プリントのデータを画像として鮮明にするための世界史Ⅱ問題6
氏名
【14】2005 年 上智大学 文学部,総合人間科学部(社会学科),法学部(国際関係法学科)
次の文章を読み,空欄(1~25)について, おのおの選択肢(a~d)の中からもっとも適切な記号を選びなさい。正解がない場合はeを選びなさい。 ( 1 )のエンリケ航海王子は商人を使ってアフリカ西海岸の探検を行わせていたが,さらにジョアン2世の保 護のもと,( 2 )年に( 3 )が南端の喜望峰に達した。やがて( 4 )は4隻の艦隊を率いてこれを迂回して, ( 5 )年,ついにインド西岸の( 6 )に到達した。この経済進出はムスリム商人の妨害にあったが,ついには 中国の( 7 )に居住権をえるまでになった。この間日本にも種子島に鉄砲をつたえ,平戸に来航し,長崎で貿易 をおこなった。こうしたアジアの物産の直接取引は,人口わずか( 8 )の( 1 )の王室に莫大な利益をもたら し,当時の首都( 9 )は一時世界商業の中心となった。 それに一歩遅れてスペインでは,( 10 )年に女王イサベルが,( 11 )生まれの船乗りコロンブスの No.36 提案をうけいれ,( 12 )港から「インド」に向かう船団を送り出した。困難な航海の末,( 13 )に到着。これ がヨーロッパ人初の新大陸到達だった。( 14 )年,( 15 )人( 16 )はインドへの航海中,針路を誤って今日 のブラジルに漂着し,この地を( 15 )領とした。その後( 17 )人( 18 )の南アメリカ探検によって,この大 陸はアジアとは別であることが明らかになった。( 19 )人( 20 )の船団は,アメリカ大陸南端をへて太平洋を 横ぎり,( 20 )自身は( 21 )で殺害されたものの,史上最初の世界周航を実現した。 しかしながら,ヨーロッパ人による新世界「発見」にはすでに多くの疑問が寄せられている。はるか昔の紀元前, ( 22 )が『歴史』記述において,早くも( 23 )人がアフリカ大陸を一周したと記しているし,またいわゆるヴ ァイキングが 10 世紀ごろまでに北アメリカ大陸を「発見」していたことも確実視されている。さらに最近,ヨーロ ッパ人より1世紀も早く,明の( 24 )が世界周航したとする仮説も提出されている。彼は( 25 )帝に仕えたが, 帝の命を受け,1405 年以降数次にわたる大航海の途についた。その艦隊は当時において破格の巨大さで,1957 年南 京北西にある明代造船所「宝船廠」跡から,長さ 11 メートルの舵軸も発見された。ちなみに第7次航海では 61 隻 が出航,人員2万 7500 人で1隻当たり 450 人。コロンブスのサンタ・マリア号は乗員 50 人前後,後のガレオン船 でさえ 300 人前後にすぎなかった。こうした史実の見直しこそ,歴史学本来の醍醐味というべきであろう。 (1) a フランス b イタリア c ポルトガル d スペイン (2) a 1488 b 1492 c 1498 d 1500 (3) a バルトロメウ=ディアス b トスカネリ c マゼラン d ヴァスコ=ダ=ガマ (4) a バルトロメウ=ディアス b トスカネリ c マゼラン d ヴァスコ=ダ=ガマ (5) a 1488 b 1492 c 1498 d 1500 (6) a スリランカ b カリカット c ゴア d モルッカ諸島 (7) a 広州 b 寧波 c 南京 d 香港 e (8) a 50 万 b 150 万 c 250 万 d 350 万 (9) a グラナダ b カディス c バルセロナ d パロス e (10) a 1488 b 1492 c 1498 d 1500 (11) a フィレンツェ b ヴェネツィア c ジェノヴァ d バルセロナ (12) a グラナダ b カディス c バルセロナ d パロス (13) a カナリア諸島 b キューバ島 c ジャマイカ島 d サンサルバドル島(14) a 1492 b 1498 c 1500 d 1519 (15) a フランス b イタリア c ポルトガル d スペイン (16) a カブラル b バルボア c カボット d アメリゴ=ヴェスプッチ (17) a フランス b イタリア c ポルトガル d スペイン (18) a カブラル b バルボア c カボット d アメリゴ=ヴェスプッチ (19) a フランス b イタリア c ポルトガル d スペイン (20) a カブラル b バルボア c カボット d アメリゴ=ヴェスプッチ e (21) a ハワイ島 b ニュージーランド c グアム d フィリピン (22) a トゥキディデス b リヴィウス c ポリビオス d ヘロドトス (23) a ペリシテ b フェニキア c ギリシア d エジプト (24) a 班超 b 班固 c 鄭成功 d 和 (25) a 乾隆 b 万暦 c 正統 d 洪武 e
【15】 2005 年 同志社大学 文学部
文中の( ア )~( テ )については,〔語群〕から最も適切な語句を選んで,その番号を解答欄に記入しなさ い。ただし,語句の使用はそれぞれ1回限りとする。また,文中の《 A 》~《 D 》については適切な語句 を解答欄に記入しなさい。 15 世紀末から 16 世紀にかけて,大西洋を経由するヨーロッパ人の海外進出がはじまった。 十字軍以来,(10 アマルコ=ポーロ )の旅行記などに刺激されて,アジアの富や文化に対する関心が強まってい た。現実にイタリア商人は,香辛料を取引する(28 イ 東方)貿易で巨利をえていた。ポルトガルは,15 世紀の初 めころから(20 ウ アフリカ)西海岸の探検にのりだしていた。「航海王子」《 Aエンリケ 》は,イスラム世 界から吸収した天文知識や航海技術の研究を奨励しつつ,この探検活動をポルトガル王室の事業として推し進めた。 彼の死後,1488 年に《 Bバルトロメウ=ディアス 》がついにアフリカ南端の喜望峰に到達したのち,ヴァスコ =ダ=ガマはさらにこれを迂回し,1498 年にインドの(29 エ カリカット)に着いた。ライバルのポルトガルに先 をこされたスペインは,1492 年,(21 オ ジェノヴァ)生まれの船乗りコロンブスの船団を大西洋におくりだした。 アジアにいくには大西洋を西に航海するほうがはやいという地理学者《 Cトスカネリ 》の説を信じていた彼は, 2ヶ月余りの困難な航海のすえカリブ海に浮かぶ(1 カ サンサルバドル)島に到着した。1500 年,ポルトガル人(9 キ カブラル)は,インドへの航海中今日のブラジルに漂着し,この地をポルトガル領とした。その後イタリア人 (12 ク アメリゴ=ヴェスプッチ)の南アメリカ探検によって,コロンブス以来探検が進んだ土地が,アジアとは別 の大陸であることがあきらかになった。北方では,これより先,イギリス王ヘンリ7世の支援でイタリア人(31 ケ カボット)がニューファンドランドと北アメリカを探検した。