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F.J.レスリスバーガーの
知的自叙伝序説
名誉教授 進 藤 勝
美 1 序 メイヨー(Elton Mayo)やレスリスバーガー(Fritz J. Roethlisberger,フ ィリッツは略称)らを中心とするハーバード学派(Harvard’school)の「初期 1) 人間関係論(Human Relations)」が,現代経営学,なかんずく経営組織論,経 営労務論の発展に大きく貢献していることは広く認められている。しかし,そ の学問的性格ないし位置づけは必ずしも明確でない。「産業社会学(industrial sociology)」もしくは「産業社会心理学(industrial social psychology)」と同 2) 一視する論者もおられるし,他方新しい「労務管理」ないし「人間関係管理」 3) こそ「人間関係論」であると見なしておられる論者も少なくないようである。 ところで,ハーバード学派の「人間関係論」の基礎となっているのは,シカ ゴにあるウエスターン・エレクリツ社(the Western Electric Company)のホ ーソン(Hawthorne)工場において,1927年4月から1932年5月にかけて行な われた「ホーソン・リサーチ(Hawthorne Research)」である。そしてその中 心となったのはメイヨーであり,メイヨーこそ「人間関係論」の祖であると見 なされてきた。しかし,同社におけるリサーチはこれが初めてでなく,1924年 1)ハーバード学派の人間関係論と行動科学の人間関係論では主要概念や研究方法において 大きく異なっている。後者についての主な学者には,マグレガー(D.McGregor),リカー ト(R.Likert),アージリス(C. Argyris)などを挙げることができる。わたくしは前者を 「初期人間関係論」,後者を「現代人間関係論」と区別している。 2)例えば尾高邦雄氏「産業社会学」(ダイヤモンド社■t昭和33年)及びJ. A.ブラウン著伊 吹山・野田訳「産業の社会心理」(ダイヤモンド社昭和30年)があげられる。 3)これの代表的著書としては,Pigors and Myers’Personnel Administration,1947.と Keith Davis, Human Behavior at Work,1977をあげておこう。11月から1927年4月まで,「照明と能率の関係」を明らかにするための「照明実 験(the illumination experiment)」を2年5ケ月かげて行なったが,その結果 は予想に反するものだった。すなわち照明効果と能率の間に相関性を認めるこ とができなかったのである。 この実験のリーダーであったペンノック(George Pennock)は,従業員の生 産高に影響を及ぼす要因はいろいろあり,もっときびしいコントロールのもと で,労働条件における変化導入の効果を明らかにすることを考えた。こうして メイヨー・グループの登場が求められることになったのである。グループは大 学側からメイヨーと同僚のレスリスバーガーとホワイトヘッド(T.N. White− head)が,会社側から雇用関係部長のディクソン(William G. Dickson)と人 事調査部長のライト(Harold A. Wright)が参加した。リサーチは以下の三つ 4) のシリーズで行なわれた。 Schedule of Test Periods RELAY ASSEMBLY TEST ROOM Period
Number Special Feature Dates lncluded Duration Times ofin Weeks A.M. Rest Pauses P.M.
123イ仕FDρ0 7
012
0089111
1 In regular department Introduction to test room Special group rate Two 5−min. rests Two 10−min. rests Six 5−min rests 15−min A,M, lunch and 10−min. P.M, rest Same as 7 but 4:30 stop Sarne as 7 but 4:00 stop Same as 7 Same as 3 (no lunch or rests) own lunch, company furnishes beverage 4−25−27 to 5−10−27 to 6−11−27 6−13−27 to 8一 6−27 8一 8−27 to 9−10−27 9−12−27 to 10一 8−27 10−10−27 to 11一 5−27 11一 7−27 to 1−21−28 1−23−28 to 3−10−28 3−12−28 to 4一 7−28 4一 9−28 to 6−30−28 Same as 7 but, Sat. A,M, off 7一 2−28 to 9一 1−28 9一 3−28 to 11−24−28 Same as 7 but operators furnish 11−26−28 to 6−29−29 5−10−27 Approx 2 障08[∂44 1 749臼0ゾ2 1 1 1 1 3 10:00 10:00 8:45,10:00 11:20 9:30 9:30 9:00 9:30 9:30 9:30 None None None None 2:00 2:00 2:00,3:15, 4:30 2:30 2:30 2:30 2:30 2:30 2:30 4)ホーソン・リサーチ研究の詳細については,拙著「ホーソン・リサーチと人間関係論」 (産業能率短大出版部,昭和53年初版発行)第一部を参照されたい。F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 21 (1)継電器組立作業実験室(Relay Assembly Test Room, RATRと略称) (2)面接計画(Interviewing Program) (3)バンク配線作業観察室(Bank Wiring Observation Room, BWORと略称) (1)のRATRでは継電器の組立作業を行なつっている5名の女子工員と1名の 女子のlayout Operator(工員の世話役)を対象に,隔離された実験室において観 察した。その狙いは干渉要因をできるだけ排除した作業環境のもとで,労働条件 の変化,すなわち中津時…間(rest pause)の挿入,軽食の提供,作業時間の短縮 土曜休日など種々の変化をいろいろな形で次々に導入し,それらに応じて女子工 員の生産性がどのように変化するかを明らかにすることにあった。 (2)の面接計画は,当初は「監督の改善」のための計画としてスタートしたが, 後には不平不満もしくは満足・不満足で示される従業員の態度,感情の理解を目 指す非指示的な(nondirective)面接方法に切り替えられ,次のような人間関係論 の重要な命題が導き出されたのである。すなわち《人びとの行動は外部に現れた ものだけから判断してはならない,過去の社会経験(social post)と現在の職場 の人間関係(social present)を含む社会的文脈(social context)において理解 されねばならない》であり,レスリスバーガーのX図表はこれを図式化したもの である。 (3)のBWORは14名の男子工員から成るバンク配線作業室の人間関係を対象と した観察であり,1931年11月から約6カ月半続けられた。そしてそこから初期人 間関係論の中心概念の一つとなったインフォーマル組織(informal organiza− tion)の重要性が実証された。 ホーソン・リサーチは,実に多くの関係者や研究者によって,いろいろな視 点から取りあげられてきたが,大学側から参加した3名の教授の代表的な著書 を記しておく。 (1)E.Mayo, the Human Problems of an lndustrial Civilization,1933,(村本訳 「新訳産業文明における人間問題」昭和48年,日本能率協会)。 (2)E.Mayo, The Social Problems of an lndustria1 Civilization,1945,(藤田・名 和訳「アメリカ文明と労働」昭和26年,有斐閣)。 (3) E. Mayo, The Political Problem of an lndustrial Civilization, 1947.
