施設境内の整備に加え、一八九一(明治二四)年五月には手狭を理由に東側の山林一反を拡張、一八九六(明治二九)年四月には「御供所」の増設する )((
(。これらはいわば参拝する人々に対応するための施設・空間が整備されていく動きとして捉えることが出来るだろう。 その一方で、村社である三宅八幡の運営そのものは村の裁量と大きく関わっていた可能性を指摘しておきたい。戸長役場文書によれば、高野村に役場が設置されていた 明治一〇〜一五年度、村の戸数は
113
戸〜136
戸、人数も656
人〜753
人(内訳ー女性358
〜388
人、男性318
〜364
人)へと漸次増加傾向にあり、一八八一(明治一四)年度についての数字を見ると、収入高は440.33
石、同年度下半期の公拠金として「一三円九五銭四厘」を上納した、とある )(((。また同時期の記録から村内の寺社と人員を見ると、高野村村内には寺・庵が各二(内一庵は無住)、対する村社は三(祟道神社・伊多太大神社、三宅八幡社)で、二寺一庵には権訓導一名、教導職試補二名が、他方、神社は司掌職の宮司による三社兼任であった。村社昇格のためと思われる、士族出身の松室重愛は明治一二年、司掌職して村内の三村社をかけもつが、一八八一年四月、村に辞任願いを出している )((
(。また一八八七(明治二〇)年、本殿修復が行われ、村では一八八五(明治一八)年八月二〇付、愛宕郡長村上義久宛に修復資金集めのための「願」が出されている。これによれば、「村社三宅八幡神社」の「鎮守」が数年を経て星霜甚だしく修復の必要があるが、「一村ノ微力」では行いがたいため、「明治一八年一一月ヨリ明治二〇年一二月迄諸方有志金募集シテ普請成功致度」とその許可を求めたものである。信徒総代三名(井口正義、佐竹善右衛門木村福忠)及び
二代目司掌宮本善右衛門、戸長井口文治郎が名を連ねた。総代三名は、同時期の村内「士族」一二名のうちの二名である )((
(。神楽殿新築後はさらに信徒集団への再組織化がはかられており、他方、一八八三(明治一六)年の愛宕郡提出書類では、信徒七三〇人が、一八九二(明治二五)年では、「信徒総代の異動」として総計一四八人に減じている )((
(。『古今記録調』でもその前年、明治二四年に「神鳩講」実施とあり )((
(、外部からの三宅八幡参拝が広がるなか、核としての信徒集団を固めた動きと思われる。信徒総代に名を連ねる人々は村のおもだちと考えられる。 信徒からの金銭はどの程度の金額で、どのように集められたのだろうか。この点について、三宅八幡に残る『諸収支簿 神鳩講』 )((
(を見ておこう。記載は明治二六〜明治三七年の一二年間にわたり、支出の記載形式が一定していない、歳入中心の記録である。表2は二〇年代から三〇年代にかけての動きを整理したもの、表3は講のうち、金石資料との重複を示したものである。 まず寄付の主体は三〇人前後の集団として記載され、一人あたりの負担は一回二〇銭であったことがわかる。また一二年間の変化としては、収入を伴う参拝講は当初は年間一〇組程度だったが次第に増加し、明治三〇年代 では収入規模も四〇〜五〇円へと拡大していること、その一方、集団の規模は二分し、明治三六〜七年では比較的規模の少数の集団が増えていく一方、伏見等、洛外からの参詣は二〇〜三〇人規模の大きな集団として寄付を行っている。明治一四年度下半期の村税上納額が一四円規模であったことから考えると、二〇年後とはいえ、四〜五〇円の収入は村にとって貴重だろう。また講の名称に注目すると、近世以後の金石奉納物と同名のもの(大津三宅講、月参組、日供講)、大般若経奉納にその名が見える講と同名のもの(三枝講)など明治以前の奉納者との連続性が類推できる。その一方、神鳩講は登場しないことから村内、神社側の世話係であって、外部からの集団をまとめる機能を果たしていた可能性が高い。また史料的には断簡の類ではあるが、同収支簿には頼母子講を運営し村民に貸付を行っていた記録が残る。 これらの動向をまとめるならば、明治期において、次第に参拝者が常態的に集まり、利益を得ていった三宅八幡・高野村は、神道政策の下、小社として不利な位置に甘んじた、というよりはむしろ、境外末社から無格社として神社行政の枠内に位置づけられることで不利な寺院格としてではなく、神社として生き延びる余地が残され