また,1513 年にはスペイン人 (14 コ バルボア)がパナマ地峡を横断して太平洋を発見した。つづいてポルトガル出身の(4 サ マゼラン)は, スペイン王の命令で,香辛料の宝庫(38 シ モルッカ諸島)を目標に,1519 年から西方への大航海にのりだした。 彼は南アメリカ南端の海峡をとおって太平洋にでて西進し,(34 ス フィリピン)に達した。(4 サ マゼラン) 自身はここで戦死するが,残った部下はさらに航海を続け,アフリカまわりで 1522 年帰国した。 コロンブス来航以前のアメリカ大陸では,ベーリング海峡がまだアジアと地続きであった古い時代に,おそらく モンゴロイド系と思われる諸部族が断続的に渡来し,独自の文明を発達させていた。ユカタン半島を中心にピラミ ッド状の神殿や文字などをもつ(18 セ マヤ)文明がすでに栄えていたが,12 世紀ころメキシコ高原に進出した(16 ソ アステカ)族は,この先進文明を吸収しつつ,強力な帝国を形成した。さらに南アメリカのアンデス山地 では,13 世紀ころから(2 タ クスコ)を首都とする広大な(33 チ インカ)帝国が建設されていた。 スペイン王室が探検に続いておくりこんだ「征服者たち」(コンキスタドレス)は, №31 先住民インディオ(インディアン)の知らない大砲や馬をもった少数精鋭の軍隊で,たちまち先住民の諸国家をほろ ぼした。その一つとして,1533 年に(15 ツ ピサロ)は(33 チ インカ)帝国の内輪もめに乗じてこれをほろぼし た。その後スペインは,カリブ海諸島をふくむ南北アメリカの新領土に大々的な植民をおこない,1545 年に今日の ボリビア南部で発見された(25 テ ポトシ)などの豊かな銀山を先住民の奴隷労働によって開発し,莫大な富を手 にいれた。16 世紀のあいだに,新世界産の銀のヨーロッパへの流入はめざましく増加し,《 D 価格革命》とよ ばれるインフレ現象をひきおこした。 〔語群〕 1.サンサルバドル 2.クスコ 3.ジャワ島 4.マゼラン(マガリャンイス) 5.セビリャ 6.コルテス 7.ゴア 8.アメリカ 9.カブラル 10.マルコ=ポーロ 11.リスボン 12.アメリゴ=ヴェスプッチ 13.ベラクルス 14.バルボア 15.ピサロ 16.アステカ 17.アカプルコ 18.マヤ 19.フィレンツェ 20.アフリカ 21.ジェノヴァ 22.リマ 23.オルメカ 24.ロシア 25.ポトシ 26.ブラジル 27.大西洋 28.東方 29.カリカット 30.コロンビア 31.カボット 32.ヴェネツィア 33.インカ 34.フィリピン 35.イブン=バットゥータ 36.エスパニョーラ 37.バイア 38.モルッカ諸島 39.マカオ 40.テノチティトラン
【16】 2003 年 同志社大学 法学部
次の文章を読み,( イ )~( ニ )にはもっとも適当な語句を記入し,( a )~( s )にはもっとも適当 な語句を以下の語群から選び番号で(同一記号は同一語)記入しなさい。 15 世紀末から 16 世紀にかけて,ヨーロッパ人は外へむかってめざましい進出を開始した。イベリア諸国の場合, 海外進出をうながした原因のひとつとして,(12 a レコンキスタ)をつうじてはぐくまれた,異教徒征服への戦 闘的なキリスト教的精神がある。さらに,十字軍以来,マルコ=ポーロの著作(30 b 『世界の記述』)などによ って,地理的知識が広がる一方,遠洋航海を可能にする技術的進歩があった。ポルトガルの商人は,15 世紀の初め ころからすでに,アフリカ西岸の探検にのりだしていたが,この活動は,とりわけ「航海王子」(33 c エンリケ) の奨励により,おおいに進んだ。(33 c エンリケ)の後継者(34 d ジョアン2世)の時代から探検航海ははか どり,1488 年に( イ バルトロメウ=ディアス)がアフリカ南端の喜望峰に達したのち, (27 e ヴァスコ=ダ=ガマ)はこの岬を迂回してインド洋を横ぎり,1498 年,ついにインド西岸の (5 f カリカット)に到達した。 競争相手のポルトガルに一歩出おくれたスペインでは,1492 年,女王(35 g イザベル)が,コロンブスの提案をうけいれ,パロス港から「インド」にむかう船団をおくりだした。コロンブスは,大地は球形で,大西洋を西航 するほうが「インド」への近道であるという,フィレンツェの天文学者( ロトスカネリ )の説を信じ,70 余日の 困難な航海の末,「インド」ならぬ,カリブ海に浮かぶ(4 h サンサルバドル島)に到着した。1500 年,ポルト ガル人(26 i カブラル)はインドヘの航海中,針路をあやまって今日のブラジルに漂着し,この地をポルトガル 領とした。その後イタリア人(24 j アメリゴ=ヴェスプッチ)の南アメリカ探検によって,コロンブス以来探検が 進んだ土地が,アジアとは別の大陸であることがあきらかになった。1513 年にはスペイン人(17 k バルボア)が, パナマ地峡を横断して太平洋を発見した。北方では,これより先,イギリス王ヘンリ7世の支援でイタリア人(15 l カボット)がニューファンドランドと北アメリカを探検した。 1519 年,スペイン王室の命令でポルトガル人(18 m マゼラン)は,香辛料の特産地(6 n モルッカ諸島)を めざして西まわりの大航海に出発し,南アメリカ南端の海峡をへて太平洋を横ぎり,1521 年,フィリピンに達した。 フィリピンの名は,16 世紀の半ばに,当時はまだ皇太子であった後のスペイン国王( ハ フェリペ2世)にちなん で命名されたが,スペイン領となるのは,1565 年,(25 o レガスピ)がセブ島に上陸し,さらにルソン島の レガスピ=,64 年に国王よりフィリピン遠征隊の総督ならびに総司令官に任命され,4 隻の帆船と 380
名の部下を率いて太平洋を横断した。途中,サン・ルーカス号が船団から脱走したが,残る 3 隻は 65
年 2 月にフィリピン群島へ到着した。同年 4 月,セブ島に最初の植民地を建設,これを根拠地に周辺
諸島の征服を進めた。原住民の抵抗とポルトガルの妨害で征服事業は困難をきわめたが,71 年に
はイスラム教徒が支配するルソン島の海港都市マニラを占領して,ここを植民地の主都とした。
マニラを占領した後のことである。 16 世紀のはじめ,スペインの王室がアメリカ大陸諸地方におくりこんだ軍隊の指導者たちを(14 p コンキス タドレス)という。かれらは古い文明を持つインディオの諸王国をほろぼした。まず(22 q コルテス)が,1521 年,(8 r アステカ族)を破ってメキシコを征服した。ついで 1533 年,( ニ ピサロ)がインカ帝国の内輪もめ に乗じてこれをほろぼし,首都クスコを劫掠したのち,あたらしい首都(10 s リマ)を建設した。リマ=南アメリカ大陸西部,太平洋岸にあるペルーの首都で,同国最大の商工業都市。