面接者の考慮すべき諸関係 外部に現われるもの
A
D
C BE
外部に現われぬもの A=相手の話し(verbal behavior) B=相手の話し以外の行動(overt behavior) C=相手の感情・希望・関心など(peronal reference) D=相手の現在の人間関係(social present> D, E ==social reference (4) F. J. Roethlisberger and W. J. Dickson, Management and the Worker, 1939. (邦訳なし) (5)F、J. Roethlisberger, Management and Morale,1941,(野田・川村訳「経営と 勤労意欲」昭和40年改版)。 (6) F. J. Roethlisberger (Edited by George F. F. Lombard), The Elusive Phe− nomena, 1977. (1)(2)(3)は一般にメイヨー三部作と称されるものだが,(1)の前半三分の二余り をホーソン・リサーチの検討に割いているが,内容は主として「疲労」と「単 調」の問題を扱っている。これに対してレスリスバーガーがディクソンの協力 を得て完結させた(4)の“Management and the Worker”は,ホーソン・リサ ーチそのものに焦点をおいて見事にまとめあげた「人間関係論」であり,上梓 当時この種の本でのベストセラーになったと“Elusive Phenomena”に述べて 5) いる。筆者が「ホーソン・リサーチと人間関係論」の表題で産能大出版部から 5) Elusive p. 53.EJ.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 23 著書を発行させてもらったのは昭和53年であり,上記の本が非常に参考になっ た。さらにレスリスバーガーには,1928年から1966年までに執筆した論文26編 を年次順に頭注(headnote)付きで編集した論文集“Man−in−Organization, 1968”があり,本格的な「人間関係論」から,氏の率直な「メイヨー論」・「ホ ーソン再訪論」など,興味深い論題がいろいろ並んでいる。この本の出版は氏 がハーバードを退職して1年後であり,高弟のロンバード氏によれば,「その頃 にはすでに彼の心中に,次の本のもとになった構想の概要がほぼまとまってい 6) たようであった」と。事実この本はこの論文集が出版されてほぼ9年経って 〈The Elusive Phenomena(この捉え難き現象)〉という表題で1977年上梓さ れた。しかしフィリッツ自身はこの本の出版をみることなしに,3年前1974年 に死去し高弟のロンバードに編集,出版を委託することになった。 ロンバードはこの本の序言の冒頭にこう記している。 「フィリッツ・レスリスバーガーが彼の人生とやってきた仕事(his life and work) に就いて本を書いておこうと考えたのは,彼が引退する数年前からのことであっ た。彼はそれを自分の知的自叙伝(intellectua1 autobiography)だと話しておった が,しかし彼が望んでいたのは,彼自身の人生経験や仕事上の業績では決してなか つた。彼は自分が軽視してきたと思われる企業経営や社会諸科学についての知的な 問題や概念化問題を,彼の人生経験や仕事上の経験を活用して,はっきりさせてお きたいと望んでいたのである。彼は自分が精通していた人間関係や組織行動の分野 における知織の発達や実行の改善を,自分の怠慢のために妨げたのではなかったか 7) と考えていた。 フィリッツはまた,「科学の方法」に関する1970年の講演についてのし.J.ヘンダ ソンの最後の警告を気にしていた。こう言っている,「科学的研究の最後の仕事は必 ず実行するということだ」と。彼は研究者としてもきわめて良心的で信頼するに値 8) する人物であることを示している。 6),7),8)Elusive LombardのForeword, ix.
