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反故になった市場社会主義 : 東ドイツ最後の経済戦略

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反故 になつた市場社会主義

― 東 ドイツ最後の経済戦略 ― I は じ め に 20世紀 の ドイツは経済体 制 の実験場 であ った。実験 の 多様性 と可変性 におい て ドイツは他 の国々 をは るか に上 回 る。第 1次 大戦 の戦時統制経済の実験,1933 年 以 降 の 国家社 会 主義 の実 験,1945年 以 降 の東 ドイツにおけ るソ連 型管理社会 主義 お よび西 ドイツにおけ る社会 的市場経済 (Soziale Marktwirtscha■)の実 験, 1990年以降の東 ドイツにおけ る管理社会 主義 か ら社会 的市場経済へ の転換 が, 100年に も満 たない間 に次々 と展 開 され たの であ る。 こ とに第 2次 大戦後 の実験 は劇 的 であ った。管理 社会 主義 と社会 的市場経済 の実 験 が 同時並行 的 に展開 され,両 体制 の体 制 的優劣 が試 され た。体制 レー ス は管理社会 主義 の完敗 に終 わ った。 それ は1990年 5月 に両 ドイツ間で締結 され た 「通 貨 。経 済 ・社会 同盟 」 条約 に如実 に示 され て い る。 この条約 の第 1条 3 項 で社 会 的市場 経 済 が両 国共 通 の経 済体 制 と規定 され たか らで あ る。 1989年の東欧革命 の波 は東 ドイツに も押 し寄せ,こ の年 の10月以降 ドイツ社 会 主義統一党 (SED)の威信 は急速 に低 下 し,社 会 主義 は崩壊 の危機 に見舞 われ た。体制 危機 に直面 した SEDは ,12月 1日 に憲法か ら党 の指導的役割 の条項 を 削 除 して一 党独裁制 を放棄 し,他 政党 との連立で政権 の維持 を工作す るかたわ ら,12月 7日 には 「もう一つの民主主義的社会主義のために」 という政策文書 を公表 して社会主義体制の存続を図ろうとした。政治の民主化 と市場経済の導 入で難局 を乗 り切ろうとしたのである。 政権 の延命 のためにSEDが 選択 した経済戦略 は, 浩 敏 田 福 1 ) 社 会 主 義 的 市場 経 済 1)Redaktionskollegium 〔20〕S.161,Walter〔 27〕S.1108.

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(sottahttsche Marktwirtschaft),つま り市場社会 主義 の道 であった。 ソ連 型管 理社会 主義 か ら市場社会 主義へ の転換 がめ ざされ たのであ るが,こ の戦略 は周 到 な準備 の もとにあ らか じめ構 想 され ていた ものではなか った。 ポー ラン ドを 震 源 とす る東 欧革命 の ドミノ衝 撃波 の直撃 を食 らって大慌 てに立 て られ た策 で あ った。 それが証 拠 に SEDは 1989年の秋 まで ソ連 型管理社会 主義 の路線 を放

棄する素振 りをまったく見せていなかった。シュルツ(W.Schulzlの

言うよう

2 ) に,1989年 秋 まで市場経済 の導入 に関す る政策 プ ランは存在 しなか ったのであ る。 SEDの 市場社会 主義 プ ランは,外 か らの衝撃 を受 けて大急 ぎで立て られただ け に,具 体 性 に乏 しい面 もあ るが,そ の大枠 の ところでは一つ の際立 った特徴 が見 られる。 自前のプランではな く,他 国のモデルの輸入 という特徴である。 輸入先はどこか。ハンガ リーであるというのが筆者の考えである。今から振 り 返って見ると,管 理社会主義の実験に行 き詰まった国は最後の拠 り所 としてハ ンガ リー型市場社会主義に活路を求めた。1980年代前半のポーラン ドしか り, 1980年代後半にペ レス トロイカに乗 り出したソ連 しか りである。東 ドイツもそ の例に漏れない。本稿でこのことを論証 してみよう。 H 三 つの体制転換 第 2次 大戦後の ドイツでは半世紀に も満 たない間に経済体制の転換が三度 も 行 われた。西 ドイツにおけ る国家社会主義か ら社会的市場経済への転換,東 ド イツにおけ る国家社会主義か ら管理社会主義への転換,東 ドイツにおける管理 社会主義か ら社会的市場経済への転換である。 これ らの体制転換に共通す るのは,第 1に 敗戦 または政治革命 とい う異常事 態の もとでの体制転換であったこと,第 2に 体制転換は急進的かつ短期間に行 われたこと,で ある。 第 2次 大戦の敗北は両 ドイツに大胆な体制転換の機会 を与えた。 ソ連に占領 2)Schulz〔 25〕S.1003. 3)詳 しくは福田 〔6〕第 1章 を参照 されたい

