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幕末期における西周の憲法理論-1- 利用統計を見る

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幕末期における西周の憲法理論-1-著者

松岡 八郎

著者別名

H. Matsuoka

雑誌名

東洋法学

30

1・2

ページ

43-57

発行年

1987-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003576/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

幕末期における西周の憲法理論︵一︶

松岡 八

 西周︵一八二九年−一八九七年︿文政一二年ー明治三〇年﹀︶は、周知のように、津和野︵島根県︶藩医の家に生 まれたが、幼い時から儒学に志し、やがて青年期には脱藩して洋学をも修得し、津田真道たちとともに幕府派遣の最 初のオランダ留学生に選ばれ、ライデン大学教授シモン・フィッセリング︵ωぎ8≦器豊轟︶博士のもとで、法学、 経済学など五科の学問を修めて帰朝し、幕末期においてその新知識によって第一五代将軍徳川慶喜の種々な諮問に答 え、明治維新後はまたその新知識をもって新政府に仕えるとともに、福沢諭吉、津田真道、加藤弘之らとならんで森       ︵1︶ 有礼が企図した﹁明六社﹂にも参加して、その特異な功利主義的道徳論︵例えば﹁人世三宝説﹂︶の立場から、広く        ︵2︶        ︵3︶ 国民を啓蒙した学者であった。さらに明治七年︵一八七四年︶出版の﹁百一新論﹂において、哲学という言葉をわが        ︵4︶ 国の公刊書としては初めて使用したことから、 ﹁哲学の祖﹂とも称されている。このように西は、幕末期から明治期

    東洋法学      

四三

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶      四四        ︵5︶ にかけて近代西洋の学問や思想の移植に努めた﹁哲学的エンチュク灘ペディスト﹂であったことはよく知られている ところである。  そこで本稿の目的は、西が慶応三年︵一八六七年︶コ月、将軍慶喜のために作成して提出した、またわが国にお         へ6︶       へ7︶ いて最も古い憲法草案とも称されている、 ﹁議題草案﹂を主要な素材として、西がこの草案を提出したころのーそ れは慶喜が大政奉還をしたころでもあるがi換言すれば、幕末期における西の憲法理論を大政奉還の政治過程との 関連のなかで解明してみようとするものである。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶  ﹁入ノ世二宝タル者三ツァリ、人能ク之ヲ貴重スレハ所謂道徳ノ旨二協フヲ以テ、之ヲ眼目トシテ己レヲ脩メ人ヲ治ムル        マメ    チエ    きリャヤ ノ事二服行スヘシト云フコナリ、而其三宝トハ何物ナルヤト云フニ第一二健康、第ニニ知識、第三二富有ノ三ッノ者ナリ、﹂ ﹁人世三宝説﹂はもとは﹁明六雑誌﹂の三八号︵明治八年六月刊︶、三九号︵明治八年六月刊︶、四〇号︵明治八年八月刊︶、 四二号︵明治八年一〇月刊︶に掲載きれたが、 ﹁明六雑誌﹂が四三号をもって廃刊となったため、掲載が中絶された。その 後の論文を含めて、全文については、大久保利謙編﹁西周全集﹂︵宗高書房︶一巻五一四ー五五四頁参照。  この﹁百一新論﹂は、西が将軍慶喜に呼ばれて京都に滞在していたころ︵慶応二年九月から慶応三年一二月まで︶に書か れたものといわれている。 ﹁西周全集﹂前掲 一巻 解説 六三四!七頁 参照。また森林太郎︵鴎外︶﹁西周伝﹂﹁鴎外全 集﹂︵岩波書店︶三巻 二二〇頁には、﹁百一新論京都に在る時の著なり。稿本なし。﹂とある。  ﹁百一新論﹂﹁西周全集﹂前掲 一巻 二八九頁 参照。  桑木厳翼﹁明治の哲学界﹂︵申央公論社︶七一頁参照。  船山信一﹁明治哲学史研究﹂︵ミネルヴァ書房︶六頁 参照。  わが国において、 ﹁古くは、聖徳太子の十七憲法以来、開治十年頃に至るまでは、憲法といへるは、一般の法令といふ意

