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駒澤大学佛教学部論集 46 016古山 健一「Mangalatthadipaniについて」

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(1)

Maṅgalatthadīpanī について

古 山 健 一

1.はじめに

 本稿は、A.D.16c の最初の四半世紀の時期に、現在のタイ王国における北部

地域の中心都市であり、かつてのラーン・ナー

(1)

王国の王都であった、チエ

ンマイ

เชียงใหม่

)(2)

において、「ラーン・ナーの黄金期」

(golden age of Lān Nā (3))

と評

される時代を荘厳した大学匠の 1 人 Sirimaṅgala 師によって著されたパーリ語

註釈書 Maṅgalatthadīpanī

(※以下 Maṅg-d と略記)

について論ずるものである。

 ここでは特に、目下のところ筆者

(古山)

の知り得ている限りにおいて、著

者、述作の年代・場所など、文献に関わる情報を詳らかに紹介し、また、本文

のうちから当時のラーン・ナー仏教の様相の一端を垣間見るのに資する記述の

いくつかを示す。筆者の浅学菲才の故、不備不足が多々あろうかと思うが、諸

賢の指摘と教示を乞いつつ、本稿を以って Maṅg-d 乃至ラーン・ナー仏教の研

究に些かなりとも供し得るところがあれば幸甚である。

2.Maṅgalatthadīpanī とは?

 Maṅg-d とは、

“…idaṃ suttaṃ Suttanipātassa dutiyavagge Khuddakapāṭhe cāti dvīsu ṭhānesu saṃhitaṃ Khuddakanikāyapariyāpannanti.”〈…この経は、Suttanipāta の第 2 章と Khuddakapāṭa という 2 つの箇所

において収録されており、小部に属する、と〉[Maṅg-d. Vol.2, p.478]

と述べられている如く、

パーリ経蔵小部

(Khuddakanikāya)

に収録されている Suttanipāta

(『経集』)

の第 2 章

Cūḷavagga における第 4 経 Maṅgala-sutta

(「吉祥経」)(4)

、ならびに、これと同文で

ある Khuddakapāṭha

(『小誦』)

の第 5 章 Maṅgala-sutta に対する註釈書である。

 Suttanipāta と Khuddakapāṭha には、A.D.5-6c 頃に Dhammapāla によって著さ

れた、2 経を包括的に註釈した 1 次義疏であるところの、Paramatthajotikā と題

される、

“aṭṭhakathā”

が著されており、そこにおいて Maṅgala-sutta の文は詳らか

に註解されている

(5)

。故に、Maṅg-d は 2 次義疏以降に位置付けられる註釈文

(6)

であると言えよう。しかしながら、Maṅg-d の結語末尾に

“Maṅgalatthadīpanī

(2)

aṭṭhakathā samattā”[Maṅg-d. Vol.2, p.482 footnote(1)]

と記すテキストもあることから、その

伝承者には本書を

“aṭṭhakathā”

に位置付ける見方もあったと言えるであろう。

Maṅg-d. を Maṅgala-sutta の

“Navaṭṭhakathā”(新註)

と呼ぶこともある

[Cf. PTCS. p.126]

 Maṅg-d は、本稿で用いているタイのマハーマクット大学

มหามกุฏราชวิทยาลัย

の活字刊本においては、⑴ Paṇāma-gāthā

(帰敬偈=序偈)

、⑵ Uppatti-kathā

(〔経とい うものの〕由来の話)

、⑶ Nidānattha-vaṇṇanā

(〔Maṅgala-sutta が説かれた〕因縁の意味の註解 = 冒 頭 散 文 と 第 1 偈 の 註 解(7)

、 ⑷ Paṭhamagāthāyattha-vaṇṇanā

( 第 1 偈 の 意 味 の 註 解 = Maṅgala-sutta 第 2 偈の註)

、⑸ Dutiyagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 2 偈の意味の註解=同第 3 偈の 註 )

、 ⑹ Tatiyagāthāyattha-vaṇṇanā

( 第 3 偈 の 意 味 の 註 解 = 同 第 4 偈 の 註 )

、 ⑺

Catu-tthagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 4 偈の意味の註解=同第 5 偈の註)

、⑻

Pañcamagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 5 偈の意味の註解=同第 6 偈の註)

、⑼ Chaṭṭhagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 6 偈の 意味の註解=同第 7 偈の註)

、⑽ Sattamagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 7 偈の意味の註解=同第 8 偈 の 註 )

、 ⑾ Aṭṭhamagāthāyattha-vaṇṇanā

( 第 8 偈 の 意 味 の 註 解 = 同 第 9 偈 の 註 )

、 ⑿

Navamagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 9 偈の意味の註解=同第 10 偈の註)

、⒀

Dasamagāthāy-attha-vaṇṇanā

(第 10 偈の意味の註解=同第 11 偈の註)

、⒁ Ekādasamagāthāyattha-vaṇṇanā

(第 11 偈の意味の註解=同第 12 偈・第 13 偈の註(8))

、⒂ Paṇidhāna-gāthā

(誓願偈=願文を含む 結偈。※著者のものか?)

、の 15 章から構成されている

(9)

 その分量は、タイ・マハーマクット大学版

(2 分冊)

で総計約 860 頁にも及ぶ

大部なものであり、Paramatthajotikā における Maṅgala-sutta の註釈文の量を遥

かに凌駕している

(10)

 この Maṅg-d であるが、

〈…この書は暹羅に於て、現在、パリエン・プラヨーク(11)・シイー (巴利語第四学程)、及びプラヨーク・チエッド(同第七学程)のテキストとして採用せられて居り、 暹羅の仏教を理解する為には欠くべからざる書物の一つに数へられてゐる〉[佐々木 1950. p.99a](12)

と言われている。上述の如く Maṅg-d はタイ北部のチエンマイで著された

(13)

釈書であるが、パリエン・プラヨークにおいて出題される仏典に指定されてか

らは、地域的限定性

(localization)

を超えて、タイにおいて広く学ばれるものと

なっているようである

[Cf. Veidlinger 2006. p.94]

。また、

〈…近隣のテーラワーダ諸国にお いて著者の評判を確保している〉[Saddhatissa 1989. p.42]

とも言われている。Maṅg-d は、

筆者の知るところでは、シンハラ字やクメール字による活字刊本

(14)

が刊行さ

れており、タイを超えた汎テーラワーダ的なパーリ語文献ともなっていると言

えよう

(15)

 残念ながら、広く参照され得るローマナイズ活字刊本は、Saksri Yamnadda

(3)

