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移行経済から資本主義へ

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移行経済から資本主義へ

福 田 敏浩

1 はじめに  ポスト社会主義諸国に移行経済が登場して から10年になる。この移行経済は言うまでもな く社会主義から資本主義への移行過程に登場 したものであるが,それは移行途上にあるだけ にきわめて運動性に富む経済である。つまり, 時間の経過とともに社会主義の色彩が徐々に 薄れ,資本主義の色彩が次第に濃くなるという 運動特性を有している。  ポスト社会主義諸国は1990年から1992年に かけて資本主義への移行を開始したが,各国政 府の政策担当者たちは当初移行経済の段階を できるだけ早く通過するという予定を立てて いた。社会主義から資本主義への大転換の途上 に現れる移行経済は運動性に富むだけに安定 性を欠き,対応を誤ると経済の混乱を招くこと が予想されたからである。体制移行のスタート 時点で陣頭指揮をとったポーランドのバル ッェロヴィチ(LBalcerowicz)やチェコスロヴァキ アのクラウス(V,Klaus)がラディカリズムの戦略 を採った背景にはこのような考えがあった。彼 らは,ショック・セラピーのマクロ経済安定と ビッグバンの制度転換から成るポリシー・パッ ケージを発動することによって,移行経済の存 続期間をできるだけ短縮しようとしたのであ る。  過去10年間の実践を観察すると,移行経済の 存続期間は移行戦略によって決定されると言 えそうである。ラディカルな移行戦略を徹底し て実行しえた国ほど移行経済の段階をいち早 く通過した。統一ドイツ政府(実質は西ドイツ政 府)の強固な意志によってビッグバンを徹底し て実行した(東)ドイツと,クラウスの鉄の意志 と公平な精神によってラディカルな移行政策 を継続しえたチェコ共和国がその代表である。 これに対し,当初ラディカルな移行戦略から出 発したにもかかわらずそれを徹底できなかっ た国やグラデュアルな移行戦略を採った国は 今もって移行経済の段階に留まっている。前者 の代表はロシアやポーランドやスロヴァキア であり,後者の代表はルーマニアやブルガリア である。  もちろん例外もある。ハンガリーである。こ の国はグラデュアルな移行戦略を採ったにも かかわらず,1997年末に移行経済の段階を通過 した。市場社会主義の時代(1968年一1989年)に すでに体制移行の準備が進められていたから である。  ポスト社会主義諸国の中で移行経済の段階 を通過し資本主義への移行を完了したのは(東) ドイツ,チェコ共和国,ハンガリーの三力国で ある。これらに共通するのは私有化が比較的順 調に完了したことである。移行経済の通過速度 は私有化の速度によって決定されるというの が体制移行を観察してきた筆者のさしあたり の結論である。本稿ではこのことを詳述してみ たい。

Hコルナイ説

 経済体制論の角度から移行経済の進行状況 を正面から扱った研究は,筆者の知る限りで は,コルナイ(J.Komai)の説だけである。筆者の

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考えを述べるに先立ってまず彼の説を見てお こう。 1.現存経済体制の基本構造  コルナイは20世紀に制度化された経済体制 を古典的社会主義(つまりソ連型社会主義)と資本 主義に大別し,両者の構造を次のように図示し た1)。       図1:古典的社会主義 ブロック1 ブロック2 プロソク3 ブロック4 ブロック5 マルク 国有・準 官僚的調 ソフトな 慢性的不 ス・レー 国有の支 整の支配 予算制 足経済・ ニン主義 配 約・価格 売り手市 政党の不 への弱い 場・労働 可分の権力 反応・計 不足・就 画交渉・ 業失業 量ドライ ブ        図2:資本主義 ブロック! ブロック2 ブロック3 プロソク4 ブロック5 私有およ 私有の支 市場的調 ハードな 慢性的失 び市場に 配 整の支配 予算制 業・買い 対して好 約・価格 手市場・ 意的な政 への強い 景気変動 治権力 反応  図中の矢印は因果関係を示す。ブロック1がブ ロック2を決定し,同様にブロック2がブロック 3を,ブロック3がブロック4を,そして最後に ブロック4がブロック5を決定するという関係で ある。同時にブロック1から5は深度(depth)をも 表している。つまり,ブロック1が両体制の最:深 部に位置する土台であり,その上にブロック2が あり,その上にブロック3があり,さらにその上 にブロック4があり,ブロック5が最上層にある という構造である。  さらにブロック1,2,3は両体制の基本的構 成要素にあたる。これに対しブロック4と5は両 体制の現象面を表している。つまり,両体制の 表面に現れるシステム固有の経済現象である。 1)Komai〔16〕p.361,Kornai〔18〕p.29.コルナイ説 については福田〔15〕で詳しく検討した。参照さ れたい。  これらから明らかなように,コルナイはマル クス(KMarx)とは逆にいわゆる上部構i造(政治)が 下部構造(経済)を決定すると見ている。この意味 でコルナイ説は政治決定論である。 2.移行経済の体制特質  コルナイはポスト社会主義諸国における体 制移行を古典的社会主義から資本主義への移 行と捉えた2)。移行経済についてコルナイに詳 しい説明はないが,彼の論法からすると,それ は古典的社会主義から資本主義への運動過程 に登場する経済ということになろう。その体制 特質については混合経済(mixed ec・n・my)という 規定があるだけである3)。これについてもコル ナイに説明はないが,彼の説にしたがって整理 すると,古典的社会主義と資本主義が重なった 経済,より正確に言うと国有と私有,官僚的調 整と市場的調整が混在している経済というこ とになるだろう。しかし,これだけのことであ ればほとんど何も言わなかったことに等しい。 20世紀末の移行経済はどのような体制的特質 を有するか。経済体制研究者はこの問いに対し て明確に答える義務がある。 3.移行経済の進行状況  コルナイはこれまで主としてハンガリーを 対象にして移行経済の現状について発言して きた。具体的にはこの国のマクロ経済状況を定 量的に分析したり,政府の経済政策を批評した り,体制移行を加速する政策学を提示したりし てきた。さらに,彼はこの国の移行経済の進行 状況を分析してきた。この方面の分析にはコル ナイ説の個性がよく出ている。立ち入ってみよ う。  ハンガリーの体制移行はどの地点まで進ん だか。これがコルナイの問題意識であるが,こ の問いに答えるにさいして彼が注目したのは 図1のブロック5である。これは古典的社会主義 2) Kornai (16) p.389 3) Kornai (16) p.579