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反故になった市場社会主義 された東 ドイツでは1945年5月 の敗戦以降 ソ連 をモデルに して管理社会主義へ の転換政策が展開 された。1945年の年央以降に100ヘクタール以上の地主所有の 土地の無償 国家収用,独 占企業 ・戦争犯罪者 ・ナチ活動分子の財産没収 な どが 矢継 ぎ早 に行 われ,1948年 半ばには国有制度の建設が基本的に完了 した。資源 配分 システムの面 で も1948年2月 に計画機 関たる ドイツ経済委員会が設置 され, 物財バ ランスに よる需給 の調整方式 (中央管理経済)と計画課題 の義務 的指標 に よる実施 とい う指令方式が制度化 された。国有,中 央管理経済,指 令方式 とい う管理社会主義の骨格 は1948年後半には出来 あが っていた と見て よい。 事実上 ア メ リカに 占領 された西 ドイツでは1948年6月 の通貨改革 を皮切 りに して ドラスティックな体制転換政策が展開 された。 これ を指導 したのはエアハ ル ト(L.Erhard)であったが,か れは周囲の反対 を押 し切 って 自由化 を断行 し た。通貨改革に引 き続 き,1948年 中に物4面・賃金統制や物資の割 り当て制が廃 止 され,財 政面や金融面での統制経済方式が撤廃 され,国 家社会主義の痕跡は ほ とん ど一掃 された。「西 ドイツにおけ る1948年の通貨改革 。経済改革は国家社 会主義の戦争経済 をラディカルに破壊 した」 とい うシュナイダー (J.Schneider) の指摘 は誇張ではない。国家社会主義のスクラップ と同時に社会的市場経済 (私 動 有 十市場経済 十誘導 十社会政策)の制 度化 が急 ピ ッチ で行 われ た。「革命 的変化 」 (revolutiOnarer wandel)と呼ぶ にふ さわ しい劇 的 な体 制 転換 で あ った。 革命 的転 換 は1990年に も訪 れ た。 この年 の 3月 18日に東 ドイツで実施 され た 総選挙 で キ リス ト教 民主 同盟 を中核 とす る連 立政権 が誕生す る と,こ の国の経 済体 制 は予 想 をは るか に超 え るス ピー ドで変化 した。新政権 は 5月 18日に西 ド イツ政 府 との間 に 「通貨 。経 済 ・社会 同盟 」条約 を締結 し,社 会 的市場経済へ の 移行 を決 め た。 この条約 は 7月 1日 に発効 し,東 ドイツ経 済 の西 ドイツ化 が開 始 され たが,こ の動 きは10月 3日 の ドイツ統一 (つまり東 ドイツの消滅)によって

4)Schneider〔23)S.69.同 様 なこ とは E.Durrや R,Klumpも 指摘 してい る。「L.エ アハ ル トは通貨改革 と同時に,連 合軍の同意 な しに,価 格規制 と割 り当ての大部分 を撤廃 し, 市場経済 をもた らした」。Durr〔2〕S.388.「エアハ ル トは通貨改革 (1948年6月 20日)の数

日後に経済管理お よび消費財の価格 コン トロールの多 くを撤廃 した」。Klump〔 7)S.406. 5)酌 161ler〔12〕S.366.

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加速された。管理社会主義の柱 を成 した中央管理経済と指令方式は直ちに廃止 され,も う一つの柱である国有企業体制 も信託公社 (Treuhandanstalt)主導の私 有化政策によって1994年末にはほぼ解体 された。管理社会主義のスクラップは 1994年末にはほぼ完了したと見てよい。 三 つ の体制転換 の間には違 い もあ る。 ここでは主要 な もの を二つ指摘 してお きたい。 ひ とつ は国家社 会 主義 との連 続 と非連続 であ る。東 ドイッは ソ運 をモ デルに して管理社会 主義 を制度化 した。タールハ イム (K,C,Thalhdm)と リュ ッ ゲ (F.Lutge)は この事実 を もって束 ドイツの管理社会 主義 と国家社会主義 との 間 には連続 す る ものが ない と見 た。 これ に対 しシュナ イダーゃ ヴィンケル (H. Winkel)は,東 ドイツが ソ連 に倣 ったのは確 かだ として も,そ の中央管理経済 シ るテムの形成 に さい しては国家社会主義時代 の経済管理 方式 を手本 に した と見 る。筆 者 は連続 説の方が事実適合 的 であ る と考 える。 国家社会主義時代 の価格 ・賃金統制,物 資の割 り当て,国 家指令 な どの中央管理的手法は東 ドイツに引 き継がれたのである。 これに対 し西 ドイツでは,上 述のように,国 家社会主義 の破壊が行 われた。国家社会主義 と社会的市場経済の間に連続性はないと見 る べ きである。 もう一つの違 いは,体 制転換にさい しての設計図の有無である。西 ドイツに は社会的市場経済の設計図があった。 しか も基本構想はすでに第 2次 大戦中に 準備 されていた。 その作成 を担当 したのは,反 ナチズムの拠点であったフライ ブル クに結集 した経済学者や法学者であった。 フライブル ク大学の 「エルヴィ ン ・フォン ・ベ ッケラー ト研究会」 (Arbeitsgemeinschaft Erwin vOn Beckerath) には ドイツ各地か ら自由主義的立場 を取 る学者が数多 く参加 し,1943年 3月 か ら1944年9月 にかけて戦後 ドイツの新 しい経済体制の見取 り図を描いた。デザ イナーには戦後西 ドイツの経済政策 を理論面および実践面で指導 したべ ヽ/ケ ラ ー ト,オ イケン(W.Eucken),ボ ェーム(F.B6hm)らが名 を連ねている。戦後に 6)詳 しくは福田 〔6〕第 5章 を参照されたい。 7)Schneider〔 23〕S.42. 8)Schneider〔 23〕S,42,70. 9)Schulz〔 25〕S.1004,Schulz〔26〕S.221,242.