〔語群〕 1.テノチティトラン 2.セイロン 3.アカプルコ 4.サンサルバドル島 5.カリカット 6.モルッカ諸島 7.チチメカ族 8.アステカ族 9.ケチュア族 10.リマ 11.マヤ 12.レコンキスタ 13.リソルジメント 14.コンキスタドレス 15.カボット 16.アルメイダ 17.バルボア 18.マゼラン 19.ドレーク 20.ホーキンズ 21.プレスター=ジョン 22.コルテス 23.ラス=カサス 24.アメリゴ=ヴェスプッチ 25.レガスピ 26.カブラル 27.ヴァスコ=ダ=ガマ 28.『三大陸周遊記』 29.『地理誌』 30.『世界の記述』 31.マルグレーテ 32.カルロス1世 33.エンリケ 34.ジョアン2世 35.イサベルプリントのデータを画像として鮮明にするための世界史Ⅱ問題7
氏名
【17】 2005 年 南山大学 経営学部
宗教改革に関するつぎの文を読み,以下の設問に答えなさい。 ドイツでは,1517 年(ア),ルター(22)が「九十五カ条の論題」を発表し,教皇による贖宥状の発行を強く批判した。 ルターは,ローマ教会当局と論争する過程で教皇や公会議の権威を否定したため,教皇から破門状をつきつけられ たが,これに屈することはなかった。教皇の盟友であった皇帝カール5世は,1521 年,ルターを 23 の帝国議会 に召喚して,所説の撤回を求めたが,ルターはこれも拒否した。ルターは,皇帝と対抗関係にあったザクセン選帝 侯(イ)フリードリヒの保護のもとで,『新約聖書』のドイツ語訳を完成した。ルターの説は,当時普及しはじめた活 版印刷術の助けもあって,急速に人びとの間にひろまっていった。ルターの改革に刺激された南ドイツの農民たち は,1524 年,農奴制の廃止などを求めて蜂起した。反乱はほどなく全国に波及し,ミュンツァー(ウ)が主導権をにぎ ると次第に急進化していったが,このドイツ農民戦争(24)は,結局,諸侯により鎮圧された。ルターの説は,領邦内 の教会勢力をおさえようとしていた諸侯の間にも急速に広まっていった。これらルター派の諸侯は, 25 同盟を 結成して皇帝派の諸侯と争ったが,けっきょく政治的妥協の形で 1555 年に両者のあいだで和議(26)が成立した。 ルターよりややおくれて,スイスでは,1523 年にジュネーヴ(エ)でツヴィングリ(27)が改革運動をおこした。ついで, フランスからスイスに亡命してきたカルヴァン(28)も長老制度(29)を定めるなどの改革運動を展開した。カルヴァン派 はやがてオランダ(30)などにも広がっていった。 〔設 問〕 (21) 文中の下線部(ア)~(エ)のうち,誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びなさい。エ (22) 「人は信仰によってのみ義とされる」という主張で知られるルターの著作をつぎのなかから選びなさい。 (ア) 『キリスト者の自由』 (イ) 『ドイツ国民に告ぐ』 (ウ) 『キリスト教綱要』 (エ) 『社会契約論』 (23) 空欄 23 に入る地名をつぎのなかから選びなさい。 (ア) アウグスブルク (イ) ヴォルムス (ウ) シュパイエル (エ) ヴィッテンベルク (24) ドイツ農民戦争に対してルターのとった態度の説明として正しいものをつぎのなかから選びなさい。 (ア) 最初から農民の反乱の鎮圧を求めつづけた。 (イ) 最初は農民に批判的であったが,後に農民を支持するようになった。 (ウ) 最初は農民に同情的であったが,後に農民の反乱の鎮圧を求めるようになった。 (エ) 最初から農民を支持しつづけた。 (25) 空欄 25 に入る語句をつぎのなかから選びなさい。 (ア) ハンザ (イ) ライン (ウ) ロンバルディア (エ) シュマルカルデン (26) この和議が結ばれた都市の富豪として有名なものをつぎのなかから選びなさい。 (ア) メディチ家 (イ) ハプスブルク家 (ウ) フッガー家 (エ) オルレアン家 (27) ツヴィングリに影響を与えた人文主義者をつぎのなかから選びなさい。 (ア) グロティウス (イ) エラスムス (ウ) スピノザ (エ) ルソー 活躍した年代から判断しよう(28) カルヴァンの説として正しいものをつぎのなかから選びなさい。 (ア) 勤労の成果として蓄財はゆるされると説いた。 (イ) 魂の救済はわれわれの努力次第であるとして勤勉を説いた。 (ウ) 営利活動は神の道にそむくものであるとして禁欲を説いた。 (エ) 神の栄光のためにささげる行為として浪費はゆるされると説いた。 (29) 長老制度の説明として正しいものをつぎのなかから選びなさい。 (ア) 教会員のあいだから年長の者を選んで司教とする制度 (イ) 教会員のあいだから信仰のあつい者を選んで牧師を補佐させる制度
牧師のほかに教会員から選出された一定数の長老presbyter が運営に参加し,それらの教会が地方ごと
に長老会を組織し,さらに数地方の長老会をもって大会がつくられ,その上に全国総会がおかれるとい
う,階層的な教会組織をつくっているのが特徴的である。
(ウ) 教会員のあいだから年長の者を選んで牧師を補佐させる制度 (エ) 教会員のあいだから信仰のあつい者を選んで司教とする制度 (30) オランダのカルヴァン派の呼称をつぎのなかから選びなさい。 (ア) ゴイセン (イ) プレスビテリアン (ウ) ユグノー (エ) ピューリタン【18】 2005 年 立教大学 社会学部(社会学科/産業関係学科)
次の文を読み,下記の設問A~Cに答えよ。 ( イ c.フランス)生まれのカルヴァンは,自国での迫害を逃れて,1536 年バーゼルで『キリスト教綱要』を 著した。これによって一躍名を知られるが,ジュネーヴに姿を現した時には土地と何の結びつきもない一異邦人に すぎなかった。バーゼルは宗教改革の中心地の一つとなっていたが,それに引きかえジュネーヴは,宗教改革の洗 礼を受けない司教座都市にとどまっていた。カルヴァンは,ルターに比べ,( ロc.信仰 )のみによって義とさ れるという考え方を論理的により徹底的に押し進めた。彼が力をこめて説いた教義に,神の意志の絶対性とこれへ の服従を説く予定説がある。この教えは1)ヨーロッパ各地で,当時の成長しつつあった商工業者層に受け入れられ, 彼らのなかに2)独特の職業労働への倫理的態度を生み出した。またカルヴァンは,3)ツヴィングリに比べても,教会 の都市権力からの独立をより強く主張し,妥協なき戦いを開始した。すなわち,上部から任命される司教を廃止し, 信仰・行状ともにすぐれた者を信徒代表として< あ長老 >に選出し,牧師を補佐させ,市民の生活を監視・指導 させた。世俗的権力であるジュネーヴ市参事会に戦いをいどみ,1555 年,参事会の選挙でカルヴァン派市民が勝利 をおさめ,都市(国家)に対する教会の優位を実現した。フランスでもカルヴァン派プロテスタントは増加し,商工 業発展の推進力となり,その拠点都市が各地に生まれた。プロテスタントへの改宗は有力貴族層にも及んだが,「支 配者の宗教がその地の宗教である」とするドイツの< い領邦教会 >制のような秩序は,フランスでは成立せず, 抗争はより複雑化した。諸侯領の連合体にすぎないドイツでは,それが帝国レベルの国民教会ではなく,領邦教会制という