による第 1 章・第 2 章の部分

(A.D.1970、付英訳)

のみであり

[Cf. PTCS. p.126]

、完本

としては未だ出版されていないのであるが、上述の状況からは Theravāda 研究

にとって重要な資料であると言え、その出版が強く切望されるところである。

3.著者、述作の年代・場所など

 Maṅg-d の末部には以下の如く書かれている。

  

iccāyaṃ navapurassa dakkhiṇadisābhāge gāvute ṭhāne vivitte sampattānaṃ pasādajanake suññāgāre

vasantena vivekābhiratena mahussāhena tipiṭakadharena saddhābuddhiviriyappaṭimaṇḍitena sakaparesaṃ kosallamicchantena Sirimaṅgaloti gurūhi gahitanāmena mahātherena paramende navapure issarassa Lakavhayarājanattuno rājātirājassa manujindassa sabbarājūnaṃ tilakabhūtassa paramasaddhassa paṭṭhitasabbaññutañāṇassa buddhasāsane pasannassa kāle chaḷāsītyādhikaṭṭhasatasakkarāje makkaṭavasse katā Maṅgalatthadīpanī.[Maṅg-d.Vol.2, p.479]

  

以上、これは、Navapura(*「新しい都」の意でチエンマイを指す(16))の南の地域にある、1 ガー ウタ離れた場所にあるところの、集う者たちに浄信が生じる空屋に住まっている、遠離を楽し み、大いなる能力があり、三蔵憶持者であり、信と知性と精進とで荘厳され、自他に巧みであ ることを望んでいる、“Sirimaṅgala” と師匠たちに名付けられた、大長老によって〔著された〕。 最高の君主を有する Navapura における主権者であり、Laka と呼ばれる王孫であり、王中の王 であり、人類の君主であり、すべての王たちの中で斑点となり、最高の信をそなえ、一切知性 智を誓願し、仏の教えにおいて浄信を起こしている者の時代、〔即ち〕Sakkarāja 暦 886 年(*A. D.1524)、申年に、Maṅgalatthadīpanī は造られた。(※ * 印の付いた註記は古山による。以下同様)

 この文から、Maṅg-d は、Laka

(= Tilakapanatta / Jkm. Bilakapanattā。※異本には Laṅkā とも)

王即ちムアンケーオ王の治世期

(A.D.1495-1526)

に当る A.D.1524 に、チエ

ンマイ都の南近郊

(1 ガーウタ= 4 ~ 5km 程)

の「空屋」

(suññāgāra)

に遠離していた

Sirimaṅgala という名の三蔵憶持の比丘が著したものであることが知られる。

この「空屋」の場所については同定されておらず、不明であるが、現在の国道

3029 号線から同 121 号線までの間のどこかにあったのであろう。

〈集う者たちに 浄信が生じる空屋〉

という言葉からは、当該範囲にあった無住寺院や寺院跡など

である可能性も考えられよう。

 また、上引の文の前にある韻文には、

(4)

  

suttābhidhammavinayesu vicārañāṇo, siryādimaṅgalabhidhānayutoruthero, ussāhavā racayi Buddhavirassa sisso, maṅgalatthadīpanimimattharasābhirāmaṃ.[Maṅg-d. Vol.2, p.479]

  

経・律・論に対する考察の智があり、“siri” を初め〔の言葉〕とする “maṅgala” という名辞のつ

い た す ぐ れ た 長 老 は、 有 能 で あ り、Buddhavira の 弟 子 で あ り、 こ の 義 味 の あ る 見 事 な Maṅgalatthadīpanī を著した。

とあり、Sirimaṅgala が Buddhavira

(Buddhavīra とも)

という名の比丘の弟子であっ

たことが知られる。Buddhavira という人物については、外国人比丘でスリラン

カ人やミャンマー人かもしれない、という見解が示されている

[Cf. Sadubhon 1977.

p.235]

。ここに態々その名を記しているということは、Maṅgala-sutta の註釈を著

すことに何らかのかたちで関与した師僧である可能性も考えられよう。

 Sirimaṅgala は Maṅg-d の他にもいくつかの典籍を述作している。目下のとこ

ろ 知 ら れ て い る も の と し て は、(a) Gāthādīpaka、(b) Vessantara-dīpanī、(c)

Cakkavāla-dīpanī、(d) Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā があり、また (e) Vajirasārasaṅgaha も

同師の著作であると言う

(17)

 (a) Gāthādīpaka は、目下のところテキストが発見されていないようであるが、

Vessantara-dīpanī において言及があり、

“vitthāro pana amhehi kate Gāthādīpake oloketabbo”〈な

お詳細は私が造った Gāthādīpaka において見られるべきである〉[Yamanaka 2011a. p.4]

などと述べ

られている。述作年不詳の典籍ではあるが、こうした言及があることから

Vessantara-dīpanī よりも先に著されたものであることは間違いない

[Cf.Yamanaka 2011a. p.4;山中 2011b. p.7]

 (b) Vessantara-dīpanī は、所謂

“Vessantara-jātaka” (18)

に対する詳註であり、テキス

トが現存する

(19)

。その結語によると、Navapura

(チエンマイ)

に建立された

Sīhaḷārāma

(=

วัดพระสิงห์

の南西に建てられた Svankhvan

สฺวนฺขวน

精舍に住してい

た Sirimaṅgala が、Sakkarāja 暦 879 年

(A.D.1517)

に 著 し た と あ る

[Sadubhon 1977.

p.227]

。Svankhvan 精舍は、チエンマイ都城域の南西側に位置し、現在のチエン

マイ国際空港の滑走路南端側にある、かつて

“Wat Suankwan”(

วัดสวนขวัญ

と呼ばれ

た、Wat Tamnak

วัดฅำาหนัก

)(20)

に同定されている。

 (c) Cakkavāla-dīpanī は、輪囲世界

(cakkavāla)

とそこにある諸象、世界の形状

(lokasaṇṭhāna)

及び世界の消滅

(lokavināsa)

を詳細に説明する書である。テキスト

は現存している

(21)

。その結語には、Navapura に建立された Sīhaḷārāma の南西

に建てられた Svankhvan 精舍に住していた Sirimaṅgala が、Sakkarāja 暦 882 年

(5)

(A.D.1520)

に著したとある

[Cakkav-d. p.224;Sadubhon 1977. p.228]

 (d) Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā は、Ñāṇavilāsa が著した Saṅkhyāpakāsaka

(22)