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反故になった市場社会主義 5 な る と, こ の見取 り図 をベー スに して さらに彫琢 が加 え られ,最 終的に社会 的 市場経済 とい う名の体制 プ ランができあが った。 このプ ランは経済相 エアハル トと彼の次官 を務め た ミュー ラー ・アルマ ック(A.Muller一Armack)の リーダー シップの もとで制度化 された。 東 ドイツには西 ドイツに匹敵す るような独 自の体制プ ランはなか った。敗戦 当時に体制転換の任 に当たった ドイツ共産党 (1946年4月 に社会民主党 と合同し て SEDと なる)は,ソ 連 をモデルに し,国 家社会主義の遺産 を継承 して管理社会 主義の建設に着手 した。「東 ドイツの経済政策的実験 は理論の下支 えな しに行 わ れた」 と言われ るゆえんである。東 ドイツ史の最終局面に も独 自の体制プラン はなか った。1989年秋の 「穏やかな革命」か ら1990年3月 の総選挙 で政権 を失 うまで SEDは 市場社会主義 を提唱 したが,SEDの 後 を襲 った連立政権 はこの プ ランを継承す ることな く,早 々 と社会的市場経済の導入に踏み切 ったのであ る。 III ド ラステ イックな戦 略転換 東 ドイツは ソ連 圏の優 等生 と言 われ た。 ソ連 に忠実 であ り,一 党独 裁 の政 治 が安 定 し,経 済が好調 であ る と見 られていたか らであ る。 しか しその東 ドイツ で さえ も,実 態 のほ どは経済面 で深刻 な問題 を抱 えていた。東 ドイツの科学 ア カデ ミー が 出 して い た経 済 誌 形 な c跡 仰蕊夕%S筋″ の編集部 は,1980年 代 末 当 時 の経 済 的 困難 として不均衡 ,不 十分 な競 争 力,価 値 ・価格 関係 の歪み,財 政 1 2 ) 赤字, マ ネー ・購 買 力 の オー バーハ ン グ, 国 際収 支 の逼迫 な どを挙 げて い る。 と 1 3 ) くに財政赤字 は深刻 で,「束 ドイツは1982/83年に国家破産 に瀕 していた」 と言 われ る。 この国の社会主義体制崩壊の根 因は経済の不調にあった と言わねばな らない。 1 0 ) S o z i a l e M a r k t w i r t s c h a f t はA . M d l l e r ―A r m a c k が 1 9 4 4 年に提 示 した コンセ プ トで あ る。 11)Schneider〔 23〕S,26. 12)Redaktionskollegiurn〔20〕S.162. 13)Schneider〔 23〕S.73.

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経 済成長率 が急激 に落 ち込 み,経 済危機 が顕在化 したのは1960年代初頭 であ っ た (国民所得 の成 長率 :1958年10.9%,59年 8.5%,60年 4.5%,61年 3.3%,62年 2.1%,63年 2.7%)。危機 打 開の ため に SEDは 他 の ソ連 圏諸 国に先駆 けて1963年 に 「新 経 済 シス テム」 (Neues OkOnOmisches System,NOS)の改革戦 略 を打 ち出

し,翌 年か らそれ を実施 した。NOSの 戦略は部分的改革であった。つ ま り,管 理社会主義の基本 (国有十中央管理経済十指令)を保持 したままでその部分 を改革 しようとす るものであった。その主要 な内容 は工業管理 システムの改革,企 業 改革お よび価格改革の二つであった。工業管理 につ いては中間管理機関 として 人民所有企業連合 (VVB)が 新設 され,こ れに相対的 自立性 を与 え,か つ応分 の 責任 をもたせ るこ とが試み られた。企業 レベ ルでは人民所有企業 (つまり国有企 業)の成功指標 として利潤指標が導入 された。価格改定については国定価格制 を 保持 したままで工業関連の生産財価格の引 き上げが行 われた。 NOSの 戦略 は所期 の成果 をあげえないままに1970年末 に放菜 された。1971 年 に開かれた SEDの 第 8回 党大会 は経済戦略の方向 を再集権化 に定め,包 括 的な生産の集約化 (umfassende lntensivierung der Produktion),経済政策 と社会 政策の統一 (Einheit von Wirtschaftspolitik und Sozialpolitik)などの コンセプ ト

