論
文
﹁
西
大
寺
十
代
長
老
清
算
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考
︱
︱
舎
利
信
仰
と
宗
教
活
動
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︱
舩
田
淳
一
は じ め に ︱ 中 世 南 都 律 宗 の 研 究 史 と 清 算 ︱ 鎌 倉 中 期 の 戒 律 復 興 以 降 、 南 都 の 律 宗 は 西 大 寺 流 ︵ 叡 尊 ︶ ・ 唐 招 提 寺 流 ︵ 覚 盛 ︶ ・ 戒 壇 院 流 ︵ 覚 盛 の 弟 子 円 照 ︶ の 三 派 が 教 線 を 拡 大 す る 。 こ の 他 に 京 都 に は 泉 涌 寺 ・ 戒 光 寺 を 中 心 と す る ﹁ 北 京 律 ﹂ が 勢 力 を 張 り 、 さ ら に 南 都 の 戒 律 復 興 に 影 響 を 受 け て 、 叡 山 に は ﹁ 戒 家 ﹂ と よ ば れ る 戒 律 復 興 僧 団 が 登 場 す る 。 こ の よ う に 多 彩 な 展 開 を 見 せ る 中 世 律 宗 だ が 、 特 に 研 究 蓄 積 が 厚 い の は や は り 南 都 で あ る 。 近 年 の 仏 教 学 で は 、 蓑 輪 顕 量 氏 の 大 著1 が 戒 律 復 興 期 の 教 学 研 究 を 大 き く 進 展 さ せ た 。 歴 史 学 で は 、 概 ね 叡 尊 ・ 忍 性 に よ る 宗 教 活 動 に 多 く の 関 心 が 注 が れ て 来 た が 、 そ う し た 中 で 、 既 定 の 叡 尊 ︱ 忍 性 ラ イ ン と は 異 な る 門 下 へ の 注 目 と し て 、 追 塩 千 尋 ﹁ 叡 尊 没 後 の 西 大 寺 ︱ 二 代 長 老 信 空 と そ の 周 辺 を め ぐ っ て ︱ ﹂ は 貴 重 な 成 果 で あ る2 。 追 塩 氏 に よ れ ば 、 信 空 の 時 代 は 、 国 分 寺 再 興 事 業 の 推 進 や 、 西 大 寺 の 鎮 護 国 家 寺 院 と し て の 側 面 の 教 化 、 そ し て 弟 子 の 文 観 に 代 表 さ れ る 政 治 活 動 活 発 化 の 萌 芽 が 見 ら れ る な ど 注 目 す べ き 時 期 で あ る と い う 。 ま た 文 観 の み な ら ず 律 僧 の 政 治 活 動 、 特 に 祈 祷 を 通 じ た 権 力 者 と の 関 係 に つ い て は 、 細 川 涼 一 ﹁ 三 条 大 宮 長 福 寺 尊 鏡 と 唐 招 提 寺 慶 円 ︱ 後 醍 醐 天 皇 と 南 都 律 僧 ︱ ﹂ に よ っ て 研 究 が 進 展 し た3 。 ま た 松 尾 剛 次 氏 によ っ て 、 叡 尊 以 降 の 西 大 寺 流 の 地 方 展 開 も 、 具 体 的 に 明 ら か に さ れ つ つ あ る4 。 叡 尊 後 の 西 大 寺 流 の 様 相 を 解 明 し て ゆ く こ と は 、 現 在 進 行 形 の 緊 要 な 課 題 で あ る と 言 え よ う5 。 そ こ で 小 稿 で は 南 北 朝 期 に 西 大 寺 十 代 長 老 を 務 め た 彦 証 房 清 算 ︵ 一 二 八 八 ∼ 一 三 六 二 ︶ に 光 を 当 て た い 。 こ れ ま で 研 究 史 上 の 清 算 は 無 名 に 近 い 存 在 で あ り 、 若 干 の 言 及 と 史 料 紹 介 が な さ れ た 以 外6 、 個 別 研 究 は 皆 無 で あ っ た 。 だ が 最 近 、 仏 教 学 の 側 か ら 、 清 算 の 教 学 的 特 質 に つ い て の 考 察 が な さ れ 、 南 都 律 僧 で あ り な が ら 、 天 台 的 戒 律 観 に 極 め て 近 い も の で あ っ た こ と が 明 ら か に な っ て き た 。 全 三 部 作 の 大 谷 由 香 ﹁ 南 北 朝 期 お け る 律 宗 義 に つ い て ﹂ は 、 清 算 晩 年 の 著 作 ﹃ 霊 峰 記 ﹄ を 翻 刻 し 、 緻 密 な 分 析 を 加 え る こ と で 、 天 台 系 の 戒 律 ︵ 円 頓 戒 ︶ と の 関 係 を 論 じ る 労 作 で あ り7 、 凝 然 や 湛 睿 に 偏 り が ち で あ っ た 復 興 期 以 降 の 南 都 律 学 研 究 の 新 展 開 と し て 重 要 で あ る 。 そ の 意 味 で 天 台 的 戒 律 観 に 接 近 し て い っ た 清 算 と は 、 法 相 的 戒 律 観 に 立 脚 す る と い う 点 で 教 学 的 に は 対 立 す る 、 同 時 期 の 西 大 寺 僧 で あ る 定 泉 ︵ 信 空 の 高 弟 ︶ や 、 そ の 弟 子 の 英 心 に よ る 著 作 ︵ ﹃ 三 聚 浄 戒 四 字 抄 ﹄ ﹃ 菩 薩 戒 問 答 洞 義 抄 ﹄ な ど ︶ の 分 析 も 、 深 め ら れ る 必 要 が あ ろ う 。 唐 招 提 寺 の 覚 盛 と 共 に 南 都 の 戒 律 復 興 を 成 し 遂 げ 西 大 寺 流 の 祖 と な っ た 叡 尊 は 、 周 知 の よ う に 非 人 救 済 ほ か の 社 会 事 業 に 熱 心 で あ る 。 ま た 道 俗 貴 賤 へ の 授 戒 活 動 や 、 モ ン ゴ ル 襲 来 時 の 調 伏 修 法 を は じ め と し て 種 々 の 祈 祷 な ど を 中 心 と す る ﹁ 儀 礼 僧 ﹂ 的 な 側 面 が 強 く 、 そ の 著 作 も 顕 密 の 法 会 ・ 儀 礼 に 関 わ る も の を 多 く 含 ん で お り 、 戒 律 を め ぐ る 教 学 の 方 面 で は 個 性 的 と は 評 し 難 い 部 分 が あ る 。 そ れ と 比 較 す れ ば 、 確 か に 清 算 の 思 想 ・ 教 学 の 特 殊 性 は 際 立 っ て い る 。 た だ し 思 想 ・ 教 学 面 以 外 で の 清 算 へ の ア プ ロ ー チ は 、 む ろ ん い ま だ 皆 無 と い う 状 況 で あ る 。 よ っ て 小 稿 で は 、 さ ら に 未 紹 介 の 史 料 を 用 い て 、 清 算 の 宗 教 活 動 に つ い て 考 察 し て ゆ く 。 具 体 的 に は 、 ① 興 福 寺 南 円 堂 修 補 に 際 し て の 仏 舎 利 の 感 得 ︵ 清 算 の 舎 利 信 仰 の 問 題 ︶ 、 ② 南 円 堂 感 得 舎 利 の 諸 国 国 分 寺 塔 婆 へ の 納 入 計 画 と 院 宣 等 の 獲 得 ︵ 国 分 寺 興 隆 の 問 題 ︶ 、 ③ 長 老 を 勤 め た 大 覚 寺 不 壊 化 身 院 と 武 家 祈 祷 と し て の 八 幡 本 地 供 の 勤 修 ︵ ﹁ 舎 利 ︱ 八 幡 ﹂ 信 仰 の 問 題 /
清 算 と 室 町 幕 府 の 問 題 ︶ と い う 舎 利 信 仰 を 軸 に し た 、 三 点 を め ぐ っ て 分 析 を 行 う 。 史 料 的 限 界 は あ る も の の 、 こ う し た 公 武 権 力 と 関 わ る 清 算 の 宗 教 活 動 を 、 現 時 点 で 出 来 う る 限 り 究 明 し 、 既 に 確 立 さ れ た 律 学 者 ・ 思 想 家 と し て の 像 に 、 新 た な 側 面 を 肉 付 け る こ と で 、 清 算 像 は さ ら に 豊 か な 輪 郭 を 結 ぶ こ と に な る で あ ろ う 。 一 、 新 た な 清 算 像 に む け て ︱ 清 算 伝 に お け る 問 題 の 所 在 ︱ こ こ で 先 ず 清 算 の 略 伝 を 確 認 し よ う 。 近 世 の 編 纂 物 で あ る が ﹃ 律 苑 僧 宝 伝 ﹄ と ﹃ 本 朝 高 僧 伝 ﹄ が 基 本 と な り 、 文 面 も ほ ぼ 同 一 と 言 っ て よ い8 。 こ こ で は ﹃ 本 朝 高 僧 伝 ﹄ の ﹁ 和 州 白 毫 寺 沙 門 清 算 伝 ﹂ を 引 用 す る9 。 釈 清 算 、 字 彦 証 、 受 戒 波 羅 蜜 於 惣 願 盛 公 、 学 識 広 莫 、 声 名 洋 溢 、 接 先 師 武 、 開 法 於 南 京 白 毫 寺 、 嘉A 暦 二 年 、 修 南 円 堂 、 方 作 荘 飾 、 大 聚 赤 金 、 有 一 団 銅 、 陶 冶 不 融 、 算 怪 使 冶 工 碎 之 、 有 銅 蓮 華 、 華 内 盛 舎 利 千 余 顆 、 光 明 奪 目 、 事 聞 於 朝 廷 、 延B 文 間 、 薫 西 大 、 弘 訓 四 霜 、 又 受 洛 西 大 覚 寺 主 之 招 、 為 衆 振 塵 柄 、 貞 治 元 年 中 冬 十 四 日 順 世 、 春 秋 七 十 有 五 、 生C 平 著 述 、 扶 樹 宗 猷 、 有 三 宗 綱 義 、 持 犯 綱 義 、 梵 網 古 迹 綱 義 、 菩 薩 戒 綱 義 、 三 聚 綱 義 、 四 薬 綱 義 、 戒 体 章 綱 義 等 若 干 巻 、 賛D 曰 、 設 利 羅 者 、 法 身 之 所 表 、 秘 在 一 切 処 、 若 能 三 学 清 均 、 則 応 次 随 処 、 而 顕 現 焉 、 算 公 銅 中 得 之 、 此 戒 徳 威 也 、 以 上 の 内 容 に 基 づ き 補 足 を 加 え つ つ 、 清 算 の 生 涯 を 概 観 し て お く 。 ま ず 当 初 は 白 毫 寺 に 住 し 、 定 盛 惣 願 に 師 事 し た こ と が 分 か る 。 徳 田 明 本 氏 の ﹃ 律 宗 概 論 ﹄ 所 収 の 法 脈 図10 に よ れ ば 、 惣 願 は 叡 尊 の 高 弟 た る 信 空 の 弟 子 と な っ て い る の で 、 清 算 は 叡 尊 の 曾 孫 弟 子 と な る 。 だ が 尊 経 閣 文 庫 蔵 ﹃ 関 東 往 還 記 ﹄ ︵ 天 正 五 年 ︿ 一 五 七 七 ﹀ 写 ︶11 の 裏 書 律 系 譜 の ﹁ 表 無 表 色 章 血 脈 相 承 次 第 ﹂ ︵ 第 十 二 表 ︶ に 、 ﹁ 宗 願 上 人 白 毫 ﹂ と し て 、 信 空 と 共 に 所 見 す る 叡 尊 の 高 弟 と な っ て い る こ と か ら す れ ば 、 清 算 は 叡 尊 の 孫 弟 子 に 当 た る 。 と も か く 清 算 は 西 大 寺 流 の 僧 侶 と し て ス タ ー ト し た わ け で あ る 。 た だ し 白 毫 寺 は 建 武 二 年 ︵ 一 三 三 五 ︶ の ﹃ 南 都 白 毫 寺
