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香港における南洋米輸入先の変化とその背景 - 19世紀末~20世紀初頭の西貢米・暹羅米の動向 -

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(1)          香港における南洋米輸入先の変化とその背景              一19世紀末∼20世紀初頭の西貢米●逞羅米の動向一.                                   堤 和幸  はじめに.  19世紀半ばから今世紀初めにかけてのアジア間における南洋米の流通については、角山 栄・杉原薫・菊池道樹氏などの研究があり、q)その実態はかなりの程度明らかにされて来. ている。しかしながら、サイゴンやバンコクなど輸出側の実態と、日本・フィリピン・蘭 領インド・中国など輸入側の状況の双方の視点から流通の実態を構造的に解明しようとす ることは必ずしも十分であるとはいえない。  本稿は、1890年代後半から今世紀初頭における西貢(サイゴン)米・逞羅〈シャム)米の動 向を、香港への輸出量の変化という点から概観しようとするものである。(2>さらに、それ. を通じてアジア全域を視野に入れて米を動かした商人集団の問題についても若干の考察を 試みることにしたい。. 註 (1)角山栄「アジア間米貿易と日本」、杉原薫「アジア間貿易の形成と構造」、いずれも(r社会.   経済史学』5H,1985)、杉原薫「東南アジア第一次産品輸出経済の構造一世界資本主義   論的視点からの一接近一」(r東洋文化』64,1984)、Sugihara Kaoru“Pattems of Intra−   Asian Trade,1898−1913”(Osaka City University Economic Review 16,1980)、菊池道.   樹「東南アジアと中国」(r地域システム』アジアから考える2,東京大学出版会1993)など.   参照。また、いわゆるアジア交易圏論に関する研究の現状と課題については、谷本雅之   「“アジア交易圏”論をめぐる最近の研:究動向」(r土地制度史学』140,1993)を参照。. (2)香港における米取引については、David Faure“The Rice Trade in Hong Kong before   The Second World War”(Between East and West,1990)参照。.  1.香港市場における西貢米・逞三富  香港へ輸入される東南アジア産の米は、地域別に、東京(トンキン)米・西貢(サイゴン) 米・逞羅(シャム)米・蘭貢(ラングーン)米などと呼ばれた。このうち、東京米の総輸出量. は1893年∼1902年までの10年間の平均で約10万トン(160万担)ほどで、西貢米輸出量の六 分の一程度であった。(1)また、蘭貢米については輸出の70%以上を欧州・インド向けが占 めており、(2)香港向けの輸出は極めて少量であった。つまり、香港に輸入される南洋米の. 中心は、ほぼ西貢米と逞羅米であったとみてよい。逆に言えば、西貢米・逞羅米にとって の香港市場は非常に重要な意味をもっていたといえる。その端的な例が、サイゴン・バン コクの双方ともに米穀市場がなかったことである。「西貢米管見」(『海外旅行調査報告』19. 一51一.

(2) 21年夏期)第四章に、.   西貢には米取引所又は類似の機関なきが故に米の公定相場なるものなし. とあることや、 『南洋の米』(3)第六章には、.   相場高き方面へ委託荷として積出すものなれども、……之等古謡は香港・新嘉   披其他の貿易主要地に聯絡店を有し、委託販売方法に依るもの多し.彼等の間に   於ける取引慣習と認む可きは、大体香港に於いて行はる、南北行例に準ずるもの   なり.. とあり、さらに甲羅米についても同じく『南洋の米』に、.   盤谷所在の精米業の多くは、米輸出業を兼営し、香港若くは新憎憎に委託販売店   を有す.……而して其価額は香港・新嘉披の価額に依りて左右せらる、なり. と記されていることなどからして、東南アジアの米輸出地には米穀市場はなく、香港・シ ンガポールなどに取扱店を設けて、そこの相場によって取引を行うというのが一般的な慣 習であった。換言すれば、連絡網を整備し、香港・シンガポールの米相場に的確かつ迅速 に、しかも先の見通しを誤らずに対応できる業者のみがライスビジネスに手を出せたわけ である。.  アジアに限らず世界的に見て、米の流通に関しては香港・シンガポールが極めて重要な 役割を果たしていたことは既に指摘されているが、(4)中でも西貢米・遙羅米ともに最大の. 輸出先は、概ね香港であった。西貢米についてみると、少ない年でも百数十万担、多い年 は七百万担以上が香港に輸出されていた。(5)明治24年(1891)2月9日付の香港領事館の報告. からも、この時期、香港を通じて広東に輸入さ れる南洋米の多くは西貢米が占めていたことが 表①香港への米輸入量の変遷(単位,担) 確認でき、(6)香港での西貢米の地位が推測でき. る。しかし、それが20世紀初頭の報告では、「. 189. 10200000 (4690000. 46%). 西貢米ハ近頃人気ヲ失シ、買手何レモ控目勝チ. 189. 12590000 (6860000. 54%). 189. 11600000 (5580000. 48%). 189. (1740000. 一). 189. 12310000 (4100000. 33%). 拡大を窺わせるような内容のものが目につくよ. 189. 12710000 (5370000. 42%). うになる。しかし、ここで注意しておかねばな. 190. 11080000 (3390000. 31%). らないのは、この傾向は決して上記報告がなさ. 1901 10190000 (1270000. 12%). れた時期だけのものではなく、しかも突然出現. 190. 13500000 (3220000. 24%). 190. 9840000 (1840000. 19%). 190. 13560000 (2590000. 19%). ナル為メ、市場県警キ傾向アリ」のといった ものや、「現今、西貢米ハ不引合ノ為入船ナク、 市場ハ逞掛米ノ独舞台ナリキ」(8)というように、. 香港市場からの西貢米の後退と逞回米のシェア. した状況でもなかったということである。.  表①を見ると、香港の米輸入総量そのものに はほとんど変化が見られないにもかかわらず、. そのうちに占める西貢米の割合は1890年代半ば. (カッコ内は西貢米の輸入量及び全輪入量に占める割合). ごろから明らかに低下していたことがわかる。. (r通商彙纂』所載の香港貿易年報及び『西貢米の調査』より作成). 一52一.

