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澤井義次・鎌田繁編『井筒俊彦の東洋哲学』

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Academic year: 2021

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114 114 書   評 本書は、井筒俊彦が構想した「東洋哲学」の思想構造を比較 宗教学の視座に立って、宗教研究者たちがそれぞれの立場から 井筒論を展開した最初の本格的な研究書である。 イスラームの碩学として夙に知られた井筒は、東アジアは言 うに及ばず、中東、インドにも彼独自の視座を広げ、それらに 共通な共時的構造をもつものとして「精神的東洋」の知のパラ ダイムを提唱した。井筒が捉えた「東洋哲学」の特徴は、われ われの日常的経験の世界における事物事象を、言語的意味分節 によって構築された存在の意味単位として捉えた点にある。そ れは、敷衍して言えば、すべての事物事象を意味分節された表 層次元と、無差別平等の無分節の深層次元という二つの次元に おいて捉えるという「複眼視」によって特徴づけられる。つま り、表層と深層の両次元にわたる意識の地平には、形而上的な 絶対無分節の次元、彼のいわゆる「存在のゼロ・ポイント」の 次元と、多様に意味分節された存在事象とが同時に、あるがま まに顕現するのである。 さて、本書に収載されている諸論文は、井筒が構想した「東 洋哲学」とその意味論的考察をめぐって、比較宗教学的なパー スペクティヴから批判的に検討した意欲的な論考となっている。 目次を示すと、以下のとおりである。 第 Ⅰ 部   セ ム 系 宗 教 思 想 と「東 洋 哲 学 」

イ ス ラ ー ム、 ユダヤ教、キリスト教 第一章   「東洋哲学」とイスラーム研究 (鎌田繁) 第二章   井筒俊彦とカトリックの霊性 (若松英輔) 第 三 章   近 代 ユ ダ ヤ 教 正 統 主 義 に お け る コ ス モ ス と ア ン チ コスモス (市川裕) 第四章   「神秘哲学」から「東洋哲学」へ (島田勝巳)

澤井義次

井筒俊彦

東洋哲学

慶應義塾大学出版会 、二〇 一 八年

井上克人

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115 115 書評: 澤井義次・鎌田繁編『井筒俊彦の東洋哲学』 115 第 五 章   イ ス マ ー イ ー ル・ シ ー ア 派 思 想 と 井 筒 俊 彦 (野 元 晋) 第Ⅱ部   形而上学と東洋思想 第 六 章   形 而 上 学 的 体 験 の 極 所

「精 神 的 東 洋 」 と は 何 か (氣多雅子) 第 七 章   井 筒 俊 彦 と 華 厳 的 世 界

東 洋 哲 学 樹 立 に 向 け て (安藤礼二) 第八章   井筒俊彦における禅解釈とその枠組み (金子奈央) 第 九 章   井 筒 俊 彦 が 開 顕 す る 仏 教 思 想

比 較 宗 教 思 想 的 地平から如来蔵思想をみる (下田正弘) 第Ⅲ部   未来へ向けて

「東洋哲学」の展開 第 十 章   東 洋 思 想 の 共 時 的 構 造 化 へ

エ ラ ノ ス 会 議 と 「精神的東洋」 (澤井義次) 第 十 一 章   井 筒「東 洋 哲 学 」 の 現 代 的 意 義

兼 ね て 郭 店 『老子』と『太一生水』を論ず (池澤優) 第十二章   東洋における言語の形而上学 (ロペス・パソス   フアン・ホセ) 第 十 三 章   根 源 現 象 か ら 意 味 場 へ

