共和政末期ローマの内戦とヌミディア王国
――ユバ 1 世の挑戦と挫折――
大清水 裕
*Juba I of Numidia during the Roman Civil War
Yutaka OSHIMIZU
キーワード:古代ローマ、ヌミディア、ユバ 1 世、カエサル、内戦 はじめに 紀元前 46 年、北アフリカのヌミディア王国が滅亡した。最後の王ユバ 1 世が共和政末期ローマの内 戦で元老院派に加担し、タプススの戦いでカエサル軍に敗れた結果である。戦場から離脱したユバ 1 世は、もはや再起が不可能であることを悟ると、自ら死を選んだと伝えられる。幼い同名の息子はカ エサルによって首都ローマへと連行され、凱旋式に引き出された。ヌミディア王国は、旧来のアフリ カ属州とは異なる「新アフリカ」属州とされ、後に歴史家として知られることになるサルスティウス の手に委ねられた。これらの新旧の両アフリカ属州は間もなく統合され、帝政期にはカルタゴを州都 とするアフリカ・プロコンスラリス属州が置かれることになる1) 。 ユバ 1 世が共和政末期のローマの内戦に加担したことは、最終的にはヌミディア王国の滅亡につな がった。しかし、共和政末期ローマの内戦に、ヌミディア王ユバ 1 世が参画した理由は必ずしも明確 ではない。内戦のもう一方の当事者であったカエサルは、『内乱記』の中で以下のように述べている。 「ユバ王はポンペイウスを父祖の代から貴賓待遇にしていたが、クリオには怨恨を抱いていた。と いうのもクリオは護民官のとき、ユバの王国を国有財産として没収する法案を提出していたから である。」(國原吉之助訳。以下同じ。)2) この記述をはじめとして、ポンペイウスとヌミディア王家の関係を示す諸史料の記述から、ユバ王は ポンペイウスとクリエンテラ関係にあり、その関係に基づいてポンペイウスの組んだ元老院派に加担 したものと理解されることが多い。E. Badian の言う「対外クリエンテラ」を示す事例の一つと理解さ れてきたのである3) 。カエサルの『内乱記』に関するモノグラフを著した A. Peer によれば、カエサル 『内乱記』の記述は、ユバ王がローマの公的な同盟者ではなく、王の参戦はポンペイウスとの個人的つ ながりのみに基づくものだとの印象を与える書き方だという4) 。 他方 F. Bertrandy は、ユバ王がローマの内戦を機に北アフリカでの支配拡大を試みたことを参 戦理由として重視し、その試みはユバ王の支配体制が脆弱であったため失敗した、と結論付ける5) 。 Bertrandy の研究はユバ 1 世に着目した数少ない研究であり、史料に即したその論旨は大筋において 妥当である。しかし、その研究において「対外クリエンテラ」の位置づけは明確ではない。また、ユ * 滋賀大学教育学部バ王の挫折の要因として、タプススの戦いでの敗北自体よりも、支配下にあった諸部族・地域の離反 を重視するのは良いとしても、その場合、彼らがユバ王の支配に反旗を翻した理由も検討する必要が あろう。 近年 Y. Le Bohec は、ヌミディア人を「蛮族」とする S. Gsell 以来の伝統的な見方を批判し、ユバ 王支配下のヌミディア王国がヘレニズム的な国家であったことを指摘している。しかし、その論拠と なっているのは、主に、クリオと戦った前 49 年にユバ王が率いていた軍隊がヘレニズム風であったと する自身の論文である6) 。前 1 世紀半ばのヌミディア王国のあり方についても再考の余地は大きい。 本稿では、紀元前 1 世紀半ばのローマの内戦期におけるヌミディア王ユバ 1 世の行動と、同時期の ヌミディア王国のあり方について検討していきたい。ユバ 1 世は、ポンペイウスとのクリエンテラ関 係ゆえに元老院派に加担したのか、あるいはヌミディア王国の支配拡大を目指して内戦に関与したの か。また、共和政ローマの内戦期、彼の治めるヌミディア王国はどのような状況に置かれていたのか。 これらの問いに取り組むことで、Le Bohec の主張するヌミディア王国のヘレニズム的性格の妥当性に ついても検討していきたい。 1.ヌミディア王国とローマ ポンペイウスがかつてヌミディア王家の継承問題に介入したことは他の史料から確認できる。ただ し、それはユバ王自身の代ではなく、彼の父の代でのことだった。また、カエサル自身は触れていな いものの、彼自身がかつて即位前のユバと対立したことも知られている。本章では、ユバ王とポンペ イウスやカエサルとの関係を軸に、ヌミディア王国と共和政ローマとの関係を確認していきたい。 (1)ヌミディア王家とポンペイウスおよびカエサル ユバ 1 世の王位は父王ヒエンプサル 2 世から受け継いだものだった。プルタルコスによれば、その 父王ヒエンプサル 2 世は前 88 年に即位したが、北アフリカに逃れたマリウス派の政治家グナエウス・ ドミティウス・アエノバルブスとの関係がこじれ、王位を追われたという。前 81 年、元老院によって ポンペイウスが派遣されて、ドミティウスと組んだヒアルバス王が失脚し、ヒエンプサル 2 世は王位 に復帰することができた7) 。父王の王位復帰に関し、ポンペイウスに恩義があったことは確からしい。 サルスティウスの記述から、ヒエンプサル 2 世はポエニ語で書かれた書物の所有者(あるいは著者) であった可能性も指摘されている8) 。後述する息子ユバ 1 世とは異なり、文人肌の人物であったのかも しれない。ヌミディア王家には、牧畜民というイメージとは裏腹に、初めて統一ヌミディア王国を築 いたマシニッサ王の息子で「ギリシア文学にも造詣が深かった」と言われるマスタナバルや9) 、ユバ 1 世の息子で後にマウレタニア王となり「ギリシア語世界の最も博学な歴史家の一人」(長谷川博隆訳) と称されたユバ 2 世など10) 、文人肌の人物が少なくない。第 2 次ポエニ戦争にローマ側に立って参戦し、 統一ヌミディア王国を確立した後もカルタゴと紛争を繰り返したマシニッサ王や、その孫で王位継承 争いからローマとの武力対立にまで踏み込んだユグルタのような武闘派の王ばかりではなかった。 サルスティウスによれば、共同で王となった従兄弟のユグルタに弟を殺され、ローマに救援を求 めたアドヘルバル王は元老院で「ヌミディア王国の管理権だけが私のものなのであり、その権利と支 配権はあなた方のものと考えるよう」死の床の父に言われた、と語ったという(栗田伸子訳。以下同 じ)11) 。しかし、ヌミディア王が常にローマ支配に従順だったわけではない。後述するように、「傲慢」 「攻撃的」と評されるユバ 1 世の内乱期のローマ人政治家に対する姿勢は、きわめて高圧的だったと伝 えられている。ローマとの軍事的な対立に至ったユグルタは言うまでもなく、晩年まで親ローマ的姿 勢を保ったとされる初代マシニッサ王でさえも、伱あらばローマに反抗して支配を広げようとしてい たと言われている12) 。ヒエンプサル 2 世のような文人肌の王は、北アフリカでのローマの影響力を維持 していく上では好都合な部分もあったと考えられる。ヒエンプサル 2 世がポンペイウスに恩義を感じ ていたとしても、それを息子ユバ 1 世にも当てはめられるかどうか、慎重に考える必要がある。