(3)    量 表②同量米仕向先別輸出数.       香港・中国. シンガポール. (単位:1000担) その他アジア. ヨーロッパ. 合計. 159. 1832. 1867       1380. 276. 1875      2420. 1140. 360. 3920. 18.79      1410. 1470. 1150. 4030. 1050. 6630.  17.           − 1887           5130. 1890      4700. 1990. 160. 1240. 8090. 1go£lgo4平均 5950. 4080.  53. 1030. 11130. 1907/8     7137. 5086.  90. 2147. 14460. 1911/12    7545. 5975. 310. 3720. 17550. 192意lg27平均 9375. 7868. 3061. 2431. 22645. 1932/33   11432. 7130. 5545. 3760. 27867. 1939/40    6085     11869. 6700. 6882. 31537. James C. Ingram“ThaiIandS Rice Trade and The Allocation of Resources”〈The Economic Development of South−East Asia,1964). Table Hより    表③香港・中国向け西貢米輸出数量     (単位:1000担). 香港 中国 1866 67 68 69 70 71. 72 73. 香港 中国. 香港 中国. 4922 136. 1898. 4103  51. 5425 182. 99. 5370 236. 3273 132. 1900. 3390 131. 1呂66 45. 1882. 2085 171. 83. 742  57. 84. 344 133. 85. 5680  60. 1235  28. 86. 3945  51. 87. 3266  95. 88. 2409 262. 89. .01. 1269 146. 7328  97. 02. 3223 250. 6098 143. 03. 1843  一. 5174 164. 04. 2589  68. 2745  34. 05. 777   5. 2460  一. 1086  1. 90. 5652 105. 06. 75. 3542  56. 91. 4092  2. 07. 7109 1808. 76. 4206 227. 92. 3705  一. 08. 2637 121. 77. 3534 342. 93. 5083 535. 09. 1273  一. 78. 3035  9. 94. 4692 133. 10. 3371 834. 79. 2810 119. 95. 6859  52. 11. 2.046  一. 80. 2307  48. 96. 5575 123. 12. 五917  一. 2517  30.. 97. 1738  一. 13. 4382  3. 74. 81. (『西貢米の調査』南支那及南洋調査98輯,1925より作成∼.              一53一.

(4)  では、西貢米にかわって香港に流れ込んだとみられる逞羅米の輸出動向はどうか。逞羅 米については、西貢米のような毎年の仕向地別輸出統計を見いだすことができないが、(9). 表②と西貢米の香港・中国向け輸出量の変遷をあらわした表③と比較してみると、1890年 までは抽出したどの年においても香港への輸出量は西貢米のそれに及ばず、前出の1891年 忌日本の領事館報告を裏付けている。それが、1890∼1904年の五年間の平均となると、西 貢米が約246万担であるのに対し、逞羅米は595万担にものぼっている。こうした状況から すると、1890年代後半から今世紀初頭にかけて、香港の米市場においては、西貢米の減少 と逞羅米の増加という、相対的な勢力関係の変化が起こっていたと考えられるのである。. 註 く1)r通商彙纂』(以下r彙纂』と略す)40−67「西貢二於ケル米穀市価其他二関スル調査」明治40  年(1907)所収の「東京米輸出表」 (2)r彙纂』40−67「蘭貢米況」明治40年(1907). (3)南洋協会新嘉島商品陳列館(1921) (4)角山栄・杉原薫、前掲諸論文参照。. (5)『西貢米の調査』(南支那及南洋調査98輯,1925)第九章輸出の趨勢 (6)r官報』第2281号「通商報告」には、「年々香港地方ヲ経テ広東地方へ輸入スル外国米ハ過.  半蔀棍米ニシテ……」とある。(1891年2,月9日付) (7)r彙纂』39−32「香港米況」明治39年(1906)4,月23日付. く8)r早早』39−37「香港二於ケル外国米市況」明治39年(1906)5月19日付 (9)掛川米の総輸出量の変遷については、James C. Ingra皿“ThailandもRice Trade and the  Allocation of Resources”(The Economic Development of South−East Asia,1964)に.  毎年の数字は明らかにされている。. 皿.日本の南洋米輸入とその影響  その背景を考えるにあたって、まずは西貢米の輸出動向を概観しておきたい。.  図①は西貢米の輸出先の変化を示したものである。輸出量の多い香港・フランス本国・ フィリピン・日本向けをピックアップしたもので、統計的に不十分な点もあるが、1890年 代後半からの香港向けの減少と、その他の国・地域への輸出先の多様化をはっきり見て取 ることができる。年貢米については、全体的傾向として輸出先の多様化が香港への輸出の 減少という形であらわれたといえる。ただ、西貢米の総輸出量は大幅に増加していたこと を考えると、(1)より直接的な要因、即ちそれまでの香港経由での米輸入から、直接輸入へ. と転換したと考えられる日本・フィリピンなどの輸入動向を把握する必要があろう。.  そこでまず、日本における南洋米の輸入状況に目を向けてみることにしたい。フィリピ 一54一.

(5) 二二へ一…一日本へ. 刀ピンへ…一…一仏本国へ. d旦). 覧。. 鋤 細 ら00. 55θ. 恥。. 4δo. 柵 350 300.        1∼     ’ 蜘 200 150.       .抽. 100. 1880  団  竃2 33 卵卜 35 雛  曾7 98 3望  望  9藤 了2  93 94  9$  96 97 79  97 〃OD O1 02 03 04 05 06 σ7 08 9?. ’0 〃 !2 /3.       図①西貢米主要仕向地別輸出高変遷(r西貢米の調査』より作成). ンについては、香港経由の間接輸入と直接輸入された米の比率の変化が明らかにできない こともあるが、それ以上に日本の南洋米輸入が香港での米取引に深いかかわりをもってい ると思われるからである。図②は中国と日本の南洋米輸入の移り変わりをあらわしたもの である。このグラフからは、日本と中国の輸入動向がほぼ相反していることが読み取れる であろう。もちろん例外もあるが、一方が増加するともう一方が減少するという動きを示 している点は興味深い。米の輸入先としては南洋が最大の供給源だった点は日本・中国と もに共通しており、両国は世界有数の米輸入国であると同時に、(2)供給元が競合する関係. にあったわけである。しかも、中国へ輸入される米のほとんどが香港経由であったことを 考えると、(3)香港における米取引の変化には日本が大きなかかわりをもっていたと考える べきであろう。.  図③は日本の米輸出入量の変化をあらわしたものである。このグラフから明らかなよう に、明治23年(1890)を境に日本は米の輸出国から輸入国へと転換し、明治30年(1897)以後. 大幅な入超状態を迎える。この1897年には北陸地方を中心に数十件の米騒動が発生するに 及んで、(4)中国・朝鮮から大量の米が輸入されるが、総輸入量630万担の半分程度を満た すに過ぎず、残りの300万担ほどは南洋米であったと考えられる。(5)同様に、翌1898年に. は1170万担もの米が輸移入されるが、ここでも1000万担近い米が主に東南アジアからもた 一55一.