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の表面に現れるシステム固有の現象であるが, その中で彼が判定指標に選んだのは慢性的不 足である。慢性的不足の原因は国有企業の生産 がインプット財や労働力などの調達困難のゆ えに撹乱されたり,遅れたり,ダメージを受け たりすることにある。コルナイはこのような意 味を込めて古典的社会主義を供給制約シズテ ム(supply−constrained system)と呼んだ4)。  資本主義はこれとは丁度逆になる。企業の生 産能力はインプット財や労働力の調達が比較 的容易なために高まるが,反面買い手からの注 文が不足したり,セールスが困難であったりす るために生産は過剰となる。このような意味で 資本主義は需要制約システム(demand−constrained system)であり5),財や労働力の過剰が常態化す る過剰経済(economy of surplus)である6)。  体制移行は,両体制の最上層部(ブロック5)の レベルで言えば,慢性的不足経済から過剰経済 への移行である。したがって体制移行の進行状 況を捉えるにはハンガリーで慢性的不足がど の程度解消されたかを見ればよいことになる。 コルナイは自動車,エレクトロニクス,電気通 信,情報テクノロジー,住宅などの代表的品目 を取り上げ,その一つひとつについて不足解消 の程度を調べている。ここでは自動車に関する 調査結果のみを紹介すると表1のようになる7)。  コルナイは表1を踏まえて次のような結論を 導き出した。「1992年ごろからハンガリー経済 はもはや慢性的不足経済とは言えなくなった」 8),「ハンガリー経済は市場経済になったと言え る。市場メカニズムはなお多くの摩擦を伴いな がら作動しているものの,それはすでに特有の 調整メカニズムになっている」9)。 4) Komai (17) pp.3,4 5) Komai (17) pp.3,4 6) Komai [17) p.38 7)Kornai〔17〕p.7.原表の一部を省略した。 8) Kornai (17] p.33 9) Kernai (17) p.34 表1:自動車の不足解消度 行列なしに販売 行列後に販売さ 待機年数 された新車(%) れた新車(%) 1985年 24.4 75.6 1.9 1986年 22.5 77.5 2.0 1987年 24.4 75.6 1.9 1988年 23.7 76.3 2.3 1989年 42.7 57.3 2.9 1990年 52.3 47.7 2.3 1991年 93.8 6.2 1.2 1992年 100.0 0.0  ハンガリー経済は1992年ごろから慢性的不 足経済ではなくなり,市場経済へ移行したと言 うのである。このことは官僚的調整から市場的 調整への移行が完了したことを意味する。つま りブロック3のレベルでの移行完了である。  コルナイは体制移行について次のように述 べている。「移行はいつ始まり,いつ終わるか。 移行プロセスは社会がブロック1・2・3に示し た社会主義の基本的特徴から離れるときに始 まり,資本主義を特徴づけるブロック1・2・3 の集合に到達するときに終わる」10)。資本主義 の基本的構成要素は図2のように「私有および 市場に対して好意的な政治権力」,「私有の支 配」,「市場的調整の支配」である。コルナイの 論法に従うと,ハンガリーでは「私有および市 場に対して好意的な政治権力」はすでに東欧革 命によって実現され,さらに1992年ごろには 「市場的調整の支配」が実現された。残るは「私 有の支配」である。これが実現されるとハンガ リーは移行経済の段階を通過し,資本主義へ移 行したということになる。  しかし,コルナイには所有方式に関する叙述 はない。彼の論法に従うと,体制移行の把握の ためには私有化の進行状況を甚斗酌しなければ ならないはずである。コルナイの論証は完結し ないままに終わっている。 10)Kornai [18] p.30

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皿移行経済の体制特質

 筆者の経済体制論は「所有,相互・上下調整 の三元論」である。つまり所有方式,需給の調 整方式(いわゆる資源配分システム)および上下調 整方式(つまり国家の経済への干渉方式)を経済体 制の基本的構成要素と見る説である。これらの うち経済体制の土台にあたるのは所有方式で ある。筆者は所有方式をベースにして私有を土 台にする経済体制を資本主義,公有を土台にす る経済体制を社会主義と呼んできた。現代の資 本主義は基本的に私有,市場経済および誘導か ら構成されている。筆者はこれを誘導資本主義 と呼んだ。旧ソ連・東欧諸国には国有,中央管 理経済および指令から成る管理社会主義と,国 有,市場経済および誘導から成る市:場社会主義 が存在していたが,1990年代になるといずれも 移行経済にシフトした。  筆者はまた,このような三元論をベースにし て,機能連関と意味連関をキーワードにしたワ ンセット思考を主張してきた11)。ワンセット思 考というのは経済体制を認識したり,設計した りするさいにその構成諸要素の関連を機能と 意味の両面からセットの形で把握しようとす るものである。以下ワンセット思考をもって移 行経済の体制特質を明らかにしてみよう。  世紀末の移行経済は社会主義から資本主義 への運動過程に登場する経済体制である。つま り社会主義の下降運動と資本主義の上昇運動 が交差する時期の経済体制である。それゆえ移 行経済はきわめて運動性に富むものである。ま たそれは両体制が重なり合うという意味で混 合経済である。しかし,その混合は互いに対立 する諸要素の組み合わせであるから,移行経済 は不安定にならざるをえない。このように運動 性,混合性および不安定性が移行経済の体制特 質である。しかし,これらはまだすべての移行 11)福田〔玉2〕,福田〔13〕,福田〔14〕 経済に共通する形式的な特質でしかない。世紀 末移行経済の個性を把握するためにはこれら の特質の内実を明らかにする必要がある。  移行経済は時間の経過とともにたえず変化 する経済である。したがってその個性を捉えよ うとすれば時間を座標軸に据えたシステム・ダ イナミックスの視点をもたなければならない。  (東)ドイツおよび中欧諸国について東欧革命 後における移行経済の運動を観察すると,それ は時間的に二つの段階をたどってきたことが 分かる。1990年代初期の第一段階と1992年一 1gg4年以降の第二段階(その始点は国によって異 なる)である。  第一段階は東欧革命後に始まる。中欧各国で 非共産党政権が登場するとEU(ヨーロッパ連合) に範をとった誘導資本主義への移行が開始さ れたが,その経路は二つあった。管理社会主義 からの道と市場社会主義からの道である。前者 の道をたどったのは(東)ドイツ,ポーランド, チェコスロヴァキアであり,後者の道を進んだ のはハンガリーであった。 1. 管理社会主義から誘導資本主義へ  管理社会主義から誘導資本主義への移行は ドラスティックであった。各国で経済体制の基 本構造の全面的組み替えがめざされたからで ある。つまり国有,中央管理経済,指令のセッ トから私有,市場経済,誘導のセットへの組み 替えである。このことによって意味連関も機能 連関も全面的に刷新されることになった。意味 的には国家主義から個人主義(自由主義)への転 換であり,機能的には低効率セットから高効率 セットへの転換である。  管理社会主義から誘導資本主義への過渡期 に登場する移行経済では,論理的かつ抽象的に 考えると,所有方式については国有と私有,相 互調整方式については中央管理経済と市場経 済,上下調整方式については指令と誘導が混在 する。三つのレベルでの組み合わせばそれぞれ 意味的にも機能的にもいわば敵対的に矛盾対