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  味であり、近代的意味に於ける﹃コンスチチューション﹄ ﹃フヱルアッスング﹄の語に当る語として用ゐたるは、明治六年   箕作麟祥が、仏蘭西憲法を訳したときに用ゐたのであるが、未だ一般に行はれず、それが成語となったのは、開治十五年伊   藤博文が憲法取調として欧洲へ出張の頃からであり、現行憲法︵大日本帝国憲法!筆者注︶起草に際し確定語となったので   ある。此意味に於て、最も早く我邦に紹介せられた憲法は、天保十四年︵一八四三年︶杉田成卿が幕命に依り翻訳したの   が、恐らくは、最も早きものであったらう。﹂尾佐竹猛 ﹁維新前に於ける憲法草案﹂ ﹁帝国学士院紀事﹂ 一巻 二号 三   二七頁 参照。 ﹁大槻如電の﹃新撰洋学年表﹄を見ると、天保十四年︵一八四三年︶に、幕府天文方の訳官杉田成卿が、オ   ランダ五法の一部として憲法を訳したことが誌されている。これは時の閣老水野越前守が外国の諸制度を翻訳せしめた中   に、たまたま憲法もあったという程度で、実際政治に役立ったかどうかは明らかではないが、西洋憲法の紹介としては、恐   らくこれが最初のものであろう。﹂ 大久保利謙 ﹁開治憲法の出来るまで﹂︵増補版︶︵至文堂︶三ー四頁 参照。大槻如電   修﹁新撰洋学年表﹂︵柏林社書店︶一二八頁 参照。 ︵7︶ 本稿においては、 ﹁議題草案﹂をもって西欧的な意味における憲法の草案として理解している。なお西には、明治一四な   いし一五年ごろ、山県有朋の命によって作成され、報告されたといわれている﹁憲法草案﹂があるが、ここでは研究の対象   としていない。その﹁憲法草案﹂の全文については、 ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一九七ー三二七頁 参照。この﹁議題草   案﹂は﹁上﹂と﹁別紙議題草案﹂とを一括したものである。その全文については、﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一六七!一   八三頁 参照。ここに﹁議題﹂とは会議︵議会のこと︶の仕法のことをいう。 二  そこで、前述のような本稿の目的である、幕末期の大政奉還の政治過程との関連における西の憲法理論を明らかに するためには、まず西が﹁議題草案﹂を提出するにいたった直接の経過について説明することが順序であろうと思わ れるのであるが、さらにその前に、西の出生からそれを提出するにいたるころまでの経歴や学問・思想についても述     東洋法学       四五

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶      四六 べる必要があるのではないかと考える。   ︵1︶       ︵2︶       ︵3︶  西周は、シーボルト事件が起こっていたころ、当時は蘭学がようやく本格的に研究きれ始め、活発化しようとして       みち いたころであるが、文政︸二年︵一八二九年︶二月三日、津和野藩亀井家の藩医の家に父時義の長男︵幼名経太郎︶       やす      ・      ︵4︶ として生まれたが、祖父時雍の愛情と影響のもとで幼いころから学問を好み、僅か四才にして祖父より﹁孝経﹂を、 また六才にいたると四書を習い、祖父の死後、天保一一年︵一八四〇年︶には藩校養老館に入学して、藩校の正統な  ︵5︶       ︵6︶ 学問であった朱子学を学び、そのころはみずからも朱子学をもって孔孟の正統を継ぐ学問であり、千古不易の定説で        ︵7︶ あると考えていた。したがって、但篠学などに対してはあたかも仇敵に対するかのような態度を採っていた。ところ が一八才の時、たまたま、 ﹁異端之書﹂と思っていた荻生但篠の書物を読むにいたって、初めは全く理解できなかっ たが、次第に興味深くなり、ついには、厳毅窄追の宋学9朱子学は平易寛大な古学縫祖篠学に及ばないこと、朱子学 の空理は日用に無益であって、礼楽が重要であること、また人欲は浄め尽すことはできないことを悟るにいたったの   ︵8︶ である。  こうして西は、その学問的志向を朱子学から但篠学へと変化させていったが、ここに、現世主義、実用主義、人欲 の肯定という、後年の洋学を学習した結果にもとづく思想への萌芽をみることができるであろう。だがいうまでもな く、朱子学を全く放棄してしまったわけではなくて、この但彿学へ開眼したころからの思想は、朱子学の自然主義と 但篠学の実用主義との結合物であったといわれており、その意味では西の祖篠学への変化は中途半端なものであっ ︵9︶ た。