とは言え、ユバ 1 世がカエサルに味方すべき理由もなかった。両者は個人的にはむしろ敵対関係に あったからである。スエトニウスは、若きカエサルの次のようなエピソードを伝えている。 「ヌミディア王ヒエンプサルに対し、若い貴族マシンタを弁護しているとき、論争に熱中のあま り、王の息子ユバの髯をつかんだほどである。結局マシンタがヌミディア王の貢納者と宣告され ると、連行しようとする者たちからカエサルはこれを取り戻し、自分の家に長い間かくまった。 やがて法務官の後でヒスパニアへ総督として赴任するとき、儀礼から後についていた見送り人や 先駆警吏の儀鉞の中にかくし、マシンタを自分の臥輿で市外へ運び出した。」(国原吉之助訳。一 部改変。)13) この出来事は前 62 年のことだが、ユバはヒエンプサル王の名代として都市ローマに赴いたものと思わ れる。ユバ 1 世の貨幣からは、彼が髯を伸ばしていたことが確認できる14) 。公衆の面前で辱めを受け、 しかも勝訴した相手を取り逃したことについて、ユバ 1 世がカエサルに対し憤懣を抱いたであろうこ とは想像に難くない。 また、これに る前 64 年末、護民官団によって数十年ぶりに農地法が提案された。その内容は、翌 前 63 年のコンスルを務めたキケロの「農地法について」という弁論から知ることができる。キケロ は、分配用農地の購入原資を確保するために海外の公有地を売却する権限が 10 人委員に認められてい ることを危険視して、この法案を強く批判した。その際、売却対象の海外公有地の例外として、アフ リカのヒエンプサル王の所領が挙げられていることの不自然さに言及している。これは暗にヒエンプ サル王による賄賂工作に言及したものとされているが、その工作を担ったのは、この弁論にも登場す る息子ユバ 1 世だったと考えられる15) 。これは、前 75 年の執政官ガイウス・アウレリウス・コッタと の間で結ばれた同盟条約でヒエンプサル王に領有が認められた旧ローマ属州アフリカの土地に関する 規定だが、その同盟条約が民会で承認されていなかったために必要とされたものであった16) 。ヌミディ ア王がローマ政界の情勢に敏感にならざるを得なかった状況を示すものと言えよう。しかも、この農 地法提案の背後にはカエサルがいたと見られている17) 。ユバ 1 世にとって、カエサルは不 戴天の仇で あったと言って良い。 前 60 年にはヒエンプサル 2 世は亡くなり、その跡をユバ 1 世が継いだ。王位継承に波乱があった 様子はないが、ローマとヌミディア王国の関係については対立する見方が示されている。ユバ 1 世と ローマ国家との関係について次節で考えてみよう。 (2)「ローマ国民の同盟者にして友」 前 49 年初頭、元老院で連日カエサルに対する締め付けが強められていた時期のこととして、カエサ ル『内乱記』1 巻 6 章 3 ∼ 4 節は以下のような内容を伝えている。 「ユバ王についても、彼を「(ローマ国民の)同盟者にして友」と呼ぶという動議が提出される。 執政官マルケッルスは、この最後の案に自分は目下の所、反対せざるを得ないと発言した。」 ユバ王に対する「ローマ国民の同盟者にして友」という称号の付与が、執政官マルケッルスの反対で 実現しなかったという言及である。Peer は、冒頭で紹介したユバ 1 世の参戦理由とこの記述を関連付 け、ユバ 1 世がローマの公的な同盟者ではなく、彼の参戦は私的な理由に基づく、つまり怨恨による ものだという印象をカエサルが強めようとしていると指摘した。しかし、その解釈には疑問が残る。 そもそも、「ローマ国民の同盟者にして友 socius et amicus Populi Romani」という名称が何を意味 するのかについては、古くから議論されてきた。同盟関係を示すローマによって与えられた公的な称 号であることを否定する研究者もいれば、これを法的な意味合いで厳密に理解しようとする研究者も いたのである18)
。本稿の関心から言えば、M. R. Cimma の指摘が興味深い19)
東方進出に伴って用いられるようになったこの表現は、前 3 世紀の段階では、ローマとヘレニズム諸 国との間で取り結ばれた関係を示すための国際法的な概念であった。しかし、前 2 世紀末以降、ロー マの覇権が確立していくのに伴い、君主たちは事実上ローマの支配下に入り、国際法的な関係で理解 されることはなくなっていった、というのである。 カエサル『内乱記』第 1 巻 4 章、内戦が始まる直前に、カエサル派の提案に反対する執政官レントゥ ルスについて、「レントゥルスを突き動かしていたのは(中略)「王」の称号認可に伴う土着の王たち からの賄賂である」という記述がある。ローマの覇権下にあった諸王は、その地位をローマに認めて もらう必要があった。ヌミディア王ユバもその例外ではなかったと考えられる。その意味で、ユバ 1 世とローマ国家との間に公的な関係が存在しなかったとは考えにくい。ただしそれは、かつてのヘレ ニズム諸王との間における国際法的な形式を持った関係とは異質だったと考えられる。 ディオ・カッシウスによれば、紀元前 49 年にクリオ率いるカエサル派の軍を打ち破り、クリオを死 に追いやった後、ユバ 1 世は、ポンペイウスやマケドニアにいた元老院議員たちのよって栄誉を授け られ、王と呼びかけられたという。恐らく、この時ようやく、ユバ 1 世は「ローマ国民の同盟者にし て友」という称号を得て、ヘレニズム諸王と同等の処遇を獲得したものと思われる20) 。ただし、カエサ ルや首都ローマに残る元老院議員たちからは公敵と宣告されるという代償を伴った。 れば、ユグルタと対立して追い詰められ、元老院に救援を求めたアドヘルバル王は、自らを「代々 ローマ国民の同盟者にして友である」と語り、再開されたユグルタとの対立で再び追い詰められた際 にも、元老院に宛てた書簡で自らを「ローマ国民の同盟者にして友」と称していたとされる21) 。これが 統一ヌミディア王国を築いた祖父マシニッサ王に由来する法的な意味を持つ称号であったのか、ある いは元老院の助けを求めるためのレトリックに過ぎないのか、あるいはサルスティウスによる創作な のか、判断は難しい22) 。たとえ国際法的な意味での「同盟者」を示すものであったとしても、その後の ユグルタ戦争やヒエンプサル 2 世期のポンペイウスによる仕置きなどを経て、ローマとの関係におい てヌミディア王国の地位は大幅に低下していたと考えられる23) 。都市ローマにおいては、前 50 年に護 民官を務めたクリオの提案で、王国の公有地化が可能だとみなされるほどだったのである。 執政官マルケッルスが、ヌミディア王ユバ 1 世に「ローマ国民の同盟者にして友」という称号を贈る ことに反対した理由は明確ではないが、このような当時の都市ローマにおけるヌミディア王国イメー ジを反映したものだったのではあるまいか。Gsell は、「蛮族」の王がローマ市民同士の内戦に介入す ることをマルケッルスは望まなかったのだと解釈している24) 。ヌミディア王国の「蛮族」扱いの当否は ともかくとして、マルケッルスはヌミディア王の参戦にさして期待していなかったと考えられる。そ れが事実なら、後述するように、北アフリカに派遣されたカエサル派の指揮官クリオと、執政官マル ケッルスのユバ王に対する見方は奇妙にも一致していたことになる。内戦の当事者双方からヌミディ ア王国は弱小勢力と見なされ、ユバ王の参戦も予期されていなかったからである。それにもかかわら ず、ユバ王は元老院派を支援して、北アフリカでの内戦に参加した。次章では、ユバ王の動員した軍 隊の分析を中心に、ローマ内戦期のヌミディア王国の実態を見ていこう。 2.ユバ 1 世の軍隊 前 49 年 1 月の内戦勃発直後、ポンペイウスらが東方へ向かうのを阻止することに失敗したカエサ ルは、前年味方に抱き込んだばかりのクリオに25) 、シチリアおよび北アフリカの制覇を委ねた。難なく シチリアを奪取したクリオは、8 月には軍隊を率いて北アフリカに渡り、当地の支配の中心だったウ ティカ近くに布陣した。クリオは、緒戦でポンペイウス派の責任者ウァルス率いるローマ軍を打ち破 る26) 。しかし、間もなくユバ王率いるヌミディア軍が到来し、クリオは敗れ戦死することになった。こ の前 49 年のクリオによる北アフリカ遠征の失敗を分析した Le Bohec は、既述の通り、ヌミディア軍 のヘレニズム的特色を指摘している。ユバ 1 世の率いたヌミディア軍はどのようなものだったのか、