思 考 を 生 む 知 性 の 仕 組みを辿る (小野純一) 井筒俊彦研究文献一覧 (長岡徹郎 作成) 各章の要旨は紙幅の制限によって概略しか紹介できない。こ こでは「あとがき」で簡潔に纏められている紹介に基づいて論 じ、評者の若干の感想を示すことでお許し願いたい。 まず第Ⅰ部だが、第一章は本書全体の序論的意味を持つ論稿 であり、井筒の学問全体を射程に据えて、彼の方法論的視座と し て の 意 味 論 が 学 問 全 体 を 貫 い て お り、 彼 の イ ス ラ ー ム 研 究 が「東洋哲学」と結びついていることをクルアーン研究の分析 を通して明晰に説いたものである。第二章は井筒のキリスト教 的霊性との出会いについて、カトリック哲学者吉満義彦、カト リックのイスラーム学者ルイ・マシニョン、批評家の越知保夫 などに言及しつつ論じられており、井筒のキリスト教への関心 の深さと確かさが明らかとなる。第三章は、戒律遵守を基本と するユダヤ教正統主義が、思想の源泉に「アンチコスモス」を 置く老荘思想やイブン・アラビーの存在一性論とは異なり、ア ンチコスモス的でないことを明示している。第四章は、評者が 特に関心をもった論稿であり、井筒の第一期における「旧約か らキリスト教への道」つまり当初の「神秘哲学」構想の頓挫と 第三期における「東洋哲学の共時的構造化」の構想に、ど のよ うな理論内在的な要因があるのかを詳細に論及したものである。 井筒の意味分節論は、プロティノスの流出論を基盤に据えてい るが、彼の「東洋哲学」は、人格的一神教における「神秘主義 のエロス的形態」をあえて外部に放擲することによって可能に なったと結論づけており、充分説得力に富む論考であった。続 く第五章は、井筒のイスマーイール派解釈を取り上げ、この派 に お け る イ マ ー ム や 創 造 の 言 葉 を、 彼 の い わ ゆ る「存 在 の ゼ

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116 116 116 ロ・ポイント」を究極の発出点とする形而上的存在の一つの顕 現として捉えているとし、周期的歴史観や否定神学を重要な要 素として含むイスマーイール派の思想と彼のイスマーイール派 理解の間に微妙なずれがあることを見て取っている。 次に第Ⅱ部だが、ここに収録されている諸論稿はまさに宗教 哲 学 に 直 接 か か わ る 興 味 深 い も の ば か り で あ っ た。 第 六 章 は、 井 筒 の い わ ゆ る「形 而 上 学 的 極 所 」、 言 い 換 え れ ば 絶 対 無 分 節 の 次 元 で あ る「存 在 の ゼ ロ・ ポ イ ン ト 」 が ど の よ う な 特 徴 を 持っているかについて、ソシュールのシニフィアンとシニフィ エの関係に着目し、井筒が意味の真相を無意識的深層における 浮動性の生成的 ゆれ 0 0 のうちで把握していることを示唆する。さ らに井筒が「東洋哲学」の構想を具体化させた方法論的操作と しての「共時的構造化」の問題、そして井筒哲学で重要な「本 質」肯定論と「本質」否定論の問題、無「本質」的分節、言語 ア ラ ヤ 識 な ど 重 要 な テ ー マ が 詳 細 に わ た っ て 論 及 さ れ て い る。 と く に 言 語 ア ラ ヤ 識 に は、 「想 像 的 イ マ ー ジ ュ」 の 問 題 が 伏 在 す る こ と を 指 摘 し て い る の は 啓 発 的 で あ っ た。 続 く 第 七 章 は、 井筒が初期の『神秘哲学』から遺著『意識の形而上学』に至る まで、一貫してプロティノスの哲学を思惟の中軸に据えていた こ と に 着 目 す る。 『神 秘 哲 学 』 で は プ ロ テ ィ ノ ス の 哲 学 を 西 洋 哲学の基盤に据えていたにも拘わらず、晩年の「東洋哲学」の 構想では、華厳哲学との連関があることも強調している点は特 筆に値する。さらに本論文の出色は、プラトン・アリストテレ ス以前と以後の神秘体験、言い換えれば「憑依」の問題とから めて井筒哲学を読み解いていることである。そして空海の密教 的世界観にまで論が進められ、非常に説得力があり、魅力的な 論 考 で あ っ た。 ま た、 井 筒 の 宗 教 哲 学 を 論 じ る 場 合、 抜 き に し て は 語 れ な い の は、 や は り 教 外 別 伝・ 不 立 文 字 を 標 榜 す る 「禅 」 と の 関 係 で あ ろ う。 第 八 章 で は、 井 筒 の 禅 解 釈 を め ぐ っ て、 無 分 節 と 分 節 の 存 在 論 的 構 造 を「 (分 節 Ⅰ ) 見 山 水 是 山 水 」 「 (無 分 節 ) 見 山 水 不 是 山 水 」「 (分 節 Ⅱ ) 見 山 水 祇 是 山 水 」、 そ し て「臨済四料簡」すなわち「人境倶奪」 「奪境不奪人」 「奪人不 奪 境 」「人 境 倶 不 奪 」 に 即 し て 詳 細 に 論 述 し、 さ ら に 禅 に お け る共同体についても論じられている。井筒が修行の深化によっ て個人の意識が転換することを説くとき、そこには個人の意識 の深化と転換を基盤としたコスモス的秩序や共同体の姿を構想 していたことを指摘する。第九章では、井筒の晩年の遺著『意 識 の 形 而 上 学 』 に 注 目 し、 『大 乗 起 信 論 』 が 依 拠 す る 如 来 蔵 思 想をめぐって、井筒の形而上学の特徴を手際よく論じ、井筒が 如来蔵思想に着目したことで、仏教思想の可能性を開顕したと 論じている。 さらに第Ⅲ部は四つの章から構成されている。第十章は、井 筒がエラノス会議の講演を通して展開した東洋思想の創造的な 「読 み 」 と そ の 特 徴 を、 い わ ゆ る「共 時 的 構 造 化 」 と い う 方 法 論の形成過程を辿りながら考察している。特筆すべきは、本論 考で井筒の哲学的意味論に着目し、イブン・アラビーの存在一