に対する

註釈書であり、計数・計量の道具について 6 章で以って解説する書である。テ

キ ス ト は 現 存 す る よ う で あ る。 そ の 結 語 に は、Navapura に 建 立 さ れ た

Sīhaḷārāma の南西に建てられた Svankhvan 精舍に住していた Sirimaṅgala が、

Sakkarāja 暦 882 年

(A.D.1520)

に著したとある

[Sadubhon 1977. p.229]

 Sāsanavaṃsa に は、Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā に つ い て

“taṃ ṭīkaṃ pana pattalaṅkatherassa vihāre vasanto Sirimaṅgalo nāma thero akāsi. … Maṅgaladīpaniṃ Sirimaṅgalo, …”〈なお、その復註を、ラ

ンカーに到達した長老の精舍に住まっていた(23)



Sirimaṅgala という名の長老が造った。…Maṅgaladīpanī

を Sirimaṅgala が〔造った〕。…〉[Sās. p.51;Cf. 生野 1980. pp.110]

と述べられている。ここ

に言われる「ランカーに到達した長老の精舍」が Svankhvan 精舍を指している

のであるとすれば、この精舍は

“araññavāsī”

とも呼称される所謂

“new Lankavamsa”(24)

派系の寺院である可能性が考えられるが、Sirimaṅgala が

“araññavāsī”

に与する比

丘であったかどうかは分からず、密接な関係を有していた可能性を指摘し得る

にとどまるであろう

(25)

。ちなみに、

“new Lankavamsa”

派の Ratanapañña が著した、

Maṅg-d と同時代に属する史書 Jinakālamālī

(A.D.1516 撰述、A.D.1527 に増補)

には、

Sakkarāja 暦 873 年

(A.D.1511)

にムアンケーオ王

(Bilakapanattā)

が三蔵に通暁する

gaṇa の指導者比丘らに Mahābodhārāma

(=

วัดเจ็ดยอด

の結界認定羯摩をおこなわ

しめたとする記述の箇所において、その羯摩の参加者として、チエンマイ

(Nabbisi-pura)

の僧 Sumaṅgala の名が挙げられている

[Jkm. p.106]

が、Sirimaṅgala

の名は見出せない。

 『ターダーナーリンガーヤサーダン』のほうには、

〈2. Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā を、 ティーホー(* = P.Sīhala)に到った、僧院に住まう(26)、ティリミンガラ・サヤー(* = P.-ācārya)が造った。…〉[Sāslc. p.77;Cf. 池田 2007. p.125](※原文はミャンマー語)

とあり、

これは、

“araññavāsī”

との関係を示唆するというより、Sirimaṅgala 自身にスリラ

ンカ留学の経験があったことを述べているとも解すことの出来るものである。

 (e) Vajirasārasaṅgaha は、如何なる書であるのか詳らかでないが、Hammalava

Saddhatissa によれば、その colophon に、A.D.1535 に Mahavanarama

(Mahāvanārāma

のことであろう)

において Sirimaṅgala が著した、とあると言う

[Saddhatissa 1989. p.43]

 以上をまとめると、Sirimaṅgala は、ある時期に Buddhavira のもとで修学し、

もしかするとスリランカに留学もした。そしてまず、どこかで Gāthādīpaka を

著した。次いで、少なくとも A.D.1517-1520 の間に、恐らくは

“araññavāsī”

と関

(6)

係 を 持 ち つ つ、 チ エ ン マ イ 南 西 の Svankhvan 精 舍 に 住 し て

( 寄 宿 し て?)

Vessantara-dīpanī と Cakkavāla-dīpanī・Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā を著した。A.D.1524

には、その Svankhvan 精舍を既に出ていて、チエンマイの南近郊の

“suññāgāra”

に遠離して、そこで Maṅg-d を述作した。その後、真偽の程は改めて検討され

るべきであるが、A.D.1535 に Mahāvanārāma という僧院において

Vajirasārasa-ṅgaha を造った、ということになる。Sirimaṅgala の生没年や出自は不詳と言わ

れており

(27)

、チエンマイ出身か否かも定かでないが、恐らく A.D.16c 半ば過ぎ

から A.D.17c 初頭頃までには既に入滅していたのではなかろうかと推察される。

 なお、Sirimaṅgala については、ムアンケーオ王の師であったと言われる

(28)

が、

その史料的証左が奈辺にあるのかについては、スリランカ留学経験のあったこ

とを窺わし得る『ターダーナーリンガーヤサーダン』以外には、筆者

(古山)

には目下のところ詳らかでない。また、次代のムアンケートクラオ王の和尚で

あったとも言われるが、根拠は分からないようである

(29)

 Sirimaṅgala が Maṅg-d を著した動機は詳らかでない。ムアンケーオ王の治世

期には、折に触れて同王が Maṅgala-sutta を比丘らに説かせていたようである

ので

[Cf. Jkm. p.116;p.118;p.121]

、斯様な王宮の宗教的要請に呼応するかたちで

Maṅg-d が著されたのではなかろうか、と筆者

(古山)

は想像している。

4.A.D.16c 前半頃のラーン・ナー仏教を知る資料として

 Maṅg-d は、それが著された A.D.16c 前半頃における、ラーン・ナー仏教の

様相の一端を垣間見るのに資するパーリ語文献である

(30)

 Maṅg-d における引用文献を具に調べ上げることにより、当時のチエンマイ

の僧院に如何なる典籍が蓄えられていたのかを知ることが出来るであろう

(註 (10) で述べた如く、これは他日に機会を得て筆者の調査結果を示したい)

 また、「異読」の紹介を含めた同書における引用文を現存のパーリ語諸文献

と比較することにより、当時のチエンマイで参照・依用されていたパーリ三蔵

等の内実を知る手掛かりを得ることが出来る

(31)

 ここでは、本稿の結びにかえて、当時のラーン・ナー仏教の様相の一端が垣

間見られるところの、Maṅg-d における引用等をいくつか指摘しておきたい。

(1)Candavuttippadīpa

(7)

vacanenātyaṭṭhakathāyaṃ vuttaṃ. tattha pādasaṅkhāte pade akkharo akkharapadantyattho. tathā hi / ekapādakkharānaṃpi niyamo chandalakkhaṇaṃ / catuppādagalānantu niyamo vuttilakkhaṇanti /

Chandavuttippadīpe vuttaṃ. …”[Maṅg-d. Vol.1, p.10]

とある。

 ここでは

“gāthā”(偈)

についての解説をおこなっており、まず

“aṭṭhakathā”