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立する。このような移行経済は不安定どころか カオスに陥らざるをえないであろう。  このような事態はさいわい現実には生じな かった。たとえば東ドイツ政府にしても,チェ コスロヴァキア政府にしても,体制移行の開始 とともに中央管理経済と指令をただちにスク ラップし,EU(とくに西ドイツ)を手本にして市場 経済と誘導のフレームワークを比較的短期間 に制度化したからである。  問題は国有企業の私有化であった。たとえば 主要な国有企業だけでも東ドイツとポーラン ドには約8500,チェコスロヴァキアには約6000 のものがあった。これらを一夜にして私有化す るのは困難であり,その結果第一段階および第 二段階を通して国有と私有が併存した。より正 確に言うと,時間の経過とともに国有の占める 割合が減少し,私有の占める割合が増加すると いう運動の形をとって併存した。第一段階では 国有の占める割合が大きかったために「ブレー キ効果」12)が働き,そのために市場経済の機能 が阻害され,また市場経済および誘導方式も内 実を伴わなかったために機能面および意味面 の凝集力がきわめて低かった。つまり(東)ドイ ツ,ポーランドおよびチェコスロヴァキアにお ける第一段階の移行経済は「機能的にも意味的 にももっとも弱い連結」であった。言い換える と,国有+私有(国有〉私有),市場経済および誘 導の組み合わせで表現できる連結であった。こ のような移行経済は所有の面で混合経済であ り,それゆえ体制的にきわめて不安定であっ た。各国で二桁のマイナス成長という猛烈な移 行リセッションが発生したのはこのためであ る13)。  意味連関の面で見ると国有支配,市場経済お 12)ブレーキ効果については福田〔11〕第3章を参 照されたい。 13)もちろん原因はこれだけではない。その他の主 要な原因としては1991年のコメコン解散による 「赤い市場」との貿易の崩壊が考えられる。 よび誘導の組み合わせば意味的に一貫的でな く,整合性を欠いていた。国有は国家主義の世 界に,市場経済と誘導は個人主義の世界に属す るものだからである。  私有化政策の進展によって私有セクターの 占める割合が増加するにつれて各国の経済状 態は次第に改善され,GDP成長率はプラスに転 じた。(東)ドイツは1992年に7.3%,ポーランド は同じく1992年に2.6%,チェコ共和国は1993 年中0.3%,スロヴァキア共和国は1994年に4.9 %を記録した。  GDP成長率がプラスに転じた時点で各国の移 行経済は第二段階に移った。この段階になると, 私有化の進展につれて機能連関および意味連関 とも凝集力が高まり,移行経済の安定度が一段 と増したが,所有の面で私有が支配的な地位を 占めるに至らなかったので移行経済の第二段階 は依然として「機能的にも意味的にも弱い連結」 (国有+私有,市場経済,誘導の組み合わせ)に留まっ た。  (東)ドイツは1994年末に,チェコ共和国は 1gg6年の年央に国有企業の私有化(所有権の私人 への移転)を完了し,両国では私有が支配すると ころとなった。(東)ドイツは信託庁主導の直売 方式によって,チェコ共和国はバウチャー私有 化によって国有企業の所有権を一挙に私人に 移転するラディカルな戦略が奏功したためで ある。したがって形式からすると,両国は移行 経済の段階を通過し,誘導資本主義への移行を 完了したことになる。私有,市場経済および誘 導の組み合わせが実現されたからである。しか し,それはまだ内実を備えていないので一たと えば私有化にはまだ所有権が私人に移転した私有化 企業における私的営利会社化つまりリストラクチャ リングの課題が残されている一名実ともに「機能 的にも意味的にも強い連結」になったとは言え ない。実質的に先進諸国並の誘導資本主義に到 達するにはまだかなりの時間を必要とするだ ろう。今はさしあたり,(東)ドイツとチェコ共

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和国は誘導資本主義の第一段階を歩み始めた としておこう。(東)ドイツは,先進誘導資本主 義の(西)ドイツに統合されたことからして, チェコ共和国よりも一足先に誘導資本主義の 第一段階を通過することが予想される。 2. 市場社会主義から誘導資本主義へ  中欧諸国の中で特異な道をたどったのはハ ンガリーである。この国では市場社会主義の時 代(1968年一1989年)に市場経済と誘導方式が一不 完全ではあったが少なくとも形式上は一制度化さ れていた。またこの時代に私有化の措置もとら れ,1980年代前半には従業員30人以下の私企業 が登場していたし,1980年終末には従業員500 人以下の私企業が公認されたり,国有企業の自 発的私有化が実施されたりしていた。加えて, 1980年代後半には先進資本主義諸国の私企業 の子会社の誘致や合弁企業の設立が積極的に 推進された。こうしてコルナイの言葉で言えば 「1990年の政治的解放の時点で市場経済の発展 にとって多くの事柄が半分用意されていた」14) のである。  このように見てくると,ハンガリーにおける 市場社会主義の時代は管理社会主義から誘導 資本主義への移行期であったと言うこともで きる。つまり,市場社会主義は移行経済であっ たと見ることもできよう。1990年以降,私有化 の本格化で社会主義からの離脱が図られ,現象 的には体制間移行が開始されたことになるが 厳密に考えると,それはすでに市場社会主義の 時代に始まっていたのである。  東欧革命後に登場した中道右派のアンタル 政権は,極端に言えば,国有企業の所有権移転 だけに集中して体制移行を推進すればよかっ たのだが,その主たる方法として時間浪費的な 資本私有化(capital privatization)を採用したため に,また私有化の方針が一定しなかったために 私有化のテンポが予想以上に遅くなってし 14)Kornai (17) p.150 まった。このため国有+私有(国有〉私有),市場 経済および誘導の組み合わせから成る移行経 済の第一段階が予想外に長引いた。言い換えれ ば「機能的にも意味的にももっとも弱い連結」 の状態が予想外に持続したのである。このため ハンガリー経済は猛烈な移行リセッションに 見舞われ(lg91年のGDP成長率はマイナス11.9%), それがようやくプラス成長に転じたのは1994 年であった(GDP成長率2.9%)。  この時点からハンガリーの移行経済は第二 段階に入ったのであるが,その後政府が私有化 のスピードアップを図り,先進諸国の戦略的投 資家に対する国有大企業の売却を強力に推進 した結果,1997年末には予定していた私有化が 完了した。ここにこの国の経済体制は形式的に は私有,市場経済および誘導の組み合わせから 成る誘導資本主義へ移行した。ハンガリーも(東 )ドイツやチェコ共和国と同様に誘導資本主義 の第一段階を歩み始めたのである。 3. まとめ  要約しておこう。世紀末移行経済は,国有と 私有の混合+市場経済+誘導の組み合わせか ら成る経済体制である。つまり,所有方式の面 で国有と私有が併存した混合経済である。東ド イツ,チェコ共和国およびハンガリーにおける 移行経済は第一段階と第二段階を通過してき た。これに対し,ポーランドとスロヴァキアは 私有化が遅れたためにまだ移行経済の第二段 階にある。第一段階の移行経済は,国有が支配 的であるために「機能的にも意味的にももっと も弱い連結」という体制特質を有している。そ れゆえこの段階が体制的にもっとも不安定で ある。  ハンガリーを除く各国の移行経済の第一段 階には市場社会主義が出現したと言えなくも ない。もちろんハンガリー型であるが,この国 に実在した市場社会主義ほど明瞭な体制的輪 郭をもつものではない。国有方式が固定してい るのではなく,減少運動に晒されるために,ま