(6) α勧 1500.    掴への南洋禾輸入 一…………. g,本への南洋禾輸:入. 置今oo. 盲300. 1200. 11.oσ. looσ. 豊. goo. 80σ. 冒700. 6σo. 500. 午00. 300. 200 Ioo. 8870,「 82 93 3昏 93 86 37 3含 8, ,σ ,’ 92 ,3 角F 29 ,‘ ナ『 殉 ”ηgo σ! oユ 03 4タ ρ5’46 ρ7 σ曾 9’ ノσ 〃 . ’2 心 ’タ. 図②中国・日本の南洋米輸入動向(IMC Reports及びr米二関スル調査』より作成). 農 一一一一一一一噂一. 坙{からの輸出. 一日素への輸入 . 」,o旦. ’ユDα石. ”oo再. !σoσ. 曾oo. 8晦 70鱒. 60qハ. 9◎o轟. 斗0吻 噛9一. 。. 3⑩石. 2吻 !σαだ. /\/ !. !267胆 ‘曾 70 71 謄  7⊃ 74 73 7も 77 ヲ曾 7, 80 別 . 曾ユ 宰3 竃辱 富5 86 曾7 冊 r曾 ?O  ‘  ユ  3 ,争 7  ,6 97 ” . ,望 」脚 !  2  3  4  3  6  7    ?  ,O 餌. 図③日本における米輸出入量(r米二関スル調査』より作成). 一56一.

(7) らされたのであった。(6)『米二関スル調査』によると、日露戦争をはさんで、かってない. 大量の米輸入を行った1903・4・5年には、南洋米輸入だけで1000∼1400万担をこえたことが. わかる。これら南洋米は、従来そのほとんどが香港経由で輸入されていたが、前述のごと く1890年代後半までは香港へ持ち込まれる米の中心は西貢米であったこともあり、日本へ 輸入される南洋米も西貢米が主体であった。(7)しかも、その西貢米のほとんどは精米で、 明治41年(1908)∼大正元年(1912)の五年間をみてみると、最低でも89%、多い年は96%が 精米であった。(8)西貢米は、「一種の臭気あり粘気なく下等労働者漁民等の消費に充つるの. み」(9>といわれたように、逞羅米・蘭貢米に比べて品質は劣るものの価格が安いのが最大 の特徴で、日本米に混用することを目的とした輸入米としては最適であった。(10).  一方、遙羅米の方はこれとはまったく違った側面をもっていたといえる。.              表④からわかるように、日本に輸入される逞立米のほとん. 表④日本の逞羅米輸入に.               どは砕米であった。砕米(Broken Rice)は割れ具合によっ.     占める砕米の割合.              て、二分の一・三分の一・四分の一、それ以下のものの四 明治41年(1908)   42年(1909)   43年(1910)   44年(1911). 大正1年(1912)   2年(1913)   3年(1914). 92% 94% 92% 93% 96% 85% 91%. (『米二関スル調査』第一編 第二章「日本内地二於. ケル米ノ輸入及移入」より作成〉. 等級に分けられていた。qP砕米の中でも最も上質な大粒 の“二つ折”といわれるものは広東では多く食用とされた ほか、日本内地経由で朝鮮に送られるものが多かったとい ,  (12). つ。.  朝鮮米は品質が日本米に近く大量に日本へ送られていた のは周知のことである。こうした日本への米の積み出しに よって生じた不足を補うことを目的に、低品位の砕米が代 替品として朝鮮へ運ばれたものと考えられる。日本経由で 流れた米の具体的な量は明らかでないが、明治36年(1903). には朝鮮からの輸出米103万担余り、輸入が15万担ほどで. あったものが、10年後の大正2年(1913)には輸出が約195万担とほぼ倍増したのに対し、輸. 入の方も約66万担と四倍増になっている。因に、この195万担のうちの80%近くに当たる 約152万担は日本へ送られていることからすると、日本の朝鮮米大量輸入の穴を埋めるた めに南洋米が朝鮮へ輪入されていたと考えざるを得ないのであるが、q3>日本が輸入した “二つ折”の中に、こうした目的で再輸出されたものが少なくなかったということであろ. う。また、“二つ折”以下の下等米については飴などのほか、沖縄では泡盛の原料として も利用されたという。(14)つまり、西貢米が日本国内の経済的に下層な民衆の食用に期待. されたのとは違って、逞羅産の砕米は、朝鮮米輸入の代替品や加工用米として輸入された のであった6.  しかし、日本国内の米不足が匝常化、かつ深刻化してくると、いかに安く輸入するかが 逞羅米・西貢米の双方に共通した大きな課題となってくる。前述のように、逞羅米・西貢 米ともに最大の輸出先は香港であったが、いかに安く輸入するかは、いかに低コストで輸 入するかという問題でもあり、そのためには香港からの輸入という、いわば問屋から仕入 れる方法をとるより、生産地において直接買い付ける方がはるかに有利であった。しかし、. 一57一.