一 切 経 縁 起 ﹄ に よ れ ば 叡 尊 の 再 興 と さ れ る が 、 二 代 長 老 は 円 照 の 弟 子 で あ る 道 照 で あ る 。 ﹃ 円 照 上 人 行 状 ﹄ に よ れ ば 、 戒 壇 院 再 興 以 前 に 円 照 自 身 も こ こ に 住 し て い る し 、 道 照 の 他 に も 円 照 門 下 が 次 々 に 入 寺 し て い る 。 よ っ て 再 興 後 暫 く の 間 の 白 毫 寺 は 必 ず し も 西 大 寺 流 に 固 定 化 さ れ な い 律 院 で あ り 、 戒 壇 院 流 の 影 響 も 強 か っ た と 思 わ れ る 。 追 塩 氏 に よ れ ば 、 白 毫 寺 再 興 は 叡 尊 と 戒 壇 院 流 の 律 僧 と の 共 同 作 業 で あ り 、 実 際 の 初 代 長 老 ︵ な い し そ れ に 準 ず る 存 在 ︶ は 円 照 の 実 兄 た る 聖 守 で あ っ た ろ う と い う12 。 ま た 簡 略 な 近 世 の 僧 伝 に は 見 え な い が 、 清 算 は 三 十 歳 の 時 に は 、 室 生 寺 に 住 し て い る こ と が 確 認 さ れ 、 円 照 門 下 の 上 足 で あ る 忍 空 に 師 事 し て い た こ と が 分 か る ︵ こ の 点 に つ い て は 後 述 ︶ 。 そ し て ﹃ 十 業 綱 義 ﹄ ︵ 下 ︶13 の 奥 書 に よ る と 三 十 歳 代 半 ば 頃 に は 、 戒 壇 院 の 管 理 下 に あ っ た 東 大 寺 の 知 足 院 で 、 凝 然 の 弟 子 の 禅 爾 に 華 厳 を 学 ん で い る 。 白 毫 寺 ・ 室 生 寺 ・ 知 足 院 で の 修 学 は 、 清 算 と 戒 壇 院 流 と の 浅 か ら ざ る 関 係 を 示 す も の で あ り 、 彼 の 思 想 形 成 を 考 え る 上 で 重 要 で あ る14 。 そ し て 傍 線 ︵ C ︶ に 見 る ご と く 清 算 に は 多 く の 著 述 が あ っ た 。 こ こ に は 七 件 ほ ど ピ ッ ク ア ッ プ さ れ て お り 、 そ の 中 の ﹃ 持 犯 綱 義 ﹄ は 散 逸 し た よ う で あ る が 、 清 算 に は 全 体 で 三 十 点 近 く の 著 述 が 確 認 さ れ ︵ 真 偽 未 決 含 む ︶ 、 大 部 分 は 金 沢 文 庫 や 東 大 寺 な ど に 写 本 が 現 存 す る も の の 、 既 に 翻 刻 さ れ て い る も の は ご く 一 部 に 留 ま る の で あ る15 。 間 違 い な く 一 流 の 学 僧 で あ り 、 凝 然 に 次 ぐ 大 著 述 家 と の 評 価 も な さ れ て い る16 。 そ し て 暦 応 三 年 ︵ 一 三 四 〇 ︶ の ﹃ 帰 敬 儀 口 決 抄 ﹄ は 、 大 覚 寺 に お け る 清 算 の 講 律 の 記 録 で あ る が17 、 こ の 頃 ︵ 五 十 歳 頃 ︶ に は 大 覚 寺 に 移 住 し て お り 、 同 寺 内 に 所 在 し た 西 大 寺 末 寺 た る 不 壊 化 身 院 の 長 老 職 を 勤 め る こ と と な る 。 こ こ で は お よ そ 二 十 年 を 過 ご し て お り 、 清 算 の 生 涯 に お け る 特 に 重 要 な 拠 点 が 大 覚 寺 で あ っ た 。 最 終 的 に は 傍 線 ︵ B ︶ か ら も 分 か る よ う に 、 西 大 寺 長 老 に 就 任 す る 。 ﹁ 延 文 年 間 ﹂ と あ る が 、 ﹃ 西 大 寺 代 々 長 老 名 ﹄18 に よ れ ば 延 文 五 年 ︵ 一 三 六 〇 ︶ の こ と で あ り 、 少 な く と も そ の 二 年 前 か ら は 西 大 寺 で の 活 動 が 確 認 で き る 。 当 時 の 西 大 寺 は 、 興 福 寺 の 法 相 宗 僧 侶 ︵ 官 僧 ︶ か ら な る 白 衣 方 と 、 律 僧 ︵ 遁 世 僧 ︶ か ら な る 黒 衣 方 が 寺 内 に 共 住 し て い た が 、 西 大 寺 文 書 の ﹁ 西 大 寺 領 森 屋 荘 条 々 置 文 ﹂ ︵ 延 文 三 年 ︶ 、 ﹁ 西 大 寺 領 森 屋 荘 年 貢 支 配 置 文 ﹂ ︵ 同 ︶ 、 ﹁ 西
大 寺 新 池 管 領 并 井 料 米 等 置 文 ﹂ ︵ 延 文 四 年 ︶ に は 、 黒 衣 方 の ﹁ 奉 行 ﹂ ﹁ 綱 維 ﹂ の メ ン バ ー と し て 、 英 心 ら と 共 に 清 算 も 署 判 し て い る19 。 法 相 宗 の 伝 統 的 な 戒 律 観 の 影 響 が 強 い 西 大 寺 に お い て 、 天 台 化 し た か の よ う な 思 想 傾 向 を 見 せ る 清 算 が 長 老 の ポ ス ト に 就 き 、 彼 と 同 年 齢 と 考 え ら れ20 、 法 相 的 戒 律 観 を 継 承 し た 英 心 が 長 老 と な ら な か っ た こ と は 、 聊 か 気 に な る 点 で は あ る が 、 西 大 寺 の ト ッ プ に 登 り 詰 め て 程 な く 、 清 算 は 貞 治 元 年 に 、 そ の 生 涯 を 終 え る 。 な お ︵ B ︶ で は 大 覚 寺 の 名 が 西 大 寺 の 後 に 出 て く る が 、 西 大 寺 長 老 就 任 後 も 大 覚 寺 門 跡 に 招 請 さ れ て 講 律 を 行 っ た こ と が あ っ た の で あ ろ う 。 生 涯 数 度 に 亘 っ て 拠 点 を 移 し た こ と で も あ り 、 諸 寺 を 歴 遊 す る 学 僧 と い う イ メ ー ジ が 浮 き 上 が る 。 た だ し 清 算 の 宗 教 活 動 は 、 律 学 と い う 面 で の み 捉 え ら れ る も の で は 決 し て な い 。 清 算 伝 で 注 目 す べ き は 、 む し ろ 傍 線 ︵ A ︶ の 部 分 で あ る 。 嘉 暦 二 年 ︵ 一 三 二 七 ︶ に 興 福 寺 南 円 堂 を 修 補 し た 際 に 、 千 粒 を 超 え る ほ ど の 仏 舎 利 を 感 得 す る と い う 奇 瑞 が あ っ た の で あ る 。 舎 利 の 感 得 こ そ が 清 算 と い う 僧 侶 を 特 色 付 け て い る こ と は 、 彼 に 奉 げ ら れ た 傍 線 ︵ D ︶ の 賛 を 見 れ ば 明 瞭 で あ る 。 設 利 羅 ︵ 舎 利 ︶ は 法 身 の 象 徴 で あ っ て 、 あ ら ゆ る 場 に 秘 在 し て お り 、 三 学 に 勝 れ た も の は 、 そ れ を 感 得 で き る の だ と い う 。 近 世 史 料 と は 言 え 、 律 僧 た る 清 算 の ﹁ 戒 徳 ﹂ は 、 律 学 者 と し て の 姿 よ り も 、 舎 利 信 仰 に お い て 称 揚 さ れ て い る の だ 。 こ の こ と は 無 視 で き な い 。 興 福 寺 南 円 堂 の 修 補 と い う 事 績 が 、 実 は 非 常 に 重 要 で あ っ た こ と を 見 落 と し て は な ら な い 。 し か も 傍 線 ︵ A ︶ に よ れ ば 、 舎 利 感 得 の 一 件 は 朝 廷 の 耳 に ま で 達 し た と さ れ て い る 。 後 世 の 伝 記 で あ る し 、 こ れ は 果 た し て 事 実 で あ ろ う か 。 或 い は 高 僧 に 付 随 し が ち な 説 話 ・ 伝 承 の 類 で あ ろ う か 。 実 は こ の こ と を 歴 史 的 に 裏 付 け る 史 料 が 、 数 点 ば か り 伝 存 し て い る の で あ る 。 清 算 の 舎 利 の 感 得 や 、 公 家 ・ 武 家 と の 関 係 も 確 認 可 能 で あ る し 、 そ こ か ら 大 き な 宗 教 構 想 の 存 在 し た こ と も 明 ら か と な る の で あ る 。 ﹃ 十 業 綱 義 ﹄ に は 、 ﹁ 今 当 花 洛 動 乱 之 節 、 聊 為 静 心 水 之 随 縁 、 任 老 念 之 記 憶 、 重 費 紙 墨 者 也 。 一 門 之 風 流 学 宗 既 雪 消 、 老 愚 待 旦 夕 、 後 見 亦 無 望 ﹂ と い う 奥 書 が あ っ て 、 大 谷 氏 は ﹁ 動 乱 の 京 都 で 律 宗 の 学 風 が 既 に 消 え 、 清 算 一 人 が 孤 軍 奮 闘 し て い た 様 子 を う か が う
こ と が で き る ﹂ と 言 う21 。 さ ら に 敷 衍 し て 言 え ば 、 心 を 静 め て 著 述 に 専 念 す る と い う こ と で あ る か ら 、 南 北 朝 動 乱 を 見 つ め な が ら も 、 自 身 は 争 乱 期 の 世 相 を 一 歩 退 い た 位 地 か ら 律 学 の 伝 持 に 努 め る と い う 、 正 に 学 者 的 な 態 度 を 髣 髴 と さ せ る 。 確 か に 清 算 は 若 き 日 よ り 諸 寺 で 戒 律 の み な ら ず 華 厳 も 学 び 、 ま た 後 述 す る よ う に 真 言 密 教 も 修 得 し て い る 。 生 涯 研 鑽 を 怠 ら ず 独 特 の 教 学 を 組 上 げ た 学 僧 に は 違 い な い が 、 一 方 で 舎 利 信 仰 を 利 用 し て 南 北 朝 動 乱 に 呼 応 し た 宗 教 活 動 も 展 開 し て い た こ と を 、 以 下 に 未 紹 介 史 料 を 用 い つ つ 論 じ て ゆ く 。 二 、 清 算 に よ る 舎 利 感 得 と そ の 背 景 ① 関 連 史 料 の 紹 介 で は ま ず 興 福 寺 南 円 堂 修 補 に 際 し て の 、 大 量 の 舎 利 感 得 の 経 緯 の 確 認 か ら 始 め よ う 。 西 大 寺 文 書 の 中 に 、 そ れ ほ ど 詳 細 な も の で は な い が 、 ﹃ 興 福 寺 南 円 堂 宝 形 鋳 冶 出 現 御 舎 利 記 録 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ ︶ と 題 さ れ た 、 清 算 の 手 に な る 記 録 ︵ 草 稿 本 の 写 し か と 思 わ れ る ︶ が 存 し て い る 。 