2 知的自叙伝の構成 レスリスバーガーは自らの自叙伝に,「知的」という形容句を加えている。こ れは彼の「人生と仕事」を科学的研究の対象として捉えようとしていることを 示唆しているものと解される。上記のようにこの本の表題は<Elusive Pheno− mena>という自叙伝らしくない難かしいものである。ただ題とびらに,この本 が自叙伝であることが分かるような簡単な説明と著者名が記されている。以下 の如くである。 An Autobiographical Account of My Work in the Field of Organizational Behavior at the Harvard Business School
F. J. Roethlisberger
レスリスバーガーが仕事として最終的に選んだ人生コースは,ハーバード・ ビジネス・スクールの教授団のメンバーとなることだったといってよかうう。 しかしそれに到達するまでには種々の紆余曲折があった。ロンバードは上記の 序文のなかでこう述べている。 「フィリッツは彼の人生で二種の専門職の経験を持った。彼のキャリアは成 功であったと思う。彼は西部電気会社のくホーソン・リサーチ〉への貢献者で あった。またハーバード・ビジネス・スクールの彼のクラスは,希望者全員を 収容できない程人気のあるクラスだった。彼はまた事業所や学会などでももっ とも人気のある講師だった。彼はさらにまた,ハーバード大学の教授団の1人 として,すぐれた調査研究もしくは科学研究への最も価値ある貢献者に与えら 1) れるLedlie賞を1959年に与えられた。 この自叙伝は「参考文献(reference)」や索引を入れて500頁を越す大部のも ので,フィリッツはこの原稿が出版されるかどうか,確信をもっていなかった ようだ。もし出版するとしても,1冊の本になるか,2冊になるか分からぬ, 1) Elusive Phenomena, Foreword viii.F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 25 もし2冊になるとすれば,1冊は彼が在職中に果たした仕事の成果といえるだ ろうが,他の1冊は彼が引退した後でまとめたものということになるとロンバ 2) 一ドも述べている。幸いこの本は1冊にまとまって出版されたが,本文はBook oneとBook twoに区分されている。前者は「私自身及び私の仕事の集中分野 の発見(Finding a Focus for Myself and My Work)」という表題のもとで4 部,18章,339頁を占めており,Book twoは「再陳述と再考(Restatement and Reflection)」なる表題で3部,7章,124頁にとどまっている。前者の4部の表 3) 題は以下の如くである。 第1部:人生コースの選択 第3部:人材開発の焦点としての人間関係 第2部:人間関係と経営管理 第4部:人材開発の焦点としての組織行動 4) 後者の3部の表題は以下の如くである。 第5部:知識構築の諸段階。第6部:主題の再検討。第7部:現代社会におけ る知識と行為。知識構築とは耳馴れない語であるが,ここでは,人間関係論な いし組織行動論の理論化をどのように進めるか,理論化に段階が存するとすれ ば,それはどのような基準ないし物差しで区分し,いかに相互に位置づけるか。 レスリスバーガーは,技能(skill),臨床的知識(clinical knowledge),分析的 知識(analytical knowledge)の三者に区分している。 これに対して第6部は研究対象に焦点をおいた考察である。かれは「社会シ ステム」を人間関係論ないし組織行動論の概念図式として秩序づけられるとみ て,①技術空間,②目的空間,③社会空間,④個人ないし生活空間(personal or life space)。第7部は知識と行為の関係,すなわち理論と実践の同時並行的な 発展はいかにすれば可能かを主題としており,「相互補足原理(principle of complementarity)こそこれに答えるものだと主張している。 2) lbid., ix. 3),4)Book Oneは4つの部門(part)から, Book Twoは3つの部門から成っている。 ElusiveのContent v∼vi参照のこと。
3 フィリッッの少年時代 フィリッツの祖父はスイスのドイツ地区でチーズ業を300年も営んでいた旧 家であり,スイスのフランス地区出身の祖母との間に12人の子供が生まれ,長 男は渡米してチーズの輸入と販売を業としていた。フィリッツの父となる7番 目の男子も長男を頼って渡米した。フィリッツの母方の祖父母はそれぞれスイ スのフランス地区出身者で若くして渡米し,フランス風のレストランで働いて いるうちに,レストランの経営者の紹介で結婚し6人の子を儲けた。アメリカ 生れの4番目の女の子が,16歳の時20歳年上のフィリッツの父親と結婚し,姉 ISAとフィリッツが生れた。 1) 父はフィリッツが5歳のときに,肺炎とアルコール中毒で死去した。こうし て未亡人になった母は,間もなくフランス人とドイツ人の2人から求婚された。 母はドイツ人のMaxターテンが16歳で渡米し,直ちに市民権を取り,アメリカ 社会にとけ込んでよく働いていたので,父の死後2年経ってMaxと再婚し,3 人の子を儲けたが,1人は子供のうちに亡くなった。