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た市場経済も誘導もまだ揺三期にあるために システム全体が揺らいでいるからである。  各国の経済成長率がプラスに転じた時点で 各国の移行経済は第二段階に進んだ。この段階 では国有よりも私有の占める割合の方が次第 に大きくなり,それに伴なって体制の安定性が 増すが,しかしなお私有が支配的でないために 第二段階の移行経済は「機能的にも意味的にも 弱い連結」の属性を帯びている。私有化が終了 し,形式的に私有,市場経済および誘導の組み 合わせが成立すると,移行経済の段階が終了 し,誘導資本主義の第一段階が始まる。(東)ド イツ,チェコ共和国およびハンガリーがすでに この段階に歩を進めている。  ついでに述べておくと,東欧革命以後の旧ソ 連・東欧諸国についてポスト社会主義(post− socialism)またはポスト共産主義(post.communism) という言葉がよく使われるが,これらを移行経 済と同義と捉える専門家の中には西ドイツに 統合された(東)ドイツはもちろん,チェコ共和 国とハンガリーはもはやポスト社会主義(また はポスト共産主義)ではないと規定する者もいる 15)。筆者も移行経済の段階を通過した国はもは やポスト社会主義ではないと見たい。むしろ誘 導資本主義と規定する方が適切であろう。 IV 中欧諸国における体制移行の進行状況  先に述べたように経済体制の土台を成すの は所有方式である。したがって体制移行という のは既存の経済体制を支える所有方式が他の 異質の所有方式に転換することを意味する。20 世紀前半の体制移行では私有から公有への転 換があったし,世紀末の体制移行では逆に公有 から私有への転換が進行してきた。公有から私 有への運動過程が移行経済の段階であり,私有 が支配的になった時点で資本主義への移行が 15)Csite, Kov6ch (8) p.57 完了することになる。  1990年代の体制移行の進行状況を把握する 上でポイントになるのは,国有資産および国有 企業の私有化である。それは一方で社会主義の 解体にかかわり,他方で誘導資本主義の土台に あたる私.有方式の制度化にかかわる政策だか らである。国有資産および国有企業の私有化の 速度は体制移行の進行状況を把握するのに最 適のバロメーターである。  筆者は先に,(東)ドイツ,チェコ共和国およ びハンガリーが予定していた私有化を完了し, 移行経済の段階を通過したと述べた。以下この ことを詳しく見てみよう。 L (東)ドイツ  東ドイツでは1990年3月18日の総選挙でキリ スト教民主同盟を軸とする連立政権が成立す ると,管理社会主義の解体がドラスティックに 展開された。その中核を占めたのは国有企業の 所有権移転であるが,その方法としては「上か らの私有化」が採用された。具体的には総選挙 に先立つ1990年3月に信託庁(Treuhandanstalt)が 設立され,この機関によって一気に所有権移転 を実現する方針が立てられた。  信託庁の設立に伴い,約8500の国有企業の所 有権がこの機関に移管された。その結果信託庁 は世界最大の持ち株会社になり,この強大な企 業支配力をベースにして国有企業の所有権を 私人に移転した。信託庁はほかに約2万の小売 店,約7500の旅行関連施設(ホテルなど),二千 の薬局・映画館,およそ230万ヘクタールの耕 地,およそ190万ヘクタールの森林などの所有 権を引き継いだ16)。  信託庁主導の私有化は西ドイツ政府との問 で結ばれた「通貨・経済・社会同盟創設条約」 が1990年7月1日に発効したことによって本格 化し,同年10月3日のドイツ統一後はドイツ連 邦政府(実態は西ドイツ政府)のもとで精力的に推 16)T6th (28] p.359

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進された。  所有権移転の主要な方法は,不動産などの旧 所有者への返還,競売と入札による小規模国有 資産の売却,大中国有企業の所有権の内外の私 人(主として私的法人)への売却であった。返還は 権利関係の確認に手間取ったこともあって一 部未処理の部分が残っているが,小規模国有資 産の売却の方は1991年半ばに終了し,1万5250 の物件が私人の手に渡った17)。  約8500の国有企業については最初に分割の 措置がとられ,約1万5000単位に分割された。 これらのうち存続の見込みのないものについ ては清算の手続きがとられ,また一部(とくに公 益企業)は地方自治体に移管された。存続の見込 みのある国有企業については以下の措置がと られた。  中小国有企業の一部についてインサイダー 私有化の方法が適用された。つまり,企業資産 を当該企業の管理者に買い取ってもらうやり 方である。この方法によって1994年9月末まで に2697の国有企業の所有権が私人に移転され た18)。  信託庁が主力を注いだのは直売であった。こ の方法は信託庁が内外の私人(ほとんどは私的法 人)と個別に相対取引の形で交渉して国有企業 を売却するものである。これは,オークション のように買い手の参加をオープンにして価格 を基準に国有資産を売却するフォーマルな方 法ではない。信託庁の職員チームが単独または 複数の買い手と交渉する非公開のインフォー マルな方法である。その交渉の基準は価格,買 い手の評判,買い手の経営方針・投資計画・雇 用計画などである。信託庁が重視したのは価格 よりも買い手の投資計画や雇用計画であった と言われる19)。  (東)ドイツの私有化を特徴づけているのはこ の直売方式であり,(西)ドイツへの吸収合併で 発達した資本市場が与えられたにもかかわら ず,ポーランドやハンガリーのように国有企業 (とくに大中国有企業)の株式を証券取引所や店頭 市場で売却するという資本私有化の方法は採 られなかった。国有企業の所有権を取得した内 外の買い手の割合は(西)ドイツ人87%,(東)ド イツ人6%,外国人7%であった20)。  信託庁は直売を中心にして精力的に一1991年 と1992年には1ヵ月平均400社(企業の部分単位を含む )の割合で21)一国有企業の所有権を私人に移転 した。その結果1994年末には国有企業の所有権 移転は基本的に完了し,任務を終えた信託庁は 12月31日に解散した。所有権移転政策の実績を 示すと表2のようになる22)。 表2:(東)ドイツの私有化実績 年 売却企業数 清算企業数 残存企業数 1990−91 2672 789 6212 1992 8024 1460 2575 1993 2600 947 950 1994 1092 一 147 総計1990−94 14388 3196 一  (東)ドイツの国有企業体制は実質四年半の 「上からの私有化」によってスクラップされた。 国有方式を管理社会主義の土台と見る筆者の 立場からすれば(東)ドイツの管理社会主義は 1994年末に消滅したと言える。ついでに述べて おくと,国有方式とともに管理社会主義の支柱 であった中央管理経済(国家計画委員会,国家資材 配分機関,国家価格決定機関など)および指令方式 (産業省,義務的指標による企業管理システム)も「穏 やかな革命」ののちに東ドイツ最後の政権の手 によってただちに解体されている。  私有化企業(旧国有企業)には営利会社化とい う課題が残されているが,さいわい(東)ドイツ 17)Brucker 〔6〕 pユ74 18)Brticker [6) p.163 19)Dyck [10] p.570 20)Schrtller (26) S.19 21)Dyck (10) p.570 22)Dyck (10] p.571

