2017 年 3 月 15 日受理 連絡責任者:谷川元一(tanigawa-motokazu@offi ce.pref.nara.lg.jp)
奈良県農業研究開発センターの 120 年の歴史と現在
谷川元一
奈良県農業研究開発センター(〒 634-0813 奈良県桜井市池之内 130-1) 奈良県農業研究開発センター(以下,センターと略す) は 2015 年に設立 120 年を迎え,翌年には長年慣れ親しん だ橿原市四条町を離れ,桜井市池之内へ移転した.橿原市 で開催された 2015 年度近畿作物・育種研究会の大会で, 世話人である京都大学大学院農学研究科の稲村教授のご好 意によって,設立と移転を記念としてセンターの歴史を紹 介する場が与えられた. センターの歴史は,70 周年と 100 周年の記念誌などに 詳細が記されている.ここではそれらの資料に基づき,特 にセンターの研究として全国に誇れる「(水稲の)奈良段階」 および「大和スイカ」,「奈良のイチゴ」について,また, 記念誌では触れられなかったエピソードを交えながら,そ の概略を紹介したい.1. 奈良市油阪に設立
1)初代場長,河村九淵 1894 年,国によって府県農事試験場規定が定められ, 各府県に農事試験場が設置されることになった.これを受 けて,1895 年に奈良市大字油坂小字宮ノ前,現在の JR 奈 良駅の北側から近鉄奈良線の線路に夾まれた場所に奈良県 農事試験場が設置され,初代場長として河村九淵氏を迎え た.河村氏はクラーク博士で有名な札幌農学校の第 4 期生 として卒業し(残念ながら,河村氏の入学時にはクラーク 博士は既に離職),私立東京農学校(現 東京農業大学) の主任講師などを経て,1895 年 1 月に奈良尋常中学校の 校長に就任,同年 4 月に場長を兼任した.1 年で職を離れ たためセンターにはほとんど記録は残っていないが,1899 年には熊本農業学校の初代校長に迎え入れられ,その功績 の大きさから「九州農業の父」と呼ばれている.現在,同 校内には,遺訓の碑「その手足を地に働かし,志を高き天 に置けよ」が置かれている.また,1910 ∼ 1911 年には台 湾台東の農場長に就任して,台湾の農業教育にも貢献して いる. その後センターは当初の 50.1a から拡張されて 201a と なり,1906 年には奈良市法蓮町に果樹試験地 3ha が設置 された(現在の奈良県立奈良高校). 2)宮沢賢治の訪問 1916 年 3 月 24 日,詩人であり童話作家の宮沢賢治が盛 岡高等農林学校の修学旅行で,午後 3 時 13 分京都桃山駅 を出発して奈良駅に降り,その足でセンターを訪れている. 時刻は夕方 5 時頃であろうか.麦の交配品種試験や大麦品 種試験などを見学し,午後 6 時過ぎに宿舎の対山館(「対 山館」は宿泊所としての記録がなく,「對山樓」?であれば, 山岡鉄舟,正岡子規,伊藤博文らが宿泊した格式ある旅館. 廃業し,現在,跡地に「天平倶楽部」が建つ)に到着した. そのとき,「たそがれの 奈良の宿屋ののきちかく せま りきたれる銀鼠ぞら」を録している. 3)奈良段階 センターの設立当時,本県では江戸時代から続いていた 重要な換金作物であった棉栽培(一時は水田の 50 ∼ 70% 以上に達していた)が,インドや中国からの輸入によって 不振に陥っていた.棉栽培は 1895 年の関税撤廃によって 崩壊し,栽培に従事していた生産者は甚大な経済的損失を 被った.これを補うため,センターでは水稲の増収技術の 開発に取り組み,耐倒伏性の高い多収品種の選定や田植え 時期,健苗・密植技術,深耕・有機物の多投による地力の 培養,根系の活力維持のための水分管理,中耕除草・刈り 取り時期,病害虫の早期防除など,多方面にわたる技術を 開発し,体系化した. また,1895 年には県内外の水稲 38 の在来種について, 1911 年には県下で栽培されていた 700 種について特性調 査を実施し,本県の環境に合った品種を紹介した.1916 年には純系淘汰によって,1921 年には人工交配によって 高品質,耐病性,耐倒伏性などを目標にした新品種を育成 した. これらの結果,田畑輪換による環元水田の効果や生産者 の高い生産意欲もともなって,1890 ∼ 1920 年代は反収全 国 1 位となり,「奈良段階」と呼ばれる時代を築いた(第 1 図).総 説