にお

ける定義

(32)

を示し、その補完的説明として Chandavuttippadīpa なる書からの韻

文を引用している。

 この Chandavuttippadīpa とは、具体的に如何なるものであるのかは、目下の

ところ筆者には分からない。その書きぶりから Sirimaṅgala の著作ではないと

思われる。PTCS. には Ñāṇamaṅgala-thera の編とあり、写本が現存するが、制

作年代は記されていない

[p.257 (4.36); Cf. APR. p.218]

 いずれにせよ、当時のラーン・ナーの学僧比丘の間ではよく知られるか読ま

れるかしていた、

“authority”

のある韻律学習書であったのであろう

(33)

。上引箇所

の直後に続く韻文に対する解説については、

“…taṭṭīkāyañca vuttattā…”[Maṅg-d. Vol.1, p.10]

とあることから、Chandavuttippadīpa には註釈書も存在し、併せて参照されて

いたことが窺える。その後の文章は、Chandavuttippadīpa からのものであるの

か、Sirimaṅgala の説明なのか判然としない。今後さらに吟味されるべきと考え

る。

(2)現存パーリ三蔵刊本の文とは異なる引用文

 Maṅg-d においては数多くの三蔵から引用文が確認されるが、その中には、

パーリ典籍刊本におけるものとは多少異なる文が示されていることがある。

 例えば、Maṅg-d の (10)Sattamagāthāyattha-vaṇṇanā

においては、Sumaṅgalavilā-sinī

(『長部註』)

の Saṅgītisutta-vaṇṇanā の文が引かれており、その引用文中に

“…

yo pana dhammassavane saṅghuṭṭhe sakkaccaṃ na gacchati sakkaccaṃ dhammaṃ na suṇāti niddāyati vā samullapanto va nisīdati sakkaccaṃ na gaṇhāti na dhāreti na vāceti ayaṃ dhamme agāravo nāma”[Maṅg-d.

Vol.2, p.198]

とある。これに対して、R

e

及び B

e

の同テキストは、

“…yo pana dhammassavane

saṃghuṭṭhe, sakkaccaṃ na gacchati, sakkaccaṃ dhammaṃ na suṇāti, samullapanto nisīdati, sakkaccaṃ na

gaṇhāti, na vāceti ayaṃ dhamme agāravo nāma”[Re Vol.3, p.1034;Be Vol.3, p.217]

であり、そこに

“niddāyati vā”

“va”

“na dhāreti”

の語句が見られない。スリランカの SHB

(Simon

Hewavitarne Bequest)

版においても、これらの語句は存在しない

(Vol.XIX, Sumaṅgalavilāsinī

Part II, pp.757-758)

(8)

paṭhamapaññā--sakassa paṭhamavagge”

と前置きされた、Aṅguttaranikāya の Aṭṭhakanipāta 第 1 章

Mettāvagga の経の引用が見られる

[Maṅg-d. Vol.2, pp.429-430]

。その引用文の冒頭部

には

“aṭṭhime bhikkhave lokadhammā lokaṃ anuparivattanti anubandhanti loko ca aṭṭha lokadhamme

anuparivattati”

と あ る。 然 る に R

e

及 び B

e

の 同 経 で は、

“aṭṭhime, bhikkhave, lokadhammā

lokaṃ anuparivattanti, loko ca aṭṭha lokadhamme anuparivattati”[Re Vol.4, p.157;Be Vol.3, p.6]

となって

おり、

“anubandhanti”

の語が存在しない。

 以上はマハーマクット大学版の脚注を手掛かりに筆者が手早く見出した 2 例

に過ぎないが、Sirimaṅgala が憶持乃至参照していたパーリの経や註釈の文は、

現在の刊本に見られるものとは相異する点を含むものであったようである。仔

細に調べてゆけば、さらにこうした例が発見されるかもしれない。また、斯様

な引用文は現存する当該典籍の貝葉写本との比較が重要である

(34)

(3)ādhunikā

 Maṅg-d には、

“ādhunikā”

なる者たちの所説が計 3 箇所示されている。

①evamimāyapi gathāya pāpavirati pānasaññamo appamādoti maṅgalattayaṃ vuttaṃ. ādhunikā pana rativi iti nagaṇavasena pāyato paṭhanti. / nāṭṭhakkharesu pādesu snādimhā vatanti. / ettha na snādimhāti paṭikkhittattā pana nagaṇo na yujjati ratīvi iti jagaṇova yujjati paṭikkhittattā.[Maṅg-d. Vol.2, p.193] ②...tasmā tapo ca brahmacariyañcāti pāṭhova yujjhati. ādhunikā pana brahmacariyāti paṭhanti.

tadayuttaṃ....[Maṅg-d. Vol.2, p.428]

③...Saddanītiyampi taṃsaddao parammukhavacano etaṃsaddo samīpavacano idaṃsaddo accantasamīpa-vacanoti vuttaṃ. ādhunikā tu etasaddassa tasaddasamānatthataṁ vadanti. tadayuttaṃ yathāvuttaviro-dhato....[Maṅg-d. Vol.2, p.471]

  ① で は、Maṅgala-sutta 第 7 偈 の 第 1 詩 脚 の

“āratī virati”

と い う 部 分 つ い て、

“ādhunikā”

は、

“ārati virati”

という「異読」を採用しており、この部分の韻律を

Na-gaṇa

(◡◡◡、Tribrachys)

として読んでいる、と紹介している。Sirimaṅgala は、vatta

韻律を規定する Vuttodaya 第 117 偈

(nāṭṭhakkharesu…vat[t]anti)(35)

を引き示して、Na-gaṇa が含まれてはならないのであると述べて、

“ādhunikā”

の採る

“ārati virati”

とい

う「異読」を間違ったものとして否定している

(36)

。当該部は、

“āratī virati”

ならば

Ja-gaṇa

(◡_◡、Amphibrachys)

となり、vatta 韻律の規定に違背しない本文のかたち

になるとしている。

(9)

 ②では、Sirimaṅgala は、Maṅgala-sutta 第 10 偈の第 1 詩脚は

“tapo ca

brahmacari-yañca”

という読みが正しいと述べる。しかしながら、

“ādhunikā”

は、

“brahmacariyañca”

の部分について

“brahmacariyā”

という正しくない「異読」を採用しているとして、

これを批判している

(※なお、これは①と同様に韻律の観点からの批判である)

 ③は、Maṅgala-sutta 第 12 偈の

“etādisāni”

の解釈を述べる箇所の文章である。

上引の文章の前段で、Sirimaṅgala は、まず、この

“etādisāni”

