日本認知・行動療法学会 第44回大会 69
-心理師のための精神科薬物療法の基礎知識:不安と不眠の治療を中心に
○井上 猛 東京医科大学精神医学分野 2000年以降、副作用の少ない新規向精神薬が多数開 発され、また偽薬との大規模な二重盲検比較試験が多 数行われ、精神疾患における薬物療法は大きく変貌を 遂げた。精神科領域は診療ガイドラインの変化が比較 的遅い領域であったが、最近は日進月歩の進化がみら れ、うかうかすると自分の知識が時代遅れで患者に害 をなすものとなってしまう。 本講演では、不安と不眠の薬物療法に焦点をあて て、最新の治療について紹介したい。とりわけこれら の症状については精神療法の効果が期待できるため、 必ずしも薬物療法に頼らなくてもよい。したがって、 精神療法に劣らなないほどの安全性が薬物療法にもと められる。安全性の低い薬物療法を不安や不眠の治療 に適用することは、精神療法に比べて費用対効果が悪 すぎるため、避けたほうがよいという議論が生じるで あろう。 1 不安と不眠に対する薬物の効果の意味 いわゆる精神生理性不眠症に認知行動療法が有効で あり、不眠に対する不安は精神生理性不眠症の精神病 理の重要な症状である。一方、不安症においても認知 行動療法などの精神療法は有効であり、しばしば不眠 症状を伴う。しかも、両者のみならず、多くの精神疾 患に共通なことは偽薬反応が高いことである。偽薬反 応にはいろいろな要素が寄与していると思われるが、 精神療法的な対応が大きく関与していると思われる。 したがって、極論すると、偽薬を与薬してもかなりの 有効性を期待できるが、実臨床では偽薬を与薬するこ とは不可能である。もちろん実薬のほうが偽薬よりも 効果は上回るが、副作用も多い。 2 不安症の薬物療法の基本とエビデンス 最近20年間で不安症の薬物療法は大きく様変わりし た。国際的には、1990年代には、GABAA受容体のベン ゾジアゼピン認識部位にアゴニストとして作用する薬 物[ベンゾジアゼピン(BDZ)系抗不安薬]の他、選 択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)、セロトニ ン(5-HT)1A受容体アゴニスト、セロトニン系に作用 する三環系抗うつ薬、モノアミン酸化酵素阻害薬など が不安症に有効であることが多くの偽薬対照無作為化 対照試験により明らかになっていた。一方、我が国で は1990年代はBDZ系抗不安薬が不安症治療薬の中心で あり、1996年に5-HT1Aアゴニストのtandospironeが神 経症と心身症に対して承認され、1999年になってはじ めてfluvoxamineが強迫症に適応を取得した。BDZ系抗 不安薬の作用機序はGABAA受容体に対する陽性のアロ ステリック調整効果であり、アルコールやバルビツー ル酸系薬物と同じ受容体に作用するため、相互作用が 生じる。BDZ系抗不安薬には、依存性、認知機能障害 (認知症の悪化、せん妄惹起)、筋脱力(高齢者で転倒、 骨折)、自動車の運転ができない、などの多くの問題 点が指摘されてきたが、1990年代までは我が国では他 に替わる薬物がなかったため、広く使われてきた。し かも、BDZ系抗不安薬はすべての不安症に有効とはい えず、強迫症や心的外傷後ストレス障害(PTSD)には 有効とはいえなかったので、「抗不安薬」という言葉 があたかも不安症に万能のような誤解を与えかねな かった。 一方、海外では、膨大な数の偽薬を対照とするSSRI の無作為化対照試験が行われ、パニック症、全般性不 安症、社交不安症、強迫症、PTSDへの有効性が証明さ れ、適応が承認されていた。したがって、SSRIこそが 真の抗不安薬であるといえるのであり、BDZ「抗不安 薬」という言葉に惑わされないことが肝要である。 1999年以降は我が国でも 4 種類のSSRIが臨床導入さ れ、強迫症、パニック症、社交不安症、PTSDに健康保 険適応が認められ、公式な不安症の治療として認めら れた。日本では全般性不安症の適応はSSRIには認めら れていないが、治験が成功していないからである。 SSRIの利点は、BDZ系抗不安薬の重大な欠点である、 依存性、認知機能障害、筋脱力、自動車の運転ができ ない、という問題点がSSRIにはないという点である (ただしfluvoxamineのみ自動車運転は不可である)。し たがって、吐き気などの副作用でSSRIを服用出来な い、精神科的併存症として双極性障害に罹患している 等のことがない限り、BDZ系抗不安薬はできるだけ頓 用あるいは急性期使用にとどめて、SSRIを不安症薬物 療法の第一選択として用いたほうがよい。