0 1 2 3 189 5 190 0 190 5 191 0 191 5 192 0 192 5 193 0 ᅜ ዉⰋ┴ 㸦▼ /㸧 ᖺ 第 1 図 水稲反収の推移 4)大和スイカの発祥 この時期,スイカの研究にも着手している.1867 年, 天理市の巽権治郎氏が愛知県一色町から種子 50 粒を持ち 帰り,権治 と呼ばれるスイカが栽培されるようになった. 1868 年には紀州から種子が入り,二階堂村や三宅村等で 紀州西瓜 や 黒皮 と呼ばれるスイカの栽培が始まった. 1902 年,センターはアメリカ・カリフォルニア大学から ア イスクリーム を導入し,栽培の肥料試験を実施した.ま た多くの品種を集めて比較試験を行った結果,本品種の優 秀性が確認されたので,生産者に種子を配布し,栽培を奨 励した.この アイスクリーム と前記 2 種が自然交配し, 選抜淘汰されたものが 大和西瓜 と呼ばれるようになっ た. 1892 年には大阪鉄道(現在の JR 関西本線)によって大 阪湊町駅と奈良駅間が,1914 年には大阪電気軌道(現在 の近鉄)によって大阪上本町と奈良駅間が開通し,奈良と 大消費地である大阪が鉄道によって結ばれることで,スイ カの栽培は大きな転換期を迎えた.センターでは,スイカ に関する講演や技術指導を精力的に実施し,その増産およ び奨励に拍車をかけた.その一方で,他府県との産地間競 争は激化していった.
2. 橿原市四条町に移転
1)スイカの育種 1923 年にセンターは橿原市四条町に移転し,面積 11.8 ha(水田 6.4 ha,果樹 2 ha,蔬菜 1.4 ha,建物敷地その他 2 ha)と大きく拡張された.この年からスイカの産地間競争 を勝ち抜くため,優良品種に統一して市場の評価を高める 目的で,第 1 次西瓜品種改良事業(1923 ∼ 1925 年)が実 施された.ここでは純系淘汰によって県下の優秀な 24 果 から 6 個体が純系分離され,近代スイカの基礎 大和 1 ∼ 4 号 が奨励品種となった.続いて 1926 ∼ 1929 年には, 第 2 次事業が実施され,一代雑種(F1 育種)による新品 種の育成が行われた.ここでは 17 品種を供試して 81 の交 雑の組み合わせによる F1 が比較調査され,1928 年にはそ の中で 大和 3 号 × 甘露 から 新大和 が育成された. この 新大和 は,果菜類の実用的な一代雑種の品種とし ては日本で最初の画期的な業績であり,当時の記載では「既 存品種には類なき高尚なる風味を持ち,何人の嗜好にもよ く 合 致 す る も の で あ る 」 と さ れ た. こ の 新 大 和 は, 1930 年には東京市場に 30 万玉,大阪に 30 万玉,京都に 20 万玉,全国合計で 250 万玉出荷され,スイカ全体では 500 万玉が本県から全国に向かって出荷された. 同事業と平行して 1926 ∼ 1933 年には第 3 次事業が始ま り,雑種から優良固定系が選抜され,1932 年には 新大和 の F7 から 旭大和 , 新大和 1 号 などが育成された.こ れらの結果,スイカの栽培面積は急激に伸び,1913 年に は 112ha であったのが,5 年後には 715ha,10 年後には 10 倍以上の 1315ha に達した(第 2 図). 0 200 400 600 800 1,000 1,200 1,400 191 0 191 5 192 0 192 3 192 5 192 8 193 0 193 3 194 3 194 8 195 3 195 8 196 3 196 8 197 3 197 7 198 2 198 7 199 2 ᱂ᇵ㠃✚㸦 ha 㸧 ᖺ 第 2 図 本県におけるスイカの栽培面積の推移 現在,奈良県を代表するお土産として奈良漬けがある. その材料として直径 6 cm 程のスイカを用いたものがある が,それは摘果した果実を使った名残である. 