(8) 日本の米輸入量がはじめて1000万担をこえた明治31年(1898)のバンコク領事藤田敏郎の報 告には、(15).   本年日本に点て平年の収穫より三四割を減ずべしとの風評盛に行はれ、随て盤谷   より日本向け、中・下等面白、続々香港へ輸送され…… とあり、こうした逼迫した状況の年も日本向けの逞羅米はやはり一旦香港へ向かっていた ことがわかる。日露戦争のため台湾米まで含めると1600万担近くの米が輸入されるという 異常事態となった1904年においても、バンコク領事館からの報告は、.   當国輸出品ノ大宗タル米穀ハ開戦後本邦二面ケル需要ノ著シク増加シタルカタメ   是亦多クハ香港ヲ経由シテ取引増加シタルカ如シ.(16). というもので、日本の昏怠米需要の伸びはほぼ香港への輸出増加という形であらわれたと 考えることができる。日本側は、もちろん直接取引をねらってはいた。前出の藤田領事の 報告には、.   (外国米の)大部分は柴紙面及逞羅米にして、其多くは香港を経由するものなり..   若し本邦商業家にして盤谷精米所と特約し、直に米穀を本邦汽船に搭載し、往航   には當国に於て需要する燐寸・雑貨・石炭を舶載せば、中間の口銭手数料等を減   面するのみならず香港に於ける積換の費用も減ずべし.. とあり、バンコクにある精米業者と直接の輸入契約を結ぶことができれば大幅なコストダ ウンになることを指摘している。しかし現実は、.   直接汽船の交通なく専売同様の会社に向ひて高価の運賃を払ひ、更に香港に於て   他船に移さざるべからず.qり というものであった。そして、藤田領事は倉本との直接取引について、   直接に注文を受け本邦へ輸出せし欧州人もあり.(18). とだけ述べている。逞羅米の直接取引はなかなか日本側の思惑通りには運ばなかったとい える。では、尚歯米の輸出先の多様化、直接輸出の増加はなかったのか。表②からわかる ように、確かにシンガポール向けが急増するが、その他アジアへの米は少なくとも1910年 代初頭までは、ほとんど増加していない。欧州向けの増加が確認できるのは1907。8年の数. 字からである。一部のヨーロッパ人商人との取引を除けば、逞羅米を買うには、“専売同 様の会社”に高額な運賃を支払って香港経由で入れるしがなかったのである。.  一方、西貢米の輸入についてはどうであろうか。具体的に現地の輸出商とどのような交 渉がなされたかは明らかでないが、表⑤からは直接輸入された西貢米の増加ぶりを見て取 ることができる。1894年忌例にとると、日本に輸入された西貢米の総量は236万担余り、 そのうちサイゴンから直接輸入されたのは28万担弱となっており、(19)直接輸入率は約12. %で、西貢米だけでも200万担以上が香港を通じて輸入されたものと思われる。翌1895年 にしても、同じく直接輸入率は16%程度で、(20)なお香港経由が中心であったことがわか. る。それが、外国米輸入のピークを迎える1904年には、サイゴンから直接輸入された比率 は28%にまで上昇している。(21)同様に、1905年は42%、1906年は57%といった具合に急. 上昇しており、しかも日本における米輸入が低水準であった1910年においては直接輸入の. 一58一.

(9) 割合は50%にのぼっているのである。(22)こ.                     表⑤日本に直接輸入された西貢米の量 れば、香港への輸入南洋米中に占める西貢米. 1890. 790000. 1903. 1149000. いる。大正年間のいわゆる米騒動時、日本の. 1891. 52000. 1904. 1233000. 商社がアジア各地で米の買いあさりを行った. 1892. 3000. 1905. 967000. ことは既に知られているが、(23)そうした動. 1893. 29000. 1906. 906000. きは日本の米不足が深刻化してきた明治後期. 1894. 276000. 1907. 1450000. からすでに見ることができ、西貢米の直接輸. 1895. 190000. 1908. 1822000. 1909. 606000. のシェアをあらわした表①と好対照をなして. 入の増加は、これがある意味で“成功”した 例といえるのではないだろうか。従来、サイ. 1896 1897. 782000. 1910. 444000. 様化を図り、日本へも輸出活動を行ったとい. 1898. 2046000. 1911. 1452000. う指摘もされているが、(24)それに加えて早. 1899. 1912. 699000. い時期から日本側からの積極的買い付け活動. 1900. 1913. 1889000. があったことも、日本への西貢米直接輸出が. 1901. 1914. 1665000. ゴン在住の中国人商人が早くから輸出先の多. 増加した要因として確認しておく必要があろ. 1902. 165000. 400000. ,  (25). 担. つ。.                      (『西貢米の調査』第九章「輸出の趨勢」より作成).  このように、西貢米の総輸出量は増加する. が輸出先は多様化し、中でも日本の例にみられるように、従来は香港経由で再輸出されて いた米の直接輸出が増加したことが、香港で取り扱われる西貢米の量的な減少となってあ らわれたのであった。逞羅米と西貢米の違いは、西貢米がこのような動向を示したのに対 し、逞羅米の方は、同じ時期、シンガポールを除いてあまり多様化という動きをみせず、. 香港への輸出も比率としては低下するが、量的には増加傾向を示していたという点にあっ たといえるであろう。そして、そのどちらにも深くかかわっていたのが日本の米輸入動向 だったのである。. 註 (1)r西貢米の調査』により算出した各10年間の平均輸出量は以下のとおりである。.   1880年代 690万担, 1890年代 890万担, 1900年代 1130万担,   1910年代 1390万担   尚、遙羅米について同様の数字を示しておく。.   1880年代 445万担, 1890年代 807万担, 1900年代 1297万担   1910年代 1550万担 (2)前掲角山栄論文、及び同氏「日本米の輸出市場としての豪州」(r経済理論』185号,1982)   参照。. (3)例えば、1888年の海関貿易報告(『中国近代農業史資料』第一輯)によると、この年輸入し. 一59一.

(10)   た南洋米のうち93%が香港経由である。また、台湾総督府殖産局r支那ノ米需給状況』に   よると1910年の香港経由率は81%ほどである。 (4)井本三夫「日本近代米騒動の複合性と朝鮮・中国における連動」(『歴史評論』459号,1988)   参照。 (5)r米二関スル調査』(農務彙纂53,1915)より算出。一 (6)註(5)に同じ。. (7)田口晋吉r米の経済』(1898)には「日本に輸入する米穀は素話を第一とす」とある。1894.   年を例にとると、外国米の総輸入量3305000担のうち仏印からのものは2365000担で、全   体の約72%を占めている。 (8)註(5)に同じ。. (9)前掲『米の経済』. (10)西貢米を精米(白米)として輸入した背景には、運賃の関係で精米済みの白米を輸入し.   た方が目減り前の玄米輸入より割安であったことや、サイゴンでの精米業の発達のほ   か、1895年の12月より輸出税が改定され、白米が税制上有利になったことも作用したと   思われる。 (11)『南洋の米』第一編逞羅「米の種類及品位」. (12)外務省通商局r香港事情』(1917)第十三編貿易. (13)『米二関スル調査』第三編第三章朝鮮二宮ケル米ノ輸移出入 (14)前掲r香港事情』及び東京高等商業学校r香港通過商業調査報告書』(1907) (15)前掲『米の経済』中編第一章「世界に於ける米の供給国」所収 (16>『彙纂』37−41「盤谷二曲ケル時局ノ影響」(1904年a月8日付) (17)註(15)に同じ。 (18)註(15)に同じ。. (19)前掲『米の経済』第四章「外国米輸入」及び表⑤より算:出。 (20)註(19)に同じ。. (21)r米二関スル調査』及び表⑤より算出。 (22)註(21)に同じ。 (23)註(4)に同じ。. (24)前掲菊池道樹論文参照。 (25)『彙纂』87号「香港二於ケル米穀商業概要」明治30年(1897)には「他国船囲サテ置キ、本邦.   船ノミニテ西貢・盤谷二品リ直積ヲナシタルモノ、遠クハ恋知ラス近クハ今ヲ去ル七年   前、即明治二十三年ノ頃、当時田中平八所有ノ汽船空知丸、日本郵船会社ノ伏木丸・三池.   丸等数回ノ往復ヲナシタル如キ」とあり、米の輸入国に転じた年に早くも直接輸入を図っ   ていたことがわかる。. 一60一.