形をとったのである。ルター派諸侯による領邦教会体制の組織は,スペイン王たる皇帝カール 5 世が,
フランスと呼応するオスマン・トルコ勢力のオーストリア侵入の危険に直面し,1527 年のシュパイヤー
帝国議会で彼らに政治的譲歩を余儀なくされたことから,いっそう促された。戦局の好転とともに,29
年の第 2 回シュパイヤー帝国議会で,皇帝側がこの譲歩を撤回したとき,ルター派諸侯は強く抗議し,
これがプロテスタントという呼称のおこりとなった(シュパイヤー国会)。その後,ルター派を旧教会に
引き戻そうとするすべての努力にもかかわらず,いったん根をおろした領邦教会体制を覆すことはも
はやできなかった。
そこには宮廷をめぐる勢力争いという側面もあったが,抗争は基本的には,絶対主義の確立をめざすカトリックの 国王勢力に対する貴族層の抵抗であり,後者がプロテスタント勢力に頼ったのである。1562 年のカトリック勢力に よるプロテスタントの殺害に端を発し,30 年間以上にわたって断続的に続いた( ハd.ユグノー戦争 )は,4)ス ペインなど外国の介入をも招いた。この間,1572 年には,< うサン=バルテルミ >の虐殺のような血なまぐさい 悲劇も起こる。『随想録(エセー)』の著者の( ニ c.モンテーニュ )は,これに衝撃を受け,自身は国王派の カトリックだったにもかかわらず,強く暴力を非難した。後に選ばれてボルドー市長になると,同市を両勢力の抗 争の場としないように奔走した。長い争乱は,プロテスタントの首領アンリ=ド=ナヴァールの( ホ b.1589) 年の国王即位,彼のカトリックへの改宗,ナントの勅令の公布により,ようやく終わりを迎える。プロテスタント にも礼拝の自由や公職就任が認められるが,カトリック教徒に比べ不平等が残り,( ヘ c.1685)年にはナント の勅令さえ廃止された。この時,多くのプロテスタントが国外に亡命し,フランスの産業発展に打撃を与えた。プ ロテスタントに完全に平等な市民権が認められるには.フランス革命をまたねばならなかった。 A.文中の空所(イ)~(ヘ)にあてはまる適当な語句を,それぞれ対応する次のa~dから1つずつ選び,その記号を マークせよ。 (イ) a.イングランド b.ネーデルラント c.フランス d.ボヘミア(ベーメン) (ロ) a.寛容 b.功績 c.信仰 d.理性 (ハ) a.三十年戦争 b.シュマルカルデン戦争 c.フロンドの乱 d.ユグノー戦争 (ニ) a.ボーダン b.モンテスキュー c.モンテーニュ d.ラブレー (ホ) a.1581 b.1589 c.1598 d.1600 (ヘ) a.1648 b.1661 c.1685 d.1715 B.文中の空所<あ>~<う>それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。 C.文中の下線部 1)~4)にそれぞれ対応する次の問1~4に答えよ。 1.ヨーロッパで,カルヴァン派プロテスタントが独自の教会制度を設立し,その国内(または地域内)でキリスト 教徒の多数派を占めるようになった国(または地域)はどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。 a.アイスランド b.スウェーデン c.スコットランド d.スペイン領ネーデルラント 2.これはどのような倫理的態度か,1行でしるせ。神から与えられた天職として勤労に従事することを尊重した。 3.ツヴィングリとその当時のスイスについての記述として正しいものを,次のa~dから1つ選び,その記号を マークせよ。 a.スイスはハプスブルク家支配から独立し,独立は国際的にも承認されていた b.彼の活動の拠点は,市民的合理主義をはぐくんだ商業都市チューリヒだった c.彼はルターと全く別個に宗教改革思想を形成し,ルターとは接触をもたなかった d.彼はカルヴァンと意見を戦わせながらも,スイスの宗教改革では協力し合った4.この戦争でスペインは,フランスのカトリック勢力を支援した。当時のスペインの状況に関する記述として正 しいものを,次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。 a.当時の国王はカルロス1世だった b.反宗教改革の結果,イエズス会の積極的活動が各方面でみられた c.ポルトガルの併合を企てたが,抵抗にあい,失敗に終わった d.レパントの海戦に敗れ,国運が傾き始めていた
【19】 2009 年 明治大学 政治経済
同じく 16 世紀の宗教改革といっても,ルター派,カルヴァン派,イギリス国教会の間にはさ
まざまな相違点がある。これらプロテスタント 3 派それぞれの,他の 2 派と比べての特徴を,
①教義ないしは教会組織,②伝播地域,③主たる支持層,という観点から,200 字以上 250 字
以内で説明しなさい。
(解答は横書きとし,括弧や句読点は 1 マス 1 字に数え,また数字を用いる場合には 1 マス 2
字とする。)
ルター派は福音主義を唱え,諸侯の支配権を認める領主協会制が採用し,北ドイツ・北欧諸
国に広がり,諸侯・市民・農民などに支持された。カルヴァン派も福音主義だが,国家権力の
介入を拒否し,信徒から選ばれた長老が協会運営に大きな役割を果たす長老制度を採用し
て,主に西ヨーロッパに広がり,予定説により勤勉な市民階層に多く支持層を獲得した。イギ
リス国教会は国王を首長とし,教義面はカルヴァン派,制度面はカトリック式という折衷的性
格を持ち,イングランドから英植民地に広がり,貴族や大地主層に信徒を獲得した。
プリントのデータを画像として鮮明にするための世界史Ⅱ問題8
氏名
【20】 2005 年 南山大学 外国語学部・法学部