2)戦争の影 しかし,1931 年には満州事変が,1941 年 12 月には第二 次世界大戦(∼ 1945 年)が始まり,国民の生活は戦時統 制経済下に置かれた.国は国民の基本栄養確保のため,米, 麦,芋類など澱粉質,主食の生産を至上命令とする農業生 産統制令を公布し,スイカの作付けを禁止した.1941 年 3 月,センターは本館を焼失し,予算や資材の不足,職員の 軍への招集があり,体制は縮小されていった.その結果, 職員数は 1941 年には 27 名であったものが,1945 年には 11 名と半数以下になった.スイカの栽培も,主要品種と 未固定系の種子保存を行うのが精一杯であった. 終戦の年の 3 月,焼失した木造 2 階建てに替わり,木造 平屋建ての本館が再建された.1948 年にはスイカの栽培 が始まり,翌年,西瓜品種改良事業が再開されて,3 倍体 を利用した種無しスイカの育成が始まった.しかし,育成 された品種は,品質や栽培の難しさの割に価格が伸びない などの問題があり,あまり普及しなかった.3)お殿様による育種 1952 年には,柳沢斉徳氏が千葉県で育成された 都 1 号 の突然変異から選抜した 三笠 を発表した.柳沢氏は 9 代目大和郡山藩主(柳沢伯爵家)であり, お殿様 とい われた方である.柳沢氏はその後,奈良を離れて茨城大学 に着任し,朝顔の品種改良等に取り組んでいる.また,7 代目柳沢保恵伯爵はニッカウヰスキー株式会社の創始者で ある竹鶴政孝(NHK 朝の連続ドラマ「マッサン」)への出 資者であり,棋士の阪田三吉や初代名人 木村義雄等の後 援者でもあった. 4) センターにおけるスイカに関する研究の終焉と,民間育種会 社の隆盛 本県は 1960 年代初めまでは全国有数のスイカ生産地で あったが,輸送手段の発達によって,生産規模の大きな熊 本県,千葉県,山形県などに産地が移っていった.いみじ くも 1924 年に,スイカの本格的な民間育種を始めて,「ス イカ王」と呼ばれた萩原善太郎氏が,「西瓜の種は全国に 散乱している.日本中が西瓜の産地となって,大和の独占 は暫定的な夢に終わるであろう」と述べられていたが,現 実のものとなったわけである.本県における主要農産物で なくなったスイカは,採種が 1965 年に打ち切られ,種子 は長らく缶詰で保存されてきたが,近年,遺伝資源として の重要性が見直され,2016 年から種子の更新が再開され た. なお,スイカの育種は県下の種苗会社で大きく発展した. 2016 年,日本種苗協会奈良支部に所属する 35 社の大半は, スイカ栽培の精農家や篤農家が起業したものである.それ ぞれが創意工夫によって独自の優良な品種を育成してお り,現在,スイカの種子供給における本県の全国シェアは 8 ∼ 9 割に達している. 5)イチゴの台頭 「イチゴは,平和と経済繁栄のシンボル」と言われ, 1950 年代から始まった高度経済成長による生活水準の向 上と食生活の変化によって,イチゴに対する嗜好と需要は 伸びた.イチゴの果実と果皮は軟らかく,長距離・大量輸 送に適さなかったため,大消費地の兵庫県や大阪府などが 主要産地であった.しかし,それらの地域は都市化・工業 化で衰退し,その穴を埋める形で本県のイチゴ産地は急激 に形成されていった.1934 年には,兵庫県 426 ha,大阪 府 157 ha に対し本県は 45 ha であったが,1960 年には 400 ha,1965 年には 613 ha,1972 年には 869 ha に達した(第 3 図).また,この時期の急増には,農業用プラスチック 資材の普及による灰色カビ病の防除や,保温効果が大きな 支えとなった. 0 200 400 600 800 1,000 192 1 193 5 195 0 196 0 196 5 197 2 197 5 198 0 198 5 199 0 199 5 200 0 201 0 ᱂ᇵ㠃✚㸦 ha 㸧 ᖺ 第 3 図 本県におけるイチゴの栽培面積の推移 6) 宝交早生 の導入と,新しい本館の完成 1962 年,生産者の先導によって,1957 年兵庫県で育成 された 宝交早生 が本県に導入された.本品種は萎黄病 を除くと栽培が容易であり,多収で万人向けの食味,促成 から抑制栽培まで各種の作型によく適応するという特徴を 持っていたため,20 年近く市場で王座を占めた. 