(11) 皿.香港市場における輸入米の質的変化  日本の南洋米輸入量の増加が香港での米穀取引に与えた影響についてみてきたが、日本 における西貢米直接輸入の増加、及び香港経由での逞羅米輸入の増加は、アジアのライス センターとしての役割をもっていた香港米穀市場に対して量的な変化をもたらしただけで はなかったように思われる。香港に輸入される逞羅米の増加は、取引される米の質的な変 化にもつながつたと考えられるからである。.  香港へ送られる西貢米に占める砕米の割合は数パーセントで、それ以外はほとんどが精 米であったのに対し、(1)車懸米の方は、1913年度、精米約137万担に対して砕米は432万担、. 翌年も精米114万担に対し砕米344万担と、ほぼ1:3の割合で圧倒的に砕米が優位を占め るようになっていた。(2>これは、西貢米が日本・フィリピンを中心に輸出先が多様化し、. 香港への輸出量が減少する中、香港市場で取引される米のうち砕米が大きなウエイトを占 めるようになったことを意味している。.  来駕白米は香港市場においても常に西貢白米より高値で取引されていたが、それはむし ろ砕米の多さそのものによっていたと考えた方がよい。逞羅米の場合は白米中に混入する 砕米の割合は比較的少なかったのに対し、西貢米は白米といえども多くの砕米を含んでお り、その混入の割合によって等級がつけられていた。主に日本向けの“Japan quality”と も称された丸粒白米(Round Rice撫2)は砕米の最多混入率が30∼40%にものぼっていた。(3). 砕米と限定された西貢米の輸出量が少なかったのはこうした理由からであった。興米白米 は次第にシンガポール向けに傾斜し、香港へは従来から流入の中心となっていた低品質の 西来白米に加え、さらに低価格の逞羅産砕米が集中することになったのである。砕米は、. 日本では加工用米として利用されていたが、先に触れたように、中国、特に食糧不足の深 刻な華南地域では主食用とされることが多かった。(4)r支那ノ米二関スル調査』第十一章 「広東・香港」によると、香港からの砕米の輸出先としては、大粒は広東・瀬頭・関門・. 朝鮮等へ向かい、小粒は加工用としての日本向けが主であった。西貢米の方はほとんどが 精米(白米)で、丸取は日本へのほかマニラや中米諸国へ輸出され、長粒は広東向けであっ たことがわかる。この他、逞羅白米の方は広東・豪州・アメリカへ輸出されている。即ち、. 香港に大量に輸入されるようになった砕米のうち、主食用としての再輸出先はほぼ広東・ 福建に限られていたといえる。また、長粒の西貢白米の輸出先も広東に集中していた。逞 羅産の白米の輸入は砕米の三分の一年度であったと考えられることからすると、20世紀初 頭、広東へ輸入された南洋米の内容は、従来から入っていた西明長粒白米と次第に増加し てきた逞羅砕米、それに同じく逞羅産の白米が加わるといった構図になっていたことが推 測できる。しかも、西貢米の減少とは逆に逞羅砕米は大幅な増加をみせていたのであった。 r通商彙纂』39−37「香港二於ケル外国米市況」明治39年(1906)にも、.   本戸外日本行不相変買立居ルト、広東行白米二混合ノ目的ヲ以テ同地二引取ラル   ルモノ相応ノ高二上ル.. とあり、主食用として広東に送られる砕米がかなりの量にのぼったことを裏付けている。. こうしたことから考えると、中国に輸入される南洋米の品質は次第に劣化していたといえ 一61一.

(12) るであろう。大量の砕米が輸入された背景には中国の国内米の流通に変化が生じる中、割 安な逞羅砕米への需要が拡大したことが考えられるが、この点については中国の国内米の 流通問題とともに別の機会に論じることにしたい。  ともあれ、日本の西貢米直接輸入の増加と、香港を経由しての逞羅砕米の輸入量拡大、. 及び中国国内における砕米消費の増加などが香港の米穀市場にとって量的かつ質的な面か ら少なからざる影響を与えたことだけは、ここで押さえておきたいと思う。(5>. 註 (1)『西貢米の調査』第九章「輸出の趨勢」から算出すると、1911年に香港へ輸出された砕米の.  割合は3.5%、1912年は5.3%で、それ以前もほぼ同様の傾向であった。 (2)『南洋の米』第一編逞歯並. (3)『南洋の米』第三編仏領印度支那米 及び『西貢米の調査』第六章精米と精米所 (4)前掲r香港通過商業調査報告書』第六章貿易には、「大粒の砕米は広東・忌門の食料とな  るなり」とある。. (5)西貢米は品質の点で逞羅米に劣るため、不利な場合が多かったともいわれるが(前掲菊  池論文)、用途や仕向地による違いもあり、また、日本への輸入米にみられるように砕米.  中心の逞羅米と白米中心の西貢米を無条件で比較することはできないであろう。. IV.サイゴン・バンコクの精米所と同郷ネットワーク  〈i)サイゴンの状況  1890年代後半からみられる香港向け西貢米の減少と輸出先の多様化を考える上では、ま ずサイゴンにおける輸出体制、中でも輸出業者を兼ねる精米業者の状況について見ておく 必要があろう。 『光臨朝東華録』光緒34年(1908)2月には、.   購読為越南沿海底意、…・…磯米公司細心、而華商居其七、米市利権、幾尽帰掌   握、立入細砂散、因省飽田異、分為五幕。日溶蝕・広討・較量・瑳常・身心、各   享公所、互分珍域、経臣遜集各常商人、勧令聯絡一・気、迅設商会学堂。. とあって、今世紀初頭のサイゴンの状況を窺うことができる。それによると、サイゴンに は精米業者が九軒あって、そのうちの七軒は中国人で、米の利権は彼らが握っていること、 ただ出身地別に五つのグループ、即ち福建・広東・潮州・海南島・客家の各紙にわかれ、. 各々が公所を立て、互いに地域を分けてネットワークを形成し、商業活動を行っているこ となどがわかる。.  表⑥は1918年現在の精米所の状況である。精米業といってもライスビジネス全般にかか わる一種の総合商社と考えることができるが、中でも信用度Aとされる比較的大手のもの 10行をリストアップしたものである。精米能力からみると恰昌と同和の2行が最大規模で. 一62一.