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の場合には(西)ドイツの支援がある。たとえば, 私有化企業の経営に対しては(西)ドイツ人のマ ネジャーが送り込まれている。一企業あたりの (西)ドイツ人マネジャーの占める割合は1990年 6月で0,33人,1992年には1.86人であった23)。 さらに,私有化企業の多くには(西)ドイツ企業 の二層管理方式が導入された。監査役会と取締 役会である。これらによって最高経営責任者 (CEO)が監視されるインサイド・コーポレート・ ガバナンスが,形式的にではあるが,整えられ た。また,(西)ドイツからユニバーサル・バン キングを柱とする金融市場と発達した資本市 場が移植された結果,私有化企業に対するアウ トサイド・コーポレート・ガバナンスも整備さ れつつある。これらによって(東)ドイツの私有 化企業の営利会社化は加速するであろう。  (東)ドイツの移行経済は1994年末に終わっ た。社会的市場経済という(西)ドイツ型誘導資 本主義の制度的フレームワークの移植が基本 的に完了した。この制度的フレームワークが(西 )ドイツ・レベルの機能を発揮するように方策を 講じることがドイツ政府の今後の課題である。 2. チェコ共和国  チェコスロヴァキアでは1990年6月の総選挙 で政権をとった市民フォーラム連立政権が,蔵 相クラウスのチームによって立案された「市場 化プログラム」に従って,1991年1月1日から ラディカルな体制移行に乗り出した。その中核 を占めたのは国有企業の私人への所有権移転 であったが,それは(東)ドイツと同様に政府主 導で推進され,担当機関として共和国国家資産 管理・私有化省が設置された。  国有資産および国有企業の所有権移転にか かわる主要な方法は,不動産などの旧所有者へ の返還,競売および入札による小規模国有資産 の売却,バウチャー方式による大中国有企業の 所有権の国民への移転であった。返還について 23)Dyck (IO) p,583 は約10万件の物件が旧所有者に返還され,1992 年に業務は終了した24)。小規模資産の売却も順 調でチェコ共和国では1991年ll月までの第1ラ ウンドで2万1095単位が,1993年半ばまでの第 2ラウンドで4290単位が売却された。他方スロ ヴァキア共和国では1992年7月までに約9000の 物件が売却された。このようにして両共和国に おける小規模私有化は1993年末までに終了し た25)。  大中国有企業については必要に応じて分割 の措置がとられ,存続の見込みのないものにつ いては清算が行われた。公益企業の一部は地方 自治体へ移管された。残りの存続の見込みのあ る企業については,主としてバウチャーによる 所有権移転が実施された。そのほかに国内外の 投資家への直売の措置もとられた。  チェコスロヴァキアにおけるバウチャー私 有化は大衆私有化(mass privatlzation)とか市民私 有化(citizens’ privatization)26)と呼ばれるが,その 計画案は「ビロード革命」最中の1989年12月に 当時の蔵相クラウスによって国民にアナウン スされた。国民に対して国有資産を平等に分配 するというバウチャー案は,共産党独裁時代に 生産資産から排除されていた大多数の国民か ら圧倒的な支持を得た。  バウチャーは国有企業の株式を取得するた めの引換券であるが,これは1991年10月の時点 で18歳以上の国民に配布された。それは点数表 示された冊子の形をとり,一人につき1000点が 与えられた。バウチャー冊子を取得し,それを 実際に使って株式を入手するまでに要する費 用は一人あたり正035コルナであった。  バウチャー私有化の第1ウェーブは1992年の 5月から実施され,1491の国有企業の発行株式 総数の半分以上(総額面価格で3000億コルナ)がバ ウチャーに提供された。第1ウェーブは比較的 24)OECD (21) p.38 25)OECD (21) pp.29,31 26)Winiecki [30) p.177

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順調で1992年12月に完了した。

 有資格者1150万人のうち850万人がバウ

チャー私有化に参加した。国有企業の株式取得 には二つのやり方があった。ひとつはバウ チャー保有者が独力で国有企業の株式を取得 する方法であり,もうひとつは投資私有化基金 (investment privatization fund)と呼ばれる投資会社 にバウチャー冊子を全部またはその一部を信 託する方法である。投資私有化基金は株式投資 を目的にする私的営利会社であるが,バウ チャー私有化が実施された1992年に436も登場 した。そのうちの約70%は銀行によって設立さ れたものである。バウチャー保有者のうち投資 私有化基金にバウチャーを信託した者の割合 は72%であった27>。  チェコスロヴァキアは1993年1月正日にチェ コ共和国とスロヴァキア共和国に分裂した。 チェコ共和国では独立後の1993年3月からll月 にかけてバウチャーの第2ウェーブが実施さ れ,862の国有企業がその対象となった。有資 格者760万入のうち600万人が参加し,そのうち の64%が約400の投資私有化基金にバウチャー を信託した28)。  スロヴァキア共和国では予定されていたバ