本章で改めて確認しておきたい。まず、前 49 年時点でのヌミディア軍についてカエサル『内乱記』を 中心に見た後、前 46 年にカエサル自身が北アフリカに遠征してくる前後の状況については、『アフリ カ戦記』を中心に見ていこう。 (1)前 49 年のヌミディア軍 Le Bohec は、ユバ 1 世率いるヌミディア軍がヘレニズム時代の一般的モデルに基づいて構成されて いたと述べる。その内容として彼が挙げるのは、王が親衛隊と専門的な戦闘部隊、補助部隊を持ち、 クリオを破る際に計略を用いたことである27) 。紀元前 49 年のヌミディア軍について、『内乱記』に基づ いてその実態を確認していこう。 まず、クリオがウティカ郊外に布陣した直後、ウァルスの陣営を偵察した際、周辺の田園地帯から ウティカの市内へと慌てて物資を運び込む人々を発見したという部分である。クリオは、その物資を 奪いとろうと騎兵隊を派遣した。それに対し「ウァルスはこれらの財産を防衛するため、600 のヌミ ディア人の騎兵と歩兵 400 人を町から送り出す」(2 巻 25 章 3 節)。そこには「歩兵隊はユバ王が数日 前に援軍としてウティカへ送っていたものだ」という説明が付記されている。ヌミディアは騎兵で知 られた土地柄であり、その援軍に騎兵が多いのは意外ではない。ただし、ここで言う「援軍 auxilii」は ローマ側から見た表現であり、ヌミディア軍が正規軍と補助軍からなっていたという趣旨ではない。 緒戦に勝利した後、クリオはウティカ市の傍らに陣営を移した。「この設営作業が終らぬうちに、前 の騎兵から、 おびただしい騎兵と歩兵の援軍がユバ王から送られて、ウティカへ向かっているとの 報告が届く」(2 巻 26 章 2 節)。ユバ王が「おびただしい騎兵と歩兵の援軍」を送り出すだけの余力が あったことが分かる。この部隊はすぐに打ち破られたものの、間もなくユバ王自身が大軍を率いて接 近しているとの報がもたらされた(2 巻 36 章 3 節)。しかし、クリオはそれを信じなかったとカエサル は書いている。ヒスパニアでのカエサル勝利の報が北アフリカ各地で広がっていたことから、クリオ は「奢り高ぶり、ユバ王など自分に対し敢えて何の手出しもすまいと高をくくっていた」(2 巻 37 章 2 節)のだという。前年、護民官としてヌミディア王国の公有地化を提案したクリオは、ユバ王の力を 過小評価していた。元老院派の執政官マルケッルスと同様に、カエサル派の指揮官クリオもまた、ヌ ミディア王ユバが自ら内戦の渦中に身を投じるとは考えていなかったのである。北アフリカのポンペ イウス派やヌミディア王国の力を侮っていたクリオは、カエサルから託された 4 個軍団のうち 2 個軍 団をシチリアに残し、残る 2 個軍団と騎兵 500 騎しか北アフリカに動員していなかった(2 巻 23 章 1 節)。それがクリオの運命を決した。 クリオは、ユバ王が近隣部族との戦いのために本国に足止めされ、派遣された王の臣下サブッラ指 揮下の援軍は大規模ではないという情報を信じた。実際には、王の本隊はサブッラ率いる別動隊とは 9 キロメートル離れた場所に陣取っていたにすぎなかったにもかかわらず(2 巻 38 章 1 ∼ 3 節)。この 間のユバ王の心理を、1 世紀ほど後、ネロ帝治世に活躍した詩人ルカヌスは次のように歌っている。 「だが、ウァルスが戦闘で敗れ、撃破、掃滅されたとの悲報を耳にするや、ユバは、戦の誉れが 自分の軍勢のために取っておかれたと喜び、急遽、密かに隊伍を率いて進軍したが、厳に箝口令 を敷き、自分の進軍が飛語となって広まらぬよう、極秘裏に事を運んだ。油断している敵に警戒 心を抱かせる、ユバはひたすらそれを恐れた。彼は、ヌミディア人の間で王に次ぐ地位のサブッ ラを先発させた。少数の手勢を率いて敵を挑発させ、戦端と開かせるとともに、作戦の指揮がサ ブッラに委ねられていると見せかけさせようとの目論見からだ。(中略)事実、運命はユバの詭策 に上々の首尾を与えた。」(大西英文訳。以下同じ。)28) ルカヌスの作品は歴史に題材をとった叙事詩とは言え、そこに表現された出来事や歴史観は同時代の 見方を比較的忠実に反映したものと考えられている29) 。事実、ユバ王が計略に長け、クリオを陥れたと する点は、フロンティヌスの『戦術論』、アッピアノスやディオ・カッシウスの史書とも共通する。彼
らは、カエサル派の一員として北アフリカにいたアシニウス・ポリオの史書を参照したと考えられて おり、ユバ王の計略がクリオ率いるカエサル派の軍を破滅へと追いやったことは事実と思われる30) 。 他方カエサルは、ユバ王の巧緻よりもクリオの若さと軽率を強調し、ヌミディア軍を「蛮族」とし て表現する。この直後、クリオ配下の騎兵隊はサブッラ指揮下の別動隊に夜襲を仕掛け、勝利を挙げ た。カエサルは「ヌミダエ族は野蛮人の習性から、無秩序にあちこちに陣どっていた。散らばって眠 り呆けていたところに躍りかかり、彼らをたくさん殺した」(2 巻 38 章 4 節)と述べる。クリオが夜 襲に成功したことは事実としても、ヌミディア人を殊更「蛮族」と表現する必要はなかっただろう31) 。 この戦いの直後、「ユバ王はサブッラから夜の合戦について報告を受けると、自己防衛のためいつも 身辺に備えていた 2000 人のヒスパニア人とガリア人の騎兵と、最も信頼していた歩兵隊の一部を、サ ブッラに援軍として送」った、とカエサル自身が伝えている。さらに「彼(ユバ王)自身は残りの軍 勢と 60 頭の象を伴い後をつける」(2 巻 40 章 1 節)と続く。ヌミディア王ユバ 1 世の周りには、ガリ ア人とヒスパニア人からなる 2000 騎の親衛隊が存在していた。父王ヒエンプサル 2 世時代にローマの 介入を招いた状況が示すように、ヌミディアでは王家内部の争いや貴族層との対立が生じていた。そ のような状況で、ユバ 1 世が身を守るためには、ガリア人やヒスパニア人といった海外から雇った親 衛隊が必要だったものと思われる。 サブッラ率いる別動隊の存在や本隊の隠密行動、さらに海外出身者からなる 2000 騎の王の親衛隊の 存在は、ヌミディア王国軍がカエサルの印象付けようとするような「蛮族」風のものというよりも、 Le Bohec の指摘する通り、当時のヘレニズム諸王国に類似した洗練された構成を持っていたことを推 測させる。結果、クリオは敗北し、戦死することとなった。 残った兵士たちはポンペイウス派の指揮官ウァルスに投降したが、ユバ王はそれを自らの分捕品だ と自慢し、王国に送った一部を除いて、残る大多数の軍団兵を処刑させたという。それに対するウァ ルスの反応を、カエサルは次のように記している。 「このときウァルスは王の振舞いで自分の面子が傷つけられると不満を訴えたものの、敢えて反対 はしなかった。ユバ王は町の中へ馬に乗って入城した、後には何名かの元老院議員を従えて。そ の中に、セルウィウス・スルピキウスとリキニウス・ダマシップスがいた。」32) カエサルは、ローマの元老院議員が「蛮族」の王の命令に逆らえず、さらに馬に乗ってウティカに入城 する王とそれに付き従うポンペイウス派の元老院議員たちという対比を描き出すことによって、ロー マ人にとってのあるべき秩序の逆転現象を表現しているという33) 。それは、北アフリカでの戦いがロー マ市民同士の内戦というよりも、ローマと「蛮族」との間の戦いであると示すためであった。後にカ エサルが最終的に勝利をおさめ首都ローマで凱旋式を挙行した時、北アフリカでの勝利はユバ王から 得られたものとされていた34) 。勝利したカエサル派にとって、ヌミディア人が「蛮族」である必要が あったにせよ、ヌミディア軍の実態はそれとは異なっていたように見える。次節では、前 46 年、カエ サル自身が北アフリカに渡ってくる前後の状況を見ていこう。 (2)前 46 年前後のヌミディア王と軍隊 前 48 年 8 月、ファルサロスの戦いで、ポンペイウス指揮する元老院派はカエサルに敗れた。ポンペ イウスは、かつて父王に恩顧を施したことを頼みとしてプトレマイオス朝エジプトへ逃れたが、そこ で殺害された35) 。ポンペイウスが父王に恩顧を施したという点ではヌミディアもプトレマイオス朝も 違いはないが、少なくともエジプトでその恩顧は無意味だった。 ここで注目すべき点は、ポンペイウスの逃れる先として、もはやローマの属州は安全ではなく、諸 王の治める地域こそが安全だと考えられていたことである。逃れる先として検討された中には、パル ティアと並んでユバ王治める北アフリカも挙げられていた36) 。ウェッレイウス・パテルクルスがユバ王 を「最も忠実」と評するのに対し、ルカヌスは、ユバ王を「傲慢」で「ローマのことを二番手と見下