(13) 名称  信用度  営業内容  一日精米能力(t 円三巴 萬徳源 ・昌成 台昌 ,豊:源. 同和 ・裕源.  隆. 禺昌源 源豊成. A A A A A A A A A A. 米輸出. 400.  〃. 400.  〃. 200.  〃. 700.  〃. 400.  〃. 700.  〃. 300.  〃. 500.  〃  〃. 表⑥サイゴンにおける精米所一覧             (『仏領印度支那出張自重重要』より作成). 表⑦新嘉波二曲ケル重:ナル財産家 (氏名)  (商号)  (原籍) (資産)  (営業). 1撫 陳武烈 劉長意 藍金盛 陳鶴珊. 陳先進 邸國瓦 郭 瑛. 張扶來 邸楊陳. 陳仙精 呉顯禎. 2000000弗. 貸家. 1000000. 薬種・信局・貸金・錫山. 1000000. 貸家. 福建. 1000000. 安南米輸入. 潮州. 400000. 護誤・綿布業. 潮州. 300000. 遍羅米委託販売. 潮州. 300000. 逞羅米委託販売. 福建. 200000. 蘭貢米輸入. 福建. 150000. 蘭貢米輸入. 潮州. 500000. 安南米輸入. 福建. 150000. 安南米輸入. 福建. 100000. 蘭貢米輸入. 福建. 100000. 邊羅米輸入委託販売. 潮州. 100000. 逞羅米輸入. 余仁成   三州. 振 成 榮 豊 ・裕盛桟. 陳生利 吉 美. 益 盛 通 合 盛 美 益 昌. 合 隆. 再 盛. (台湾銀行総務部『南洋二於ケル華僑』1916 第三章第一節「新嘉披」). あったことが推測できるが、前掲「西貢米管見」第三章によると、.   支那人経営のものは多く匿名組合組織にして、東洋の重なる米市場に代理店を有   し、輸出貿易を兼営する南隆は資産豊富にして商売確実を旨として精米の品質信   頼するに足り。信用は精米所中第一位にあるも、値段は幾分常に高し。恰昌之れ   に亜ぐも、先般火災にて倉庫の一部を残して全部烏有に帰したりしが、義昌盛の. 一63一.

(14)   破産し、休業せんとする精米所を向ふ一ヶ年の使用契約にて引続き営業を行へり。.   此の店は南隆と同じく英船を定期に庸ひ、香港方面に自家の精米を運送しつつあ   り。. とあり、信用度も加えた総合的評価では、南隆と跡座を最も有力なものとしてあげている。. どちらも香港との取引を中心に営業していたことが窺えるが、ここでは南隆については史 料的に明らかにし得ない。ただ恰昌については不十分ながらその全体像を描き出すことが できる。r越南華僑志』第十章「華僑先賢創業史署」には次のようにみえる。   郭淡、號紹智、又號若愚、広東潮安県人、生面西元一八六二年。少貧苦、有大志、.   年十四、官民渡海至越南、刻苦経営、直通合公司、油谷盈萬。四十歳前後、業務   日面発達、経営各種実業、執南越工商業晒牛耳。昏昏経営副業、古創恰昌米較(   醸米廠)、日罎米二千包。嗣又創通茂・通盛・通源三米較、毎日各張米面心包、   毎年佑越南輸出白米根総額之半数。. 恰昌の創業者である郭淡は潮州の潮安県出身で、1870年代に単身サイゴンに渡り通合公司 を興して成功、ベトナムでも屈指の実業家にのぼりつめたことを伝えている。郭瑛はライ スビジネスにも進出し、再話の外にも通茂・通盛・通源の三つの精米所を開いている。そ して、彼が経営する店の精米量だけでベトナムにおける毎年の精米輸出量の半分を占める ほどであったという。.  このように郭瑛に代表される潮州米商の活動が大きかった一方で、シンガポールの米穀 輸入商の実態をみると、表⑦からわかるように、仏領インドシナからの米に関しては、同 郷ネットワークを利用して、その多くを福建商人が取り扱っていたことがわかる。また、. サイゴンにおいては福建系の義興公司と潮州系の義和公司の械圖が激しく展開されていた ということなどからすると、(P西貢米の取引に関しては福建蓄と潮脚蓄が最大勢力を有し、 利権をほぼ二分して激しい競争を行っていたとみることができる。.  (n)バンコクの状況  タイにおけるライスビジネスについては、1897年のイギリスの領事館報告が手掛かりと なる。それによると、一連のライスビジネスはそのほとんどを中国人商人が握っており、. 主に香港とシンガポールに米を輸出していたこと、こうした特殊ともいえるビジネスにお いては、ヨーロッパ人商人は、機を見て敏な中国商人に対して競争力をもつことは極めて 難しいと記している。(2)先にも述べたように、香港・シンガポールなどの米相場に先を見. 誤ることなく対応していくというのは誰にでもできるというものではなかったが、1897年 の段階では、タイの米輸出業はそうした条件を備えた中国人商人の手に握られていたとみ ることができる。.  しかしながら、表⑧からわかるように、1880年代後半の米の輸出業務については西欧人. と中国人商人の取り扱いシェアの比はほぼ2:1となっていて、1897年の報告と逆の様相 を呈している。一方、精米業をみると、1890年代末の時点では西欧系業者の占める精米量 は約10%で、八割以上が華僑・華人の手によっている。(表⑨参照)これは1898年の統計で. 一64一.