自 筆 で あ る か 否 か は 判 断 で き な い が 、 便 宜 上 、 五 段 に 区 分 し て 以 下 に 掲 出 す る22 。 ︵ A ︶ 右 興 福 寺 南 円 堂 者 、 神 慮 有 由 之 梵 閣 、 霊 験 無 双 之 尊 容 也 、 春 日 大 明 神 忝 現 老 翁 之 形 、 築 数 丈 之 方 壇 、 弘 法 大 師 為 励 巧 近匠 之 態 、 建 八 角 之 円 堂 、 内 安 八 臂 不 空 、 以 顕 権 現 之 本 地 、 上 懸 二 五 円 鏡 以 写 尊 神 之 影 像 、 加 之 繞 中 台 宝 形 安 八 種 摩 尼 、 八 葉 九 尊 悉 住 羅 恒 曩 三 昧 、 四 海 八 皆 蒙 当 伽 藍 之 福 田 、 凡 厥 棟 梁 椽 柱 之 構 、 模 最 極 甚 深 々 之 密 場 、 彩 画 図 像 之 餝 、 無 非 即 事 而 真 之 玄 底 矣 、 ︵ B ︶ 而 嘉 暦 二 年 二 月 十 五 日 、 為 宝 形 鋳 冶 、 相 尋 銅 類 、 商 人 賛 持 旧 銅 之 中 有 一 団 銅 、 洋 蕩 流 蕩 、 其 相 不 明 、 即 怪 見 之 、 金 銅 八 葉 宝 蓮 花 中 、 奉 納 千 余 粒 仏 舎 利 、 相 好 厳 儼 、 然 曽 不 毀 損 、 雖 有 種 々 奇 瑞 、 不 遑 記 翰 墨 、 尋 其 根 元 本 所 累 代 之 重 宝 也 云 々 、 ︵ C ︶ 仍 蒙 奉 請 之 厳 命 、 已 備 拝 覧 畢 、 而 本 一 千 粒 内 、 六 十 六 粒 諸 国 国 分 寺 塔 婆 本 尊 、 三 十 六 粒 安 置 極 楽 寺 、 五 粒 返 納 醍 醐 、 以 上 々 方 沙 汰 、 又 任 旧 記 之 教 、 奉 納 円 堂 宝 形 、 現 在 八 百 二 十
一 粒 、 ︵ D ︶ 爰 満 寺 学 侶 群 議 曰 、 仏 化 方 略 遍 機 感 之 所 □ 、 舎 利 出 現 、 併 吾 寺 之 福 田 也 、 安 置 之 、 為 万 代 亀 鏡 、 崇 敬 之 、 祈 四 海 泰 平 云 々 、 ︵ E ︶ 然 則 本 所 縦 雖 致 競 望 、 任 出 現 由 緒 、 安 置 興 福 寺 中 院 、 欲 備 尊 神 法 楽 矣 、 仍 勒 状 如 件 暦 応 二 年 十 月 日 沙 門 清 算 近 世 の 清 算 伝 に 、 鎌 倉 末 の 嘉 暦 二 年 の こ と と し て ﹁ 修 南 円 堂 ﹂ と あ っ た が 、 ︵ B ︶ に よ れ ば 、 具 体 的 に は そ の 年 の 二 月 十 五 日 に 、 南 円 堂 の 屋 根 を 飾 る 宝 形 、 い わ ゆ る 擬 宝 珠 を 鋳 冶 し た と い う 。 恐 ら く 擬 宝 珠 が 破 損 し た の で 、 新 た に 鋳 造 し た の で あ ろ う 。 南 円 堂 は 実 に 豪 壮 な 六 角 堂 で 、 現 在 も 巨 大 な 擬 宝 珠 が 大 空 に 向 け て 金 色 の 輝 き を 放 っ て い る 。 よ っ て 銅 材 を 求 め た 所 、 あ る 商 人 が 大 き な 銅 の 塊 を 齎 し た 。 以 下 は 文 意 が 聊 か 不 明 瞭 だ が 、 そ れ を 融 か し た 所 、 奇 妙 な 状 態 に な り 、 怪 し ん で 見 て み る と 、 中 か ら ﹁ 金 銅 八 葉 宝 蓮 花 ﹂ 、 つ ま り 蓮 華 の 台 座 に 安 置 さ れ た 形 の 如 意 宝 珠 が 現 れ 、 さ ら に そ の 内 部 に 舎 利 が 納 め ら れ て い た 、 と い う こ と の よ う で あ る 。 こ れ は ︿ 宝 珠 形 舎 利 容 器 ﹀ と 考 え て よ い 。 ち な み に 先 の 清 算 伝 で は 銅 の 塊 が 融 け な か っ た の で 割 っ て み た 所 、 中 か ら 舎 利 が 出 現 し た と さ れ て い た 。 そ の 舎 利 は 様 々 な 奇 瑞 を 現 し た と い う 。 そ し て こ の 舎 利 は ﹁ 本 所 累 代 之 重 宝 ﹂ で あ っ た も の だ 、 と 言 わ れ て い た よ う だ 。 続 く ︵ C ︶ で は 、 舎 利 を 奉 請 す る よ う 命 が 下 っ た よ う だ が 、 そ の 主 体 は 明 記 さ れ て い な い 。 そ の 奉 請 分 と は 別 に 、 千 粒 の 内 か ら 、 六 十 六 ヵ 国 の 国 分 寺 の 塔 に 一 粒 づ つ 納 め る こ と と し 、 鎌 倉 に お け る 西 大 寺 流 の 拠 点 た る 極 楽 寺 に も 三 十 六 粒 を 安 置 し 、 醍 醐 寺 に 五 粒 を 返 納 す る と あ る 。 国 分 寺 塔 婆 へ の 奉 納 に つ い て は 、 後 に 論 ず る よ う に 光 厳 上 皇 の 院 宣 や 、 足 利 直 義 の 消 息 を 発 見 す る こ と が で き た の で 、 そ う し た 計 画 の 存 在 が 史 料 的 に 立 証 で き る 。 ま た 醍 醐 寺 へ の 返 納 と い う こ と か ら す れ ば 、 本 所 と は 醍 醐 寺 を 指 す の だ ろ う か 。 ︵ E ︶ に も 、 さ ら に 本 所 が 舎 利 を 要 求 し た と あ る 。 た だ し 如 何 な る 意 味 で 真 言 宗 の 醍 醐 寺 が 、 興 福 寺 ︵ 或 い は 南 円 堂 ? ︶ の ﹁ 本 所 ﹂ で あ る の か 判 然 と し な い23 。 と も あ れ 、 こ こ に 現 れ て い る 舎 利 信 仰 が 、 真 言 密 教 的 な 舎 利 信 仰 で あ る こ と に は 、 清 算 の 修 学 歴 ︵ 特 に 室 生 寺
で の ︶ と も 関 わ っ て 注 意 を 要 す る 。 ︵ A ︶ に よ れ ば 、 南 円 堂 は 春 日 神 が 老 翁 に 化 身 し て 築 壇 し 、 そ こ に 真 言 宗 の 開 祖 で あ る 空 海 が 八 角 の 円 堂 を 建 立 し て 、 さ ら に は 八 臂 の 不 空 羂 索 観 音 を 、 春 日 神 の 本 地 仏 と し て 安 置 し た と い う 。 こ れ は よ く 知 ら れ た 南 円 堂 創 建 縁 起 で あ る 。 そ れ に 続 け て 、 本 尊 で あ る 観 音 の 頭 上 、 つ ま り 南 円 堂 の 天 井 に 二 十 五 も の 円 鏡 が 懸 け ら れ て お り 、 ﹁ 以 写 尊 神 之 影 像 ﹂ と あ る か ら 、 春 日 神 の 本 地 で あ る 観 音 を 映 し 出 し て い た 、 或 い は 鏡 自 体 が 春 日 神 像 を 刻 ん だ ﹁ 御 正 体 ﹂ で あ っ た 、 と い う よ う な 状 態 が 窺 え る 。 さ ら に ﹁ 八 種 摩 尼 ﹂ = 如 意 宝 珠 が 安 置 さ れ 、 胎 蔵 界 曼 荼 羅 の 大 日 如 来 と 、 そ れ を 中 心 に 配 置 さ れ た 四 仏 四 菩 薩 と の 総 称 で あ る ﹁ 八 葉 九 尊 ﹂ ︵ 中 台 八 葉 院 ︶ も 、 何 ら か の 形 で 祀 ら れ て い た も の と 思 わ れ る 。 か つ て 詳 細 に 論 じ た ご と く 、 法 相 宗 を 標 榜 す る 顕 教 寺 院 た る 興 福 寺 の 中 で 南 円 堂 は 、 空 海 伝 承 が 示 す よ う に 真 言 密 教 的 な 空 間 で あ っ た 。 そ し て ﹃ 覚 禅 抄 ﹄ 他 、 著 名 な 中 世 密 教 儀 軌 の ﹁ 不 空 羂 索 観 音 法 ﹂ の 項 目 に は 、 必 ず 南 円 堂 の 本 尊 観 音 と そ の 縁 起 が 説 か れ て お り 、 真 言 僧 に と っ て 不 空 羂 索 観 音 と 言 え ば 、 そ れ は 南 円 堂 様 と 呼 ば れ る 形 式 の 不 空 羂 索 観 音 を 指 し た と い っ て 良 い 程 で あ る24 。 正 に 清 算 の 言 う ご と く ﹁ 最 極 甚 深 々 之 密 場 ﹂ だ っ た の で あ る 。 そ の よ う な 春 日 信 仰 と 結 ば れ た 密 教 的 な 南 円 堂 の 宝 形 鋳 造 に 際 し て 、 舎 利 が 出 現 し た の で あ る 。 そ れ は 幾 ら か 分 割 さ れ た 後 、 大 部 分 は 興 福 寺 に 留 め 置 か れ 四 海 の 泰 平 を 祈 る ︵ D ︶ と 共 に 、 当 然 な が ら 春 日 神 へ の 法 楽 に も 供 さ れ た の で あ る ︵ E ︶ 。 ② 西 大 寺 流 律 宗 に お け る 舎 利 ︵ 宝 珠 ︶ 信 仰 こ の 記 録 は な に ぶ ん 短 編 で あ る が 、 重 要 な 情 報 を 含 ん で い る 。 特 に 国 分 寺 塔 婆 へ の 舎 利 奉 納 は 、 西 大 寺 流 に よ る 国 分 寺 興 隆 の 事 業 や 、 草 創 期 室 町 幕 府 の 宗 教 政 策 と し て 安 国 寺 と 共 に 著 名 な 利 生 塔 の 存 在 を 想 起 さ せ ず に は お か な い の だ が 、 ま ず は 清 算 に よ る 舎 利 感 得 と い う 出 来 事 が 、 ど の よ う な 信 仰 や 観 念 の 仕 組 み に 支 え ら れ て 現 出 し た も の で あ っ た の か 、 そ の 背 景 を 分 析 し て み る 。 ま ず 西 大 寺 流 と 清 算 と の 関 係 か ら 考 え よ う 。 叡 尊 に よ る 舎 利 感 得 ︵ 自 然 涌 出 ︶ は 、 彼 の 自 伝 で あ る ﹃ 感 身 学 正 記 ﹄ に た び た び 所 見 す る の で あ り 、 当 然 な が ら 清 算 に よ る 舎 利 感 得 の 先 例 を な す も の で あ る 。 そ し て 先 述 の よ う