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 このように幼時からすぐれた能力に恵まれて儒学に励んできたことからして、西には人生における最初の転機がも たらされた。それは、嘉永元年︵一八四八年︶二月一日、藩命により一代還俗して家職である医業をやめて、儒学を 修行するように命ぜられたことである。すなわち、儒学を専修する儒学者への道が開かれたのである。同年七月一八 日にはまず養老館句読となり、きらには一層修学せんがために、藩より三年間の遊学の許可を得て、嘉永二年一〇月 一九日津和野を出発し、大阪の後藤松陰︵頼山陽門下︶の塾に入り、また嘉永三年一〇月七日には岡山学校︵熊澤蕃 山が開く︶に入学して、学問修行を行なった。嘉永四年一〇月二二日帰藩したが、同年二月一九日には藩主亀井弦       ︵10︶ 監に召されて、﹁孟子﹂﹁天時不如地利﹂の章を講義し、翌五年九月には培達塾の塾頭兼授読教官署番に任命された。  このように着実に儒学者への道を歩んでいた西には、さらに第二の転機が訪れてくることになる。それは、嘉永六        ︵11︶ 年二月一日江戸御留守詰時習堂講釈に任命されて、出府することとなったことである。だが、たまたま同年四月、津 和野に大火が起こり、その出発を延引さぜるをえなくなっていたが、同年六月、アメリカのペリーが来航したため、       ︵12︶ 藩は、 ﹁幕府の命を待たずして、藩士若干名を江戸に遣り、以て沿海防禦の用に備へん﹂として、西が急ぎ派遣され ることになり、七月二八日には江戸藩邸に到着するにいたった。この出府が西に大きな転機をもたらすことになる。  同年冬、西は藩医野村春岱から初めて﹁和蘭文典﹂を学び、西洋の学問への眼が開かれるにいたった。 ﹁余にして       ︵13︶ 今より後身を立て道を行はんと欲せば、西学寛に闘くべからず﹂と考え、現在の儒学者の職を放棄しても、今後の生 涯にとってぜひとも必要な洋学を学ぶべきことを痛感したのである。だが、 ﹁小藩に仕へ、環事の為めに役せらる\       ︵M︶ ものは、縦令間を楡みてこれを講ずとも、恐らくは精通熟達の期なからん。﹂として、洋学を大成するためには、現     東洋 法 学      四七

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶       四八        ︵蔦︶ 状のままの境遇では到底不可能であることを考慮し、 ﹁若かず一旦君父と絶ちて、専心事に従はんには﹂と決意し        ︵16︶      ︵茸︶ て、翌安政元年︵一八五四年︶三月下旬、断然、遺書を残して脱藩し、主君や家族と断絶して、重大な決意をもって 洋学に専念することとしたのであった。       ︵18︶      ︵1 9︶  こうして儒学から洋学に転じた西は、脱藩という重罪を犯しながらも、その結果としての浪人という困難な条件の もとにありながらも、中島玄覚、松岡燐次郎、鈴木雄蔵などの友人の助力を得ながら、それ以後、杉田成卿、手塚律        ︵20︶ 蔵などについてオランダ語を懸命に学び、さらに安政三年には手塚の勧めによって英語をも修めることとなり、申浜       ︵21︶ 萬次郎から英語の発音法を学んだ。このような熱心な勉学−殊に英語の修得iが実を結び、特に手塚の推薦によ って、安政四年五月四日、津田真道とともに藩書調所教授手伝並に任命され、幕府に洋学者として職を得たのであっ ︵22︶       ︵23︶ た。こうしてようやく、西は洋学者として認められるにいたった。        ︵忽︶  同年一〇月には、賢君の評判が高かった一橋慶喜に対して、北海道開拓に関する長文の建議を水戸の友入・菊地忠 を介して提出した。その建議の大要は、次のようである。当時、欧米先進諸国がわが国に開国を強要して圧迫し軽蔑 しているのは、 ﹁強ち大砲の利と船艦の大とを侍み侯儀には無之、実は制度の便なると人材の謄なるとを侍居侯事に 御座侯。﹂として、物質的軍事的条件の優秀性よりも、制度や人材の面においてわが国よりもすぐれていることが、 欧米の頼みとするところであると述べ、それではわが国がこの﹁制度の便なると人材の謄なる﹂とにおいて欧米より も劣っている原因はどこにあるかといえば、それは﹁上下整習﹂の二つの弊習にあるとする。 ﹁上之繁習と申侯は、 総て人君たる者の身構甚高過侯事に御座候。﹂ すなわち、上にある者が﹁驕移奢美﹂に陥っているという弊習が、そ