“etāni”

の意である

と 述 べ て い る。

“ādhunikā”

は 代 名 詞

“eta[ṃ]”

“ta[ṃ]”

と 同 義 と 解 し て い た が、

Sirimaṅgala は、Saddanīti における代名詞の規定

(37)

を引き示して、中称

(param-mukhavacana)

“ta[ṃ]”

と 近 称

(samīpavacana)

“eta[ṃ]”

で は 意 味 が 異 な る と し て

“ādhunikā”

の理解を批判している。

 ここに言われる

“ādhunikā”(< adhunā:just now, quite recentry)

が誰を指すものかは、

目下のところ筆者

(古山)

には詳らかでない。ただ、この語が「昨今の者たち」

を意味することを考えると、Sirimaṅgala の存命中に存在し、恐らくは何らかの

かたちで接触したこともある、ある学僧らの一派であったと推定される。彼ら

は、ラーン・ナーの比丘であったと思われるが、Sirimaṅgala にスリランカ留学

の経験があったのであれば彼地の比丘らである可能性も考えられなくはないで

あろう。

“ādhunikā”

は、Sirimaṅgala の見ていた Maṅgala-sutta の読みとは若干異な

る読みの経を持していたようであり、また、Saddanīti あるいは Sirimaṅgala と

は異なるパーリ文法の理解を有していたようである。斯様な学僧グループが

A.D. 16c 前半頃に存在したのである。

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(11)

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(1)「ラーン・ナー」の語義に関しては、拙稿「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の Setangamani 仏 像について」『駒澤大学仏教学部論集』第 41 号、2010 年 p.300 footonote(11) において簡略に触れて いる。

(2) “

เชียงใหม่

” を「チエンマイ」と音写することについては、上掲拙稿 p.302 footnote(4) を参照された

い。

(3) Cf. Hans 1994. pp.43ff.;Hans 2004. pp.80ff.。Hinüber 2000. では “golden age of Lān Nā Culture” と表 現されている(p.122)。Hans Penth によれば「ラーンナー黄金期」とは A.D.1400-1525 を指す。 (4) Maṅgala-sutta(「吉祥経」)とは、その冒頭散文部と第 1 偈に示される如く、神々らの懇請をうけ

た釈尊が彼らに「吉祥」(maṅgala)について説き示したものである。ミャンマーの Kalyāṇa 師が著

した Maṅgalatthapakāsanī-kyam:( )に “Porāṇācariya-racita-suttuddesa gāthā” と

して 2 偈が示されているが、その第 1 偈( )に、“yaṃ maṅgalaṃ dvādasahi, cintayiṃsu sadevakā.

sotthānaṃ nādhigacchanti, aṭṭhatiṃsañca maṅgalaṃ”〈神々とともなる者らは、12 年にわたって吉祥な

るものを思惟したが、安泰と 38 の吉祥を得なかった〉(  .

Yangon : , 2006. p.22)とある如く、その「吉祥」とは 38 種とされる。38 種の内

訳は、Paramatthajotikā における同経の註釈部(※註 (4) 参照)によれば、第 2 偈に 3 種、第 3 偈に 3 種、第 4 偈に 4 種、第 5 偈に 4 種(数え方によって 5 種または 3 種とも)、第 6 偈に 4 種、第 7 偈に 3 種、第 8 偈に 5 種、第 9 偈に 4 種、第 10 偈に 4 種、第 11 偈に 4 種である。

(5) Suttanipāta-aṭṭhakathā Be Vol.2, pp.1-37(Maṅgalasutta-vaṇṇanā);Khuddakapāṭha-aṭṭhakathā Be

pp.75-132(Maṅgalasutta-vaṇṇanā)/ Cf. 村上真完・及川真介訳註『仏のことば註(二)―パラマッタ・ ジョーティカー―』、春秋社、1986 年 pp.373-462;同『仏のことば註(四)―パラマッタ・ジョー

ティカー―』、春秋社、1989 年 pp.375-431(※これらの邦訳は Reを底本としたものである)。

(6) S-HPL. p.191 には、A.D.12c に Sāriputta が著した Maṅgalasutta-ṭīkā なる 2 次義疏(sub-commentary) が挙げられている。

(7) ここでは、Maṅgala-sutta のうち、冒頭部にある “evaṃ me sutaṃ…gāthāya ajjhabhāsi” までの散文と、 神々からの説法懇請文である第 1 偈(“bahū devā manussā ca, …brūhi maṅgalamuttamaṃ”)の語句に ついて註解している。Maṅg-d では、この第 1 偈までを “nidāna”(因縁)として扱っている。偈文 の序数は釈尊の説示である第 2 偈以降に付しており、第 2 偈を「第 1 偈」乃至第 12 偈を「第 11 偈」としている。

(12)

maṅgalamuttamaṃ”)について、第 2 偈以降の他の偈文のように 1 章を設けて註釈していない。こ の第 13 偈は第 12 偈の註釈部(Maṅg-d の (14))において註解されている。独立の 1 章を立てない 理由は分からないが、想像するに、この第 13 偈が “maṅgala” と呼ばれる徳目(38 種)の一々を説 く「本文」ではなく、最後の結びの言葉を語る付随的偈文であるため、その註解を第 12 偈の註釈 部に編入して処理したためではなかろうかと思う。 (9) マハーマクット大学版すなわち Maṅg-d. は 2 冊に分冊されており、(1) Paṇāma-gathā から (7) Catutthagāthāyattha-vaṇṇanā ま で が Vol.1 に、(8) Pañcamagāthāyatthavaṇṇanā か ら (15) Paṇidhāna-gāthā までが Vol.2 に収載されている。

(10)Maṅg-d に は、 註 釈 文 の 随 所 に、 三 蔵 や aṭṭhakathā、ṭīkā、anuṭīkā( 主 に 論 蔵 に 対 す る も の )、 Visuddhimagga と Paramatthamañjūsā のほか、Kaccāna 文法、Moggallāna 文法、Saddanīti などの文法書、 Vuttodaya(註釈書類と思われるものも含む)などの韻律書、Abhidhānappadīpikā(註釈書類と思わ れるものも含む)、史書(Mahāvaṃsa)などからの引用文が見出される。こうした、時代的に Paramatthadīpanī には見出されない典籍からのものをも含む、豊富な引用文があることも、Maṅg-d を大部な註釈とならしめている所以であると言えよう。なお、Maṅg-d の依用典籍に関しては、紙 幅の都合で本稿では触れず、他日に機会を得たいが、依用典籍の仔細を解明することにより、 A.D.16c 頃のラーン・ナー仏教における教学研鑚面の実態がかなり浮き彫りになるのではなかろう かと考える。 (11)「パリエン・プラヨーク」(