つぎの文を読み,以下の設問に答えなさい。 16 世紀フランスではカルヴァン派の新教徒であるユグノーの勢力が増大し,旧教徒との対立が激化した。国王 21 と母后カトリーヌ=ド=メディシスの治世下において,1562 年にユグノー戦争(22)という 30 年以上にわたる 内戦が勃発した。スペインが旧教側に,イギリスが新教側につくなど,国外からの干渉もあり国内は大混乱に陥っ た。1572 年にはサンバルテルミーの虐殺が起き,数多くの新教徒が殺された。その後アンリ4世(23)がユグノー戦争 を終結させ,王国の中央集権化に努めた。続くルイ 13 世の時代には宰相リシュリューが,国内では貴族やユグノー の勢力をおさえ,国外では三十年戦争(24)に干渉して,王権のさらなる強大化をすすめた。ルイ 14 世が幼少にして 即位すると,宰相マザランが,対外的にはウェストファリア条約(25)でフランスの優位を確保し,国内では 26 を鎮圧し,絶対王政をさらに堅固なものにした。マザランの死後,親政を開始したルイ 14 世(27)のもとで, フランス絶対王政は最盛期を迎え,国内では華やかな古典主義(28)文化が開花した。 しかしスペイン継承戦争(29)をはじめとする数多くの戦争(30)は財政を圧迫し,国民に大きな負担となった。 〔設 問〕 (21) 空欄 21 に入る人名を選びなさい。 (ア) シャルル7世 (イ) シャルル8世 (ウ) シャルル9世 (エ) シャルル 10 世 (22) ユグノー戦争中に起こった出来事ではないものを選びなさい。 (ア) スペインがレパントの海戦でオスマン帝国艦隊に勝利した。 (イ) アウグスブルクの宗教和議が成立した。 (ウ) ネーデルラント連邦共和国の独立が宣言された。 (エ) イギリスがスペインの無敵艦隊を破った。 (23) アンリ4世に関連する記述として誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びなさい。 (ア) ユグノーの指導者であったが,カトリックに改宗した。 (イ) ブルボン朝を開いた。 (ウ) ナントの勅令を発した。 (エ) フランス学士院(アカデミー=フランセーズ)を創設した。 ルイ 13 世時代のリシュリューが創設したもの (24) 三十年戦争に関連する記述として誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びなさい。 (ア) きっかけはべーメンの新教徒が起こした反乱であった。 (イ) スペインは旧教側にたって参戦した。 (ウ) フランスは新教側にたって介入した。(エ) 傭兵隊長ヴァレンシュタインが新教側にたって活躍した。 (25) ウェストファリア条約に関連する記述として誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びな さい。 (ア) スウェーデンは北ドイツに領土を獲得した。 (イ) イギリスはジブラルタルを獲得した。 ジブラルタルをイギリスがスペインからかくとくしたのはスペイン継承戦争のユトレヒト条約である。 (ウ) 神聖ローマ帝国の分裂状態は決定的となった。 (エ) スイス・オランダの独立が正式に認められた。 (26) 空欄 26 に入る語句を選びなさい。 (ア) ジャックリーの乱 (イ) フロンドの乱 (ウ) ヴァンデーの農民反乱 (エ) ワット=タイラーの乱(27) ルイ 14 世に関連する記述として誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は(オ)を選びなさい。 (ア) コルベールを登用し重商主義政策を進めた。 (イ) ナントの勅令を廃止した。 (ウ) ヴェルサイユ宮殿を建造させた。 (エ) 三部会を開催した。 (28) つぎのうち,古典主義の作家でないものを選びなさい。 (ア) コルネイユ (イ) モリエール (ウ) ラブレー (エ) ラシーヌ (29) スペイン継承戦争に関連するつぎの記述の下線部のうち,誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合 は(オ)を選びなさい。 スペインでは国王カルロス2世(ア)の死によりスペイン・ハプスブルク家が断絶すると,ルイ 14 世の孫である フェリペ5世(イ)が即位したが,オーストリア・イギリス・オランダ(ウ)などがこれに異を唱え,スペイン継承戦争 が起こった。結局,パリ条約(エ)で,スペイン・フランス両国が合同しないという条件でブルボン家のスペイン王 位継承が認められた。 (30) ルイ 14 世がおこなった戦争を選びなさい。 (ア) 南ネーデルラント継承戦争 (イ) オーストリア継承戦争 (ウ) イタリア戦争 (エ) 百年戦争
【21】 2003 年 明治大学 商学部
次の各文章(A~E)をよく読み,文中の空欄(1~10)に最も適する語句を記入しなさい。 A 17 世紀後半のフランスでは,オランダ,イギリスとの競争により産業と貿易が不振に陥っていた。このため, 財務総監であった 1 コルベール は重商主義政策をとって国内の商工業を育成し,特権貿易会社の振興,王 立マニュファクチュアの設立と手工業ギルドの統制,保護などを実行した。特に,この特権貿易会社の一つであ ったフランス東インド会社は,1604 年に設立され経営不振であったが,彼によって 1664 年に再組織されている。 同社は,1670 年代に獲得したポンディシェリや 2 シャンデルナゴルという都市を基地としてイギリスと張 りあった。 B 三十年戦争が終わった 17 世紀半ば以降,オーストリア,プロイセンの2大勢力を筆頭に中小の領邦国家がひし めき合ったドイツの地では,多くの独立した自由都市が点在していた。ナポレオン戦争終結後に開かれたウィー ン会議で,ドイツは 35 の君主国と4自由市に整理され 3 ドイツ連邦 が組織された。ウィーン会議(1814 ~15)に先立ってプロイセンでは近代化と統一化のため制度改革が行なわれていた。この改革の主導者として, ティルジット条約後に首相となったシュタイン(任 1807~08)と彼の方向を推進した 4 ハルデンベルク (任 1810~22)があげられる。 C スペイン継承戦争後,ユトレヒト条約及びラシュタット条約によりオーストリア・ハプスブルク領となったベ ルギーは,フランス革命後にフランスに占領され,1815 年からはネーデルラント王国としてオランダの一部とな った。1830 年には, 5 七月 革命と連動し,オランダに反抗して独立を宣言し,翌年立憲制の王国となっ た。新国家の首長としてザクセン=コーブルク=ゴータ公がベルギー王に迎えられ, 6 レオポルド 1世と 称した。 D 産業革命によって,大規模な工場制機械工業が広範に展開したイギリスでは,都市部に大量の賃金労働者が集 中してきた。こうした人口増加にともなう穀物需要の増大に刺激され,大地主は大規模な農業経営を目的に 7 第2次囲い込み〔エンクロージャー〕という土地併合運動を実施した。以後,農業経営は地主から広大な土 地を借りた借地農が賃金労働者を使って行なう資本主義経営となっていった。同時に,大麦・クロヴァー小麦・ かぶらの順に輪作する 8 ノーフォーク 農法が普及し,生産性を高めた。E 人口の都市集中,手工業者の没落,劣悪な労働条件,そのもとでの婦人や子供の労働,恐慌や失業という社会 問題が産業革命の進展により発生してきた。このため,人道的ないし道徳的立場から労働条件の改善を目的とし た社会政策が実施され始めた。イギリスでは 1802 年や 1833 年に年少労働者などの労働時間を制限した 9 工場 法がだされ,労働条件はしだいに改善されていった。また 1834 年には,エリザベス1世時代の 1601 年に集大成された 10 救貧 法の改正が行なわれ,労働問題が国家的見地からとりあげられた。
【22】
2003 年 早稲田大学 法学部