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の第一の原因である。また﹁下之繁習と申侯は人臣たるもの惰弱にして事を事とせず徒に名聞を馳することを謀侯事 に御座侯。﹂すなわち、下にある者が長年の太平に慣れて、﹁瀬惰名聞﹂を好むにいたったという弊習が、その第二の 原因である。このように﹁上は身構太高く諸事手重に相成、下は瀬惰名聞を好﹂むようになると、さらに第三の弊習 を生ずるにいたる。それは﹁萄且姑息﹂という弊習であり、 ﹁此萄且姑息は如何なる御良政をも其実を失ひて虚飾に 帰せしめ﹂るというものであり、﹁筍も萄且姑息の輿存侯限は、国体不可正外侮不可禦して、不慮の繁端相踵いで生﹂ ずるような憂うべきことになるであろう。したがって上にある者は、機会を得て、これらの弊習が拡大しないよう に、殊に人材の登用に努めることこそ肝要であり、また現在、欧米先進諸国がわが国を圧迫している状況にあるが、 この時こそ国内の種々な弊習を改める絶好の機会でもある。そこでこのような意味において、上に立つ者が早急に取 り上げねばならない問題こそ、北海道開拓の問題ではないかと思われる。こうして国内の弊習を取り除き時局を打開 する具体的問題として、西は北海道開拓問題を提案するにいたるのである。  北海道は、地理的にロシアと近接する重要な位置にあり、また地下資源や農産物も豊富で、幕府によって当時すで に開発が開始されてはいるが、それはまだ緒についたばかりである。担シアは近年領土的野望をたくましくしてきて おり、アメリカやイギリスも北海道に注目しており、したがってその開拓を一層早急に進めることが必要であると老 えられる。そしてその大任を引き受けるべき人物こそ、﹁水府前中納言様より被為受継侯御叡明と奉申、御徳望之大、 御威光之盛、天下下々迄奉感服居侯儀に有之、且乍恐御春秋に被富侯﹂一橋慶喜以外にはないと考えられる。その開 拓の方法としては、まず開拓に要する人員は諸国より﹁篠役﹂を徴し、それらを移住せしめて行ない、その費用はそ     東洋法学       四九

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶      五〇 れぞれの領主がこれを支弁する。慶喜自身率先して北海道へ渡り、その地勢などについて十分な調査を行ない、その 配下の人材の登用については、怠情筍安の弊習が起こらないように留意し、軍備の充実をはかるとともに、産業の開 発に努めるようにすべきであると建議している。  右の建議からも明らかなように、西は儒学を修めた洋学者という立場から、広く内外の状勢を判断しており、当時 のわが国の弱点や欠点を、ただ物質的、軍事的、さらにいえば自然科学的劣性の問題としてのみ把握するのではなく、 制度や人材、換言すれば、政治や法律や道徳における弊習の問題として把えていることは注目すべきことではないか と思われる。当時、とかくきわめて欧米先進諸国の自然科学的優越性が強調されている状況のもとで、その政治、法 律、道徳などの優透性を認識していることは高く評価してよいであろう。またこれはやがて西欧への留学によってそ の政治、法律、道徳などを学ぼうとする素地がようやく出来つつあることを示しているといってよいであろう。そ してこのようなわが国の弱点、欠点を是正する方策として、北海道開拓問題を西は採り上げたのであるが、この問題 については、すでに幾多の人々が提案し議論してきており、かならずしも目新しい問題ということはできない。ただ それを実行する申心的入物として慶喜に非常に期待していることは注目に価する。慶喜は水戸藩という名門の出身で あり、賢才の誇れが高く、春秋に富んでおり、その意味においてまさに適任であるということができようが、だが将        ︵25︶ 来、将軍ともなるべき人物であったことを考えるとき、果して適当であったか、どうか、疑問とせぎるをえない。  右の建議に対して、慶喜からはなんの返答も得られず、結果的には無意味に終わったが、右の建議は、若き洋学者 西が時局を打開しようとする、情熱あふれる真摯な方策を示したものであったことは疑いないところであろう。