を打 ち出 し,国 民経済の効率改善 に本腰 を入れ る姿勢 を示 した。中で もSEDが 力 を入れたのは生産 の集約化 であった。マ イ クロエ レク トロエ クス, コンピュ ー ター,ロ ボッ ト,オ ー トメーションなどのハイテクノロジーの利用で生産性 を高め ようとす る戦略である。 ソ連圏諸国で1960年代 に前面に出て きたいわゆ る内包的発展 (intensive development)戦略にほかならない。この戦略 を実現す る ために工業管理 システムの改革が行 われ,VVBを 解体 して コンビナー トを新 設す る作業が行 われた。 コンビナー トは科学 一技術 一生産 ―販売のサイクルを 内蔵 した コンプ レックスである。つ ま り科学研究機関,技 術開発機関,生 産企 1 4 ) 福 田 〔3 〕p . 2 4 6 . 1 5 ) 福 田 〔3 〕p p . 2 5 0 2 5 2 .

16)Koziolek〔 8〕S.1049,Koziolek〔 9〕S.487,Kozlolek〔 10〕S.497,Koziolek,Reinhold 〔11〕S.1283,1292,MIittag〔 13〕S.849,Radtke〔 17〕S.34,Redaktionskollegiunl〔 19〕S. 1292.

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反散になった市場社会主義 7 業 お よび販 売企業 な どか ら成 る複合体 であ る。 この よ うな コンビナー トは 「科 学 と生産の制度的分離」 を解消 し,生 産性の向上 を図 るとい う目的 をもって設 立 された と解 され る。「科学 と生産の制度的分離」とは生産企業が必要 とす る技 術 を研究開発機関が提供 で きない とい う管理社会主義の制度的欠陥 をさす。研 究開発機 関の成果が生産現場 たる生産企業 で有効 に活用で きない,あ るいは研 究成果の生産への転化が円滑にいか ない とい う問題 である。 この問題 を解決す るには,つ まり生産に直結 した技術開発 を行 うには,研 究開発機関 と生産企業 をセ ッ トに した組織 を作れば よい とい う考 えでコンビナー トが設置 されたので ある。 ソ連の 「科学生産合 同」 と同 じ役割 を担わされたコンプ レックス と言え る。 ヨンビナー トの建設は1970年代以降本格化 され,そ の数は1980年代未で中 央管掌の ものが148,地方管掌の ものが126にのぼ り,総 計でおよそ300万人の職 員 を雇用 していた。 1970年代以降の経済戦略は 「科学 と生産の結節点」 としての コンビナー トを 中心 に生産 の集約化 を図 るこ とに重点 を置いていた。 コンビナー トが 「東 ドイ

ツ社会主義計画経済のバ ックボー ン」 (Ruckgrat der sozialistischen Planwirts, chatt der DDR)と称 されたゆえんである。SEDは 1989年の 「穏やかな革命」直

前 までこの よ うな戦略 を展開 していた。そればか りではない。SEDは この戦略 を少 な くとも2000年まで継続 しようとしていた。それが証拠に1988年12月に開 かれたソ連 。東 ドイツ経済学者合 同委員会総会 で東 ドイツ側代表は,労働生産性 を引 き上 げ るには,2000年 を目途に コンビナー トを中心に してハ イテクノロジ ー を積極的に導入す るとともに経営の民主化 (意思決定への従業員参加)を実現 す る必要があ る, と主張 していたのである。 この ように SEDは 「穏やかな革命」まで管理社会主義 を堅持 しようとす る姿 勢 を崩 していなか った。このこ とはた とえば,形 なc嚇 切念夕%S物夕 の1989年9 17)詳 しくは福 田 〔5〕第 7章 を参照 されたい。 1 8 ) 福田 〔5 〕第 7 章。 19)Schulz〔 24〕S.732.

20)Koziolek,Reinhold〔11〕S.1288,Nick〔14〕S.1609,Redaktionskollegium〔18〕S.482. 21)Redaktionskollegiurn〔18〕S.481-483.

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月号 に掲載 され た科 学 ア カデ ミー経済学研 究科 学会議 の報告 記事 に示 されてい る。これ を読め ば SEDが 将 来 にわた って生産 手段 の社会 的所有 と社会 的指導 ・ 計画の原則 を保持 しようとしていたことが分か る。 また,経 済学界や経済実務 の指導者たちは,ハ ンガ リーや ポー ラン ドの市場社会主義の道に対 してネガテ ィブな態度 を取 り,東 ドイツに市場社会主義 を導入す る必要はまった くないこ とを繰 り返 し主張 していた。SEDの 経済政策担当の政治局員 であった ミッター ク(G.Mittag)は党機関紙 Eグ%ルタルの1989年9・10月号で次のように述べ ている。 「あるものを他の ものに取 り替えることにではな く,中 央指導 ・計画 ・経済計 算制 の高度化,そ のいっそ うの発展の うちに我々の道があった し,今 もある」。 「稿やか な革命」を機 に SEDの 経済戦略は一転す る。市場経済の導入に活路 を求め る策に出たのである。 これに伴 い経済学界では,社 会主義におけ る市場 導入の正 当性や計画 と市場の両立可能性 に関す る論議が展開 され る一方で,レ ーエン(V.I.Lenin)のネップ政策の再評価が行われ,「社会主義の革命的刷新」 ( r e v o l u t i O n a r e E r n e u e r u n g d e s S o z i a l i s m u s ) が1 是口昌され るに至 った。 ぽ碗s び嚇 ― s切念物sc妨 の1990年 3月 号は次のように述べ ている。 「経済改革の課題 は東 ドイツ経済 をラディカルに転換す ることにある。それは 1990年代 におけ る社会 の根本的な刷新のための経済的ベース となる。経済改革 は挫折 したスター リン主義的行政的指令経済 と完全に手 を切 ることを意味 し, 従来の生産関係 ・所有形態 ・経済構造 ・経済 メカニズムのラディカルな転換 を その内容 とす る」。 IV 市 場社会主義 プラン