เปรียญประโยค

)とは、現タイ王国において行われている、仏教僧の パーリ語と教法の学識・能力をはかるための国家試験である。このパリエン・プラヨークについ ては、少々古いものであるが、以下に比較的仔細な説明がある。:石井米雄「タイ国における『教 法試験』について」『東南アジア研究』10-4、1973 年;石井米雄『上座仏教の政治社会学―国教の 構造―』(東南アジア研究叢書 9)、岩波書店、2003(第 2 刷)pp.168-194(第四章「教法試験」制 度の成立とその意義)。 (12)佐々木 1950. には、タイにおいて編述された Maṅg-d のタイ語訳ならびに解説書類が紹介されて いる(p.99a-b)。

(13)Osker von Hinüber は〈そのテキストはタイ(Siam)において広範に用いられているが、北部タイ 文字の写本(manuscript)は残存していないようである〉[H-HPL. p.179]と述べている。 (14)橘堂 1997. には、A.D.1927 にスリランカのコロンボで出版された刊本が紹介されている(p.31

(No.62))。クメール字活字刊本については、カンボジアのプノンペンにある仏教研究所(L’institut bouddhique)から出版されている Ganthamala と題される仏典のシリーズに、4 分冊された Maṅg-d の刊本がある(Ganthamala VI , Maṅgalatthadīpanī, Cette publication a reçu l’pprobation du Conseil des Ministres et des deux Chefs de Secte. Phnom Penh : L’institut bouddhique, 1996)。なお、この刊本は、世 界宗教者平和会議日本委員会と曹洞宗ボランティア会との共同プロジェクトとして刊行されたも のである。 (15)ミャンマーでの状況は筆者には目下のところ詳らかではない。ただ、同国では「38 種の吉祥」 ( )が、仏教の啓蒙書、解説書の出版も含め、説法の題材として好んでとりあ げられていることを考えると、Maṅg-d に関心を寄せる学僧がいないとは思えない。なお、『ピタ カットータマイン』No.1038 には、ミャンマーのアマラープーラにおいて、「ニャウンカン・サヤドー」 ( )こと Kavindābhivaṃsa 師が Maṅgalatthadīpanī-cakā:pye(

(13)

を著した、とある[Piṭaka. p.148;Cf. Piṭaka-Tr. p.133 (No.1037)]。これが Maṅg-d の語釈類であると するならば、ミャンマーにおいて比較的古くに Maṅg-d の研究がなされていたということになるで あろう。

(16)タイ語の “

เชียงใหม

่” とは、“

เชียง

”(城壁都市)と “

ใหม

่”(新しい)の複合語であり、「新しい都」

を意味する。パーリ語の “Nava-pura” は “

เชียงใหม

่” の訳語であり、“

ใหม่

” が “nava” に、“

เชียง

” が “pura”

に各々意味的に対応する。なお、Jinakālamālī においては “Nabbisinagara” などとパーリ語訳される。

(17)『ピタカットータマイン』No.243 には、〈Pārājikaṅ-aṭṭhakathā Yojanā( ):

10- ティーリミンガラ(* = P.Sīrimaṅgala)師が造る。ウィザヤープーラー(*

= P.Vijayāpūra)と称されるピンヤ(* )の町において君臨する、4 頭の白象を有する者である、

ティーハトゥー(* 、ヤダナープーラ即ちアヴァにおいて緬暦 863 年に即位した Narapati)

の御代に、トウッターワディー(* = P.Tuṭṭhāvatī)と称されるミンゲー(* )の南

のパレイ(* )村の東側の町である新しい町(* = P. Navapura ?)に住まうティリミン

ガラ師が造った〉[Piṭaka. p.55;Cf. Piṭaka-Tr. p.61 (No.242)](※原文はミャンマー語)とあり、 Pārājikaṇ-aṭṭhakathā-yojanā を Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā および Maṅgalatthadīpanī の著 者と同じ Sirimaṅgala であるとしている(住居地をミャンマーとしている点は別途再考されるべきであるが)。   ちなみに同書では、Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā(No.364)について〈Saṅkhyāpakāsaka-ṭīkā:10- ティリ

ミンガラ(* = P.Sirimaṅgala)師が造る。ウィザヤープーラーと称されるピンヤの町にお

いて君臨する、4 頭の白象を有する者である、ティーハトゥーの御代に、トウッターワディーと称 されるミンゲーの南のパレイ村の東側の町である新しい町に住まうティリミンガラ師が造った〉 [Piṭaka. p.72;Cf. Piṭaka-Tr. p.75 (No.363)] と 述 べ、Maṅgalatthadīpanī(No.366) に つ い て は 〈Maṅgalatthadīpanī:10- ティリミンガラ師が造る。ウィザヤープーラーと称されるピンヤの町にお いて君臨する、4 頭の白象を有する者である、ティーハトゥーの御代に、トウッターワディーと称 されるミンゲーの南のパレイ村の東側の町である新しい町に住まうティリミンガラ師が造った〉 [Piṭaka. p.73;Cf. Piṭaka-Tr. p.75 (No.365)]と述べている。

(18)Vessantara-jātaka(「布施太子本生」)とは、Jātaka の最終章 Mahānipāta の最後に置かれている本

生説話である(Jātaka-pāḷi Be Vol.2,pp.311-378(Jātaka No.547);Jātaka-aṭṭhakathā Be Vol.7, pp.240-387)。

(19)Vessantara-dīpanī は、山中行雄によれば、タイにおいて活字刊本が A.D.1997 と A.D.2006 に出版 されており、タイ写本・カンボジア写本が現存するとのことである[山中 2012. p.313]。Vessantara-dīpanī については、山中氏の一連の論稿(Yamanaka 2011a.;山中 2011b.;山中 2012.)に詳しく論 じられている。

(20)筆者(古山)は 2013 年 12 月 28 日に Wat Tamnak を訪れた。その折に目にした境内の案内板(タ イ 語・ 英 語。 英 題:“The History of Tamnak Temple”) に は、“This Tamnak Suankwansirimangkalajan temple was not correctly built with its evidences but it is presumed that was built between B.E. 2038-2045 [A.D.1495-1502] in the period of King Muang Kaew B.E.2038-2045 [A.D.1495-1525] as it happened in “Yonok Chronicle” that is said on Sunday the 3th month waxing moon 10th. King Muang Kaew went to contain the Lord Buddha’s holy relics at the stupa of Weruwanaram Temple in the southwest of Nakorn Chiang Mai.”(※タイ語版のほうには、“King Muang Kaew B.E.2038-2045 [A.D.1495-1525]” との年記の部分