母にはフランス系の親族 が多く,休日や誕生日,その他記念日には親族の人達などが多数集ってお祭さ わぎをして楽しんだ。そのときはフィリッツ達は皆直立して,ラ・マルセイユ を歌ったという。 母は子供を育てるのに,フランス風にきびしく躾けた。亡父の長兄である伯 父のロバートはフィリッツと考え方や意見で違いがあったが,フィリッツの兄 2) 姉妹をスタテン島(Staten Island)のアカデミィ(Academy)に入学させるの には賛成し,教育費を負担してくれた。これは大変な好意であったが,姉とフ ィリッツはフランス語しか話せなかったので,友達も少なく孤立したままです 1)フィリッツの母親は,レスリスバーガー家の人は飲みすぎ,食べすぎ,煙草の吸いすぎ で早死している,フィリッツには21歳までアルコールを絶対禁止だと約束させたと。(Elu− sive phenomena, p. 12) 2)Academyは(米)ではハイスクールを意味するようだが,フィリッツは7歳から12年間 在学しているので,小学校から高校まで在学しており,カレッジコースもありそうだから 学園と訳した方が良いように思う。
F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 27 ごさなければならなかった。楽しい教育環境ではなかったようだ。しかしフィ リッツの成績は非常に良くクラスでトップだった。とくに算数や代数・幾何・ 物理・化学など理科系の科目が好きだった。 フィリッツが14歳になった時,レスリスバーガー家の家業であった「チーズ 事業」への参加を親族会議で勧められた。そしてそれには仏・独・伊の三ケ国 の語学の修得が条件だといわれた。仏・独・伊の国に行って言葉を覚えてきた らどうだとも言われた。この会合はニューヨークのチャンバー通りの近くにあ る小さなレストランで行なわれたが,フィリッツはその席上で,「自分はチーズ 事業をやろうとは思っていない,土木技師(acivil engineer)になりたいんだ」 と発言した。これは重大な発言だったらしい。「300年も続いたレスりスバーガ ー家のチーズ事業を引き継ぐ人がいない」ということで親族の人達は深刻な顔 3) になり涙をこらえ,溜め息をもらしていたという。 このようにしてフィリッツは徐々に家族や親族から離れて孤立していったが, それは自分が人種や国籍,家柄などに拘わらない,自由な1人のアメリカ人な のだという意識を強くもつようになったのだと強調していた。 また彼は非科学的な家庭の雰囲気(nonscientific family atmosphere)を嫌 い,それから逃れるために勉強に集中するようになったし,本を貧り読むよう 4) になったとも述べている。しかし家にはろくな本がなかったし,学校にも読み たいというような本はなかったので,セント・ジョージにあった小規模の「カ ーネギー文庫」に行って大人の好むような本を借り出して読んだ。とくに,腕 一本で叩き上げた立志伝中の人物の物語,ホレイショ・アルジャー(Horatio Alger)の物語類は繰り返し読んだという。それはもっとも初歩的な,生きるか 死ぬか,成功するか,失敗するかの物語りであり,フィリッツはこれらを読ん で初めてプロテスタントの倫理(Protestant ethic)に触れたと思ったと述べて 5) いる。 3) lbid. p.14. 4) lbid. p. 16. 5)Ibid. p.17.世俗的職業への専念と合理的禁欲を説く倫理で資本主義社会の支配的エト スと見なされる。
4 フィリッツの大学時代 人生コースの選択 フィリッツの幼年時代は,実の父との死別という痛まし い経験から始まったが,このことが彼の人生コースにどのような影響を及ぼし たかは,自叙伝の中から殆んど読みとることができない。自分の人生コースは 自分が選択するという強い意思力の形成には,なに程か影響しているかもしれ ないと思われた。 7歳から19歳までのスタテン島のアカデミィの12年間は6年の小学校と中高 一貫の6年間に相当するが,理科系の科目を好むよくできる生徒で,卒業式で は,“Romance of Dirt”という題目で講演をしているし,14歳のときは親族が 集った席上で家業のチーズ事業の引き継ぎを勧められて土木技師になりたので とはっきり断っているのも,並並ならぬ少年のアイデンティティを示している。 上記のように,この自叙伝のBook oneは,「フィリッツ自身のアイデンティ ティと彼のやってきた仕事の集中点の発見(Finding a Focus for myself and 1) my work)」を4つの部門に分けて述べている。第1部門は年代区分では1898∼ 1942年で44歳まであり,その表題は「人生コースの選択(Choosing a Career)」 である。彼は第一章の冒頭で以下のように述べており,人間関係論人間組善 性を主題とした超一流の大学教授の人生観として感銘を覚えた。 「われわれには過去を振り返り,これからどうするのかと焦躁の念に駆られると きがある。わたくしの場合は,それが60歳代の後期であった。わたくしは自分の求 めている主題はなにか,そしてそれは自らのアイデンティティの追求と緊密に関連 づけられているかどうかを実感したのは60歳代の後半であった。自分はどういう人 間であったのかと,自分が主題としていた仕事とを峻別するのがしばしば難かしか つた。若い頃はこれら二つは堅く結びついていたが,年を経るにつれて,アイデン ティティの危機に直面した。それはフィリッツが,自分の主題は何かという問題に 困惑するようになったときである。自分は随分骨折ってハーバード・ビジネス・ス クールの教授になったが,一人の教授であることと,同時に一個の主体性をもった 1)25ペ一一一一ジの註3),4)を参照のこと。