に 南 円 堂 不 空 羂 索 観 音 は 、 春 日 神 の 本 地 仏 で あ り 、 既 に 院 政 期 に そ の 説 は 流 布 し て い た が 、 鎌 倉 時 代 に は 春 日 神 の 本 地 仏 を 釈 迦 と す る 説 が 、 律 僧 の 先 駆 け と 言 え る 貞 慶 の ﹃ 春 日 権 現 講 式 ﹄ な ど に 見 え 始 め 、 律 宗 は ﹁ 釈 迦 ︱ 舎 利 ︱ 春 日 神 ﹂ へ の 信 仰 が 深 い の で あ る25 。 ﹃ 西 大 勅 諡 興 正 菩 薩 行 実 年 譜 ﹄ に よ れ ば 、 仁 治 二 年 ︵ 一 二 四 一 ︶ に 叡 尊 は 、 春 日 社 で 舎 利 を 感 得 し て お り 、 貞 慶 が 唱 導 し た 春 日 本 地 釈 迦 説 が 律 宗 に 根 付 い て い た こ と が 分 か る 。 ち な み に ﹃ 玉 葉 ﹄ の 文 治 五 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ 九 月 二 十 五 日 条 に は ﹁ 参 八 条 院 、 賜 仏 舎 利 八 粒 、仏 牙 舎 利 也 、 為 奉 籠 南 円 堂 仏 身 也 、 ﹂ と あ っ て 、 南 円 堂 本 尊 の 体 内 に 舎 利 が 納 入 さ れ て い る の だ が 、 清 算 の ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ に は そ の 片 鱗 も 窺 え な い 。 そ の た め こ れ を 、 清 算 に よ る 舎 利 感 得 の 前 提 と し て 見 る こ と は 難 し い だ ろ う 。 や は り 律 宗 に よ る 舎 利 信 仰 の コ ン テ ク ス ト に 注 目 し な く て は な る ま い 。 た だ し 叡 尊 ら 律 僧 の 舎 利 信 仰 は 、 単 純 に 釈 尊 へ の 追 慕 だ け で は 説 明 で き な い も の な の で あ る 。 周 知 の よ う に 叡 尊 は じ め 律 僧 は 、 真 言 密 教 を 兼 学 し て お り 、 特 に 叡 尊 自 身 も 修 行 し た 醍 醐 寺 な ど 小 野 流 の 、 舎 利 を 如 意 宝 珠 と 同 体 視 す る 信 仰 が 重 要 な 意 味 を 持 つ の で あ る 。 そ こ に 成 立 し た も の こ そ 、 ︿ 宝 珠 形 舎 利 容 器 ﹀ な の で あ り 、 内 藤 栄 氏 に よ る ﹁ 南 都 で は 、 鎌 倉 後 期 以 降 、 西 大 寺 な ど 真 言 系 の 寺 院 に お い て 宝 珠 形 の 舎 利 容 器 が 盛 ん に 用 い ら れ た ﹂ と の 指 摘 が あ る 。 そ し て そ の よ う な 西 大 寺 流 の 舎 利 ︵ 宝 珠 ︶ 信 仰 は 、 後 述 す る よ う に 国 土 安 穏 の 問 題 と 不 可 分 で あ り 、 叡 尊 に お い て も 舎 利 に 対 す る 密 教 修 法 は 、 モ ン ゴ ル 襲 来 に 際 し て の 護 国 祈 願 と し て な さ れ た こ と に 留 意 し て お き た い26 。 清 算 は ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ に お い て 、 南 円 堂 を 密 教 空 間 と し て 強 調 し て い た 。 そ し て 感 得 し た 舎 利 は 宝 珠 形 容 器 に 納 ま っ て お り 、 本 来 は 醍 醐 寺 の 重 宝 で あ っ た よ う だ か ら 、 彼 の 舎 利 信 仰 ︵ 宝 珠 信 仰 と 一 体 ︶ は 、 醍 醐 寺 ︱ 西 大 寺 系 の 密 教 の 思 想 的 影 響 下 に あ っ た と 見 て 過 つ ま い 。 叡 尊 以 降 、 西 大 寺 は 密 教 化 を 強 め て ゆ く が 、 恐 ら く そ う し た 動 向 の 中 で 、 春 日 本 地 釈 迦 説 と は 別 系 統 の 、 密 教 的 な 春 日 本 地 南 円 堂 観 音 説 と 舎 利 信 仰 を 繋 げ る 立 場 が 成 立 し 、 清 算 の 宝 珠 信 仰 を 伴 っ た 舎 利 感 得 の 奇 瑞 を 導 い た と い う こ と で は な い だ ろ う か 。 さ て 春 日 本 地 釈 迦 説 に 基 づ く 舎 利 信 仰 の 遺 品 と し て 、 西 大 寺 末 寺 の 不 退 寺 に は 鎌 倉 時 代 作 と さ れ る ﹁ 五 輪 塔 型
嵌 装 舎 利 厨 子 ﹂ が 伝 わ る27 。 ま た 興 福 寺 に は 、 こ れ に 遅 れ る 室 町 時 代 の 作 と さ れ る 春 日 本 地 南 円 堂 観 音 説 に 基 づ く 舎 利 信 仰 の 遺 品 と し て ﹁ 密 観 宝 珠 嵌 装 舎 利 厨 子 ﹂ が 伝 来 す る 。 ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ の ︵ C ︶ よ れ ば 、 出 現 し た 舎 利 の 一 部 は 、 南 円 堂 の 擬 宝 珠 の 中 に 奉 納 さ れ た と い う 。 清 算 の 一 件 が 契 機 と な っ て 、 南 円 堂 と 舎 利 信 仰 の 結 合 し た 礼 拝 対 象 が 生 み 出 さ れ た と も 考 え ら れ る28 。 ③ 室 生 寺 の 舎 利 ︵ 宝 珠 ︶ 信 仰 ︱ 師 ・ 忍 空 と そ の 周 辺 ︱ さ ら に 清 算 の 舎 利 信 仰 が 醸 成 さ れ た 場 と し て 、 彼 の 若 き 日 の 修 学 地 で あ っ た 室 生 寺 に 注 目 し た い 。 晩 年 に 大 覚 寺 で 著 し た ﹃ 霊 峰 記 ﹄ に も 、 室 生 寺 の 名 が 散 見 さ れ 、 清 算 は 生 涯 に 亘 っ て 室 生 寺 と の 関 係 を 保 持 し 続 け た も の と 想 定 さ れ て い る29 。 室 生 山 の 精 進 峯 に は 空 海 ゆ か り の 舎 利 = 如 意 宝 珠 が 埋 納 さ れ た と 伝 承 さ れ 、 室 生 寺 は 中 世 の 密 教 的 な 舎 利 ・ 宝 珠 信 仰 史 上 に お け る 屈 指 の 聖 地 で あ る 。 東 大 寺 大 仏 復 興 の 際 に は 、 重 源 の 弟 子 で あ る 空 諦 房 鑁 也 が 盗 掘 事 件 を 起 こ し 混 乱 を 招 い た こ と は 、 ﹃ 玉 葉 ﹄ に も そ の 経 過 が 記 載 さ れ る ほ ど 当 時 著 名 で あ っ た30 。 こ の 室 生 寺 で 清 算 は 空 智 房 忍 空 と い う 律 僧 に 師 事 し て い る 。 室 生 寺 の 長 老 と な る 忍 空 は ﹃ 円 照 上 人 行 状 ﹄ ︵ 中 ︶ に 、 ﹁ 照 公 親 度 門 人 、 重 如 、 道 本 、 忍 空 、 倫 秀 、 真 照 、 尊 珍 、 円 光 等 也 ﹂ と 見 え る よ う に31 、 円 照 門 下 に 重 き を な し た 戒 壇 院 流 の 律 僧 で あ っ た が 、 元 は 泉 涌 寺 に 学 ん だ 北 京 律 僧 で あ り 、 ま た ﹁ 忍 公 中 比 、 住 持 戒 光 寺 、 両 三 年 之 間 、 講 三 大 部 ﹂ と も 記 さ れ る 。 泉 涌 寺 と 同 じ く 北 京 律 の 拠 点 で あ っ た 戒 光 寺 で は 長 老 を 勤 め た 程 で あ り 、 道 宣 の 律 三 大 部 を 講 義 し て い た の で あ る 。 そ こ か ら 円 照 の 門 に 投 じ た わ け だ が 、 ﹃ 招 提 千 歳 伝 記 ﹄ に よ れ ば 、 叡 尊 か ら も 重 ね て 受 戒 し て お り 、 戒 律 と 密 教 の 両 面 に お い て 多 く の 弟 子 を 導 い た と い う 。 こ の よ う に 忍 空 は 諸 派 の 律 宗 に 身 を 置 い た 経 歴 を 持 つ 学 僧 で あ っ た 。 清 算 は 文 保 元 年 ︵ 一 三 一 七 ・ 三 十 歳 ︶ に 室 生 寺 で 忍 空 自 筆 の ﹃ 分 物 古 式 南 都 北 京 ﹄ を 書 写 し て お り32 、 ま た 清 算 の ﹃ 結 界 法 則 ﹄ ︵ 一 三 二 二 年 ︶ は33 、 西 大 寺 の 然 如 の 伝 と ﹁ 室 生 寺 上 人 之 御 法 則 ﹂ な ど に 基 づ く 。 こ の 室 生 寺 上 人 は 忍 空 に 比 定 で き よ う 。 さ ら に 杲 宝 の ﹃ 雑 秘 見 聞 集 ﹄ 巻 六 所 収 ﹁ 荒 神 供 次 第 伝 受 事 ﹂ に は 、 ﹁ 空 智 上 人 清 算 上 人 宝 光 院 杲 宝 次 第 相 伝 之 ﹂ と あ り 、 清 算 は 忍 空 か ら 密 教 も 伝 授 さ れ て い た こ と が 判 明 す る34 。
忍 空 の 事 績 と し て 比 較 的 知 ら れ て い る こ と は 室 生 寺 の 復 興 で あ り 、 延 慶 元 年 ︵ 一 三 〇 八 ︶ に は 灌 頂 堂 を 建 立 し て い る 。 興 福 寺 末 寺 で あ っ た 室 生 寺 は 忍 空 以 降 、 南 都 系 律 僧 が 長 老 を 勤 め る 律 院 と な る 。 堀 池 春 峰 氏 に よ れ ば 、 こ れ に 先 立 っ て 乾 元 二 年 ︵ 一 三 〇 三 ︶ に 室 生 寺 金 堂 ︵ 薬 師 堂 ︶ で 、 忍 空 に よ っ て 伝 法 灌 頂 が 行 わ れ た が 、 そ の 時 彼 は 七 十 二 歳 で あ っ た35 。 室 生 寺 で 忍 空 に 戒 律 を 学 ん だ 台 密 穴 太 流 の 巨 匠 ・ 澄 豪 の 略 伝 を 記 す ﹁ 当 流 代 々 書 籍 事 ﹂ に は 、 忍 空 に つ い て ﹁ 八 十 七 歳 入 滅 也 ﹂ と 注 記 が あ る36 。 こ こ か ら 計 算 す れ ば 、 忍 空 の 生 没 年 は 一 二 三 二 ∼ 一 三 一 八 年 と な る の で 、 清 算 が い つ 白 毫 寺 か ら 室 生 寺 に 移 住 し た か は 不 詳 な が ら も 、 忍 空 晩 年 の 弟 子 で あ っ た と 判 断 で き る37 。 実 は 忍 空 も 室 生 寺 再 興 以 前 の 文 永 九 年 ︵ 一 二 七 二 ︶ に 、 同 寺 の 舎 利 を 発 掘 ︵ 盗 掘 ︶ し て い た こ と が 知 ら れ る 。 舎 利 信 仰 が 室 生 寺 再 興 へ と 繋 が っ て ゆ く の だ が 、 こ の 舎 利 発 掘 に 関 わ る 記 録 で あ る ﹃ 舎 利 相 伝 縁 起 ﹄ が 残 さ れ て い る38 。 そ れ に よ れ ば 、 覚 日 房 ・ 空 智 房 ︵ 忍 空 ︶ ・ 一 蓮 房 ら 十 余 人 が ﹁ 詣 室 生 寺 、 礼 拝 舎 利 石 塔 ﹂ し た 時 、 覚 日 房 は 空 諦 房 の 顰 に 倣 い 、 空 諦 房 が 盗 掘 時 に 穿 っ た 石 塔 の 穴 を 探 っ て み る と 、 果 た し て 舎 利 の 詰 ま っ た 銅 の 筒 を 得 た と い う 。 