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大気環境学会誌 第 44 巻 第 6 号 (2009)
(6) 有害化学物質
早川 和一(金沢大学)
1.はじめに
産業革命以後,世界の人口は10倍に増えて65億人を超 える。特に中国,日本,韓国を中心とする東アジア諸国は,
急速な産業経済発展を続けている。この地域は世界の一次 エネルギー消費量の1/4以上を占めるが,エネルギーの種 類は国により大きく異なり,中国は 68%が石炭だが,日本
や韓国は49-50%が石油,ロシアは54%が天然ガスである。
化石燃料やゴミなどの燃焼は,CO2以外にダイオキシン類や 多環芳香族炭化水素(Polycyclic Aromatic Hydrocarbon;
PAH)類などの非意図的生成化学物質を含む種々の化学物質 を生成する。また,この地域では多くの種類の農薬も使用 されている。これら非意図的生成化学物質や使用した農薬 の一部は,大気中にも存在するが,その組成や量は,国の エネルギー事情や交通,産業の状況,科学技術レベルなど により大きく異なっている。ここでは紙面の制約があり,
主にPAH類について概説する。
2.PAH類の毒性
以前からいくつかのPAHが発癌性若しくは変異原性を示 すことが知られていた。国際癌研究機構(IARC)のリスト では,ベンゾ[
a
]ピレンがグループ 1 (carcinogenic to humans) に入っているほか,他の13種類のPAHがグループ 2A (probably carcinogenic to humans) 若しくはGroup 2B(possibly carcinogenic to humans)に入っている。さら に1-ニトロピレンや1,8-ジニトロピレンを含む8種類のニ トロ多環芳香族炭化水素(Nitropolycyclic Aromatic Hydrocarbon; NPAH)がGroup 2Bに入っている。
一方最近になって,PAH の水酸化体の中に,エストロゲ ン様活性或いは抗エストロゲン活性,抗アンドロゲン活性 を示すものがあることや,PAH のキノン体の中に,動物細 胞内で活性酸素種を生成して,強い細胞毒性を示すものが あることが明らかになった。これらの発見は,PAHや NPAH が癌以外の疾病とも関連する可能性を示唆しており,健康 影響に関する今後の重要な研究課題になっている。
3.東アジア諸国のPAH類の発生源と大気中存在様態 化石燃料が燃焼するとき,温度が高いほどニトロ化反応 が進行する。即ち,排出粉塵中の PAHに対するNPAHの濃 度比([NPAH]/[PAH])は,燃焼温度が 500-600℃の薪スト
ーブ,1100℃程度の石炭ストーブ,2700℃以上のディーゼ
ルエンジンの順に大きくなった。しかも,[NPAH]/[PAH]値 は,これまで発生源マーカーの一つとして使用されてきた PAH 同士の組成比より発生源毎の差が大きく,有効な指標 であることが明らかになった。
早川(金沢大)らは,日本,中国,韓国及びロシアの研 究者と協力して,東アジアの主要都市の大気を継続的にサ ンプリングして,PAH 類の分析を行っている。それによる と,日本の PAH 類の主要排出源は自動車であった。一方,
中国の都市では,PAH濃度が日本や韓国の都市より30~300 倍以上も高かったが,NPAH濃度の差はずっと小さく,主要
発生源は石炭燃焼施設であった。即ち,中国では南部を除 くと,冬季に暖房用石炭ボイラーから無処理の煙が大量に 排出される。PAH濃度は高いが,NPAH濃度は低く,これが 中国と日本の間で,都市大気汚染の内容が大きく異なる主 原因であることを明らかにした。しかし,最近の中国は自 動車の増加が目覚しく,石炭暖房を使用しない夏は,大気 中の成分組成から見ても自動車排ガス粉塵の影響が顕著に なってきている。急速な変化が予想される今後の追跡が重 要である。
4.PAH類の長距離輸送
日本海側で冬季に酸性雨雪が観測されたように,中国で 大量に発生したPAH類の一部は日本列島に長距離輸送され ると推定される。能登半島先端の旧国設酸性雨観測所で,
大気粉塵を連続捕集し,PAH 類を分析した研究によると,
そこでは,中国で石炭暖房を使用する冬季のみ大気中の3
~6 環PAHの濃度が上昇していた。
冬季の東アジアは典型的な西高東低の気圧配置をとり,
中国で発生したPAH類は北西風に乗って概ね3日間で日本 列島まで到達するが,夏は小笠原高気圧が支配的なため,
アジア大陸の空気団が日本に直接運搬される機会は極めて 少ない。後方流跡線の解析結果は,能登半島でPAH濃度が 高かった空気塊は2,3日かけて中国東北地方から来ており,
PAH類の組成は,日本国内の近隣都市より中国東北地方の 都市(瀋陽市)に類似していた。以上のことから,能登半 島で冬季に濃度が上昇したPAH類の殆どは,中国東北地方 から飛来していることが明らかにされた。
能登半島の大気中PAH類の濃度は,中国の暖房期では発 生源都市の一つである瀋陽市の1/300 以下,金沢市の約 1/10であるが,非暖房期の濃度レベルの5~10倍も高い。
アジア大陸から日本列島まで長距離輸送される間に,PAH 類が日本海上空でどんな化学反応を受けるかはまだ明らか ではない。日本海を越えて飛来するPAH類は, SO2や黄砂 と一緒に太陽光に照射され,海面から立ち上る水蒸気に浸 ることを考えると,日本海上は大きな反応相と言える。長 距離輸送中の化学物質反応の解析は,今後の重要課題の一 つである。
5.おわりに
東アジア地域の大気環境問題は一国だけで解決できない ことは,酸性雨や黄砂に関するこれまでの研究と対策を見 て明らかである。PAH 類について,徐々に明らかになって きた事実を踏まえると,今後,1) PAH類と一緒に長距離輸 送される物質や光,水蒸気などが,大気内反応や疾病発現 とどのように関連するか,2) 今後,中国など主要発生国で は,急速な大気質の変化が今後どうなるか,3) 汚染の著し い国の住民の健康影響の現状はどうか,都市毎に住民の健 康影響がどう異なるか,といった観点の研究は,国際的な 協力が不可欠で大気環境学会の役割も増すと思われる。