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 安政六年三月二五日、西は石川ます子と結婚し、また同年五月には藩書調所教授手伝に昇進して、さらに重用され        ︵26︶ るにいたったが、当時、津田真道と同様、きわめて強い海外留学の希望をもっていた。そこで二人はその留学を実現 すべく、幕府有司に働きかけたが、なかなか成功するにいたらなかった。やがて文久元年︵一八六一年︶、幕府はア メリカに軍艦の建造を委託し、同時に造船技術を習得させようとして、海軍操錬所の士より派遣することにしたが、 藩書調所からも西と津田とを同行留学させることになった。だが、南北戦争が勃発したため、アメリカはこの軍艦建造 を謝絶してきた。こうして軍艦建造も留学生派遣の計画も一時頓挫するにいたったが、幕府はこんどはオランダに依 頼することとなり、交渉したが、オランダは引き受け、ここに軍艦建造と留学生派遣のことが決定し、文久二年六月       ︵27︶ 二日には海軍操錬所組五名と西、津田を合せた計七名に対してオランダ行の命令が達せられた。このように西と津 四の留学は、海軍操錬所組に対して、いわば付属的なものであったのである。  こうして西は人生における最大の転機として、オランダ留学を迎えることになったのであるが、当時の西の心境は       ︵28︶ どのようなものであったのであろうか。これについては、この留学の直前、親友松岡鋳次郎宛の手紙︵文久二年五月 一五日書して、六月二日発した︶にみることができるであろう。その有名な一節は次のようである。  ﹁都下二而は西洋学頗ル流行と申内、彼之水府流之尊王擾夷之説浸潤尤深、頑固難化者故、毎時浪士之騒動有之 侯、政府二而も御苦心被為在侯義と奉存侯、頃者長州家老京師江登り、又嶋津氏浪華之一件杯、御近辺之事故、定而 逐一御承知と奉存侯、何分当今二而は、外国之事よりも内輪之騒動可患、遂二愛親覚羅氏之覆轍を踏侯も、一は朝廷 之国是未タ定さると、一は此徒之暗於知彼知己、漫唱神州皇国、自尊大蔑視他邦より起リ可申哉奉存侯、小生頃来西

    東洋法学      五一

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶       五二 洋之性理之学、又経済学杯之一端を窺候処、実二可驚公平正大之論二而、従来所学漢説とは頗端を異ニシ候処も有之 哉二相覚申侯、尤彼之耶蘇教杯は、今西洋一般之所奉二有之侯得共、毛之生たる仏法二而、卑随之極取へきこと無之 と相覚申候、只ヒロソヒ之学二而、性命之理を説くは程朱二も軟き、公順自然之道に本き、経済之大本を建たるは、 所謂王政にも勝り、合衆国英吉利等之制度文物は、彼尭舜官天下之意と、周召制典型は心二も超へたりと相覚申侯、 実に由斯道而行新政、国何不富、兵何不強、人民何不聯生、棋福何不可求学術、百技何不尽精微と奉存侯、﹂  右の一節に明らかなように、西は、当時のわが国の状況について、江戸においては開明的な洋学がきわめて盛んに 行なわれてはいるが、水戸学流の尊王擁夷の説も浸潤して、それを信奉する頑迷な浪士がいつも騒動を引き起こし、幕 府もこの対策に苦慮しているところであるとし、また、家老長井雅楽の主張する﹁航海遠略策﹂をめぐる長州藩内部 の相剋、薩摩藩島津久光の藩兵を率いての東上など、国内状況が尊譲運動と公武合体運動との二つの大波の間でめま ぐるしく展開して、現在は対外問題よりも、むしろ国内問題の方が憂うべき状況にあるとして、この原因は、一つに は朝廷の国是が不確定であることにあり、他の一つには、 ﹁神州皇国﹂を主張する尊王薬夷の徒が内外のことに無智 であって、自国のことのみをよしとする尊大偏狭にして排他的な考えをもっていることにあるとしている。このよう に幕府に仕える洋学者西は、頑迷固随な尊王譲夷論を手きびしく批判しているが、これに対して西洋の哲学や経世済 民の学としての社会科学については、旧来の漢学とは大いに趣きを異にする﹁公平正大之論﹂であると非常に高く評 価している。ただキリスト教については﹁卑随之極﹂であるとして、全く問題としていない。したがってこのような 西洋の哲学や社会科学を基礎としているイギリスやアメリカの制度文物は、申国において理想とされている発舜の政