彼 ら は そ こ か ら 密 か に 幾 ら か の 舎 利 を 取 り 出 し 、 盗 掘 の 中 心 人 物 の 一 人 で あ っ た 忍 空 は 舎 利 二 粒 を 手 中 に 収 め て い る 。 こ の 舎 利 の 一 部 は 、 最 終 的 に 鎌 倉 の 律 院 た る 称 名 寺 の 長 老 で あ り 、 室 生 寺 に て 忍 空 に 師 事 し た 経 歴 の あ る 釼 阿 に 相 伝 さ れ た の で あ る 。 鎌 倉 中 期 頃 の 醍 醐 寺 系 の 僧 の 手 に な る 成 立 と 目 さ れ る ﹃ 宀 一 山 秘 密 記 ﹄ と い う 史 料 が あ る 。 こ れ に は 室 生 寺 に 埋 納 さ れ た 舎 利 ︵ 宝 珠 ︶ を め ぐ る 種 々 の 秘 説 が 記 さ れ て お り 、 同 寺 を 中 心 と す る 御 流 神 道 に お い て 重 視 さ れ る 。 此 宝 珠 即 大 日 遍 照 金 身 塵 数 三 昧 惣 体 也 、 故 国 名 大 日 本 国 也 、 此 宝 珠 垂 迹 神 道 名 天 照 太 神 ⋮ ⋮ 、 宝 珠 即 舎 利 故 万 尊 皆 持 宝 珠 為 自 性 ⋮ ⋮ 、 文 殊 浄 菩 提 心 即 釈 迦 舎 利 、 釈 迦 仏 骨 即 大 日 体 性 、 故 万 法 能 生 本 初 、 故 号 宝 珠 ⋮ ⋮ 、 八 万 四 千 金 剛 童 子 番 々 守 護 宝 珠 、 益 国 土 ⋮ ⋮ 、 亦 天 照 太 神 等 日 本 国 中 大 小 神 祇 、 九 万 七 千 七 百 余 神 、 面 々 守 宝 珠 、 治 名 山 、 守 国 家 、 治 国 土 ⋮ ⋮ 室 生 寺 の 宝 珠 は 大 日 如 来 の 象 徴 で あ り 、 そ の よ う な 宝 珠 の 埋 納 さ れ た 室 生 山 の 所 在 す る 日 本 は 、 大 日 如 来 の 本
国 ︵ 大 日 本 国 ︶ で あ る と 神 聖 化 さ れ 、 ま た 室 生 の 宝 珠 は 神 道 に お い て は 天 照 太 神 で あ る と い う 。 そ し て 宝 珠 は 舎 利 と 等 し い こ と を 示 し 、 仏 法 の 至 宝 た る 室 生 の 宝 珠 ︵ 舎 利 ︶ は 神 祇 に よ っ て 守 護 さ れ る の で あ り 、 同 時 に 国 家 ・ 国 土 も 利 益 さ れ る と 説 く 。 鑁 也 が 舎 利 の 盗 掘 に 及 ん だ の は 、 国 家 護 持 の 要 と 言 え る 東 大 寺 を 師 で あ る 重 源 が 再 建 せ ん と す る 最 中 の 出 来 事 で あ り 、 重 源 も 大 仏 の 体 内 に 醍 醐 寺 座 主 に よ る 百 日 間 の 加 持 を 施 さ れ た 舎 利 八 十 粒 を 納 入 し て い る 。 舎 利 と い う 聖 遺 物 が 大 仏 再 生 の 鍵 で あ っ た 。 そ し て 忍 空 ら の 盗 掘 は 、 モ ン ゴ ル 襲 来 の 脅 威 に 対 し 、 舎 利 の 霊 威 を 期 待 し た も の で あ り 、 鎌 倉 に 齎 さ れ た の も 、 国 土 防 衛 を 担 う 幕 府 中 枢 ︵ 安 達 泰 盛 ︶ の 意 思 が 介 在 し た 節 が あ り 、 幾 ら か の 曲 折 を 経 な が ら 、 永 仁 三 年 ︵ 一 二 九 五 ︶ に 釼 阿 へ と 相 伝 さ れ て ゆ く 過 程 が 論 じ ら れ て い る39 。 彦 根 城 図 書 館 琴 堂 文 庫 本 の ﹃ 宀 一 山 秘 密 記 ﹄ は 、 も と 東 大 寺 戒 壇 院 に 伝 来 し た 一 本 で あ り 、 ﹁ 永 仁 二 年 甲 午 三 月 十 八 日 書 写 之 、 室 生 山 住 持 金 剛 資 比 丘 空 智 ﹂ と の 奥 書 を 見 る40 。 忍 空 は 御 流 神 道 の 形 成 史 上 に 重 要 な 位 置 を 占 め て お り41 、 同 書 の 国 家 ・ 国 土 を め ぐ る 思 想 性 や 叡 尊 の 事 例 に 照 ら し て も 、 忍 空 ら に よ る 盗 掘 が 密 教 的 立 場 か ら の 神 祇 信 仰 を 纏 っ た 舎 利 に よ る 護 国 と い う 動 機 に 基 づ い て い た こ と は 肯 け よ う 。 そ し て 釼 阿 に 相 伝 さ れ た 室 生 の 舎 利 は 、 金 沢 北 条 氏 を 檀 越 と し て 鎌 倉 幕 府 護 持 の 祈 祷 を 勤 修 し て い た 称 名 寺 の 、 正 月 舎 利 講 と い う 大 掛 か り な 儀 礼 の 本 尊 と な っ た 可 能 性 が 考 え ら れ る42 。 こ の 舎 利 講 儀 礼 で 用 い ら れ た 、 密 教 色 の 濃 い 三 段 か ら な る ﹃ 舎 利 講 式 ﹄ が 六 種 類 ︵ ﹁ 講 一 ∼ 六 ﹂ ︶ も 伝 来 し て い る が43 、 ﹁ 鎮 護 国 家 ﹂ ﹁ 関 東 静 謐 ﹂ と い っ た 用 語 が 頻 出 し 、 全 て の 講 式 の 三 段 ︵ 廻 向 段 ︶ で 、 朝 廷 と 幕 府 の 安 泰 が 必 ず 祈 念 さ れ て い る 。 例 え ば ﹁ 講 三 ﹂ に は ﹁ 北 辰 皇 帝 運 久 、 広 行 十 善 、 東 夷 将 軍 徳 厚 、 能 帰 三 宝 、 両 国 史 刺 一 門 、 執 権 栄 名 弥 飛 、 家 門 倍 昌 一 天 治 也 ﹂ と あ る 。 室 生 舎 利 の 国 家 護 持 ・ 国 土 安 穏 信 仰 を 具 体 化 し た 儀 礼 と 言 っ て よ い 。 な お ﹁ 講 二 ﹂ は 、 戒 律 重 視 の 姿 勢 ︵ 二 段 ︶ や 神 祇 信 仰 が 強 く 表 明 さ れ て お り ︵ 三 段 ︶ 、 取 り 分 け 興 味 深 い 。 さ て 、 い ま 詳 述 す る 遑 は な い が 、 清 算 に よ っ て 舎 利 感 得 が 為 さ れ た の は 、 興 福 寺 堂 塔 の 修 理 ・ 造 営 が 、 勧 進 能 力 に 長 け た 律 僧 に 一 任 さ れ る ﹁ 律 家 奉 行 制 ﹂ へ と 移 行 す る 時 期 で あ る こ と に 注 目 し た い44 。 律 僧 は 番 匠 ・ 石 工 ・ 鍛
冶 な ど の 技 術 者 集 団 と 深 い 関 わ り を 有 し て お り 、 彼 ら を 動 員 で き た こ と は 、 先 行 研 究 に 明 ら か で あ る45 。 そ こ に 舎 利 感 得 と は 、 清 算 が 南 円 堂 修 補 に 際 し て 仕 組 ん だ ︿ 奇 跡 の 演 出 ﹀ で あ っ た と 考 え る 余 地 が あ ろ う 。 石 塔 の 内 よ り 舎 利 を 発 掘 ︵ 盗 掘 ︶ し た 忍 空 。 銅 塊 の 中 に 舎 利 を 発 見 し た 清 算 。 彼 に は 祖 師 ・ 叡 尊 、 そ し て 師 匠 ・ 忍 空 か ら ︿ 過 剰 な る 舎 利 信 仰 の 精 神 ﹀ と も 言 う べ き も の が 、 継 承 さ れ て い る の で あ る46 。 そ し て 清 算 の 舎 利 信 仰 に も 、 叡 尊 ・ 忍 空 ら に お け る 護 国 と い う 目 的 に 通 底 す る 要 素 が 認 め ら れ る の だ が47 、 そ の こ と を 国 分 寺 塔 婆 へ の 舎 利 納 入 、 武 家 祈 祷 と し て の 八 幡 本 地 供 の 勤 修 を 素 材 と し て 、 以 下 に 論 じ た い 。 三 、 舎 利 信 仰 に 基 づ く 清 算 の 宗 教 活 動 ① 国 分 寺 塔 婆 へ の 舎 利 納 入 計 画 ︱ 利 生 塔 と の 関 係 ︱ で は ま ず 、 次 の 二 点 の 文 書 を 紹 介 し た い 。 ︵ 1 ︶ □ □ □ 南 円 堂 宝 形 鋳 冶 之 時 、 感 得 仏 舎 利 事 、 奏 □ 所 奇 特 之 至 、 叡 信 尤 甚 、 納 諸 国 塔 婆 之 □ □ □ 一 粒 安 置 勧 学 院 之 由 、 被 聞 食 之 旨 、 院 宣 所 候 也 、 仍 執 達 如 件 、 □暦 応 □ 三 □六 月 廿 一 日 権 中 納 言 四 条 蔭 □彦 証 上 人 御 房 ︵ 2 ︶ 就 仏 舎 利 之 奇 特 、 被 成 院 宣 事 承 以 畢 、 誠 □ 見 有 特 随 喜 尤 深 候 哉 、 恐 々 謹 言 、 暦 応 三 八 月 五 日 左 兵 衛 督 在 判 □彦 証 上 人 御 房 破 損 ・ 虫 損 が 目 立 つ が 、 ﹁ □ 証 上 人 ﹂ は 間 違 い な く 彦 証 上 人 = 清 算 で あ る 。 こ の 二 通 は 仁 和 寺 の 院 家 で あ る 心 蓮 院 に 伝 来 し た 室 町 時 代 書 写 と 思 し き 文 書 で あ り 、 一 紙 に 続 け て 書 写 さ れ て い る48 。 ︵ 1 ︶ は 院 宣 で あ り 、 発 給 主 体 は 当 時 、 治 天 君 で あ っ た 光 厳 上 皇 で あ る 。 ︵ 2 ︶ は 、 ︵ 1 ︶ ﹁ 光 厳 上 皇 院 宣 ﹂ を 前 提 と し た 書 状 で あ り 、 ﹁ 左 兵 衛 督 ﹂ の 署 判 が あ る 。 暦 応 三 年 ︵ 一 三 四 〇 ︶ 段 階 で 、 そ の 職 位 に あ っ た の は 足 利 直 義 で あ る 。 ︵ 1 ︶ ﹁ 光 厳 上 皇 院 宣 ﹂ の 付 年 号 は 虫 損 で あ る が 、 ︵ 2 ︶ ﹁ 左 兵 衛 督 書 状 ﹂ の 付 年 号 と 同 じ く ﹁ 暦 応 ﹂ で あ る 。 以 下 に 論 じ る よ う に 暦 応 年 間 と い う 時 期 と 、 光 厳 上 皇 ︱ 足 利 直 義 と い う 組 み 合 わ せ は 、 正 に 安 国 寺 ・ 利 生 塔 の 場 合 に 重 な る も の で あ る49 。 鎌 倉 末