(15) 嚢⑧Ethnic Participation in the Thai Rice Trade,1885 through       1890                 (1885)          (1886)           (1887). Thai         l44895担  4.9%     21161担  0.6%    156234担  2.5%. Chinese       928206  31.5%    1466565  40.1%    2249463  36.2%. 珊estern Firms l869497  6316%   2167.602  59.3%    3811797  61.3%.                 (1888)           (1889)           (1890). Thai          173114拠  2.3%    144923担  2.8%.   226987担  3.5%. Chinese      225.1794  29.7%   1304727  25.5%   2101235  32。7% Western Firms 5158381  68.0%    3665501  71.6%    4089805  63.7%.  Constance M. Wilson 縄Ethnic Partic量pation in the Export of Thai  Rice,1885一・1890”(In Economic exchaロge and social interaction in. Southeast Asia,1977所収) 表⑨Rice Hills in Thailand Classifled by Capitalist Group Type     :1898    Group..   Owner            Chinese Name. Production. European. 胃indsor & Co..  2500 pic..  trading houses. A Harkwaid & Co.. 2500. The Borneo Company.   n.a.. The Arfaca.n Co.. 2500.                        Sub−total. 750.0. Chinese. Phra Phisan     高「豊:利」’. 800.0.  tax farmers. Akon Teng      張「金成利」. 2500. Phraya Phakdi         留り「源裕」. 2500. Luang Charoen    劉「鳴門」. 2500. Phra Phibun Phattanakon陳「常言己穫」. .5000. Chinese.                        Sub−t6taI. 34200.  田erchants. Koh猛ah Wah     高「元登盛」. 7500. Tan Tsu Huang         陳「蟹利」. 30GO. Iap Joo                「廣合盛」. 4000. Lao Bang Seng     「老萬成」. 2500. Lee Thye Hoa      「華興盛」. 2500.                        Sub−total. 27900. Royal fa皿ily. Three Pr重nces Tota1    42 皿ills. 5500 75100piculs/day. Suehiro Akira“CapitaI Accu皿ulation in Thailand l855−1985” (The. Centre for East Asian Cultural Studies for Unesco,1989)Table3.5.                       −65一.

(16) あることからすると、1880年代後半から10年あまりの間に輸出業も含めたタイのライスビ ジネスが中国系商人の手に移ったという見方ができるが、Wilsonはその論文の中で次のよ うに述べている。(3).  英国最大の輸出商であったWindsor Roseはバンコクにエージェントとして4っの汽船会 社を置いていて、その中で最大のものがバンコター香港間の米輸送を担っていたScottish Oriental Stea皿shipα).であったが、1890年の時点で米輸出の最大幹線であるこのバンコ ター香港線を実質的に動かしていたのは、香港のYuen Fat Hongであった、と。.  このYuen Fat Hongというのは、中国名を元獲行といい、表⑨にある「元爽盛」の親会. 社とでもいうべき香港最大手の米穀商社であった。従って、少なくともこの1890年ごろに は、英国系商社が輸出する米も実質的には下請けに出す形で中国人商人が取り扱っていた 部分が多かったと考えられる。『通商彙纂』81号「香港二於ケル清国人船舶業一般」明治 30年(1897)10,月7日には、元同行について.   英国「スコッチオリエンタル」汽船会社ノ又代理店(真ノ代理店ハ「バタアーヒ   エイルドエンドスゥハイヤ」即、太古洋行)ニシテ、……・盤谷・新蝉声。悪病   ・堅頭・香港間馬於ケル船運転ヲ専務トシ、平帯盤谷二精米所ヲ有ス.. とあり、元予行がスコッチオリエンタルの又代理店として香港・シンガポールなどとの米 穀輸送にかかわると同時に、バンコクに精米所を置いていたことを伝えている。さらに、. Butterfield&Swire(h.が代理店契約を結び、実態は元嚢に任せていたという構図が見 えてくる。こうした点を考え合わせると、表⑧の数字をそのまま受けとって、この時期の 甲羅米の輸出については西欧系の商社が握っていたと即断することはできない。むしろ、. イギリスの領事館報告や表⑧,⑨からは、中国系商人は19世紀半ば以降、まず精米業をお さえ、西欧人の経営する輸出商社のもとで次第にその実質的業務を担い、ついには輸出業 にも本格的に参入して、西欧系の商社を通さずに香港・シンガポールの代理店へと直接に 米を動かすようになったものと考えることができよう。(4)即ち、精米から輸出・運送業務. までを含む一連のライスビジネスは、次第に華僑・華人のネットワークでカバーされると ころとなり、精米業一米輸出業者という色彩が強まるに至って、イギリスをはじめとする 西欧系輸出業者は撤退せざるを得なくなったのではないかと考えられるのである。そして、 そうした動きが加速されるのが1890年代とみてよいであろう。  さらに、勢力を拡大した精米業についてみてみると、外務省史料3−5−2−221『各国米穀諸 状況調査雑件』第一巻「逞羅米調査」(1921)は、.   盤谷二於ケル精米所ハ総数七十ヶ所アレドモ殆ド塾頭系支那人ノ独占事業二係レ   リ.. と述べており、まさに甲州帯の独占状態にあったことがわかる。Suehiro Akira氏はその 著書“Capital Accmulation in Thailand 1855−1985”の中で、バンコクの精米所を系列の. グループ毎に分類し、元登盛など大手4グループだけで出穀量の半分近くを占めている事 実を指摘している。(5)バンコクの精米業は潮州人による独占状態であったと同時に、その. 中はさらに大手による寡占状態となっていたことがわかる。 一66一.