F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 29 2) 人間となることは,自分には難かしい到達目標であった。」 彼はこのように書いているが,スタテン島のアカデミィ卒業時にはコロンビ ア・カレッジ(Columbia College)に入学して化学者もしくは化学技術者にな ることを目指していた。アカデミィ卒業式で“The Romance of Dirt”の表題 で話したのは,コUンビア・カレッジに入学することを娩曲に表明したのだと 3) 述べている。ところが,1915年には虫垂突起が破れて腹膜炎をおこし,8週間 入院して3回手術をうけているし,1917年には下腹部が乳様突起炎におかされ 手術を受けた。これら二度の病気で同年齢の友人達との助け合いが,いかに大 切であるかを痛感したと述壊している。彼には非常に親しい友人が2人おった が,そのうちの1人は早世し,大変淋しい思いをしたようだ。 コロンビア・カレッジとM.1.T.アカデミィからコロンビア・カレッジへの 転入学は,フィリッツが予想した以上に大きな変化をもたらした。コロンビア 大学には1917年から1920年まで3年間おった。どんなコースをどんな先生が教 えるかも知らなかった。コースは3つで,「現代文明論」,「哲学」,「比較文学論」 だった。興味深いコースだとは思ったが,アカデミィを卒業する時決心した「化 学者もしくは化学技術者」という人生コースの目標は変えるまいと覚悟してい た。ところが1918年目大学2年の初めに,アメリカの第1次世界大戦への参加 によって,召集(draft)という事態に遭遇した。しかしこの戦争はヨーロッパ が主戦場で,しかも遅く参戦したので,フィリッツは大した被害を受けなかっ たが,ただコロンビアで予定していたコースをすべて修得するには,さらに3 年以上在学しなければならなかった。そこで彼はコロンビア大学を退学して,
マサチューセソツ工科大学
M.1.T.(Massachusetts Institute of Technology)に転入学することを考え た。同大学は当時新たに経営工学(Engineering Administractionと称するコー スをスタートさせていた。それは経済学と工学を組み合わせたもので,(コース XV)と称していた。彼はこの組み合わせば自分の望んでいたキャリアコースに より適合していると思い,残された2年の大学生活をM.1.T.の工学に充当しよ 2)アカデミィはフィリッツのコロンビア大学へ進学するのに賛成でなかったように思う。 3)Elusive, p.1第1章の序論で彼は「主題をもたぬ教師は言葉の矛盾」だといっている。うと決心した。しかしMJ.T.の2年間は,初めから終りまで全く幻滅であった といっている。新設のコース(XV)は経済の部門だったが,実際は科学的管理 法とテイラー主義がその内容であり,能率技師と称する新しく現れたグループ の育成を目標としており,期待していた経済学とは全く違った体系と内容のも のであったと落胆していた。 このように,フィリッツの人生コースの探究は,スタテン島のアカデミィか らコロンビア・カレッジへ,コPンビアからMJ.T.へと遍歴したが未だこれぞ というコースを捉えていない。そこで彼は高いレベルを望みすぎたのではない かと反省し,もっと低いレベルでの新しいキャリアを開発しようと考え直した。 そして考えついたのは,工学の教育に投資するのをやめて,それを実務でやっ てみようというコースだった。彼は色々の会社に,化学ないし工学の技師とし て雇ってもらえぬかと求職を行ない,結局「アメリカ金属溶解・精錬会社 (American Smelting and Refining in EL Paso, Texas)に化学者として勤め ることにした。仕事は鉱山採掘業者(mines)と溶解業者の間の裁定を行なうこ とであった。すなわち鉱山業者が溶解業者に鉱石を納入するとき,金ないし銀 がどれ位の量含まれている筈だと話したとする,ところがそれを溶解してみる と話しと食い違うというケースが出てくる。そこで両者の間を調整する専門家 が必要になったのである。ただしこの会社は鉱山業も溶解業も同じ会社の部門 となっているので深刻な問題になることはそれ程多くなかっただろうが,経営 上は決して軽視できない仕事であった。 M.1.T.では午後1つの鉱石を2∼3時間かけて分析したが,この会社では1 4) Bに40∼50のサンプルを,ひとまとめにして「灰吹き法(Capellation)一灰吹き 皿を使って金・銀と鉛の酸化分離をする方法一にかけるため,炉の中に置き, 高温計(pyrometer)なしで炉の熱度を判断して対処しなければならなかった。 古手の専門家は炎の色で判断していたが,フィリッツにはそれが出来なかった。 4)日本語大辞典(講談社)によると,「金・銀を分離する古い方法。金・銀を含む鉛の合金 を溶融し,牛などの骨灰を厚く塗った灰吹き皿で鉛を酸化・灰化・吸収させる方法である。 (1539頁を参照)