期 に 感 得 さ れ た 舎 利 を 、 清 算 は そ の 十 二 年 後 に 、 室 町 幕 府 に よ っ て 安 国 寺 ・ 利 生 塔 の 諸 国 設 置 が 実 行 さ れ る 時 期 と 合 わ せ る か の よ う に 、 諸 国 の 国 分 寺 へ と 配 分 す る 計 画 を 表 明 し て い る の で あ る50 。 そ も そ も ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ 自 体 が 、 こ の 前 年 で あ る 暦 応 二 年 十 月 に 作 成 さ れ て い る の で 、 全 て 一 連 の 史 料 で あ る 。 ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ で は ︵ B ︶ で 、 嘉 暦 二 年 時 の 舎 利 感 得 を 記 し 、 続 く ︵ C ︶ に お い て 奉 請 の 厳 命 が あ っ た こ と 、 国 分 寺 塔 婆 へ の 奉 納 、 極 楽 寺 へ の 分 与 、 醍 醐 へ の 返 納 な ど を 記 し て い た 。 聊 か 時 系 列 が 不 明 瞭 だ が 、 少 な く と も 国 分 寺 へ の 奉 納 計 画 は 、 嘉 暦 年 中 の こ と で は な く 、 暦 応 二 年 十 月 時 の こ と と し て 読 ま な く て は な る ま い 。 そ し て 奉 請 の 厳 命 も 、 明 記 さ れ ざ る そ の 主 体 は 光 厳 上 皇 で あ り 、 ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ も 叡 覧 に 供 さ れ た 、 と い っ た 状 況 が 想 定 で き そ う に 思 う 。 さ て 安 国 寺 ・ 利 生 塔 の 構 想 は 、 幕 府 ・ 北 朝 の 勢 力 拡 張 や 、 諸 国 守 護 の 統 制 、 人 心 の 収 攬 な ど 高 度 に 政 治 的 な 目 的 を 含 ん で い る が 、 そ の 思 想 的 基 盤 に つ い て 言 え ば 、 鎌 倉 幕 府 滅 亡 以 来 の 戦 没 者 の 鎮 魂 ・ 供 養 を 目 的 と し 、 も っ て 天 下 泰 平 ・ 国 土 安 穏 を 祈 る と い う 点 に 求 め ら れ る 。 そ し て 久 米 田 寺 長 老 に 宛 て ら れ た 建 武 五 年 ︵ 一 三 三 八 ︶ 五 月 一 八 日 の 足 利 直 義 御 判 御 教 書 が 、 い わ ゆ る 利 生 塔 の 初 見 と さ れ る 。 ま た 暦 応 二 年 八 月 の 足 利 直 義 仏 舎 利 安 置 状 に は 次 の よ う に あ る51 。 奉 安 置 泉 国 久 米 田 寺 塔 婆 仏 舎 利 二 粒 一 粒 東 寺 右 、 於 六 十 六 州 之 寺 社 、 建 一 国 一 基 之 塔 婆 、 忝 任 申 請 、 既 為 勅 願 、 仍 奉 請 東 寺 舎 利 、 各 奉 納 之 、 伏 冀 皇 祚 悠 久 、 衆 心 悦 怡 、 利 益 平 等 、 安 置 之 儀 、 旨 趣 如 件 暦 応 二 年 八 月 十 八 日 左 兵 衛 督 源 朝 臣 直 義 ︵ 花 押 ︶ 清 算 が ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ を 作 成 す る 二 ヶ 月 前 に 、 久 米 田 寺 の 五 重 塔 に 権 威 あ る 東 寺 舎 利 が 奉 納 さ れ て お り 、 こ の 頃 、 諸 国 の 利 生 塔 設 置 事 業 も 本 格 化 し て い た 。 久 米 田 寺 は 清 算 が 華 厳 を 学 ん だ 戒 壇 院 流 の 禅 爾 が 、 か つ て 長 老 を 勤 め て い た 律 院 で あ る 。 ま た 貞 和 元 年 ︵ 一 三 四 五 ︶ の 足 利 直 義 御 判 御 教 書 に は 、 建 武 以 来 、 建 立 諸 国 寺 塔 毎 国 各 一 所 、 今康 永 四 年 二 月 六 日 院 宣 案 如 件 、 所 被 通 号 也 、 早 於 当 寺 塔 婆 者 、 可 被 称 豆 州 利 生 塔 之 状 如 件 、
貞 和 元 年 十 一 月 十 九 日 左 兵 衛 督 ︵ 花 押 ︶ 修 禅 寺 長 老 と あ る52 。 こ の 時 、 光 厳 上 皇 の 院 宣 に よ っ て 、 こ れ ま で ﹁ 一 国 一 基 之 塔 婆 ﹂ ﹁ 諸 国 寺 塔 ﹂ と 呼 ば れ て い た も の が 、 初 め て ﹁ 利 生 塔 ﹂ と 称 さ れ た の で あ る ︵ よ っ て ︵ 1 ︶ 院 宣 の ﹁ 諸 国 塔 婆 ﹂ と い う 表 現 は 少 々 紛 ら わ し い ︶ 。 そ し て 翌 貞 和 二 年 六 月 六 日 の 伊 賀 国 平 等 寺 長 老 宛 の 足 利 直 義 御 判 御 教 書 か ら 、 同 じ く 光 厳 上 皇 に よ っ て 安 国 寺 の 号 も 定 ま っ た こ と が 分 か る 。 修 禅 寺 や 平 等 寺 は 禅 宗 だ が 、 最 近 の 研 究 で 安 国 寺 に は 禅 宗 の み な ら ず 、 律 宗 寺 院 も 含 ま れ て い た こ と が 明 ら か に な っ て お り 、 ま た 久 米 田 寺 が そ う で あ る よ う に 、 利 生 塔 に は 禅 宗 の 次 に 律 宗 が 多 い の で あ る 。 既 に 論 じ ら れ て い る こ と だ が 、 安 国 寺 ・ 利 生 塔 の 構 想 は 、 夢 想 疎 石 の 進 言 に よ っ て 、 足 利 直 義 を 中 心 に 実 現 化 さ れ た の で あ り 、 そ の 際 に 武 家 の 要 請 を 受 け て 称 号 の 勅 許 を 出 し た の が 光 厳 上 皇 だ っ た 。 そ し て 諸 国 の 利 生 塔 寺 院 に は 、 直 義 の 御 教 書 と 光 厳 上 皇 の 院 宣 が 相 次 い で 発 給 さ れ 、 所 領 の 寄 進 や 天 下 泰 平 を 祈 る べ き こ と が 布 達 さ れ て い る 。 律 僧 で あ る 清 算 は 、 律 院 を 含 み 込 ん で 展 開 し た こ の 国 家 的 な 宗 教 政 策 の 動 向 を 鋭 く 捉 え 、 こ れ を 好 機 と ば か り に 、 か つ て 感 得 し た 舎 利 の 霊 験 を 公 武 両 政 権 に 対 し て ︿ 売 り 込 ん だ ﹀ も の と 思 わ れ る 。 な お 安 国 寺 ・ 利 生 塔 は 阿 育 王 の 八 万 四 千 塔 の 他 に 、 国 分 寺 も モ デ ル と な っ て い る 可 能 性 が あ る が53 、 そ の 国 分 寺 は 中 世 に お い て 西 大 寺 流 に よ っ て 復 興 さ れ て ゆ く 。 信 空 に 宛 て ら れ た 延 慶 三 年 ︵ 一 三 一 〇 ︶ の 伏 見 上 皇 の 院 宣 が 、 長 門 の 国 分 寺 興 行 を 命 じ て い る の が 早 い 例 で あ る 。 一 三 三 〇 年 代 に は 、 西 国 を 中 心 に 十 九 ヵ 国 の 国 分 寺 が 西 大 寺 流 律 僧 に よ っ て 復 興 さ れ 末 寺 化 し て い る 。 む ろ ん 誇 張 で あ る が 、 ﹃ 本 朝 高 僧 伝 ﹄ の 信 空 伝 に よ れ ば 、 彼 か ら 受 戒 し た 後 宇 多 上 皇 に よ っ て 、 全 国 の 国 分 寺 が 西 大 寺 の 末 寺 と な っ た と 言 う54 。 西 大 寺 流 で あ る 清 算 が 、 こ の 時 期 の 同 流 に よ る 国 分 寺 復 興 運 動 に 連 な ろ う と し た こ と は 確 か で あ る 。 実 際 に 清 算 に よ る 舎 利 納 入 が 、 周 防 の 国 分 寺 に 確 認 で き る 。 次 に ﹁ 周 防 国 国 分 寺 文 書 ﹂ 内 の 清 算 の 寄 進 状 を 引 く55 。 興 福 寺 南 円 堂 出 現 仏 舎 利 内 五 粒 、 依 懇 請 異 他 、 聊 又 有 感 夢 之 子 細 、 奉 安 置 防 州 国 分 寺 五 重 塔 婆 者 也 、 是 則 本 朝 無 双 之 霊 宝 也 、 敢 不 可 有 散
失 、 委 細 記 録 等 院 宣 并 武 家 施 行 之 面 被 載 之 状 如 件 貞一 三 六 三 治 二 年 七 月 四 日 西 大 寺 沙 門 清 算 在 判 周 防 の 国 分 寺 に は 、 鎌 倉 の 極 楽 寺 長 老 順 忍 が 国 務 を 執 っ て い た 鎌 倉 末 期 に 、 そ の 目 代 と し て 同 寺 の 長 老 と な っ た 覚 順 に よ っ て ﹁ 天 下 泰 平 国 衙 安 全 之 祈 祷 ﹂ の た め に 再 興 さ れ た こ と を 記 す 、 正 中 二 年 ︵ 一 三 二 五 ︶ の 文 書 が 伝 来 す る 。 ま た 覚 順 が 次 代 の 同 寺 長 老 に 宛 て た 年 次 未 詳 書 状 に よ れ ば 、 極 楽 寺 諸 末 寺 は 勅 願 寺 と な っ た こ と 、 そ し て 勅 願 寺 で あ る か ら に は 、 よ く よ く ﹁ 今 度 之 亡 魂 等 可 訪 之 由 被 仰 下 候 ﹂ と 記 し て い る56 。 鎌 倉 幕 府 滅 亡 に 伴 う 死 者 供 養 で あ り 、 国 分 寺 も 安 国 寺 ・ 利 生 塔 と 同 様 の 機 能 が 、 既 に 期 待 さ れ て い た こ と が 分 か る 。 そ う し た 背 景 を 受 け て 、 清 算 は 国 分 寺 塔 婆 へ の 舎 利 奉 納 を 企 図 し た の で あ り 、 そ れ は 覚 順 が 書 状 に 認 め た 天 下 泰 平 へ の 祈 り を 継 承 す る こ と で も あ っ た 。 実 は こ の 清 算 に よ る 国 分 寺 へ の 舎 利 奉 納 に つ い て は 、 兼 清 正 徳 氏 に よ る 指 摘 が 既 に あ る57 。 氏 は 清 算 の 寄 進 状 一 通 を も と に 、 西 大 寺 流 が ︿ 興 福 寺 舎 利 ︱ 国 分 寺 ﹀ を も っ て ︿ 東 寺 舎 利 ︱ 利 生 塔 ﹀ に 対 抗 し た も の と 位 置 づ け た の で あ る 。 利 生 塔 に は 律 院 も 多 い た め 単 純 な 対 抗 と は 言 い 切 れ な い が 、 と も あ れ 今 回 は 、 こ の ﹁ 清 算 寄 進 状 ﹂ に 見 え る 、 ﹁ 委 細 記 録 等 ﹂ に 当 た る ﹃ 舎 利 記 録 ﹄ と 、 ﹁ 院 宣 ﹂ に 当 た る 光 厳 上 皇 院 宣 を 、 新 た に 発 見 ・ 紹 介 す る こ と で 、 か つ て 兼 清 氏 が 極 く 簡 単 に 言 及 し た 問 題 を 、 深 く 掘 り 下 げ る こ と が で き た 。 そ し て 足 利 直 義 書 状 は 、 む ろ ん ﹁ 武 家 施 行 之 面 ﹂ に 関 連 す る 史 料 で あ り 、 実 際 に 施 行 状 も 存 在 し た の で あ ろ う 。 た だ し 西 大 寺 流 が 掌 握 し 末 寺 化 し た 国 分 寺 は 十 九 ヵ 寺 程 度 に 留 ま る の で 、 清 算 に と っ て 利 生 塔 と 等 し く 全 国 規 模 で 舎 利 納 入 を 実 現 す る こ と は 困 難 で あ っ た も の と 思 わ れ る 。 納 入 が 確 認 で き る の も 、 今 の 所 は 周 防 の 国 分 寺 五 重 塔 の み で あ る し 、 そ れ も 公 武 政 権 の 賛 同 を 取 り 付 け た 暦 応 三 年 か ら 、 実 に 二 十 四 年 を 経 過 し て の こ と で あ る 。 清 算 寄 進 状 に も ﹁ 依 懇 請 異 他 、 聊 又 有 感 夢 之 子 細 ﹂ と あ っ て 、 到 底 、 諸 国 国 分 寺 へ の 一 律 奉 納 の よ う に は 見 え ず 、 件 の 院 宣 な ど に も 言 及 し て い る が 、 結 局 は 殆 ど 実 行 で き な い ま ま ︿ 計 画 倒 れ ﹀ に 終 わ っ た 、 と い う こ と を 露 呈 し て い る よ う だ58 。