ウチャーの第2ウェーブは国有企業のマネ

ジャー・グループのロビー工作によって中止さ れ,その結果私有化は大幅に遅れてしまった 29)o  チェコ共和国における所有権移転はその後 も比較的順調に進行し,1996年の年央には所期 の目的が達成され,担当機関の国家資産管理・ 私有化省は解散した。それに伴い残務作業は国 家資産基金と財務省に引き継がれた。売れ残っ た国有企業および56の戦略的企業(公益,四大銀 行,製鉄など)は引き続き国家資産基金によって 所有されることになった30)。ただし,国家資産 基金は56の戦略的企業のすべてについてその 資産を100%所有しているわけではなく,その 所有比率は企業ごとに17%から100%となって いる31)。1997年には財務省に対して戦略的企業 の完全私有化の任務が与えられた。  以上の所有権移転政策によって,また「下か らの私有化」によってGDPに占める私的セク ターの割合は1996年半ばにおよそ90%になっ た32)。ちなみに1990年における同割合は3%(国 有セクター97%)であった。  以上からしてチェコ共和国における国有企 業体制は1996年半ばに解体されたと言ってよ い。国有方式とともに同国の管理社会主義の柱 を成した中央管理経済と指令方式は体制移行 の初期の段階で解体されている。チェコ共和国 は1996年半ばに移行経済の段階を通過したと 言えよう。  もっとも残された課題は多い。チェコ共和国 の所有権移転政策はスピードを重視したため に,「浪費のモニュメント」(m。numen・。f w。、・。)33) であった国有企業のリストラクチャリングを 後回しにしてきた。このため国有企業および私 有化企業の高コスト体質はさほど改善されず, 国際市場での競争で劣後し,このことが主因と なって1997年5月に通貨危機が発生した。政府 は通貨危機を固定相場制から管理フロート制 への移行とコルナの10%切り下げによってど うにか切り抜けた。  私有化企業の最重要の課題は資本主義型営 利会社への転換である。チェコ共和国の場合に は(東)ドイツに対する(西)ドイツのようなビッ グ・ブラザーに恵まれていないだけに私有化企 業のリストラクチャリングは容易でない。外資 導入による経営刷新が急務である。 27)Major (20] p.122 28) Lieberrnan (19) pp.6−7,0ECD C22] p.36, OECD [23) p.50 29)Appel, Gould (4) pp.114,115,116 30)OECD (23) p,51 31)OECD (23) p.52 32)OECD (24] p.117 33)Wmiecki C30} p.222

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 効果的なコーポレート・ガバナンスの制度化 も急がなければならない。バウチャー私有化が 実施された当時,専門家の間では私有化企業の 株式所有が分散されすぎて株主がサイレント・ パートナーになり,コーポレート・ガバナンス がうまくゆかない,という懸念が表明された 34)。実際には投資私有化基金が有力株主になっ たことによってこのような事態はほとんど生 じなかった。ただ,OECDのチェコ研究チーム によれば投資私有化基金によるコーポレート・ ガバナンスにも問題はある35)。第1は政府が 1997年11月に私有化企業に対する投資私有化 基金の持ち株比率を一企業あたり20%からil %に引き下げる決定をしたことである。OECDの 研究チームは,これに伴うコーポレート・ガバ ナンスの効力低下を防ぐには投資私有化基金 を持ち株会社に転換する必要がある,と提案し ている。第2は現行の破産法は効力が弱いため に赤字企業の存続を許していることである。破 産法の改正が急務である。  ともあれチェコ共和国は正996年半ばに私有 化が完了した時点で移行経済の段階を通過し, 誘導資本主義の第1段階に進んだ。誘導資本主 義の制度的形式は一応整えられた。同国の今後 の課題は誘導資本主義の内実を整備するとい うことになるが,それは長期にわたる作業にな るだろう。 3. ハンガリー  ハンガリーでは1990年5月に市民フォーラム を中核とする中道右派のアンタル政権が登場 すると,国有資産および国有企業の所有権移転 政策が実施されるようになった。その主要な方 法は返還と売却であった。  返還は共産党政権が強制的に収用した資産( 土地,建物)を旧所有者またはその相続人に返す 措置であるが,これについては補償バウチャー 34)Dubravcic (9) p.313,Welfens C29] S.324 35)OECD (23) pp.5,6,68−71 (compensation voucher)のやり方が適用された36)。 該当者に対しては最高500万フォリント(約6万 ドル)までのバウチャーが支給された。バウ チャーは国有資産や国有企業の株式の取得に 利用することができ,またブダペスト証券取引 所で売買することもできた。  小規模国有資産の売却についてはポーラン ドやチェコスロヴァキアと同様に競売や入札 の方法が採られた。この小規模私有化は順調に 行われ,1993年末には終了した。  体制移行のスタートの時点(1ggO年)でハンガ リーにはおよそ2300の国有企業が存在してい た。これらの所有権はまず国家資産庁に移転さ れ,その結果国家資産庁は形式的に一種の国家 持ち株会社になった。次に国家資産庁は支配下 においた国有企業の所有権を売却する措置を とった。具体的には直売,自己私有化(self− prlvatization),資本私有化の方法が採用された。  直売は基本において(東)ドイツの方法と同様 であり,国家資産庁の販売チームが特定の私人 (多くは私的法人)と相対取引の形で交渉して当該 国有企業を売却するものである。これは主とし て中小企業に適用された。  自己私有化は中欧諸国では他に例のないハ ンガリー独自のユニークな方法である。該当の 国有企業は国家機関の直接参加なしに自主的 に私有化案を立てることができるが,そのさい コンサルタント会社の参加を得ることになっ ていた。国家資産庁は国内外のコンサルタント 会社と契約を結び,その会社をリストアップす る。該当の国有企業はリストの中からコンサル タント会社を選定し,それと共同でリストラク チャリングや売却を立案し,自ら私有化を行う というものである。自己私有化の第1ラウンド は1991年の年央に実施されたが,その対象に なったのは従業員300人以下で年間売上が3億 フォリント(約400万ドル)以下の国有企業であっ 36)Antal−Makos [3] p.58

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た。さらに1992年5月には従業員1000人以下で 年間売り上げ10億フォリント(約i330万ドル)以 下の国有企業について第2ラウンドが実施され たが,1993年末には自己私有化そのものが突如 中止されてしまった37)。  国有大企業については主として資本私有化の 方法が適用された。まず国有大企業を株式会社 に転換し(コマーシャリゼーション),次いでその 株式を資本市場にパブリック・オファーすると いう方法である。具体的には1990年6月に開設 されたブダペスト証券取引所や店頭市場に売り に出すという形をとった。lg90年にはBUSZ, FOTEX, STYLといったハンガリーを代表する14 の国有大企業の株式がブダペスト証券取引所に 上場された。  以上のほか国有企業の所有権移転を加速す るためにバウチャー私有化が導入された。これ は全国民に対して一人あたり最高1000フォリ ントまでのバウチャーを購入しうる権利を与 え(購入手数料は希望額の1%),政府のアナウンス した国有企業の株式を取得させようとするも