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治よりもはるかにすぐれており、もしこの学問にもとづいて新しい政治を行なうならば、国は富み、兵は強力となり、 人民は生を楽しみ、幸福を得るための学問が発達し、技術も精緻をきわめるにいたるであろうと述べている。  右のように西は、国内における尊王譲夷論を頑迷固随として非難し、憂えるとともに、キリスト教を除く西洋の学 問を非常に高く評価して、その学問を大いにわが国に導入し、欧米先進諸国に匹敵しうるような素晴しい国家たらん       ︵2 9︶ ことを望んでいるのである。と同時に、このオランダ留学において西自身も﹁不相変血気頗剛志気未衰﹂の状態のも とで大いに洋学の勉学に励む決意を示したのである。こうして西は、津田とともにいよいよ人生の最大の転機である オランダ留学の途につくことになるのであるが、これはただ単に二人の人生の転機であったばかりでは勿論なく、わ が国の学問にとっても一大転機となったものであり、わが国に学問思想の大きな変化をもたらす壮挙となった。  以上、西のオランダ留学決定にいたるまでの思想や学問の展開について述べてきたのであるが、西は、幼いころか らの儒教の教養ー朱子学の自然主義と復篠学の実用主義との結合ーを基礎として、洋学を学び、広く実用主義的国際 的視野に立って、ものごとを見ることができるようにはなってはきたとはいえ、その西洋の学問についての習得がまだ まだ不十分であり、不確実であった。そこで自ら熱心に運動することによってこのオランダ留学に加わり、西洋の学 問の修得に努めようとしたのである。西はこの留学の目的を次のように述べている。﹁その留学の目的は、我が国は長 期間オランダを除くすべてのヨーロッパ諸国と交渉していませんでした。事情が変って我が国とヨーロッパ諸国との 友好関係が成立したので、我が国は七年前より幾つかの諸国と修好条約を結びました。外交や通商が増加するにつれ て、相違する関係が生ずるようになりましたので、日本政府は我が国にヨー揖ツパの学問や技術を学ぶことが急務と

    東洋法学      五三

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    幕末期における西周の憲法理論︵一︶       五四 なりました。そのため江戸に学校を設立し、諸藩から先生が選ばれ、そこで各種の学問が教育されています。しかし、 学校の整備、学問や技術の教授法も同様にまだ不備不完全です。その学問は物理学、数学、化学、植物学、地理学、 歴史学、それに四ケ国語ーオランダ語、ドィツ語、英語、仏語はただ読解だけであるーなどの部門に関して、僅かに 光が当てられているにすぎません。ヨーロッパ諸国との関係上、また国内の多くの政務、各機関等の改善上からも、 まだまだ有用な学問があり、つまりそのためには統計学、法律学、経済学、政治学、外交などの分野を究めることが 急務です。それにもかかわらず、これらの分野は日本では全く未知の領域なのであります。よって、これらの学問を       ︵30︶ 修得することが私達の目的であります。﹂こうして西は、社会諸科学を学ぶことをもって、この留学の明確な目的と したのである。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶  西の伝記については、有名な、森林太郎 ﹁西周伝﹂ 前掲 四七ー=二六頁 参照 があるが、今目においては不完全 といわれている。蓮沼啓介 ﹁西周の法哲学﹂ 日本法哲学会編 ﹁日本の法哲学 ∬﹂︵有斐閣︶ 一三五f七頁参照。 そこで本稿では、﹁西家譜略︵自叙伝︶﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻 七一九ー七八二頁 参照 および 植手通有責任編集 ﹁西周加藤弘之﹂ ﹁日本の名著﹂︵中央公論社︶ 誕巻年譜 五一二ー五二一頁参照 を併せて使用している。  シーボルト事件が発覚したのは、文政二年八月のことであったが、この事件のために、シーボルト ︵憎窪昼℃ 甲き嫡 く8ω一①ぴoす一お①i一〇 。①①︶ は長崎の出島に軟禁され、翌二一年九月には国外迫放、再渡航禁止の処分を受け、二一月日本 を去った。シーボルトは文政六年長崎オランダ商館付医官として来朝以来、鳴滝塾を設けて、医学、博物学を講義し、蘭学 の学問的水準を高め、内容を豊富にし、学問研究の態度を著しく科学的ならしめて、蘭学の発展・普及に大いに貢献したこ とはよく知られているところである。日蘭学会編  ﹁洋学史事典﹂︵雄松堂出版︶ 三扁二−二頁 参照。  ここで蘭学と洋学との言葉の使いわけについて述べておこう。その使いわけは、﹁幕末の対外危機に対する対応として、