F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 31 これが人間関係論や人間組織論でいう実験的知識(knowledge of acquain・ 5) tance)と抽象的知識(knowledge−about)の差異であり,フィリッツには初め ての経験であった。彼はこの仕事を6カ月足らずでやめてしまった。その後の 3カ月をメキシコですごし,MJ.T.での友人を訪ね,友人の溶解の仕事を助 け,夜には一緒にショッピング・センターを遊び歩いたりしたが,目標喪失状 態に耐えられず,ボートを入手して実家に帰った。 次の年はニューヨークのワシントン地区にある「アメリカ書籍会社」の販売 代理店員として働いたが,これが主な仕事ではなく,村に住んで大いに本を読 み,ブv一ドウェイの劇場に出入りしたりして,自分ではひとかどの文士(Bo− hemian)気取りで,素晴らしいアメリカ小説を書くつもりでいた。本屋なので その頃急に売れだした現代アメリカ文学書を発見した。以前に読んだクラッシ ックとは異なり,自分達の年頃の人に働きかけようとしている新しい文学で, 例えばシンクレア・ルイス(S.Lewis),テオドール・ドライザー(J. Dreiser),シャーウッド・アンダーソン(S. Anderson),オイゲン・オニール (E.O’Neill), H. L.メンケン(Menken), New York Worldに属する特色 ある作家,いわゆるアルゴンキ・ン族(Algonquin)のグループ,日本でもよく知 られているH.G. Wells, Thomas Mann, E. Hemingway, F. S. Fitzgeraldな 6) ども加えている。 フィリッツによれば,これらの文学は,これまでの作家になかった心を打つ 作品であり,これまでの読書では得られなかった想見(vista)ないし展望を示 してくれた。彼はこうしてこれまでより幅の広い領域をもった作家の本を読ん だ。これらの文学を通して,彼は他人の空間を同感を以てみるようになった。 彼はまた,他人と自分のもっている疑問や心配を共有できることが分かり,慰 められた。これらの作家は,自分が強く感じていたがはっきりと表現できなか ったことを言葉で示してくれた。かれらは一面自分の悲観主義を強め,アメリ 5)E.Mayo, Social Problems of an Industrial civilization,1945, p.16.原典はWilliam James“The Principles of Psychology,1890, vol 1, p.221に拠っている。 6)ここでは重要と思われるものを取り上げた。
力人としての自由主義の夢を曇らせたが,このことは現代社会のもつ病に対す る薬としての社会主義への自分の関心(interest with socialism)を持ち続ける 7) のに役立つだろうといっている。人類のもつ人間的条件と社会的条件は切り離 8) すことの出来ないものであると断じている。 まくあい ハーバード大学へ フィリッツの2年間の幕間(inlertude)は「金属溶解・ 精錬会社」での短期間の実務と,書籍会社の販売代理店員をやりながらの読書 生活ですごしてしまった。優れた文学書を読み続けることは,人生コースの探 究にも,社会諸科学の研究にもきわめて有益であることは間違いない。大学で 勉学に励み,文学士や理学士の資格を取得するのも勿論役立つが,実務やすぐ れた文学を通じて生きた人生のあり方を修得するのは,それにも増して有益な ことではなかったかと思われる。しかしフィリッツは,「それでも自分の情念や 探究心を満足させることができなかった。……作家としての生活は短期間で終 った。」これはまだ本当の自分でない。自分がこれまで経験してきたあらゆる不 確実の背後にそれを感じた。そこにはなにか実体的なものがあり,ある種の知 恵を見逃しているのでなかろうか,人文科学の学者の世界にはそれが存在する のではなかろうかと考え,今度はハーバード大学の下金と科学の大学院(Grad− uate School of Arts and Sciences)にある哲学部門に入学した。1924年26歳 の秋であった。 伯父からの単産 このようにフィリッツは,スタテン島のアカデミィに12年 間,コロンビア・カレッジに3年間,MJ.T.に2年間,そしてハーバード大学 の大学院である。なんと贅沢な大学生と思われるが,実はスイスの伯父ウルリ ッヒ(Ulrich)から父の死後詮なしにIsaとフィリッツの2人に1万弗つつの財 産を贈与されていた。自分達はそういう伯父がいるということも知らず・勿論 会ったこともなかった。母はこの財産を21歳まで信託財産として預けておいて くれたので,フィリッツはそれから得られた利息で教育費を賄うことができた。 7)フィリッツが社会主義にどれだけ熱意をもっていたか明らかでないが,運動家ではなか ったようだ。 8) Elusive, p,24.