している」信用ならない人物だとポンペイウスに語らせている。ルカヌスの文学的誇張という面はあ るにせよ、後述する『アフリカ戦記』におけるユバ王の振舞いを見ると、事実を反映した部分もあっ たものと思われる。また、アッピアノスは、ユバの王国はプトレマイオス朝に比して劣るものとして 見下されていたと伝えている。元老院派の人々のヌミディア王国 視は根強かったが、ルカヌスは、 クリオへの勝利の後、「元老院の権威によって、リビュエ(=アフリカ)は王笏持つユバに服すべき旨 の決議がなされた」とも述べている37) 。ファルサロスの敗北を機にイタリアへ戻ったキケロも「ユバの もとに逃げ込む」可能性に言及していたことや、ユバ王がスキピオとウァルスを「サトラップ」にし ようとしていたのをカトーが妨げたというプルタルコスの記述を想起するなら38) 、カエサルの上陸に 先立ち、北アフリカ一帯は事実上ユバ 1 世の勢力下にあったと考えるべきだろう。 それでは、そのときユバ 1 世の率いた軍隊はどの程度のものであったのか、『アフリカ戦記』を中心 に見ていこう。その冒頭では、北アフリカに残る反カエサル派の軍勢として「騎兵の数は計り知れず、 王の率いる 4 個軍団、軽武装兵の大兵力、スキピオ指揮下の 10 個軍団、象 120 頭、相当数の艦隊」が 挙げられている(高橋宏幸訳。以下同じ)39) 。スキピオ率いる 10 個軍団に比べれば少ないものの、ユバ 王も恐らくローマ式に訓練を受けた 4 個軍団を保持していたことが知られる。また、騎兵や軽武装兵、 さらに象部隊の一部も、ヌミディア王国軍に属するものだったと推測される。というのも、前 46 年 4 月のタプススの戦いに先立ち、スキピオに来援を請われたユバ王は、「3 個軍団と馬具装備の騎兵 800、 馬具を使わないヌミディア人騎兵、および軽武装歩兵の大部隊、象 30 頭を率いて王領を離れ、スキピ オのもとに進発した」(48 章 1 節)とされているからである。さらに、ヌミディア王国軍には南部の ガエトゥリ人の援軍も参画していたほか、北アフリカでは初めてのラクダの使用もユバ王の下で確認 される40) 。ヌミディア古来の騎兵部隊に加え、ローマ風に組織された複数の軍団、ガエトゥリ人の援軍 など、前 46 年時点でもユバ 1 世が組織された大規模な軍隊を率いていたことが確認できる。 さらに注目すべき点は、「スキピオは(ユバ)王の騎兵のまかないを属州アフリカからの出費で行っ ていた」のをカエサルが耳にし、「人間の心も狂いが甚だしければ、祖国で市民とともに恙なく自分の 財産に囲まれているより、王に税を払うほうを選ぶのか」と驚いたと述べられている点である(8 章 5 節)。軍隊を支えるために税を納めることは、ある政治勢力の支配がその土地、あるいは人に対して及 んでいることを示す最も明快な指標の一つである。ユバ王の軍隊がローマのアフリカ属州の税で支え られていた状況、つまり、『アフリカ戦記』の著者の言う「王に税を払う」状況は、ファルサロスの戦 い後、北アフリカの実質的な支配者がユバ王であったことを示す先の諸史料の表現と符合する。ファ ルサロスの戦いでポンペイウスが敗れ、元老院派の権威が失墜したことは、北アフリカでのユバ王の 勢力をさらに膨張させることになったものと思われる。 実際、ユバ王が「傲慢」と批判される出来事は、この時期に生じている。北アフリカの元老院派の 司令官だったスキピオが、カエサル派と接触していた元老院議員アクイニウスに帰還を命じたにもか かわらず拒まれたのに対し、アクイニウスは、ユバ王の使者が「王があなたの会談を禁じている」と 伝えたのに対しては「肝を潰して立ち去った」とされる。そして、『アフリカ戦記』の著者は、「ロー マ国民から公職を与えられた者が、祖国も財産もすべて無事でありながら、まずもって異国の王ユバ に服従することを望んだとは」と慨嘆してみせる(57 章)。それに対して、カエサルとの決戦を前に スキピオから来援を請われたユバ王は、その依頼を断ったとディオ・カッシウスは伝えている。そし て、その依頼に応じる代償として提案されたのが、北アフリカのローマ領の支配権であった41) 。実質に 加え、形式的にも、ユバ王の支配は北アフリカ全土に及ぼうとしていたのである。 『アフリカ戦記』の同じ章では、これに続けて起こった別の事件も伝えられている。「王の到着以前 はスキピオがいつも緋紫の外套を着用していたのに対し、ユバが彼と話をして、自分が着用している のと同じ服装をすべきではないと言ったという。かくして、スキピオは白の服に着替え、傲岸無比、 無精至極の輩であるユバの意向に従うこととなった」というのである。著者は「それにもまして傲慢 であったのはユバの行為である。それは新人で若輩の元老院議員であるマルクス・アクイニウスに対
してのみならず、際立った家格、地位、公職を誇るスキピオに対してもなされた」と述べ、先の新人 元老院議員アクイニウスに対する行為と比較して、より深刻な出来事としてこの事件を捉えている42) 。 このように、ファルサロスの戦いで元老院派の権威が失墜した後、ユバ 1 世が事実上北アフリカの 支配者となっていたことを念頭に置いた場合、『アフリカ戦記』で問題となっている記事が理解しやす くなる。『アフリカ戦記』19 章 3 節に次のような記述がある。 「ラビエヌスは集会でこう演説したという。『どれほど大規模な補助軍を私は反カエサル軍に提供 しようとしているか。カエサル軍が殺し続けて勝利を収めたと思ってもついには疲れ果てて敗れ 去るほど、わが軍が打ち勝つだけの規模だ』。」 ここにあるように、多くの校訂版において、集会で演説した人物は旧ポンペイウス派の軍人ラビエヌ スであったとされている。しかし、写本においてはユバとされているという。『アフリカ戦記』を邦訳 した高橋宏幸も指摘しているように、ユバをラビエヌスと修正しては大規模な補助軍を提供しようと しているという演説内容とは整合性が保てない43) 。それにもかかわらず、「ユバ」を「ラビエヌス」と 読み替えてきた理由としては、まず、ユバ王はローマ軍の指揮下にいたはずだという理由が挙げられ る。もう一つは、ローマ人兵士の前でユバ王が話すことは難しかったという理由である44) 。明確には述 べられていないが、ユバ王はラテン語を話すことができなかったはずだ、という趣旨かと思われる。 しかし、これまでの本稿の検討に基づくなら、いずれも説得力を持たない。既に述べたように、ファ ルサロスの戦いで元老院派の権威が失墜した後、北アフリカの事実上の支配者はユバ王であった。属 州アフリカのローマ人統治者たちは王に税を納め、言われるがままに紫衣を脱いだ。強大な軍事力を 持つユバ王は、もはや単なる援軍の指揮官ではなかった。また、ユバ王がラテン語を話せなかった可 能性は極めて低い。紹介したように、父王ヒエンプサル 2 世の時代、若きユバは王の名代としてローマ に派遣され、ヌミディア人貴族をめぐる訴訟に参加していた。大スキピオの知遇を得て統一ヌミディ ア王国を築いたマシニッサ王以来、『ユグルタ戦争』に登場するアドヘルバル王やユグルタのように、 ヌミディア王家の人々はたびたび首都ローマを訪れ、元老院で演説する機会を持ってきた。ラテン語 はおろか、ギリシア文学に造詣の深い人物さえ存在していたことも、既に述べたとおりである。ユバ 王がローマ軍兵士の前での演説を躊躇する理由はない。 また、この一節に続けて、「彼の指揮下の兵士についてはアフリカに 3 年間留めて、慣れとともに忠 誠を高め」たという記述がある。ファルサロスの戦いが起こったのは、前 48 年 8 月のことであり、こ の演説がなされたのは、カエサルの北アフリカ上陸の直前、前 47 年末か 46 年初頭のことであったと想 定される。この部分について修正は提案されていないが、ラビエヌスが率いてきた兵士であれば、ア フリカに着いてから 3 年も経っているということはあり得ない。誇張表現とされているが45) 、むしろ、 前 49 年夏、クリオと戦うためにヌミディア本国から動員された軍隊のことを示していると理解すべき であろう46) 。引用部分の直前に「敵の狙いと企みは、前例のない新戦法を用いることにより、新米で数 も少ない軍団兵を混乱させ、対クリオの場合と同様、騎兵で取り囲んで制圧することにあった」とあ ることも、その見方を補強する。カエサルの上陸を目前にしたユバ王は、元老院派のローマ軍兵士た ちの前で勝利への自信を示していたのである47) 。 しかし、前 46 年 4 月、タプススの戦いで勝利したのはカエサル軍であった。急速に膨張したユバ 1 世の支配は、戦いの前に既に綻びを見せていたからである。次章では、その支配の綻びを『アフリカ 戦記』から読み取っていきたい。