参拝
年度 寄付 件数
寄付金 総計
(円) 奉納団体名(人) 参考1
(絵馬 奉納数)
1893
(明26) 8 14.1 三枝組(21)児栄組(4)参詣組(13)真燈明組(14)
童栄組(6)日供講 □□舎(5)太田藤七 2
1894
(明27) 5 9.1 児栄組(4)参詣組(7)童栄組(7)三枝組(23)月参組 6 1895
(明28) 10 13 日供組 童栄組 児栄組 参詣組 照八幡組 三枝組
月参組 河田勘三郎 太田藤七 0
1896
(明29) 11 13.5 日供組 童栄組 児栄組 参詣組 三枝組 真燈明組
大坂三栄組×2回 月参組×2回 太田藤七 3
1897
(明30) 14 21.5 参詣組 三枝組 大坂三栄組 月参組×2回 槇野組 長栄 組日供組 童栄講 太田藤七 坂井伊八 井口新太郎 6 1898
(明31) 12 31.7
遊歴組 参詣組 児栄組 月参組×2回 伏見月参組 伏見祭典組 真燈明講 童栄組 高野組(6)共栄組
太田藤七 2
1899
(明32) 16 44.84
参詣組 遊歴組 三枝組(29) 伏見行鳩組(30)
祭典組(35) 京都神餞組(20) 伏見祭典組(25)
伏見月参組(13) 共栄組(30) 京都月参組(5)×2回 真燈明組(11) 高野組 童栄組(2、4)新鳩組(11)
太田藤七
5
1900
(明33) 16 47.9
遊歴組(12)共栄組(20)伏見信鳩組(35)祭典組(35)
神餞組(24)参詣組(9)伏見月参組(13)
京都三枝組(29)太田藤七 日供講(3カ年分)京都月参組 京都童栄組 真燈明講 大坂三栄組 京都新鳩組
京都月参組 京都長栄組
1
1901
(明34) 16 43.5
日供組(5)太田 新鳩組内有志分 伏見祭典組(33)
京都参詣組(8)京都共栄組(20)伏見月参組(13)
京都三枝組(27)大津三宅講 神栄組(17)神餞組(25)
真燈明講(5)三栄組(5)月参組(5)神鳩組(12)
信鳩組(30)
1
1902
(明35) 18 40.5
遊歴組(11)共栄組(13)参詣組(8)高野長英組(10)
京都月参組(5)伏見月参組(13)三枝組(23)
伏見神鳩組(9)日供講(3カ年分)信子組(10)
神鳩組(15)神栄組(16)真燈明講(14)新鳩組(11)
月参組(5)童栄組(3カ年分)大坂三栄組 太田藤七
2
1903
(明36) 21 44.1
参詣組(7)日供組(5)三宅組(10)遊歴組(11)
神友組(13)祭典組(16)児栄組 高野長英組
神餞組(15)月参講(5)伏見月参講(13)三枝組(20)伏 見神鳩講(5)神栄組 真燈明講 共栄組 信子組
京都月参組 童栄組 新鳩組 大坂三枝組
1
1904
(明37) 22 39.9
共栄組 信心組 神子組 日供組 神餞組(10)
信鳩組(13)児栄組 西燈明講 新鳩組 京都月参組 伏見月参組遊歴組(13)参詣組 三枝組 神友組 伏見信鳩組 神栄組 三宅組 祭典組(35)遊歴組 京都月参組 真燈明組 京都月参組 童栄組
3
表2 三宅八幡寄付金表
ていたこと、一方、補助金を下賜される神社とは異なり、村社として位置づけられることで、村の裁量の元での神社経営が行われていた、と考えることができる。
おわりに
明治後期には参道への整備やさらなる境内拡張がなされるなど、三宅八幡はむしろ、外部からの参拝者用のアクセス空間を整備していく。ことに明治末では、鉄道敷 設や道路整備など、行政に地域開発を誘う方向性として模索され、例えば、一村一社によって多くの小社が合祀を余儀なくされたといわれる神社合祀令の数年後、一九一〇(明治四三)年二月、『日出新聞』の記事によれば、遠来からの参拝者の便宜をはかるための電車敷設が議論され、愛宕郡修学院村他七ヶ村の村長が連署し、京都電気鉄道三宅線敷設の速成を府に請願した、とある(2/26