② 大 覚 寺 不 壊 化 身 院 と 清 算 の 武 家 祈 祷 ︱ 師 ・ 房 玄 と の 関 係 ︱ 治 天 で あ る 光 厳 上 皇 の 院 宣 や 足 利 直 義 の 書 状 を 得 た 暦 応 三 年 に 、 清 算 は 大 覚 寺 で 戒 律 の 講 義 を 行 っ て い る の で 、 そ れ 以 前 に 大 覚 寺 へ 移 住 し て い た の で あ る 。 そ の 講 義 記 録 が 先 述 の ﹃ 帰 敬 儀 口 決 抄 ﹄ で あ り 、 具 体 的 に は 大 覚 寺 の 子 院 で あ る 不 壊 化 身 院 と い う 律 院 ︵ 現 在 廃 寺 ︶ で の こ と で あ る 。 不 壊 化 身 院 は 京 都 に お け る 西 大 寺 末 寺 で 四 番 目 の 寺 格 を 誇 る59 。 大 覚 寺 は 後 宇 多 上 皇 に よ っ て 大 覚 寺 統 の 拠 点 と し て 、 鎌 倉 末 期 に 復 興 さ れ て い る 。 密 教 を 興 隆 し た こ と で 知 ら れ る 後 宇 多 上 皇 は 、 ま た 一 方 で 律 宗 に も 傾 倒 し て い る 。 延 慶 二 年 ︵ 一 三 〇 九 ︶ の ﹃ 後 宇 多 院 十 大 願 文 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 十 大 願 文 ﹄ ︶ に よ れ ば 、 西 大 寺 二 代 長 老 信 空 を 尊 崇 し て 、 大 覚 寺 内 に 不 壊 化 身 院 を 建 立 し 、 信 空 が 開 眼 供 養 の 唱 導 師 を 勤 め た こ と が 明 ら か と な る60 。 ま た ﹃ 十 大 願 文 ﹄ に は 、 そ の 序 文 に ﹁ 僧 徒 住 持 、 非 戒 律 者 不 立 。 ﹂ と あ り 、 第 三 願 は 一 、 令 諸 学 徒 全 持 戒 律 願 入 道 本 稟 、 戒 為 先 。 諸 宗 学 徒 、 已 忘 其 道 。 戒 行 中 興 、 雖 立 一 門 、 諸 宗 学 徒 放 逸 難 禁 。 随 力 之 所 及 、 令 立 戒 行 。 乃 至 未 来 際 不 退 此 願 。 と な っ て い る 。 こ れ は 戒 律 を 諸 宗 の 根 本 と す る 理 解 で あ り 、 後 宇 多 上 皇 が 目 指 す 密 教 興 隆 も 、 そ の 上 で こ そ 達 成 し 得 る も の で あ る 。 よ っ て 戒 律 復 興 ・ 持 戒 の 実 践 を 通 じ て 真 言 密 教 の 再 生 を 志 向 し た 叡 尊 に 連 な る 認 識 と 言 え る 。 ま た 随 心 院 に 伝 来 す る ﹃ 瑜 伽 戒 本 談 義 抄 ﹄ の 奥 書 に は 、 ﹁ 延 慶 四 年 二 月 廿 一 日 於 大 覚 寺 写 畢 西 大 寺 第 二 住 持 衆 首 奉 為 太 上 法 皇 被 談 畢 ﹂ と あ っ て 、 不 壊 化 身 院 で 信 空 は 後 宇 多 上 皇 に 戒 律 を 講 じ た こ と も あ っ た の で あ る61 。 な お 後 宇 多 上 皇 は 忍 空 に も 帰 依 し て お り 、 そ の 援 助 で 忍 空 は 室 生 寺 灌 頂 堂 を 建 立 し 得 た と 考 え ら れ る62 。 さ て 以 上 の よ う な 不 壊 化 身 院 で あ る が 、 こ こ で の 清 算 の 活 動 に つ い て 考 え て み よ う 。 清 算 は 室 生 寺 に お い て 忍 空 か ら 戒 律 の み な ら ず 密 教 も 学 ん で い た こ と が 窺 え た の だ が 、 ﹃ 雑 日 記 並 随 聞 抄 ﹄63 に よ れ ば 、 貞 和 二 年 ︵ 一 三 四 六 ︶ 十 月 二 十 日 に 房 玄 か ら 都 谷 の 明 王 院 に お い て 伝 法 灌 頂 を 受 け た 四 人 の 中 に 、 ﹁ 清両 部 不 壊 化 身 院 算 方 丈 ﹂ と そ の 名 が 見 え ︵ 清 算 五 九 歳 ︶ 、 ﹃ 灌 頂 唐 和 大 事 秘 伝 ﹄64 の 奥 書 に は ﹁ 貞 和 五 年 三 月 廿 一 日 於 大 覚 寺 、 清 浄 光 院 法 印 房 玄 受 之 ⋮ ⋮ 金 剛 仏 子 清 算 記 之 ﹂ と あ っ て 、 醍 醐 寺 の 房 玄 に も 師 事 し て
い た こ と が 分 か る 。 房 玄 は 地 蔵 院 流 房 玄 方 の 開 祖 で あ り 、 真 言 密 教 界 に 重 き を 為 し た 人 物 で あ る 。 清 算 は こ の 房 玄 の 弟 子 の 中 で も 有 力 な 一 人 で あ っ た よ う で 、 房 玄 相 伝 の 地 蔵 院 流 聖 教 の 管 理 に も 関 わ っ て い た こ と が 指 摘 さ れ て い る65 。 清 算 は 不 壊 化 身 院 で 講 律 ・ 著 述 活 動 を 展 開 す る が 、 権 力 者 か ら の 要 請 で 祈 祷 に も 勤 し ん で い た こ と が 判 明 す る 。 房 玄 の 晩 年 の 日 記 ﹃ 観一 三 五 一 応 二 年 日 次 記 ﹄ 三 月 一 六 日 条 に 次 の よ う な 記 事 が あ る 。 大 覚 寺 長 老 自 南 都 帰 当 寺 了 。 彼 長 老 為 武 家 祈 祷 。 八 幡 本 地 供 。 春 日 本 地 。 大 力 男 三 ヶ 所 本 地 供 勤 之 云 々 。 八 幡 本 地 ハ 愛 染 王 、 春 日 ハ 地 蔵 ︿ 天 津 児 屋 根 尊 云 々 ﹀ 。 大 力 男 ハ 不 動 ︿ 是 即 天 岩 戸 ヲ 排 給 神 是 也 ﹀ 。 自 大 覚 寺 帰 京 了 。 高 師 直 兄 弟 の 滅 亡 に よ り 、 足 利 尊 氏 ・ 直 義 間 の 兄 弟 対 立 ︵ 観 応 の 擾 乱 ︶ が 一 時 沈 静 化 し た 時 期 で あ る 。 こ の 大 覚 寺 長 老 は 清 算 に 相 違 な く 、 同 じ く 房 玄 の ﹃ 貞 和 四 年 記 ﹄ と も ど も 、 房 玄 が 頻 繁 に 不 壊 化 身 院 を 訪 問 し て い る 記 事 を 見 る66 。 こ こ で は 特 に 八 幡 本 地 供 に 注 目 し た い 。 以 下 に 房 玄 の ﹃ 貞 和 四 年 記 ﹄ 所 収 の 祈 祷 関 係 文 書 を 引 く67 。 武 家 御 祈 祷 事 。 御 教 書 云 。 天 下 静 謐 祈 祷 事 。 殊 可 被 致 精 誠 之 状 如 件 。 貞 和 三 年 十 一 月 二 十 日 直足 利 義 判 中 納 言 法 房 玄 印 御 房 八 幡 本 地 護 摩 勤 行 之 。 進 巻 数 了 。 返 状 云 。 天 下 静 謐 御 祈 祷 。 八 幡 本 地 護 摩 勤 行 御 巻 数 令 披 露 了 。 仍 執 達 如 件 。 貞 和 四 年 正 月 十 一 日 散安 冨 行 長 位 判 前二 階 堂 行 直 山 城 守 判 沙二 階 堂 時 綱 弥 判 中 納 言 法 印 御 房 公 家 御 祈 祷 事 。 院 宣 云 。 天 下 静 謐 御 祈 祷 事 。 近 日 所 令 沙 汰 也 。 別 可 被 抽 丹 誠 之 由 。 院光厳 上 皇 御 気 色 所 候 也 。 仍 執 啓 如 件 。 十 二 月 二 十 四 日 大 蔵 卿 雅高 階 仲 謹 上 中 納 言 法 印 御 房
修 仏 眼 護 摩 御 巻 数 返 事 云 。 御 巻 数 執 達 了 。 謹 言 。 正 月 二 十 日 隆四 条 蔭 房 玄 は 武 家 ︵ 室 町 幕 府 ︶ ・ 公 家 ︵ 北 朝 ︶ の 双 方 か ら 命 を 受 け て 、 ﹁ 天 下 静 謐 ﹂ 、 す な わ ち 南 朝 鎮 定 の 祈 祷 を 実 修 し て い た の で あ る 。 実 際 に 幕 府 の 軍 事 行 動 と 呼 応 し て 祈 祷 を 行 っ た こ と も あ る68 。 公 家 祈 祷 は 仏 眼 護 摩 だ が 、 武 家 祈 祷 に お い て は 、 房 玄 ︱ 八 幡 本 地 護 摩 / 清 算 ︱ 八 幡 本 地 供 と い う よ う に 祈 祷 内 容 も 酷 似 し て い る 。 房 玄 の 祈 祷 と 清 算 も 連 携 し て い た よ う に 思 わ れ 、 清 算 に も 祈 祷 を 命 じ た 武 家 の 御 教 書 が 齎 さ れ て い た だ ろ う 。 な お 大 光 明 寺 長 老 宛 の 観 応 二 年 正 月 廿 五 日 の 足 利 直 義 御 内 書 に は 、 ﹁ 兼 又 先 日八 幡 講 式 、 殊 勝 覚 候 之 間 、 所 願 成 就 無 疑 候 歟 、 恐 々 謹 言 、 ﹂ の 一 節 が あ り 、 所 願 の 内 容 は 不 明 だ が 、 軍 神 で あ る 八 幡 へ 武 家 の 繁 盛 を 祈 っ た も の か と 思 わ れ る69 。 