SEDが 新 たに打 ち出 した コンセプ トは現代 的社会 主義 (mOderner sozialis―

22)Redaktionskollegium 〔19〕S.1290. 23)Nick〔15〕S.825-826,Nick,Radtke(16〕S.227,231. 24)MIittag〔13〕S.852. 25)Reissig,Berg〔21〕S.1077,Schliesser〔22〕S.184,187. 26)Redaktionskollegiurn〔20〕S.161. 27)Autorenkollektiv〔1〕S.321,

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反故 になった市場社会主義 mus)で あった。 これは政治面の民主化 (プルーラリズムの容認,複 数政党制 。法治 国家原則 ・議会制民主主義の導入)と経済面での市場経済の導入 を柱 としている。 この限 りではソ連のペ レス トロイカを紡彿 させ るコンセプ トであった。以下で は経済面に限定 して SEDの 改革プ ランを検討 してみたい。 新 しい経済体制 に関す るプ ランは,「穏やかな革命」後に,署 名入 りの個人論 文や共著論文 な らびに無署名 の グループ論文 (Autorenkollekdv)の形 を取 って N施 物"勘 純 物SC妨 誌上に現れているが,一 ― その数は決して多くはないが一 一,切 迫 した状況の中で急いで構想されたためか散文的で,必 ず しも体系的で あるとは言いがたい。新 しいプ ランの体制的特質 を浮かび上が らせ るには,検 討者の方で散文的な内容 のプランを整理 し体系化す る必要がある。 ここでは筆 者の説 をもってそ うした体系化 の作業 を試みてみ ることに しよう。 筆者は筆者の体制学説 を 「所有,相 互 ・上下調整の三元論」 と呼んできた。 経済体制 は基本的に,所 有方式,需 給の相互調整方式および上下調整方式 (つま り,国 家の個別経済への干渉方式)の二つか ら構成 され るとす る説である。筆者の 立場か らすれば, どのような ものであれ経済体制の基本の仕組みは所有方式 と 相互調整方式 と上下調整方式の組み合 わせか ら成 るとい うことになる。筆者の 説 をもって SEDの プ ランを整理す るとどうなるか,試 みてみ よう。 1.所 有方式 生産手段の所有方式は経済体制の土台を成す。東 ドイツの管理社会主義の根 幹 を成す所有方式は人民所有 (Volkseigentum),つま り国有 であった。農業部門 お よび手工業部 門では協 同組合所有 も有力な所有形態であった。SEDの 体制プ ランでは どの ような所有方式が望 ましい と考 えられているか。結論 を言 うと混 合所有方式が最適 とされてい る。つ ま り,社 会的所有 と私有の混合方式である が,両 形態の比重は同 じではない。私有 よ りも社会的所有の方が重視 されてい る。社会的所有 は東 ドイツの所有原則であ り,生 産関係の基盤 を成す と考 えら 2 9 ) れ て い る。 28)Redaktionskollegium 29)Autorenkollektiv 〔1〕 〔20〕S.162,Reissig,Berg〔21〕S.1077. S.321,326.