次の文章を読み,以下の問いに答えなさい。解答は所定欄にマークしなさい。 16 世紀中葉,ネーデルラントはスペイン王のaフェリペ二世が統治し,新教徒たちにカトリックを強制し,重税 や商業特権を制限するなど,「スペイン人の狂暴」ともいわれた恐怖政治を繰り広げた。ネーデルラントの中小貴 族は一体となってこれに強く抗議し,商工業者たちも加わって,スペインからの独立を求める戦争が起こった。毛 織物輸出などで栄えた河港市( ア アントワープ )を含むネーデルラント南部 10 州は途中で脱落したが,北部7 州は( イ ユトレヒト)同盟を結成し,1581 年に独立を宣言した。1609 年にはスペインとの休戦条約が成立し,b 三十年戦争後のcウェストファリア条約によって,ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立は国際的に認めら れた。 こうして独立が達成された頃,オランダは海外での経済活動に積極的に乗り出し,ヨーロッパで最も富裕な国の ひとつとなっていた。オランダ東インド会社の設立を皮切りに,( ウ バタヴィア )を拠点に東南アジアに本格 的に進出し,さらに南アフリカや新大陸にもd植民地を建設した。アムステルダムは,国際金融都市として栄え, オランダは世界の経済システムの中枢となった。こうした経済的繁栄を基盤に,e学問や文化も隆盛した。しかし, イギリスの( エ 航海法 )発布により,オランダの中継貿易は打撃を受け,このためf英蘭戦争となったが,オ ランダは敗北し,17 世紀後半には,しだいにその世界覇権にかげりがみえてきた。 1 aフェリペ二世に関する以下の記述のうち,明白な誤りを含むものをひとつ選びなさい。 ① 彼の妻メアリ一世は,祖国イギリスで反カトリックに対する厳しい迫害を行い,「血のメアリ」とよ ばれた。 ② 地中海の覇権をめぐってイスラーム勢力のオスマン帝国とはげしく対立し,シチリア島西方における レパント沖の海戦で勝利した。レパント Lepanto はギリシア中西部コリントス湾の北岸にあり,パトラス湾に通じる海峡の入口を扼
す漁港の町ナウパクトス N⊂vpaktos のイタリア語名。
③ ペルーのポトシ銀山などアメリカ大陸の海外領土から大量の銀を獲得し,財源は豊かであったが,オ ランダ独立戦争の鎮圧には膨大な戦費がかさんだ。 ④ 宗教改革後のヨーロッパにおけるカトリック世界の頂点にたつ人物として,フランスのユグノー戦争 にも介入した。 2 ( ア )と( イ )に入る都市名の組み合わせで正しいものをひとつ選びなさい。 ① アムステルダム ― カルマル ② アントワープ ― ユトレヒト ③ ハーグ ― カルマル ④ ロッテルダム ― ユトレヒト 3 b三十年戦争について,以下の記述のうち明白な誤りを含むものをひとつ選びなさい。 ① ベーメンの新教徒たちが,信仰の自由を拒否する皇帝に対して反乱を起こし,これにドイツの新旧両 派が介入したことで三十年戦争が始まった。② ルター派のデンマークは,同じく新教のイギリスとオランダから賞金援助を受けドイツに侵入した。 ③ スウェーデン王グスタフ=アドルフは,近代戦術でもって皇帝軍・旧教諸侯連合軍に加わり,オラン ダ軍をやぶった。 ④ フランス・ブルボン王朝はカトリックであるにもかかわらず,ハプスブルク家との対立関係から新教 側について参戦した。 4 以下の項目のうち,cウェストファリア条約の内容に合わないものをひとつ選びなさい。 ① アウグスブルクの宗教和議の確認 ② カルヴァン派の信仰の公認 ③ スイスの独立の公認 ④ アルザス地方のドイツ帰属の確認 5 ( ウ )に入る地名を選びなさい。 ① バタヴィア ② ベンガル ③ スリナム ④ ゴア 6 d植民地を建設したとあるが,オランダの植民地に関して,以下の記述から明白な誤りを含むものをひとつ 選びなさい。 ① 1623 年,モルッカ諸島からフランス勢力をしめ出して諸島全体を支配下におき,香料貿易を独占した。 ② 北アメリカ大陸の植民地の拠点として,ハドソン川河口にニューアムステルダムを建設した。 ③ ケープ植民地は,19 世紀になるとイギリス領となり,オランダ系の移民であるブーア人とイギリスと の間に激しい衝突が起こった。 ④ 東南アジアにおけるオランダ支配は 20 世紀半ばまで続き,インドネシア独立においても武力介入した。 7 e学問や文化も隆盛した点について,以下の記述のうち明白な誤りを含むものをひとつ選びなさい。 ① 「国際法の父」といわれるオランダの法学者グロティウスは,『海洋自由論』を著し,貿易や航海の 国際的自由を主張した。 ② 「夜警」をはじめ数多くの作品をのこしたレンブラントは,光と闇の近代的な油彩技法を打ち出した。 ③ フランスの哲学者であるデカルトは,晩年のほとんどをオランダで活躍し,『パンセ』などを著した。
パンセはフランスの思想家パスカルの遺著。《瞑想録》との訳語もある。
デカルト(フランス人) 『方法叙説』 演繹法 『われ思う、ゆえにわれあり』
④ フェルメールは,オランダの都市家屋の室内を好んで描き,「手紙を読む娘」など市民の生活風俗を 伝えている。 8 ( エ )に入る最も適当な語を選びなさい。 ① 印紙法 ② 航海法 ③ 審査法 ④ 穀物法 9 f英蘭戦争に関する以下の記述のうち,明白な誤りを含むものをひとつ選びなさい。 ① この戦争は,1652 年から3回に及び,ウェストミンスター条約で講和が成立した。 ② この直後,マレー半島はイギリスの勢力圏,ジャワ島・スマトラ島はオランダの勢力圏とする協約が 結ばれた。 ③ クロムウェルは,この戦争で権力を確立し,護国として独裁政治を行った。 ④ オランダは,この戦争と同じ時期にフランスのルイ十四世からも進攻を受け,甚大な被害をこうむっ た。プリントのデータを画像として鮮明にするための世界史Ⅱ問題9
氏名
【23】 2002 年 明治大学 経営学部
次の文章a,b,cを読んで下記の設問に答えなさい。 a.絶対主義の成立のためには,諸侯が自立性を徐々に失い,国王による中央集権化が進められることが前提とな る。フランスではすでに 12 世紀から 13 世紀にかけての( A1 フィリップ 2 世)や,その百年後の ( C2 フィリップ 4 世)などの治世に,国王への権力集中の傾向が見られる。しかし絶対王政が本格的に展開し始 めるのは,各国が領土をしだいに統一し,また宗教改革に伴う混乱を克服する 16 世紀半ば以降のことである。 イギリスでは 1534 年の( C3 首長法)によって宗教上の自立が宣言され,これは 1559 年に(ア)エリザベス1 世が発した( A4 統一法)で確定した。エリザベス1世の治世はイギリスにおける絶対主義の最盛期とされて いる。16 世紀前半のフランスはイタリア支配をめぐる戦争に明け暮れ,特に( D5 フランソワ 1 世)はオスマ ン帝国と提携して神聖ローマ皇帝と争ったが,( A6 カトー-カンブレジ)条約でイタリア支配を断念した。ま た 16 世紀半ばからはユグノーと呼ばれた1559年,アンリ2世とスペイン王フェリペ2世,そしてフランスと結んでいたイギリス女王エリザベス1世との