は “

พ.ศ

.2038-2068” とあり、混乱している)とあり、同寺院の建立年が定かでない旨が記されてい

(14)

p.363。※ Ch-Chronicle. には見られない。Jkm. は p.121]に言及しているのかは、よく分からない。 (21)Cakkavāladīpanī については、Osker von Hinüber が、著作年の 18 年後に当る A.D.1538 に書写され た断片的な北部写本(fragmentary northern manuscript)が、チエンマイのワット・プラシンに現存 していると言っている[H-HPL. pp.184-185;Hinüber 2000. pp.122-123]。 さらにまた、Daniel M. Veidlinger によれば、Cakkavāladīpanī には、A.D.1538 書写のものと凡そ同時代のものという、2 本 の古写本が現存しており、いずれもアランニャ住(araññavāsī)の Mahā Saṅgharāja Candaraṃsi の後 援によるものであるとのことである[Veidlinger 2006. p.94]。

(22)Sāsanavaṃsa には “tattha nagare Ñāṇavilāsathero Saṅkhyāpakāsakaṃ nāma pakaraṇaṃ akāsi. …”〈そこ では、都(* チエンマイ?)において、Ñāṇavilāsa 長老は Saṅkhyāpakāsaka なる論書を造った。…〉 [p.51;Cf. 生 野 1980. p.109] と あ る。 ま た、『 タ ダ ー ナ ー リ ン ガ ー ヤ サ ー ダ ン 』 に は、 〈1.Saṅkhyāpakāsaka の本文をジンメー(* チエンマイを指すミャンマー語)のニャーナウィラータ

(* = P. Ñāṇavilāsa)が造った。…〉[Sāslc. p.77;Cf. 池田 2007. p.125](※原文はミャ

ンマー語)とある。『ピタカットータマイン』No.363 には、「アユタヤのチエンマイ」としているが、 同 様 の 記 述 が 見 ら れ る[Piṭaka. p.72;Cf. Piṭaka-Tr. p.133 (No.362)]。 こ れ ら の 記 述 に 拠 れ ば、 Saṅkhyāpakāsaka はチエンマイで造論された書ということになるであろう。なお、M.H.Bode は述作 地が “Laos” であったかのように説明しているが[PLB. p.47]、これは誤解と評すべきである。 (23)〈ランカーに到達した長老の精舍に住まっていた…〉は、生野 1980. では〈…楞伽島留学僧の僧 院住の〉と訳されている(p.110)。この生野訳がパーリ原文に即したものであるのかどうか再検討 されるべきであろう。『ターダナーリンガーヤサーダン』に引き摺られているのではなかろうかと の印象を受ける。

(24)“new Lankavamsa” については、拙稿「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の Phra Sila(石板像) について」『駒澤大学仏教学部論集』第 42 号、2011 年 pp.311-310 footonote(20) において概説してい る。Cf. Sarassawadee 2005. p.80;Hans 2004. pp.74-78。

(25)Daniel M. Veidlinger は、〈Sirimaṅgala は 16 世紀の最初の四半世紀の間に活動し、彼の最もよく知 られた著作は Vessantaradīpanī、Cakkavāḷadīpanī そして Maṅgalatthadīpanī である。…いずれの著作も、 彼ら(*Sirimaṅgala と Ñāṇakitti)の著作に付されている colophon においては、araññavāsī として言 及されてはいないが、しかし、彼らが、もしもその公式なメンバーでないのなら、そのグループ と強く提携していたという明白な証拠がある〉[Veidlinger 2006. p.94]と述べ、Sāsanavaṃsa におけ る〈ランカーに到達した長老の精舍に住まっていた〉という記述、Cakkavāladīpanī の 2 本の古写 本 が araññavāsī の Mahā Saṅgharāja Candaraṃsi の 後 援 に よ る も の で あ る こ と(Cf. 上 掲 註 (21))、 Vajirasārasaṅgaha が 書 か れ た と さ れ る Mahāvanārāma が Wat Pa Dng( ※ araññavāsī で あ る “new Lankavamsa” の チ エ ン マ イ に お け る 拠 点 寺 院 ) を 指 し て い る 可 能 性 の あ る こ と を 挙 げ て、 Sirimaṅgala が “araññavāsī” と呼ばれる比丘のグループと親密な関係を有していたと論じている。 (26)〈ティーホーに到った、僧院に住まう…〉(原文: )の部分は、 池田 2007. では〈セイロン留学経験がある僧院住の…〉(p.125)と訳されている。生野 1980. にお ける、『ターダナーリンガーヤサーダン』に言及した註記では、〈セイロン到達の僧院(Thihô-rau'-kyaung-taik)住の…〉(p.111 No.(7))と訳している。 (27)ラーン・ナー史に精通するサンワン(

สงวน โชติสุขรัตน์

)は、〈大変惜しむべきことに、我々はシリ マンカラーチャーン(*P.Sirimaṅgala-ācārya)師がどの人の子孫であるのか、また、いつ入滅に至っ

(15)

たのか、ということを知ることができないかもしれない。我々はただ僅かに、御尊師がパーリの 意味(*

อรรถบาลี

)に精通する偉大な長老師であり、ひとりの聖典師(*

พระคัมภีร

์)・三蔵師(*

พระไฅรปิฏก

)であるということのみを知る。ティラカパナッターティラート王(*

พระฅิลกปนัดดาธิราช

) (ムアンケーオ王(*

พระเมืองแก้ว

))の治世期に、この御尊師がおられ、そして、御尊師はワット・ス ワンクワン(*

วัดสวนขวัญ

)に逗留しており、チエンマイの城壁から約 1 ガーウタ(*P.gāvuta)(即 ち 100 セーンまたは 4km)離れた、チエンマイ都域の南の場所にある空虚な空屋(*P.suññāgāra) としての遠離(*P.viveka)という事件があった。…〉[TamMN. pp.503-504](※原文はタイ語)と 述べている。