さらに、健 康保険診療の観点から考えると、BDZ系抗不安薬の適 応は「神経症における不安・緊張・抑うつ」と心身症 に認められており、残念ながら現在の精神疾患分類に 基づいた適応は認められていない。このことはBDZ系 抗不安薬のパニック症などの病名への適応を否定する ものではなく、保険診療上はこれらの病名へも承認さ 教育講演 2日本認知・行動療法学会 第44回大会 70 -れるが、不安症亜型に対するBDZ系抗不安薬の臨床試 験が日本では行われたことがないということを意味し ている。 SSRIが理想的な抗不安薬かというとそうともいいき れず、治療初期の悪心・嘔吐、長期使用後の中止後症 候群、性機能障害、気分障害患者における躁転・不安 定化、いわゆるactivation症候群、妊娠中に服用した 場合の新生児遷延性肺高血圧発症などの問題点も有す る。したがって、これらの問題のためSSRIを使用出来 ない場合には、BDZ系抗不安薬が選択されうる。 3 SSRIの抗不安作用の作用機序 SSRIがすべての不安症(強迫症、PTSDも含めて)に 有効であることが明らかになったことは精神科診療に おいては大きな進歩である。しかし、「SSRIは何故不 安症に効果があるのか?」という作用機序についての 疑問が解決されていないことは憂慮すべきことであ る。SSRIによって脳全体の細胞外(シナプス間隙の) セロトニン濃度が上昇するが、増えたセロトニンはど のような作用によって不安を抑制するのであろうか。 全ての医学的治療はその作用機序が明らかにされるべ きであるというのが演者の信念である。そうでなけれ ば、精神科の治療は医学(科学)とはいえないし、民 間療法と大差がなくなってしまう。 長い間、セロトニン系抗不安薬がどのように不安症 状を改善するのかはブラックボックスのままであった が、演者らは動物の恐怖条件付けモデルを用いてSSRI の抗不安作用の作用機序解明を目指してきた。1990年 代よりバプロフの古典的条件付け学習である恐怖条件 付けモデルを用いた脳局所破壊実験研究が多数行わ れ、恐怖条件付けの神経回路は2000年にはかなり詳細 に明らかになった。その結果、条件刺激である音と文 脈(状況)による刺激情報はそれぞれ両側の扁桃体の 外側核と基底核に入力し、そこで扁桃体中心核に情報 が伝達され、最終的には中心核から様々な神経核に出 力されて様々な恐怖反応を惹起する。 行動薬理実験によって、恐怖条件付けはセロトニン 系抗不安薬の薬理作用の解明に有用なモデルであり、 セロトニン系抗不安薬の抗不安作用を鋭敏に検出する こと、SSRIの作用部位は扁桃体基底核のグルタミン酸 神経であること、などが明らかになってきた。SSRIと 5-HT1Aアゴニストは5-HT1A受容体などを介して扁桃体 の神経活動を減弱し、不安・恐怖を減弱すると考えら れる。恐怖条件付けの発現過程では内側前頭前野にお けるセロトニンがまず活性化されるが、恐怖に繰り返 しさらされると扁桃体のセロトニンも活性化する。扁 桃体のセロトニン活性化は不安・恐怖症状を惹起する というよりは、不安・恐怖症状を緩和しようという生 体側の反応であり、セロトニン系抗不安薬は扁桃体に おけるセロトニン系の機能を増強して不安・恐怖を減 弱する作用を有すると考えられる。 4 ヒトにおける不安と扁桃体 ヒトにおける研究でも扁桃体は不安(恐怖)の中枢 であり、扁桃体の損傷で不安は低下し、不安により扁 桃体が活性化する。fMRI研究により、特に社交不安症 の症状と扁桃体活性化の密接な関係が明らかになって きた。最近、SSRIの社交不安症に対する効果が扁桃体 抑制作用によることがfMRI研究により示唆されてお り、上述した動物実験からえられた仮説が支持されて いる。 今後、動物実験やヒトの画像研究により、不安・恐 怖の神経回路、SSRIなどの抗不安薬の作用機序が明ら かになることが望まれる。抗不安薬の作用機序は、疾 病教育のために治療開始の際に患者や家族に説明され るべきであるし、学生や研修医の講義や勉強会でも解 説されるべきであると演者は考える。精神科以外の診 療科の治療薬では作用機序が明解に解明されており、 どのように効果が発揮されるのかが患者や家族に説明 されるのが一般的である。何故効果があるかわからな いのにもかかわらず精神科薬の治療を受けることは、 多くの人にとって疑問を感じることではないだろう か。 教育講演 2