間にカトー・カンブレジの和約が結ばれ,幕を閉じることになったが,この結果,ミラノはドイツ皇帝に,ナポ
リはスペインに帰するなど,ハプスブルク帝国の優位が確立し,フランスのイタリア支配政策は失敗に終
わった。
(イ)カルヴァン派が広まり,カトリック教徒との対立が激化してついに(ウ)ユグノー戦争に発展したが,アンリ4世 の登場によりようやく和解が成立した。 宗教改革前後の時代は,一方では精神性に満ちた芸術が開花した時代でもあり,(エ)フランドルでは( E7ブリ ューゲル )らが,ドイツでは「四使徒」で名高い( E8 デューラー)らが,またイギリスでは,エラスムスの 肖像画などで有名な( B9 ホルバイン)などが活躍している。またイタリアではヴェネツィア派に属する ( B10 ティツィアーノ)などがルネサンス絵画の最後の時代を飾った。 設問1.前の文章の( 1 )から( 10 )までの空欄に最も適した言葉を次の語群から一つ選び,その記号をマ ークしなさい。 (1) A.フィリップ2世 B.ルイ9世 C.フィリップ4世 D.シャルル7世 E.シャルル8世 (2) A.フィリップ2世 B.ルイ9世 C.フィリップ4世 D.シャルル7世 E.シャルル8世 (3) A.統一法 B.一般祈・書 C.首長法 D.信仰箇条 E.審査律 (4) A.統一法 B.一般祈祷書 C.首長法 D.信仰箇条 E.審査律 (5) A.ルイ9世 B.フィリップ4世 C.フィリップ6世 D.フランソワ1世 E.ルイ 13 世 (6) A.カトー=カンブレジ B.パ リ C.アーヘン D.フベルトゥスブルク E.トリアノン(7) A.ルーベンス B.ファン=アイク兄弟 C.ファン=ダイク D.ワトー E.ブリューゲル (8) A.クラナハ B.ホルバイン C.レンブラント D.ファン=ダイク E.デューラー (9) A.クラナハ B.ホルバイン C.レンブラント D.ファン=ダイク E.デューラー (10) A.ジョット B.ティツィアーノ C.レオナルド=ダ=ヴィンチ D.ラファエロ E.ブルネレスキ 設問2.下線部(ア)の国王の治世のイギリスについてあてはまらないものを次から一つ選び,その記号をマーク しなさい。 A.東インド会社が設立された。 B.ドレークらを用いて海上の覇権強化に努めた。 C.軍人ローリーらを用いて北アメリカの植民地建設を行った。 D.インドヘの進出の拠点としてボンベイを獲得した。
ポルトガルはここに要塞と教会を建て,ゴアの補助港とした。1661 年にポルトガル王妹カタリーナがイギリ
ス王チャールズ 2 世に嫁いだとき,ムンバイーは贈物としてイギリスに委譲された。68 年にはイギリス東イ
ンド会社に年 10 ポンドで貸与され,同会社はムンバイーをスラト商館の管轄下に置き,城塞の建設と来住
者への交易および信仰の自由の保障などを行った。
E.オランダの独立を援助した。 設問3.下線部(イ)の人物の主著を次から一つ選び,その記号をマークしなさい。 A.キリスト者の自由 B.神国論 C.キリスト教綱要 D.告白録 E.愚神礼賛 設問4.下線部(ウ)の戦争の間に起こったできごとを次から一つ選び,その記号をマークしなさい。 A.トレント公会議が始まった。 B.シュマルカルデン同盟が結成された。 C.アウグスブルクの宗教和議が成立した。 D.イエズス会が創設された。 E.オランダ独立戦争が始まった。 設問5.下線部(ウ)の戦争の時代に王権擁護の説を唱えた人物を次から一人選び,その記号をマークしなさい。 A.ボーダン B.ボシュエ C.フィルマー D.ホッブズ E.マザラン設問6.下線部(エ)の地域に関する次の説明のうち,適切でないものを次から一つ選び,その記号をマークしな さい。 A.北海に面した,ほぼ今日のベルギーにあたる地域である。 B.フランドル伯は,中世にはフランス国王の家臣であった。 C.中世以来ガン(ヘント),ブリュージュなどの都市が羊毛工業で栄えた。 D.カトリック教徒が多く,オランダ独立戦争からは途中で脱落した。 E.1830 年にハプスブルク家領(→オランダ)から独立してベルギー王国が誕生した。 設問7.15 世紀末以降,世界や宇宙についてのヨーロッパ人の知識は大きく広がった。次のできごとを年代順に 並べた場合,3番目にくるものを選び,その記号をマークしなさい。 A.ケプラーが惑星運行の法則を発見した。
惑星の運動に関してケプラーが発見した三つの法則で,惑星運動の法則ともいう。第 1 法則と第 2 法則は
《新天文学》(1609)の中で,また第 3 法則は《世界の調和》第 5 巻(1619)で発表された。
B.トスカネリが地球球体説を唱えた。トスカネリのコロンブスあて書簡 2 通(日付なし)が収められており,1 通は 1474 年のマルティネス F. Mart
ines(ポルトガル顧問官)あて書簡と同文であるが,キサイ(杭州)をリスボンの西 1625 レグア(約 9000km。
当時算定の地球全周値の 1/3)の所にあると見積もり,そのことを示す海図を添えると書かれている。
C.ヴァスコ=ダ=ガマがカリカットに到達した。 1498 年 D.ガリレイの「天文対話」が出版された。《新科学講話》とならぶ G. ガリレイの主著で,1632 年に出版された。正確な表題は《プトレマイオスとコペ
ルニクスの二大世界体系についての対話 Dialogo sopra i due massime sistemi delmondo,Tolemaico
e Copernicano》であるが,日本では一般に《天文対話》と呼ぶのが慣例となっている。
E.コロンブスが現在のバハマ諸島に到達した。1492年8月3日,サンタ・マリア号,ピンタ号,ニーニャ号の3隻に120名の乗組員を乗せて,パロスの港から
念願の航海に出発した。カナリア諸島に停泊したのち,9月6日,ゴメラ島を離れ,ほぼ北緯28ツ 線上を一
路西へと航行,初めて経験する磁針偏差やサルガッソー海の不安を克服して,10月12日,グアナハニと
呼ばれたバハマ諸島中の一島(現,ワットリング島)に到着した。
b.ブルボン朝時代を迎えたフランスでは徐々に王権の強化が進み,(オ)ルイ 14 世親政の時代に絶対主義の最盛期を 迎える。 一方,ステュアート朝時代のイギリスでは,王の絶対的支配に対する批判が強まり,1628 年に議会は ( D11 権利の請願)を可決した。王政復古期の 1679 年に出された( C12 人身保護法),名誉革命の際に新国 王が即位に先立って承認した( E13 権利の宣言)によって,イギリスは他国に先がけて議会政治への道を歩む ことになる。 ドイツでは三十年戦争によって国土が荒廃し,また(カ)ウェストファリア条約によって諸侯のほぼ完全な自立が 認められて,ハプスブルク家の皇帝権は名目的なものにすぎなくなった。しかし 1699 年の ( D14 カルロヴィッツ)条約によってオスマン帝国に対する優位を確立したハプスブルク家は,東欧での覇権 の確立に向かうことになる。1700 年にスペインでブルボン家が王位についたことに端を発したスペイン継承戦争は,1713 年の(キ)ユトレヒ ト条約および 1714 年のラシュタット条約で終結し,ヨーロッパ西部での紛争はひとまず終息することになる。 17 世紀から 18 世紀初頭にかけて,ヨーロッパではバロック芸術が全盛期を迎えた。フランドル派では,雄大 な構図で知られる( A15 ルーベンス)やイギリス宮廷で活躍した( C16 ファン=ダイク)などが有名であり,