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((

54

))

︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵憩︶ ︵U︶ ︵魏︶ ︵B︶ ︵M︶ ︵焉︶ ︵賂︶ 軍事科学を中心に欧米の技術体系の輸入を意図した段階の欧米学術を洋学とよび、それ以前の長崎を介してのオランダ語の 学習、それにもとづく学術の学習、獲得した知識を蘭学とよぶこととする。蘭学は最も多くの影響を受けた医学の分野にあ っても、科学としての医学の体系を理解することではなく、特定治療分野の技術の学習の意味が強い。洋学にあっては長崎 海軍伝習所・長崎医学校にみるように、総合的な教育制度の下に体系的な科学の教育を前提として受容きれ、幕府の教育・ 研究制度をへて、開治初年の教育・研究制度に、部分的ながら引き継がれていく側面をもっていた。﹂ 古島敏雄﹁科学技術 の発達と洋学﹂岩波講座  ﹁日本歴史﹂︵岩波書店︶ 扮巻 近世4 二五四頁 参照。  年令は数え年を使用している。また明治五年までの月霞は旧暦によっている。  ﹁我藩自山口剛斎先生唱関閲之学、至今人皆講法於程朱焉、而其学実淵源干闇斎山崎先生﹂ ﹁但篠学に対する志向を述べ た文﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 四頁 参照。なお、この﹁志向を述べた文﹂についての解釈については、長尾龍;日 本法思想史研究﹂︵創文社︶ 六ー七頁 によっている。  松本三之介  ﹁日本政治思想史概論﹂︵頸草書房︶ 一ー一四頁 参照。  ﹁復篠学に対する志向を述べた文﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 四!五頁 参照。  ﹁但裸学に対する志向を述べた文﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 五頁参照。  長尾龍一 前掲 八頁参照。  この講義の稿本については、 ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻 一六四ー一七一頁 参照。  ﹁時習堂は江戸新橋藩邸に在りて、月の一六の日ごとに講経の事ありと云ふ。﹂ ﹁西周伝﹂ 前掲 五七頁 参照。 ﹁西周伝﹂ ﹁西周伝﹂ ﹁西周伝﹂ ﹁西周伝﹂ 前掲 前掲 前掲 前掲 五七頁 五九頁 五九頁 五九頁 この遺書の全文については、