)。さらに一九二五(大正一四)年には参道新設願についての申請が郡役所宛、三宅八幡神社社掌及び崇敬者総代名で「参詣者の為の参詣道路新設願い」とし、「叡山電鉄線路ノ当社付近ヲ通過スルヲ好機トシ・・三宅八幡停車所付近府道敦賀街道ヲ起点トシ高野川橋梁幅二間長径間三十尺二連ヲ架設村道車道ヲ横切リ田畑ヲ縫ヒ村道当社参詣道路ニ連結」(記述の中でも「三宅八幡宮は、俗に虫八幡と言って、四 といった参拝用の駅が設置される一方、郡の郷土教育の
1928 1925
「八幡前」「三宅八幡」でそれぞれ)(鞍馬線)、( ろう。実際には大正末から昭和期、開通された叡山電鉄 電車の線路敷設を見越しての地域振興の動きは明らかだ46
て画するという計と)して出される。い表3 境内現存金石資料と講社
講社名 金石資料 年代
西燈明(会) 玉垣
信心組 灯籠2
日供講 灯籠2
神鳩講社・児栄組・
真燈明講 鳥居
真燈明組 灯籠 1926. 4
共栄組 灯籠
新鳩講 灯籠 1931. 3
日供講・大坂三栄 組・童栄組・西燈
明組・月参組 鳥居 1895. 6
真燈明組 灯籠
共栄組 灯籠
新鳩講 灯籠
新鳩講社・信子講 灯籠 1904. 3
伏見信鳩組 狛鳩
大津三宅講中 灯籠 1829. 8 伏見月参講 灯籠(修)
真燈明組 灯籠 1909. 9
伏見月参組 灯籠
京都信心組 灯籠
大津三宅講 狛犬 1883. 3 京都信子講 灯籠 1918. 2
遊歴講 鳥居
時参拝者が絶えない」とされ、『神社めぐり』(
1932
)等、昭和期の観光案内記述にも登場する。三宅八幡は、近郊鉄道の駅を持つことで、不特定多数の参拝者で賑う、洛外の観光/信仰スポットとなったのである。他方、民俗学からは例えば井上頼寿『京都民俗誌』(1933
)が三宅八幡・疳の虫信仰を特化し、特に、銃後に関心が高くなる日中戦争後には、『日本婦人子供』(235
号, 1939.9
)が特集記事を組む。「生む性」を強調する雑誌の裏表紙の広告文では、九月一五日の三宅八幡例大祭での催しものの際、「先着三〇〇〇名」に景品無料配布との宣伝文を掲載する。広域化された人々が訪れるランドマークと化した姿を彷彿とさせる。 しかしこうした大正・昭和の隆盛期、すでに奉懸され、奉納のピークを終えていた扁額絵馬を見所とする言説は見当たらない。著名な民俗学者井上頼寿の記述においても、絵馬については神社側が販売する小さい鳩模様の絵馬を紹介するにとどまるうえ、全体の文脈は、境内脇の茶店で売られていたという藁細工人形や鳩餅といった郷土玩具等への「民芸品」への視線と関わっていた。他方、戦後京都の絵馬調査では、この三宅八幡社の絵馬堂や社務所等に大型の絵馬が懸けられていたことは知られ ていた )(((。しかし実質的に三宅八幡社を支えてきた地域の「崇敬者」の側では奉懸絵馬群は古い信仰による造形物であって、扁額絵馬そのものが地域の文化財的な存在として認識されることはなく、ましてや調査・保存の対象と考えられることはなかったという。一九九九年、老朽化した絵馬舎の立て替え準備もあって、絵馬降ろしの作業がなされる過程で、一五四点もの絵馬が重なりあって登場し、「奥から鮮やかな色の絵馬が次々登場して驚」くことで、上記のような認識は一変したという )((
(。指定をきっかけに、保存会が結成、個々の絵馬の墨書の読みとり・図像分析をはじめ奉納者子孫への聞き取り等、地域の人々によるさらに詳細な調査が進められた。二〇〇五年夏に上梓された報告書は地域の人々の「地域」再発見の成果としての意義を持つといえるだろう )((
(。 他方、歴史資料として奉納絵馬群を捉えるならば、三宅八幡の事例からは多様な形を取った奉納物に見られる「神社」隆盛の変容を、近世中期から昭和期にかけての長いタイムスパンで捉える点が課題となり、単に民俗信仰というよりは、洛中の世俗信仰圏のあり様や名所訪問、他方、明治後期以後の洛外の開発、広域化した京都の観光と神社参拝との関係等、多様な視点を課題とするだろ