F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 33 基金の一部は費消したが,相当額は今でも残してあると記してあった。 教育費の問題はこれで分かったが,大学院哲学部門の講義はどうだったか。 フィリッツはW.ジェームズやG.サンタヤナ,J.ロイスなどの著書を勉強し ていったが,彼が入学したときは,これら著名な哲学者は,ハーバードを去っ た後だった。代わりは英国のケンブリッジ大学からA.N.ホワイトヘッドが招 かれた。B.ラッセルと共著の「数学原理」(3巻)が有名である。フィリッツ はホワイトヘッドの指導を受け,「記号論理学」ではH.M.シェッファのコース を択び,非ユークリッド幾何学(noneuclideamgeometries)とブーリーン代数 学(Booleanalgebra)について学んだという。かれはこう言っている。 「自分がハーバードに入学したのは,学者社会の一員として認めてもらうこと(to prepare myself for accreditation to“the community of scholars”)が目的だった ので,ホワイトヘッドとシェファだけを専攻するということは出来なかった。そこ で自分は哲学部門の他の教授のコースも選択した。これらの学者達はそのために絶 対必要な知識とは,プラトー,アリストートル,デカルト,ライプニッツ,スピノ ザ,ロック,ヒューム,カント,等々の業績をマースターすることだと教えてくれ た。しかしこれら哲学者の話しには血が通っていないように思えた。とくに神(God) の存在いかんについての種々の形而上学的論証はひどいこじつけのように思われ 9) た。自分は曽てM.LT.のコース[XV]で教えられた能率行動の原理のような妥当 性を欠いた議論のように思えた。血の通っていない音楽では優雅な舞踏を踊れない と同じように,形而上学の範疇でも同様であると不満だった。」 5 フィリッツとメイヨーとの遭遇 フィリッツはホワイトヘッド教授とシェッフア教授の指導で数学基礎と記号 論理学を研究したが,卒業論文はベルギーのルーヴァン大学(Louvain Univer− sity)からの客員教授の指導で,フランスの数学者,哲学者,解析幾何学の創始 者であるデカルト(Descartes)を主題に書こうと考えていた。ところがギルソ 9)フィリッツのクラスの1つで,教師が「トイレットは夏は熱く,冬は冷たくしておく方 がいい,従業員が余計集まらないからいいのだ」と。フィリッツはこれを聞いて憤激を禁 じ得なかったといっている。(lbid. p. 21)
ン教授に相談すると,教授は,すぐれた学者なら誰でも,卒論を書くには,セ ットになっている装丁ずみの中世フランス語版で手紙類をも含むすべての文献 を読んだ上でなければ,無理だと言うだろうと。この話を聞いた瞬間,自分は Widener図書館の中の書棚の山を想起してがっくりしたと言っている。 このときは精神だけでなく肉体も弱っていたので卒業論文も完成できず, ph. Dも取れなかった。自分は見捨てられ,孤独であり,価値あるものはすべて 失われた。しかし,こうした運命的な瞬間に,自分はなんと幸運な男ではなか ったかと思うような,可能性の微光(glimmer of the possibility)に恵まれた。 それで自分の人生は完全に好転した。それがE.メイヨーとの遭遇であった。 ある人一それが誰であったか記憶していない一が,メイヨーと話し合っ てみられたらどうかと示唆してくれた。メイヨーは当時労働者の動機づけ (motivation of workers)についてある種の調査を行なうために,ハーバード ・ビジネス・スクールの教師団のメンバーに参加したばかりだった。フィリッ ツはメイヨーについて特別の関心をもっていなかったが,アポイントだけはと らせてもらい,会うことができた。フィリッツは専ら彼がおかれている苦境に ついて話した,メイヨーは大変熱心に,むしろ面白がって聴いてくれたのでフ ィリッツは困惑気味だったといってたらしいが,2回目の面接が終った後で, 思いがけなくメイヨーがフィリッツに仕事を提供してくれ,情況は全く違った 雰囲気になったという。フィリッツがP一一プの端におって絶望的な状態にあっ たとき,だれが救いの手をのべてやろうと思うだろうか。「メイヨーはフィリッ ツが逃げようとした事柄のすべてに注意を向けるように仕向けた。スイスの親 戚の人びと,フィリッツの父と母,フィリッツの子供時代のこと,チーズ事業 のこと,伯父のフランコとか,継父のこと,機械,科学的管理,学者社会のこ 1)となどメイヨーと話し合って大人の目でみることができるようになったという。 フィリッツはメイヨーとの遭遇を奇跡(miracle)と称している。そして1927 年9月にはハーバード・ビジネス・スクールの講師(instructor)に採用され, 1,500弗の年俸を支給された。ただし実際はメイヨーの仕事に加わったというこ 1) Roethlisberger, Elusive Phenomena, p. 27.
F.J.レスりスバーガーの知的自叙伝序説 35 とだった。フィリッツのいう彼の人生におけるもう1つの奇跡は,1929年11月 にMargaret Dixonという22歳の女性と結婚したことだという。彼女は34年経 って亡くなった。1963年56歳の若さだった。フィリッツは知的な問題を集中的 に扱っていたので,彼女と余り話しをすることもなかったが,大学生としての 生活も終り,ハーバード・ビジネス・スクールの講師という望んでいた地位も 与えられ,メイヨーというすぐれた指導者と一緒に仕事が出来るという恵まれ た状況のもとで,良き配偶者も得られたということが奇跡のようだったという 喜びの言葉となったのではなかろうかと思われる。 メイヨーの影響 フィリッツがメイヨーから学んだものは多種多様であった。 自分がメイヨーと一緒におった時間はどれ位だったろうか?計算できない程だ 2) つたと繰り返し述べている。彼はメイヨーの履歴を以下のように記している。 「メイヨーは1880年,オーストラリアに生れた。フィリッツより18歳年長だっ た。彼はオーストラリアとイギリスで医学の教育を受けたが,1905年に帰国してア デレード大学に再入学し,心理学の研究をし,最優秀の成績で文学士の称号を得 た。彼は第一次世界大戦の末期に戦斗神経症(Shell Shock)に陥った兵士の精神医 学療法プログラム(apsychiatvie treatment program)を企画実施し,その研究成 果と業績は国際的に認められるようになった。1919年クイーンズランド大学 (Unversity of Queensland)に新設された哲学講座の教授に任命された。1922年P ックフェラー財団とカーネギー財団の招きを受けてアメリカに渡り,3年間ペンシ ルバニア大学の研究員となって調査研究を行ない,その成果の1っをハーパーズ・ マンスリー・マガジン(Harper’s Monthly Magazine)に寄稿した。この論文をハ ーバード大学大学院経営学研究科部長のドーナム(Wallace B. Donham)氏の目に とまり,同研究科に招聰された。1929年には教授となった。」 フィリッツによると,彼はメイヨーと多くの:専門書を一緒に読んだという。 例えば,ジャネット(Janet),フロイド(Freud),ユング(Jung),アドラー (Adler),ピアジュ(Piaget),デュルケム(Durkheim)などがそれであっ た。メイヨーはフィリッツが質問するとすぐにその質問についてコメントして 2) lbid. pp. 29一一30.