東洋法学

参照。 参照。 参照。 参照。 ﹁西周伝﹂ 前掲 五八ー九頁参照。 五五

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( 17 ) ︵⑱︶ ︵19︶ ︵20︶ ︵盟︶ ︵22︶ ︵23︶  幕末期における西周の憲法理論︵一︶      五六  西の親友であった津田真道も洋学を勉学するために脱藩しており、その他、福澤諭吉、中村正道などもこのような脱藩も しくはそれに類する行動をとっている。それらの脱藩の意義については、植手通有﹁日本近代思想の形成﹂︵岩波書店︶ 一 二六ー七頁参照。  当時の洋学者の多くは、雲ず儒学を修め、その後に洋学に進むという経歴をもっていた。﹁これは儒学を基礎とし、儒教 的な観念を媒介として洋学を摂取し、近代西洋の文物制度や思想を理解していったということを意味する。このことは、彼 らのうちに、一面では儒学と洋学、東洋の伝統思想と西洋の近代思想との閥の厳しい緊張意識を生じきせ、封建的な伝統に たいする対決、すなわち啓蒙のエネルギーをもたらすが、他面では無意識的または半ば意識的に伝統思想を存続させ、その 思想に和洋折衷的な傾向をおびさせる。もちろん、このいずれの面が強くでてくるかは入によって異るが、その点には立入 らず、一般的にいうと、幕末から維新当初の時期には、比較的に前者の面が強くあらわれ、むしろその後になって、後者の 面が表面化してくる、ということができるように思われる。﹂ 植手通有 前掲 一二三ー四頁 参照。  ﹁当時藩邸の制門隈に遅る\ものは看て亡命と倣す。周の出で㌧返らぎるや、同僚初めこれを疑ひ、その遺書を読むに及 びて、周が故さらにこ㌧に出でしを知り、胃議りて曰く。周にして亡命せば、その餐父親に及び、他日非を悔いて帰参を乞 ふとも、主家復た特に仮借するに由なからむ。若かずその在る所を捜りて、一たび藩邸に祉き反り、暇を賜はりて去らしめ んにはと。物色数日周を獲て帰る。即日平田宗太夫令して日く。其許儀御場所柄をも省みず、駆落致候段、重き罪科にも処 せらるるべき処、御憐懇を以て格式召上げられ永の御暇被下。尤三箇の津住居公家武家奉公御構被成。此旨可相守云々。其 夜周役舎に宿し、翌昧爽裏門より出づ。﹂ ﹁西周伝﹂ 前掲 五九ー六〇頁参照。  ﹁西周伝﹂ 前掲 六〇∼一頁 参照。  ﹁西周伝﹂ 前掲 六一頁 参照。当時はまだ英語を読むものはほとんどいなかったといわれている。 ﹁西家譜略﹂ ﹁西 周全集﹂ 前掲 三巻 七三六頁参照。  この就職事情については、 ﹁西家譜略﹂ 前掲 三巻 七三四!六頁 参照。  西が蘭学を初めて学び始めたのは、 ﹁鴎外以来の通説である嘉永六年の冬から数年さかのぼらなければならないことにな

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( 24 ) ( 25 ) ︵26︶ ︵27︶ ︵28︶ ︵29︶ ︵30︶ ろう。﹂ とする説もある。だがこの説を裏付ける﹁形跡は今のところ見あたらないが、それからほんの四、五年間で蘭英語 をマスターし、安政四年︵一八五七︶には下役ながら藩書調所の蘭英兼学の教官︵教授手伝並︶に名をつらねるというその 短期完成ぶりからみても、西が江戸へ出る以前、大阪や岡山の漢学塾に藩命で遊学していた期間中︵一八四九f五一︶、蘭 英語の初歩を秘かに学んだということは、十分考えられるのである。﹂福鎌達夫  ﹁明治初期百科全書の研究﹂︵風間書房︶ 三八二i四頁 参照。  その建議の全文については、 ﹁西周伝﹂ 前掲 六二ー七一頁 参照 および ﹁西周全集﹂前掲 一八○⋮一九二頁 参照。なお本稿においては前者を使用している。  すでに嘉永六年六月ニニ日、一二代将軍家慶が死去し、家定が一三代将軍となったころから、慶喜は将来の将軍候補とし て挙げられていた。藤井貞文 ﹁宿命徳川将軍慶喜﹂︵吉川弘文館︶ 二二頁 参照。  ﹁一日真道西と相議して日く、西学の蓋奥を究めんと欲せば、須らく海外に航せぎるべからずと、夙に外遊の意を決し、﹂ 津田道治 ﹁津田真道﹂︵東京閣︶ 一五頁参照。  このオランダ留学が実現するにいたるまでの詳細な経過については、 ﹁西家譜略﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻 七三六f 八頁 参照 および ﹁西周伝﹂ 前掲 七一ー五頁 参照。なお、この七名の外に、長崎養生所の医学を修行する二名の 留学が発令きれ、さらにその外に﹁職方﹂と呼ばれる士分でない技術者七名が加えられ、合計一六名がオランダヘ行くこと になった。この留学生団の構成については、日蘭学会編 大久保利謙編者 ﹁幕末和蘭留学関係史料集成﹂︵雄松堂書店︶ 二九−三七頁参照。  この全文については、 ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 七ー一〇頁参照。  ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 八頁 参照。  渡辺与五郎  ﹁シモン・フィッセリング研究﹂︵文化書房博文社︶ 一七三ー四頁 参照。        ︵未完︶ 東 洋 法 学 五七

参照

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