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社会 的所有 の 中心 を成す のは人民所有 であ る。 人民所有 には個別企業 とコン ビナー トが含 まれ る。SEDプ ランは コンビナー トに従 来 と同様 の比重 を置 き, 「コンビナー ト優位 の原則」 を打 ち出 してい る。 また,人 民所有企業お よび コ ン ビナー トの 自立 も強調 され,こ れ ら内部 の再生産 プ ロセスヘ の外部 か らの オ ペ ー レー テ ィブ な干 渉 を排 除 す る こ とが め ざ され て い る。 自主 経 済 原 則 (Eigenwtttschaftlたhkeit)の導入 であ り,従業員 の経営参加 も示唆 されてい る。た だ,い わゆる労働者 自主管理の ような全員参加型の意思決定方式の導入は考 え られていない。 社会的所有には人民所有のほか協 同組合所有 と地方 自治体所有 (市町村,郡 , 県)が含 まれ る。協 同組合所有の導入が予定 されたのは主 として農業および手工 業の両音bF弓であった。 私有は主 としてサーヴィス部 門に適用 され る。飲食,小 売,修 理,手 工業 な どである。 以上が所有方式に関す る SEDプ ランの概要 であるが,そ れには 目新 しい も のは何 も含 まれていない と言って過言でない。人民所有優位 の原則が継承 され, すでに制度化 されていた協 同組合所有, 自治体所有お よび私有がその まま受け 継がれてい るか らであ る。ついでに言ってお くと,1980年 代末の東 ドイツには 約 8万 の私 的手工業企業,お よそ 2万 5000の私的小売店 と私的飲食店が存在 し, 私的手工業企業はサーブィス ・修理の約60%を 供給 し,私 的小売業は小売総売 上高の約11.3%,私 的飲食業は飲食総売上高のおよそ16%を 占めていた。所有 方式につ いては現状維持が貫かれているとい うのが筆者の理解 である。 2.相 互調整方式 管理社会主義 の もとでの需給の相互調整方式は中央管理経済であった。物財 バ ランスおよび国走価格 を軸 とす る調整 システムである。中央管理経済は需給 のアンバ ランス,不 足経済,抑 圧 されたインフレー ション,イ ノベー ションの 30)Autorenkollektiv〔1〕S,333. 31)Autorenkollektiv〔1〕S.330. 32)Koziolek 〔8〕S.1052,Schulz〔24)S.733.

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反故になった市場社会主義 11 停 滞 な ど を もた ら した。 改 革 プ ラ ンは市 場 経 済 の 導 入 で これ らの 問題 の解 決 を 図 ろ うとしている。「穏やかな革命」まで市場や市場 メカニズムに対 して否定的 なスタンスを取 り続けて きた SEDの ことを思 えば,こ れは180度の方向転換で ある。 新 しいプ ランでは導入すべ き市場の種類 として商品市場,貨 幣市場,資 本市 場 お よび労働市場が挙げ られている。 これ らの中で注 目すべ きは貨幣市場 と資 本市場 である。「穏やか な革命」まではイデオロギー的理 由でマネーの役割は極 端 に制 限 されていたのに対 し,プ ランではマネーが積極的に活用 され ようとし ているか らである。貨幣市場については貨幣 システム と金融 システムの改革が 予定 されていた。貨幣 システム改革の主要内容 は東 ドイツマル クの機能力の向 上 と外貨 との交換性の実現である。 ただ,具 体的なことは何 も述べ られていな い。金融 システムについては二層バ ンキングシステムの導入が考 えられている。 国立銀行 の中央銀行化 (国立銀行の政府からの独立)と商業銀行業務 を行 う銀行 の 設立 であ る。 これにつ いて も具体的なことは何 も述べ られていない。金融 シス テムにつ いてはほかに保険会社 の設立や社会保険制度の導入が構想 されていた。 資本市場 を見てみ ると,プ ランは株式市場 と公債市場の制度化 をめ ざしてい た。株式市場 は 「国家 コン トロールの もとでの株式市場」 と規定 されている。 説明が ないので具体 的に どのようなものかは分か らないが,株 式取引に対す る 国家規制が強い市場 であることを窺 わせ る。株式取引には取引所や証券会社や 店頭市場 な どが必要 となるが,プ ランにはこれ らについての提案はない。株式 市場 を容認す ることは株式会社 を認め るとい うことであるが,人 民所有企業や コンビナー トをも株式会社 にす るのか どうか,私 的株式会社 をどの程度容認す るのか など細部 にわたる説明は何 もない。公債市場 については国債 と地方債 の 発行が提案 されている。 33) 34) 35) 36) Autorenkollektiv〔1)S.328. Autorenkollektiv〔1〕S,328,336. Autorenkollektiv〔1〕S.328. Autorenkollektiv (1)S。328.

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市場経済 を導入す ると,必 然的に従来の国定4面格 中心の価格 システムを改革 せ ざるをえな くなる。プ ランはこれについて どの ように考 えているか。実は価 格 システム改革について もプ ランは市場に応 じた価格,世 界市場価格 を掛酌 し た価格 を導入すべ きであると言 うだけで,具 体的提案 を何 ひ とつ していないの である。 3.上 下調整方式 東 ドイツにおけ る上下調整方式は指令方式であった。国家計画委員会 で立て られた生産計画は義務的指標の形で個別企業および コンビナー トに分割 されて 割 り当て られた。個別企業お よび コンビナー トはその達成に義務 を負っていた。 SEDの プ ランは指令方式か ら一種の誘導方式への転換 をめ ざしている。上下調 整方式の面で も根本的な改革が予定 されていたのである。 改革プ ランにおいて も経済計画は従来 と同様 に社会主義経済の基幹 とみなさ れている。 ただ,そ の内容 には大 きな変化が見 られ る。従来の短期的 ・指令的 ・ミクロ的生産計画 を廃止 し,中 長期的 ・指示的 (indikativ)。マ クロ的発展計画 を導入す ることがめ ざされている。政府の策定す るマ クロ経済計画の内容 は経 済発展の基本方向―一 つまり,経 済成長,マ クロ経済構造,基 本的比率 (蓄積対消 費,商 品ファン ド対購入ファン ド)など―― の決定 である。マ クロ経済計画には経 済諸単位 の行動 を間接的に誘導す るガイ ドラインとしての役割が与えられてい た。マ クロ経済計画の実現手段 としては経済的規制手段 (たとえば税,価 格,信 用,外 国為替,関 税,利 子など)が考 えられている。 経済計画の指示的計画化 は企業の 自立化 を意味す る。 これについてプランは, 企業お よび コンビナー トの コマー シャル原則に従 った自己管理 と自己責任の必 要 を説いている。 これに関連 して利潤原則の導入 も言われている。ただ,こ れ らにつ いての細部 にわたる説明は何 もない。 37)Autorenkollektiv 38)Reissig,Berg〔 21〕 39)Autorenkollektiv 40)Autorenkollektiv 41)Autorenkollektiv 〔1〕S.336. S.1078,Schliesser(22〕S.184,ヽValter〔27〕S。1103. 〔1)S.327,334. 〔1〕S,334,335. 〔1〕S.335.