のであった。1994年4月に実施されたバウ

チャー私有化の第1ラウンドには約70の国有企 業(総正価1200億フォリント)の株式が公開提供さ れ,約120万の国民が参加した38)。ところが, 同年5月に政権が交代するとバウチャー私有化 は中止されてしまった。  以上はアンタル時代(1990年5月一1994年5月) の私有化であるが,その当時の方針は一定せ ず,一貫性を欠いていた。当初集権的な売却方 式を採っていたのに1992年には自己私有化の ような分権的方法を取り入れたり,2年半後に はそれを廃止したり,また売却という商業的私 有化(commerclal privatization)39)の原則にもかかわ らず分配の平等を背景にした非商業的なバウ チャー私有化を実施したりしているのである。 このような方針変更は主として私有化行政シ ステムに起因した。国家資産庁が政府に責任を 負う機関であったためにその私有化政策は次 第に政治化されるようになったのである40)。こ のため国有企業の所有権移転は予定よりも遅 れてしまった。  1994年5月の総選挙で政権が交代し,左翼連 合のホルン政権が登場すると,私有化政策の立 て直しが行われた。まず私有化行政システムが 改編され,国家資産庁と国家持ち株七二(私有化 の対象から外された国有企業の管理機関)が統合さ れて国家私有化持ち株会社が設立された。この 機関によって私有化の加速が目的として定め られ,その手段として商業的売却が採られた。  国家私有化持ち株会社は1995年からとくに 国有大企業,銀行および国有公益企業を精力的 に売却した。その具体的な方法はイギリス流の 入札と(東)ドイツ流の直売であり,取引の相手 は主として先進国の戦略的投資家であった。  1995年からバランスシートの健全化した国有 商業銀行の所有権移転が本格化した41)。三大銀 行の一角を占めるハンガリー信用銀行の株式が 売りに出され,Bayerische BankとEBRD(欧州復興開 発銀行)がそれぞれ25%と16%を取得し,他の外 国投資家が8%を取得した(1995年末)。同じく三 大銀行のブダペスト銀行の株式が売りに出さ れ,American General Electric CapitalとEBRDがそれ ぞれ32.5%と27.5%を取得した(1995年末)。さら に三大銀行の残りのひとつ国民商業信用銀行に ついてもその株式が入札の形で売りに出され Belgium KreditbankとIrish Life lnsurance Companyが共 同で45%を取得した(1997年)。その後他の投資 家や同行の従業員も参加して1997年末には同行 の私有化が完了した。  このようにしてハンガリーの国有銀行は順 調に私有化され,1997年末には私有銀行が支配 37)Antal−Makos (3] pp.53−54 38)Takla (27) p.362 39)Takla (27) p.361 40)Takla [27) p.361 41)Abel,Szakadtit C2) pp.167−186

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的になった。その状況を数字で示すと表3のよ うになる42)。  ハンガリーはポスト社会主義諸国の中で最 初に国有公益企業の私有化を試みた国である 43)。国家私有回持ち株会社は1995年以降,六つ の国有ガス会社のそれぞれについてその株式 の50%+1株を,六つの電力配給会社のそれぞ れについてその株式の平均47.8%を外国の戦略 的投資家に売却した。その後残りの分について も漸次売却した。また三つの火力発電所のうち 二つ(p6csとBakonyi)の株式を最初に49%ほど外 国の戦略的投資家に売りわたし,その後残りを 漸次売却した。ハンガリー電気通信三二と総合 石油会社MOLについても同様の措置をとり,そ れぞれの株式を外国の戦略的投資家に売却し た。  以上のようにハンガリーの私有化は1995年 以降加速し,一1997年だけで200以上の国有企業が 私人に売却された一1997年には所期の目的を達 成した。1997年末の時点で国家私有化持ち株会 社がその株式を保有する企業は211であった が,そのうち92は法律によって株式保有が義務 づけられていた44)。92のうち21については全 株,残りについては25%∼75%+ゴールデン・ シェア(golden share)が国家私有刀持ち株会社に よって長期にわたって保有されることになっ た。これらの国有企業および準国有企業が所属 するセクターは農業,電力,水道,運輸,郵便 および電気通信などである。92社以外の企業に ついては今後私有化が予定されているが,その 株式総額は2600億フォリントであり,それほど 大きな額ではない。ハンガリーの私有化は1997 年末に事実上終了し,残務整理の段階に入った と言えよう。  ハンガリーの私的セクターは,国有企業の所 有権移転と私人による私企業および私的事業 表3:銀行の私有化状況 1994年 1995年 1996年 1997年 数総資 数総資産数総資 数総資 に占める害1 に占める害1 に占める害1 に占める害i 合(%) 合(%) 合(%) 合(%) 大銀行 7 75.2 7 70.8 7 69.3 7 63,8 私有 3 50.3 5 50.7 6 54.5 6 57.1 国有 4 24.9 2 20.1 1 14.8 1 6.7 中銀行 1! 16.9 12 19.6 10 20.1 13 27.2 私有 8 9.6 7 !2.3 7 14.4 !2 24.2 国有 3 7.1 5 7.3 3 5.7 1 3.0 小銀行 25 8.1 23 9.6 24 10.6 2ユ 9.1 私有 14 4.9 14 6.4 !6 8.7 !6 6.3 国有 11 3,2 9 3.2 8 1.9 5 2.8 私有 25 64.8 26 68.4 29 77.6 34 87.5 国有 18 35.2 16 31.6 12 22。4 7 12.5 の自発的設立によって,1990年代後半に急速に 拡大し,1997年にはGDPの85%を生産するよう になった45)。  以上からしてハンガリーは1997年末に移行経 済の段階を通過し,誘導資本主義の第1段階に 進んだと言うことができよう。同国の今後の課 題は誘導資本主義の内実を整えることにある が,その作業は比較的順調に進むように思われ る。その理由は先進国の資本が大量に流入しつ つあることである。OECDのレポートによると, 1997年末の時点で外国の資本が参加した企業は 約2万5700にものぼっている46)。これらの企業 はGDPの32%と製造業の付加価値の45%を生産 し,私的セクターの雇用の25%を占めた。外資 参加の企業はリストラクチャリングのペース, 生産性および市場成長などの点で外資なしの企 業よりもはるかに高い能力を有することが確認 されている47)。今後とも外資流入が予想され る。外資参加の企業がハンガリー経済の資本主 義化を強力に牽引することになるだろう。 42>OECD (25) p.81 43)Abel [1) pp,l14,115,117,0ECD [25) p,78 44)OECD [25) p.76 45)OECD (25) p.76 46)OECD C25] p,72 47)OECD C25) p.74