3.ヌミディア王支配下の人々 タプススの戦いでカエサル軍と対峙した軍を率いていたのは、ユバ王ではなくスキピオだった。 ディオ・カッシウスは、ユバ王が自身が首位を占めるべきであると主張したが、スキピオとカトーが 合意してスキピオが指揮権を持つことになった、というエピソードを伝えている48) 。ユバ王もタプスス の戦いに参加してはいたが、史料上、戦闘中の言及はほとんどなく、その影は薄い。タプススの戦い が始まる前に、ユバ王の支配は既に動揺を来していたためであろう。本章では、『アフリカ戦記』の記 述を中心に、ユバ王の支配体制について検討していきたい。 (1)マウレタニア王の攻勢と王都キルタの陥落 前 49 年にクリオが敗死した後、元老院派がユバ王の功績を称えたのに対し、カエサル派はユバ王を 公敵と宣言したのに加え、ヌミディア王国の西にあったマウレタニアの王ボックスとボグドを、ユバ と対立していたがゆえに「王」と呼んだ49) 。カエサル派は予め、ヌミディアの西に第二戦線を築くべく 動いていたのである。カエサルが北アフリカに上陸した前 47 年暮れまでに、この第二戦線は機能する ようになっていた。その立役者がプブリウス・シッティウスである。彼はカンパニア地方のヌケリア 出身で、カティリーナの陰謀に参画していた過去を持つ。マウレタニアに渡ったのはその時期のこと とされ、同地でカティリーナ派を組織する役割を担っていたらしい。カティリーナ弾劾時のカエサル の姿勢を踏まえるなら、カエサル派との連携自体は不自然ではない。その後の行動は不明ながら、マ ウレタニア王ボックスと手を組み、カエサル派の一員としてヌミディア王ユバに挑むことになった50) 。 『アフリカ戦記』25 章 2 節によれば、シッティウスとボックス王は「ユバ王の出陣を知ると、彼の 王領へ軍勢を近づけた。シッティウスは 王領の中でもっとも豊かな城市キルタを襲撃して、数日の戦 闘によって占領し、この他にもガエトゥリア人の城市二つを落とした」とされる51) 。それを知ったユバ 王は、スキピオとの合流を断念し、30 頭の象を残して王国の防衛のために帰還したとされる。「王領の 中でもっとも豊かな城市」と形容されるキルタは、現在のアルジェリア東部の都市コンスタンティー ヌにあたり、断崖絶壁の岩山の上に位置する都市であった52) 。都市の守備隊が機能していれば、数日で 陥落するはずのない地勢である。かつてユグルタとアドヘルバル王が対立し、後者が逃げ込んだ際に も、「天然の要害であるキルタを武力で攻め落とすことはできないので、(ユグルタは)市の防壁の回 りに塁壁と塹壕をめぐらし、数々の攻城塔を立て、それらを守備隊で固めた」とサルスティウスは伝 えている53) 。この時キルタの防衛を担っていたのは「トガを着た人々」、すなわちローマ市民権を持つ イタリア系の人々であった。彼らは、穀物輸出などのために滞在していた商人だったと考えられる54) 。 首都ローマの食糧需要がその後減少したとは考え難く、キルタに数多くのイタリア系商人が滞在する 状況は、ユバ 1 世の時代にも変わっていなかったと想定される。 アンティオキアやロドスにいたローマ市民権を持つ商人たちがポンペイウス派残党の受け入れを 拒んだことが示すように55) 、ローマ市民権を持つ彼らにとって、内戦はもはやカエサル勝利で終わるべ きものであった。ルカヌスが、カトーの下から逃亡しようとする兵士に語らせているように、「ポン ペイウスを亡くした今、内乱は犯罪となった」のである56) 。キルタにいたイタリア系商人が、カエサル 派と連携するシッティウス軍に抵抗したとは考え難い。北アフリカで勢力を拡大したとはいえ、ヌミ ディア王国は、地中海世界全体に覇を唱えるローマ帝国の強い影響下に置かれていた。王都キルタが わずか数日で陥落した背景には、このような地中海世界全体の動向が影響していたものと思われる。 シッティウスはさらに「防備の固い山上に位置し、ユバ王が戦争遂行のために穀物も他の戦争必需物資も 集めてあった砦を武力で攻め落とし、手中に収めた」という(36 章 4 節)。ユバ王が本隊を率いてローマ領 アフリカ属州に向かった結果、本国の防衛が疎かになっていたことは否めない。シッティウスは、ユバ王が 派遣したサブッラの別動隊も破り57) 、さらにタプススの戦いの後、ヒスパニアへ逃亡しようとして難破しヒッ ポ・レギウスに漂着したスキピオら元老院派幹部も打ち取った58) 。その功を認められて、シッティウスはキル タの支配者とされた。退役兵らが入植したキルタは、ローマ市民植民市として帝政期を迎えることになる59) 。
(2)ガエトゥリ人 王都キルタの陥落と並んで言及されていたのが「ガエトゥリ人の城市二つ」の陥落であった。サル スティウスは、伝聞情報として「ヌミディアのかなたにはガエトゥリ人が、ある者は小屋に、ある者 はより未開に放浪しつつ暮している」と記している60) 。必ずしも特定の集団ではなく、ヌミディア王国 の南方に暮らす人々として理解しておくべきであろう。 『アフリカ戦記』では、ユバ王率いる本隊に生じた綻びとして言及されている。まず 32 章 3 ∼ 4 節 で、スキピオ陣営からヌミディア兵とガエトゥリア兵が連日脱走していたことが言及される。一部は 王領へ、一部はカエサル陣営に向かったというが、その理由は「彼らの祖先もガイウス・マリウスの 恩恵に与ったことがあり、カエサルがマリウスの親戚であると聞いていた」からだとされる。カエサ ルの叔母がマリウスの妻となっており、その叔母の葬送演説をカエサルが行ったことはよく知られて いる61) 。しかし、マリウスとガエトゥリ人の間の恩顧関係に触れた史料は他になく62) 、クリエンテラ関 係が重要だったのか否か判断は難しい。さらに 35 章では、スキピオら元老院派幹部がガエトゥリ人兵 士 2 名を逃亡兵に仕立ててカエサル陣営の様子を探りに行かせたというエピソードが語られる。その 2 人のガエトゥリ人の告白とされる部分は興味深い。 「将軍よ、ガイウス・マリウスの庇護民であるところの我等ガエトゥリ人の相当数と、第 4・第 6 軍団に属するほとんどすべてのローマ市民は、何度もあなたのもとへ、あなたの守護が受けられ るところへ逃げ込みたいと思った。しかし、ヌミディア人騎兵が警備していて、それをするには 危険なしにはすまないので、できずにいた。」(35 章 4 節。高橋宏幸訳をもとに一部改変。) ガエトゥリ人の多くがマリウスの庇護民であり、彼らと第 4・第 6 軍団のローマ人兵士のほとんどは カエサル陣営に逃亡したかった、と述べている。この章の最後に「ガエトゥリ人が『軍団』と呼んで いた軍団兵の相当数」が翌日カエサル陣営に逃亡してきたという記述があることから、これらの軍団 はローマの正規軍団ではなく、ローマ市民権保持者も含めたガエトゥリ人がローマ式の訓練を受け、 「軍団」として組織されたものと考えられる。先に述べたように、アンティオキアやキルタのローマ市 民権保持者たちにとって、この内戦の帰趨はファルサロスの戦いで明らかであった。キケロも言うよ うに63) 、内戦を続ける政治的意味はもはやなかったのである。ヌミディア人騎兵の妨害にも関わらず、 ガエトゥリ人兵士やローマ市民権保持者たちはカエサル側へ寝返ろうとしていたのである。 当初疑われていたカエサル自身の北アフリカへの上陸が認識されるようになると、ガエトゥリ人と 同様、カエサル陣営近隣の都市は相次いでカエサル派への帰属を申し出、守備隊の派遣を要請したと される。レプティ・ミヌス、アキュッラ、テュスドゥルス、ルスピナ、ウァガ、タベナといった町々 である64) 。北アフリカでの戦争において、都市は戦略拠点として重要な役割を果たしていた。テュス ドゥルスには「イタリアの商人や農夫らによって 30 万モディウスの小麦が集められていた」し(36 章 2 節)、ウジッタは「水の調達をはじめ、軍の物資補給をずっと行ってきた」(41 章 2 節)。タベナ に至っては「それまではユバ王領地辺境の沿岸地域で王の支配下にあったのに、王の守備隊を殺して、 使節をカエサルのもとへ送って寄越した」という(77 章 1 節)。ポンペイウス派、あるいは元老院派 の指導するローマという後ろ を失ったユバ王の支配は、早々に動揺を来していたのである。 ガエトゥリ人逃亡兵たちは、カエサルの書簡を託されて故郷へ戻った。そして「カエサルの名声を 信頼し、市民たちはユバ王から離反した。素早く一斉に武器を執るや、迷いなく王に敵対した」のだ という(55 章 1 節)。カエサルが内戦の勝者であるという情報はヌミディア南方にまで届き、ユバ王 の支配をさらに揺るがすことになった。その結果、「ユバ王は三方面の戦争に力を割かれ」ることにな り65) 、タプススの戦いで主力を担うことはできなかった。いずれの史料でも、タプススの戦いにおける ユバ王の動静は奇妙なほど語られていない。『アフリカ戦記』では 85 章 4 ∼ 5 節で、スキピオ配下の 兵士たちが敗色濃厚な中「王の陣営」に逃れたものの、既にカエサル軍の手に落ちていたという記述