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反故になった市場社会主義 13 筆 者 の解釈 では改革 プ ランの最 適 と考 え る誘 導方式 は,1960年 代 半 ば にハ ン ガ リー社会 主義労働 者党が デザ イン した もの と基本 にお いて同 じであ る。細部 は ともか く骨格 にお いては寸分 違 わない ものだ と言 える。 当時ハ ンガ リー社会 主義労働 者党 が デザ イン した上下調整方式 も,中 長期 的・指示的 ・マ クロ的経 済計 画,そ の実 現 手段 としての経 済的規制 用具 (財政政策的・金融政策的 ・価格政 策的 ・外国貿易政策的諸手段)お よび企業 の 自立化・利潤原則の導入 を柱 としてい たか らであ る。 4.ハ ンガ リー モデル 以上 か ら,SEDの 改革 プ ランがめ ざす経 済体 制 は市場社 会 主義 であ るこ とが 知 られ るで あ ろ う。今世 紀 に制 度化 され た市場社 会 主義 には二つ の タイプが あ った。ユー ゴス ラヴ ィア型 とハ ンガ リー 型であ る。筆者の三元論 に よればユー ゴス ラヴ ィア型の基本構造 は社会有,市 場経済 お よび誘導 の組 み合 わせ として, ハ ンガ リー 型の それ は国有,市 場経済 お よび誘 導の組 み合 わせ として示 され る。 SEDプ ランのめ ざす 市場社 会 主義 は,枝 葉 を取 り払 う と,人 民所 有 (つま り国 有),市 場 経 済 お よび誘 導 を根 幹 として い る。SEDモ デルがハ ンガ リー モデルで あ るこ とは疑 いの ない ところで あ る。SEDが その モデル ビルデ ィン グに さい し て どの程 度ハ ンガ リー モデル を意識 していたか は知 る由 もないが,結 果 として SEDは ハ ンガ リー モデ ル を選 択 した こ とに な る。 細部 の点では SEDモ デルがハ ンガ リー モデル と異なることは言 うまで もな い。 それは相互調整方式に顕著 である。二層バ ンキング ・システムの導入,商 業銀行 の設立,国 有企業の株式会社化 な どに関 してハ ンガ リー モデルは豊かな 内容 を誇 っている。SEDモ デルのマネー制度に関す る提案が具体性 を欠 くこと は上述の通 りである。価格 システムについて もハ ンガ リー モデルでは公定価格 (固定価格,最 高価格,ゾーン価格)と 自由価格 の混合方式が考 えられ,か つ制度化 されたが,SEDモ デルにはそれに匹敵す るような提案 はない。経済民主主義 に つ いて言えば,ハ ンガ リーでは国有企業に労働者 自主管理や従業員の経営参加 を導入す ることが構想 され,か つ実践 されたが,SEDモ デルにはそれ らに相 当 42)詳 し くは福 田 〔4〕 第 8章 を参照 されたい。

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するような提案はない。 5.適 度のラディカル戦略

SEDは どれ くらいの時間をかけてその市場社会主義プランを制度化 しよう としていたのであろうか。スピー ドに関する選択肢 としては二つのものが考え られていた。漸進的戦略,大 転換戦略(つまリビッグバン)および適度のラディカ ル戦略(gemassigt―radikal)の三つである。これらのうちSEDが 選択 したのは適 度のラディカル戦略であった。漸進的戦略は時間がかか りす ぎることと,部 分 的改革は十分でないという理由で, ビッグバンは制御不可能になる恐れがある という理由で, ともに退けられた。適度のラディカル戦略は大々的な制度改革 を一気HHJ成にではな く,国 家の規制のもとでいわば中期的に実施 しようとする ものであった。1989年秋から1990年初頭当時,ほ かの東欧諸国ではビッグバン 戦略 と漸進的戦略が議論の俎上にのぼっていた。 ビッグバン戦略はチェコスロ ヴァキア とポーラン ドで,漸 進的戦略はハ ンガ リーで支配的になっていた。 SEDの 唱えた適度のラディカル戦略は当時の東欧の中ではユニー クなもので あったと言えよう。 SEDは 「穏やかな革命」以後における対西 ドイツ政策についてもシナ リオを 書いていた。条約共同体案である。つまり,両 ドイツ国家の主権 を保持 しつつ 条約締結によって経済 ・外交 ・安全保障などの面で協力関係 を打ち立てようと す る案 であった。「穏やかな革命」当時,東 西 ドイツでは ドイツ統一の世論 ― これには早期統一と漸進的統一のシナリオがあった一一―が急速に高 まってい たが,SEDは 混乱 を招 くという理由でこのシナ リオを退けている。 V 結 び 20世紀末は社会主義か ら資本主義への大転換の時代 である。今世紀の体制 レ ースで社会主義は完敗 した。 ここに言 う社会主義はソ連 。東欧諸国に制度化 さ れていた現存社会主義 である。社会主義 は 自滅 したのであって資本主義が勝利 43)Autorenkollektiv〔1〕S.329. 44)Autorenkollektiv〔1〕S,323-324.