1963 年,センターは設立 70 年に向け,大整備が行われた. 本館は鉄筋 3 階建てに生まれ変わり,研究施設等と合わせ, 「東洋一の試験場」と称せられた.イチゴの本格的な研究 はこれ以降始まる. 郡山普及所の指導によって,それまでのトンネル栽培に 替わるハウス栽培が導入され,1 月上旬からのビニール被 覆による保温(ハウス半促成)で,3 月中旬からの収穫が 可能になった.センターでは,高付加価値,高価格を実現 するため,収穫時期をさらに早める作型の開発が進められ た. 宝交早生 は越冬のために秋口から次第に休眠に入る が,休眠を打破させるためには,低温に遭遇することと日 長の伸びの 2 つが必要となる.休眠を打破するため,次の 2 つの作型が開発され,2 月中旬からの収穫が可能になっ た. ①電照半促成 露地で低温に遭遇した後,ビニール被覆による保温と電 照(日長の伸び)を開始する作型 ②電照株冷蔵半促成 11 月中旬に株を掘り上げて 20 日間冷蔵し,ハウスに定 植して保温と電照を開始する作型 さらに,窒素レベルの低い苗を 9 月 15 ∼ 20 日に定植す れば年内に出蕾する性質と,秋口から電照による長日処理 をすれば休眠しない性質を利用して③促成栽培の作型が開 発され,12 月中旬からの収穫と反収 3t(それまでは 2t) が可能になった. このころ産地では,「年内にイチゴを株あたり 3 個収穫 して,ハワイに行こう!」や「イチゴで儲かったから大学 に進学できた」,「イチゴ御殿」というほど高収入が得られ た.このため,県外からの視察や技術講習の依頼が引っ切
りなしにあり,奈良県に学ぶ姿は「奈良参り」といわれる ほどであった. 7) 宝交早生 の終焉と新しい品種 1973 年には,オイルショックによる狂乱物価があり, 燃料や資材が高騰する一方,イチゴの販売価格が伸び悩ん だ.また, 宝交早生 の大きな問題であった萎黄病が産 地に蔓延した.さらに,技術の流出による 宝交早生 の 全国的な普及によって,産地間競争が激化していった. 萎黄病に対しては,1971 年,普及から「古ビニールで マルチしてあった所は,萎黄病が少ない」との報告と技術 の組み立てが行われ,センターでは科学的な解明とより効 果的な方法について研究された.この結果,1975 年頃に は太陽熱消毒法が確立された.この方法は,イチゴ収穫後 に,畝立てと有機物施用→灌水→地面を透明ビニールで被 覆→ハウス全体を密閉することで,土壌を 40℃以上の湿 熱状態に長時間保って殺菌するものであり,化学農薬を用 いることなく,「安価・安全・簡単」な土壌消毒を可能に する画期的な方法であった. 宝交早生 は,品質面でも大きな問題を抱えていた. それは「日持ちの悪さ」である.イチゴが長距離輸送に適 さないことは先に述べたが,1984 年に日持ちが良く輸送 にも強い 女峰 と とよのか が登場し,本県にも導入さ れた.当初は 女峰 が普及したが,それよりも収量は劣 るものの食味が良く,市場価格の高い とよのか に置き 換わっていった.しかし,とよのか は果実の着色不良と, うどんこ病および炭疽病の多発という大きな問題を抱えて いた.その対策のため,生産者に多大な労力の負担を強い ることになり,イチゴの栽培を放棄する生産者が急増した. ここに,三ちゃん(爺ちゃん,婆ちゃん,母ちゃん)の労 働力を頼った兼業農家を主体とするイチゴ作が,終わりを 迎えることになった. 意欲の高い生産者が次に栽培に取り組んだのは,2000 年に本県で育成された アスカルビー である.本品種は 良食味,大果系で多産性であり,うどんこ病の防除が容易 などの特徴を持っていた.さらに,2011 年には同じく 古 都華 が育成された.本品種は,収穫全期間をとおして他 の品種より糖度が高い,酸度がほぼ一定,独特の風味(香 り ・ 味わい)を持つなどの特長を活かし,直売や契約栽培 による業務店への出荷によって高価格で取り引きされてい る.2015 年現在, アスカルビー と 古都華 の本県にお ける栽培面積の割合は,それぞれ 37.3%,8.5% となって いる.