そ し て 戦 勝 祈 願 に 神 祇 へ の 本 地 供 を 修 し た 例 と し て 、 建 武 三 年 八 月 十 八 日 に 足 利 尊 氏 ・ 直 義 が ﹁ 天 満 宮 本 地 供 養 法 毎 日 一 座 ﹂ を 北 野 社 に 命 じ た こ と が 挙 げ ら れ 、 ﹁ 誅 罰 悪 臣 義新 田 貞 之 党 類 ﹂ ﹁ 今 後 合 戦 之 勝 利 、 偏 任 天 神 之 擁 護 ﹂ な ど と 記 さ れ て い る70 。 ③ 八 幡 本 地 供 の 勤 修 と 不 壊 化 身 院 所 領 の 保 護 八 幡 本 地 供 の 儀 礼 次 第 書 に は 複 数 の バ リ エ ー シ ョ ン が 存 在 す る が 、 そ れ ら を 通 覧 す る と 、 八 幡 信 仰 が 舎 利 ・ 宝 珠 信 仰 と 融 合 し た も の で あ る こ と が 理 解 さ れ る 。 む し ろ 八 幡 の 祈 祷 は 舎 利 ・ 宝 珠 の 修 法 の 一 形 態 と も 言 え よ う か 。 も っ と も 伝 本 が 豊 富 で 標 準 的 な 内 容 を 有 す る と 判 断 で き る 、 八 幡 本 地 供 次 第 書 の 一 例 と し て 、 西 大 寺 蔵 ﹃ 八 幡 本 地 行 法 私 ﹄ ︵ 内 題 ︶ を 見 る と71 、 そ の 冒 頭 の 道 場 観 の 部 分 に 、 ﹁ 本 尊 不 捨 大 悲 故 、 和 光 同 塵 、 入 四 摂 三 摩 地 、 心 上 現 字 、 々 変 成 如 意 宝 珠 、 々 則 駄 都 也 ⋮ ⋮ 此 宝 珠 変 成 八 幡 大 菩 薩 ⋮ ⋮ ﹂ と あ る 。 駄 都 ︵ 舎 利 ︶ は 即 ち 如 意 宝 珠 で あ り 、 そ れ が 八 幡 神 に 変 成 す る 様 を 観 想 せ よ と い う 。 な お 奥 書 は ﹁ 徳一 三 〇 七 治 二 年 四 月 十 五 日 以 下益 性 河 原 殿 本 書 写 了 金 剛 仏 子 道 ー我 ﹂ と な っ て い る 。 歌 人 と し て も 知 ら れ る 道 我 は 後 宇 多 上 皇 の 近 臣 僧 で 、 大 覚 寺 の 聖 無 動 院 に 住 し た 。 そ し て ﹃ 聖 無 動 院 道 我 仏 事 記 ﹄ に よ れ ば 、 こ の 道 我 の 葬 送 を ﹁ 平 生 御 時 慇 懃 御 契 約 也 ﹂ と し て 執 行 し た の は 他 な ら ぬ 清 算 で あ る 。 ま た ﹁ 今 朝 依 有 夢 想 事 、 驚 参 云 々 ﹂ と あ り 、 夢 告 に よ っ て 清 算 は 道 我 の 死 を 察 知 し た の で あ る72 。 二 人 は 近 し い 関 係 で
あ っ た こ と を 思 わ せ る 。 そ の 意 味 で 西 大 寺 本 は 近 世 写 本 な が ら 、 道 我 ゆ か り の 伝 本 で あ り 、 清 算 の 八 幡 祈 祷 の 具 体 相 が こ こ か ら 窺 い 知 れ る よ う で あ る 。 も う 一 点 、 清 算 の ﹁ 舎 利 ︱ 八 幡 ﹂ 信 仰 の 性 質 を 考 え る に 際 し て 、 こ こ に 紹 介 し て お き た い 史 料 が あ る 。 そ れ は 釼 阿 手 沢 本 と さ れ る ﹃ 八 幡 大 菩 薩 念 誦 作 法 ﹄ ︵ 内 題 ︶ と い う 祈 祷 次 第 書 で あ る73 。 西 大 寺 本 な ど と は 別 系 統 で あ る が 、 ﹁ 宝 珠 即 八 幡 大 菩 薩 御 真 体 也 ﹂ と あ り 、 そ の 宝 珠 は ﹁ 自 然 道 理 釈 迦 分 身 也 ﹂ 、 つ ま り 舎 利 と 同 体 視 さ れ 、 ま た 八 幡 神 と 室 生 山 の 如 意 宝 珠 は 一 体 と 説 く 。 そ し て ﹁ 玉 体 安 穏 ﹂ ﹁ 護 持 国 家 、 守 護 国 界 、 福 利 無 辺 、 内 外 侵 難 、 悉 摧 滅 ﹂ と い っ た 利 益 を 強 調 す る 。 さ ら に 興 味 深 い の は 奥 書 の 一 節 で 、 彼 本 者 今 進 仙 洞 之 処 、 即 御 伝 授 殊 有 叡 感 云 々 徳 治 三 年 五 月 十 三 日 於 密 華 庵 伝 受 ー 同 廿 五 日 致 書 写 了 求 法 比 丘 浄 雅 と あ り 、 道 我 が ﹃ 八 幡 本 地 供 次 第 ﹄ を 書 写 し た 翌 年 に 、 類 似 し た 八 幡 の 祈 祷 法 が ﹁ 仙 洞 ﹂ に 伝 授 さ れ て い る 。 徳 治 三 年 時 の ﹁ 仙 洞 ﹂ は 後 宇 多 院 に 限 定 で き な い が 、 こ の 浄 雅 は 鎌 倉 で も 活 躍 し た 北 京 律 僧 で あ り 、 彼 か ら 釼 阿 に 伝 授 さ れ た 密 教 の 聖 教 が 称 名 寺 に 多 数 伝 来 す る 。 律 宗 と の 関 係 を 思 え ば 、 後 宇 多 上 皇 を 指 し て い る 蓋 然 性 は 認 め ら れ よ う 。 忍 空 に 師 事 し た 釼 阿 が 室 生 の 舎 利 を 相 伝 し た こ と 、 そ し て 後 宇 多 上 皇 が 忍 空 に 帰 依 し た こ と は 先 述 し た が 、 そ う し た 関 係 性 は 室 生 の 宝 珠 ・ 舎 利 と 八 幡 信 仰 を 結 ぶ こ の 史 料 の 成 立 を 考 察 す る 上 で 、 種 々 の 示 唆 を 与 え る だ ろ う 。 さ て 以 上 を 勘 案 す る と 、 師 ・ 房 玄 に 伝 授 さ れ た か と 思 し き 八 幡 の 祈 祷 だ が74 、 こ れ を 勤 修 す る こ と は 、 清 算 に と っ て 若 か り し 頃 の 室 生 寺 で 培 わ れ 、 南 円 堂 で の 舎 利 感 得 へ と 繋 が り 、 国 分 寺 塔 婆 へ の 納 入 さ え 計 画 し た 、 か の 密 教 に 拠 っ て 立 つ 、 神 祇 信 仰 を も 纏 っ た 護 国 的 舎 利 信 仰 の 延 長 上 に 位 置 し て い た と 言 え る 。 大 覚 寺 は 寺 名 が 示 す よ う に 、 南 朝 側 ︵ 大 覚 寺 統 ︶ の 寺 院 で あ っ た と 理 解 さ れ が ち で あ っ た が 、 大 田 壮 一 郎 氏 は 、 建 武 四 年 ︵ 一 三 三 七 ︶ に 武 家 勢 力 を 背 景 と す る 門 主 の 寛 尊 が 入 寺 し て 以 来 、 む し ろ 幕 府 と 昵 懇 の 門 跡 で あ っ た と 論 じ ら れ た75 。 大 覚 寺 に 住 す る 律 僧 が 南 朝 鎮 定 の 祈 祷 を 行 っ た と て 不 思 議 は な い 。 房 玄 は 、 清 算 が 武 家 祈 祷 を 大 覚 寺 で は な く 、 西 大 寺 に 帰 っ て 勤 め た よ う に 記 し て い る
が 、 そ の 西 大 寺 に 向 け て 、 天 下 泰 平 御 祈 祷 事 、 相 触 当 寺 並 一 門 僧 衆 、 殊 可 令 致 精 誠 給 者 、 依 天 気 執 達 如 件 、 正一 三 四 七 平 二 年 十 二 月 廿 六 日 左 少 弁 正 雄 西 大 寺 長静 心 老 上 人 御 房 と い う 後 村 上 天 皇 の 綸 旨 が 出 さ れ た よ う に 、 南 朝 側 も 祈 祷 を 命 じ て い る76 。 清 算 が 長 老 と し て 武 家 祈 祷 を 修 し た 観 応 年 間 に は 、 幕 府 に よ る 不 壊 化 身 院 領 荘 園 保 護 の 動 き が 確 認 で き る 。 随 心 院 本 の ﹃ 後 宇 多 院 十 大 願 文 ﹄ ︵ 神 護 寺 地 蔵 院 旧 蔵 ︶ は 、 願 文 部 分 に つ づ い て 大 覚 寺 本 に は な い 南 北 朝 期 か ら 応 仁 年 間 に 至 る 不 壊 化 身 院 と 教 王 常 住 院 の 所 領 関 係 文 書 が 纏 ま っ て 書 写 さ れ て お り 貴 重 で あ る77 。 随 心 院 本 所 収 の ﹁ 大 覚 寺 領 近 江 国 田 河 庄 事 ﹂ は 文一 三 五 三 和 二 年 の 記 録 だ が 、 ﹁ 教 王 常 住 院 談 席 者 、 長 日 両 座 之 講 肆 不 怠 、 不 壊 化 身 院 戒 場 者 、 毎 日 三 時 勤 行 無 倦 、 両 院 家 為 一 寺 之 棟 梁 ﹂ と 称 賛 し て い る 。 教 王 常 住 院 は 後 宇 多 上 皇 の 発 願 に な る 真 言 談 義 を 重 ん じ 、 不 壊 化 身 院 は 勤 行 ︵ 祈 祷 ︶ を 任 務 と し て い た 。 戒 律 を 護 持 す る 律 僧 の 祈 祷 力 が 期 待 さ れ た の で あ る 。 そ し て 遊 義 門 院 の 遺 領 で あ る 近 江 国 田 河 荘 ︵ 滋 賀 県 浅 井 郡 ︶ が 後 宇 多 上 皇 に よ っ て 、 不 壊 化 身 院 ・ 教 王 常 住 院 に 寄 進 さ れ て い る が 、 同 荘 の 内 、 中 野 郷 は 常 住 教 王 院 領 で 、 伊 部 郷 は 不 壊 化 身 院 領 で あ る78 。 さ て 観 応 の 擾 乱 の 最 中 で あ る 同 二 年 八 月 、 足 利 尊 氏 は 弟 ・ 直 義 を 追 討 す る た め 近 江 国 に 下 向 し て い た 。 ﹁ 大 覚 寺 領 近 江 国 田 河 庄 事 ﹂ に よ れ ば 、 佐 々 木 道 誉 に 命 じ て 軍 勢 の ﹁ 押 妨 ﹂ を 停 止 し た と あ る 。 ま た 翌 月 に は 禁 制 を 発 布 し て お り 、 ﹁ 御 判 ﹂ は 尊 氏 か 息 子 の 義 詮 で あ ろ う 。 禁 制 大 覚 寺 領 田 河 庄 事 右 於 当 寺 領 武 士 甲 乙 之 輩 、 不 可 致 乱 入 狼 藉 、 若 有 違 犯 之 族 者 、 為 処 罪 科 、 可 注 申 交 名 之 状 如 件 観 応 二 年 九 月 二 十 四 日 御 判 そ し て 翌 観 応 三 年 八 月 三 十 日 に も 、 近 江 国 の 守 護 で あ る 佐 々 木 道 誉 を し て 、 多 賀 兵 庫 入 道 ︵ 多 賀 社 の 祀 官 一 族 ︶ に よ る 、 不 壊 化 身 院 領 へ の 侵 害 行 為 を 停 止 す べ く 御 判 御 教 書 を 発 給 し て い る 。 こ れ は 同 年 七 月 に 幕 府 が 発 布 し た 半 済 令 を 口 実 と す る 在 地 武 士 に よ る 荘 園 侵 蝕 で あ り 、 寺 領 を 保 護 す べ く 発 給 さ れ た 道 誉 の 遵 行 状 も 残 さ れ て い る 。 大 覚 寺 不 壊 化 身 院 雑 掌申 脱 近 江 国 田 河 庄 内 伊 部 郷 事 、 御