が見出されるのみである66) 。タプススの戦いの敗北後、スキピオら元老院派の人々がウティカへ向かっ たのに対し、ユバ王は彼らと離れ王領を目ざした。彼が向かったのは王都の一つザマ・レギアである。 (3)ザマ・レギア 『アフリカ戦記』91 章によれば、「そこには王の住まいがあり、妻たち、子供たちがいて、王国全土 から資金や最高級の貴重品のすべてを運び込んであった。戦争の始まったときに最高度の防御工事を 施して守りを固めてあった」。しかし、カエサル軍勝利の情報を得ていたザマ・レギアの住民は王の受 け入れを拒んだ。ユバ王は城門の前で「長いあいだ強硬に、最初は王権にふさわしい嚇しも交えて」住 民たちと談判し、「次には嘆願によって、王の守護神と家炉のところへいれてもらえまいか、と頼んだ」 とされる。それも拒まれると、「王は第三の手として、妻たちと子供たちを渡してくれ、一緒に連れて 行くから、と住民たちに求めた」というが、それには回答すら得られず、立ち去ることになった。 ザマの住民は、スキピオらを追ってウティカに向かったカエサルに使節を派遣し、王からの攻撃を 被る前に守備隊を派遣してくれるよう願い出て、カエサル自身がザマに足を運んでいる。そして、「カ エサルの寛容と慈悲に関する が広まり、王の騎兵のほとんど全員がザマのカエサルのもとへやって 来て、彼によって恐怖と危険から解放された」という(92 章 4 節)。こうして、タプススでの敗戦を 機に、ヌミディア王国軍も解体された。 ザマの住民やザマに集ってカエサルに帰順したヌミディア騎兵たちの振る舞いが示すように、例 え王から恩顧を受けた都市の住民と言えども、王の敗北後にまでカエサル軍への抵抗を示すことはな かった。彼らの振る舞いは、ユバ 1 世の支配が一時は北アフリカ全土に及ぶほど膨張したのだとして も、その支配はローマという後ろ あってのものだったことを示している。「王はあらゆる城市から閉 め出され、助かる希望を失って」、同行するペトレイウスと討ちあって最期を迎えた67) 。他方、ザマの 住民は、王を閉め出す決議をしたがゆえに、カエサルから褒美を得た(97 章 1 節)。王都ザマ住民の 決断は、北アフリカでの戦闘終結に大きな意味があったと判断されたのである。 (4)レプティス・マグナとウティカ ザマ・レギアの住民たちの決断は、その使節団がカエサルに援軍の派遣を要請するに際し、「命の 続くかぎり、城市とわが身をカエサルのために護ってみせよう」と述べたことが示すように(92 章 1 節)、必ずしも容易なものではなかった。事実、『アフリカ戦記』97 章 2 節によれば、戦後処理の中で、 タプススやハドルメトゥムといった最後までスキピオ派に味方した町々は懲罰金を科されている。興 味深いのはレプティス・マグナ市の事例である。同市に対する措置は以下のようなものであった68) 。 「レプティス市については、それまでの数年間に財産をユバに略奪されたが、使節を立てて元老院 に訴えを起こし、元老院から裁定人を定めてもらって財産を取り戻していたことから、300 万リ ブラのオリーブ油を毎年納める罰を科した。なぜなら、戦争開始当初、指導者同士の仲違いから ユバと同盟を結び、王を武器、兵力、資金の面で援助したからであった」。 前 49 年、上陸したクリオの軍と戦う直前、ユバ王はレプティス市民との間で紛争を抱えていたことが 知られている。クリオがユバ王の本隊は近くにはいないと判断した根拠の一つがユバ王とレプティス 市との対立であった69) 。レプティス・マグナ市は、恐らくマケドニアに逃れた元老院主流派の定めた裁 定人によって財産を取り戻してユバ王と和解し、ユバ王支援に回ったものと思われる。ファルサロス での敗北後北アフリカを目指したカトー一行の冬営を認めたとされることも70) 、戦後、レプティス市に 不利に働いただろう。 注目すべき点は「指導者同士の仲違いから」ユバと同盟を結んだとされている点である。カエサル 支持を決めた諸都市であれ、元老院派を支持した諸都市であれ、その内部では様々な利害の対立や、 政治的な党派争いがあったにちがいない。ローマのアフリカ属州の中心だったウティカも、カエサル 『内乱記』によれば、内戦勃発当初「戦争の経験がない大衆、カエサルから受けた恩恵ゆえに彼に多
大な好意を寄せるウティカ市民、それに、さまざまな階層からなるローマ市民協会の人々」(高橋宏幸 訳)という少なくとも 3 グループに分かれていたとされる71) 。ウティカ市民はローマ市民権を与えられ ていたが72) 、カエサルに恩義を感じていたもともとのウティカ市民と、商業などの用務で滞在していた 他のローマ市民権保持者とでは、同じ「ローマ市民」でも利害に違いがあったものと想定される。カ エサルに好意的なウティカ市民は、タプススの戦いから敗走してきた軍による虐殺被害も蒙った73) 。 この北アフリカでの戦いをローマ市民同士の内戦と捉えるのであれ、あるいはカエサル率いるロー マ軍とユバ王率いるヌミディア軍の戦いとみなすのであれ、北アフリカの住民には生き残りをかけた 選択が求められた。そこでは、ユバ王やポンペイウス、あるいはカエサルとの間の輻輳した恩顧関係 は、旗幟を判断する材料の一つに過ぎなかった。だからこそ、都市内部での利害対立も生じたのであ る。クリオに対する勝利で膨張したユバ王の北アフリカ支配は、依然としてローマの力を背景とした ものであり、ファルサロスでの元老院派の敗北で動揺を来していた。タプススの戦いを前にユバ王や 元老院派の戦略的不利は否めず、会戦での一度の敗北でユバ王の支配は崩壊し、抵抗を続けることは できなかったのである。 おわりに 共和政末期のローマで生じた内戦に際し、ヌミディア王ユバは、ポンペイウスとのクリエンテラ関 係ゆえに元老院派を支持して参戦したと考えられてきた。しかし、『内乱記』の記述によれば、カエサ ル派の指揮官クリオだけでなく、元老院派の執政官マルケッルスもまた、ユバ王の力を侮っていた。 当時、ヌミディア王国は公有地化が検討されるほど弱小な勢力とみなされており、ユバ王の積極姿勢 は、内戦の当事者双方にとって想定外のものと受け止められていたのである。 ユバ王にとって、ローマで生じた内戦は北アフリカで勢力を拡大する好機であった。ポンペイウス とのクリエンテラ関係は父王の代のことにすぎなかったにせよ、カエサルやその代理人たるクリオに 対しては私怨もあり、内戦への介入に際しユバ王が元老院派に加担したのは自然な判断だった。元老院 派の指揮官ウァルスがクリオに敗れた後、ユバ王は計略をもってクリオを打ち破る。カエサルは『内 乱記』でヌミディア人を「蛮族」と、ユバ王の行動を傲慢なものと描写するが、ユバ王が元老院派内 部での評価を高め、北アフリカで勢力を拡大させたことは確かである。 前 48 年 4 月、ファルサロスの戦いで元老院派がカエサル派に敗れたことは、北アフリカのユバ王支 配にも大きな影響を及ぼした。自軍の維持のためにローマ属州アフリカで納められた税を用い、元老 院議員たちに紫衣の着用を許さず、彼らを自身の命令に従わせるなど、元老院派の敗北に乗じて、ユ バ王は北アフリカでの支配をさらに強めたかに見える。しかし、自らの後ろ でもあった元老院派が 敗れたことは、ユバ王の膨張した支配を動揺させることになった。 前 47 年末にカエサルが自ら北アフリカに乗り込んでくると、カエサル陣営近隣の諸都市や、かつ てマリウスの恩顧を受けたと称するヌミディア南部のガエトゥリ人らが相次いでカエサル派に寝返っ た。また、カエサル派によって「王」と認められたマウレタニア王ボックスや、ボックスと手を組ん だローマ人シッティウスらが西から攻勢をかけてくると、王都キルタも――恐らく滞在していたイタ リア系のローマ市民権を持つ商人の手引きで――わずか数日で陥落する。ヌミディア王ユバは、ロー マの内戦を利用して北アフリカでの支配拡大を図り、一時はそれに成功したかに見えた。しかし、ヌ ミディア王国は、政治的にも、経済的にも、ローマの強い影響下にあった。ローマ市民にとって、内 戦はもはやカエサルの勝利で終わるべきものであり、ユバ王の支配下にあったローマ市民権保持者た ちも、もはやユバ王の支配に協力する意思を持たなかった。東方のヘレニズム諸王国と同様に、ヌミ ディア王国もまた、もはやローマとの関係を抜きにしては存続しえなかった。ユバ 1 世の支配拡大へ向 けた挑戦は一時は上手くいくかに見えたが、後ろ であった元老院派の敗北で北アフリカに住むロー マ市民の協力を得られなくなった結果、挫折を余儀なくされることになったのである。