(28)チエンマイの現 Wat Uppakhut の東隣にある Chiang Mai Religion Practice Center(

พุทธสถาน-เชียงใหม่,

สมาคมทางสังคม

。所在地:Thapae Road,

เมืองเชียงใหม่, เชียงใหม

่ 50200,

ประเทศไทย

)の隣(Tha Phae Rd.(1006 号線)と Charoen Prathet Rd. の交差点に面する道路側))に Sirimaṅgala の像(中央)とともに石板 の記念碑(右側:タイ語 1 枚、左側:英語 1 枚)が建立されている。そこには、“In the reign of king Mungkaew (B.E. 2038-2066), Phra Sirimangalacaraya was appointed as king Dhamma's counselor. Thus the king built a temple for him to reside in. / Phra Sirimangalacaraya used to go to study in Sri Lanka, and is considered to be a learnen monk.” と記されている。

(29)山中 2011b. には、Sirimaṅgala が〈ラーンナー王 Muang Ketklao の和尚 Upajjhāyācariya であ〉ると する Likhitananda の所論を紹介しているが、〈その根拠はあきらかでない〉と述べている(p.7)。 (30)Vessantara-dīpanī について、Sirimaṅgala が “sīhaḷa-pāṭho” や “sīhaḷa-potthake” と断り書きして紹介

する異本テキストや、言及している「異読」について考察した山中行雄は、〈…引用文の読みは、 15-16 世紀当時、ラーンナー王国に伝承されていた文献の読みを反映している。したがって、シリ マンガラの著作を始めとして、ラーンナー王国の注釈書を読解していくことにより、15-16 世紀に 伝承されていたパーリ語文献の古い異読を収拾することが可能になると言える。これらの異読に は、…今日では伝わっていないが、おそらく正しいと思われる読みも含まれている。このような 理由から、ラーンナー王国で書かれた注釈書は、ラーンナー王国で筆写された写本と同様に重要 な資料であり、それらの研究は、パーリ語文献の文献学的研究およびパーリ語文献伝承の史的研 究に貢献しうるといえよう〉[山中 2011b. p.14]と述べている。 (31)斯かる研究については、山中氏の一連の論稿(Yamanaka 2011a.;山中 2011b.;山中 2012.)のほ か、目下筆者の知るところでは、例えばタイ北部で筆写された仏典写本類を検討した以下の如き 有益な論稿がある。:Osker von Hinüber. ‘Pāli Manuscripts of Canonical Texts from North Thailand ―A Preliminary Report’ Journal of the Siam Society Vol. 71 1983. 75-88;松濤泰雄「北部タイ新出相応部写 本研究(一)」『仏教論叢』(浄土宗教学院)29、1985 年 pp.161-165;同「北部タイ新出雑阿含経写 本研究(二)」『浄土宗教学院研究所報』7、1985 年 pp.37-42;同「北部タイ新出相応部写本につい て」『宗教研究』276、1986 年 pp.644(180)-646(182)。

(32)これは Paramatthajotikā(Suttanipāta-aṭṭhakathā)Be Vol.1,p.128 に見られる “tattha gāthāyāti

akkhara-padaniyamitena vacanena” を複合語を開いたかたちで示したものであろう。

(33)Maṅg-d には、Chandavuttippadīpa 以外の韻律書類として、Vuttodaya からの引用が確認される。 “vuttodaye” と明示されているものに限ると計 2 箇所が確認される[Maṅg-d. Vol.1, p.11;Vol.2, p.318]。 断り書きのない場合も数えればさらに存在する。また、Vuttodaya の註解書と思しき典籍からの引 用が 1 箇所ある[Maṅg-d. Vol.1, p.12]。

(16)

(34)Maṅg-d の (7)Catutthagāthāyattha-vaṇṇanā には、“dukanipātaṅguttare mātāpituguṇasutte” と前置きされ た、Aṅguttaranikāya の Dukanipāta 第 4 章 Samacittavagga の 経 か ら の 引 用 が あ る[Maṅg-d. Vol.1, pp.273-274]。 そ の 引 用 文 の 末 部 は “…ettāvatā kho bhikkhave mātāpitūnaṃ katañca hoti paṭikatañca

atikatañca” となっている。“atikatañca” の語は、B[Vol.1, p.63]には見られないが Re eにはある[Vol.1,

p.62]。Reの脚注には、ミャンマー文字による Phayre 写本(India Office Library 所蔵)においては

“atikatañca” の語は欠けている、と註記されている。“atikatañca” を含まないのがミャンマーにおい て通用していた orthodox な伝本のテキストであるとするならば、Sirimaṅgala が用いていたテキス トは「ミャンマー系」のものではないということになるであろう。ちなみに、スリランカ Buddhajayanti 版には “atikatañca” の語がある(p.122)。

   ま た、Maṅg-d の (8)Pañcamagāthāyattha-vaṇṇanā に は、Jātaka-aṭṭhakathā の Mayhakajātakavaṇṇanā (Jātaka No.390 に対する註釈)を抄録的に引用する箇所があるが、そこに引き示される Jātaka 本文 の偈文中に “…dhīro ca bhoge adhigamma, saṅgaṅhāti ca ñātake”[Maṅg-d. Vol.2, p.87]とある。これに

対して、Reと Beのテキストは “…dhīro bhoge adhigamma, saṅgaṅhāti ca ñātake”[Re Vol.3, p.302;Be

Vol.3, p.283]であり、“ca” の語が存在しない。ただし、Reの脚注においては、コペンハーゲン貝

葉写本(記号 Ck)では、当該部分は “dhīro ca” となっていると註記されている。

  Maṅg-d における「特異」な引用文をパーリ典籍の諸刊本そして貝葉写本などと事細かに比較す ることにより、Sirimaṅgala が依用したパーリ典籍の伝来系統がある程度明らかになるかと考える。 (35)Cf. Major G. E. Fryer. Vuttodaya (Exposition of Metre). Culcutta : Baptist Mission Press, 1877. p.12; p.22; 片山一良「『ヴットーダヤ』訳注 ―パーリ韻律論―」『仏教研究』(国際仏教徒協会)3、1973 年 p.131;p.113

(36) “āratī” 及び “viratī” の語は、いずれも韻律の理由で語末母音が長音化したもので、本来は “ārati”・ “virati” である。Paramatthajotikā の語義釈(aṭṭhavaṇṇanā)においては “ārati” 及び “virati” の語形で

以って説明されている(Suttanipāta-aṭṭhakathā Be Vol.2, p.25 ; Khuddakapāṭha-aṭṭhakathā Be p.255)。

(37)Saddanīti Padamālā Be p.353:yaṃsaddo aniyamattho. taṃsaddo paramukhāvacano. etasaddo

参照

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