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Vおわりに

 ポスト社会主義の各国政府が採用した体制 移行戦略にはラディカリズムとグラデュアリ ズムがあった。過去10年の実践は,誘導資本主 義の体制的フレームワークを制度化するには グラデュアリズムよりもラディカリズムの方 が一少なくとも時間と社会的コストの節約という意 味で一はるかに有効であることを実証した。ラ ディカリズムは,とりわけ(東)ドイツやチェコ 共和国のように管理社会主義から誘導資本主 義への移行を余儀なくされた国において効力 を発揮することが分かった。グラデュアリズム を選択したブルガリアやルーマニア,ラディカ リズムを意図しながらグラデュアリズムに方 針変更したロシアやポーランド,分離独立後に グラデュアリズムに舵を切ったスロヴァキア などの国は依然として移行経済の段階に留 まっている。  グラデュアリストのチャバ(LCsaba)は「リプ トンやサックスによって宣伝された迅速な制 度化,つまり『市場へのジャンプ』戦略はそれ が試みられたところではどこでも失敗した」48) と述べているが,これは事実を無視した暴論で ある。グラデュアリストは一般に自分たちの 「下からの」移行戦略に固執するあまり事実か ら目をそらす傾向がある。コルナイしかり, マーレル(P.Murre l)しかり,スターク(D.Stark)し かりである49)。  筆者はかねてより東欧革命後の革命的な雰 囲気が残っているうちに「上から」一挙に体制 移行を行うべきであると主張してきた50)。バル ッェロヴィチ(LBalcerowicz)の言うように51), 革命という異常事態は人びとをして公益優先 で行動させ,自利を後回しにさせる雰囲気があ 48)Csaba (7) p,143 49)福田〔13〕第4章 50)福田〔13〕第4章 51)Balcerowicz (5) pp,161,209,256,312 る。このタイミングを狙って一挙に社会主義を スクラップできるかどうかが移行経済の早期 通過に成功するか否かの分かれ目となる。これ に成功したのはチェコスロヴァキアであり,分 離独立後のチェコ共和国であった。その成功は 蔵相と首相を務めたクラウスの手腕に負うと ころが大きかった。彼は,「ビロード革命」後 の反共感情の高まりをEC加盟に結びつけ, 「ヨーロッパに帰る」をスローガンにして国民 にヨーロッパ人としての自覚を植えつけるア イデンティティ・ポリシー(identity policy)を巧み に展開した52)。この政策によって社会主義に既 得権を持つノメンクラトゥーラや国有企業の マネジャー層を押さえ込みながら,1991年1月 にショック・セラピーのマクロ経済安定とラ ディカルな制度転換から成るポリシー・パッ ケージを発動し,一気に管理社会主義の解体を 図ったのである。  1993年1月1日にチェコ共和国と別れたスロ ヴァキア共和国ではメチアル(V.Meciar)が政権 の座につくと,移行戦略はグラデュアリズムに シフトするようになった。彼は権力維持のため に国有企業のマネジャー・グループの要求を容 れ,バウチャー方式を放棄して私有化のペース ダウンを図り,マネジャー層の既得権を擁護し たのである。このため移行経済の通過は大幅に 遅れてしまった。  ポーランドでは1989年9月にマゾヴィエツキ 政権が誕生すると,蔵相バルツェロヴィチの チームによってショック・セラピー型のマクロ 経済安定とラディカルな制度転換を骨子とす る「経済プログラム」が策定され,1990年1月 1日から実施された。その結果ショーティジフ レーション(shortageflation)の解決を狙ったマク ロ経済安定政策は予想どおりの成功を収めた が,制度転換の方は難航した。マゾヴィエッキ 政権がその支持母体であった自主管理労働組 52)Appel, Gould (4] p.127

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合「連帯」に対して距離を保てなかったからで ある。この国では1982年に国有企業に労働者自 主管理が導入されたために,1989年の革命以前 にすでに労働者が国有企業に既得権をもつ構 図ができあがっていた。ノメンクラトゥーラの マネジャー・グループよりもむしろ,ヴィニエ ツキ(J.Winiecki)の言葉で言えば,産業ルンペン プロレタリアート(industrial lumpenproletariat)とル ンペンインテリゲンチャ(lumpenmtelligentia,ホワ イトカラーやプロフェッショナル)の方が国有企業 により大きな既得権をもっていたのである53>。 これらの層は当然のことながら国有企業の私 有化に対して敵対的態度をとった。さらに守旧 派コミュニスト,「連帯」内の左翼グループ,ナ ショナリスト,カトリック原理主義者なども私 有化に反対した54)。マゾヴィエッキ政権および その後の政権は一1990年から1994年の四年間に首 相が五人も交替した一これらの反対グループを 説得する能力をもたなかったために,私有化の 方針は一定せず,徹底さを欠いた。ポーランド の私有化が遅れ,移行経済の存続期間が長引い たゆえんである。  ポーランドの経験は,経済体制の根本的転換 にとってスタート時点がいかに大事かを教え ている。マゾヴィエツキ(T.Mazowiecki)には,ク ラウスのように,革命的異常事態を巧みに利用 する賢明さも鉄の意志もなかったのである。ラ ディカリストのバルツェロヴィチは志し半ば にして野に下った。  もっとも誤解のないように付け加えておく と,筆者はポーランドの体制移行が停滞してし まったと言おうとしているのではない。チェコ 共和国や(東)ドイツのようにラディカルな移行 戦略を徹底できたならば,この国はとうに移行 経済の段階を通過していたであろうと言いた いだけなのである。体制移行の進行度のランキ 53)Wimecki C30] p,xxi 54)Winiecki [30] p,179,217 ングで見ると,ポーランドは28のポスト社会主 義国の中で(東)ドイツ,チェコ共和国およびハ ンガリーのトップグループに次ぐ位置を占め ている。誘導資本主義への移行が完了する日も 近いように思われる。  中欧諸国はこの10年,社会主義→移行経済一 誘導資本主義の体制運動を繰り広げてきたが, 明確な方針のもとに上からの私有化を徹底で きた国ほどいち早くこの体制運動に終止符を 打ち,誘導資本主義に移行することができた。 筆者が年来主張してきたように,ラディカリズ ムが経済体制の根本的転換にとって最:良の戦 略であることが証明された。      引用文献および参照文献 (1 ) Abel, 1.,Hungary, in Helmenstem, C.(ed.), Capital Markets tn Central and Eastern Europe, Cheltenham.Northampton, i999, pp.109−128. [2]Abel, 1.,L.SzakadAt, Bank Restructuring in Hungary, in Acta Oeconomica, Vol.49(1−2), 1997−1998, pp.157−190, (3) Antai−Makos, Z.,Privan:.ation, politics and economic performance in Hungary, Cambridge, 1998 (4) Appel, H,,」.Gould, ldentity Politics and Economic Refom: Examming lndustry−State Relation in Czech and Slovak Republics, in Europe and Asia Studies, Vol.52, No.1, 2000, pp.111−131. (5) Balcerowicz, L.,Sociaksm, Capitalism and Transfor− mation, Budapest.London.New York, 1995. (6] Brucker, H,,Privatization in Eastern Gemany, Lodon. Portland, 1997 (7)Csaba, L.,The Capitakst Revolunon in Eastern Europe, ACo腓ibutionオ。’加Ecoηo謝。 Theor:y qプSystemic Change,Brookfield, 1995 (8) Csite, A.,1,Kovach, The End of Post−Socialism:The Structure and Efficiency of Ownership of Hungarian Large Compames in 1997, in Acta Oeconomica.Vol.50(1−2), 1999, ppA7−88 (9] Dubravcic, D.,Entrepreneurial Aspects of Privatization m Transitional Economies, in Europe−Asia Studies,

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参照

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