(15)

反放になった市場社会主義 15 したのではない とい う意見が一部にあるが,呆 た してそ うか。 ソ連 。東欧諸国 の体制動向を観察 して きた筆者か らすれば資本主義は勝利 した と言わざるをえ ない。 ロシア革命以降体制 レースを仕掛け,資 本主義 を打倒 しようとしたのは ソ連 ・東欧の共産党ではなかったか。欧米先進諸国が これに応戦 し,誘 導資本 主義 をもって体制 レースに臨んだのは周知 の事実である。格好のレース場 とな ったのは ドイツであった。東西 ドイツは同 じ ドイツ人の国であった。 これほど 体制 レー スに適 したグラウン ドはほかになか った。経済的実力か ら見て西 ドイ ツは資本主義の代表選手であ り,同 じく東 ドイツは社会主義の代表選手であっ た。40年にわたる体制 レースの勝利者が どちらであったか説明す るまで もない であろう。 ド イツ統一後西 ドイツ政府はその まま統一 ドイツ政府 とな り,勝 利 者の態度 をもって東 ドイツ地域 に社会的市場経済 とい う名の誘導資本主義 を移 植す る作業 を開始 した。勝利者なき社会主義 自滅論は,資 本主義の勝利 を心情 的に認め よ うとしない者の浅薄 なレ トリックで しかない。 本稿 は東 ドイツ社会主義 の終末局面 で SEDが どの ような経済戦略 をもって 生 き残 りを図ったか を尋ね ようとす るものであった。SEDは その生 き残 り戦略 の作成にあたって 「ほかの国の経済 システムの コピーではな く,国 固有の経済 の社会的 ・政治的アイデンティティ」 を画定 しようとしたが,猛 烈なカタス ト ロフィ運動に巻 き込 まれて余裕 をな くしたのであろうか,結 局はハ ンガ リー型 市場社会主義 を選択す るとい う結果になって しまった。 1968年か ら1989年までの22年に及ぶハ ンガ リーでの市場社会主義の実験は, 市場社会主義が不安定 なシステムであることを教 えている。その根本の原因は, 国有方式 と市場経済が両立 しえない とい うところにある。つ まり,国 有企業体 制 は市場 メカニズムの作動にブレー キをかけるのである。筆者はこれ を国有の ブレー キ効果 と呼んで きた。ブレー キ効果による経済停滞の打開のため,ハ ン ガ リー社会主義労働者党は1980年代後半に私有化政策 を実施 した。国有企業の 私有化 (株式会社化),従 業員500人以下の私的株式会社 の容認,西 側資本 との合 45)Autorenkollektiv〔1〕S.321. 46)福 田 〔6〕第 3章 を参照されたい。

(16)

弁 企業 お よび100%外 資企業 の誘致 な どが主要 な ものであ る。私有化 は資本 主義 に通 ず る。私有方式 は資本 主義 の上 台だか らであ る。筆者 の考 えでは1980年代 末 のハ ンガ リー は資本主義 の一歩手前の地点 に到達 していたのであ る。 SEDが ハ ンガ リー モデル を選択 した とき,皮 肉な こ とに,ハ ンガ リー では市 場社会 主義 か らの遠 心運動 が加 速 して いた。 人民所有 に回執 した SEDに はハ ンガ リーモデル しか残 されていなかったのであろうか。当時の客観情勢か らす れば SEDの 選択は魅力のない ものであった。起死 回生 を狙 った市場社会主義 案 もマル クスか ら(西ドイツ)マル クヘ,マ ル クスか らマル ク ト(Markt)へと急旋 回 しつつ あった民心 をつ なぎ止め ることがで きなかった。1990年3月 の総選挙 後 に国政 を担当 した東 ドイツ最後の連立政権 は,市 場社会主義案 を反故に し, 社会 的市場経済の道 を選択 したのである。 〔1 〕 〔2 〕 〔3 〕 〔4 〕 〔5 〕 〔6 〕 〔7 〕 参 照 文 献

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(17)

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(18)

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参照

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