注
本稿では、定期刊行物の略号は に、碑文集の略号は に、ラテン語
史料の表記は P. G. W. Glare(ed.), , Oxford, 1982 に、ギリシア語史料の表記は H. G. Liddell and R. Scott, , with a Revised Supplement, Oxford, 1996 に、従った。
1 ) 共和政末期のローマの内戦と北アフリカの関わりについての概観は、S. Gsell,
, tome VIII, Paris, 1928, pp. 1-182; J.-M. Lassère, , Paris, 2015, pp. 101-112 を参照。
2 ) Caes., ., 2, 25, 4. 訳文は、カエサル、國原吉之助訳『内乱記』講談社学術文庫、1996 年による。以下同様 だが、 必要に応じ表記を改めた。Cf. Dio Cassius, 41, 41, 3; Luc., 4, 689-692.
3 ) E. Badian, , Oxford, 1958, pp. 271f.; D. Braund,
, London and New York, 1984, p. 102, n. 82; 吉村忠典「属州クリエンテーラと 補助軍」『古代ローマ帝国の研究』岩波書店、2003 年、79-123 頁(初出は T. Yoshimura, Die Auxiliartruppen und die Provinzialklientel in der römischen Republik, , 10(4), 1961, pp. 473-495)。
4 ) A. Peer, Bellum Civile , Abingdon and New York, 2015, pp.101f.; 107f.
5 ) F. Bertrandy, L aide militaire de Juba Ier
aux Pompeiens pendant la guerre civile en Afrique du Nord(50-46
avant J.-C.), in e
e
( ), Paris, 1991, pp. 289-297. 6 ) Y. Le Bohec, , Paris, 2005, pp. 46-49. 根拠となっ
た論文は、Id., L expédition de Curion en Afrique : étude d histoire militaire, , XV, Roma, 2004, pp. 1603-1616. Cf. Gsell,
7 ) Plutarchus, , 10-12. Cf. Id., , 40; Appianus, , 1, 62; 1, 80.
8 ) Sal., , 17, 7. サルスティウス、栗田伸子訳『ユグルタ戦争/カティリーナの陰謀』岩波文庫、2019 年、37 頁では「王ヒエムプサルのものと言われるポエニ〔語〕の書物」と訳されているが、王の名は属格であり所 有者とも著者とも解し得るうえ、ユグルタと同時代の王ヒエンプサル 1 世とも同定し得る。栗田訳、285-286
頁の ではヒエンプサル 2 世の可能性が高いとする。Sallust, ,
translated by J. C. Rolfe, revised by J. T. Ramsey, Cambridge, Mass. and London, 2013, p. 206; G. M. Paul, , Liverpool, 1984, p. 74 も同様。V. J. Matthews, The Libri Punici of King Hiempsal, , 93(2), 1972, pp. 330-335 もヒエンプサル 2 世のものと解し、カルタゴ陥落 後ヌミディア王家に移管されたポエニ語文献だったとする。他方、G. Camps, Hiempsal(Iemsal), , 23, Aix-en-Provence, 2000, pp. 3463-3464(http://journals.openedition.org/encyclopedieberbere/1592: 2020 年 8 月 24 日閲覧)は、ヒエンプサル 2 世の著作ならば著者はより明確な表現をしたはずだとし同 1 世の 著作とする。R. Syme, , Berkley, 1964, pp. 153; 373 も同様。 9 ) Liv., 50, 6. 10) Plutarchus, , 55. 訳文は、村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝・下』ちくま学芸文庫、1996 年による。 11) Sal., , 14, 1. 訳文は、上記栗田訳による。以下同様だが、必要に応じ表記を改めた。 12) Liv., 42, 29, 9. 13) Suet., , 71. 訳文は、スエトニウス、国原吉之助訳『ローマ皇帝伝・上』岩波文庫、1986 年によるが、一部 改めた。 14) J. Alexandropoulos, , Toulouse, 2007, pp. 173-186. ただし、アルジェリアのシェルシェル出土でルーヴル美術館所蔵のユバ 1 世とされてきた有髭の頭部像は、近 年の研究では同定を否定され、神像の頭部とされている。詳しくは、C. Landwehr,
, Mainz, 2006, pp. 85-87, no. 256, Tafel 68 参照。 15) Cic., , 1, 11 ; 2, 58-59. Cf. Braund, , p. 59.
16) Cic., , 2, 58. Cf. G. Manuwald, Agrarian Speeches , Oxford, 2018, pp. 142f.; 316.
17) Manuwald, , pp. XXIV-XXVI; M・ゲルツァー、長谷川博隆訳『キケロ』名古屋大学出版会、2014 年、 57-61 頁;C・ハビヒト、長谷川博隆訳『政治家キケロ』岩波書店、1997 年、48-51 頁。
18) この称号をめぐる Mommsen 以来の研究史については、M. F. Cursi, International Relationships in the Ancient World, , 20(1), 2014, pp. 186ff . が手際よくまとめている。
19) M. R. Cimma, , Milano, 1976. 20) Dio Cassius, 41, 42, 7. Cf. Gsell, , p. 24; Cimma, , pp. 245-247. 21) Sal., , 14, 2; 24, 3.
22) Paul, , pp. 56f. 23) Cimma, , pp.188f. 24) Gsell, , p. 2.
25) E. S. Gruen, , Berkeley, 1974, pp. 470-483; W. K. Lacey, The Tribunate of Curio, , 10(3), 1961, pp. 318-329.