(17)  (皿)小結.  このようにみてくると、西貢米と逞羅米にはいくつかの性格の違いがあることに気付く。. 西貢米の方は、潮面討と福建常の競争が激しく、各々自らのネットワークを利用した流通 ルートの確保を図っていたことが窺える。この競争と、アジア各地を結ぶ独自のパイプの 存在が輸出先の多様化を生む要因の一つとなったことは否定できないであろう。そうした 状況が進行したのが、・既に述べたように1890年代後半から今世紀初頭であり、日本からの. 大量買い付けなどもあり、結果的には香港への西貢米輸出量が減退するという現象となっ てあらわれたのであった。.  一方、西貢米の輸出仕向地の多様化がみられたとほぼ同時期、邊羅米の流通に関しては、. 潮州人による輸出業への進出が本格化し、精米業が輸出業をも兼ねるという構造が定着し てきたのであった。その中で、ライスビジネス全般が品評人による独占状態となっていっ たことと、血紅米の輸出先がほぼ香港とシンガポールの二港に集中していたことは偶然と は考えられない。香港における米穀取引については出稿で論じる予定であるが、タイのラ イスビジネス全般において潮面人優位が確立するのとほぼ並行して香港の米穀取引市場を 潮州人が支配下におさめ、次第にそこがアジア全域を視野に入れて米を扱う潮州人商人の 重要な拠点となっていくのである。(6)そうした中で、香港へ輸出される逞羅米は、少なく. とも量的には漸増傾向を保ち、西貢米と肩を並べるかそれを凌ぐほどになっていったので あった。潮州人の強固なネットワークによる米の売買を見たバンコクの藤田領事が、“専 売同様の会社”に高い運賃を払って香港経由で買うしかないと嘆いた裏にはこうした背景 があったと考えるべきであろう。. 註 (1)武内房司「東南アジア華僑社会と秘密結社」〈『しにか』1995年9月号) (2)The r ice bus iness−that is the buying fro皿 the cultivators, the milling and.  the export−is now al皿ost entirely monopolised by Chinese merchants, many of  whom have the co㎜and of very large capital. They export the rice principally  to Hong Kong and Singapore, and i t would see皿 from the fact that so s皿all a.  share of this bus iness falls to European merchants, that it is imposs ible und−.  er the conditions o£ trade prevailing in the East for the European to compete  with the astute Cbil沿皿an in this particular business.(Foreign Office, Diploma−  tic and Consular Reports on Trade and Finance, Siam:Trade of Bangkok,1897, P.1).  尚、この史料はSuehiro Akira前掲著書所収のものを使用した。 (3)(bnstance旺Wilsonは“Et㎞ic Participation in the Export of Thai Rice,1885−18  90”(In Economic exchange and s㏄ial interaction in Southeast Asia,1977)の中で.  次のように述べている。   The largest exporter of rice was the fim of Windsor Rose and Co皿pany.・…・. 一67一.

(18)  In Bankok, W indsor Rose acted as agent for four steamship companies:the Scott−.  ish Oriental Steamship Co皿pany, Ltd.;the Ocean Steam Ship Company;La Compagnie  Nantaise;and Bradley and Company of Swatow , China. In 1890 the Scottish Orien−.  tal Steamship Company, Ltd。,had seven steamers running on regular schedules b−.  etween Bankok and Hong Ko㎎.……The agent for the Scottish Steamship Compa−  ny in Hong K:ong was Yuen Fat Hong.. (4)Suehiro Akira “Capital Accumulation in Thailand 1855−1985”(The Centre for Ea−.  st Asian Cultural Studies for Unesco,1989)参照。. (5)註(4)p.85、尚Suehiro氏はその中で三井物産の在逞日本人会による調査資料と水野宏平  「逞羅の米(1)一(5)」(『南洋協会雑誌』8巻2号∼6号,1922)を出典として主要精米所の一覧.  を掲げているが、水野の報告は前掲外務省史料をもとにしていながら、一日当たりの出  穀量の単位をトン(t)と誤っ,て記載している。外務省史料ではトンではなくクイヤンと.  記されており、1クイヤンは約28担で、他の史料からみても妥当な量であることからする.  とSuehiro氏の一覧表にある出丈量の単位もクイヤンとすべきであろう。 (6)EIizabeth Sim氏はその著書“Power and Charity”(1989)の中で、米を扱った香港の南.  血行に属する商人の多くは薩州人が占め、買弁の多くが香山の出身であるという見解を  示しているが具体的論証はされていない。.  おわりに  1890年代から今世紀初頭にかけて、アジアにおける米の流れは大きく様変わりしたとい える。香港市場における西貢米の後退、逞面争の増加はその象徴的な現象といえよう。そ の要因として、いくつかあげてみたい。まず、日本の米穀需給構造の変化を見逃すことは できない。日本は明治前半の出超状態から大幅な入超国へと転換し、以後は米不足の深刻 化とともに外国米の確保に奔走することになる。それによって、西貢米については香港を 経由しない直接輸入米が増加することになり、また、逞羅米についてはむしろ香港への輸 出増加という状況をつくり出すことになって、結果的に香港で取引される西貢米・逞羅米 の勢力関係を変化させる一因となったのであった。さらに、毒忌米については、広東・朝 鮮・日本などの需要の伸びによる砕米の増加が、香港における輸入拡大につながったこと も付言しておきたい。.  次に、バンコクにおけるライスビジネスに対する潮州討支配が進んだことも重要である。. 香港での米穀取引において、痴話常の力が強まったことと相倹って、バンコター香港を結 ぶ潮州幕ラインは他の同郷常の介在を許さない強固なものとなっていった。日本が試みた 逞南米直輸入が思惑通りはこばなかった背景も、まさにここにあったといえよう。潮血止 優位の状況はバンコクだけでなく、東京米の積出し港である海防(ハイフォン)でもみられ たが、(Dそれに対して、福建・潮州の両勢力がしのぎを削る西貢米の方は、主に福建系の. 一68一.

(19) ネットワークを通じてフィリピンなどへの輸出を伸ばす一方、(2)日本の買い付けに対して. も積極的に対応したものと思われる。西貢米・逞羅米双方に明確な棲み分けがあったわけ でなく激しい競争が繰りひろげられていたことは既に指摘されているが、(3)むしろ、そう. であるからこそ、米の輸出業者はただ目先の高利潤が期待できるところへ輸出するという やり方だけでなく、リスクの少ない長期的に安定した流通システムづくりやネットワーク 化に力を注いだと考えるべきであろう。西貢米と逞羅米が異なった輸出動向を示した背景 には、潮州商人・福建商人を中心とした中国人米商人の、世界を視野に入れた米戦略があっ たともいえるのである。.  以上、香港において19世紀末からみられた西貢米・逞羅米の流通状況の変化と、そこか ら見えてくるいくっかの問題については一定、概観できたと思う。ただ、あくまでアウト ラインをとらえたに過ぎず、個別的な問題についての考察が残されていることは言うまで もない。また、本文中でも述べたように、香港における米取引や潮州常優位の実情、さら には中国の国内米と南洋米の関係等については、稿を改めて論じたいと思う。. 註 (1)「仏領印度支那出張報告概要」(『南洋経済事情』1918,所収)第二章には、「〈海防市ノ支那.  人)汕頭人最モ多ク、広東人及厘門人之レニ次グ.営業振パー早撮堅実ニシテ敢テ手張ラ  ズ.従テ近来倒産者一人モナシト云フ.」とある。. 〈2)台湾銀行総務部調査課『福建省及比律賓二於ケル米ノ需給ト台湾米ノ輸出二関スル調査』  (1915)によると、1913年にフィリピンに輸入された米のうち、85%を仏領印度支那米(西  貢米)が占めており、逞羅米の割合は4.5%にすぎない。 (3)前掲菊池道樹論文、参照。. 一69一.

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