3. 桜井市池之内への移転と中期運営方針
2012 年 4 月,県は県立医科大学の教育・研究部門を拡 充させるため,同大学を橿原市四条町のセンター敷地に移 すことを発表した.次いで,同年 12 月,「県農業総合セン ターの移転整備に関する方針」を策定し,センターの移転 先を桜井市池之内の旧農業大学校跡地とするとともに,求 められる機能等について検討を進めた.翌年 3 月にその結 果を「県農業研究センターの移転を契機とした研究機能の 高度化について」として発表し,9 月に農業研究企画委員 会(知事をトップとする統括マネジメント機関)を開催し て,「奈良県農業研究開発目標」を示した. 同目標には,行政の推進するマーケティング・コスト戦 略に沿った研究や,他府県にない新たな技術開発への挑戦 の必要性が示され,「薬用作物の安定供給」,「優良品種の 育成」,「加工商品の開発と加工技術の研究」,「革新的な生 産技術の開発」の 4 つの大課題が決定された.2014 年に はこれを達成するため,具体的・中期的な方針として,「奈 良県農業研究開発中期運営方針」(2014 ∼ 2019)が策定さ れ,現在,センターの研究は,同方針に従って進められて いる.4. 終わりに
1895 年の設立から 2016 年の 121 年間の間に,センター は 2 度の移転と本館の建設を 5 回経験している.不思議な ことに,その度時代の求める要望は大きく変化し,それに 応えるべくセンターの研究は大きく転換を図ってきた.現 在本県では,都市近郊という立地条件の良さや高度な栽培 技術を背景に収益性の高い農業を展開しているが,その反 面,農産物価格の低迷や資材費の高騰,担い手の高齢化, 耕作放棄地の増加など農業を取り巻く情勢は厳しさを増し ている.それらの課題を打破するため,センターが持つポ テンシャルを最大限に活かし,新たな技術開発に挑戦して いきたい.引用文献
農業試験場百周年記念事業実行委員会 (1995) 大和の農業 技術発達史(奈良県農業試験場百周年記念誌) 奈良県農業試験場 (1963) 奈良県農業試験場 70 年の歩み 奈良県農政課 (1987) 大和の農業 100 年史 宮沢賢治詩の世界 2008 年 1 月 6 日 奈良における賢治の宿 http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/01/post_517.htm 荒武達朗 (2010) 内地農民と台湾東部移民村:『台湾総督府 文書』の分析を中心に . 徳島大学総合科学部人間社会文 化研究 18: 1-56 渡台した札幌農学校・東北帝国大学・北海道帝国大学農学 部卒業生一覧 (2011)北海道大学文書館年報 6: 133The history of 120 years and the present of Nara Prefecture Agricultural
Research and Development Center
Motokazu Tanigawa
Nara Prefecture Agriculture Research and Development Center (120-1, Ikenouchi, Sakurai, Nara, 634-0813)
Journal of Crop Research 62: 51-55 (2017) Correspondence: Motokazu Tanigawa (tanigawa-motokazu@offi ce.pref.nara.lg.jp)