くれ,それが大変勉強になったと言っている。フィリッツはコロンビア大学, MJ.T.,ハーバード大学の3つの大学で色々の先生に接した筈であるが,メイヨ ーのように質問にすぐコメントして話しを進めてゆくといった指導を受けたこ とがないといっている。 またフィリッツはメイヨーから,とくに社会諸科学研究における「現象学的 アブv一チ(phenomenalistic approach)」のあり方を学んでいる。 ホーソン・リサーチ フィリッツは「自分が人間行動の社会的局面に関心を 持つようになったのは,(ホーソン・リサーチ)に関係を持ったときに始まった」 と述懐している。この調査は「照明実験」を含めると,1924年11月から1932年 5月まで,7年半の長期に亘って続けられた。企業における人間関係,組織行 動を主題とした誠に貴重なリサーチである。このリサーチをもとにして形成さ れたいわゆる「初期人間関係論」は,一般に「メイヨー派人間関係論」とも称 されるが,ホーソン・リサーチ研究では,メイヨーには人間関係論を主題とし た著書はなく,むしろF.∫.レスリスバーガーこそ人間関係論形成の最大の功績 者ではなかったろうかというのが筆者の理解である。 フィリッツ・レスリスバーガーが,メイヨーの援助によって,ハーバード大 学院卒業時の苦境を切り抜けたことは上述の通りであるし,彼がハーバード・ ビジネス・スクールの教師として名聲を博するようになったのも,メイヨーに 負うところきわめて大であったことを十分に認めている。 またフィリッツは,メイヨ∼の指導のもとで「現象学者(phenomenologist)」 3)となったと述べている。彼は「君の目を現象から離すな」と言い続けた。「それ 4)は知識はどこで始まり,どこで見直すべきかを知らねばならぬということだ」 5)と説明してくれた。「メイヨーにとっては,これは陳腐なことだった。」ヘンダ ーソン(L.J. Henderson)も,「知識修得は現象について最:も緊密な,常習的か つ直覚力に富む親密さを持つことであり,それらから,やがてその現象につい て体系的な知識が得られるだろうと。」これはメイヨーの見解と一致している。 フィりッツは1927年の春に,ハーバード大学の医師であるワーセスター博士 3),4),5) lbid. p. 30.
F.J.レスリスバーガーの知的自叙伝序説 37 とショウ博士の好意で,大学生と大学院生を対象にカウンセリング(counsel− ing)を始めた。学生を対象としたカウンセリングは初めての試みでドナム部長 6) に認められたし,メイヨーからも助けられた。ホーソン・リサーチが本格化す るとその方の仕事が忙しくなった。メイヨーは照明実験にも継電機組立作業実 験室にも当初は参加せず,後者の12期から参加するようになった。メイヨーは 10時頃に出社して会社の上級経営者とよく接触しておられたが,フィリッツは 下位の監督者との接触が主な仕事であった。調査結果の報告書がとどくと,そ れがどういう意味なのか説明を求められるケースが多かったようで,メイヨー がおってよく説明したので,中途で中止するというケースも少なかったのだろ 7) うとフィリッツも書いている。 「メイヨーの支持と激励なくしては,ホーソン・リサーチは彼らが演じた舞台を 決して続けられなかっただろう。メイヨーはプラスのホーソン効果へと段階的に拡 大させた。」と。 最後に「ホーソン・リサーチ」の成果をまとめたレスリスバーガーとディク ソンの共著<Management and the Worker>とホワイトヘッドの〈The Industrial Worker>とのもととなった大量のホーソン・リサーチの調査資料 が,会社の文書箱に入れたままで日の目をみないでしまったかもしれなかった のが,メイヨーのおかげでハーバード・ビジネス・スクールのモルガソホール (Morgan Ha11)に運びこまれて活用され,立派な本となって残ったのは幸い であった。フィリッツはこの本の上梓こそメイヨーへの恩がえしだという信念 で,3年半の歳月をかけて,1939年の5月に最後の3章の原稿を書きあげ,メ イヨーから3,800弗の助成金を出してもらって,ハーバード大学出版部に持ち込 むことができたという。フィリッツはこのような本を買ってくれる人はあるま いと思っていたが,全く予想外で,ベストセラーになって15版以上の増刷をし, 人事労務担当者の必読書になった。 6) lbid. p.33. 7) lbid. pp.48一一49.