ファン=ダイク=32年渡英してチャールズ1世の宮廷画家となり,騎士(ナイト)に叙せられ,英王室の人々
と貴族たちの肖像を多数制作してロンドンに没した。
またスペインでは王族の肖像画で有名な( E17 ベラスケス)や,17 世紀スペイン最大の画家。セビリャに生まれる。
その弟子の( C18 ムリリョ)などが傑作を生み出した。17 世紀後半のスペイン盛期バロック絵画を代表する画家。セビリャに生まれ,同地で没
また哲学の分野ではフランスのデカルトやパスカル,オランダの( E19 スピノザ),ドイツの( B20 ライプ ニッツ)などによって近代的な世界観の基礎が築かれた。 設問8.前の文章の( 11 )から( 20 )までの空欄に最も適した言葉を次の語群から一つ選び,その記号をマ ークしなさい。 (11) A.大諫奏 B.権利の章典 C.人身保護法 D.権利の請願 E.権利の宣言 (12) A.大諫奏 B.権利の章典 C.人身保護法 D.権利の請願 E.権利の宣言 (13) A.大諫奏 B.権利の章典 C.人身保護法 D.権利の請願 E.権利の宣言 (14) A.アドリアノープル B.キャフタ C.ティルジット D.カルロヴィッツ E.サン=ステファノ (15) A.ルーベンス B.ファン=アイク兄弟 C.ファン=ダイク D.レンブラント E.ブリューゲル (16) A.ルーベンス B.ファン=アイク兄弟 C.ファン=ダイク D.レンブラント E.ブリューゲル (17) A.エル=グレコ B.ゴ ヤ C.ムリリョ D.ベルニーニ E.ベラスケス (18) A.エル=グレコ B.ゴ ヤ C.ムリリョ D.ベルニーニ E.ベラスケス (19) A.フィヒテ B.ライプニッツ C.カント D.グロティウス E.スピノザ (20) A.フィヒテ B.ライプニッツ C.カント D.グロティウス E.スピノザ設問9.下線部(オ)の国王の治世のフランスについて,あてはまらないものを次から一つ選び,その記号をマー クしなさい。 A.コルベールが財務総監に就任した。 B.東インド会社が再興された。 C.カナダにケベック植民地が建設された。
1534 年セント・ローレンス川をさかのぼったフランス人 J. カルティエは,沿岸をフランス領と宣言したが,
恒久的植民地建設は 1608 年のシャンプランによるケベック要塞を待たねばならず,いわゆる植民者が到
来したのはようやく 1617 年であった。毛皮交易とカトリック布教を支柱とした北アメリカのフランス植民地ニ
ューフランスは,ケベックを中心として拡大した。
D.ラシーヌやモリエールらの劇作家が活躍した。 E.フランス科学アカデミーが創設された。 設問 10.下線部(オ)の国王のもとで王権神授説を唱えた人物を次から一人選び,その記号をマークしなさい。 A.ボーダン B.ボシュエ C.フィルマー D.ホッブズ E.マザラン 設問 11.下線部(カ)の条約についての次の説明のうち,適切でないものを一つ選び,その記号をマークしなさい。 A.アウグスブルクの宗教和議が確認された。 B.カルヴァン派が新たに公認された。 C.スウェーデンがバルト海南岸に領土を獲得した。 D.アルザスがハプスブルク領となった。 E.スイスおよびオランダの独立が承認された。 設問 12.下線部(キ)の条約でイギリスが獲得した領土として適切でないものを次から一つ選び, その記号をマークしなさい。 A.ルイジアナ B.ミノルカ島 C.ジブラルタル D.ニューファンドランド E.ハドソン湾地方 c.ドイツでは,18 世紀に入ると,(ク)プロイセン王を名乗るようになったホーエンツォレルン家の勢力が拡大し始 めた。一方,( E21 カール 6 世)の時代に女性の継承権をも正式に定めたハプスブルク家は,オーストリアや ハンガリーを中心に帝国形成へと向かい,オーストリア継承戦争と(ケ)七年戦争の二度にわたってプロイセンと衝 突した。プロイセンやオーストリアでは,18 世紀半ば以降,啓蒙絶対主義的な改革が進められたが,専制的な君 主権を前提とするその改革には当初から限界があった。 18 世紀半ばから後半にかけての華麗な芸術様式はロココ様式と呼ばれ,代表的な画家には ( D22 フラゴナール)らがいる。フランスの画家。フランス南部のグラス Grasse に生まれ,7~8 歳のころパリに出る。ロココ最後の画
家としての感性,また先ロマン主義的な傾向,自然の光への目は,19 世紀以降再認識されている。
またこの時代には自然科学の発達が顕著となり,( A23 リンネ)らの科学者が活躍した。スウェーデンの植物学者
学名のはじまりで,この方法は二命名法と呼ばれるようになった。これに
より学名をただ一つ正名とし,他の呼名は異名とし,1 種に 1 名と定めることになった。
設問 13.前の文章の( 21 )から( 23 )までの空欄に最も適した言葉を次の語群から一つ選び,その記号をマ ークしなさい。 (21) A.カール5世 B.マクシミリアン1世 C.ヨーゼフ2世 D.マリア=テレジア E.カール6世 (22) A.ドラクロワ B.クールベ C.アングル D.フラゴナール E.セザンヌ (23) A.リンネ B.ファラデー C.ホイヘンス D.ボイル E.ハーヴェー 設問 14.下線部(ク)の国に関連する次の説明のうち,適切でないものを一つ選び,その記号をマークしなさい。 A.先住プロイセン人は,バルト海沿岸に住んでいたゲルマン系の民族である。 B.13 世紀にドイツ騎士団がこの地域に入植し,バルト海に沿って領土を拡大した。 C.15 世紀にポーランドおよびリトアニアに敗れて勢力を後退させた。 D.宗教改革が起こるといちはやくルター派に改宗した。 E.17 世紀前半にホーエンツォレルン家領となった。 設問 15.下線部(ケ)に関連して,この戦争および,これと同時に生じた新大陸での戦争やその結果に関する次の 記述で,適切でないものを一つ選び,その記号をマークしなさい。 A.ロシアは当初,オーストリア側に立って参戦した。 B.新大陸での戦いはジョージ王戦争と呼ばれる。 C.プロイセンによるシュレジエン(シレジア)領有が確定した。 D.カナダがイギリス領となった。 E.イギリスがスペインからフロリダを獲得した。