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117 117 書評: 澤井義次・鎌田繁編『井筒俊彦の東洋哲学』 117 性論や新プラトン主義、さらには彼の「東洋哲学」における意 識と存在の構造を詳細に渡って論及しており、禅仏教、華厳教 学、そして中国宋代の儒者が提唱する「格物窮理」にも言及し ている点で、啓発されるところ多大であった。今後の井筒哲学 研究への展開へ向けてその正しい方向性を示す論考と言えよう。 続く第十一章は、井筒の「東洋哲学」構想の中で、とくに中国 思想に着目して論じられており、しかもその現代的意義として、 生命倫理の分野を事例として検討されているユニークな論考で あった。第十二章は、井筒の「東洋哲学」の概念的枠組みにお ける言語の意味を検討することによって、井筒哲学がグローバ ル化する現代世界に相応しい普遍的な哲学へと展開する可能性 を示唆している。そして最後の第十三章は、井筒がイブン・ア ラビーの存在一性論を単純化して、根源現象をとくに「存在は 花する」と表現したことに着目し、絶対無限定な存在そのもの の自己分節として存在者の世界が展開する、根源現象の本質措 定の類型化を論及したものである。 さ て、 以 上、 本 書 の 各 章 の 紹 介 を し て き た が、 た だ 一 つ 不 満 に 思 う の は、 以 下 の 事 で あ る。 井 筒 の 意 味 論 的 視 座 か ら み た「東洋哲学」の特質は、つまるところプロティノス的発出論 を 基 盤 に 置 い た 本 体 的 一 元 論 に ほ か な ら な い。 『意 識 の 形 而 上 学』における『大乗起信論』に関する論考も、存在一性論に通 底する如き発出論的一元論にほかならなかった。疑問に思うの は、こうした発出論を説く場合、どうしてもそこにイメージと して伴う「時間的・過程的継起」である。井筒が禅の言説にま で説き及ぶその視座に立てば、そこにはもはや過程的継起はな いはずであって、絶対無分節の次元と分節的次元とが 同時に複 0 0 0 0 合 的 に 0 0 0 見 ら れ て い る は ず な の で あ る。 「万 法 は 一 に 帰 す、 一 い ずれのところにか帰す」と言われる場合の「万法」と「一」の 関係は、決して時間的・過程的継起をイメージさせる流出論で はなく、一挙に「万法」即「一」である。言い換えれば万法の 〈多 〉 が〈多 〉 と し て 現 出 し て い る こ と と、 〈一 〉 が〈一 〉 自 身へと 還 げ ん め つ 滅 し、覆蔵していることは同時である。言い換えれば、 明 鏡 (絶 対 無 分 節 の 次 元 = 存 在 の ゼ ロ・ ポ イ ン ト ) は あ ら ゆ る 事 物 事 象 を 自 ら の 鏡 面 に 映 現 さ せ る が (分 節 化 ) 、 そ こ に 映 し 出 された個々の映像と鏡面は一つでありながら、明鏡そのものは 映像ではなく、映像が現出する場所であって、明鏡としてはど こまでもゼロ・ポイントとして覆蔵されている。明鏡として覆 蔵されていればこそその鏡面に個々の事物事象が映現されるの で あ る。 映 像 (個 々 の 事 物 事 象 ) は 明 鏡 (存 在 の ゼ ロ・ ポ イ ン ト ) から徐々に時間をかけて流出され顕現してくるのではないであ ろう。評者はそこに露現と覆蔵の同時生起を見るのだが、井筒 が そ う し た 消 息 を ど の よ う に 捉 え て い た の か を め ぐ る 論 考 が まったくなかったことは残念であった。 それはともかく、本書は現代の宗教哲学研究の進展に大きく 寄与するものであることは確かである。  

参照

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