26) ウァルスの名は市壁の修復を伝える , VIII, 979 = 24099 = , 5319 = , 519 でも見られる。 27) Le Bohec, op.cit., p. 1615.
28) Luc., 4, 715-730. 訳文は、ルーカーヌス、大西英文訳『内乱:パルサリア』岩波文庫、2012 年による。以下同 様だが、必要に応じ表記を改めた。また、邦訳に付された行数は原文に一致していない。
29) A. W. Lintott, Lucan and the History of the Civil War, , 21(2), 1971, pp. 488-505; C. Martindale, The Politician Lucan, , 31(1), 1984, pp. 64-79.
30) Fron., , 2, 5, 40; Appianus, , 2, 45; Dio Cassius, 41, 41, 4-41, 42, 6. Cf. L. Morgan, The Autopsy of C. Asinius Pollio, , 90, 2000, pp. 51-69; Gsell, , pp. 9f.
31) Dio Cassius, 41, 42, 2 と比較せよ。Cf. L. Grillo, Bellum Civile , Cambridge, 2012, pp. 32ff .; 106-130.
32) Caes., ., 2, 44, 2-3. Cf. Appianus, , 2, 46; Dio Cassius, 41, 42, 6.
33) Julius Caesar, , translated with
an Introduction and Notes by J. Carter, Oxford, 1998, p. 288.
34) Plutarchus, , 55; Appianus, , 2, 101; Dio Cassius, 43, 19, 1. Cf. C. H. Lange, Triumph and Civil War in the Late Republic, , 81, 2013, pp. 67-90, 特に 76.
35) Caes., ., 3, 103-104; Vell., 2, 53, 2-3; Luc., 8, 456-711; Appianus, , 2, 83-85; Plutarchus, ., 77-79; Dio Cassius, 42, 2, 4-42, 4.
36) Vell., 2, 53, 1; Luc., 8, 276-288; Appianus, , 2, 83; Plutarchus, , 76, 7. 37) Luc., 5, 56-57. 38) Cic., , 7, 3, 3; Pultarchus, , 57, 5. 39) , 1, 4. 訳文は、高橋宏幸訳『アレクサンドリア戦記/アフリカ戦記/ヒスパーニア戦記』岩波書店、 2016 年による。以下同様だが、必要に応じ訳文を改めた。なお、Suet., , 66 は、ユバ王が 10 個軍団と 3 万 の騎兵、援軍軽装兵 1 万、象 300 頭を動員したと伝えるが、カエサルが兵士を鼓舞するのに敵方の兵力を増 やして伝えた例であり、実数はより少なかったと考えらえる。
40) , 55-56; 68, 4. Cf. Gsell, , pp. 112f.; K. A. Raafl aub(ed.), , New York, 2017, p. 586.
41) Dio Cassius, 43, 4, 6.
42) ヘレニズム諸王国および共和政期のローマにおける紫衣の利用状況のついては、M. Reinhold, , Bruxelles, 1970, pp. 29-47 を参照。
43) 高橋訳、前掲書、86-87 頁、 14。
44) Pseudo-César, , texte établi et traduit par A. Bouvet, corrigé et augmenté par J.-C. Richard, Paris, 2002, p. 98. なお、Raafl aub(ed.), , p. 556 では、ユバ王がこの時アフリカ属州にはいなかったこ とも理由とするが、演説の実施場所もユバ王の詳しい所在も不明な以上、根拠としては薄弱。
45) Raafl aub(ed.), loc.cit.
46) 「アフリカ」はエジプトを除く地中海南岸の大陸を示す場合も多いが、本来は現在のチュニジア北部の狭い領 域を示し「ヌミディア」とは区別される。詳しくは Lassère, , pp. 21f. を参照。例えば、 , 22 では 「シチリア、アフリカ、ヌミディア、マウレタニア」が列挙されている。 Cf. , 8.
47) S. G. Chrissanthos, Caesar and the Mutiny of 47 B.C., , 91, 2001, pp. 63-75 は、『アフリカ戦記』のこの箇所 でも言及されるカエサル軍兵士たちの暴動が、カエサルの一言で鎮圧されたという通説的な見方とは異なり、 実際には深刻だったと主張する。ユバ王の自信にも根拠があったと言えるかもしれない。
48) Dio Cassius, 42, 57, 1-2. Cf. Vell., 2, 54, 2; Pultarchus, , 57, 1-3. 49) Dio Cassius, 41, 42, 7.
51) 引用したように、高橋訳ではキルタ陥落の功績をシッティウスに帰す。ただし、ラテン語原文では、それま でシッティウスとボックス王の 2 人が主語であったのに対し、ここで述語が突然 3 人称単数(capit)に変化 しており、主語は明示されていない。そのため、Raafl aub(ed.), , p. 561 ではボックス王を主語とし、 Bouvet / Richard(éd.), , p. 24 の仏訳では述語を複数形とし主語は限定しない。本稿では、後述する ように、戦後シッティウスがキルタの支配者としてカエサルに認められたことを踏まえ、高橋訳に従う。な お、Appianus, , 2, 96 では、キルタ陥落はボックス王の功績とされるが、Dio Cassius, 43, 3, 2 が示すよう に、シッティウスがボックス王配下にあったとの理解によるものであろう。Dio Cassius, 43, 3, 3-4 では、ユバ 王進発後、シッティウスが西からヌミディアに侵入したとされる。 52) N. Benseddik, , Arles, 2012, pp. 29ff . 53) Sal., , 23, 1. 54) Sal., , 21, 2; 26, 1-3. Cf. J. Löffl , , Berlin, 2014, pp. 139-154; 栗田伸子「ヌミディア王国と negotiatores:ローマ共和政期における「クリエ ンテル王国」の一断面」倉橋良伸・栗田伸子・田村孝・米山宏史編『躍動する古代ローマ世界:支配と解放 運動をめぐって』2002 年、理想社、101-136 頁。 55) Caes., ., 3, 102, 6-7. 56) Luc., 9, 248.
57) , 93, 3; 95 ; Appianus, , 4, 54 ; Dio Cassius, 43, 8, 4.
58) , 96 ; Liv., , 114; V. Max., 3, 2, 13 ; Appianus, , 2, 100-101, Dio Cassius, 43, 9, 5. 59) Gsell, , pp. 156-161; Benseddik, , pp. 36f.; Lassère, , p. 110.
60) Sal., , 19, 5.
61) Suet., ., 6, 1; Plutarchus, , 5, 2-5.
62) Bouvet / Richard(éd.), , pp. 31-32; 高橋訳、前掲書、99 頁、 27。Cf. Dio Cassius, 43, 4, 2. 63) Cic., , 7, 3, 3.
64) , 26, 1-2; 29, 2-3; 33; 36, 2-3; 37, 2; 67, 1; 74, 1; 77, 1-2. 65) , 55, 2. Cf. Dio Cassius, 43, 3.
66) Dio Cassius, 43, 8, 3 では王の逃亡が語られるのみ。また、Plutarchus, , 53, 1-3 も参照。
67) , 94. この部分は、写本上、ユバがペトレイウスを殺したあと自決したとされているにもかかわらず、 ペトレイウスがユバを殺したと主語が入れ替えられることが多い。Liv., , 114 などとの整合性を図るため とされるが、他の史料では、ユバがペトレイウスを殺したあと自決、相討ち、個別に自決など様々であり、 この変更も必ずしも説得力を持たない。詳しくは、W. C. McDermott, M. Petreius and Juba, , 28(4), 1969, pp. 858-862; Gsell, , pp. 152ff . を参照。
68) , 97, 3. ここで言及される町がレプティス・マグナ(現リビア)ではなく、レプティ・ミヌス(現チュ ニジア)であったとの見方もあるが、ここでは R. M. Haywood, The Oil of Leptis, , 36(3), 1941, pp. 246-256 に従う。Gsell, ., p. 153, n. 5 も参照。
69) Caes., ., 2, 38.
70) Luc., 9, 948-949. Cf. Gsell, , pp. 32f.
71) Caes., ., 2, 36. この訳文の引用に関しては、國原訳では市内の分裂状況が明確ではないため、カエサル、高 橋宏幸訳『内乱記』岩波書店、2015 年によった。詳しくは、Julius Caesar, , edited with an Introduction, Translation & Commentary by J. M. Carter, Warminster, 1991, pp. 235f. 参照。 72) Cic., , 22, 51.
73) , 87, 3-8; Plutarchus, , 65, 3-6.